SSブログ

東洋城・寅彦、そして、豊隆」(漱石没後~寅彦没まで)俳句・連句管見(その二十)  [東洋城・寅日子(寅彦)・蓬里雨(豊隆)]

その二十「昭和十年(一九三五)」(続き)」

渋柿(寺田寅彦追悼号の巻頭頁).jpg

「渋柿(寺田寅彦追悼号の巻頭頁)」(第262号、昭和11年2月)(『寺田寅彦全集第十二巻』)
[ありし日の寺田寅彦 /A ペンを措きて /B 心明るく /C 家居 /D 晴れたる野]

寺田寅彦の描いたスケッチ.jpg

「寺田寅彦の描いたスケッチ」(上=松根東洋城、下右=小宮豊隆、下左=津田青楓、昭和2年9月2日、塩原塩の湯明賀屋にて) (『寺田寅彦全集第十二巻』・月報12・1997年11月)

※ 上記の寺田寅彦の写真四葉は、寅彦が亡くなった(昭和十年十二月三十一日没)翌年の昭和十一年(一九三六)二月号の「渋柿」(寺田寅彦追悼号)の巻頭頁に掲載されたものである。
 そのページに掲載された文面([ありし日の寺田寅彦 /A ペンを措きて /B 心明るく /C 家居 /D 晴れたる野])は、おそらく、「渋柿」主宰者の「松根東洋城」が記述したもののように思われる。
 この写真四葉(「A/B/C/D」)を、生前の「寺田寅彦」の四つ顔とすると、「A=ペンを措きて=画人/B=心明るく=科学者/C=家居=文人/D=晴れたる野=音楽家」と、「B=心明るく=科学者」と「C=家居=文人」との写真は、よく見掛けるもので、これをベースにして、「A=ペンを措きて=画人」と「D=晴れたる野=音楽家」とは、珍しい写真なので、「俳諧師・東洋城」に敬意を表して、俳諧(滑稽)的な「見立て」(「対象を、他のものになぞらえて表現すること」)の一つとして提示をして置きたい。

※ 次の「寺田寅彦の描いたスケッチ」(上=松根東洋城、下右=小宮豊隆、下左=津田青楓、昭和2年9月2日、塩原塩の湯明賀屋にて)は、『寺田寅彦全集第十二巻』(月報12・1997年11月)に、「資料」(「渋柿(寺田寅彦追悼号・昭和十一年二月)」)の「寺田博士(西岡十四王稿)」の中に所収されているもので、この「寺田寅彦の描いたスケッチ」もまた、「渋柿」主宰者の「松根東洋城」が、この「寺田博士(西岡十四王稿)」の中に、掲載をしたように思われる。
 そして、何よりも、この「寺田寅彦の描いたスケッチ」(上=松根東洋城、下右=小宮豊隆、下左=津田青楓)は、下記のアドレスで紹介した、[「昭和二年(一九二七)八月、小宮豊隆、松根東洋城、津田青楓と塩原温泉に行き、連句を実作する」(「寺田寅彦年譜」)の、その塩原温泉でのものと思われる。]と合致する。

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-04

[※ 歌仙(昭和十一年十一月「渋柿(未完の歌仙)」)

(八月十八日雲仙を下る)
霧雨に奈良漬食ふも別れ哉    蓬里雨
 馬追とまる額の字の上      青楓
ひとり鳴る鳴子に出れば月夜にて 寅日子  月
 けふは二度目の棒つかふ人   東洋城
ぼそぼそと人話しゐる辻堂に     雨
 煙るとも見れば時雨来にけり    子

皹(アカギレ)を業するうちは忘れゐて 城
 炭打くだく七輪の角        雨(一・一七)
胴(ドウ)の間に蚊帳透き見ゆる朝ぼらけ 子 (※茶の「胴炭」からの附け?) 恋
葭吹く風に廓の後朝(キヌギヌ)    城 恋
細帯に腰の形を落付けて        雨(六・四・一四) 恋
 簾の風に薫る掛香          子(八・二八) 恋
庭ながら深き林の夏の月       城(七・四・一三) 月  ](『寺田寅彦全集 文学篇 第七巻』)

※ この「四吟(蓬里雨・青楓・寅日子・東洋城)歌仙(未完)」は、当時の「東洋城・寅日子・蓬里雨・青楓」の、この四人を知る上で、格好の「歌仙(未完)」ということになる。
 この歌仙(未完)の、「表六句と裏一句」は、「昭和二年(一九二七)八月、小宮豊隆、松根東洋城、津田青楓と塩原温泉に行き、連句を実作する」(「寺田寅彦年譜」)の、その塩原温泉でのものと思われる。
 その塩原温泉(栃木県)での歌仙の、その発句に、「八月十八日雲仙を下る」の前書を付しての「霧雨に奈良漬食ふも別れ哉(蓬里雨)」の、この前書にある「雲仙(温泉)」(長崎県)が出て来るのはどういうことなのか(?) ――― 、この句の背景には、次のアドレスの「作家を求める読者、読者を求める作家――改造社主催講演旅行実地踏査――(杉山欣也稿)」(金沢大学学術情報リポトロジKURA)で記述されている「雲仙温泉」で開催された「改造社主催講演会」に、その講師として、小宮豊隆の名が出てくるのである。

file:///C:/Users/user/Downloads/CV_20231201_LE-PR-SUGIYAMA-K-203.pdf

[雲仙の温泉岳娯楽場を会場に、八月十七日~二十二日に開催された九州地区のそれは、やはり新聞各紙の広告によって宣伝が重ねられた。講師は、小宮豊隆・阿部次郎・木村毅・藤村成吉・笹川臨風に、課外講演として京大教授・川村多二(「動物界の道徳」というタイトル)が演壇に立った。「長崎新聞」の紙面から、ここも大盛況であったことが分かる。]

[この八月十七日の翌日(八月十八日)、雲仙温泉での講演を後にして、その帰途中に「東洋城・寅彦・青楓」と合流して、その折りの塩原温泉(四季の郷・明賀屋、近郊に、東洋城の「両面句碑」が建立されている)での一句のように解せられる。
 そして、裏の二句目の「炭打くだく七輪の角・雨(一・一七)」は、昭和六年(一九三一)一月十一日付けの、文音での、蓬里雨の付け句のように思われる。それに対して、「胴(ドウ)の間に蚊帳透き見ゆる朝ぼらけ・子」(寅日子・裏三句目)と「葭吹く風に廓の後朝(キヌギヌ)・城」と付け、同年の四月十四日に「細帯に腰の形を落付けて・雨」(蓬里雨・裏四句目)」、続く、同年の八月二十八日に「簾の風に薫る掛香・子」(寅日子・裏五句目)と付けて、その翌年の昭和七年(一九三二)四月十三日に「庭ながら深き林の夏の月・       城」(東洋城・裏六句目)」のところで打ち掛けとなっている。
 実に、昭和二年(一九二七)の八月にスタートした歌仙(連句)は、その五年後の、昭和七年(一九三二)の四月まで、未完のままに、そして、寅彦が亡くなった、翌年の、昭和十一年(一九三六)十一月号の「渋柿」に公開されたということになる。 ]

※ この「寺田寅彦の描いたスケッチ」(上=松根東洋城、下右=小宮豊隆、下左=津田青楓)は、下記のアドレスで紹介した、[「昭和二年(一九二七)八月、小宮豊隆、松根東洋城、津田青楓と塩原温泉に行き、連句を実作する」(「寺田寅彦年譜」)の、この時、「東洋城(本名・豊次郎)・寅彦(寅日子)」(五十歳)、「豊隆(蓬里雨)」(四十四歳)]、そして、「津田青楓(本名・亀治郎)」(四十六歳)で、この頃が、この四人の、激動時代の、一時の心休まる時でもあったであろう。
 この年(昭和二年)の七月に、漱石門の「 芥川龍之介」が睡眠薬を多量に飲んで自殺した後で、さらに、この塩原温泉は、明治四十一年(一九〇八)の、漱石門の「森田草平」の『煤煙』(「心中未遂事件」)に関わる所でもあり、この漱石門の四人(東洋城・寅彦・青楓・豊隆)に取っては、忘れ得ざる因縁の土地でもあったことであろう。
 それらに付け加えることとして、この年に、東洋城は、この塩原(四季の郷・「塩の湯・明賀屋」近傍)に、下記アドレスなどで紹介している「両面句碑」を建立し、そのお祝いを兼ねてのものであったというように思われる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-11-26

(再掲)

塩原両面碑の松根東洋城.jpg

「塩原両面碑の松根東洋城(昭和二年七月、両面碑・西面)」)(『東洋城全句集中巻』)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-11-17
[【碑文】
 「さまみえて土になりゐる落葉哉」表
 「すずしさやこの山水に出湯とは」裏 (塩原四季郷より)
http://hotyu.starfree.jp/historicalspots/bungakuhi/bungakuhi.html   ]

自撰年譜(津田青楓編集兼発行者).jpg
(追記その一)『自撰年譜(津田青楓編集兼発行者)』(昭和十五年九月二十五日刊・非売品)周辺

https://dl.ndl.go.jp/pid/1905748/1/52


『自撰年譜(津田青楓編集兼発行者)』所収「昭和十年・十一年」(抜粋)(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1905748/1/4

※ 寅彦が亡くった「昭和十年 五十六歳」の末尾の「一、十二月廿日寺田寅彦氏永眠さる」は、「十二月三十一日」の誤記であろう。その文面中の、「仕事の唯一の理解者を喪ひしことまことにさびしき心地す」は、青楓の、この時の実感であろう。

  ひとときの/ほかにはあらじ/相見たる/ひとときたこそを/いのちとぞ思ふ

 津田青楓は、寅彦と同様に、和歌(短歌)にも精通していた。

 この「昭和十年 五十六歳」に続く、「昭和十一年 五十七歳」は、所謂、「二・二六事件」勃発の記述である。

 受話器おき/雪を蹴立てて/町にいづ/二・二六日/ひるかたぶきぬ

青楓画伯像(河上肇写).jpg

『自撰年譜(津田青楓編集兼発行者)』所収「青楓画伯像 河上肇写」
https://dl.ndl.go.jp/pid/1905748/1/3

※ この『自撰年譜(津田青楓編集兼発行者)』の冒頭に出て来る、この「青楓画伯像 河上肇写」は、漱石没後、「関東大震災」(「大正十二年=一九二三」)で京都移住後、青楓が心酔した、「河上肇」([1879~1946]経済学者・社会思想家。山口の生まれ。京大教授。マルクス(主義)経済学の研究・紹介に努め、大学を追われた。のち、日本共産党に入党、検挙されて入獄。著「資本論入門」「経済学大綱」「貧乏物語」「自叙伝」など)その人が、青楓をスケッチした当時のその青楓の実像である。このスケッチ画に見られる絵画を通しての二人交遊は、青楓の「研究室に於ける河上肇像」として、大正十四年(一九二五)の「第十三回二科美術展覧会」の出品作となっている。

研究室に於ける河上肇像.jpg

津田青楓画「研究室に於ける河上肇像」(「京都国立近代美術館蔵」)
https://rakukatsu.jp/tsuda-seifu-20200323/

 そして、これらが、続く、当時の、津田青楓画の傑作、《疾風怒濤》(1932、笛吹市青楓美術館蔵)、そして、《犠牲者》(1933、東京国立近代美術館蔵)との連作を生んで行く。
 これら連作の生まれた、昭和七年(一九三二)、そして、昭和八年(一九三三)当時には、津田青楓は、京都から、再び、東京へと移住し、昭和十年(一九三五)の、寅彦が亡くなる頃は、その左翼運動から身を引いて、同時に、絵画活動の拠点であった「二科会」とも訣別し、これまでの「洋画)」から、「日本画」へと、軸足を進める時でもあった。
 なお、寺田寅彦の青楓(津田亀次郎)宛て書簡は、寅彦が亡くなる昭和十年(一九三五)三月十一日付けものが最後で、そこに、「先日は第二画集を難有う御坐いました。益々油が乗つたやうで実に見事なものであります。天下一品とは此事でありましよう」とある。(『寺田寅彦全集 文学篇 第十七巻』)

津田青楓画《疾風怒濤》(.gif 

津田青楓画《疾風怒濤》(1932、笛吹市青楓美術館蔵)
https://bijutsutecho.com/magazine/review/21974

津田青楓画《犠牲者》公開作.jpg

津田青楓画《犠牲者》(1933、東京国立近代美術館蔵)
https://note.com/azusa183/n/n7f1fab27c7e2
https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/107539
[津田青楓 (1880-1978)/ツダ、セイフウ/昭和8年/1933/油彩・キャンバス・額・1面/193.0×95.4/26回白日会展 東京都美術館 1950
犠牲者/The Victim/1933年/油彩・麻布 193.0×95.4㎝
津田は、1933年7月19日、官憲による家宅捜査をうけたのち、一時拘留された。このとき制作中だったのが、この《犠牲者》である。31年第18回二科展に出品された《ブルジョア議会と民衆の生活》(出品時には、「新議会」と改題させられた。現在、この作品の習作が当館に所蔵されている。)は押収されたものの、この作品は幸い残すことができた。当時、官憲によるプロレタリア思想弾圧は、日増しに激しくなっていた。
とくに京都時代に知己となった河上肇は京都帝国大学教授を辞職した後、日本共産党に加入し地下に潜行していたが、この年1月に検挙された。津田の検挙も、かねてから上記の作品によって官憲の注目をあつめ、また河上の潜行をたすけたという容疑によるものであった。
この《犠牲者》は、同年2月の小説家小林多喜二の獄死に触発されて描かれたもので、津田自身は、「一見拷問の残忍性を物語る酸鼻に堪へないやうなもの」だが、「十字架のキリスト像にも匹敵するやうなものにしたいといふ希望を持つて、この作にとりかかつた」(『老画家の一生』)と後に記している。
 拷問をうけ、吊り下げられた男、そして左下の窓を通してかすかにみえる議事堂、この簡潔な構図に弾圧に対する告発がこめられていることは確かだ。ただし、津田とプロレタリア思想との関係は、社会的 な義憤と河上との親交による共感からのものであり、多分に同伴者的なものであった。
しかし、当時のプロレタリア美術が不毛であったなかで、直接的な社会性を持った作品として評価されている。](「文化遺産オンライン」)

「犠牲者」下部の拡大図.jpg

津田青楓画《犠牲者》(1933、東京国立近代美術館蔵)の下部(「窓」の部分)拡大図

 この下部(「窓」の部分)拡大図に、昭和十一年(一九三六)に竣工された、「新議会(※新国会議事堂)の、その竣工前の屋根の部分が描かれている。

「ブルジョワ議会と民衆生活」(下絵).jpg

「ブルジョワ議会と民衆生活」 下絵(津田青楓/1931)(「東京国立近代美術館」蔵)
[素材・技法=油彩、コラージュ/ 作品サイズ=125.8×80.3 ]
https://www.momat.go.jp/collection/o00276


(追記その二) 『漱石・寅彦・三重吉(小宮豊隆著・岩波書店)』所収「『明暗』の材料/129」
(「津田青楓」と離婚した「山脇敏子」)周辺

『漱石・寅彦・三重吉(小宮豊隆著・岩波書店)』の、「『明暗』の材料/129」の中に、次のような一節がある。

https://dl.ndl.go.jp/pid/1127319/1/79

[『明暗』第三十一囘で、藤井が醉つて、小林だの津田だの相手に、「昔は女の方で男に惚れたけれども、男の方では決して女に惚れなかつた」その理由が何所にあるかを說明する。

 是は恐らく大正五年三月中旬に書かれた、「ポセッション」と題する、漱石の日記の中の一節から來てゐる。「私はいくら女を戀しても一直線に其方へ進む譯には行かないのです」/「何故」「女が自分で自分を所有してゐないと思ふからです」/「ぢや女は誰が所有してゐます」/「旣婚の女は無論夫の所有でせう。少くとも夫はさう認めてゐるでせう」/「さうです」/「未婚の處女は兩親の所有でせう。少くとも父母はさう認めてゐるでせう。父母〔の〕許諾がなくて嫁に行く女はまあないからです」といふのが、それである。
(中略)
 同じやうな戀愛問題に關する會話が、大正五年の三月中旬以後四月上旬以前に書かれたらしい、漱石の日記の中にある。「我一人の爲の愛か」と題して「私はそんな氣の多い人は嫌です。自分一人を愛して吳れる人でなくつては」/「外の人は全く愛せずに自分丈に愛の量を集めやうといふのですね」/「さうです」/「すると其男に取つて貴女以外の女は丸でなくなるので原原すな」/「えゝ」/「何うしてそれが出來ます」/「完全の愛はそんなさうでせう。其所迄行かなくつちや本當の愛を感ずる譯には行かないぢやありませんか」/「然し考へて御覽なさい。あなた以外の女を女と思はないで、あなた丈を女と思ふといふ事は理性でも悟性でもに訴へて出來る事でせうか」/「感情の上では出來る筈ぢやありませんか」/「然しあなた丈を女と思ふといふと解し得られる樣ですが外の女を女と思ふなといふと想像出來なくなるやうです。(中略) 

 さうして是は、もし私の記憶に誤がないならば、當時の津田靑楓の妻君、今の山脇敏子と漱石との對話の要點を記錄したものであつた。漱石は是を『明暗』第百三十囘の、お秀とお延との對話に用ひる。]


『漱石・寅彦・三重吉(小宮豊隆著・岩波書店)』所収「『明暗』の材料/129」(抜粋)

婦人と金絲雀鳥(津田青楓画).gif

「婦人と金絲雀鳥(津田青楓画)/1920/油彩/116.7×73.0/(モデルは敏子)」(「東京国立近代美術館」蔵)
https://www.momat.go.jp/collection/o00277

[山脇敏子(「ウィキペディア」)
1887年(明治20年) 広島県呉市の医師の家庭に生まれ、竹原市で育つ。
1899年(明治32年) 竹原市立東野小学校を卒業して上京。
1905年(明治38年) 女子美術学校(現・女子美術大学)日本画科卒業。日本画の手ほどきは、殆ど河鍋暁翠から習ったという。女子美術学校の卒業生として、初の文部省留学生に選ばれ渡欧。洋画も学ぶ。
1907年(明治40年) 夏目漱石と親交のあった津田青楓と結婚。漱石を中心に集まる内田百閒や鈴木三重吉ら「木曜会」の作家や、寺田寅彦やセルゲイ・エリセーエフらの学者、また文展に不満を持つ藤島武二や南薫造ら若い芸術家と親交を持った。漱石の絶筆『明暗』のモデルともされる。
1918年(大正7年) 二科美術展覧会に洋画入選。
1919年(大正8年) 他の女流画家たちと日本で初めての女子洋画団体「朱葉会」を結成。命名はやはり創立委員だった与謝野晶子。
1923年(大正12年) 西村伊作が創設した文化学院の講師。まもなく農商務省の委嘱で婦人副業視察に再び渡欧、フランスに1年滞在。この間青楓に愛人ができ1926年(大正15年)離婚。傷心の敏子は画家を諦め、自立への道を服飾に賭けた。三度渡欧し昼は手芸、夜は裁断を二年間必死に勉強。また経済的窮地をパリを訪れていた細川侯爵夫人に救われた。これが縁で後に学習院・常磐会で手芸や洋裁を教えた。
1929年(昭和4年) 東京麹町内幸町に「山脇洋裁学院」(現・山脇美術専門学院)を開設。また日本のオートクチュールの草分け、洋裁店「アザレ」を銀座に開店。官家や知名人の服飾を手がけ格調あるモードは高い評価を得た。
1935年(昭和10年) 陸軍被服廠嘱託。文化服装学院講師。
1947年(昭和22年) 戦後の洋裁ブームの中「山脇服飾美術学院」を設立、理事長・院長となる。
1952年(昭和27年) 文部省教材等調査研究会委員。
1956年(昭和31年) 日本伝統の織物や文様を積極的に取り入れ、アイヌ文様を主題にパリで開いた服飾個展は、パリ市から賞を受けた。のちにブームとなった日本モードの先駆けでもあった。
1960年(昭和35年) 脳出血で死去。小平霊園に眠る。  ]

※ 青楓と敏子との結婚生活は、明治四十年(一九〇七)から大正十二年(一九二三)の、十六年間、その間に、二男(?)三女をもうけた。

※長女(「あやめ=原あやめ」=明治四十四年生れ=敏子の跡を継ぎ「山脇美術専門学院」理事長・学院長。平成二十年没。)
長男(「安丸=漱石命名」=大正二年生れ、大正五年病没。)
※次女(「ふよう」=大正四年生れ、平成六年没。)
次男(「庸」=大正九年没。?)
三女(「ひかる」=大正十年生れ、昭和五年没。)

 敏子が、「洋裁研究」のため渡仏したのは、大正十一年(一九二二)で、この時には、男の子は二人とも病没し、長女(十二歳)・次女(八歳)・三女(二歳)の三人を、青楓に預けてのものであった。敏子が帰国したのは、関東大地震のあった翌年の、大正十三年(一九二四)で、この時には、「青楓・あやめ・ふよう・ひかる」が神戸港に出迎えている。
 そして、青楓と敏子が離婚したのは、大正十五年(一九二六)、その年の十二月二十五日に大正天皇が崩御し、昭和元年となる。この時には、「青楓・あやめ・ふよう・ひかる」は、青楓の実家のある京都市(東山区)に移住し、「敏子」は東京を居住地として、昭和四年(一九二八)に、現在の「山脇美術専門学院」の前身の「山脇洋裁学院」を東京銀座に開設することになる。
 これらの「青楓・敏子・あやめ(長女)」の生涯は、下記アドレスの「千草会会報追悼号」(平成21年2月発行) の年譜に記されている。

https://yamawaki.ac.jp/pdf/chigusa_tsuitou.pdf

千草会会報追悼号.jpg

「千草会会報追悼号」(平成21年2月発行) 
https://yamawaki.ac.jp/pdf/chigusa_tsuitou.pdf

 この年譜に、青楓が、昭和十五年(一九四〇)九月二十五日に発刊(非売品)した、下記アドレスの「自撰年譜」を重ね合わせることによって、「青楓と敏子」との、そのドラマというのは浮かび上がってくる。
  さらに、それられに付け加えて、「青楓と敏子」との、その「敏子」が亡くなった昭和三十五年(一九六〇)以後の、昭和四十九年(一九七四)七月に刊行された『漱石と十弟子(津田青楓著・芸艸堂刊)』の、その「新序文」(昭和四十九年七月一日付け)の中の、「私の娘婿Hは丁度銀座裏の陋屋(ロウオク)で細々と出版業をやっていた」と重ね合わせると、「青楓と敏子」と、その長女(あやめ)夫妻(「原愿雄=H」と「原あやめ)」とのドラマとが重ね合わさってくる。
 その「新序文」の「私の娘婿H=原愿雄」は、上記の「千草会会報追悼号」の年譜によると、「太平洋戦争」の終戦の前年(昭和十九年=一九四四)に亡くなっている。すなわち、この『漱石と十弟子(津田青楓著・芸艸堂刊)』の新訂前の、『漱石と十弟子((津田青楓著・世界文庫刊・昭和二十四年=一九四九)』は、「私の娘婿H=原愿雄」は眼にしていないであろう。
 そして、この『漱石と十弟子(津田青楓著・世界文庫刊・昭和二十四年=一九四九)』の、その刊行前の、昭和二十二年(一九四七)に、「私の娘婿H=原愿雄」が亡き、その「長女・原あやめ」が、「母・敏子の仕事を手伝うべく、神田駿河台に山脇服飾美術学院開設、副院長に就任」にした、「亡き夫・H=原愿雄」と「実母・山脇敏子の『山脇服飾美術学院開設』の、その『副院長』就任」を祝してのものと解することも、青楓の、その「漱石と十弟子(津田青楓著・世界文庫刊)』(昭和二十四年=一九四九)と、その新訂後の「漱石と十弟子(津田青楓著・芸艸堂刊)』(昭和四十九年(一九七四))の、その著者(「津田青楓」)に対して、その面子を汚すこともなかろう。
 さらに、この『漱石と十弟子(津田青楓著・芸艸堂刊)』(昭和四十九年(一九七四)に、「(山脇)敏子」は、「百合子」の名で、漱石在世中の「青楓と敏子(そして、その家族)」の姿が活写されている。(ちなみに、青楓の『自撰年譜』の「昭和四年(一九二九)」には、「山脇(※敏子)無断で子供等を東京へつれ去る」とあり、当時の「青楓と敏子」との関係は、相当に深刻なものがあったことであろう。)
 そして、『漱石と十弟子(津田青楓著・芸艸堂刊)』に出てくる「百合子」(「(山脇)敏子」)とは、青楓が漱石亡き後の心の拠り所とした「河上肇」(経済学者。啓蒙的マルクス経済学者として大正,昭和初期の左翼運動に大きな影響を与えた)とも深く関与している「中條百合子・宮本百合子」(日本の左翼文学・民主主義文学、さらには日本の近代女流文学を代表する作家の一人)の、その「百合子」と解することも、これまた、その「漱石と十弟子(津田青楓著・世界文庫刊)』(昭和二十四年=一九四九)と、その新訂後の「漱石と十弟子(津田青楓著・芸艸堂刊)』(昭和四十九年(一九七四))の、その著者(「津田青楓」)に対して、その面子を汚すこともなかろう。

装幀 津田青楓  明暗.jpg

「装幀 津田青楓 大正六年(一九一七)」(『漱石と十弟子(津田青楓著・芸艸堂刊)』(昭和四十九年)の口絵写真の冒頭のもの=モノクロ)
https://www.bungakukan.or.jp/item/3342/

 この「装幀 津田青楓 大正六年(一九一七)」(『漱石と十弟子(津田青楓著・芸艸堂刊)』(昭和四十九年の口絵写真の冒頭のもの=モノクロ)に、終戦後(昭和二十一年=一九四六)の「宮本百合子を巡る婦人群像」の、それぞれをの一人ひとりを、重ね合わせたい。

1946年3月18日、婦人民主クラブ.jpg

「1946年3月18日、婦人民主クラブが結成された。加藤シヅエ、厚木たか、宮本百合子、佐多稲子、櫛田ふき、羽仁説子、関鑑子、藤川幸子、山室民子ら。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%9C%AC%E7%99%BE%E5%90%88%E5%AD%90#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Modern-History-of-Women-14.png
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。