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「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その四) [忘れがたき風貌・画像]

その四 西行・「釈阿(藤原俊成)・藤原定家」周辺

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十八・西行法師」.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十八・西行法師」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009429


(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-05-05

「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その一)
その一 西行法師

鹿下絵一.JPG

「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の一「西行・定家」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)
鹿下絵和歌巻・西行.jpg

「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(西行法師)」(画)俵屋宗達(書)本阿弥光悦(山種美術館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/215347

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-12

(「西行法師」周辺メモ)

1 西行法師:こころなき身にもあはしられけりしぎたつ沢の秋の夕ぐれ(山種美術館蔵)

(釈文)
西行法師
こ々路那幾身尓も哀盤しら禮介利
鴫多徒澤濃秋乃夕暮

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/saigyo.html

   秋 ものへまかりける道にて
心なき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)たつ沢の秋の夕暮(山家集470)[新古362]

【通釈】心なき我が身にも、哀れ深い趣は知られるのだった。鴫が飛び立つ沢の秋の夕暮――。
【語釈】◇心なき身 種々の解釈があるが、「物の情趣を解さない身」「煩悩を去った無心の身」の二通りの解釈に大別できよう。前者と解すれば出家の身にかかわりなく謙辞の意が強くなる。下に掲げた【鑑賞】は、後者の解に立った中世歌学者による評釈である。◇鴫たつ沢 鴫が飛び立つ沢。鴫はチドリ目シギ科に分類される鳥。多種あるが、多くは秋に渡来し、沼沢や海浜などに棲む。非繁殖期には単独で行動することが多く、掲出歌の「鴫」も唯一羽である。飛び立つ時にあげる鳴き声や羽音は趣深いものとされた。例、「暁になりにけらしな我が門のかり田の鴫も鳴きて立つなり」(堀河百首、隆源)、「をしねほす伏見のくろにたつ鴫の羽音さびしき朝霜の空」(後鳥羽院)
【補記】秋の夕暮の沢、その静寂を一瞬破って飛び立つ鴫。『西行物語』では東国旅行の際、相模国で詠まれた歌としているが、制作年も精しい制作事情なども不明である。『御裳濯河歌合』で前掲の「おほかたの露にはなにの」と合わされ、判者俊成は「鴫立つ沢のといへる、心幽玄にすがたおよびがたし」と賞賛しつつも負を付けた。また俊成は千載集にこの歌を採らず、そのことを人づてに聞いた西行はいたく失望したという(『今物語』)。『西行法師家集』は題「鴫」、新古今集は「題しらず」。

(「鹿下絵新古今集和歌巻」周辺メモ )

【「鹿下絵新古今集和歌巻」は戦後小刀を入れて諸家に分藏されることになったが、もちろん本来は一巻の巻物であった。しかも全長二〇mを超える大巻であったらしい。この下絵も鹿という単一のモチーフで構成されている。鹿はたたずみ、群れる。雌雄でじゃれ合い、戯れる。跳びはね、走る。そして山の端に姿を消していく。鹿の視線や動きのベクトルは、画面内でさまざまに変化する。先に指摘した「鶴下絵和歌巻」の特異な構成は、この和歌巻と比較することによって一層はっきりするであろう。】(『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭著)』)

【「西行への傾倒」 光悦が選んだのは『新古今和歌集』巻四「秋歌 上」、岩波文庫版でいえば三六二番から三八九番までにあたる。つまり西行法師の「こころなき身にもあはしられけりしぎたつ沢の秋の夕ぐれ」から藤原家隆の「鳰のうみや月のひかりにうつろへば浪の花にも秋は見えけり」まで連続する二八首である。西行法師の前後には、寂連法師の「さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮」と藤原定家の「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕ぐれ」がある。有名な三夕の和歌、これをもって秋歌の和歌巻を始めようとするのはだれでも思いつく着想であろう。
 しかし光悦は寂連をカットし、いきなり西行から書きだした。それは光悦が西行を高く評価し、西行に対する特別の感情をもっていたからである。『本阿弥行状記』には西行に関することが数条見出されるが、とくに「心なき」の一首は一七二条に取り上げられている。この一首にならって、飛鳥井雅章は「あはれさは秋ならねどもしられけり鴫立沢のあとを尋ねて」と詠んだ。ところがこの鴫立沢というのは、西行の和歌によって後人が作り出した名所であったので、このような詠吟は不埒であると勅勘を蒙ったという話である。雅章の恥となるような逸話を持ち出しつつ、西行の素晴らしさを際立たせたわけである。それにしても、並の書家であれば三夕の和歌の一つをカットすることなど、絶対にしなかったであろう。 】(『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭著)』)

【『本阿弥行状記』一七二段
  心なき身にも哀れは知られけり鴫立沢の秋の夕暮 西行法師
 これを秀吟は西行東国行脚の時なり。その旧跡、相模国に鴫立沢と申て庵なども有之候由。然るに飛鳥井雅章卿
  あはれさは秋ならねともしられけり鴫立沢のあとを尋ねて
と申歌を詠給ふ事、右鴫立沢と申は後人の拵へし所なるを、かく詠吟の事不埒也と勅勘を蒙り給ひしとぞ。道を大切になし給ふ事難有御事也。 】(『本阿弥行状記と光悦(正木篤三著)』)


「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥メモ(その一)

http://sakurasayori.web.fc2.com/hyaku88.html

「御裳濯河歌合」(十八番)

左:勝(山家客人)
大かたの霧にはなにの成るならん袂(たもと)に置くは涙なりけり(千載集)                           
右:(野径亭主)
心なき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)たつ沢の秋の夕暮(新古今集)
判詞(俊成)
右歌の「鴫立つ沢の」と詠んでいるのは、心が幽玄で姿は及び難いものがある。ただし左の歌で「霧はなにの」と云っているのは、言葉は浅いようだが心はまことに深い。勝ると申すべきであろう。
参考: 右歌は西行の代表作の一つで、いわゆる「三夕(さんせき)の歌」でもある。俊成はこの寂寥感溢れる歌を「心幽玄」として認めているが、左歌の「霧にはなにの」というのを心の深さとして高く評価している。わが袂に置く涙なのだが、あたり一面に置く一粒一粒の露はいったい何がなったのか。この世に存在する、そのものの悲傷であろうか、余情の深い歌である。右の歌は、上句が説明的で下句はその材となっている、というように俊成は見たのであろうか。左歌は「千載集」に採り、右歌は外している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-02-17

その十八 入道三品釈阿と西行法師
釋阿.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(入道三品釈阿)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056425

西行.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(西行法師)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056426

左方十八・皇太后宮大夫俊成
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010710000.html

 又や見むかた野のみのゝ桜がり/はなのゆきちるはるのあけぼの

右方十八・西行法師
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010711000.html

 をしなべて花のさかりになりにけり/やまのはごとにかゝるしらくも

(周辺メモ)西行(さいぎょう) 元永元~建久元(1118~1190) 俗名:佐藤義清 法号:円位

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 藤原北家魚名流と伝わる俵藤太(たわらのとうた)秀郷(ひでさと)の末裔。紀伊国那賀郡に広大な荘園を有し、都では代々左衛門尉(さえもんのじょう)・検非違使(けびいし)を勤めた佐藤一族の出。父は左衛門尉佐藤康清、母は源清経女。俗名は佐藤義清(のりきよ)。弟に仲清がいる。年少にして徳大寺家の家人となり、実能(公実の子。待賢門院璋子の兄)とその子公能に仕える。保延元年(1135)、十八歳で兵衛尉に任ぜられ、その後、鳥羽院北面の武士として安楽寿院御幸に随うなどするが、保延六年、二十三歳で出家した。法名は円位。鞍馬・嵯峨など京周辺に庵を結ぶ。出家以前から親しんでいた和歌に一層打ち込み、陸奥・出羽を旅して各地の歌枕を訪ねた。久安五年(1149)、真言宗の総本山高野山に入り、以後三十年にわたり同山を本拠とする。

「岩間とぢし氷も今朝はとけそめて苔の下水みちもとむらん」(新古7)
【通釈】岩と岩の間を閉ざしていた氷も、立春の今朝は解け始めて、苔の生えた下を流れる水が通り道を探し求めていることだろう。

「ふりつみし高嶺のみ雪とけにけり清滝川の水の白波」(新古27)
【通釈】冬の間に降り積もった高嶺の雪が解けたのであるよ。清滝川の水嵩が増して白波が立っている。

「吉野山さくらが枝に雪ちりて花おそげなる年にもあるかな」(新古79)
【通釈】吉野山では桜の枝に雪が舞い散って、今年は花が遅れそうな年であるよ。

「吉野山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬかたの花をたづねむ」(新古86)
【通釈】吉野山――ここで去年枝折(しおり)をして目印をつけておいた道とは道を変えて、まだ見ない方面の花をたずね入ろう。

「ながむとて花にもいたくなれぬれば散る別れこそ悲しかりけれ」(新古126)
【通釈】じっと見つめては物思いに耽るとて、花にもひどく馴染んでしまったので、散る時の別れが一層悲しいのだった。

「聞かずともここをせにせむほととぎす山田の原の杉のむら立」(新古217)
【通釈】たとえ聞こえなくとも、ここを時鳥の声を待つ場所としよう。山田の原の杉林を。

「ほととぎす深き峰より出でにけり外山のすそに声のおちくる」(新古218)
【通釈】時鳥は深い峰から今出たのだな。私が歩いている外山の山裾に、その声が落ちて来る。

「道の辺に清水ながるる柳蔭しばしとてこそ立ちとまりつれ」(新古262)
【通釈】道のほとりに清水が流れる柳の木蔭――ほんのしばらくのつもりで立ち止まったのだった。

「よられつる野もせの草のかげろひて涼しくくもる夕立の空」(新古263)
【通釈】もつれ合った野一面の草がふと陰って、見れば涼しげに曇っている夕立の空よ。

「あはれいかに草葉の露のこぼるらむ秋風立ちぬ宮城野の原」(新古300)
【通釈】ああ、どれほど草葉の露がこぼれているだろうか。秋風が吹き始めた。宮城野の原では今頃――。

「雲かかる遠山畑(とほやまばた)の秋されば思ひやるだにかなしきものを」(新古1562)
【通釈】雲がかかっている、遠くの山の畑を眺めると、そこに暮らしている人の心が思いやられるが、ましてや秋になれば、いかばかり寂しいことだろう――思いを馳せるだけでも切なくてならないよ。

「月を見て心浮かれしいにしへの秋にもさらにめぐり逢ひぬる」(新古1532)
【通釈】月を見て心が浮かれた昔の秋に、再び巡り逢ってしまったことよ。

「夜もすがら月こそ袖にやどりけれ昔の秋を思ひ出づれば」(351)[新古1533]
【通釈】一晩中、月ばかりが涙に濡れた袖に宿っていた。昔の秋を思い出していたので。

「白雲をつばさにかけてゆく雁の門田のおもの友したふなり」(新古502)
【通釈】白雲を翼に触れ合わせて飛んでゆく雁が鳴いているのは、門田に残る友を慕っているのだ。

心なき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)たつ沢の秋の夕暮(新古362)
【通釈】心なき我が身にも、哀れ深い趣は知られるのだった。鴫が飛び立つ沢の秋の夕暮――。

「きりぎりす夜寒に秋のなるままに弱るか声の遠ざかりゆく」(新古472)
【通釈】蟋蟀は秋が深まり夜寒になるにつれて衰弱するのか、鳴き声が遠ざかってゆく。

「秋篠や外山の里やしぐるらむ伊駒(いこま)の岳(たけ)に雲のかかれる」(新古585)
【通釈】秋篠の外山の里では時雨が降っているのだろうか。生駒の山に雲がかかっている。

「津の国の難波の春は夢なれや葦の枯葉に風わたるなり」(新古625)
【通釈】古歌にも詠まれた津の国の難波の春は夢であったのだろうか。今や葦の枯葉に風がわたる、その荒涼とした音が聞こえるばかりである。

「さびしさに堪(た)へたる人のまたもあれな庵ならべむ冬の山里(新古627)
【通釈】寂しさに耐えている人が私のほかにもいればよいな。庵を並べて住もう――「寂しさ増さる」と言われる冬の山里で。

「おのづから言はぬを慕ふ人やあるとやすらふほどに年の暮れぬる」(新古691)
【通釈】言葉をかけない私を、ひょっとして、慕ってくれる人もあるかと、ためらっているうちに、年が暮れてしまいました。

「面影の忘らるまじき別れかな名残を人の月にとどめて」(新古1185)
【通釈】いつまでも面影の忘れられそうにない別れであるよ。別れたあとも、あの人がなごりを月の光のうちに留めていて…。

「くまもなき折しも人を思ひ出でて心と月をやつしつるかな」(新古1268)
【通釈】隈もなく照っている折しも、恋しい人を思い出して、自分の心からせっかくの明月をみすぼらしくしてしまったよ。

「はるかなる岩のはざまに独り居て人目思はで物思はばや」(新古1099)
【通釈】人里を遥かに離れた岩の狭間に独り居て、他人の目を気にせず物思いに耽りたいものだ。

「数ならぬ心のとがになし果てじ知らせてこそは身をも恨みめ」(新古1100)
【通釈】身分不相応の恋をしたことを、賤しい身である自分の拙い心のあやまちとして諦めはすまい。あの人にこの思いを知らせて、拒まれた上で初めて我が身を恨もうではないか。

「なにとなくさすがに惜しき命かなありへば人や思ひ知るとて」(新古1147)
【通釈】なんとはなしに、やはり惜しい命であるよ。生き永らえていたならば、あの人が私の思いを悟ってくれるかもしれないと。

「今ぞ知る思ひ出でよとちぎりしは忘れむとての情けなりけり」(新古1298)
【通釈】今になって分かった。思い出してと約束を交わしたのは、私を忘れようと思っての、せめてもの情けだったのだ。

「逢ふまでの命もがなと思ひしはくやしかりける我が心かな」(新古1155)
【通釈】あの人と逢うまでは命を永らえたいと思ったのは、今にしてみれば浅はかで、悔やまれる我が心であったよ。

「人は来(こ)で風のけしきの更けぬるにあはれに雁のおとづれて行く」(新古1200)
【通釈】待つ人は来ないまま、風もすっかり夜が更けた気色になったところへ、しみじみと哀れな声で雁が鳴いてゆく。

「待たれつる入相の鐘のおとすなり明日もやあらば聞かむとすらむ」(新古1808)
【通釈】待たれた入相の鐘の音が聞こえる。明日も生きていたならば、またこうして聞こうというのだろうか。

「古畑のそはの立つ木にゐる鳩の友よぶ声のすごき夕暮」(新古1676)
【通釈】焼き捨てられた古畑の斜面の立木に止まっている鳩が、友を呼ぶ声――その響きが物寂しく聞こえる夕暮よ。

「吉野山やがて出でじと思ふ身を花ちりなばと人や待つらむ」(新古1619)
【通釈】吉野山に入って、そのまますぐには下山しまいと思う我が身であるのに、花が散ったなら帰って来るだろうと都の人々は待っているのだろうか。

「山里にうき世いとはむ友もがな悔しく過ぎし昔かたらむ」(新古1659)
【通釈】この山里に、現世の生活を捨てた友がいたなら。虚しく過ぎた、悔やまれる昔の日々を語り合おう。

「世の中を思へばなべて散る花の我が身をさてもいづちかもせむ」(新古1471)
【通釈】世の中というものを思えば、すべては散る花のように滅んでゆく――そのような我が身をさてまあ、どうすればよいのやら。

「世をいとふ名をだにもさはとどめおきて数ならぬ身の思ひ出(い)でにせむ」(新古1828)
【通釈】世を厭い捨てたという評判だけでも、そのままこの世に残しておいて、数にも入らないような我が身の思い出としよう。

「都にて月をあはれと思ひしは数よりほかのすさびなりけり」(新古937)
【通釈】都にあって月を哀れ深いと思ったのは、物の数にも入らないお慰みなのであった。

神路山月さやかなる誓ひありて天(あめ)の下をば照らすなりけり(新古1878)
【通釈】神路山の月がさやかに照るように、明らかな誓いがあって、慈悲の光はこの地上をあまねく照らしているのであった。

「さやかなる鷲の高嶺の雲ゐより影やはらぐる月よみの森」(新古1879)
【通釈】霊鷲山にかかる雲から現れた月は、さやかな光をやわらげて、この国に月読の神として出現し、月読の杜に祀られている。

「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山」(新古987)
【通釈】年も盛りを過ぎて、再び越えることになろうと思っただろうか。命があってのことである。小夜の中山よ。

「風になびく富士の煙の空に消えてゆくへも知らぬ我が心かな」(新古1613)
【通釈】風になびく富士山の煙が空に消えて、そのように行方も知れないわが心であるよ。


(周辺メモ)藤原俊成(ふじわらのとしなり(-しゅんぜい)) 永久二年~元久元年(1114-1204) 法号:釈阿 通称:五条三位

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 藤原道長の系譜を引く御子左(みこひだり)家の出。権中納言俊忠の子。母は藤原敦家女。藤原親忠女(美福門院加賀)との間に成家・定家を、為忠女との間に後白河院京極局を、六条院宣旨との間に八条院坊門局をもうけた。歌人の寂蓮(実の甥)・俊成女(実の孫)は養子である。

「俊頼が後には、釈阿・西行なり。釈阿は、やさしく艶に、心も深く、あはれなるところもありき。殊に愚意に庶幾する姿なり」(後鳥羽院「後鳥羽院御口伝」)。

「聞く人ぞ涙はおつる帰る雁なきて行くなる曙の空」(新古59)
【通釈】聞いている人の方こそ涙はこぼれ落ちるのだ。北へ帰る雁が鳴いて飛んでゆく曙の空よ。

「いくとせの春に心をつくし来ぬあはれと思へみ吉野の花」(新古100)
【通釈】幾年の春に心を尽くして来たのだろう。憐れと思ってくれ、吉野の桜の花よ。

「またや見む交野(かたの)の御野(みの)の桜がり花の雪ちる春の曙」(新古114)
【通釈】再び見ることができるだろうか、こんな光景を。交野の禁野に桜を求めて逍遙していたところ、雪さながら花の散る春の曙に出遭った。

「駒とめてなほ水かはむ山吹の花の露そふ井手の玉川」(新古159)

【通釈】馬を駐めて、さらに水を飲ませよう。山吹の花の露が落ち添う井手の玉川を見るために。

「昔思ふ草の庵(いほり)の夜の雨に涙な添へそ山ほととぎす(新古201)
【通釈】昔を思い出して過ごす草庵の夜――悲しげな鳴き声で、降る雨に涙を添えてくれるな、山時鳥よ。

「雨そそく花橘に風過ぎて山ほととぎす雲に鳴くなり」(新古202)
【通釈】雨の降りそそぐ橘の花に、風が吹いて過ぎる――すると、ほととぎすが雨雲の中で鳴いている。

「我が心いかにせよとて時鳥雲間の月の影に鳴くらむ」(新古210)
【通釈】私の心をどうせよというので、ほととぎすは雲間から漏れ出た月――それだけでも十分あわれ深い月影のもとで鳴くのだろう。

「誰かまた花橘に思ひ出でむ我も昔の人となりなば」(新古238)
【通釈】橘の花の香をかげば、亡き人を懐かしく思い出す――私も死んで過去の人となったならば、誰がまた橘の花に私を思い出してくれることだろうか。

「伏見山松の蔭より見わたせば明くる田の面(も)に秋風ぞ吹く」(新古291)
【通釈】伏見山の松の蔭から見渡すと、明けてゆく田の面に秋風が吹いている。

「水渋(みしぶ)つき植ゑし山田に引板(ひた)はへてまた袖ぬらす秋は来にけり」(新古301)
【通釈】夏、袖に水渋をつけて苗を植えた山田に、今や引板を張り渡して見張りをし、さらに袖を濡らす秋はやって来たのだ。

「たなばたのとわたる舟の梶の葉にいく秋書きつ露の玉づさ」(新古320)
【通釈】七夕の天の川の川門を渡る舟の梶――その梶の葉に、秋が来るたび何度書いたことだろう、葉に置いた露のように果敢ない願い文(ぶみ)を。

「いとかくや袖はしをれし野辺に出でて昔も秋の花は見しかど」(新古341)
【通釈】これほどひどく袖は涙に濡れ萎れたことがあったろうか。野辺に出て、昔も今のように秋の花々を眺めたことはあったけれど。

「心とや紅葉はすらむ立田山松は時雨にぬれぬものかは」(新古527)
【通釈】木々は自分の心から紅葉するのだろうか。立田山――その山の紅葉にまじる松はどうか、時雨に濡れなかっただろうか。そんなはずはないのだ。

「かつ氷りかつはくだくる山川の岩間にむせぶ暁の声」(新古631)
【通釈】氷っては砕け、砕けては氷る山川の水が、岩間に咽ぶような暁の声よ。

「ひとり見る池の氷にすむ月のやがて袖にもうつりぬるかな」(新古640)
【通釈】独り見ていた池の氷にくっきりと照っていた月が、そのまま、涙に濡れた袖にも映ったのであるよ。

「今日はもし君もや訪(と)ふと眺むれどまだ跡もなき庭の雪かな」(新古664)
【通釈】今日はもしやあなたが訪ねて来るかと眺めるけれど、まだ足跡もない庭の雪であるよ。

「雪ふれば嶺の真榊(まさかき)うづもれて月にみがける天の香久山」(新古677)
【通釈】雪が降ると、峰の榊の木々は埋もれてしまって、月光で以て磨いているかのように澄み切った天の香具山よ。

「夏刈りの芦のかり寝もあはれなり玉江の月の明けがたの空」(新古932)
【通釈】夏刈りの芦を刈り敷いての仮寝も興趣の深いものである。玉江に月が残る明け方の空よ。

「立ちかへり又も来てみむ松島や雄島(をじま)の苫屋波に荒らすな」(新古933)
【通釈】再び戻って来て見よう。それまで松島の雄島の苫屋を波に荒れるままにしないでくれ。

「難波人あし火たく屋に宿かりてすずろに袖のしほたるるかな」(新古973)
【通釈】難波人が蘆火を焚く小屋に宿を借りて、わけもなく袖がぐっしょり濡れてしまうことよ。

世の中は憂きふししげし篠原(しのはら)や旅にしあれば妹夢に見ゆ(新古976)
【通釈】篠竹に節が多いように、人生は辛い折節が多い。篠原で旅寝していれば、妻が夢に見えて、また辛くなる。

「うき世には今はあらしの山風にこれや馴れ行くはじめなるらむ」(新古795)
【通釈】辛い現世にはもう留まるまいと思って籠る嵐山の山風に、これが馴れてゆく始めなのだろうか。

「稀にくる夜半も悲しき松風をたえずや苔の下に聞くらむ」(新古796)
【通釈】稀に訪れる夜でも悲しく聴こえる松風を、亡き妻は絶えず墓の下で聞くのだろうか。

「山人の折る袖にほふ菊の露うちはらふにも千代は経ぬべし」(新古719)
【通釈】仙人が花を折り取る、その袖を濡らして香る菊の露――それを打ち払う一瞬にも、千年が経ってしまうだろう。

「君が代は千世ともささじ天(あま)の戸や出づる月日のかぎりなければ」(新古738)
【通釈】大君の御代は、千年とも限って言うまい。天の戸を開いて昇る太陽と月は限りなく在り続けるのだから。

「近江(あふみ)のや坂田の稲をかけ積みて道ある御代の始めにぞ舂(つ)く」(新古753)
【通釈】近江の坂田の稲を積み重ねて掛け、正しい道理の通る御代の最初に舂くのである。

「思ひあまりそなたの空をながむれば霞を分けて春雨ぞふる」(新古1107)
【通釈】思い悩むあまり、あなたの住む方の空を眺めると、霞を分けて春雨が降っている。

逢ふことはかた野の里の笹の庵(いほ)しのに露ちる夜半の床かな(新古1110)
【通釈】あの人に逢うことは難く、交野の里の笹葺きの庵の篠に散る露ではないが、しきりと涙がこぼれる夜の寝床であるよ。

「憂き身をば我だに厭ふいとへただそをだに同じ心と思はむ」(新古1143)
【通釈】辛い境遇のこの身を、自分自身さえ厭うています。あなたもひたすら厭うて下さい、せめてそれだけはあなたと心が一つだと思いましょう。

「よしさらば後の世とだに頼めおけつらさに堪へぬ身ともこそなれ」(新古1232)
【通釈】仕方ない、それなら、せめて来世だけでも約束して下さい。我が身は貴女のつらい仕打ちに堪えられず死んでしまいますから。

「あはれなりうたた寝にのみ見し夢の長き思ひに結ぼほれなむ」(新古1389)
【通釈】はかないことである。転た寝に見ただけの短い夢のような逢瀬が、長い恋となって私は鬱屈した思いを抱き続けるのだろう。

「思ひわび見し面影はさておきて恋せざりけむ折ぞ恋しき」(新古1394)
【通釈】歎き悲しむ今は、逢瀬の時に見た面影はさておいて、あの人をまだ恋していなかった頃のことが慕わしく思われるのである。

「五月雨は真屋の軒端の雨(あま)そそぎあまりなるまでぬるる袖かな」(新古1492)
【通釈】五月雨は、真屋の軒端から落ちる雨垂れが余りひどいように、ひどく涙に濡れる袖であるよ。

「嵐吹く峯の紅葉の日にそへてもろくなりゆく我が涙かな」(新古1803)
【通釈】嵐が吹き荒れる峰の紅葉が日に日に脆くなってゆくように、感じやすくなり、こぼれやすくなってゆく我が涙であるよ。

「杣山(そまやま)や梢におもる雪折れにたへぬ歎きの身をくだくらむ」(新古1582)
【通釈】杣山の木々の梢に雪が重く積もって枝が折れる――そのように、耐えられない嘆きが積もって我が身を砕くのであろう。

「暁とつげの枕をそばだてて聞くも悲しき鐘の音かな」(新古1809)
【通釈】暁であると告げるのを、黄楊の枕をそばだてて聞いていると、何とも悲しい鐘の音であるよ。

「いかにせむ賤(しづ)が園生(そのふ)の奧の竹かきこもるとも世の中ぞかし」(新古1673)
【通釈】どうしよう。賤しい我が園の奧の竹垣ではないが、深く引き籠って生きようとも、世間から逃れることはできないのだ。

「忘れじよ忘るなとだにいひてまし雲居の月の心ありせば」(新古1509)
【通釈】私も忘れまい。おまえも忘れるなとだけは言っておきたいものだ。殿上から眺める月に心があったならば。

「世の中を思ひつらねてながむればむなしき空に消ゆる白雲」(新古1846)
【通釈】世の中のことを次から次へ思い続けて、外を眺めていると、虚空にはなかく消えてゆく白雲よ。

「思ひきや別れし秋にめぐりあひて又もこの世の月を見むとは」(新古1531)
【通釈】思いもしなかった。この世と訣別した秋に巡り逢って、再び生きて月を眺めようとは。

「年暮れし涙のつららとけにけり苔の袖にも春や立つらむ」(新古1436)
【通釈】年が暮れたのを惜しんで流した涙のつららも解けてしまった。苔の袖にも春が来たのであろうか。

「今はわれ吉野の山の花をこそ宿の物とも見るべかりけれ」(新古1466)
【通釈】出家した今、私は吉野山の桜を我が家のものとして眺めることができるのだ。

「照る月も雲のよそにぞ行きめぐる花ぞこの世の光なりける」(新古1468)
【通釈】美しく輝く月も、雲の彼方という遥か遠い世界を行き巡っている。それに対して桜の花こそはこの世界を照らす光なのだ。

「老いぬとも又も逢はむと行く年に涙の玉を手向けつるかな」(新古1586)
【通釈】老いてしまったけれども、再び春に巡り逢おうと、去り行く年に涙の玉を捧げたのであった。

「春来ればなほこの世こそ偲ばるれいつかはかかる花を見るべき」(新古1467)
【通釈】春が来ると、やはりこの現世こそが素晴らしいと心惹かれるのである。来世ではいつこのような花を見ることができようか。そんなことは分かりはしないのだから。

「今日とてや磯菜つむらん伊勢島や一志(いちし)の浦のあまの乙女子」(新古1612)
【通釈】今日は正月七日というので、若菜の代りに磯菜を摘んでいるのだろうか。伊勢島の一志の浦の海人の少女は。

「昔だに昔と思ひしたらちねのなほ恋しきぞはかなかりける」(新古1815)
【通釈】まだ若かった昔でさえ、亡くなったのは昔のことだと思っていた親――その親が今もなお恋しく思われるとは、はかないことである。

「しめおきて今やと思ふ秋山の蓬がもとにまつ虫のなく」(新古1560)
【通釈】自身の墓と定めて置いて、今はもうその時かと思う秋山の、蓬(よもぎ)の繁る下で、私を待つ松虫が鳴いている。

「荒れわたる秋の庭こそ哀れなれまして消えなむ露の夕暮」(新古1561)
【通釈】一面に荒れている秋の庭は哀れなものだ。まして、今にも消えそうな露が庭の草木に置いている夕暮時は、いっそう哀れ深い。

「今はとてつま木こるべき宿の松千世をば君となほ祈るかな」(新古1637)
【通釈】今となっては、薪を伐って暮らすような隠棲の住まいにあって、その庭先に生える松に寄せて、千歳の齢を大君に実現せよと、なおも祈るのである。

「神風や五十鈴の川の宮柱いく千世すめとたてはじめけむ」(新古1882)
【通釈】五十鈴川のほとりの内宮(ないくう)の宮柱は、川の水が幾千年も澄んでいるように幾千年神が鎮座されよと思って建て始めたのであろうか。

「月さゆるみたらし川に影見えて氷にすれる山藍の袖」(新古1889)
【通釈】澄み切った月が輝く御手洗川に、小忌衣(おみごろも)を着た人の影が映っていて、その氷で摺り付けたかのような山藍の袖よ。

「春日野のおどろの道の埋れ水すゑだに神のしるしあらはせ」(新古1898)
【通釈】春日野の茨の繁る道にひっそり流れる水――そのように世間に埋もれている私ですが、せめて子孫にだけでも春日の神の霊験をあらわして下さい。

「今ぞこれ入日を見ても思ひこし弥陀(みだ)の御国(みくに)の夕暮の空」(新古1967)
【通釈】今目の当りにしているのがそれなのだ、入日を眺めては思い憧れてきた、阿弥陀如来の御国、極楽浄土の夕暮の空よ。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-05-06

「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その二

鹿下絵一.JPG

「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の一「西行・定家」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

鹿下絵和歌巻・藤原定家.jpg

「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(藤原定家)」(画)俵屋宗達(書)本阿弥光悦(個人蔵)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-13

「光悦書宗達下絵和歌巻」周辺(「メモ」その五)(再掲)

(「藤原定家」周辺メモ)

   西行法師すすめて、百首歌よませ侍りけるに
2 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮(新古363)
(釈文)西行法師須々めて百首哥よま世侍介る尓
見王多世盤華も紅葉もな可利け里浦濃とまや乃阿支乃遊ふ久連

【通釈】あたりを見渡してみると、花も紅葉もないのだった。海辺の苫屋があるばかりの秋の夕暮よ。
【通釈】あたりを見渡してみると、花も紅葉もないのだった。海辺の苫屋があるばかりの秋の夕暮よ。
【語釈】◇花も紅葉も 美しい色彩の代表として列挙する。◇苫屋(とまや) 菅や萱などの草で編んだ薦で葺いた小屋。ここは漁師小屋。
【補記】文治二年(1186)、西行勧進の「二見浦百首」。今ここには現前しないもの(花と紅葉)を言うことで、今ここにあるもの(浦の苫屋の秋の夕暮)の趣意を深めるといった作歌法はしばしば定家の試みたところで、同じ頃の作では「み吉野も花見し春のけしきかは時雨るる秋の夕暮の空」(閑居百首)などがある。新古今集秋に「秋の夕暮」の結句が共通する寂蓮の「さびしさはその色としも…」、西行の「心なき身にもあはれは…」と並べられ、合せて「三夕の歌」と称する。

(「鹿下絵新古今集和歌巻」周辺メモ )

【「闇を暗示する銀泥」 「鶴下絵和歌巻」において雲や霞はもっぱら金泥で表されていたが、この和歌巻では銀泥が主要な役割を果たすようになっている。これは夕闇を暗示するものなるべく、中間の明るく金泥のみの部分を月光と解えるならば、夕暮から夜の景と見なすとも充分可能であろう。なぜなら、有名な崗本天皇の一首「夕されば小倉の山に鳴く鹿は今宵は鳴かずいねにけらしも」(『万葉集』巻八)に象徴されるように、鹿は夕暮から夜に妻を求めて鳴くものとされていたからである。朝から夕暮までの一日の情景とみることも可能だが、私は鹿の伝統的なシンボリズムを尊重したいのだ。 】(『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭著)』)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/jomei.html

   崗本天皇の御製歌一首
夕されば小倉の山に鳴く鹿はこよひは鳴かず寝(い)ねにけらしも(万8-1511)

【通釈】夕方になると、いつも小倉山で鳴く鹿が、今夜は鳴かないぞ。もう寝てしまったらしいなあ。
【語釈】◇小倉の山 不詳。奈良県桜井市あたりの山かと言う。平安期以後の歌枕小倉山(京都市右京区)とは別。雄略御製とする巻九巻頭歌では原文「小椋山」。◇寝(い)ねにけらしも 原文は「寐宿家良思母」。「寐(い)」は睡眠を意味する名詞。これに下二段動詞「寝」をつけたのが「いね」である。
【補記】「崗本天皇」は飛鳥の崗本宮に即位した天皇を意味し、舒明天皇(高市崗本天皇)・斉明天皇(後崗本天皇)いずれかを指す。万葉集巻九に小異歌が載り、題詞は「泊瀬朝倉宮御宇大泊瀬幼武天皇御製歌一首」すなわち雄略天皇の作とし、第三句「臥鹿之(ふすしかは)」とある。
【他出】古今和歌六帖、五代集歌枕、古来風躰抄、雲葉集、続古今集、夫木和歌抄
【参考歌】雄略天皇「万葉集」巻九
夕されば小椋の山に臥す鹿は今夜は鳴かず寝ねにけらしも
【主な派生歌】
夕づく夜をぐらの山に鳴く鹿のこゑの内にや秋は暮るらむ(*紀貫之[古今])
鹿のねは近くすれども山田守おどろかさぬはいねにけらしも(藤原行家)

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥メモ(その二)

https://japanese.hix05.com/Saigyo/saigyo3/saigyo306.miyakawa.html

「宮河歌合」(九番)

左:勝(玉津嶋海人)
 世中を思へばなべて散る花の我身をさてもいづちかもせん
右:(三輪山老翁)
 花さへに世をうき草に成りにけり散るを惜しめばさそふ山水
判詞(定家)
 右歌、心詞にあらはれて、姿もをかしう見え侍れば、山水の花の色、心もさそはれ侍れど、左歌、世中を思へばなべてといへるより終りの区の末まで、句ごとに思ひ入て、作者の心深く悩ませる所侍れば、いかにも勝侍らん。
参考:「この御判の中にとりて、九番の左の、わが身をさてもといふ歌の判の御詞に、作者の心深くなやませる所侍ればと書かれ候。かへすがへすもおもしろく候かな。なやませるといふ御詞に、よろづ皆こもりめでたく覚え候。これ新しく出でき候ぬる判の御詞にてこそ候らめ。古はいと覚え候はねば、歌の姿に似て云ひくだされたるやうに覚え候。一々に申しあげて見参に承らまほしく候ものかな」。こう書いた上で西行は、「若し命生きて候はば、必ずわざと急ぎ参り候べし」と付け加えている。西行の感激がいかに大きかったか、よく伺われるところである。

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