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西洋人(シーボルト)」と「日本人(川原慶賀)」らの「江戸参府」紀行(その一) [シーボルト・川原慶賀そして北斎]

(その一)「シーボルト江戸参府紀行日程」(「1826年(文政9年)」)周辺

江戸参府紀行一.jpg

Author: Kawahara Keiga
Copyright: Rijksmuseum voor Volkenkunde
https://bigwalk2009.at.webry.info/201101/article_2.html
≪オランダ王立図書館(KB)の電子図書館(het geheugen van nederland)で"Hofreis"をkey wordにして検索すると、hofreis関連のVisual Material一覧(43種類)が表示され、閲覧することができる。
http://www.geheugenvannederland.nl/?/nl/zoekresultaten/pagina/1/Hofreis/%28Hofreis%29/&colcount=0&wst=Hofreis ≫(「江戸参府ビッグウォーク2009」)

 この絵図(原画)は、上記のアドレスで検索すると、次のとおり紹介されている(その「日本語」翻訳のままに記載する。誤訳など注意書きをしたいものは※印を付し括弧書きしている。)

https://geheugen.delpher.nl/nl/geheugen/view/stoet-hofreis-kawahara-keiga?facets%5BcollectionStringNL%5D%5B%5D=Nederland+-+Japan&page=1&maxperpage=36&coll=ngvn&identifier=KONB11%3A1-4488-33

≪ 行列の宮廷旅行
メーカー  アーティスト:川原圭(※慶)賀
製造年   1826
製造場所  日本
定義    オランダ人は毎年、江戸(現在の東京)にある日本の軍事指導者である将軍の宮廷を訪れなければなりません。それを買う(※それを許された)余裕のある人は皆、ノリモノ(キャリーチェア=※駕籠)で旅をしました。画像はオランダ人の行列が向かっているところです。
オブジェクトのタイプ  絵画
寸法      20.9 × 47.4センチメートル
徴収(※来歴)  オランダ - 日本
施設(※情報・出典先) Koninklijke Bibliotheek(※ハーグにあるオランダの国立図書館)
源(※所蔵館)     1-4488-33 (絵画), アムステルダム国立美術館
著作権        情報(※所蔵館): 国立美術館             ≫

この原画での、シーボルトの『NIPPON』の挿絵図も下記のように紹介されている。

江戸参府紀行二.gif

https://geheugen.delpher.nl/nl/geheugen/view/hofstoet?facets%5BcollectionStringNL%5D%5B%5D=Nederland+-

≪ 従者
製造年  1832-1839
製造場所 ライデン/アムステルダム
定義   オランダ人が日本を通り抜けて、日本の軍事指導者である将軍の宮廷まで、江戸(現在の東京)へ向かう行列。
徴収   オランダ - 日本
施設   Koninklijke Bibliotheek
源    YAA 403 [-408] (イラスト), コニンクリケ図書館
著作権  情報: Koninklijke Bibliothee    ≫

この「コニンクリケ図書館(オランダ)」所蔵の「シーボルト『Nippon』図版篇」所収図と、その由来を同じくすると思われる「シーボルト『Nippon(初版、未製本)』図版篇」周辺(九州大学医学図書館所蔵)の、その所収図は、次のものである。

江戸参府紀行三.gif

「Nippon Atlas. 5-5」
「シーボルト『Nippon(初版、未製本)』図版篇」周辺(九州大学医学図書館所蔵)所収
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=0&r=0&xywh=-688%2C-291%2C5202%2C5811

 この「シーボルト『Nippon(初版、未製本)』図版篇」周辺(九州大学医学図書館所蔵)に関連して、次のアドレスのとおり、「シーボルト『Nippon(初版、未製本)』図版篇のデジタル化画像を公開しました」と、その全貌をデジタル化し、公開している・

https://www.lib.kyushu-u.ac.jp/ja/news/15036

≪ このたび、本学医学図書館所蔵のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト『Nippon(初版、未製本)』図版篇(刊行:1832年~)のデジタル化画像(口絵+図版362枚;図版4枚欠)を九大コレクションで公開しました。
 シーボルトの『Nippon』は本文篇と図版篇から成り、オランダのライデンで1832年からおよそ20年の年月をかけて分冊で刊行されました。今回デジタル化した資料の原本は、大正15(1926)年に九州大学医学部法医学研究室が3,000円で購入したものとされ、未製本の初版になります。ヴォルフガング・ミヒェル本学名誉教授は、「一九二六年に法医学教室が購入した初版は、分冊のまま保存されており、出版当時の複雑な流れを示す極めて重要な史料である。また、詳細なところまで観察できる、三六七枚に及ぶ大型図版の多くは、縮小された第二版以降には収録されていない。」(九大広報, vol.53)としています。
 19世紀初頭の日本をビジュアルでヨーロッパに伝えた図版の数々をご覧ください。

資料一覧

九大コレクション > 貴重資料 > 「シーボルト nippon」等のキーワードで検索してください。
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_browse/rare/

Atlas 1
http://hdl.handle.net/2324/1906465

Atlas 2
http://hdl.handle.net/2324/1906466
Atlas 3
http://hdl.handle.net/2324/1906467
Atlas 4
http://hdl.handle.net/2324/1906468
Atlas 5(※113番、123番は欠図)
http://hdl.handle.net/2324/1906469
Atlas 6
http://hdl.handle.net/2324/1906470
Atlas 7-8
http://hdl.handle.net/2324/1906471
Atlas 9-10
http://hdl.handle.net/2324/1906472
Atlas 11-12
http://hdl.handle.net/2324/1906473
Atlas 13-14
http://hdl.handle.net/2324/1906474
Atlas 15
http://hdl.handle.net/2324/1906475
Atlas 16
http://hdl.handle.net/2324/1906476
Atlas 17-18
http://hdl.handle.net/2324/1906477
Atlas 19-20(※361番、367番は欠図)
http://hdl.handle.net/2324/1906478
原資料

『Nippon; Archiv zur Beschreibung von Japan, und dessen Neben- und Schutzländern: Jezo mit den südlichen Kurilen, krafto, Koorai und den Liukiu-Inseln, nach japanischen und europäischen Schriften und eigenen Beobachtungen.』(医学図書館所蔵)
http://hdl.handle.net/2324/1001615671

関連文献

日本語訳『日本 : 日本とその隣国、保護国-蝦夷・南千島列島・樺太・朝鮮・琉球諸島-の記録集。日本とヨーロッパの文書および自己の観察による。』(雄松堂書店, 1977-1979)
http://hdl.handle.net/2324/1000295399
復刻版『Nippon : Archiv zur Beschreibung von Japan』(講談社, 1975)
http://hdl.handle.net/2324/1000951631
Michel Wolfgang「九大至宝:シーボルトNIPPON」(九大広報, vol.53, 2007.9)
http://www.kyushu-u.ac.jp/f/4959/No53.pdf#page=2
宮崎克則『シーボルト『NIPPON』の書誌学研究』(花乱社, 2017)
http://hdl.handle.net/2324/1001626623                    ≫

 これは、「西洋(オランダ)=オランダ王立図書館(KB)の電子図書館(het geheugen van nederland)」と「日本=九州大学付属図書館(https://www.lib.kyushu-u.ac.jp/ja/news/15036)」との、その「邂逅」(出会い)に他ならず、、そして、その、「西洋人(シーボルト)」と「日本人(川原慶賀)」らとの、この「『西洋人(シーボルト)と日本人(川原慶賀)』らの「江戸参府の紀行日程」」の、その全貌は、下記のアドレスにより、次(別記)のとおりである。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~masaji/lolietravel/capitan/index.html

(別記)「シーボルト江戸参府紀行日程(1826年(文政9年)」周辺(一部要約抜粋)
≪参考文献:「江戸参府紀行 ジーボルト著 斎藤信訳(平凡社)」「シーボルト 板沢武雄著(吉川弘文館)」≫

日数 西暦  和暦 天候  行程       日誌
1  2/15  1/9  晴 出島-諫早     威福寺での別れの宴など
2 2/16 1/10 晴 諫早-大村-彼杵  大村の真珠・天然痘の隔離など
3  2/17  1/11    彼杵-嬉野-塚崎(武雄)嬉野と塚崎の温泉など 
4  2/18  1/12 晴  塚崎-小田-佐賀-神崎 小田の馬頭観音・佐賀など
5  2/19  1/13 晴  神崎-山家 筑後川流域の農業・筑前藩主別荘など
6 2/20 1/14 雨 山家-木屋瀬 内陸部高地の住民など
7  2/21  1/15 雨 木屋瀬-小倉   渡り鳥の捕獲
8  2/22  1/16 晴 小倉-下関   小倉の市場・与次兵衛瀬記念碑など
9  2/23  1/17 晴 下関滞在       門人の来訪・カニの眼
10  2/24 1/18 晴 下関 早鞆岬と阿弥陀寺・安德天皇廟など
11  2/25 1/19 晴 下関 萩の富豪熊谷五右衛門義比など
12  2/26 1/20 晴 下関 門人・知友来訪・病人診療と手術など
13 2/27 1/21 晴 下関 近郊の散策・六連島・捕鯨について
14 2/28 1/22 晴 下関 薬品応手録・コーヒーの輸入など
15 3/1 1/23 晴 下関 正午過ぎ乗船 ブロムホフの詩・下関の市街など
16 3/2 1/24 晴 下関出帆  
17 3/3 1/25 晴 船中 夜風強まり屋代島の近くに舟をつなぐ
18 3/4 1/26 晴 屋代島の東南牛首崎に上陸・象の臼歯化石発見・三原沖に停泊
19 3/5 1/27 晴 船中 水島灘・阿伏兎観音・琴平山・内海の景観・日比に停泊
20 3/6 1/28 晴 早朝上陸 日比の塩田と製塩法
21 3/7 1/29 晴 日比-室津上陸 室のホテル(建築様式・家具など)
22 3/8 1/30 晴 室滞在 室の付近について・娼家・室明神・室の産物
23 3/9 2/1 晴、夜雪 室-姫路 肥料・穢多・非人・大名の献上品など
24 3/10 2/2 雪 姫路-加古川 高砂の角力者の招待
25 3/11 2/3 晴 加古川-兵庫 敦盛そば・兵庫の侍医某来訪
26 3/12 2/4 晴 兵庫-西宮 楠正成の墓・生田明神
27 3/13 2/5 吹雪 西宮-大坂  
28 3/14 2/6 快晴 大坂滞在 多数の医師来訪・薬品応手録印刷できる
29 3/15 2/7 晴 大坂 二、三の手術を行なう・動脈瘤
30 3/16 2/8 晴 大坂 鹿の畸形・飛脚便について
31 3/17 2/9 晴 大坂-伏見 淀川の灌漑など
32 3/18 2/10 晴 伏見-京都 小森玄良、新宮涼庭らと会う
33 3/19 2/11 晴 京都滞在 小森玄良、小倉中納言来訪
34 3/20 2/12 晴 京都 多数の医師が病人を伴って来る
35 3/21 2/13 晴 京都 来訪者多数・名所見物を帰路に延ばす
36 3/22 2/14 晴 京都 二条城・京都は美術工芸の中心地
37 3/23 2/15 晴 京都 天文台・京都の人口
38 3/24 2/16 晴 京都 明日の出発準備
39 3/25 2/17 晴 京都-草津 日付はないが琵琶湖付近の風景の記述
40 3/26 2/18 晴 草津-土山 梅木の売薬・植物採集の依頼・三宝荒神
41 3/27 2/19 晴 土山-四日市 鈴鹿山のサンショウウオ
42 3/28 2/20 四日市-佐屋(原文 Yazu)二度の収穫・桑名の鋳物
43 3/29 2/21 晴 佐屋-宮-池鯉鮒 水谷助六・伊藤圭介・大河内存真同行
44  3/30 2/22 晴 池鯉鮒-吉田 矢矧橋
45 3/31 2/23 曇・雨空 吉田-浜松 雲母の採集・白魚
46  4/1 2/24 晴 浜松-掛川 秋葉山・商館長ヘンミーの墓
47 4/2 2/25 晴・寒  掛川-大井川-藤枝 大井川の渡河・川人足
48 4/3 2/26 強雨 藤枝-府中 軟骨魚類の加工・駿府の木細工と編細工
49 4/4 2/27 晴 府中-沖津 沖津川増水・上席検使に化学実験を見せる
50 4/5 2/28 快晴 沖津-蒲原 製紙・急造の橋
51 4/6 2/29 快晴 蒲原-沼津 富士川の舟・富士山高度・原の植松氏の庭園
52 4/7 3/1 晴 沼津-箱根-小田原 中津侯家臣神谷源内一行の出迎え
53 4/8 3/2 雨 小田原-藤原 旅館満員で娼家に泊まる
54 4/9 3/3 晴 藤沢-川崎 長崎屋源右衛門出迎え
55 4/10 3/4 晴 川崎-江戸 薩摩中津両侯大森で、桂川甫賢ら品川で出迎え
56 4/11 3/5 江戸滞在 面会ゆるされず、桂川甫賢・神谷源内・大槻玄沢ら来訪
57 4/12 3/6 江戸 終日荷解き・薩摩侯より贈物・夜中津侯来訪
58 4/13 3/7 江戸 桂川甫賢、宇田川榕庵から乾腊植物をもらう
59 4/14 3/8 江戸 将軍、その世子への献上品を発送
60 4/15 3/9 江戸 中津島津両侯の正式訪問・日本の貴族
61 4/16 3/10 江戸 最上德内来訪、エゾ、カラフトの地図を借りる 
62  4/17 3/11 江戸 桂川甫賢・大槻玄沢来訪
63 4/18 3/12 江戸 高橋作左衛門来訪
64 4/19 3/13 江戸 桂川甫賢来訪し、シーボルトの長期滞在の見通しを伝える
65  4/20 3/14 江戸 豚の眼の解剖など手術の講義・地震など
66  4/21 3/15 江戸 最上德内とエゾ語を研究・謁見延期となる
67 4/22 3/16 江戸 付添いの検使、研究に対して好意を示す
68 4/23 3/17 江戸 幕府の医師に種痘を説明
69 4/24 3/18 江戸 天文方の人びと来訪
70 4/25 3/19 江戸 将軍家侍医にベラドンナで瞳孔を開く実験をみせる
71 4/26 3/20 江戸 兎唇の手術・種痘の方法を教える
72 4/27 3/21 江戸 再び二人の子供に種痘
73 4/28 3/22 江戸 ラッコの毛皮を売りにくる
74 4/29 3/23 江戸 天文方来訪
75 4/30 3/24 江戸 幕府の侍医らジーボルトの長期江戸滞在の幕府申請など
76 5/1 3/25 江戸 登城し将軍に拝謁・拝礼の予行と本番など
77 5/2 3/26 江戸 町奉行・寺社奉行を訪問
78 5/3 3/27 江戸 庶民階級の日本人との交際
79 5/4 3/28 江戸 将軍および世子に暇乞いのため謁見・江戸府中の巡察など
80 5/5 3/29 江戸 使節の公式の行列
81 5/6 3/30 江戸 官医来訪
82 5/7 4/1 江戸 中津侯、グロビウス(高橋作左衛門)来訪
83 5/8 4/2 江戸 漢方医がジーボルトの江戸滞在延期に反対するという
84 5/9 4/3 江戸 知友多数来訪〔10以後記事を欠く〕
85 5/10 4/4 江戸  
86 5/11 4/5 江戸  
87 5/12 4/6 江戸  
88 5/13 4/7 江戸  
89 5/14 4/8 江戸  
90 5/15 4/9 江戸 高橋作左衛門が日本地図を示し、後日これを贈ることを約す
91 5/16 4/10 江戸 滞在延期の望みなくなる
92 5/17 4/11 江戸 明日江戸出発と決まる
93 5/18 4/12 晴 江戸-川崎 江戸の富士
94 5/19 4/13 晴 川崎-藤沢 鶴見付近のナシの棚
95 5/20 4/14 晴 藤沢-小田原  
96 5/21 4/15 曇 小田原-三島 山崎で江戸から同行した最上德内と別れる
97 5/22 4/16 曇 三島-蒲原 再び植松氏の庭園をみる
98 5/23 4/17 晴 蒲原-府中 牛車について
99 5/24 4/18 晴 府中-日坂 薬用植物のこと
100 5/25 4/19 曇 日坂-浜松 高良斎の兄弟来る
101 5/26 4/20 晴 浜松-赤坂 植物採集とその整理
102 5/27 4/21 豪雨 赤坂-宮 宮で水谷・伊藤らと会う
103 5/28 4/22 晴 宮-桑名-四日市 宮の渡し舟のこと
104 5/29 4/23 晴 四日市-関  
105 5/30 4/24 強雨 関-石部 夏目村の噴泉
106 5/31 4/25 晴 石部-大津 川辺の善性寺の庭・タケの杖・瓦の製法
107 6/1 4/26 曇 大津-京都  
108 6/2 4/27 晴 京都滞在 友人門人、小森、新宮ら来訪・京都特に宮廷など
109 6/3 4/28 晴 京都 宮廷に関する記事
110 6/4 4/29 晴 京都 小森玄良から宮廷の衣裳の話
111 6/5 4/30 晴 京都 小森の家族と過ごす
112 6/6 5/1 晴 京都 所司代・町奉行を訪問
113 6/7 5/2 晴 京都-伏見-大坂 知恩院・祗園社・清水寺・三十三間堂など
114 6/8 5/3 晴 大坂滞在 大坂についての記述
115 6/9 5/4 晴 大坂 研究用品の購入と注文
116 6/10 5/5 晴 大坂 心斎橋・天下茶屋・住吉明神・天王寺など
117 6/11 5/6 晴 大坂 町奉行および製銅家を訪問
118 6/12 5/7 晴 大坂 芝居見物・日本の劇場・妹背山の芝居
119 6/13 5/8 晴 大坂 来訪者多数・明日は出発
120 6/14 5/9 晴 大坂-西宮 肥料船のこと
121 6/15 5/10 晴 西宮-兵庫  
122 6/16 5/11 兵庫 向い風のため出帆延期
123 6/17 5/12 兵庫 向い風のため出帆延期
124 6/18 5/13 兵庫 向い風のため出帆延期
125 6/19 5/14 夜兵庫を出帆
126 6/20 5/15 船中 朝 室の沖合で経度観測
127 6/21 5/16 船中 朝に室の沖合-正午与島にゆく・造船所など
128 6/22 5/17 船中 夜備後の海岸に向かって進み、陸地近くに停泊
129 6/23 5/18 船中 引き船で鞆に入港・正午上陸・夜半に港外へ
130 6/24 5/19 船中 島から島へ進み、夕方御手洗沖・夜半停泊
131 6/25 5/20 船中 御手洗より患者が来て診察をもとむ・家室島の近くに停泊
132 6/26 5/21 船中 風雨強く午後出帆し、上関瀬戸を経て夜上関入港
133 6/27 5/22 上陸し上関見物・室津へゆく・夜出港
134 6/28 5/23 船中 午後二時過ぎ下関入港
135 6/29 5/24 下関滞在 海峡の図を受け取る・友人来訪
136 6/30 5/25 下関-小倉  
137 7/1 5/26 小倉-飯塚  
138 7/2 5/27 飯塚-田代  
139 7/3 5/28 田代-牛津  
140 7/4 5/29 牛津-嬉野  
141 7/5 6/1 嬉野-大村 出島の友人みな元気との知らせを受ける
142 7/6 6/2 大村-矢上 出迎えの人その数を増す
143 7/7 6/3 矢上-出島 正、同郷人に迎えられ出島につく
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日本画と西洋画との邂逅(その十八) [日本画と西洋画]

(その十八)「西洋人(シーボルト)」と「日本人(川原慶賀)」との協同創作管見

川原慶賀「長崎港ずブロンホフ家族図」.jpg

「長崎港図・ブロンホフ家族図」≪川原慶賀筆 (1786-?)≫ 江戸時代、文政元年以降/1818年以降 絹本著色 69.0×85.5 1基2図 神戸市立博物館蔵
題記「De Opregte Aftekening van het opper hoofd f:cock BIomhoff, Zyn vrouw en kind, die in Ao1818 al hier aan gekomen Zyn,」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/455049
【 衝立の両面に、19世紀に長崎の鳥瞰図と、オランダ商館長コック・ブロンホフとその家族の肖像が描かれています。この衝立は、作者の川原慶賀(1786-?)がシーボルトに贈呈したものの、文政11年(1828)のシーボルト事件に際して長崎奉行所によって没収されたという伝承があります。その後長崎奉行の侍医・北川家に伝来した。昭和6年(1931)に池長孟が購入しました。
現在のJR長崎駅付近の上空に視座を設定して、19世紀の長崎とその港の景観を俯瞰しています。画面左中央あたりに当時の長崎の中心部、唐人屋敷・出島・長崎奉行所が描かれ、それをとりまく市街地の様子も克明に描かれています。

 この衝立の片面に描かれているブロンホフ家族図には、慶賀の款印(欧文印「Toyoskij」と帽子形の印「慶賀」)が見られる。コック・ブロンホフは文化6年(1809)に荷倉役として来日。文化10年のイギリスによる出島奪還計画に際し、その折衝にバタビアへ赴き、捕らえられイギリスへ送られたました。英蘭講和後、ドゥーフ後任の商館長に任命され、文化14年に妻子らを伴って再来日。家族同伴の在留は長崎奉行から許可されず、前商館長のヘンドリック・ドゥーフに託して妻子らはオランダ本国に送還されることになりました。この話は長崎の人々の関心を呼び、本図をはじめとする多くの絵画や版画として描かれました。

来歴:(シーボルト→長崎奉行所?)→北川某→1931池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:
・神戸市立博物館『まじわる文化 つなぐ歴史 むすぶ美―神戸市立博物館名品撰―』図録 2019
・神戸市立博物館特別展『日本絵画のひみつ』図録 2011
・神戸市立博物館特別展『コレクションの精華』図録 2008
・勝盛典子「プルシアンブルーの江戸時代における需要の実態について-特別展「西洋の青-プルシアンブルーをめぐって-」関係資料調査報告」(『神戸市立博物館研究紀要』第24号) 2008
・神戸市立博物館特別展『絵図と風景』図録 2000 】(「文化遺産オンライン」)

「シーボルト・川原慶賀」関連年表
https://www.city.nagasaki.lg.jp/kanko/820000/828000/p009222.html
(「川原慶賀」関連=「ウィキペディア」)

※1786年(天明6)川原慶賀生まれる(長崎の今下町=現・長崎市築町)。
1796年(寛政8)2月17日、シーボルト、ドイツのヴュルツブルクに生まれる
※1811年(文化8)川原慶賀当時の長崎で絵師の第一人者として活躍していた石崎融思に師事し、頭角を現す。
1820年(文政3)シーボルト、ヴュルツブ、ルク大学を卒業(24歳)
1822年(文政5)シーボルト、オランダの陸軍外科少佐になる(26歳)
1823年(文政6)シーボルト、長崎に来る(27歳)
※慶賀は日本の動植物等を蒐集し始めたシーボルトの注文に応じ、『日本』という本の挿絵のために精細な動植物の写生図を描く。
1824年(文政7)シーボルト、「鳴滝塾」をひらく(28歳)
1826年(文政9)シーボルト、江戸参府(30歳)
※慶賀はオランダ商館長の江戸参府にシーボルトに同行し道中の風景画、風俗画、人物画等も描く。
1827年(文政10)シーボルト、娘いね生まれる(31歳)
1828年(文政11)「シーボルト事件」おこる(32歳)
※シーボルト事件に際しては多数の絵図を提供した慶賀も長崎奉行所で取り調べられ、叱責される。
1829年(文政12)シーボルト国外追放になる(33歳)
※シーボルトの後任となったハインリヒ・ビュルゲルの指示を受け、同様の動植物画、写生図を描く。
1832年(天保3)シーボルト、「日本」刊、行はじまる(36歳)
1833年(天保4)シーボルト、「日本動物誌」刊行はじまる(37歳)
1835年(天保6)シーボルト、「日本植物誌」刊行はじまる(39歳)
※1836(天保7)『慶賀写真草』という植物図譜を著す。
※1842(天保13)オランダ商館員の依頼で描いた長崎港図の船に当時長崎警備に当たっていた鍋島氏(佐賀藩)と細川氏(熊本藩)の家紋を描き入れた。これが国家機密漏洩と見做されて再び捕えられ、江戸及び長崎所払いの処分を受ける。
※1846(弘化3)長崎を追放されていた慶賀は、長崎半島南端・野母崎地区の集落の1つである脇岬(現・長崎市脇岬町)に向かい、脇岬観音寺に残る天井絵150枚のうち5枚に慶賀の落款があり、50枚ほどは慶賀の作品ともいわれる。また、この頃から別姓「田口」を使い始める。その後の消息はほとんど不明で、正確な没年や墓も判っていない。ただし嘉永6年(1853年)に来航したプチャーチンの肖像画が残っていること、出島の日常風景を描いた唐蘭館図(出島蘭館絵巻とも)は開国後に描かれていること、慶賀の落款がある万延元年(1860年)作と推定される絵が残っていることなどから少なくとも75歳までは生きたとされている。一説には80歳まで生きていたといわれている(そうなると慶応元年(1865年)没となる)。
1859年(安政6)シーボルト再び長崎に来る(63歳)
1861年(文久元)シーボルト、幕府から江戸に招かれる(65歳)
1862年(文久2)シーボルト、日本をはなれる(66歳)
1866年(慶応2)10月18日、シーボルト、ドイツのミュンヘンで亡くなる(70歳)

唐蘭館絵巻(蘭館図)蘭船入港図.jpg


「唐蘭館絵巻(蘭館図)(一)蘭船入港図」川原慶賀筆 19世紀 長崎歴史文化博物館蔵 
http://www.nmhc.jp/collection.html
【 出島オランダ商館医シーボルトの専属絵師として活躍した川原慶賀の作品は、その多くが西洋へ伝えられ、ニッポンを海外に紹介しました。慶賀の作品は、日本の風景や生活、動植物などを写実的に描いており、当時の状況を知ることができる貴重な資料です。】(「長崎歴史文化博物館」)

 この「唐蘭館絵巻(蘭館図)(一)蘭船入港図」は、川原慶賀の晩年の作品(嘉永6年(1853年)に来航したプチャーチンの肖像画を描いた前後の作品)と解せられるが、ここに描かれている、望遠鏡で「蘭船を眺めるのはシーボルト」、そして、その背後の「女性と子供」は、当時の「シーボルトの日本人妻・お滝」、そして、その子は、二人の一粒種の「お稲」ではないかとされている。

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0611/index1.html
【 蘭船を眺めるのはシーボルト?
 待ちに待った蘭船の到来! 屋上の展望台の上で入港してくる蘭船を望遠鏡で覗き込んでいるのは、商館長だろうか? 実はこの男性の背後に子どもを抱いた日本人女性がいることから、この望遠鏡を覗いているのはシーボルトで、日本人女性はお滝、子どもがお稲ではないかといわれている作品だ。慶賀が描いた作品だから、それもあり得るかもしれない?】
(「発見!長崎の歩き方」)

シーボルトの家族.jpg

「フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト関係資料」.jpg

「フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト関係資料」(国指定重要文化財・シーボルト記念館蔵)
https://www.city.nagasaki.lg.jp/shimin/190001/192001/p000567.html
≪わが国近代医学の発展に多大の功績を残したシーボルトとその娘イネの関係資料19件44点で、主にシーボルトの子孫である楠本家、米山家などから寄贈されたものである。 主なものに、 シーボルト妻子像螺鈿合子(1合)、シーボルト書状(13通)、シーボルト処方箋(6通)、シーボルト名刺(1枚)、ポンペ書状(1通)、蘭語文法書(1冊)、いね和蘭文請取状(1通)、薬籠(1合)、花鳥螺鈿小箱(1合)、化粧道具小箱(1合)、革鞄(1箇)、短銃(1挺)、眼球模型(1基)、いね宮内省御用係関係書類(9通)、福沢諭吉いね推薦状(1通)、いね臍の緒書(1通)、いね遺言状(1通)、懐中紙入(1箇)などがある。≫(「長崎市」)

シーボルト嗅ぎ煙草入れ合子.jpg

「シーボルト妻子像(妻・滝と娘・イネ) 螺鈿合子(ごうす・ごうし)」(下絵:川原慶賀筆?)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/159661
≪「フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト関係資料」(重要文化財、シーボルト記念館蔵)
(解説) フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796~1866)は、オランダ商館付医員、オランダ商事会社顧問として二度来日し、その間に日本の歴史、地理、風俗等の研究に努める一方、鳴滝塾を開き洋学発展に貢献した。このようなシーボルトの遺品として、書状、処方箋、名刺等が伝わるが、特に第1回の離日に際して作られた妻子像螺鈿合子は、日本に対する心情を伝えた遺品である。≫(「文化遺産オンライン」)

https://shibayan1954.blog.fc2.com/blog-entry-59.html
≪ 長崎市の鳴滝2丁目に『シーボルト記念館』があり、そこに国の重要文化財に指定されている「シーボルト妻子像螺鈿合子」が常設展示されているようだ。
瀧とイネの像を蓋の表裏に青貝で細工したものなのだが、シーボルトはわが国を追放された後、30年後に再来日するまでこれを肌身離さず持っていたという。そして再来日した時に瀧と再会し、この合子を瀧に手渡したのだそうだ。
 直径11cmの小さな合子だが、よく見ると瀧とイネの着ている紫色の着物には家紋が描かれている。これはシーボルト家の家紋で「メスを持った手」を表しているのだそうだ。シーボルト家はドイツ医学界の名門で、祖父の代から貴族階級に登録されていたシーボルト家らしい図柄である。次のURLの「19世紀輸出漆器の意匠に見る文化交流の考察」という論文のp.14にこの合子の拡大写真がでている。   ≫

 上記の「19世紀輸出漆器の意匠に見る文化交流の考察」の他に、次のアドレスの論考でも、「コック・ブロムホフとシーボルトの関係資料」の、この「嗅ぎ煙草入れ(合子の表裏の蓋に描かれている青貝螺鈿細工の肖像画)」周辺について考察されている。

https://cir.nii.ac.jp/crid/1390853649781418624
「研究資料 伏彩色螺鈿再考―技法と史的資料から(勝盛典子稿)」

「シーボルトが滝に宛てた手紙」(カタカナ一).gif

「シーボルトが滝に宛てた手紙」(長崎歴史文化博物館蔵)
https://www.at-nagasaki.jp/feature/gaikokujinn/siebold/
≪ オランダ商館長の願い出により国外追放を解かれたシーボルトは、安政6年(1859)、オランダ貿易会社顧問の肩書で、再び来日を果たしました。帰国後、別の女性と結婚していたシーボルトは、その女性との間に生まれた長男・アレクサンダーを伴っていました。長崎に着いたシーボルトは、滝やイネ、そしてかつての門弟と再会。鳴滝の住宅は人手に渡っていましたが、これを買い戻して長崎における日本研究の拠点としました。文久2年(1862)、シーボルトは再び日本を離れますが、彼の日本研究は1866年にミュンヘンで70歳で死去する直前まで続けられたことから、シーボルトの日本に対する想いや情熱をうかがい知ることができます。また、国内においては、鳴滝塾門下生や、シーボルト滞在中に彼の知見にふれた学者などにより、西洋の先端科学に対する関心が大いに高まることになりました。現在、シーボルトが収集した日本コレクションの多くは、オランダのライデン国立民族学博物館など、ヨーロッパ各地の博物館に収蔵されています。≫

 この「シーボルトが滝に宛てた手紙」は、シーボルトが国外追放となり、1830年(文政13・天保元)の1月3日(文政12年12月29日)に日本を離れ、その年の「12月23日付け」の居住地とした「オランダ・ライデン」から、長崎の「妻・滝と娘・イネ」宛の「カタカナの手紙」なのである(『シーボルト父子のみた日本-生誕200年記念』)。
 これが書かれている便箋は、日本より持ち帰った「和紙」の便箋のようで、ここに描かれている着色された「草花」の図柄は、「1835年(天保6)シーボルト、「日本植物誌」刊行はじまる」の、その「シーボルト(下絵?)・川原慶賀(緻密画=ボタニカルアート)?」などと、深く関係しているようにも思えてくる。
 なお、「シーボルトの国外追放」後の、日本に残された「妻子(滝とイネ)」と、そして、「シーボルト」周辺については、下記のアドレスのものが参考となる。

https://ameblo.jp/aqgel/entry-10042407905.html
≪〇 お滝といねのその後。

 シーボルトは、弟子の二宮敬作や高良斎らに、お滝といねを任せていた。そしてその後、お滝といねは、彼女らの伯父の家に世話になることになった。
 お滝は此処でシーボルトからの手紙を受け取った。その翻訳は、弟子の高良斎がやったという。お滝は、天保元年(1830)11月15日付けで返信を出している。
 シーボルトは、国へ帰って直ぐにお滝宛に手紙を出している。そしてそれは長崎のオランダ商館員を通じて、いつでも自由にお滝との文通は出来たのであった。
 シーボルトは追放により帰国させられる時に、彼女たちのこれからの生活費として、銀10貫目を渡して行ったという。お滝はこれをコンプラ仲間(遊女の斡旋をしていた仲間)に預けて、利子として毎月、銀150匁を得ていたと言う。
 今の金で年間100万円以上に相当すると言う。当時ならば母子2人の生活は何とかなった。当時の長崎では、外人の女となって子も出来て、男には帰国されてしまって、後は世人の物笑いの種になっている女は随分といた。しかしお滝は、蘭学者であったシーボルトの名を辱めることも無く、母子共につつましく暮らしを立てていたのであった。

〇開国後、涙、涙の対面。

 お滝は、シーボルトに帰国された2年後に、いねを連れて再婚をした。お滝25才、いね5才のときであった。夫となった男は商人で、俵屋時次郎といい好人物で、混血児のいねにも、優しかったという。
 一方、シーボルトは、帰国後も15年間独身でいたという。(お滝の再婚は、手紙で知らされたであったろうから、学術・研究の方が忙しかったのか、それともお滝のように、心のやさしい女は自分の国の方にはいなかったのか?)
 でもその後、1845年(弘化2年、ペリー来航の8年前)に、ベルリンでヘレーネ・イダ・カロリーネ・フォン・ガーゲルンという娘と結婚をした。これで自然とお滝との、手紙のやりとりも途絶えた。
 娘のいねは成長と共に、学問を好んで、オランダ語の勉強に励んで、19才のときに、シーボルトの弟子であった二宮敬作の門下生となって、外科と産婦人科とを学んで女医となったのであった。
 1859年(安政6年、幕府は神奈川・長崎・函館を開港)の8月14日、シーボルトはなんと再び長崎の地を踏んだのであった。そしてその翌日、オランダ商館長の家で、シーボルトとお滝といねは、30年ぶりで再会を果たしたのであった。シーボルトは、涙に咽んで、言葉にならなかったと言い、お滝は、その場に泣き崩れて、これも言葉にはならなかったという。
 時にシーボルト64才、お滝53才、お稲33才であったという。 ≫

 ここで、≪「西洋人(シーボルト)」と「日本人(川原慶賀)」との協同創作≫ということについては、上記の年表(下記に再掲)の、「日本」・「「日本動物誌」・「日本植物誌」などにおける、二人の「協同創作」という視点からの管見ということに他ならない。

【(再掲)

1832年(天保3)シーボルト、「日本」刊行はじまる(36歳)
1833年(天保4)シーボルト、「日本動物誌」刊行はじまる(37歳)
1835年(天保6)シーボルト、「日本植物誌」刊行はじまる(39歳) 】

 この≪シーボルト『NIPPON』 図版編≫については、下記のアドレスで閲覧することが出来る。

http://www.lib.pref.fukuoka.jp/hp/gallery/nippon/nippon-top.html
「シーボルト『NIPPON』 図版編」(福岡県立図書館ふくおか資料室)
≪『NIPPON』の副題に「日本とその隣国、保護国-蝦夷・南千島列島・樺太・朝鮮・琉球諸島-の記録集。日本とヨーロッパの文書および自己の観察による。」とあります。ドイツ人医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが、その生涯を賭けた日本に関する著作物の一つです。
 シーボルトは、長崎出島の商館付き医師として来日し、日本人に医学その他の科学を教えるかたわら、多くの資料を収集し、持ち帰り、整理して、国王ヴィルへルム2世の援助を受けて、1832年から51年にかけてオランダのライデンから自費出版しました。当初は、図版をカラー版と白黒版で価格差を付け、20回配本の予約出版で刊行しています。全点刊行終了後、各人が好きな細工を施した装丁で製本し、蔵書としたのですが、「NIPPON」の場合、20年をかけての分冊配本のため完全版は今以て不明で書誌学的には「天下の奇書」とも言われています。
 その内容は、日本の地理、歴史、風俗などから、人種、言語、動植物そのほか百般に渉って詳細に記述され、西欧での日本研究の基礎となった文献です。
 当館では、大正7年の創立開館記念収蔵として、初代館長伊東尾四郎が財界の援助を受けて入手した、本文3冊、カラー版を含む図版編2冊の洋皮装丁豪華製本版を所蔵しています。
 ここでは、当館所蔵の『NIPPON』図版編を第1冊、第2冊に分けて公開しています。また、図版のタイトル一覧からも画像をご覧いただけます。≫

 また、この「日本動物誌」と「日本植物誌」とについては、下記のアドレスで、その全貌を知ることが出来る。

https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/classification/nat-hist
≪『日本植物誌』(シーボルト ; ツッカリーニ)1835-1870 【理学部植物学教室所蔵】
Flora Japonica, sive, Plantae quas in Imperio Japonico collegit, descripsit, ex parte in ipsis locis pingendas curavit Dr. Ph. Fr. de Siebold / Philipp Franz Balthazar von Siebold ; Joseph Gerhard Zuccarini (RB00000001)

『日本動物誌』(シーボルト)1833-1850 【理学部動物学教室所蔵】
Fauna Japonica, sive descriptio animalium, quas in itinere per japoniam,jussu et auspiciis superiorum, qui summum in India Batavia Imperium tenent suscepto, annis 1823-1830 collegit, notis observationibus et adumbrationibus illustrabit / Philipp Franz Balthazar von Siebold (RB00000002, RB00000003, RB00000004, RB00000005)≫(「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」)

 ここでは、これらのダイジェスト的な、そして、「西洋人(シーボルト)」よりも「日本人(長崎の絵師・川原慶賀)」に焦点を当てている、次のアドレスの「川原慶賀の見た江戸時代の日本」( 長崎歴史文化博物館)での管見に止めたい

http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/kawaharakeiga/kawaharakeiga.html
≪「川原慶賀の見た江戸時代の日本」( 長崎歴史文化博物館)≫
≪ 川原慶賀(田口種美・登与助とも)は、1786年(天明6)頃の生まれ。父は絵師の川原香山で唐絵目利の石崎融思とかなり親密な間柄であったことが知られている。1811年(文化8)の頃には出島に自由に出入りできる「出島出入絵師」となり、出島商館長ブロンホフや商館員フィッセル、商館医シーボルトの求めに応じて日本の文物を描いている。
 商館員たちの求めに応じて何でも描ける優秀な絵師川原慶賀ではあったが、シーボルトは植物研究のための標本デッサンを正確に描くためどうしても西洋画法に精通した絵師が必要であった。そのためヴァタビア総督に画家の派遣を要請している。この要請に応えて1825年(文政8)来日したのが薬剤師のビュルガーと専門の画家ではないものの絵心のあったデ・フィレニューフェであった。慶賀は、このデ・フィレニューフェから西洋画法の手ほどきを受けることとなる。
 1826年の江戸参府においてシーボルトは、慶賀を同行させている。慶賀はシーボルトの要望や指示に従い、街道の様子や名勝、神社仏閣、京・大坂・江戸の様子、公家・武家の装束、旅の道中で観察される動・植物、風俗までありとあらゆる文物を描いた。
この江戸参府の際、シーボルトが友好を深めた最上徳内、高橋景保らの好意が後のシーボルト事件に発展してゆく。1829年(文政11年12月)、シーボルトが御禁制の地図や葵の紋付服などを国外に持ち出そうとしたことが発覚し国外追放となる「シーボルト事件」により、慶賀も連座して入牢、「叱り」という処分を受ける。その後出島出入絵師としての仕事は復活したようであるが、1842年(天保13)長崎港の風景を描いた際、警備船の幕に細川家と鍋島家の紋まで書き込んだため、長崎所払いの処分を受けている。
 ところがその4年後の1846年(弘化3)、長崎の飛鳥氏らが先祖菩提のため石崎融思一門に依頼し描かせた長崎市脇岬観音寺の天井画150枚の中の5枚に慶賀の落款が存在する。石崎融思と慶賀との関係が推測できる。1860年(万延元)に慶賀が75歳の作品であることを示す年記を持つ「永島きく刀自像」により慶賀の生年はほぼ推定されているが、残念ながら没年およびその墓所は不明である。
 川原敬賀(田口田根、豊助)は1786年生まれ。父親の川原浩三は、唐絵めきであった石崎雄志、あるいは中国からの輸入品の公式美術検査官とかなり親密な関係にあったと考えられている。1811年頃、川原敬賀は出島への立ち入りを許された出島工場の画家に任命され、ブロムホフ(オランダ東インド会社出島工場長)、フィッシャー(オランダ東インド会社社員)、シーボルト(オランダ東インド会社出島工場の医師)の依頼に応えて日本のものを描いた。
 川原敬賀は出島のオランダ人が求めるものを何でも描ける優秀な画家でしたが、シーボルトは植物学研究を進めるために標本の正確なスケッチを描くために西洋絵画の技法を熟知した芸術家を絶対に必要としていました。そのため、シーボルトはバタビアの総督にそのような画家を派遣するよう要求した。彼の要請に応えて、1825年に2人が日本に送られました:1人は薬剤師のハインリッヒ・バーガーで、もう1人は画家ではないが絵画の適性を持っていたド・ヴィルヌーヴでした。その後、慶賀はド・ヴィルヌーヴから西洋絵画の技法の基礎を教わりました。
 1826年(明治3年)に江戸への宮廷旅行の際、シーボルトは慶賀を連れて行った。シーボルトの要求と指示に従い、圭賀は、通りの風景、景勝地、神社仏閣、京都、大阪、江戸の状況、宮廷貴族や武士の服装、江戸への旅で見た動植物や民俗など、さまざまなオブジェクトを描きました。
 江戸滞在中、シーボルトは徳内茂上や高橋影康との親交を深め、その優しさが後にいわゆるシーボルト事件に発展し、1829年(明治2年)にシーボルトは日本の詳細な地図や徳川家のヒイラギの紋章が描かれた着物などを禁止したことが発覚し、日本から追放された。徳川幕府が厳しく禁じた行為でした。シーボルト事件への関与により、川原敬賀も投獄され、叱責された。処罰後、出島工場の画家としての仕事を再開したとされる。しかし、1842年(明治2年)に圭賀が長崎港の風景を描いた際、哨戒艦のスクリーンに細川家と鍋島家を屠殺した。彼は再び罰せられ、長崎から解雇された。
 それにもかかわらず、1846年、すなわち慶賀の解任から4年後に石崎祐志とその弟子によって描かれた長崎の天井画150点のうち5点に、慶賀の署名と印鑑があります。これらの絵は、長崎市の脇崎観音寺の天井に描かれ、アスカ一族や長崎のお客さんのご先祖様のご冥福をお祈りしました。これは石崎祐志と圭賀の密接な関係を暗示している。1860年に描かれた長島菊夫人の肖像画には、75歳の慶賀の作品であったことを示す記録がありますので、彼の生年を推測することができます。しかし、残念なことに、彼の死の年と彼の墓の場所は不明です。≫

アジサイ.jpg

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken/hakken15032/index.html#:~:text=%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88%E3%81%AF%E3%80%81%E5%A6%BB%E3%81%8A%E6%BB%9D,%E3%81%AE%E5%AD%A6%E5%90%8D%E3%82%92%E4%B8%8E%E3%81%88%E3%81%9F%E3%80%82
≪資料名/Flora Japonica Vol.1
FLORA JAPONICA、和名和書名「シーボルト日本植物誌」
シーボルト*ニホン*ショクブツシ、オリジナル番号2 185-1 1の中のアジサイ/m-40_2-185-1-1-53
 毎年6月、鳴滝塾跡、シーボルトの銅像のまわりには、清楚ながらも存在感のある面持ちのアジサイの花が咲き誇る。シーボルトは、妻お滝への愛を込めて、このアジサイの花に彼女の愛称、オタクサ「Hydrangea otaksa」の学名を与えた。離ればなれになってしまった愛しい妻。清楚なアジサイの花にその妻の姿を重ね、シーボルトは生涯想いを寄せていたのかもしれない。シーボルトが日本を離れた後に発表した『日本植物誌』は、シーボルトのお抱え絵師として知られる川原慶賀ら日本人絵師の下絵をもとに、1835年より多数に分け発表。後に購入者がまとめ一冊の本にしたもの。現在、長崎市シーボルト記念館には、発表当時の現物が保管されている。 ≫

アサヒカニ.jpg

http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=2927&cfcid=&search_div=
≪●作品名:アサヒガニ
●学名/Scientific name:Ranina ranina ●学名(シーボルト命名)/Scientific name(by von Siebold):Ranina ranina ●分類/classification:節足動物/Animals, Arthropods>エビ目/Decapoda ●形状・形態/form:紙本彩色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:ライデン国立自然史博物館 National Museum of Natural History

大村湾千綿.gif

http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=1667&cfcid=145&search_div=kglist
≪●作品名:大村湾千綿 ●Title:A view of Oomura, Chiwada
●分類/classification:旅・江戸参府/Travering to Edo
●形状・形態/form:紙本彩色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

(追記一)「シーボルト・コレクションにおける川原慶賀の動植物画と風俗画」(「野藤妙」稿・国際シンポジウム報告書「シーボルトが紹介したかった日本」所収)

≪ はじめに(抜粋)
 川原慶賀(1786?-1860?)は江戸時代後期の長崎の絵師であり、登与助と呼ばれていた。遅くとも文化年間には出島に出入りが許可されており1、出島で勤務していたオランダ商館員の求めに応じて日本の動植物や風俗、風景などの作品を描いた。慶賀の作品を収集したオランダ商館員としては、ヤン・コック・ブロムホフ(Jan Cock Blomhoff)、ヨハン・フレデリック・ファン・オーフェルメール・フィッセル(Johan Frederik vanOvermeer Fisscher)、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(Philipp Franz vonSiebold)の3名が知られている。
 現存する慶賀の作品の中には、精密な動植物画の他、水墨画や南蘋風の掛け軸などもあり、慶賀がいろいろな技法を用いて作品を描くことができたことがわかる。町絵師である以上、依頼主の注文に応じた作品を描かなければならなかったため、さまざまな技法で描くことができる必要があった。したがって、慶賀の作品を研究する際には、まず依頼主が何を求めていたかを考察しなければならない。それゆえに、本稿ではシーボルトが何を要求したかという点から慶賀が数多く描いた動植物画と風俗画を検討していきたい。

1.シーボルトにおける絵画の重要性(略)
2.慶賀の動植物画(部分抜粋)
 シーボルトの著作の図版は、標本や、日本人の絵師の原画、カレル・ヒュベルト・ドゥ・フィレニューフェ(Carel Hubert de Villeneuve)による原画の他、和本の挿絵などを元に作成された。来日期間中にシーボルトは日本人絵師に描かせるだけでは日本研究を進めるのが難しいと考えた。そこでオランダ東インド総督へ画家の派遣を要請し、1825年にフィレニューフェが来日することとなった。またこの時に、研究の助手としてハインリッヒ・ビュルガー(Heinrich Bürger)も来日した。
シーボルトは1828年に帰国する予定であったがいわゆるシーボルト事件が起こったため、結局1830年に帰国した。シーボルトが日本を離れた後も、後任のビュルガーは標本等の発送を行い、シーボルトの日本研究に助力した。ブランデンシュタイン城に現存している1831年12月1日に書かれた書簡4は、出島にいるビュルガーからライデンにいるシーボルトへ出されたものである。
 (中略)
 慶賀やフィレニューフェの現存する絵を併せて検討すると、それぞれの描く対象が異なっており、大まかな役割分担がなされていたことが推測される。この役割分担は、シーボルトがオランダ東インド総督に行った報告に添付された「1823年から1828年の間に日本で作成された記述類一覧」中の「絵図」項目の
39 日本人の肖像12点:デ・フィレニューフェ氏制作
40 日本のもっとも注意すべき若干の哺乳動物図:デ・フィレニューフェ氏制作
41 若干の爬虫類および哺乳動物の骨格図:デ・フィレニューフェ氏
42 若干の魚類および海中棲息生物の写生:日本人絵師登与助制作
43  日本植物、あるいは約60個の注目すべき日本植物図:日本人絵師登与助制作。輸
送と荷卸しはデ・フィレニューフェ氏による
という記述とも合致する。
 (中略)
 シーボルトは、慶賀が動植物画を描く場合、その動植物が分類学上どのように分類されるのかがわかるように、正確に特徴をとらえ、生きているそのままの色を表現することを求めた。慶賀はこの要求に沿って、例えば海老などの甲殻類の殻の凹凸を表現するために細かく描くなどして、シーボルトの要求に応えるように努力した。先行研究でも言及されている通り、シーボルト・コレクションの慶賀の動物画と、シーボルト以前に来日したブロムホフ・コレクションの動物画とを比べると、死ぬと縮んでしまう魚の背びれや尾ひれがピンと張って描かれるようになり、鱗の数なども正確に描かれ、図鑑の挿絵として使えるように技術が向上していることがわかる。
慶賀の絵の上達は、植物画においても同様に見られる。シーボルト・コレクションの慶賀の植物画を、ブロムホフ・コレクションと比較すると、ブロムホフ・コレクションでは、植物が色鮮やかに描かれているが、花や葉の形を見ると正確さに欠けている。シーボルト・コレクションでは、色に濃淡があり、繊細に塗られているほか、植物の解剖図が描かれている。シーボルトがヨーロッパの植物学の分野において本を出版しようとするとき、ブロムホフ・コレクションのような絵では不十分である。植物の同定をするためには、花や葉の形が正確に描かれていることはもちろん、解剖図が描かれている必要があった。慶賀はシーボルトやフィレニューフェから指導を受け11、その結果、図鑑の挿絵として活用できるような絵を描けるようになった。

3.慶賀の風俗画(部分抜粋)
 シーボルト・コレクションの風俗画のほとんどはオランダ政府によって購入され、ライデン国立民族学博物館に所蔵されている。慶賀が描いた風俗画の画題の中でも、人が生まれ結婚し、死去するまでを23場面で描いた《人の一生》という画題の作品群に注目する。
《人の一生》について、ここでは簡潔に結果を述べたい《人の一生》は、5セット現存している。シーボルト以前に来日したフィッセルが3セット、シーボルトが1セット持ち帰っており、その他に収集者が不明のものがもう1セットある。
フィッセルが収集し、現在ライデン国立民族学博物館に所蔵されている《人の一生》を①とする。1832年にオランダ国王ウィレム1世によって購入されたフィッセル・コレクションの中にこの作品も含まれていた。絹に描かれており、サイズは、30㎝×45㎝程度である。この①の最大の特徴は慶賀の落款が押されている点である。落款は縦横1㎝×1㎝程度の大きさで、黒枠の内側や外側などに見られ、多くは右下に押されている。
  (中略)
 シーボルト・コレクションの風俗画で慶賀の落款が押されているものは、60㎝×80㎝程度の比較的大判の絵や掛け軸、さらには朝鮮の人々を描いた絵などのブロムホフやフィッセルのコレクションには含まれていない絵である。一方、慶賀の落款が押されていないものは、ブロムホフやフィッセルとの画題の重複が見られるものが多い。そのような作品の中には、《人の一生》のように、慶賀が直接描くのではなく、同じ工房で働く他の絵師たちによって作成された作品も含まれている。

おわりに
本稿では、シーボルトが収集した慶賀の動物画と風俗画を併せて検討を行った。動物画に関しては、慶賀に描かせるようにとビュルガーに指示しており、ビュルガーもシーボルトの忠告を守り慶賀に描かせている。そうさせたのは、標本にすると失われてしまう動物の色をきちんと表現させることが重要であったからである。慶賀はシーボルトの要求に、精密な絵を描くことで応えた。その一方で、風俗画に関しては、ブロムホフ、フィッセルとの画題の重複が見られ、そのような作品の中には細部の正確さに欠けるものも含まれている。
『日本植物誌』や『日本動物誌』の図版は一流の画家が作成しているのに対し『日本』の図版では費用の問題もあり、二流の画家を使っていることが先行研究によって指摘されている。このことからも、動植物画と風俗画ではシーボルトの意図が異なっていたことが推測される。注文主であるシーボルトが絵を重視していた植物、動物に慶賀も力点を置いていたと言えよう。風俗画については、シーボルトは、どう描かれているかということ以上に何が描かれているか、つまり細部の正確さよりも内容が重要で、動植物画ほどの精密さは求めていなかったと考えられる。シーボルトから大量の絵を注文された慶賀は、自分にしか描くことのできない動植物画を自ら描き、同じ画題の風俗画については、他の絵師などにトレースさせた絵を提供した。≫

(追記二)「川原慶賀考(一)」(陰里鉄郎稿)
http://id.nii.ac.jp/1440/00006427/

(追記三)「シーボルト『NIPPON』の原画・下絵・図版」(「宮崎克則」稿「九州大学総合研究博物館研究報告Bull. Kyushu Univ. MuseumNo. 9, 19-46, 2011」)

(追記四)「1830年3 月 帰国途中のシーボルトが其扇(そのぎ)に送った手紙」(「石山禎一・宮崎克則」稿「西南学院大学博物館 研究紀要 第8号」 )

(追記五)「シーボルト関係書翰集 : シーボルトよりシーボルトヘ」(国立国会図書館デジタルコレクション)

https://culturemk.exblog.jp/24945774/

https://culturemk.exblog.jp/24945774/

シーボルド・カタカナ・手紙(着色).jpg

「シーボルトが滝に宛てた手紙」(長崎歴史文化博物館蔵)

「シーボルト関係書翰集 : シーボルトよりシーボルトヘ」(国立国会図書館デジタルコレクション)が、上記のアドレスで全文閲覧することができる。
 その「目次」は、次のとおりである。

目次 (tableOfContents)
標題 / (0003.jp2)
目次 / (0007.jp2)
I.Siebold / (0011.jp2)
II.美馬順三 / (0028.jp2)
III.小西吉兵衛 / (0031.jp2)
IV.高良齋 / (0031.jp2)
V.石川宗謙 / (0039.jp2)
VI.戶塚靜海 / (0044.jp2)
VII.豐吉 / (0048.jp2)
VIII.吉雄權之助 / (0050.jp2)
IX.卯三郞 / (0051.jp2)
X.松村直之助 / (0051.jp2)
XI.石橋助左衞門、石橋助十郞 / (0052.jp2)
XII.傳之進 / (0052.jp2)
XIII.廣淵武七郞 / (0052.jp2)
XIV.そのぎ / (0054.jp2)
XV.おいね / (0060.jp2)
XVI.楢林榮左衞門 / (0062.jp2)
XVII.三瀨周三 / (0072.jp2)
XVIII.戶田亀之助 / (0092.jp2)
XIX.ぎすけ / (0095.jp2)
XX.町田くわんすけ / (0095.jp2)
XXI.伊藤權之助 / (0096.jp2)
XXII.中村かめかわ / (0096.jp2)
XXIII.北村元助 / (0097.jp2)
XXIV.大庭けいさい / (0097.jp2)
XXV.若菜三男三郞、星野金吾 / (0097.jp2)
XXVI.譯詞 / (0098.jp2)
XXVII.團吉 / (0098.jp2)
XXVIII.河野禎造 / (0098.jp2)
XXIX.八右衞門 / (0099.jp2)
XXX.魚住順方 / (0100.jp2)
XXXI.栗林熊次郞 / (0101.jp2)
XXXII.ポンペ / (0101.jp2)

 この「目次」の前の「口絵」に、「シーボルトが滝に宛てた手紙」(長崎歴史文化博物館蔵)が掲載されている。しかし、「XIV.そのぎ / (0054.jp2)」「XV.おいね / (0060.jp2)」関係の書翰の中には、この書翰は掲載されていない。この原図は、上記のように着色の「植物画」(「便箋」なのか不明)が描かれている。

 この冒頭の二行は、「ソノキ(ソノギ=其扇=お滝=妻)サマ マタ オイ子(オイネ=お稲=娘) カア(ワ)イ コト(ド)モノ (父) シーボルド」
次は、「一 ワタクシ ワ(ハ) 七月七日 ホ(オ)ランタ(ダ)ノ 三十ト(ミナト)ニ イカリ(碇)ヲ ヲロシタ」
 次は、「一 フ子(船=船酔い)ニ ワレ(我) スコシ ヤマイ(病)テ ヲル」
 次は、「一 タタ(ダ)イマ(只今) タイブン(大分) スコヤカ(健やか)」 

 の意に解して置きたい。

(追記) この後に、次のものが入る(全部で十五条)

一 ニチニチ ワタクシガ オマエ マタオイ子ノナヲ シバイシバイ イウ → 日日(毎日) 私は、おまえ(たき)とおいね(イネ)の名を しばしば、いう(口にする)

一 ナントキワ オマエヲマタオイ子 モツトアイスル モノヲミルナ → 何時(ナントキ)でも、おまえ(たき) また おいね(イネ)を もっと(最高に)愛する 者を見ない

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日本画と西洋画との邂逅(その十七) [日本画と西洋画]

(その十七)「日本画(草体画など)・東洋画(文人画など)・西洋画(洋風画など)」そして「渡辺崋山」周辺など 

渡辺崋山・ヒポクラテス像.jpg

「ヒポクラテス像」≪渡辺崋山筆≫ 江戸時代 天保11年(1840) 絹本墨画淡彩 縦110.3 横41.7
1幅 重要美術品 九州国立博物館蔵
【 江戸時代の文人画家・渡辺崋山筆。崋山と交流のあった浅井家伝来のもの。西洋医学の祖と仰がれたヒポクラテスの胸像を、要を得た陰影法によって写実的に描いている。崋山の洋学者としての一面を伝えている。江戸時代の学問、特に洋学の普及を象徴する作品として貴重である。  】

渡辺崋山新論(1)―克己の人渡辺崋山―(「おもしろ日本美術3」No.1)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro1.html

衝撃的なその最期―杞憂を以て死した崋山先生―(「おもしろ日本美術3」No.2)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro2.html

今なお多くの信奉者を惹きつける克己の人渡辺崋山―崋山研究の糸口としての珠玉の史料の数々― (「おもしろ日本美術3」No.3)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro3.html

列強の脅威の中での日本の行く末を案じる開明派の苦悩―自叙伝の体をなす渡辺崋山の『退役願書稿』― (「おもしろ日本美術3」No.4)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro4.html

渡辺崋山の草体画(1)―崋山渾身の当世風俗活写『一掃百態』―(「おもしろ日本美術3」No.5)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro5.html

渡辺崋山の草体画(2)―崋山と洒脱なへたうま画の極み俳諧画―(「おもしろ日本美術3」No.6)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro6.html

渡辺崋山の草体画(3)―背景に天下泰平、江戸後期の洒落本・軟文学流行の世情―(「おもしろ日本美術3」No.7)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro7.html

渡辺崋山の草体画(4)―紀行画『刀禰游記』と手控冊『客坐縮写第五』―(「おもしろ日本美術3」No.8)

「のぼり」と「のぼる」―俳句・雑俳・狂歌・軟文学の世界に遊ぶ崋山の使い分け―(「おもしろ日本美術3」No.9)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro9.html

渡辺崋山の写生観―写生は“自然界からの図取り”―(「おもしろ日本美術3」No.10)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro10.html

≪ (抜粋)
 統的な東洋画は、画面作りにあたって頭の中で練りあげる「構成画」を基本としており、そのための手段として、先人の名蹟に倣う「図取り」を積極的に行なっている。「図取り」とは、画譜や舶載の中国画、日本の先人の名画等の構図や図柄などを、全体的に、あるいは部分的にと借用して自らの作品を作りあげる手だてとする行為であるが、渡辺崋山が道端の草花や小動物を愛情深く写した『翎毛虫魚冊』や『桐生付近見取図巻』等の、現代の感覚でいう写生(写真)も、正しくはこの姿勢の延長として考えるべきなのである。
 すなわち、言うならば“自然界からの「図取り」”なのであり、狩野派や住吉派などの作品に見られる「地取」(ぢどり)の語も、読んで字の如く眼前の自然景の一角を切り取り直模する行為を示している。
 江戸時代も後半期には、情報化社会の到来とともに、出版物の挿図や、絵地図、観光ガイドブック等に需用があったり、あるいは公命を受けて、各種の記録や、海防、城下の警備対策のための資料作り等と、専門画家たちが狩り出され、実景に即した実用の「真景図」を描く機会も多くなる。
 師の谷文晁は、松平定信公の沿岸巡視に同行して『公余探勝図』を描き、同胞立原杏所も公命を拝して『水府城真景図』『袋田瀑布図』を描いている。
 ただここで大切なのは、当時の習いとしては、あくまで、図取りや地取り、写真によってた素材を自らの回路を通過させる手順が前提であるということである。
 写真機の没個性的な映像ではなく、言うならば、画家の頭や心の中を経由する行程を重んじ、写意というか対象の視覚的イメージに留まらず、寒暖や香り、風といった大気のありようなど、目に見えないものや、存在そのものにまで肉迫することこそ、アーティストならではの本領として追い求めているのである。
 また、スケッチや画稿そのものは、いわば楽屋裏のノーカウントのもので、檜舞台で脚光を浴びる筋合のものでもなく、作家にとっては人目に触れるだけでも気恥かしいものなのである。
 崋山の「写生切近なれば俗套に陥り候… 乍去、風趣風韻を専に心得候得ば山水空疎の学に落」との主張は、西洋絵画の流入より受けたカルチャーショックを、自らの宿題である「写生」と「写意」、そして「気韻生動」の理念として、改めて問い直すものであり、アンチテーゼたる異質の美術概念を得て、伝統的な日本画をより高い極みに止場(アウフへーベン)しようといったその高邁な信念を示していると言える。(文星芸術大学 上野憲示稿)  ≫

崋山の「図取り」は単なるパクリにあらず。新たな至高の芸術世界の創出!―最晩年の入魂の優作「黄粱一炊図」、「月下鳴機図」―(「おもしろ日本美術3」No.12)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro12.html

≪ (抜粋)
 前に触れたように、写山楼の画家たちは、画面作りにあたって頭の中で練りあげる「構成画」としての東洋画の伝統を堅持し、そのための手段として、先人の名蹟に倣う「図取り」を積極的に行なってみずからの滋養としている。中国古画などから継承された伝統的なパターンや、新しい舶載画、来舶の画家の作品などの好ましい図様をそのまま利用するなど、先人の名蹟を参照する(言葉を替えればパクル)ことについては、手習いの常套として、現代人が意識するほどにはこだわりがなかったようである。
 「図取り」に際し、その消化の程度によって臨模と変わらないものから、すっかりこなれてその痕跡をもとどめないものまで千差万別で、文晁、崋山などは、臨模や、写本・粉本には「写山楼画本」「全楽堂文庫」などの押印をし、類似作にも「文晁摹印」「摹古」の印を添えるなど参照を公言し、その他の作家も摂取の段階に応じて良心的にその依り所を示している。
 そこで、崋山の図取りの例であるが、まず一つ、版本類から図取り採取した、『唐土名勝図會』(文化二年刊)の挿図にとった「黄粱一炊図」を挙げたい。
 「黄粱一炊図」は、蘆生という人物が、邯鄲の駅で休んでいる間に、立身出世の夢を見るが、目覚めると店の黄粱が未だ蒸し上らないつかの間のことでしかなかったという中国の故事を描くもので、店の結構を正面描写から斜め描写に変更したり、背景に奥行のある北画風の山水を配したりと工夫こそ見られるが、当時流布した「唐土名勝図會」(文化二年刊の改訂版<初版は享和三年刊で挿図の図様も異なる>)の、巻六・直隷の第三十六丁のウラがら第三十七丁のオモテにかけて掲載された、大原民聲(東野)の縮写になる「蘆生」の挿図(原画は明の画家朱端の作品か)から図取りをしたことは明らがである。文晁作品にも、背景こそ広くとるものの、挿図の図様にほぼそのままの蘆生の図があり、それに較べて、崋山画は図取りにおいても可能な限り創意工夫を施して独自の作品を生み出そうとの熱意が知れて快い。
 また、二つ目の例として、焦秉貞の手になる『佩文耕織図』(崋山直筆の写本も伝えられる)の諸図に材料を得た「月下鳴機図」が指摘できる。
 「月下鳴機図」は、多分に貼ぎ合せ的な画面作りになっていて、その基本は、中国の版本『佩文耕織図』(三冊)によるところが多い。『佩文耕織図』は、佩文斎すなわち清の四代皇帝聖祖康煕帝が、欽天監(天文台の役人)の焦秉貞に命じて、宋の模薄の腓織の詩を基に耕織図四十六幅を描かしめ、これを版本とさせたもの(康煕三十五年)。焦秉貞は、郎世寧、文啓蒙、壬致誠といった西洋の教士たちから仕事を通して西洋流の点透視の法を学んでおり、その透視図法を盛り込んだその図様は、異色の光彩を放っている。崋山は、恐らく四十歳以前と思われるが、かつてこの版本を克明に模写しており、天保二年の三ケ尻調査の報告書である「訪瓺録」の挿図の、三ケ尻近郊の描写が明らかに遠近法において相通じるものがあり(下宿図、上宿図など)、既にこの時点において自らのものとし得ているものと判断できる。「月下鳴機図」は、建物や渡り廊下といったその舞台となる建物の結構を、「織」第四図「大起」の図に採り、これに、「織」第十七図「織」の屋内で女性が織機を操っている図柄や、「織」第十八図「絡絣」の糸つむぎの老婆の姿を引用し、自らの構想で合成編集したものと判明する。遠景の家並も「耕」の諸図をヒントに得たものと考えたい。天保十一年二月二十九日と判断する海野豫助宛書簡に、「耕織の内耕は己に相竣、織は半出来に候処…早々に出来し上納可仕」とある織の図こそが本図であろう。(文星芸術大学 上野憲示稿)


崋山花鳥画に見る日本画の革新―写生と東洋画の伝統に依拠した構想画―(「おもしろ日本美術3」No.13)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro13.html

≪ (抜粋)
 渡辺崋山が常に携帯し、絶えず拝見・調査の機会を得た書画類を記録した、いわゆる客坐縮図冊には、その土地土地で寓目した小動物や花卉のクロッキー(生き写し)や、風景の活写(地取り)や民俗学的スナップ等が少なからず含まれている。それらが思いの他、本画制作に活用されていて、まさしく、古典や大家の作品の東洋画の伝統を経承しながらも実写生を績極的に制作の骨体とする崋山なりの絵画観が見てとれ興味深い。
 現在遠山記念館が所蔵する崋山花鳥画の名品「白鵞游魚図」は、そもそもが、「臣渡辺登謹写」とあるとおり、当初公命を受けて描き二本松侯に新宅祝いとして贈られ、その居間の襖貼り付けとなっていた二図で、のちに仙台の荒井泰治氏が求め双幅に改装、さらに個人分蔵となり、左幅が記念館に収蔵されたものと知れる。(明治末年刊『日本絵画全集』8崋山の相見香雨氏解説)
 基本は東洋花鳥画の官画系正統派の黄氏体に徐氏体を加味した高貴な様式を遵守し、「客座縮写乙酉第七 全楽堂」の実写生に準拠したものである。参照各図は、文政8年(1825)崋山33歳の暮(近くに12月23日の月日の頁あり)頃のものと思われる。
 同縮図冊の3ウ~4ウを活用。左図は3ウ上部の小図を基本に下部スケッチの顔貌などで形を調え、右図は3ウ・4オの見開き大図に3ウの黒い子鵞スケッチを左右逆にして重ねている。右図は鶏頭や稗、黄蜀葵などの秋草茂る水際での鳥の母子、左図は、鶏頭や海棠、稗の秋卉に囲まれた中、鵞鳥の親鳥の水面に浮かんでの羽つくろい。水中に渾南田風の鮒の親子が泳ぐ。
 なお、挿図5、6は、『翎毛虫魚冊』の巻末付近の迫力溢れる西洋犬のスケッチに依拠したことが判かる貴重な地取写生を本画に導いたまた一つの貴重な例である。本画は黒川古文化研究所自慢の崋山最晩年「随安居士」落款の「洋犬図」である。(文星芸術大学 上野憲示稿)≫

 ここで、渡辺崋山(1793-1841)の江戸時代後期の「日本画・東洋画(主として中国画)・西洋画「主として阿蘭陀画」の三区分、あるいは、「日本画(中国風を含む)・西洋画」との二区分で、渡辺崋山の画業全体を鳥瞰視すると、上記の論考は多くの示唆を与えてくれる。
 その一として、そのスタート地点の「草体画」(「当世風俗活写画」「俳諧画」「世情画」)、その二として、そのゴール地点の「構想画」などについて、その作品の幾つかにについて見ていきたい。
 さらに、その「草体画」から「構想画」(「写意」重視の「文人画」)に至る過程での、上記で抜粋した中で、「図取り」(これは「本歌取り」などと同一趣旨に解したい)、「地取り」(「風景の活写」=「写生)、さらに「構成画」(「写生」重視の「文人画」)、それらの基礎に位置する「写生・写意・気韻生動」などの理念などにも、間接的に考察していきたい。

「一掃百態」その1.jpg

「一掃百態」その1

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「一掃百態」その2

≪ (一部抜粋)
『一掃百態』は、崋山が二十六歳の頃、僅か三日二夜で描き上げたという早描きの当世風俗スケッチ集。
 まず前段として古画から写し取ったという鎌倉期から江戸中期(元禄~元文、寛延~明和)までの典型的な風俗イメージ十頁を示し、そして後段、堰を切ったように自由闊達なストロークで同時代当世風俗を四十一頁に亙って活写する。初午灯籠絵の内職で慣らしてか下書きなしの卓抜なクロッキー・デッサンである。巧みな線画の上に淡彩が施され見栄えもよく、三通りの序文や後記のテキストも検討されていることもあり、時期を見て出版をと考えていたのであろう。狩野派が風俗画を描くことをやめ民間の俗工に委ねられて以来、世俗の風俗画を玩弄物と低くみるきらいが強く、崋山はこれに異議を唱えその効用をテキスト中に説いている。≫(渡辺崋山の草体画(1)―崋山渾身の当世風俗活写『一掃百態』―(「おもしろ日本美術3」No.5))

『俳画譜』倣蕪村俳画.jpg

左→『俳画譜』自序   右→『俳画譜』倣蕪村俳画
≪渡辺崋山の草体画(2)―崋山と洒脱なへたうま画の極み俳諧画―(「おもしろ日本美術3」No.6)≫

校書図.jpg

校書図
≪渡辺崋山の草体画(3)―背景に天下泰平、江戸後期の洒落本・軟文学流行の世情―(「おもしろ日本美術3」No.7)≫
≪日本の美術(校書図:渡辺崋山の絵画世界)≫
https://j-art.hix05.com/32.2.kazan/kazan13.kousho.html
【 「校書」とは芸者のこと。中国の故事に、芸妓は余暇に文書を校正するという話があることに基づく。崋山といえば、謹厳実直な印象が強く、芸者遊びをするようには、とても思えないが、この図には、崋山らしい皮肉が込められている。
 画面左上に付された賛には、概略次のような記載がある。「髪に玉櫛金笄を去り、面に粉黛を施さず、身に軽衣を纏うて、恰も雨後の蓮を見るようだ」と。これに加えて、近頃は世が豪奢を禁じたと言う指摘あがる。つまりこの絵は、世の中が窮屈になって、芸者も質素な身なりを強いられていることを、揶揄しているとも考えられるのである。
 いわゆる天保の改革が本格化するのは天保十二年のことで、日本中に倹約精神が求められた。この絵が描かれたのは天保九年のことだから、まだ改革は本格化してはいなかったが、一般庶民への強制に先だって、芸者や河原ものへの抑圧は高まっていたようだ。そうした社会的な抑圧は、社会の底辺部にいるものから始まって、次第に一般庶民を巻き込んでいくものだ。崋山は、そうしたいやな時代の流れを敏感に受け取っていたのであろう。
 芸者は、腰を落として横ざまに座り、右手にもった団扇を口元にかざしている。この芸者にはモデルがいる。当時親孝行で話題となっていた品川の芸者お竹である。親孝行の芸者をモデルにするところに、崋山らしいこだわりが感じられる。
 (天保九年 絹本着色 110.2×42.5㎝ 静嘉堂文庫 重文) 】(校書図:渡辺崋山の絵画世界)

月下鳴機図.jpg

左→ 「黄梁一焚図」(『唐土名勝圖會』の「蘆生」の「図取り」)
中央→「月下鳴機図」
右→ 「月下鳴機図」の図取り(中国の版本『佩文耕織図』(三冊)の「図取り」)
≪崋山の「図取り」は単なるパクリにあらず。新たな至高の芸術世界の創出!―最晩年の入魂の優作「黄粱一炊図」、「月下鳴機図」―(「おもしろ日本美術3」No.12)≫
≪日本の美術(月下鳴機図:渡辺崋山の絵画世界)≫
https://j-art.hix05.com/32.2.kazan/kazan19.gekka.html
【 「月下鳴機図」は、崋山最晩年、天保十二年の作である。おそらく求められて描いたのであろう。タイトルの「月下鳴機図」には、英明な君主の存在が暗示されているところから、田原藩主への捧げものかもしれない。
 この絵には手本がある。清の康熙帝が焦秉貞に命じて作らせた「佩文耕織図」である。これは耕織の様子を描いた四十余の図柄を版画に仕立てたもので、日本にも出回っていた。崋山は三十台のころ、その版画シリーズを入手して、模写をしている。
 この作品は、「佩文耕織図」のシリーズから、いくつかの図柄を選び出して、再構成したもの。そのため、構成上やや不自然なところがある。全体が一つの視点で統一されておらず、別々の視点から描かれたいくつかの図柄を単に同居させているような印象を与える。
 焦秉貞は西洋画の技法に通じていたといわれ、このシリーズの個々の作品には、一点消去法にもとづく西洋風の遠近感が指摘されるのであるが、それがこのように再構成されたことで、統一的な視点からの遠近感は見られなくなった。(天保十二年 絹本着色 127.9×56.9㎝ 静嘉堂文庫 重美)  】(月下鳴機図:渡辺崋山の絵画世界)

「月下鳴機図」(部分拡大図).jpg

「月下鳴機図」(部分拡大図)

 この「月下鳴機図」の手本とされている、清の宮廷画家「焦秉貞(しようへいてい)」の「佩文耕織図(はいぶんさいこうしょくず)」は、下記のアドレスの「国立国会図書館デジタルコレクション」で閲覧することが出来る。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/851448

「佩文斎耕織図」.gif

「佩文斎耕織図」(吾妻健三郎 編・「国立国会図書館デジタルコレクション」)の「コマ番号24・第十七図」(織)

 「月下鳴機図」(部分拡大図)の一番手前の左側の家屋の「織」の図は、上記の「コマ番号24・第十七図」(織)、同様に、右側(奥)の家屋は「コマ番号25・第十八図」(絡絲)、
そして、左側の家屋と右側(奥)の家屋とを結ぶ渡り廊下の家屋の図は、「コマ番号18・第四図」(大起)などをヒントにしていると、(「おもしろ日本美術3」No.12)では指摘している。

「佩文斎耕織図」・「耕」.gif

「佩文斎耕織図」(吾妻健三郎 編・「国立国会図書館デジタルコレクション」)の「コマ番号5・第二図」(耕)

 「月下鳴機図」(部分拡大図)の近景は、「佩文耕織図」の「織」図の諸図、そして、その中景は、上記の「コマ番号5・第二図」(耕)などの、その「耕」図の諸図を参考にしているように思われる。
そして、この近景と中景に関連して、(「おもしろ日本美術3」No.12)では、≪焦秉貞は、郎世寧、文啓蒙、壬致誠といった西洋の教士たちから仕事を通して西洋流の点透視の法を学んでおり、その透視図法を盛り込んだその図様は、異色の光彩を放っている。崋山は、恐らく四十歳以前と思われるが、かつてこの版本を克明に模写しており、天保二年の三ケ尻調査の報告書である「訪瓺録(ほうちょうろく)」の挿図の、三ケ尻近郊の描写が明らかに遠近法において相通じるものがあり(下宿図、上宿図など)、既にこの時点において自らのものとし得ているものと判断できる。≫と指摘している。

 この渡辺崋山が自刃した、天保12年(1841)に制作された、この絶筆ともいわれている、この「月下鳴機図」は、天保10年(1839)の、いわゆる「蛮社の獄」で、獄中の身となり、その生涯を掛けての故郷の土地ともいうべき「三河国(愛知県)田原藩(田原市)」の「池ノ原屋敷」に蟄居中の作品の一つなのである。
 そして、この作品の背後には、≪天保元年(1830)38 埼玉県尻に三宅氏遺跡を調査し、のちに「訪録」を書く。弟熊次郎亡くなる。≫の、上記の「天保二年の三ケ尻調査の報告書である「訪瓺録(ほうちょうろく)」の挿図の、三ケ尻近郊の描写が明らかに遠近法において相通じるものがあり(下宿図、上宿図など)」が横たわっている。

『訪瓺録』.gif

『訪瓺録』の絵図中、瓺尻(みかじり)村の「上宿」の図
https://blog.goo.ne.jp/shunsuke-ayukawa/e/558ee7b31d274b32757b30207a004fbe
≪ まず題名の『訪瓺録』の「瓺」とは「瓺尻村」(みかじりむら)のことで、当時、武蔵国幡羅(はたら)郡の南隅にあった村で、現在は埼玉県熊谷市三ヶ尻(みかじり)と言われる地域をさしています。
 この村は、田原藩主三宅家の先祖(藩祖)の三宅康貞が、天正18年(1590年)に徳川家康から最初に賜った領地でした。
 その後、康貞は関ヶ原の戦いで戦功を挙げ、瓺尻から挙母(ころも・現在の愛知県豊田市)1万石の領主に取り立てられて、やがて挙母から田原に移って、田原三宅家1万2千石の大名になりました。
 「訪瓺」とは、その藩祖(上祖)三宅康貞が家康から賜った最初の領地、瓺尻村を訪ねるということであり、その村を訪ねて、その調査を行った結果をまとめた記録(調査報告書)が、『訪瓺録』であるということです。
 崋山がこの瓺尻村を訪れたのは、天保2年(1831年)11月8日ないし9日から、おそらく11月28日あたりまでの約20日間ほどでした。その間に、瓺尻村の人々の協力を得ながら、康貞公に関係する旧跡や瓺尻村の地勢・風俗・物産などについて精力的に調査し、その記録を蓄積・整理していったのです。≫

 ここで、「崋山ファンタジー(幻想)」的に鑑賞していくと、この近景の「織図」は、崋山の現世の、蟄居中の≪「三河国(愛知県)田原藩(田原市)」の「池ノ原屋敷」≫周辺の近景ということになる。
そして、その中景は、藩主後継者として、その入嗣を一時拒み、後に年寄役末席(家老職)として仕える「田原藩第11代藩主、田原藩三宅家14代当主・三宅康直」(姫路藩藩主・酒井忠実(「酒井抱一」の実兄)の六男)の藩命により実地調査した「田原藩主三宅家の先祖(藩祖)三宅康貞」が、家康から賜った最初の領地「瓺尻(みかじり)村」(現在は埼玉県熊谷市三ヶ尻(みかじり)、当時は田原藩の「飛び地」の調査で、その調査記録は『訪瓺録』にまとめられている)、その崋山の田原藩士として大きな業績の一つとなっている「忘れ得ざる土地」の、その田園風景のイメージと連なってくる。
 これらの「近景」と「中景」とは、いわゆる、西洋画の「透視図法」の「遠近法」に因って描かれている。そして、その「遠景」は、いわゆる、東洋画の「山水之変」の「上遠下近(法)」に因っている。

「月下鳴機図」(部分拡大図「近景・中景・遠景」).jpg

「月下鳴機図」(部分拡大図「近景・中景・遠景」)

 東洋画(中国の「南画」)に連なる日本画(文人画)の、「盛行期の四大作家」の一人に目せられている「渡辺崋山」(他の三人は「浦上玉堂・青木木米・田能村竹田」)の、この絶筆の一つに目せられている、この「月下鳴機図」も、それを証しするように、その上段に、東洋画の「山水之変」の「上遠下近(法)」の「遠景」の「山水」の図柄が描かれている。
 そして、この下段の「近景」(「織」と「耕」の人家)と「中景」(その人家に連なる田園風景)と、この上段の「遠景」(山水図)との間に、朦朧とした雲海のような空間が、まるで、
「幽明境」(幽明境を異にする)の「あの世(来世)」=「遠景」と「この世(現世)」=「近景・中景」との、その「幽明境」のような趣のメッセージが伝わって来る。
 これを描き上げて、その年の十一日に、自刃して、その四十九年の生涯を閉じた。この上段の「遠景」(山水図)の左上部の「賛・落款」は、次のとおりである。

「月下鳴機図」(部分拡大図「賛・落款」).gif

「月下鳴機図」(部分拡大図「賛・落款」)

 この「賛・落款」には、その「自刃」に関わることは記されていないが、この冒頭の「青燈」の二字からも、「秋風白髪三千丈、夜雨青燈五十年」(〔韋応物‐寺居独夜寄崔主簿詩〕)のメッセージが伝わってくる。
 崋山の自刃は、「己と己の家族」の故というよりも、「己が仕えた田原藩の藩主に責任が及ぶことを恐れて」のものであったことは、その数通の「遺書」から読み取れてくる。
 それらの「遺書」の、「自筆遺書(渡辺立宛)」のものは、次のとおりである。これらのことについては、下記のアドレスのものが参考となる。

https://www.kazankai.jp/kazan_lifetime.php
【  崋山の最期
 蟄居中の崋山一家の生活を助けるため、門人福田半香らは崋山の絵を売る義会を始めました。崋山は作画に専念し、「于公高門図」「千山万水図」「月下鳴機図」「虫魚帖」「黄粱一炊図」など次々と名作を描きました。しかし、その活動により、天保12年(1841)夏の頃から「罪人身を慎まず」と悪評が起こり、藩主に災いの及ぶ事をおそれた崋山は死を決意しました。「不忠不孝渡邉登」と大書し、長男立へ「餓死るとも二君に仕ふべからず」と遺書して切腹し、49年の生涯を終えました。 】(『財団法人 崋山会』(愛知県田原市)

自筆遺書(渡辺立宛).gif

自筆遺書(渡辺立宛)

≪ 悴へ
 御祖母樣御存中は何卒御機嫌能孝行を盡べし其方母不幸之もの又孝行
  盡べし
餓死るとも二君に仕ふべからず
  月  日
  不忠不孝之父
       登
 渡邊立どの
  姉弟之事は存寄次第  ≫

 この「自筆遺書(渡辺立宛)」については、下記のアドレスに因っている。

http://sybrma.sakura.ne.jp/273watanabekazan.isyo.html

 上記の「自筆遺書(渡辺立宛)」を読み解くためには、上記のアドレスの注記により、崋山が自刃したときの、家族の状況が一目瞭然となってくる。

≪渡辺立どのあて
  御祖母樣……崋山の母。70歳。
  其方母……崋山の妻、たか。35歳。
  立……長男。10歳。
  姉弟……姉かつ、16歳。弟諧(かなう)、7歳。≫

 ここで、上記のアドレスにより、一連の「渡辺崋山の遺書」を列記して置きたい。

≪遺書 渡邊崋山
一筆啓上仕候私事老母優養仕度より誤て半香義會に感三月分迄認跡は二半に相成置候處追々此節風聞無實之事多必災至り可申候然る上は主人安危にもかゝはり候間今晩自殺仕候右私御政事をも批評致しながら不愼の義と申所落可申候必竟惰慢不自顧より言行一致不仕之災無相違候是天に非自取に無相違候然ば今日の勢にては祖母始妻子非常之困苦は勿論主人定て一通には相濟申まじくや然れば右の通相定め候定て天下物笑ひ惡評も鼎沸可仕尊兄厚御交りに候とも先々御忍可被下候數年之後一變も仕候はゞ可悲人も可有之や極秘永訣如此候頓首拜具
  十月十日
  ゝ(注:ゝ…崋山の別号「主一」の「主」の点をとったもので、崋山の隠号。)
椿山老兄 御手紙等は皆仕舞申候 ≫

≪拙者事不愼ニテ上ヘ御苦勞相カケ候テハ恐入候間今晩自殺致候御母樣ヘ對シ申譯無之不忠不孝ノ名後世ニノコリ何トモ其許ニモ申譯無之サゾサゾ後ニ御困難可被成候間必死御救申上候樣頼存候茂兵衛喜太郎ナドヘモ宜敷此樣ネル書ハ涙ノタネ故略シ申候頓首
  十月十日
助右衛門樣   ≫

≪拙者今般自殺致候譯ハ半香ノ義會ヨリ事起リ御調ニモ相成可申左候時ハ主人安危ニモ相拘リ可申ト右之通相決申候定テアクゾウモクゾウ御引出シ天下ニカケ可申樣相成可申候コヽニ於テ尊兄等面ヲ汚スガ如ク相成可申御友朋中甚痛心仕候老母妻子モ一通ナラザル事ト察シ當分不被容樣ニモ相成可申哉尊兄竊ニ御憐愛願候何ニ致セ自取義致方無之永訣如此候頓首
  十月十日
金子樣(注: 金子……金子武四郎。崋山の門人で、当時水戸藩士。) ≫

≪ 定平樣ヘ
私儀多分蒙御疑ヲ候樣奉存候間今般自殺仕候何卒世中震然致老母妻子御救ハ十分御出來被成間敷候得共密々御憐愛奉願候眞木樣生田樣二郎樣其外樣ヘモ是迄ノ御禮厚奉願候永訣
 十日   ≫

(追記一)「渡辺崋山年表」(一部抜粋)
https://www.kazankai.jp/kazan_history.php

寛政5年(1793)1  9月16日、江戸麹町田原藩上屋敷に生まれる。
寛政7年(1795)3  妹茂登生まれる。
寛政9年(1797)5  この年、軽い天然痘にかかる。
寛政12年(1800)8 若君亀吉のお伽役(おかやく)になる。妹まき生まれる。
享和元年(1801)9  最初の絵の師、平山文鏡(田原藩士)亡くなる。
享和3年(1803)11 弟熊次郎生まれる。
文化元年(1804)12 日本橋で備前侯行列に当り、乱暴を受け発奮(はっぷん)する。
文化2年(1805)13 鷹見星皐に入門し、儒学を学ぶ。弟喜平次生まれる。
文化3年(1806)14 若君元吉(後の康和)のお伽役になる。
文化4年1807)15  弟助右ヱ門生まれる。
文化5年(1808)16 絵師白川芝山に入門する。星皐より華山の号を受ける。藩主康友に従って田原に滞在する。
文化6年(1809)17 金子金陵に絵を学ぶ。金陵の紹介により谷文晁に絵を学ぶ。
文化7年(1810)18 田原に藩校「成章館」創立。妹つぎ生まれる。
文化8年(1811)19 佐藤一斎から儒学を学ぶ。
文化10年(1813)21 妹つぎ亡くなる。
文化11年(1814)22 納戸役になる。絵事甲乙会を結成し、画名が世に知られる。
文化13年(1816)24 弟五郎生まれる。
文化14年(1817)25 父定通、家老となる。
文政元年(1818)26  正月、藩政改革の意見を発表。長崎遊学を希望したが父の反対のため断念する。「一掃百態図」を描く。 藩主康友に従って田原に滞在する。
文政2年(1819)27  江戸日本橋百川楼で書画会を開く。
文政6年(1823)31  和田たかと結婚する。「心の掟」を定める。
文政7年(1824)32  7月、家督する。父定通亡くなる。
文政8年(1825)33  この年から松崎慊堂に儒学を学ぶ。
文政9年(1826)34  江戸宿舎にてオランダ使節ビュルゲルと対談。長女可津生まれる。
この頃から画号「華山」を「崋山」と改める。
文政10年(1827)35 10月、三宅友信に従い田原に来る。
文政11年(1828)36「日省課目」を定め修養に努める。側用人となり、友信の傅を兼ねる。
文政12年(1829)37 三宅家家譜編集を命ぜられる。弟喜平次亡くなる。
天保元年(1830)38 埼玉県尻に三宅氏遺跡を調査し、のちに「訪録」を書く。弟熊次郎亡くなる。
天保2年(1831)39 江戸藩邸文武稽古掛指南世話役となる。妹まき亡くなる。9月から門弟高木梧庵を伴い厚木を旅し「游相日記」を書き、10月、桐生、足利、尻地方に旅し「毛武游記」を書く。
天保3年(1832)40 家老となる。紀州藩破船流木掠取事件、助郷免除事件あり。長男立生まれる。
天保4年(1833)41 1月、家譜編集などのため田原に来て、「参海雑志」を書く。
天保5年(1834)42 幕命の新田干拓中止の願書を上申。農学者大蔵永常を田原藩に招く。
天保6年(1835)43 報民倉竣工。二男諧(後の小華)生まれる。
天保7年(1836)44 田原地方が大飢饉になる。
天保8年(1837)45 真木定前を田原に遣し、飢餓を救う。年末、無人島渡航を藩主に願うが許されず。鷹見泉石像」を描く。弟五郎亡くなる。
天保9年(1838)46 年初、「退役願書稿」を書く。蔵書画幅を藩主に献上する。「鴃舌或問」、「慎機論」を著す。儒者の伊藤鳳山を田原藩に招く。
天保10年(1839)47 江戸湾測量で伊豆の代官江川坦庵に、人材器具を援助する。5月14日、蛮社の獄により北町奉行所揚屋入りとなる。12月18日、田原蟄居の申渡しを受ける。
天保11年(1840)48 1月20日、田原着。2月12日、池ノ原屋敷に蟄居。
天保12年(1841)49 10月11日自刃する。

(追記二)渡辺崋山著・鈴木清節編『崋山全集』全2巻(崋山会)
http://kenkyuyoroku.blog84.fc2.com/blog-entry-1179.html

第1巻 1910.12.30

渡辺家略系図…………1頁
慎機論…………4頁
鴃舌或問…………12頁
西洋事情御答書…………35頁
和蘭陀風説書…………46頁
江川太郎左衛門に寄せし書簡…………48頁
江川太郎左衛門へ奥山弘平を紹介せし書簡…………51頁
星巌書簡…………52頁
江川太郎左衛門へ寄せし書簡…………53頁
斉藤弥九郎へ寄せし書簡…………54頁
斉藤弥九郎へ寄せし書簡…………55頁
斉藤弥九郎へ寄せし書簡…………55頁
麹町一件日録(椿山記)…………57頁
 崋山書簡…………67頁
 崋山書簡…………72頁
 上野御声掛願書案…………76頁
 崋山書簡…………81頁
 崋山書簡…………89頁
春山より獄中の崋山へ送りし密書…………91頁
獄中より椿山に寄せし密書…………99頁
獄中より椿山に寄せし密書…………101頁
高野長英獄中より立原杏所へ寄せし密書…………104頁
獄中より江川太郎左衛門へ寄せし密書…………106頁
崋山の口書…………108頁
松崎慊堂の上書…………124頁
申渡之書(幕府の宣告)…………132頁
松崎慊堂へ寄せし書簡…………134頁
田原到着後松崎慊堂へ寄せし書簡…………136頁
使相録…………139頁
四州真景紀行之部…………147頁
守字の解…………155頁
真木重郎兵衛へ寄せし八勿の書簡…………159頁
椿山に与へし書簡(養生論)…………161頁
復統に関する真木と往復書簡…………163頁
 定前より崋山への返書…………163頁
 崋山より定前への返書…………165頁
 定前より崋山への返書…………167頁
 崋山より定前への書翰…………168頁
 同書翰…………171頁
 定前より返書…………172頁
 崋山より返書…………173頁
 定前より返書…………176頁
真木定前上書…………179頁
 其一…………179頁
 其二…………184頁
真木宛書簡…………186頁
 其一…………186頁
 其二…………191頁
 其三…………198頁
 其四…………201頁
 其五…………202頁
 其六…………203頁
 其七…………206頁
 其八…………208頁
 其九…………210頁
 其十(深考篇)…………211頁
助郷に関する書簡…………212頁
領民へ諭告…………213頁
凶荒心得書…………216頁
退役願書…………226頁
進書趣意書…………236頁
進書目録…………238頁
守困日歴…………249頁
椿山へ与へし書簡(草虫帖)…………272頁
同手翰…………275頁
同手翰…………276頁
絵事問答…………277頁
佐藤信淵より江川英竜に寄せし書簡…………299頁
村上定平に与へたる書簡…………301頁
真木重郎兵衛に寄せし書簡…………303頁
茂兵衛宛書簡…………307頁
おもと喜太郎宛書簡…………309頁
遺書
 長男立へ宛てたる遺書…………311頁
 実弟助右衛門に宛てたる遺書…………312頁
 金子武四郎に宛てたる遺書…………313頁
 椿山に宛てたる遺書…………313頁
附録
 崋山先生略伝(三宅友信記)…………314頁

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991621/4
(「国立国会図書館デジタルコレクション」) → 「崋山全集(第一巻)」

第2巻 1915.1.15

渡辺家年譜…………1頁
訪瓺録…………33頁
毛武游記…………83頁
游相日記…………142頁
参海雑志…………176頁
兇荒御取計之事…………199頁
助郷免除歎願書…………213頁
助郷一件に付同僚に寄せし書…………215頁
暴風高浪被害届書案…………216頁
巣鴨公に贈りし書簡…………217頁
岡見某に贈りし書簡…………220頁
某氏に与へし書簡…………221頁
 其一…………221頁
 其二…………224頁
 其三…………225頁
 其四…………226頁
鈴木春山に与へし書簡…………229頁
 其一…………229頁
 其二…………229頁
 其三…………230頁
村上定平に贈りし書簡…………233頁
春山より定平に送りし書簡…………235頁
真木重郎兵衛に送りし書簡…………236頁
 其一…………236頁
 其二…………240頁
 其三…………242頁
 其四…………244頁
 其五…………246頁
川登又次郎への書状…………247頁
桐生岩本氏への書状…………248頁
佐藤半助への書状…………249頁
立原杏所よりの書状…………250頁
椿山への書状…………251頁
崋山の父定通が桐生岩本氏に寄せたる書簡…………252頁
椿山田原へ墓参し帰府後の書簡…………253頁
椿山より崋山に贈りし書簡…………256頁
季弟五郎より崋山に送りし書簡…………258頁
崋山より弥太夫への書状…………262頁
立原より椿山への書状…………263頁
幽居中の書簡…………263頁
 其一…………263頁
 其二…………265頁
 其三…………266頁
 其四…………270頁
 其五…………272頁
 其六…………276頁
 其七…………287頁
詩文…………289頁
 一掃百態序文…………289頁
 江戸名所図絵跋…………290頁
 熊沢蕃山伝…………291頁
 題自画…………292頁
 題蘭竹図…………293頁
 題美人図…………293頁
 題画竹…………294頁
 題赤壁之図…………294頁
 題機女之図…………294頁
 題画山水…………295頁
 同…………295頁
 同…………295頁
 同…………295頁
 題桃之図…………295頁
 題錦鱗青蓮之図…………296頁
 題黠鼠食葡萄之図…………296頁
 題水仙之図…………296頁
 偶成…………296頁
 同…………296頁
 贈村松太夫…………297頁
 与春山…………297頁
 幽居…………297頁
 同…………298頁
 題富士山之図…………299頁
弔詞を贈りし人への礼状…………299頁
田畯年中行事序(佐藤信淵)…………302頁
客坐録…………322頁
客坐掌記(其一)…………328頁
同(其二)…………341頁
狂歌…………361頁
俳句…………362頁
和歌…………364頁
門田の栄…………366頁
つづれの錦…………386頁

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898681
(「国立国会図書館デジタルコレクション」) → 「崋山全集(第二巻)」

(追記三)「山水之変」: 中国絵画における奥行き表現の古典様式(河野道房稿)
「同志社大学人文学会」
http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000015576

(追記四)「渡辺崋山とその家族」(田原市博物館:特別展目録)

(追記五)「図版要項 崋山筆所歓校書図[東京 岩崎小弥太氏蔵]
http://id.nii.ac.jp/1440/00007291/

(追記六)「構想画について」(鳥取大学 大勝恵一郎稿)

(追記七)「青木繁の構想画に見る日欧の美術潮流―壁画的性格をめぐって―」(橋沙希稿)
http://hdl.handle.net/10112/6139

(追記八)「渡辺崋山の描いたランプについて」(大谷勝治郎稿)

(追記九)「桂川甫賢筆長崎屋宴会図について」(松田清稿)
http://id.nii.ac.jp/1092/00001662/

(追記十)「川原慶賀考(一)」(陰里鉄郎稿)
http://id.nii.ac.jp/1440/00006427/

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