SSブログ

日本画と西洋画との邂逅(その十八) [日本画と西洋画]

(その十八)「西洋人(シーボルト)」と「日本人(川原慶賀)」との協同創作管見

川原慶賀「長崎港ずブロンホフ家族図」.jpg

「長崎港図・ブロンホフ家族図」≪川原慶賀筆 (1786-?)≫ 江戸時代、文政元年以降/1818年以降 絹本著色 69.0×85.5 1基2図 神戸市立博物館蔵
題記「De Opregte Aftekening van het opper hoofd f:cock BIomhoff, Zyn vrouw en kind, die in Ao1818 al hier aan gekomen Zyn,」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/455049
【 衝立の両面に、19世紀に長崎の鳥瞰図と、オランダ商館長コック・ブロンホフとその家族の肖像が描かれています。この衝立は、作者の川原慶賀(1786-?)がシーボルトに贈呈したものの、文政11年(1828)のシーボルト事件に際して長崎奉行所によって没収されたという伝承があります。その後長崎奉行の侍医・北川家に伝来した。昭和6年(1931)に池長孟が購入しました。
現在のJR長崎駅付近の上空に視座を設定して、19世紀の長崎とその港の景観を俯瞰しています。画面左中央あたりに当時の長崎の中心部、唐人屋敷・出島・長崎奉行所が描かれ、それをとりまく市街地の様子も克明に描かれています。

 この衝立の片面に描かれているブロンホフ家族図には、慶賀の款印(欧文印「Toyoskij」と帽子形の印「慶賀」)が見られる。コック・ブロンホフは文化6年(1809)に荷倉役として来日。文化10年のイギリスによる出島奪還計画に際し、その折衝にバタビアへ赴き、捕らえられイギリスへ送られたました。英蘭講和後、ドゥーフ後任の商館長に任命され、文化14年に妻子らを伴って再来日。家族同伴の在留は長崎奉行から許可されず、前商館長のヘンドリック・ドゥーフに託して妻子らはオランダ本国に送還されることになりました。この話は長崎の人々の関心を呼び、本図をはじめとする多くの絵画や版画として描かれました。

来歴:(シーボルト→長崎奉行所?)→北川某→1931池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:
・神戸市立博物館『まじわる文化 つなぐ歴史 むすぶ美―神戸市立博物館名品撰―』図録 2019
・神戸市立博物館特別展『日本絵画のひみつ』図録 2011
・神戸市立博物館特別展『コレクションの精華』図録 2008
・勝盛典子「プルシアンブルーの江戸時代における需要の実態について-特別展「西洋の青-プルシアンブルーをめぐって-」関係資料調査報告」(『神戸市立博物館研究紀要』第24号) 2008
・神戸市立博物館特別展『絵図と風景』図録 2000 】(「文化遺産オンライン」)

「シーボルト・川原慶賀」関連年表
https://www.city.nagasaki.lg.jp/kanko/820000/828000/p009222.html
(「川原慶賀」関連=「ウィキペディア」)

※1786年(天明6)川原慶賀生まれる(長崎の今下町=現・長崎市築町)。
1796年(寛政8)2月17日、シーボルト、ドイツのヴュルツブルクに生まれる
※1811年(文化8)川原慶賀当時の長崎で絵師の第一人者として活躍していた石崎融思に師事し、頭角を現す。
1820年(文政3)シーボルト、ヴュルツブ、ルク大学を卒業(24歳)
1822年(文政5)シーボルト、オランダの陸軍外科少佐になる(26歳)
1823年(文政6)シーボルト、長崎に来る(27歳)
※慶賀は日本の動植物等を蒐集し始めたシーボルトの注文に応じ、『日本』という本の挿絵のために精細な動植物の写生図を描く。
1824年(文政7)シーボルト、「鳴滝塾」をひらく(28歳)
1826年(文政9)シーボルト、江戸参府(30歳)
※慶賀はオランダ商館長の江戸参府にシーボルトに同行し道中の風景画、風俗画、人物画等も描く。
1827年(文政10)シーボルト、娘いね生まれる(31歳)
1828年(文政11)「シーボルト事件」おこる(32歳)
※シーボルト事件に際しては多数の絵図を提供した慶賀も長崎奉行所で取り調べられ、叱責される。
1829年(文政12)シーボルト国外追放になる(33歳)
※シーボルトの後任となったハインリヒ・ビュルゲルの指示を受け、同様の動植物画、写生図を描く。
1832年(天保3)シーボルト、「日本」刊、行はじまる(36歳)
1833年(天保4)シーボルト、「日本動物誌」刊行はじまる(37歳)
1835年(天保6)シーボルト、「日本植物誌」刊行はじまる(39歳)
※1836(天保7)『慶賀写真草』という植物図譜を著す。
※1842(天保13)オランダ商館員の依頼で描いた長崎港図の船に当時長崎警備に当たっていた鍋島氏(佐賀藩)と細川氏(熊本藩)の家紋を描き入れた。これが国家機密漏洩と見做されて再び捕えられ、江戸及び長崎所払いの処分を受ける。
※1846(弘化3)長崎を追放されていた慶賀は、長崎半島南端・野母崎地区の集落の1つである脇岬(現・長崎市脇岬町)に向かい、脇岬観音寺に残る天井絵150枚のうち5枚に慶賀の落款があり、50枚ほどは慶賀の作品ともいわれる。また、この頃から別姓「田口」を使い始める。その後の消息はほとんど不明で、正確な没年や墓も判っていない。ただし嘉永6年(1853年)に来航したプチャーチンの肖像画が残っていること、出島の日常風景を描いた唐蘭館図(出島蘭館絵巻とも)は開国後に描かれていること、慶賀の落款がある万延元年(1860年)作と推定される絵が残っていることなどから少なくとも75歳までは生きたとされている。一説には80歳まで生きていたといわれている(そうなると慶応元年(1865年)没となる)。
1859年(安政6)シーボルト再び長崎に来る(63歳)
1861年(文久元)シーボルト、幕府から江戸に招かれる(65歳)
1862年(文久2)シーボルト、日本をはなれる(66歳)
1866年(慶応2)10月18日、シーボルト、ドイツのミュンヘンで亡くなる(70歳)

唐蘭館絵巻(蘭館図)蘭船入港図.jpg


「唐蘭館絵巻(蘭館図)(一)蘭船入港図」川原慶賀筆 19世紀 長崎歴史文化博物館蔵 
http://www.nmhc.jp/collection.html
【 出島オランダ商館医シーボルトの専属絵師として活躍した川原慶賀の作品は、その多くが西洋へ伝えられ、ニッポンを海外に紹介しました。慶賀の作品は、日本の風景や生活、動植物などを写実的に描いており、当時の状況を知ることができる貴重な資料です。】(「長崎歴史文化博物館」)

 この「唐蘭館絵巻(蘭館図)(一)蘭船入港図」は、川原慶賀の晩年の作品(嘉永6年(1853年)に来航したプチャーチンの肖像画を描いた前後の作品)と解せられるが、ここに描かれている、望遠鏡で「蘭船を眺めるのはシーボルト」、そして、その背後の「女性と子供」は、当時の「シーボルトの日本人妻・お滝」、そして、その子は、二人の一粒種の「お稲」ではないかとされている。

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0611/index1.html
【 蘭船を眺めるのはシーボルト?
 待ちに待った蘭船の到来! 屋上の展望台の上で入港してくる蘭船を望遠鏡で覗き込んでいるのは、商館長だろうか? 実はこの男性の背後に子どもを抱いた日本人女性がいることから、この望遠鏡を覗いているのはシーボルトで、日本人女性はお滝、子どもがお稲ではないかといわれている作品だ。慶賀が描いた作品だから、それもあり得るかもしれない?】
(「発見!長崎の歩き方」)

シーボルトの家族.jpg

「フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト関係資料」.jpg

「フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト関係資料」(国指定重要文化財・シーボルト記念館蔵)
https://www.city.nagasaki.lg.jp/shimin/190001/192001/p000567.html
≪わが国近代医学の発展に多大の功績を残したシーボルトとその娘イネの関係資料19件44点で、主にシーボルトの子孫である楠本家、米山家などから寄贈されたものである。 主なものに、 シーボルト妻子像螺鈿合子(1合)、シーボルト書状(13通)、シーボルト処方箋(6通)、シーボルト名刺(1枚)、ポンペ書状(1通)、蘭語文法書(1冊)、いね和蘭文請取状(1通)、薬籠(1合)、花鳥螺鈿小箱(1合)、化粧道具小箱(1合)、革鞄(1箇)、短銃(1挺)、眼球模型(1基)、いね宮内省御用係関係書類(9通)、福沢諭吉いね推薦状(1通)、いね臍の緒書(1通)、いね遺言状(1通)、懐中紙入(1箇)などがある。≫(「長崎市」)

シーボルト嗅ぎ煙草入れ合子.jpg

「シーボルト妻子像(妻・滝と娘・イネ) 螺鈿合子(ごうす・ごうし)」(下絵:川原慶賀筆?)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/159661
≪「フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト関係資料」(重要文化財、シーボルト記念館蔵)
(解説) フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796~1866)は、オランダ商館付医員、オランダ商事会社顧問として二度来日し、その間に日本の歴史、地理、風俗等の研究に努める一方、鳴滝塾を開き洋学発展に貢献した。このようなシーボルトの遺品として、書状、処方箋、名刺等が伝わるが、特に第1回の離日に際して作られた妻子像螺鈿合子は、日本に対する心情を伝えた遺品である。≫(「文化遺産オンライン」)

https://shibayan1954.blog.fc2.com/blog-entry-59.html
≪ 長崎市の鳴滝2丁目に『シーボルト記念館』があり、そこに国の重要文化財に指定されている「シーボルト妻子像螺鈿合子」が常設展示されているようだ。
瀧とイネの像を蓋の表裏に青貝で細工したものなのだが、シーボルトはわが国を追放された後、30年後に再来日するまでこれを肌身離さず持っていたという。そして再来日した時に瀧と再会し、この合子を瀧に手渡したのだそうだ。
 直径11cmの小さな合子だが、よく見ると瀧とイネの着ている紫色の着物には家紋が描かれている。これはシーボルト家の家紋で「メスを持った手」を表しているのだそうだ。シーボルト家はドイツ医学界の名門で、祖父の代から貴族階級に登録されていたシーボルト家らしい図柄である。次のURLの「19世紀輸出漆器の意匠に見る文化交流の考察」という論文のp.14にこの合子の拡大写真がでている。   ≫

 上記の「19世紀輸出漆器の意匠に見る文化交流の考察」の他に、次のアドレスの論考でも、「コック・ブロムホフとシーボルトの関係資料」の、この「嗅ぎ煙草入れ(合子の表裏の蓋に描かれている青貝螺鈿細工の肖像画)」周辺について考察されている。

https://cir.nii.ac.jp/crid/1390853649781418624
「研究資料 伏彩色螺鈿再考―技法と史的資料から(勝盛典子稿)」

「シーボルトが滝に宛てた手紙」(カタカナ一).gif

「シーボルトが滝に宛てた手紙」(長崎歴史文化博物館蔵)
https://www.at-nagasaki.jp/feature/gaikokujinn/siebold/
≪ オランダ商館長の願い出により国外追放を解かれたシーボルトは、安政6年(1859)、オランダ貿易会社顧問の肩書で、再び来日を果たしました。帰国後、別の女性と結婚していたシーボルトは、その女性との間に生まれた長男・アレクサンダーを伴っていました。長崎に着いたシーボルトは、滝やイネ、そしてかつての門弟と再会。鳴滝の住宅は人手に渡っていましたが、これを買い戻して長崎における日本研究の拠点としました。文久2年(1862)、シーボルトは再び日本を離れますが、彼の日本研究は1866年にミュンヘンで70歳で死去する直前まで続けられたことから、シーボルトの日本に対する想いや情熱をうかがい知ることができます。また、国内においては、鳴滝塾門下生や、シーボルト滞在中に彼の知見にふれた学者などにより、西洋の先端科学に対する関心が大いに高まることになりました。現在、シーボルトが収集した日本コレクションの多くは、オランダのライデン国立民族学博物館など、ヨーロッパ各地の博物館に収蔵されています。≫

 この「シーボルトが滝に宛てた手紙」は、シーボルトが国外追放となり、1830年(文政13・天保元)の1月3日(文政12年12月29日)に日本を離れ、その年の「12月23日付け」の居住地とした「オランダ・ライデン」から、長崎の「妻・滝と娘・イネ」宛の「カタカナの手紙」なのである(『シーボルト父子のみた日本-生誕200年記念』)。
 これが書かれている便箋は、日本より持ち帰った「和紙」の便箋のようで、ここに描かれている着色された「草花」の図柄は、「1835年(天保6)シーボルト、「日本植物誌」刊行はじまる」の、その「シーボルト(下絵?)・川原慶賀(緻密画=ボタニカルアート)?」などと、深く関係しているようにも思えてくる。
 なお、「シーボルトの国外追放」後の、日本に残された「妻子(滝とイネ)」と、そして、「シーボルト」周辺については、下記のアドレスのものが参考となる。

https://ameblo.jp/aqgel/entry-10042407905.html
≪〇 お滝といねのその後。

 シーボルトは、弟子の二宮敬作や高良斎らに、お滝といねを任せていた。そしてその後、お滝といねは、彼女らの伯父の家に世話になることになった。
 お滝は此処でシーボルトからの手紙を受け取った。その翻訳は、弟子の高良斎がやったという。お滝は、天保元年(1830)11月15日付けで返信を出している。
 シーボルトは、国へ帰って直ぐにお滝宛に手紙を出している。そしてそれは長崎のオランダ商館員を通じて、いつでも自由にお滝との文通は出来たのであった。
 シーボルトは追放により帰国させられる時に、彼女たちのこれからの生活費として、銀10貫目を渡して行ったという。お滝はこれをコンプラ仲間(遊女の斡旋をしていた仲間)に預けて、利子として毎月、銀150匁を得ていたと言う。
 今の金で年間100万円以上に相当すると言う。当時ならば母子2人の生活は何とかなった。当時の長崎では、外人の女となって子も出来て、男には帰国されてしまって、後は世人の物笑いの種になっている女は随分といた。しかしお滝は、蘭学者であったシーボルトの名を辱めることも無く、母子共につつましく暮らしを立てていたのであった。

〇開国後、涙、涙の対面。

 お滝は、シーボルトに帰国された2年後に、いねを連れて再婚をした。お滝25才、いね5才のときであった。夫となった男は商人で、俵屋時次郎といい好人物で、混血児のいねにも、優しかったという。
 一方、シーボルトは、帰国後も15年間独身でいたという。(お滝の再婚は、手紙で知らされたであったろうから、学術・研究の方が忙しかったのか、それともお滝のように、心のやさしい女は自分の国の方にはいなかったのか?)
 でもその後、1845年(弘化2年、ペリー来航の8年前)に、ベルリンでヘレーネ・イダ・カロリーネ・フォン・ガーゲルンという娘と結婚をした。これで自然とお滝との、手紙のやりとりも途絶えた。
 娘のいねは成長と共に、学問を好んで、オランダ語の勉強に励んで、19才のときに、シーボルトの弟子であった二宮敬作の門下生となって、外科と産婦人科とを学んで女医となったのであった。
 1859年(安政6年、幕府は神奈川・長崎・函館を開港)の8月14日、シーボルトはなんと再び長崎の地を踏んだのであった。そしてその翌日、オランダ商館長の家で、シーボルトとお滝といねは、30年ぶりで再会を果たしたのであった。シーボルトは、涙に咽んで、言葉にならなかったと言い、お滝は、その場に泣き崩れて、これも言葉にはならなかったという。
 時にシーボルト64才、お滝53才、お稲33才であったという。 ≫

 ここで、≪「西洋人(シーボルト)」と「日本人(川原慶賀)」との協同創作≫ということについては、上記の年表(下記に再掲)の、「日本」・「「日本動物誌」・「日本植物誌」などにおける、二人の「協同創作」という視点からの管見ということに他ならない。

【(再掲)

1832年(天保3)シーボルト、「日本」刊行はじまる(36歳)
1833年(天保4)シーボルト、「日本動物誌」刊行はじまる(37歳)
1835年(天保6)シーボルト、「日本植物誌」刊行はじまる(39歳) 】

 この≪シーボルト『NIPPON』 図版編≫については、下記のアドレスで閲覧することが出来る。

http://www.lib.pref.fukuoka.jp/hp/gallery/nippon/nippon-top.html
「シーボルト『NIPPON』 図版編」(福岡県立図書館ふくおか資料室)
≪『NIPPON』の副題に「日本とその隣国、保護国-蝦夷・南千島列島・樺太・朝鮮・琉球諸島-の記録集。日本とヨーロッパの文書および自己の観察による。」とあります。ドイツ人医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが、その生涯を賭けた日本に関する著作物の一つです。
 シーボルトは、長崎出島の商館付き医師として来日し、日本人に医学その他の科学を教えるかたわら、多くの資料を収集し、持ち帰り、整理して、国王ヴィルへルム2世の援助を受けて、1832年から51年にかけてオランダのライデンから自費出版しました。当初は、図版をカラー版と白黒版で価格差を付け、20回配本の予約出版で刊行しています。全点刊行終了後、各人が好きな細工を施した装丁で製本し、蔵書としたのですが、「NIPPON」の場合、20年をかけての分冊配本のため完全版は今以て不明で書誌学的には「天下の奇書」とも言われています。
 その内容は、日本の地理、歴史、風俗などから、人種、言語、動植物そのほか百般に渉って詳細に記述され、西欧での日本研究の基礎となった文献です。
 当館では、大正7年の創立開館記念収蔵として、初代館長伊東尾四郎が財界の援助を受けて入手した、本文3冊、カラー版を含む図版編2冊の洋皮装丁豪華製本版を所蔵しています。
 ここでは、当館所蔵の『NIPPON』図版編を第1冊、第2冊に分けて公開しています。また、図版のタイトル一覧からも画像をご覧いただけます。≫

 また、この「日本動物誌」と「日本植物誌」とについては、下記のアドレスで、その全貌を知ることが出来る。

https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/classification/nat-hist
≪『日本植物誌』(シーボルト ; ツッカリーニ)1835-1870 【理学部植物学教室所蔵】
Flora Japonica, sive, Plantae quas in Imperio Japonico collegit, descripsit, ex parte in ipsis locis pingendas curavit Dr. Ph. Fr. de Siebold / Philipp Franz Balthazar von Siebold ; Joseph Gerhard Zuccarini (RB00000001)

『日本動物誌』(シーボルト)1833-1850 【理学部動物学教室所蔵】
Fauna Japonica, sive descriptio animalium, quas in itinere per japoniam,jussu et auspiciis superiorum, qui summum in India Batavia Imperium tenent suscepto, annis 1823-1830 collegit, notis observationibus et adumbrationibus illustrabit / Philipp Franz Balthazar von Siebold (RB00000002, RB00000003, RB00000004, RB00000005)≫(「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」)

 ここでは、これらのダイジェスト的な、そして、「西洋人(シーボルト)」よりも「日本人(長崎の絵師・川原慶賀)」に焦点を当てている、次のアドレスの「川原慶賀の見た江戸時代の日本」( 長崎歴史文化博物館)での管見に止めたい

http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/kawaharakeiga/kawaharakeiga.html
≪「川原慶賀の見た江戸時代の日本」( 長崎歴史文化博物館)≫
≪ 川原慶賀(田口種美・登与助とも)は、1786年(天明6)頃の生まれ。父は絵師の川原香山で唐絵目利の石崎融思とかなり親密な間柄であったことが知られている。1811年(文化8)の頃には出島に自由に出入りできる「出島出入絵師」となり、出島商館長ブロンホフや商館員フィッセル、商館医シーボルトの求めに応じて日本の文物を描いている。
 商館員たちの求めに応じて何でも描ける優秀な絵師川原慶賀ではあったが、シーボルトは植物研究のための標本デッサンを正確に描くためどうしても西洋画法に精通した絵師が必要であった。そのためヴァタビア総督に画家の派遣を要請している。この要請に応えて1825年(文政8)来日したのが薬剤師のビュルガーと専門の画家ではないものの絵心のあったデ・フィレニューフェであった。慶賀は、このデ・フィレニューフェから西洋画法の手ほどきを受けることとなる。
 1826年の江戸参府においてシーボルトは、慶賀を同行させている。慶賀はシーボルトの要望や指示に従い、街道の様子や名勝、神社仏閣、京・大坂・江戸の様子、公家・武家の装束、旅の道中で観察される動・植物、風俗までありとあらゆる文物を描いた。
この江戸参府の際、シーボルトが友好を深めた最上徳内、高橋景保らの好意が後のシーボルト事件に発展してゆく。1829年(文政11年12月)、シーボルトが御禁制の地図や葵の紋付服などを国外に持ち出そうとしたことが発覚し国外追放となる「シーボルト事件」により、慶賀も連座して入牢、「叱り」という処分を受ける。その後出島出入絵師としての仕事は復活したようであるが、1842年(天保13)長崎港の風景を描いた際、警備船の幕に細川家と鍋島家の紋まで書き込んだため、長崎所払いの処分を受けている。
 ところがその4年後の1846年(弘化3)、長崎の飛鳥氏らが先祖菩提のため石崎融思一門に依頼し描かせた長崎市脇岬観音寺の天井画150枚の中の5枚に慶賀の落款が存在する。石崎融思と慶賀との関係が推測できる。1860年(万延元)に慶賀が75歳の作品であることを示す年記を持つ「永島きく刀自像」により慶賀の生年はほぼ推定されているが、残念ながら没年およびその墓所は不明である。
 川原敬賀(田口田根、豊助)は1786年生まれ。父親の川原浩三は、唐絵めきであった石崎雄志、あるいは中国からの輸入品の公式美術検査官とかなり親密な関係にあったと考えられている。1811年頃、川原敬賀は出島への立ち入りを許された出島工場の画家に任命され、ブロムホフ(オランダ東インド会社出島工場長)、フィッシャー(オランダ東インド会社社員)、シーボルト(オランダ東インド会社出島工場の医師)の依頼に応えて日本のものを描いた。
 川原敬賀は出島のオランダ人が求めるものを何でも描ける優秀な画家でしたが、シーボルトは植物学研究を進めるために標本の正確なスケッチを描くために西洋絵画の技法を熟知した芸術家を絶対に必要としていました。そのため、シーボルトはバタビアの総督にそのような画家を派遣するよう要求した。彼の要請に応えて、1825年に2人が日本に送られました:1人は薬剤師のハインリッヒ・バーガーで、もう1人は画家ではないが絵画の適性を持っていたド・ヴィルヌーヴでした。その後、慶賀はド・ヴィルヌーヴから西洋絵画の技法の基礎を教わりました。
 1826年(明治3年)に江戸への宮廷旅行の際、シーボルトは慶賀を連れて行った。シーボルトの要求と指示に従い、圭賀は、通りの風景、景勝地、神社仏閣、京都、大阪、江戸の状況、宮廷貴族や武士の服装、江戸への旅で見た動植物や民俗など、さまざまなオブジェクトを描きました。
 江戸滞在中、シーボルトは徳内茂上や高橋影康との親交を深め、その優しさが後にいわゆるシーボルト事件に発展し、1829年(明治2年)にシーボルトは日本の詳細な地図や徳川家のヒイラギの紋章が描かれた着物などを禁止したことが発覚し、日本から追放された。徳川幕府が厳しく禁じた行為でした。シーボルト事件への関与により、川原敬賀も投獄され、叱責された。処罰後、出島工場の画家としての仕事を再開したとされる。しかし、1842年(明治2年)に圭賀が長崎港の風景を描いた際、哨戒艦のスクリーンに細川家と鍋島家を屠殺した。彼は再び罰せられ、長崎から解雇された。
 それにもかかわらず、1846年、すなわち慶賀の解任から4年後に石崎祐志とその弟子によって描かれた長崎の天井画150点のうち5点に、慶賀の署名と印鑑があります。これらの絵は、長崎市の脇崎観音寺の天井に描かれ、アスカ一族や長崎のお客さんのご先祖様のご冥福をお祈りしました。これは石崎祐志と圭賀の密接な関係を暗示している。1860年に描かれた長島菊夫人の肖像画には、75歳の慶賀の作品であったことを示す記録がありますので、彼の生年を推測することができます。しかし、残念なことに、彼の死の年と彼の墓の場所は不明です。≫

アジサイ.jpg

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken/hakken15032/index.html#:~:text=%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88%E3%81%AF%E3%80%81%E5%A6%BB%E3%81%8A%E6%BB%9D,%E3%81%AE%E5%AD%A6%E5%90%8D%E3%82%92%E4%B8%8E%E3%81%88%E3%81%9F%E3%80%82
≪資料名/Flora Japonica Vol.1
FLORA JAPONICA、和名和書名「シーボルト日本植物誌」
シーボルト*ニホン*ショクブツシ、オリジナル番号2 185-1 1の中のアジサイ/m-40_2-185-1-1-53
 毎年6月、鳴滝塾跡、シーボルトの銅像のまわりには、清楚ながらも存在感のある面持ちのアジサイの花が咲き誇る。シーボルトは、妻お滝への愛を込めて、このアジサイの花に彼女の愛称、オタクサ「Hydrangea otaksa」の学名を与えた。離ればなれになってしまった愛しい妻。清楚なアジサイの花にその妻の姿を重ね、シーボルトは生涯想いを寄せていたのかもしれない。シーボルトが日本を離れた後に発表した『日本植物誌』は、シーボルトのお抱え絵師として知られる川原慶賀ら日本人絵師の下絵をもとに、1835年より多数に分け発表。後に購入者がまとめ一冊の本にしたもの。現在、長崎市シーボルト記念館には、発表当時の現物が保管されている。 ≫

アサヒカニ.jpg

http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=2927&cfcid=&search_div=
≪●作品名:アサヒガニ
●学名/Scientific name:Ranina ranina ●学名(シーボルト命名)/Scientific name(by von Siebold):Ranina ranina ●分類/classification:節足動物/Animals, Arthropods>エビ目/Decapoda ●形状・形態/form:紙本彩色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:ライデン国立自然史博物館 National Museum of Natural History

大村湾千綿.gif

http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=1667&cfcid=145&search_div=kglist
≪●作品名:大村湾千綿 ●Title:A view of Oomura, Chiwada
●分類/classification:旅・江戸参府/Travering to Edo
●形状・形態/form:紙本彩色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

(追記一)「シーボルト・コレクションにおける川原慶賀の動植物画と風俗画」(「野藤妙」稿・国際シンポジウム報告書「シーボルトが紹介したかった日本」所収)

≪ はじめに(抜粋)
 川原慶賀(1786?-1860?)は江戸時代後期の長崎の絵師であり、登与助と呼ばれていた。遅くとも文化年間には出島に出入りが許可されており1、出島で勤務していたオランダ商館員の求めに応じて日本の動植物や風俗、風景などの作品を描いた。慶賀の作品を収集したオランダ商館員としては、ヤン・コック・ブロムホフ(Jan Cock Blomhoff)、ヨハン・フレデリック・ファン・オーフェルメール・フィッセル(Johan Frederik vanOvermeer Fisscher)、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(Philipp Franz vonSiebold)の3名が知られている。
 現存する慶賀の作品の中には、精密な動植物画の他、水墨画や南蘋風の掛け軸などもあり、慶賀がいろいろな技法を用いて作品を描くことができたことがわかる。町絵師である以上、依頼主の注文に応じた作品を描かなければならなかったため、さまざまな技法で描くことができる必要があった。したがって、慶賀の作品を研究する際には、まず依頼主が何を求めていたかを考察しなければならない。それゆえに、本稿ではシーボルトが何を要求したかという点から慶賀が数多く描いた動植物画と風俗画を検討していきたい。

1.シーボルトにおける絵画の重要性(略)
2.慶賀の動植物画(部分抜粋)
 シーボルトの著作の図版は、標本や、日本人の絵師の原画、カレル・ヒュベルト・ドゥ・フィレニューフェ(Carel Hubert de Villeneuve)による原画の他、和本の挿絵などを元に作成された。来日期間中にシーボルトは日本人絵師に描かせるだけでは日本研究を進めるのが難しいと考えた。そこでオランダ東インド総督へ画家の派遣を要請し、1825年にフィレニューフェが来日することとなった。またこの時に、研究の助手としてハインリッヒ・ビュルガー(Heinrich Bürger)も来日した。
シーボルトは1828年に帰国する予定であったがいわゆるシーボルト事件が起こったため、結局1830年に帰国した。シーボルトが日本を離れた後も、後任のビュルガーは標本等の発送を行い、シーボルトの日本研究に助力した。ブランデンシュタイン城に現存している1831年12月1日に書かれた書簡4は、出島にいるビュルガーからライデンにいるシーボルトへ出されたものである。
 (中略)
 慶賀やフィレニューフェの現存する絵を併せて検討すると、それぞれの描く対象が異なっており、大まかな役割分担がなされていたことが推測される。この役割分担は、シーボルトがオランダ東インド総督に行った報告に添付された「1823年から1828年の間に日本で作成された記述類一覧」中の「絵図」項目の
39 日本人の肖像12点:デ・フィレニューフェ氏制作
40 日本のもっとも注意すべき若干の哺乳動物図:デ・フィレニューフェ氏制作
41 若干の爬虫類および哺乳動物の骨格図:デ・フィレニューフェ氏
42 若干の魚類および海中棲息生物の写生:日本人絵師登与助制作
43  日本植物、あるいは約60個の注目すべき日本植物図:日本人絵師登与助制作。輸
送と荷卸しはデ・フィレニューフェ氏による
という記述とも合致する。
 (中略)
 シーボルトは、慶賀が動植物画を描く場合、その動植物が分類学上どのように分類されるのかがわかるように、正確に特徴をとらえ、生きているそのままの色を表現することを求めた。慶賀はこの要求に沿って、例えば海老などの甲殻類の殻の凹凸を表現するために細かく描くなどして、シーボルトの要求に応えるように努力した。先行研究でも言及されている通り、シーボルト・コレクションの慶賀の動物画と、シーボルト以前に来日したブロムホフ・コレクションの動物画とを比べると、死ぬと縮んでしまう魚の背びれや尾ひれがピンと張って描かれるようになり、鱗の数なども正確に描かれ、図鑑の挿絵として使えるように技術が向上していることがわかる。
慶賀の絵の上達は、植物画においても同様に見られる。シーボルト・コレクションの慶賀の植物画を、ブロムホフ・コレクションと比較すると、ブロムホフ・コレクションでは、植物が色鮮やかに描かれているが、花や葉の形を見ると正確さに欠けている。シーボルト・コレクションでは、色に濃淡があり、繊細に塗られているほか、植物の解剖図が描かれている。シーボルトがヨーロッパの植物学の分野において本を出版しようとするとき、ブロムホフ・コレクションのような絵では不十分である。植物の同定をするためには、花や葉の形が正確に描かれていることはもちろん、解剖図が描かれている必要があった。慶賀はシーボルトやフィレニューフェから指導を受け11、その結果、図鑑の挿絵として活用できるような絵を描けるようになった。

3.慶賀の風俗画(部分抜粋)
 シーボルト・コレクションの風俗画のほとんどはオランダ政府によって購入され、ライデン国立民族学博物館に所蔵されている。慶賀が描いた風俗画の画題の中でも、人が生まれ結婚し、死去するまでを23場面で描いた《人の一生》という画題の作品群に注目する。
《人の一生》について、ここでは簡潔に結果を述べたい《人の一生》は、5セット現存している。シーボルト以前に来日したフィッセルが3セット、シーボルトが1セット持ち帰っており、その他に収集者が不明のものがもう1セットある。
フィッセルが収集し、現在ライデン国立民族学博物館に所蔵されている《人の一生》を①とする。1832年にオランダ国王ウィレム1世によって購入されたフィッセル・コレクションの中にこの作品も含まれていた。絹に描かれており、サイズは、30㎝×45㎝程度である。この①の最大の特徴は慶賀の落款が押されている点である。落款は縦横1㎝×1㎝程度の大きさで、黒枠の内側や外側などに見られ、多くは右下に押されている。
  (中略)
 シーボルト・コレクションの風俗画で慶賀の落款が押されているものは、60㎝×80㎝程度の比較的大判の絵や掛け軸、さらには朝鮮の人々を描いた絵などのブロムホフやフィッセルのコレクションには含まれていない絵である。一方、慶賀の落款が押されていないものは、ブロムホフやフィッセルとの画題の重複が見られるものが多い。そのような作品の中には、《人の一生》のように、慶賀が直接描くのではなく、同じ工房で働く他の絵師たちによって作成された作品も含まれている。

おわりに
本稿では、シーボルトが収集した慶賀の動物画と風俗画を併せて検討を行った。動物画に関しては、慶賀に描かせるようにとビュルガーに指示しており、ビュルガーもシーボルトの忠告を守り慶賀に描かせている。そうさせたのは、標本にすると失われてしまう動物の色をきちんと表現させることが重要であったからである。慶賀はシーボルトの要求に、精密な絵を描くことで応えた。その一方で、風俗画に関しては、ブロムホフ、フィッセルとの画題の重複が見られ、そのような作品の中には細部の正確さに欠けるものも含まれている。
『日本植物誌』や『日本動物誌』の図版は一流の画家が作成しているのに対し『日本』の図版では費用の問題もあり、二流の画家を使っていることが先行研究によって指摘されている。このことからも、動植物画と風俗画ではシーボルトの意図が異なっていたことが推測される。注文主であるシーボルトが絵を重視していた植物、動物に慶賀も力点を置いていたと言えよう。風俗画については、シーボルトは、どう描かれているかということ以上に何が描かれているか、つまり細部の正確さよりも内容が重要で、動植物画ほどの精密さは求めていなかったと考えられる。シーボルトから大量の絵を注文された慶賀は、自分にしか描くことのできない動植物画を自ら描き、同じ画題の風俗画については、他の絵師などにトレースさせた絵を提供した。≫

(追記二)「川原慶賀考(一)」(陰里鉄郎稿)
http://id.nii.ac.jp/1440/00006427/

(追記三)「シーボルト『NIPPON』の原画・下絵・図版」(「宮崎克則」稿「九州大学総合研究博物館研究報告Bull. Kyushu Univ. MuseumNo. 9, 19-46, 2011」)

(追記四)「1830年3 月 帰国途中のシーボルトが其扇(そのぎ)に送った手紙」(「石山禎一・宮崎克則」稿「西南学院大学博物館 研究紀要 第8号」 )

(追記五)「シーボルト関係書翰集 : シーボルトよりシーボルトヘ」(国立国会図書館デジタルコレクション)

https://culturemk.exblog.jp/24945774/

https://culturemk.exblog.jp/24945774/

シーボルド・カタカナ・手紙(着色).jpg

「シーボルトが滝に宛てた手紙」(長崎歴史文化博物館蔵)

「シーボルト関係書翰集 : シーボルトよりシーボルトヘ」(国立国会図書館デジタルコレクション)が、上記のアドレスで全文閲覧することができる。
 その「目次」は、次のとおりである。

目次 (tableOfContents)
標題 / (0003.jp2)
目次 / (0007.jp2)
I.Siebold / (0011.jp2)
II.美馬順三 / (0028.jp2)
III.小西吉兵衛 / (0031.jp2)
IV.高良齋 / (0031.jp2)
V.石川宗謙 / (0039.jp2)
VI.戶塚靜海 / (0044.jp2)
VII.豐吉 / (0048.jp2)
VIII.吉雄權之助 / (0050.jp2)
IX.卯三郞 / (0051.jp2)
X.松村直之助 / (0051.jp2)
XI.石橋助左衞門、石橋助十郞 / (0052.jp2)
XII.傳之進 / (0052.jp2)
XIII.廣淵武七郞 / (0052.jp2)
XIV.そのぎ / (0054.jp2)
XV.おいね / (0060.jp2)
XVI.楢林榮左衞門 / (0062.jp2)
XVII.三瀨周三 / (0072.jp2)
XVIII.戶田亀之助 / (0092.jp2)
XIX.ぎすけ / (0095.jp2)
XX.町田くわんすけ / (0095.jp2)
XXI.伊藤權之助 / (0096.jp2)
XXII.中村かめかわ / (0096.jp2)
XXIII.北村元助 / (0097.jp2)
XXIV.大庭けいさい / (0097.jp2)
XXV.若菜三男三郞、星野金吾 / (0097.jp2)
XXVI.譯詞 / (0098.jp2)
XXVII.團吉 / (0098.jp2)
XXVIII.河野禎造 / (0098.jp2)
XXIX.八右衞門 / (0099.jp2)
XXX.魚住順方 / (0100.jp2)
XXXI.栗林熊次郞 / (0101.jp2)
XXXII.ポンペ / (0101.jp2)

 この「目次」の前の「口絵」に、「シーボルトが滝に宛てた手紙」(長崎歴史文化博物館蔵)が掲載されている。しかし、「XIV.そのぎ / (0054.jp2)」「XV.おいね / (0060.jp2)」関係の書翰の中には、この書翰は掲載されていない。この原図は、上記のように着色の「植物画」(「便箋」なのか不明)が描かれている。

 この冒頭の二行は、「ソノキ(ソノギ=其扇=お滝=妻)サマ マタ オイ子(オイネ=お稲=娘) カア(ワ)イ コト(ド)モノ (父) シーボルド」
次は、「一 ワタクシ ワ(ハ) 七月七日 ホ(オ)ランタ(ダ)ノ 三十ト(ミナト)ニ イカリ(碇)ヲ ヲロシタ」
 次は、「一 フ子(船=船酔い)ニ ワレ(我) スコシ ヤマイ(病)テ ヲル」
 次は、「一 タタ(ダ)イマ(只今) タイブン(大分) スコヤカ(健やか)」 

 の意に解して置きたい。

(追記) この後に、次のものが入る(全部で十五条)

一 ニチニチ ワタクシガ オマエ マタオイ子ノナヲ シバイシバイ イウ → 日日(毎日) 私は、おまえ(たき)とおいね(イネ)の名を しばしば、いう(口にする)

一 ナントキワ オマエヲマタオイ子 モツトアイスル モノヲミルナ → 何時(ナントキ)でも、おまえ(たき) また おいね(イネ)を もっと(最高に)愛する 者を見ない

nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。