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日本画と西洋画との邂逅(その十七) [日本画と西洋画]

(その十七)「日本画(草体画など)・東洋画(文人画など)・西洋画(洋風画など)」そして「渡辺崋山」周辺など 

渡辺崋山・ヒポクラテス像.jpg

「ヒポクラテス像」≪渡辺崋山筆≫ 江戸時代 天保11年(1840) 絹本墨画淡彩 縦110.3 横41.7
1幅 重要美術品 九州国立博物館蔵
【 江戸時代の文人画家・渡辺崋山筆。崋山と交流のあった浅井家伝来のもの。西洋医学の祖と仰がれたヒポクラテスの胸像を、要を得た陰影法によって写実的に描いている。崋山の洋学者としての一面を伝えている。江戸時代の学問、特に洋学の普及を象徴する作品として貴重である。  】

渡辺崋山新論(1)―克己の人渡辺崋山―(「おもしろ日本美術3」No.1)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro1.html

衝撃的なその最期―杞憂を以て死した崋山先生―(「おもしろ日本美術3」No.2)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro2.html

今なお多くの信奉者を惹きつける克己の人渡辺崋山―崋山研究の糸口としての珠玉の史料の数々― (「おもしろ日本美術3」No.3)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro3.html

列強の脅威の中での日本の行く末を案じる開明派の苦悩―自叙伝の体をなす渡辺崋山の『退役願書稿』― (「おもしろ日本美術3」No.4)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro4.html

渡辺崋山の草体画(1)―崋山渾身の当世風俗活写『一掃百態』―(「おもしろ日本美術3」No.5)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro5.html

渡辺崋山の草体画(2)―崋山と洒脱なへたうま画の極み俳諧画―(「おもしろ日本美術3」No.6)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro6.html

渡辺崋山の草体画(3)―背景に天下泰平、江戸後期の洒落本・軟文学流行の世情―(「おもしろ日本美術3」No.7)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro7.html

渡辺崋山の草体画(4)―紀行画『刀禰游記』と手控冊『客坐縮写第五』―(「おもしろ日本美術3」No.8)

「のぼり」と「のぼる」―俳句・雑俳・狂歌・軟文学の世界に遊ぶ崋山の使い分け―(「おもしろ日本美術3」No.9)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro9.html

渡辺崋山の写生観―写生は“自然界からの図取り”―(「おもしろ日本美術3」No.10)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro10.html

≪ (抜粋)
 統的な東洋画は、画面作りにあたって頭の中で練りあげる「構成画」を基本としており、そのための手段として、先人の名蹟に倣う「図取り」を積極的に行なっている。「図取り」とは、画譜や舶載の中国画、日本の先人の名画等の構図や図柄などを、全体的に、あるいは部分的にと借用して自らの作品を作りあげる手だてとする行為であるが、渡辺崋山が道端の草花や小動物を愛情深く写した『翎毛虫魚冊』や『桐生付近見取図巻』等の、現代の感覚でいう写生(写真)も、正しくはこの姿勢の延長として考えるべきなのである。
 すなわち、言うならば“自然界からの「図取り」”なのであり、狩野派や住吉派などの作品に見られる「地取」(ぢどり)の語も、読んで字の如く眼前の自然景の一角を切り取り直模する行為を示している。
 江戸時代も後半期には、情報化社会の到来とともに、出版物の挿図や、絵地図、観光ガイドブック等に需用があったり、あるいは公命を受けて、各種の記録や、海防、城下の警備対策のための資料作り等と、専門画家たちが狩り出され、実景に即した実用の「真景図」を描く機会も多くなる。
 師の谷文晁は、松平定信公の沿岸巡視に同行して『公余探勝図』を描き、同胞立原杏所も公命を拝して『水府城真景図』『袋田瀑布図』を描いている。
 ただここで大切なのは、当時の習いとしては、あくまで、図取りや地取り、写真によってた素材を自らの回路を通過させる手順が前提であるということである。
 写真機の没個性的な映像ではなく、言うならば、画家の頭や心の中を経由する行程を重んじ、写意というか対象の視覚的イメージに留まらず、寒暖や香り、風といった大気のありようなど、目に見えないものや、存在そのものにまで肉迫することこそ、アーティストならではの本領として追い求めているのである。
 また、スケッチや画稿そのものは、いわば楽屋裏のノーカウントのもので、檜舞台で脚光を浴びる筋合のものでもなく、作家にとっては人目に触れるだけでも気恥かしいものなのである。
 崋山の「写生切近なれば俗套に陥り候… 乍去、風趣風韻を専に心得候得ば山水空疎の学に落」との主張は、西洋絵画の流入より受けたカルチャーショックを、自らの宿題である「写生」と「写意」、そして「気韻生動」の理念として、改めて問い直すものであり、アンチテーゼたる異質の美術概念を得て、伝統的な日本画をより高い極みに止場(アウフへーベン)しようといったその高邁な信念を示していると言える。(文星芸術大学 上野憲示稿)  ≫

崋山の「図取り」は単なるパクリにあらず。新たな至高の芸術世界の創出!―最晩年の入魂の優作「黄粱一炊図」、「月下鳴機図」―(「おもしろ日本美術3」No.12)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro12.html

≪ (抜粋)
 前に触れたように、写山楼の画家たちは、画面作りにあたって頭の中で練りあげる「構成画」としての東洋画の伝統を堅持し、そのための手段として、先人の名蹟に倣う「図取り」を積極的に行なってみずからの滋養としている。中国古画などから継承された伝統的なパターンや、新しい舶載画、来舶の画家の作品などの好ましい図様をそのまま利用するなど、先人の名蹟を参照する(言葉を替えればパクル)ことについては、手習いの常套として、現代人が意識するほどにはこだわりがなかったようである。
 「図取り」に際し、その消化の程度によって臨模と変わらないものから、すっかりこなれてその痕跡をもとどめないものまで千差万別で、文晁、崋山などは、臨模や、写本・粉本には「写山楼画本」「全楽堂文庫」などの押印をし、類似作にも「文晁摹印」「摹古」の印を添えるなど参照を公言し、その他の作家も摂取の段階に応じて良心的にその依り所を示している。
 そこで、崋山の図取りの例であるが、まず一つ、版本類から図取り採取した、『唐土名勝図會』(文化二年刊)の挿図にとった「黄粱一炊図」を挙げたい。
 「黄粱一炊図」は、蘆生という人物が、邯鄲の駅で休んでいる間に、立身出世の夢を見るが、目覚めると店の黄粱が未だ蒸し上らないつかの間のことでしかなかったという中国の故事を描くもので、店の結構を正面描写から斜め描写に変更したり、背景に奥行のある北画風の山水を配したりと工夫こそ見られるが、当時流布した「唐土名勝図會」(文化二年刊の改訂版<初版は享和三年刊で挿図の図様も異なる>)の、巻六・直隷の第三十六丁のウラがら第三十七丁のオモテにかけて掲載された、大原民聲(東野)の縮写になる「蘆生」の挿図(原画は明の画家朱端の作品か)から図取りをしたことは明らがである。文晁作品にも、背景こそ広くとるものの、挿図の図様にほぼそのままの蘆生の図があり、それに較べて、崋山画は図取りにおいても可能な限り創意工夫を施して独自の作品を生み出そうとの熱意が知れて快い。
 また、二つ目の例として、焦秉貞の手になる『佩文耕織図』(崋山直筆の写本も伝えられる)の諸図に材料を得た「月下鳴機図」が指摘できる。
 「月下鳴機図」は、多分に貼ぎ合せ的な画面作りになっていて、その基本は、中国の版本『佩文耕織図』(三冊)によるところが多い。『佩文耕織図』は、佩文斎すなわち清の四代皇帝聖祖康煕帝が、欽天監(天文台の役人)の焦秉貞に命じて、宋の模薄の腓織の詩を基に耕織図四十六幅を描かしめ、これを版本とさせたもの(康煕三十五年)。焦秉貞は、郎世寧、文啓蒙、壬致誠といった西洋の教士たちから仕事を通して西洋流の点透視の法を学んでおり、その透視図法を盛り込んだその図様は、異色の光彩を放っている。崋山は、恐らく四十歳以前と思われるが、かつてこの版本を克明に模写しており、天保二年の三ケ尻調査の報告書である「訪瓺録」の挿図の、三ケ尻近郊の描写が明らかに遠近法において相通じるものがあり(下宿図、上宿図など)、既にこの時点において自らのものとし得ているものと判断できる。「月下鳴機図」は、建物や渡り廊下といったその舞台となる建物の結構を、「織」第四図「大起」の図に採り、これに、「織」第十七図「織」の屋内で女性が織機を操っている図柄や、「織」第十八図「絡絣」の糸つむぎの老婆の姿を引用し、自らの構想で合成編集したものと判明する。遠景の家並も「耕」の諸図をヒントに得たものと考えたい。天保十一年二月二十九日と判断する海野豫助宛書簡に、「耕織の内耕は己に相竣、織は半出来に候処…早々に出来し上納可仕」とある織の図こそが本図であろう。(文星芸術大学 上野憲示稿)


崋山花鳥画に見る日本画の革新―写生と東洋画の伝統に依拠した構想画―(「おもしろ日本美術3」No.13)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro13.html

≪ (抜粋)
 渡辺崋山が常に携帯し、絶えず拝見・調査の機会を得た書画類を記録した、いわゆる客坐縮図冊には、その土地土地で寓目した小動物や花卉のクロッキー(生き写し)や、風景の活写(地取り)や民俗学的スナップ等が少なからず含まれている。それらが思いの他、本画制作に活用されていて、まさしく、古典や大家の作品の東洋画の伝統を経承しながらも実写生を績極的に制作の骨体とする崋山なりの絵画観が見てとれ興味深い。
 現在遠山記念館が所蔵する崋山花鳥画の名品「白鵞游魚図」は、そもそもが、「臣渡辺登謹写」とあるとおり、当初公命を受けて描き二本松侯に新宅祝いとして贈られ、その居間の襖貼り付けとなっていた二図で、のちに仙台の荒井泰治氏が求め双幅に改装、さらに個人分蔵となり、左幅が記念館に収蔵されたものと知れる。(明治末年刊『日本絵画全集』8崋山の相見香雨氏解説)
 基本は東洋花鳥画の官画系正統派の黄氏体に徐氏体を加味した高貴な様式を遵守し、「客座縮写乙酉第七 全楽堂」の実写生に準拠したものである。参照各図は、文政8年(1825)崋山33歳の暮(近くに12月23日の月日の頁あり)頃のものと思われる。
 同縮図冊の3ウ~4ウを活用。左図は3ウ上部の小図を基本に下部スケッチの顔貌などで形を調え、右図は3ウ・4オの見開き大図に3ウの黒い子鵞スケッチを左右逆にして重ねている。右図は鶏頭や稗、黄蜀葵などの秋草茂る水際での鳥の母子、左図は、鶏頭や海棠、稗の秋卉に囲まれた中、鵞鳥の親鳥の水面に浮かんでの羽つくろい。水中に渾南田風の鮒の親子が泳ぐ。
 なお、挿図5、6は、『翎毛虫魚冊』の巻末付近の迫力溢れる西洋犬のスケッチに依拠したことが判かる貴重な地取写生を本画に導いたまた一つの貴重な例である。本画は黒川古文化研究所自慢の崋山最晩年「随安居士」落款の「洋犬図」である。(文星芸術大学 上野憲示稿)≫

 ここで、渡辺崋山(1793-1841)の江戸時代後期の「日本画・東洋画(主として中国画)・西洋画「主として阿蘭陀画」の三区分、あるいは、「日本画(中国風を含む)・西洋画」との二区分で、渡辺崋山の画業全体を鳥瞰視すると、上記の論考は多くの示唆を与えてくれる。
 その一として、そのスタート地点の「草体画」(「当世風俗活写画」「俳諧画」「世情画」)、その二として、そのゴール地点の「構想画」などについて、その作品の幾つかにについて見ていきたい。
 さらに、その「草体画」から「構想画」(「写意」重視の「文人画」)に至る過程での、上記で抜粋した中で、「図取り」(これは「本歌取り」などと同一趣旨に解したい)、「地取り」(「風景の活写」=「写生)、さらに「構成画」(「写生」重視の「文人画」)、それらの基礎に位置する「写生・写意・気韻生動」などの理念などにも、間接的に考察していきたい。

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「一掃百態」その1

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「一掃百態」その2

≪ (一部抜粋)
『一掃百態』は、崋山が二十六歳の頃、僅か三日二夜で描き上げたという早描きの当世風俗スケッチ集。
 まず前段として古画から写し取ったという鎌倉期から江戸中期(元禄~元文、寛延~明和)までの典型的な風俗イメージ十頁を示し、そして後段、堰を切ったように自由闊達なストロークで同時代当世風俗を四十一頁に亙って活写する。初午灯籠絵の内職で慣らしてか下書きなしの卓抜なクロッキー・デッサンである。巧みな線画の上に淡彩が施され見栄えもよく、三通りの序文や後記のテキストも検討されていることもあり、時期を見て出版をと考えていたのであろう。狩野派が風俗画を描くことをやめ民間の俗工に委ねられて以来、世俗の風俗画を玩弄物と低くみるきらいが強く、崋山はこれに異議を唱えその効用をテキスト中に説いている。≫(渡辺崋山の草体画(1)―崋山渾身の当世風俗活写『一掃百態』―(「おもしろ日本美術3」No.5))

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左→『俳画譜』自序   右→『俳画譜』倣蕪村俳画
≪渡辺崋山の草体画(2)―崋山と洒脱なへたうま画の極み俳諧画―(「おもしろ日本美術3」No.6)≫

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校書図
≪渡辺崋山の草体画(3)―背景に天下泰平、江戸後期の洒落本・軟文学流行の世情―(「おもしろ日本美術3」No.7)≫
≪日本の美術(校書図:渡辺崋山の絵画世界)≫
https://j-art.hix05.com/32.2.kazan/kazan13.kousho.html
【 「校書」とは芸者のこと。中国の故事に、芸妓は余暇に文書を校正するという話があることに基づく。崋山といえば、謹厳実直な印象が強く、芸者遊びをするようには、とても思えないが、この図には、崋山らしい皮肉が込められている。
 画面左上に付された賛には、概略次のような記載がある。「髪に玉櫛金笄を去り、面に粉黛を施さず、身に軽衣を纏うて、恰も雨後の蓮を見るようだ」と。これに加えて、近頃は世が豪奢を禁じたと言う指摘あがる。つまりこの絵は、世の中が窮屈になって、芸者も質素な身なりを強いられていることを、揶揄しているとも考えられるのである。
 いわゆる天保の改革が本格化するのは天保十二年のことで、日本中に倹約精神が求められた。この絵が描かれたのは天保九年のことだから、まだ改革は本格化してはいなかったが、一般庶民への強制に先だって、芸者や河原ものへの抑圧は高まっていたようだ。そうした社会的な抑圧は、社会の底辺部にいるものから始まって、次第に一般庶民を巻き込んでいくものだ。崋山は、そうしたいやな時代の流れを敏感に受け取っていたのであろう。
 芸者は、腰を落として横ざまに座り、右手にもった団扇を口元にかざしている。この芸者にはモデルがいる。当時親孝行で話題となっていた品川の芸者お竹である。親孝行の芸者をモデルにするところに、崋山らしいこだわりが感じられる。
 (天保九年 絹本着色 110.2×42.5㎝ 静嘉堂文庫 重文) 】(校書図:渡辺崋山の絵画世界)

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左→ 「黄梁一焚図」(『唐土名勝圖會』の「蘆生」の「図取り」)
中央→「月下鳴機図」
右→ 「月下鳴機図」の図取り(中国の版本『佩文耕織図』(三冊)の「図取り」)
≪崋山の「図取り」は単なるパクリにあらず。新たな至高の芸術世界の創出!―最晩年の入魂の優作「黄粱一炊図」、「月下鳴機図」―(「おもしろ日本美術3」No.12)≫
≪日本の美術(月下鳴機図:渡辺崋山の絵画世界)≫
https://j-art.hix05.com/32.2.kazan/kazan19.gekka.html
【 「月下鳴機図」は、崋山最晩年、天保十二年の作である。おそらく求められて描いたのであろう。タイトルの「月下鳴機図」には、英明な君主の存在が暗示されているところから、田原藩主への捧げものかもしれない。
 この絵には手本がある。清の康熙帝が焦秉貞に命じて作らせた「佩文耕織図」である。これは耕織の様子を描いた四十余の図柄を版画に仕立てたもので、日本にも出回っていた。崋山は三十台のころ、その版画シリーズを入手して、模写をしている。
 この作品は、「佩文耕織図」のシリーズから、いくつかの図柄を選び出して、再構成したもの。そのため、構成上やや不自然なところがある。全体が一つの視点で統一されておらず、別々の視点から描かれたいくつかの図柄を単に同居させているような印象を与える。
 焦秉貞は西洋画の技法に通じていたといわれ、このシリーズの個々の作品には、一点消去法にもとづく西洋風の遠近感が指摘されるのであるが、それがこのように再構成されたことで、統一的な視点からの遠近感は見られなくなった。(天保十二年 絹本着色 127.9×56.9㎝ 静嘉堂文庫 重美)  】(月下鳴機図:渡辺崋山の絵画世界)

「月下鳴機図」(部分拡大図).jpg

「月下鳴機図」(部分拡大図)

 この「月下鳴機図」の手本とされている、清の宮廷画家「焦秉貞(しようへいてい)」の「佩文耕織図(はいぶんさいこうしょくず)」は、下記のアドレスの「国立国会図書館デジタルコレクション」で閲覧することが出来る。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/851448

「佩文斎耕織図」.gif

「佩文斎耕織図」(吾妻健三郎 編・「国立国会図書館デジタルコレクション」)の「コマ番号24・第十七図」(織)

 「月下鳴機図」(部分拡大図)の一番手前の左側の家屋の「織」の図は、上記の「コマ番号24・第十七図」(織)、同様に、右側(奥)の家屋は「コマ番号25・第十八図」(絡絲)、
そして、左側の家屋と右側(奥)の家屋とを結ぶ渡り廊下の家屋の図は、「コマ番号18・第四図」(大起)などをヒントにしていると、(「おもしろ日本美術3」No.12)では指摘している。

「佩文斎耕織図」・「耕」.gif

「佩文斎耕織図」(吾妻健三郎 編・「国立国会図書館デジタルコレクション」)の「コマ番号5・第二図」(耕)

 「月下鳴機図」(部分拡大図)の近景は、「佩文耕織図」の「織」図の諸図、そして、その中景は、上記の「コマ番号5・第二図」(耕)などの、その「耕」図の諸図を参考にしているように思われる。
そして、この近景と中景に関連して、(「おもしろ日本美術3」No.12)では、≪焦秉貞は、郎世寧、文啓蒙、壬致誠といった西洋の教士たちから仕事を通して西洋流の点透視の法を学んでおり、その透視図法を盛り込んだその図様は、異色の光彩を放っている。崋山は、恐らく四十歳以前と思われるが、かつてこの版本を克明に模写しており、天保二年の三ケ尻調査の報告書である「訪瓺録(ほうちょうろく)」の挿図の、三ケ尻近郊の描写が明らかに遠近法において相通じるものがあり(下宿図、上宿図など)、既にこの時点において自らのものとし得ているものと判断できる。≫と指摘している。

 この渡辺崋山が自刃した、天保12年(1841)に制作された、この絶筆ともいわれている、この「月下鳴機図」は、天保10年(1839)の、いわゆる「蛮社の獄」で、獄中の身となり、その生涯を掛けての故郷の土地ともいうべき「三河国(愛知県)田原藩(田原市)」の「池ノ原屋敷」に蟄居中の作品の一つなのである。
 そして、この作品の背後には、≪天保元年(1830)38 埼玉県尻に三宅氏遺跡を調査し、のちに「訪録」を書く。弟熊次郎亡くなる。≫の、上記の「天保二年の三ケ尻調査の報告書である「訪瓺録(ほうちょうろく)」の挿図の、三ケ尻近郊の描写が明らかに遠近法において相通じるものがあり(下宿図、上宿図など)」が横たわっている。

『訪瓺録』.gif

『訪瓺録』の絵図中、瓺尻(みかじり)村の「上宿」の図
https://blog.goo.ne.jp/shunsuke-ayukawa/e/558ee7b31d274b32757b30207a004fbe
≪ まず題名の『訪瓺録』の「瓺」とは「瓺尻村」(みかじりむら)のことで、当時、武蔵国幡羅(はたら)郡の南隅にあった村で、現在は埼玉県熊谷市三ヶ尻(みかじり)と言われる地域をさしています。
 この村は、田原藩主三宅家の先祖(藩祖)の三宅康貞が、天正18年(1590年)に徳川家康から最初に賜った領地でした。
 その後、康貞は関ヶ原の戦いで戦功を挙げ、瓺尻から挙母(ころも・現在の愛知県豊田市)1万石の領主に取り立てられて、やがて挙母から田原に移って、田原三宅家1万2千石の大名になりました。
 「訪瓺」とは、その藩祖(上祖)三宅康貞が家康から賜った最初の領地、瓺尻村を訪ねるということであり、その村を訪ねて、その調査を行った結果をまとめた記録(調査報告書)が、『訪瓺録』であるということです。
 崋山がこの瓺尻村を訪れたのは、天保2年(1831年)11月8日ないし9日から、おそらく11月28日あたりまでの約20日間ほどでした。その間に、瓺尻村の人々の協力を得ながら、康貞公に関係する旧跡や瓺尻村の地勢・風俗・物産などについて精力的に調査し、その記録を蓄積・整理していったのです。≫

 ここで、「崋山ファンタジー(幻想)」的に鑑賞していくと、この近景の「織図」は、崋山の現世の、蟄居中の≪「三河国(愛知県)田原藩(田原市)」の「池ノ原屋敷」≫周辺の近景ということになる。
そして、その中景は、藩主後継者として、その入嗣を一時拒み、後に年寄役末席(家老職)として仕える「田原藩第11代藩主、田原藩三宅家14代当主・三宅康直」(姫路藩藩主・酒井忠実(「酒井抱一」の実兄)の六男)の藩命により実地調査した「田原藩主三宅家の先祖(藩祖)三宅康貞」が、家康から賜った最初の領地「瓺尻(みかじり)村」(現在は埼玉県熊谷市三ヶ尻(みかじり)、当時は田原藩の「飛び地」の調査で、その調査記録は『訪瓺録』にまとめられている)、その崋山の田原藩士として大きな業績の一つとなっている「忘れ得ざる土地」の、その田園風景のイメージと連なってくる。
 これらの「近景」と「中景」とは、いわゆる、西洋画の「透視図法」の「遠近法」に因って描かれている。そして、その「遠景」は、いわゆる、東洋画の「山水之変」の「上遠下近(法)」に因っている。

「月下鳴機図」(部分拡大図「近景・中景・遠景」).jpg

「月下鳴機図」(部分拡大図「近景・中景・遠景」)

 東洋画(中国の「南画」)に連なる日本画(文人画)の、「盛行期の四大作家」の一人に目せられている「渡辺崋山」(他の三人は「浦上玉堂・青木木米・田能村竹田」)の、この絶筆の一つに目せられている、この「月下鳴機図」も、それを証しするように、その上段に、東洋画の「山水之変」の「上遠下近(法)」の「遠景」の「山水」の図柄が描かれている。
 そして、この下段の「近景」(「織」と「耕」の人家)と「中景」(その人家に連なる田園風景)と、この上段の「遠景」(山水図)との間に、朦朧とした雲海のような空間が、まるで、
「幽明境」(幽明境を異にする)の「あの世(来世)」=「遠景」と「この世(現世)」=「近景・中景」との、その「幽明境」のような趣のメッセージが伝わって来る。
 これを描き上げて、その年の十一日に、自刃して、その四十九年の生涯を閉じた。この上段の「遠景」(山水図)の左上部の「賛・落款」は、次のとおりである。

「月下鳴機図」(部分拡大図「賛・落款」).gif

「月下鳴機図」(部分拡大図「賛・落款」)

 この「賛・落款」には、その「自刃」に関わることは記されていないが、この冒頭の「青燈」の二字からも、「秋風白髪三千丈、夜雨青燈五十年」(〔韋応物‐寺居独夜寄崔主簿詩〕)のメッセージが伝わってくる。
 崋山の自刃は、「己と己の家族」の故というよりも、「己が仕えた田原藩の藩主に責任が及ぶことを恐れて」のものであったことは、その数通の「遺書」から読み取れてくる。
 それらの「遺書」の、「自筆遺書(渡辺立宛)」のものは、次のとおりである。これらのことについては、下記のアドレスのものが参考となる。

https://www.kazankai.jp/kazan_lifetime.php
【  崋山の最期
 蟄居中の崋山一家の生活を助けるため、門人福田半香らは崋山の絵を売る義会を始めました。崋山は作画に専念し、「于公高門図」「千山万水図」「月下鳴機図」「虫魚帖」「黄粱一炊図」など次々と名作を描きました。しかし、その活動により、天保12年(1841)夏の頃から「罪人身を慎まず」と悪評が起こり、藩主に災いの及ぶ事をおそれた崋山は死を決意しました。「不忠不孝渡邉登」と大書し、長男立へ「餓死るとも二君に仕ふべからず」と遺書して切腹し、49年の生涯を終えました。 】(『財団法人 崋山会』(愛知県田原市)

自筆遺書(渡辺立宛).gif

自筆遺書(渡辺立宛)

≪ 悴へ
 御祖母樣御存中は何卒御機嫌能孝行を盡べし其方母不幸之もの又孝行
  盡べし
餓死るとも二君に仕ふべからず
  月  日
  不忠不孝之父
       登
 渡邊立どの
  姉弟之事は存寄次第  ≫

 この「自筆遺書(渡辺立宛)」については、下記のアドレスに因っている。

http://sybrma.sakura.ne.jp/273watanabekazan.isyo.html

 上記の「自筆遺書(渡辺立宛)」を読み解くためには、上記のアドレスの注記により、崋山が自刃したときの、家族の状況が一目瞭然となってくる。

≪渡辺立どのあて
  御祖母樣……崋山の母。70歳。
  其方母……崋山の妻、たか。35歳。
  立……長男。10歳。
  姉弟……姉かつ、16歳。弟諧(かなう)、7歳。≫

 ここで、上記のアドレスにより、一連の「渡辺崋山の遺書」を列記して置きたい。

≪遺書 渡邊崋山
一筆啓上仕候私事老母優養仕度より誤て半香義會に感三月分迄認跡は二半に相成置候處追々此節風聞無實之事多必災至り可申候然る上は主人安危にもかゝはり候間今晩自殺仕候右私御政事をも批評致しながら不愼の義と申所落可申候必竟惰慢不自顧より言行一致不仕之災無相違候是天に非自取に無相違候然ば今日の勢にては祖母始妻子非常之困苦は勿論主人定て一通には相濟申まじくや然れば右の通相定め候定て天下物笑ひ惡評も鼎沸可仕尊兄厚御交りに候とも先々御忍可被下候數年之後一變も仕候はゞ可悲人も可有之や極秘永訣如此候頓首拜具
  十月十日
  ゝ(注:ゝ…崋山の別号「主一」の「主」の点をとったもので、崋山の隠号。)
椿山老兄 御手紙等は皆仕舞申候 ≫

≪拙者事不愼ニテ上ヘ御苦勞相カケ候テハ恐入候間今晩自殺致候御母樣ヘ對シ申譯無之不忠不孝ノ名後世ニノコリ何トモ其許ニモ申譯無之サゾサゾ後ニ御困難可被成候間必死御救申上候樣頼存候茂兵衛喜太郎ナドヘモ宜敷此樣ネル書ハ涙ノタネ故略シ申候頓首
  十月十日
助右衛門樣   ≫

≪拙者今般自殺致候譯ハ半香ノ義會ヨリ事起リ御調ニモ相成可申左候時ハ主人安危ニモ相拘リ可申ト右之通相決申候定テアクゾウモクゾウ御引出シ天下ニカケ可申樣相成可申候コヽニ於テ尊兄等面ヲ汚スガ如ク相成可申御友朋中甚痛心仕候老母妻子モ一通ナラザル事ト察シ當分不被容樣ニモ相成可申哉尊兄竊ニ御憐愛願候何ニ致セ自取義致方無之永訣如此候頓首
  十月十日
金子樣(注: 金子……金子武四郎。崋山の門人で、当時水戸藩士。) ≫

≪ 定平樣ヘ
私儀多分蒙御疑ヲ候樣奉存候間今般自殺仕候何卒世中震然致老母妻子御救ハ十分御出來被成間敷候得共密々御憐愛奉願候眞木樣生田樣二郎樣其外樣ヘモ是迄ノ御禮厚奉願候永訣
 十日   ≫

(追記一)「渡辺崋山年表」(一部抜粋)
https://www.kazankai.jp/kazan_history.php

寛政5年(1793)1  9月16日、江戸麹町田原藩上屋敷に生まれる。
寛政7年(1795)3  妹茂登生まれる。
寛政9年(1797)5  この年、軽い天然痘にかかる。
寛政12年(1800)8 若君亀吉のお伽役(おかやく)になる。妹まき生まれる。
享和元年(1801)9  最初の絵の師、平山文鏡(田原藩士)亡くなる。
享和3年(1803)11 弟熊次郎生まれる。
文化元年(1804)12 日本橋で備前侯行列に当り、乱暴を受け発奮(はっぷん)する。
文化2年(1805)13 鷹見星皐に入門し、儒学を学ぶ。弟喜平次生まれる。
文化3年(1806)14 若君元吉(後の康和)のお伽役になる。
文化4年1807)15  弟助右ヱ門生まれる。
文化5年(1808)16 絵師白川芝山に入門する。星皐より華山の号を受ける。藩主康友に従って田原に滞在する。
文化6年(1809)17 金子金陵に絵を学ぶ。金陵の紹介により谷文晁に絵を学ぶ。
文化7年(1810)18 田原に藩校「成章館」創立。妹つぎ生まれる。
文化8年(1811)19 佐藤一斎から儒学を学ぶ。
文化10年(1813)21 妹つぎ亡くなる。
文化11年(1814)22 納戸役になる。絵事甲乙会を結成し、画名が世に知られる。
文化13年(1816)24 弟五郎生まれる。
文化14年(1817)25 父定通、家老となる。
文政元年(1818)26  正月、藩政改革の意見を発表。長崎遊学を希望したが父の反対のため断念する。「一掃百態図」を描く。 藩主康友に従って田原に滞在する。
文政2年(1819)27  江戸日本橋百川楼で書画会を開く。
文政6年(1823)31  和田たかと結婚する。「心の掟」を定める。
文政7年(1824)32  7月、家督する。父定通亡くなる。
文政8年(1825)33  この年から松崎慊堂に儒学を学ぶ。
文政9年(1826)34  江戸宿舎にてオランダ使節ビュルゲルと対談。長女可津生まれる。
この頃から画号「華山」を「崋山」と改める。
文政10年(1827)35 10月、三宅友信に従い田原に来る。
文政11年(1828)36「日省課目」を定め修養に努める。側用人となり、友信の傅を兼ねる。
文政12年(1829)37 三宅家家譜編集を命ぜられる。弟喜平次亡くなる。
天保元年(1830)38 埼玉県尻に三宅氏遺跡を調査し、のちに「訪録」を書く。弟熊次郎亡くなる。
天保2年(1831)39 江戸藩邸文武稽古掛指南世話役となる。妹まき亡くなる。9月から門弟高木梧庵を伴い厚木を旅し「游相日記」を書き、10月、桐生、足利、尻地方に旅し「毛武游記」を書く。
天保3年(1832)40 家老となる。紀州藩破船流木掠取事件、助郷免除事件あり。長男立生まれる。
天保4年(1833)41 1月、家譜編集などのため田原に来て、「参海雑志」を書く。
天保5年(1834)42 幕命の新田干拓中止の願書を上申。農学者大蔵永常を田原藩に招く。
天保6年(1835)43 報民倉竣工。二男諧(後の小華)生まれる。
天保7年(1836)44 田原地方が大飢饉になる。
天保8年(1837)45 真木定前を田原に遣し、飢餓を救う。年末、無人島渡航を藩主に願うが許されず。鷹見泉石像」を描く。弟五郎亡くなる。
天保9年(1838)46 年初、「退役願書稿」を書く。蔵書画幅を藩主に献上する。「鴃舌或問」、「慎機論」を著す。儒者の伊藤鳳山を田原藩に招く。
天保10年(1839)47 江戸湾測量で伊豆の代官江川坦庵に、人材器具を援助する。5月14日、蛮社の獄により北町奉行所揚屋入りとなる。12月18日、田原蟄居の申渡しを受ける。
天保11年(1840)48 1月20日、田原着。2月12日、池ノ原屋敷に蟄居。
天保12年(1841)49 10月11日自刃する。

(追記二)渡辺崋山著・鈴木清節編『崋山全集』全2巻(崋山会)
http://kenkyuyoroku.blog84.fc2.com/blog-entry-1179.html

第1巻 1910.12.30

渡辺家略系図…………1頁
慎機論…………4頁
鴃舌或問…………12頁
西洋事情御答書…………35頁
和蘭陀風説書…………46頁
江川太郎左衛門に寄せし書簡…………48頁
江川太郎左衛門へ奥山弘平を紹介せし書簡…………51頁
星巌書簡…………52頁
江川太郎左衛門へ寄せし書簡…………53頁
斉藤弥九郎へ寄せし書簡…………54頁
斉藤弥九郎へ寄せし書簡…………55頁
斉藤弥九郎へ寄せし書簡…………55頁
麹町一件日録(椿山記)…………57頁
 崋山書簡…………67頁
 崋山書簡…………72頁
 上野御声掛願書案…………76頁
 崋山書簡…………81頁
 崋山書簡…………89頁
春山より獄中の崋山へ送りし密書…………91頁
獄中より椿山に寄せし密書…………99頁
獄中より椿山に寄せし密書…………101頁
高野長英獄中より立原杏所へ寄せし密書…………104頁
獄中より江川太郎左衛門へ寄せし密書…………106頁
崋山の口書…………108頁
松崎慊堂の上書…………124頁
申渡之書(幕府の宣告)…………132頁
松崎慊堂へ寄せし書簡…………134頁
田原到着後松崎慊堂へ寄せし書簡…………136頁
使相録…………139頁
四州真景紀行之部…………147頁
守字の解…………155頁
真木重郎兵衛へ寄せし八勿の書簡…………159頁
椿山に与へし書簡(養生論)…………161頁
復統に関する真木と往復書簡…………163頁
 定前より崋山への返書…………163頁
 崋山より定前への返書…………165頁
 定前より崋山への返書…………167頁
 崋山より定前への書翰…………168頁
 同書翰…………171頁
 定前より返書…………172頁
 崋山より返書…………173頁
 定前より返書…………176頁
真木定前上書…………179頁
 其一…………179頁
 其二…………184頁
真木宛書簡…………186頁
 其一…………186頁
 其二…………191頁
 其三…………198頁
 其四…………201頁
 其五…………202頁
 其六…………203頁
 其七…………206頁
 其八…………208頁
 其九…………210頁
 其十(深考篇)…………211頁
助郷に関する書簡…………212頁
領民へ諭告…………213頁
凶荒心得書…………216頁
退役願書…………226頁
進書趣意書…………236頁
進書目録…………238頁
守困日歴…………249頁
椿山へ与へし書簡(草虫帖)…………272頁
同手翰…………275頁
同手翰…………276頁
絵事問答…………277頁
佐藤信淵より江川英竜に寄せし書簡…………299頁
村上定平に与へたる書簡…………301頁
真木重郎兵衛に寄せし書簡…………303頁
茂兵衛宛書簡…………307頁
おもと喜太郎宛書簡…………309頁
遺書
 長男立へ宛てたる遺書…………311頁
 実弟助右衛門に宛てたる遺書…………312頁
 金子武四郎に宛てたる遺書…………313頁
 椿山に宛てたる遺書…………313頁
附録
 崋山先生略伝(三宅友信記)…………314頁

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991621/4
(「国立国会図書館デジタルコレクション」) → 「崋山全集(第一巻)」

第2巻 1915.1.15

渡辺家年譜…………1頁
訪瓺録…………33頁
毛武游記…………83頁
游相日記…………142頁
参海雑志…………176頁
兇荒御取計之事…………199頁
助郷免除歎願書…………213頁
助郷一件に付同僚に寄せし書…………215頁
暴風高浪被害届書案…………216頁
巣鴨公に贈りし書簡…………217頁
岡見某に贈りし書簡…………220頁
某氏に与へし書簡…………221頁
 其一…………221頁
 其二…………224頁
 其三…………225頁
 其四…………226頁
鈴木春山に与へし書簡…………229頁
 其一…………229頁
 其二…………229頁
 其三…………230頁
村上定平に贈りし書簡…………233頁
春山より定平に送りし書簡…………235頁
真木重郎兵衛に送りし書簡…………236頁
 其一…………236頁
 其二…………240頁
 其三…………242頁
 其四…………244頁
 其五…………246頁
川登又次郎への書状…………247頁
桐生岩本氏への書状…………248頁
佐藤半助への書状…………249頁
立原杏所よりの書状…………250頁
椿山への書状…………251頁
崋山の父定通が桐生岩本氏に寄せたる書簡…………252頁
椿山田原へ墓参し帰府後の書簡…………253頁
椿山より崋山に贈りし書簡…………256頁
季弟五郎より崋山に送りし書簡…………258頁
崋山より弥太夫への書状…………262頁
立原より椿山への書状…………263頁
幽居中の書簡…………263頁
 其一…………263頁
 其二…………265頁
 其三…………266頁
 其四…………270頁
 其五…………272頁
 其六…………276頁
 其七…………287頁
詩文…………289頁
 一掃百態序文…………289頁
 江戸名所図絵跋…………290頁
 熊沢蕃山伝…………291頁
 題自画…………292頁
 題蘭竹図…………293頁
 題美人図…………293頁
 題画竹…………294頁
 題赤壁之図…………294頁
 題機女之図…………294頁
 題画山水…………295頁
 同…………295頁
 同…………295頁
 同…………295頁
 題桃之図…………295頁
 題錦鱗青蓮之図…………296頁
 題黠鼠食葡萄之図…………296頁
 題水仙之図…………296頁
 偶成…………296頁
 同…………296頁
 贈村松太夫…………297頁
 与春山…………297頁
 幽居…………297頁
 同…………298頁
 題富士山之図…………299頁
弔詞を贈りし人への礼状…………299頁
田畯年中行事序(佐藤信淵)…………302頁
客坐録…………322頁
客坐掌記(其一)…………328頁
同(其二)…………341頁
狂歌…………361頁
俳句…………362頁
和歌…………364頁
門田の栄…………366頁
つづれの錦…………386頁

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898681
(「国立国会図書館デジタルコレクション」) → 「崋山全集(第二巻)」

(追記三)「山水之変」: 中国絵画における奥行き表現の古典様式(河野道房稿)
「同志社大学人文学会」
http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000015576

(追記四)「渡辺崋山とその家族」(田原市博物館:特別展目録)

(追記五)「図版要項 崋山筆所歓校書図[東京 岩崎小弥太氏蔵]
http://id.nii.ac.jp/1440/00007291/

(追記六)「構想画について」(鳥取大学 大勝恵一郎稿)

(追記七)「青木繁の構想画に見る日欧の美術潮流―壁画的性格をめぐって―」(橋沙希稿)
http://hdl.handle.net/10112/6139

(追記八)「渡辺崋山の描いたランプについて」(大谷勝治郎稿)

(追記九)「桂川甫賢筆長崎屋宴会図について」(松田清稿)
http://id.nii.ac.jp/1092/00001662/

(追記十)「川原慶賀考(一)」(陰里鉄郎稿)
http://id.nii.ac.jp/1440/00006427/

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