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「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その九) [忘れがたき風貌・画像]

その九 「二人のキリシタン大名(陸将・高山右近と海将・小西行長)」周辺

小西行長の銅像.jpg

「宇土城の本丸にある小西行長の銅像」
https://senjp.com/konishi/

【 小西行長は、1558年、和泉・堺の商人である小西隆佐(小西立佐、洗礼名ジョウチン)の次男として京都で生まれた。母の名は、小西ワクサと呼ばれる女性で、洗礼名はマグダレーナ。 
父・小西隆佐(小西立佐)は薬種商で、1562年前後に、ルイス・フロイスの師事を受けてキリシタンとなり、宣教師の使者として織田信長に拝謁もした人物であった。
小西家の出自は薬種商ではなく、父・小西隆佐(小西立佐)と小西行長は、元々宇喜多家の家臣とする説や、羽柴秀吉が宇喜多家調略の為、小西行長を送り込んだとする説が近年は有力視されている。
 1572年、18歳の小西行長は、岡山にある商家・魚屋九郎衛門の養子として入ると、商売で宇喜多直家の元を何度か訪ねており、その際に才能を見出されて、宇喜多家の家臣に御船組員として加わり武士となった。正室の名は菊姫。同様に熱心なキリシタンで洗礼名はジュスタ。
 織田信長の家臣・羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が、別所長治の三木城攻めを行った際には、宇喜多直家の使者として羽柴秀吉に降伏したと言われている。織田家に人質として出された宇喜多直家の嫡男・八郎(宇喜多秀家)に付き添い、羽柴秀吉からその才知を気に入られ、1580年より父・小西隆佐(小西立佐)と共に羽柴家で重用されるようになり、父は1585年頃から河内・和泉両国の蔵入分代官となり、1581年には石田三成とともに堺政所に任じらた。
 小西行長は、豊臣政権において当初、播磨(兵庫県)の網干に近い室津で所領を与えられ、やがて、瀬戸内海の塩飽(香川県丸亀市)から堺にかけての船舶を監督する水軍の大将である「舟奉行」に任命され水軍を率いた。また、羽柴秀吉と諸大名との「取次役」としての働きも見受けられ、1584年に高山右近の後押しもあって洗礼を受けてキリシタンとなったとされるが、父親がもっと古くからキリシタンである為、以前からキリシタンであった可能性もある。
1585年には摂津守に任ぜられ、豊臣姓を名乗ることを許されているが、この頃、母・小西ワクサは豊臣秀吉の正室・おねの侍女として大阪城に上がった。
1585年の紀州征伐では、水軍を率いて参戦したが、雑賀衆の抵抗を受けて敗退したと言われている。太田城の水攻めでは、安宅船や大砲も運用して攻撃し、開城のきっかけを作ったともいわれている。
 それらの功で、1585年には小豆島10000石となり、小豆島ではセスペデス司祭を招いてキリスト教の布教を行い、島の田畑の開発を積極的に行った。
1586年の九州攻め準備の為、赤間関(山口県)までの兵糧を輸送した後、平戸(長崎県)に向かって松浦氏の警固船出動を監督した。
 1587年の九州征伐では、薩摩・平佐城攻略の搦手口の大将として参加。父・小西隆佐(小西立佐)は兵糧を担当したようで、他にも豊臣秀吉の代理人として南蛮船が輸入した生糸の優先買い付けのため、長崎に赴いている。
 1587年、豊臣秀吉がバテレン追放令を出し、改易となった高山右近や、オルガンティーノ宣教師を一時、小豆島に隠した。
 1588年、一揆制圧に失敗した佐々成政の肥後国人一揆討伐で功をあげ、改易された佐々成政の肥後南半国の宇土、益城、八代の約20万石と大出世し、宇土古城に入った。
豊臣秀吉は熊本城を中心に北半分は武功派の加藤清正に、南半分を頭脳派の小西行長に与えたのだ。肥後で小西行長は新たに宇土城を築城開始して本拠を移した。
 しかし、その際に宇土城普請に従わなかった天草五人衆が蜂起(天草国人一揆)。天草五人衆は豊臣秀吉から直接領地安堵されており、小西行長とは対等な立場と考えていたようだ。  
 キリシタンの多い天草衆に対して、同じキリシタンの小西行長は事態を穏便に済ませようとしたが、加藤清正が強固に軍勢を派遣した為、小西行長は加藤清正らとともに平定し、天草10000石も加増された。
宇土城は水城として優れた能力を持った城で、豊臣秀吉は、のちに計画していた朝鮮出兵を考えて、水軍統率に長けた小西行長を肥後に封じたと考えられる。また、豊臣秀吉は八代に麦島城を築城し、小西家三家老の一人で古麓城代ある小西行重(小西美作守行重)に麦島城代を命じた。天草はご承知の通り、70%以上の人々が熱心なキリシタンの地であり、イエズス会の活動を小西行長は支援し、領内に多くの宣教師を招いて教会や聖学校を建て、パイプオルガンや時計も作った。
隈庄城、木山城、矢部城、愛藤寺城を支城として、隈庄城に弟・小西主殿介、愛籐寺城には結城弥平次ら一族重臣を城代に任じ、バテレン討伐令で失脚した高山右近の旧臣を多数家臣に取り立てている。しかし、残りの肥後北半国を領していた加藤清正とは境界線をめぐって次第に確執を深めて行った。
小西行長の名が広く知られるようになったのは明の沈惟敬(しんいけい)との講和交渉を小西行長が日本代表として交渉を進めたからである。しかし、朝鮮攻めが決定すると、1592年からの文禄の役では、娘・妙の婿でもある対馬領主の宗義智と共に第一軍として6000を率いて朝鮮へ渡航。小西行長と加藤清正の両名が先鋒となることを希望していたが、豊臣秀吉は小西行長に大黒の馬を贈って先鋒として、加藤清正を2番手とした。
 小西行長らは漢城(現ソウル)を陥落させるなど進撃したが、その後はこう着状態となり、小西行長・石田三成らが中心となって和平交渉を進めた。この時、父・小西隆佐(小西立佐)は、兵糧の後方支援を担当していたようだが、肥前国名護屋で発病すると帰国したが、1592年京都で亡くなっている。
 小西行長は、1597年の慶長の役でも加藤清正と共に先鋒を任命されて、南原城攻略などで活躍したが、1598年8月、豊臣秀吉が亡くなり戦いは終結し、島津義弘らの救援も受けて殿軍(しんがり)を務め、12月に無事帰国した。その後は、徳川家康の指示で動くようになり、1599年に薩摩で起こった島津家の内紛では、徳川家康から派遣されている。
1600年、上杉景勝の会津征伐では、徳川家康より上方残留を命じられ、関ヶ原の戦いでは、石田三成に協力して西軍として布陣した。徳川家康寄りだったにも拘わらず、小西行長が西軍に与したのには、朝鮮出兵で強く結びついていた石田三成や、以前仕えた宇喜多家への義理、東軍の加藤清正との対立などが考えられる。小西行長の兵力は、朝鮮出兵での消耗からまだ立ち直っておらず、意外なほど小規模だったようで、4000と言う布陣は石田三成らが貸した兵が多かったとされる。
 小西行長は天満山に布陣して東軍の田中吉政、筒井定次らの部隊と交戦したが、小早川秀秋らの裏切りで大谷吉継が壊滅すると、続いて小西行長・宇喜多秀家も崩れ、小西行長は伊吹山中に逃亡した。9月19日、関ヶ原の庄屋・林蔵主に匿われていたが、観念した小西行長は自らを捕縛して褒美をもらうように林蔵主に薦めたと言う。(キリシタンだった為、自害はしなかったとされる。)
 しかし、林蔵主はこれを受けず、竹中重門の家臣・伊藤源左衛門と山田杢之丞の両名に事情を説明して、共々小西行長を護衛して草津にあった村越直吉の陣まで連れて行ったと言う。その2日後には石田三成が捕まり、その翌日には安国寺恵瓊が捕縛された。
 3人は9月29日に大坂と堺で引き廻されて、10月1日、京都の六条河原にて処刑された。その後、首は三条河原で晒されたと言う。享年46。 】

カトリック高槻教会にある右近像.jpg

カトリック高槻教会にある右近像(イタリア人の彫刻家ニコラ・アルギイニの作)
http://www.catholic-takatsuki.jp/ukon_takayama/


https://www.touken-world.jp/tips/65545/

【 西暦(和暦)  年齢 出来事
1552年(天文21年)1歳  摂津国(現在の大阪府北中部、及び兵庫県南東部)にて、高山友照(たかやまともてる)の嫡男として生まれる。高山氏は、59代天皇・宇多天皇(うだてんのう)を父に持つ敦実親王(あつみしんのう)の子孫。また高山氏は、摂津国・高山(大阪府豊能町)の地頭を務めていた。
1564年(永禄7年)13歳  父・高山友照が開いた、イエズス会のロレンソ了斎(ろれんそりょうさい)と、仏僧の討論会を契機に入信。妻子や高山氏の家臣、計53名が洗礼を受け、高山一族はキリシタンとなる。高山右近の洗礼名ドン・ジュストは、正義の人を意味する。父はダリヨ、母はマリアという洗礼名を授かる。
1568年(永禄11年)17歳 織田信長の強力な軍事力による庇護のもと、室町幕府15代将軍となった足利義昭(あしかがよしあき)の命により、高槻城(たかつきじょう:大阪府高槻市)に和田惟政(わだこれまさ)が派遣される。これに伴い、高山友照・高山右近親子は、和田氏に仕えることとなる。
1571年(元亀2年)20歳  白井河原の戦い(しらいかわらのたたかい)において和田惟政が、池田氏の重臣・荒木村重(あらきむらしげ)に討たれる。高山右近は和田惟政の跡を継いだ嫡男・和田惟長(わだこれなが)による高山親子の暗殺計画を知る。
1573年(元亀4年/天正元年)22歳 荒木村重の助言を受け、主君・和田惟長への返り討ちを決行。高槻城で開かれた会議の最中に、和田惟長を襲撃し致命傷を負わせた。その際、高山右近も深い傷を負う。高山親子は荒木村重の配下となり、高槻城主の地位を高山右近が譲り受ける。
1578年(天正6年)27歳  主君・荒木村重が織田家から離反。高山右近が再考を促すも荒木村重の意志は固く、やむなく助力を決断。荒木村重は居城・有岡城(ありおかじょう:兵庫県伊丹市)での籠城を決め、有岡城の戦い(ありおかじょうのたたかい)へと発展。
1579年(天正7年)28歳  有岡城にて織田軍と対峙。織田信長から、「開城しなければ、修道士達を磔(はりつけ)にする」という苛烈な脅しを受ける。これにより高山右近は領地や家族を捨て頭を丸め紙衣(かみこ)一枚で、単身織田信長のもとへ投降。その潔さに感じ入った織田信長は、再び高槻城主の地位を高山右近に安堵。摂津国・芥川郡(あくたがわぐん)を拝領した高山右近は、2万石から4万石に加増され、以降織田信長に仕えることとなる。
1580年(天正8年)29歳  織田信長が、安土城城下に諸将のための邸宅を建築。高山右近にも授与される。
1581年(天正9年)30歳  織田信長の使者として、鳥取城(鳥取県鳥取市)を侵攻中の羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)のもとへ参陣。織田信長秘蔵の名馬3頭を羽柴秀吉に授与し、織田信長へ戦況を報告する。ローマから派遣された巡察師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノを迎え盛大な復活祭を開催する。
1582年(天正10年)31歳 甲州征伐において、織田信長が諏訪に布陣。西国諸将のひとりとしてこれに帯同する。山崎の戦いでは先鋒(せんぽう)を務め、明智光秀軍を破る。
1583年(天正11年)32歳 柴田勝家との賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)で、豊臣家の勝利に貢献する。
1584年(天正12年)33歳 徳川家康・織田信雄(おだのぶかつ)連合軍と、豊臣軍が対峙した小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)に参戦。
1585年(天正13年)34歳 歴戦の戦功が認められ、播磨国・明石(現在の兵庫県明石市)の船上城(ふなげじょう)を豊臣秀吉から拝領。6万石の大名となる。
1587年(天正15年)36歳 6月、筑前国(現在の福岡県西部)でバテレン追放令が施行される。豊臣秀吉に棄教を迫られ、領土の返上を申し出る。かつて同じく豊臣秀吉の家臣を務めていた小西行長(こにしゆきなが)にかくまわれ、肥後国(現在の熊本県)や小豆島(現在の香川県小豆郡)で暮らす。最終的には、加賀国(現在の石川県南部)の前田利家(まえだとしいえ)に預けられ、密かに布教活動を続けながら禄高1万5,000石を受け、政治面や軍事面の相談役となる。
1600年(慶長5年)49歳  関ヶ原の戦いの前哨戦である浅井畷の戦い(あさいなわてのたたかい)では東軍に属し、丹羽長重(にわながしげ)を撃退する。
1609年(慶長14年)58歳 高岡城(現在の富山県高岡市)の縄張設計を担当。
1614年(慶長19年)63歳 キリシタンへの弾圧が過酷さを増し、徳川家康がキリスト教の禁教令を発布。国外追放の命令が下され、妻・高山ジュスタを始めとする一族を引き連れ、長崎経由でスペイン領ルソン島のマニラ(現在のフィリピン)へ旅立つ。スペイン国王の名において国賓待遇で歓待された。
1615年(慶長20年/元和元年)64歳 前年の上陸からわずか40日後、熱病に冒され息を引き取る。葬儀は聖アンナ教会で10日間に亘って執り行われ、マニラ全市を挙げて祈りが捧げられた。
2016年(平成28年) バチカン市国にあるローマ教皇庁から、福者(ふくしゃ:没後、その聖性と徳を認められた信者に与えられる称号)に認定される。 】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-03-13

【(「高台院」周辺(侍女)のキリシタン関係者)

小西行長(洗礼名=アウグスティヌス(アゴスチノ、アグスチノ)/ドム・オーギュスタン・ジヤクラン)
↑↓
父:小西隆佐(洗礼名:ジョウチン)、※母:ワクサ(洗礼名:マグダレーナ)=侍女
兄弟:如清(洗礼名:ベント)、行景(洗礼名:ジョアン)、小西主殿介(洗礼名:ペドロ)、小西与七郎(洗礼名:ルイス)、伊丹屋宗付の妻(洗礼名:ルシア)
妻:正室:菊姫(洗礼名:ジュスタ)
側室:立野殿(洗礼名:カタリナ)
※娘:小西弥左衛門の妻 - 菊姫との間の子。霊名カタリナ

高山右近(洗礼名=ジュスト・ユスト)
↑↓
父母:父:高山友照、母:高山(洗礼名=マリア)
妻:正室・高山(洗礼名=ジュスタ)
子:洗礼名・ルチヤ(横山康玄室)

内藤如安(洗礼名=洗名ジョアン)
↑↓
父母:父・松永長頼、母:・藤国貞の娘 妹・内藤ジュリア=女子修道会ベアタス会を京都に設立=豪姫の洗礼者?

不干斎ハビアン(1565-1621)の母ジョアンナ=北政所(おね、高台院)の侍女→佐久間信栄(1556-1632)=不干斎との関係は? 】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-04-19

小西行長文鞍.jpg

「梅花皮写象牙鞍(かいらぎうつしぞうげくら) 伝小西行長所用」(安土桃山時代・16世紀 個人蔵)
https://www.kyuhaku.jp/exhibition/exhibition_s39.html

【 梅花皮を模した象牙をふんだんに散りばめた美麗な鞍。小西行長が息女・マリアを対馬の大名・宗義智に嫁がせた際に持たせたものといいます。関ヶ原合戦で行長は斬罪に処されてしまい、徳川政権下での生き残りを図る義智は、マリアを離縁しました。行長の栄光と悲劇を伝える名品です。  】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-03-07

【≪ もし、宗教を大きく、父の宗教と母の宗教とにわけて考えると、日本の風土には母の宗教-つまり、裁き、罰する宗教ではなく、許す宗教しか、育たない傾向がある。多くの日本人は基督教の神をきびしい秩序の中心であり、父のように裁き、罰し怒る超越者だと考えている。だから、超越者に母のイメージを好んで与えてきた日本人には、基督教は、ただ、厳格で近寄り難いものとしか見えなかったのではないかというのを私は序論にした。≫
(遠藤周作『小さな町にて』)

 この遠藤周作の「父の宗教と母の宗教」とに関連して、その遠藤周作の「小西行長伝」の副題がある『鉄の首枷』の、当時の「キリシタン大名」としての「高山右近と小西行長」との、その対蹠的な「キリシタン受容」の仕方が交差して来る。
 この二人は、豊臣秀吉の配下にあって、共に、イエズス会士として、高山右近が「陸の司令長官」とすると、小西行長は「海の司令官」ともいうべき、当時のキリシタン大名の中で将来の嘱望を託された若手の屹立した位置にあった二人と言える。
 そして、天正十四年(一五八七)の豊臣秀吉の「禁教令」(バテレン追放令=伴天連追放令)により、その翌年に高山右近は棄教を迫られるが、右近は信仰を守るために、播磨国(兵庫県)明石領(六万石)の全ての領地と財産を秀吉に返上し、明石領からの追放処分を受ける。
 この時に、その最終の棄教を促す使者として、右近の茶道の師匠である「千利休」に対し、右近は「『宗門は師君の命を重んずる、師君の命というとも改めぬ事こそ武士の本意ではないか』と答えた。利休はその志に感じて異見を述べなかった(『混見摘写』)」と言われている(「ウィキペディア」)。
 この高山右近が明石領から追放処分を受けた天正十五年(一五八七)の「小西行長年譜」(『鉄の首枷(遠藤周作)』所収)には、次のとおり記されている。

≪天正十五年(一五八七)丁亥 (小西行長)三十歳
一月 秀吉自ら島津氏を討つことを決し、諸臣に布告、先鋒を送る。
三月 秀吉、大阪を発して西下する。
四月二十八日 小西行長、加藤嘉明、脇坂安治、九鬼嘉隆の率いる水軍は、秀吉の命で薩摩平佐城を攻撃する。
五月 秀吉は薩摩川内に入り、島津義久は降伏する。(略)
六月七日 秀吉は筑前宮崎に帰り、九州諸大名の封城を定める。(略)
同十九日 秀吉は日本副管区長コエリョを呼びつけてキリスト教の禁止、二十日以内を期して国外追放を布告する。高山右近は棄教を肯んぜず、明石の所領を棄てる。
六月下旬~七月上旬 この頃オルガンティーノ師は動揺した小西行長と室津で会う。信仰と権力の板挟みになった行長は、面従腹背に生きる。
八月~九月 (略)
十月 秀吉は北野大茶湯を催す。 ≫(「小西行長年譜」(『鉄の首枷(遠藤周作)』p271所収)

この「小西行長年譜」に出てくる、小西行長の「面従腹背の生き方」について、『鉄の首枷』では、次のように綴っている。

≪ 右近が永遠の神以外には仕えぬと室津で語った時、行長は友人とはちがった「生き方」をしようと決心した。それは堺商人がそれまで権力者にとってきたあの面従腹背(めんじゅうふくはい)の生き方である。表では従うとみせ、その裏ではおのれの心はゆずらぬという商人の生き方である。(中略)
室津で行長がオルガンティーノの決意の前に泣いたことは彼の生涯の転機となった。その正確な日付は我々にはわからぬが天正十五年(一五八七)の陰暦六月下旬から七月上旬であったことは確かである。ながい間、彼は神をあまり問題にはしていなかった。彼の受洗は幼少の時であり、その動機も功利的なものだったからだ。にもかかわらず彼はこの日から、真剣に神のことを考えはじめるようになる。そのためには高山右近という存在とその犠牲が必要だったのである。≫(『鉄の首枷』p95-98)

 ここで、「高山右近」(行長より六歳上とすると三十六歳)の、「永遠の神(Deus)以外には仕えぬ」とする、その「キリシタン受容」を、「父の宗教」とすると、上記の「小西行長」の「面従(面=棄教=永遠の神(Deus)を棄てる)、腹背(心=永遠の神(Deus)に従う)」の「キリシタン受容」の仕方も、これまた、壮絶な「父の宗教(Deus)=キリスト信仰」であるという思いと同時に、ここに、「母なる宗教(Mariae)=マリア信仰」の、その萌芽の全てが宿っているように解したい。
 グレコには、上記の「 ペテロは、外に出て、激しく泣いた。」( ルカの福音書 22章62節 )を主題とした「聖ペテロの涙」の作品もあるが、そこには、「小さくマグダラのマリア」が描かれている。この「マグダラのマリア」とは、「聖母マリア」が「キリストの生母たるマリア」とするならば、「キリストの最期をみとった使徒たるマリア」ということになる。

ペドロの涙.jpg

聖ペテロの涙 エル・グレコ フィリップス・コレクション蔵
https://www.marinopage.jp/%e3%80%8c%e8%81%96%e3%83%9a%e3%83%86%e3%83%ad%e3%81%ae%e6%b6%99%e3%80%8d/

≪ 遠く雷鳴が聞こえてきそうな空の下、ペテロはキリストを裏切り、三度否認したことを悔いて、天を仰ぎ涙を流しています。
 グレコ独特の、白眼の部分のウルウルした光がペテロの心情をよく表していて、彼をこの上なく高貴な存在として輝かせています。ペテロの背後には、蔦がからまる洞窟が描かれていますが、蔦は「不滅の愛」のシンボルとされていますから、すでにキリストが悔い悩むペテロを赦し、愛をもって包もうとしているのが感じられます。
 当時、カトリック教会は「悔悛」をテーマとした作品を称揚していましたから、宗教画家だったグレコはマグダラのマリアの悔悛とともに、この聖ペテロをテーマとして礼拝用にいくつも描いています。その中で、この作品はごく初期のもので、グレコ特有のデフォルメもまだ自然な段階にあり、非常に親しみ易い作品の一つと言えると思います。それでも、どこか地上的要素が姿を消し、超自然的な雰囲気が漂ってしまうところは、やはりグレコ・・・と思ってしまうのです。
 できれば自分もゆらゆら揺れて天に昇ってしまいたい、と願うように両手を組むペテロの左手奥には、見えにくいのですが、小さくマグダラのマリアが描かれています。これは、磔刑の三日後、マグダラのマリアが香油を持ってイエスの棺を訪れたことを暗示しています。すでにその時、主は復活した後で、石棺に白い天使が座っていました。これをペテロに知らせようとするマグダラのマリアの姿が描き込まれているのです。
 流れるようなタッチの中に劇的な雰囲気が漂い始めた時期の、グレコらしい作品です。≫  】

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