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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その七)「太田南畝・四方赤良・蜀山人」(その周辺)

四方赤良.jpg

『古今狂歌袋(後編)』所収「四方赤良」(北尾政演(山東京伝)画/宿屋飯盛(石川雅望)撰/天明七年(1787年)/跡見学園女子大学図書館所蔵/百人一首コレクション)
http://ezoushi.g2.xrea.com/kokonkyoukafukuro2.html
「絵双紙屋」
http://ezoushi.g2.xrea.com/index.html
≪かくばかり目出度く見ゆる世の中を/うらやましくやのぞく月影
 (歌意)このように目出度く見える世の中を、月までが羨ましがってのぞいているじゃないか。(目出度いって。そんなことあるわけないじゃないか。)(一見現実肯定論だが逆説的比喩で世を皮肉る。)
〇本歌
かくばかり経(へ)がたく見ゆる世の中に/うらやましくもすめる月かな/藤原高光・拾遺集
*上の歌のパロディ。≫

尻焼猿人.jpg

『古今狂歌袋(前編)』所収「尻焼猿人」(北尾政演(山東京伝)画/宿屋飯盛(石川雅望)撰/天明七年(1787年)/跡見学園女子大学図書館所蔵/百人一首コレクション)
http://ezoushi.g2.xrea.com/kokonkyoukafukuro.html
≪長月の夜も長文の封じ目を/開くればかよふ神無月なり
(歌意)長月(九月)の夜に長文の封じ目を開けたら読んでいるうちに、とうとう月が変わって神無月(十月)になってしまった。
*尻焼猿人は姫路城主の連枝なので長柄の透かしの唐団扇〔とううちわ〕ごしの肖像画。
*長月(ながつき) 陰暦九月の異称。
*神無月 (かんなづき)陰暦十月の異称。
*長月・長文・(神)無月・なり/「な」音のくり返し。
*封 開 対句。
*尻焼猿人 酒井抱一(ほういつ)/江戸後期の画家。抱一派の祖。名は忠因(ただなお)。鶯村・雨華庵と号した。姫路城主酒井忠以(たださね)の弟。西本願寺で出家し権大僧都となったが、江戸に隠棲。絵画・俳諧に秀で、特に尾形光琳に私淑してその画風に一層の洒脱さを加え一家の風をなした。(1761~1828) ≫

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-04-03

(再掲)

四方赤良.jpg

宿屋飯盛撰・北尾政演(山東京伝)画『吾妻曲狂歌文庫』所収「四方赤良(大田南畝)」
http://www.dh-jac.net/db1/books/results-thum.php?f1=Atomi-000900&f12=1&-sortField1=f8&-max=40&enter=portal

 大田南畝は、寛延二年(一七四九)、牛込御徒組屋敷(新宿区中町三七番地)で生まれた。御徒組とは歩兵隊であり、江戸城内の要所や将軍の外出の警護を任とする下級武士の集団で、組屋敷にはその与力や同心が住んでいた。
 十五歳の頃、牛込加賀町の国学者内山賀邸に学んだ。この賀邸の門から、後に江戸狂歌三大家と呼ばれる、「大田南畝(おおたなんぼ)・唐衣橘洲(からごろもきっしゅう)・朱楽菅江(あっけらかんこう)」が輩出した。
 明和四年(一七六七)南畝一代の傑作、狂詩集『寝惚先生文集』が刊行された。その「序」は、「本草学者・地質学者・蘭学者・医者・殖産事業家・戯作者・浄瑠璃作者・俳人・蘭画家・発明家」として名高い「平賀源内」(画号・鳩渓=きゅうけい、俳号・李山=りざん、戯作者・風来山人=ふうらいさんじん、浄瑠璃作者・福内鬼外=ふくうちきがい、殖産事業家・天竺浪人=てんじくろうにん)が書いている。
 この狂詩集は当時の知識階級だった武士たちの共感を得て大ヒットする。時に、南畝は、弱冠十九歳にして、一躍、時代のスターダムにのし上がって来る。
 上記の『吾妻曲(あづまぶり)狂歌文庫』(宿屋飯盛撰・北尾政演(山東京伝)画)は、天明六年(一七八六)に刊行された。南畝が三十七歳の頃で油の乗り切った意気盛んな時代である。その頃の南畝の風姿を、北尾政演(山東京伝)は見事に描いている。
 この「四方赤良」(南畝の狂歌号)の賛は次のとおりである。

  あな うなぎ いづくの 山のいもと背を さかれて後に 身をこがすとは

 この赤良(南畝)の狂歌は、なかなかの凝った一首である。「あな=穴+ああの感嘆詞」「うなぎ=山芋変じて鰻となる故事を踏まえる」「いも=芋+妹(恋人)」「せ=瀬+背」「わかれ=分かれ(割かれ)+別れ」「こがす=焦がす(焼かれる)+(恋焦がれる)」などの掛詞のオンパレードなのである。
 「鰻」の歌とすると、「穴の鰻よ、いずこの山の芋なのか、その瀬で捕まり、背を割かれ、身をば焼かれて、ああ蒲焼となる」というようなことであろうか。そして、「恋の歌」とすると、「ああ、白きうなじの吾が妹よ、いずこの山家の出か知らず、恋しき君との、その仲を、引き裂かれたる、ああ、この焦がれる思いをいかんせん」とでもなるのであろうか。
 事実、この当時、大田南畝(四方赤良)は、吉原の遊女(三穂崎)と、それこそ一生一大の大恋愛に陥っているのである。その「南畝の大恋愛」を、『江戸諷詠散歩 文人たちの小さな旅(秋山忠彌著)』から、以下に抜粋をして置きたい。

【 狂歌といえば、その第一人者はやはり蜀山人こと大田南畝である。その狂歌の縁で、南畝は吉原の遊女を妾とした。松葉屋抱えの三穂崎である。天明期(一七八一~八九)に入って、狂歌が盛んとなり、吉原でも妓楼の主人らが吉原連なる一派をつくり、遊郭内でしばしば狂歌の会を催した。その会に南畝がよく招かれていたのである。吉原連の中心人物は、大江丸が想いをよせた遊女ひともとの主人、大文字屋の加保茶元成だった。南畝が三穂崎とはじめて会ったのは、天明五年(一七八五)の十一月十八日、松葉屋へ赴いた折であった。どうも南畝は一目惚れしたらしい。その日にさっそく狂歌を詠んでいる。
   香爐峰の雪のはたへをから紙のすだれかゝげてたれかまつばや
 三穂崎の雪のように白い肌に、まず魅かれたのだろうか。年が明けて正月二日には、
   一富士にまさる巫山の初夢はあまつ乙女を三保の松葉や
と詠み、三穂崎を三保の松原の天女に見立てるほどの惚れようである。三穂崎と三保の松原と松葉屋、この掛詞がよほど気に入ったとみえ、
   きてかへるにしきはみほの松ばやの孔雀しぼりのあまの羽ごろ裳
とも詠んでいる。そしてその七月、南畝はついに三穂崎を身請けした。ときに南畝は三十八歳(三十七歳?)、三穂崎は二十余歳だという。妾としてからは、おしづと詠んだ。当時の手狭な自宅に同居させるわけにもいかず、しばらくの間、加保茶元成の別荘に住まわせていた。いまもよく上演される清元の名曲「北州」は、この元成ら吉原連の求めに応じて、南畝が作詞したと伝えられている。 】

尻焼猿人一.jpg

宿屋飯盛撰・北尾政演(山東京伝)画『吾妻曲狂歌文庫』所収「尻焼猿人(酒井抱一)」
http://www.dh-jac.net/db1/books/results-thum.php?f1=Atomi-000900&f12=1&-sortField1=f8&-max=40&enter=portal

【 大田南畝率いる四方(よも)側狂歌連の、あたかも紳士録のような肖像集。色摺の刊本で、狂歌師五十名の肖像を北尾政演(山東京伝)が担当したが、その巻頭に、貴人として脇息に倚る御簾(みす)越しの抱一像を載せる。芸文世界における抱一の深い馴染みぶりと、グループ内での配慮のなされ方とがわかる良い例である。「御簾ほどになかば霞のかゝる時さくらや花の王とみゆらん」。】(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一』所収「作品解説・内藤正人稿」)

【 抱一の二十代は、一般に放蕩時代とも言われる。それはおそらく、松平雪川(大名茶人松平不昧の弟)・松前頼完といった大名子弟の悪友たちとともに、吉原遊郭や料亭、あるいは 互いの屋敷に入り浸り、戯作者や浮世絵たちと派手に遊びくらした、というイメージが大きく影響しているようなだ。だが、この時代、部屋住みの身であった彼は、ただただ酒色に溺れて奔放に暮らしていたわけではない。一七七七(安永六)年、兄の子でのちに藩主を継ぐ甥の忠道(ただひろ)が誕生したことで、数え年十七歳の抱一が酒井家から離脱を余儀なくされ、急激に軟派の芸文世界に接近していったことは確かである。だが、その後の彼の美術や文学の傾注の仕方は尋常ではない。その証拠に、たとえば後世に天明狂歌といわれる狂歌連の全盛時代に刊行された狂歌本には、若き日の抱一の肖像が収められ、並行して多くのフィクション、戯作小説のなかに彼の号や変名が少なからず登場する。さらにまた、喜多川歌麿が下絵を描いた、美しき多色刷りの狂歌集である『画本虫撰(えほんむしえらみ)』(天明八年刊)にもその狂歌が入集するなど、「屠龍(とりゅう)」「尻焼猿人(しりやけのさるんど)」の両号で知られる抱一の俗文芸における存在感は大きかった。このうちの狂歌については、俳諧のそれほど高い文学的境地に達し切れなかったとはいえ、同時代資料における抱一の扱われ方は、二十代の彼の文化サロンにおける立ち位置を教えてくれる。 】(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一』所収「大名家に生まれて・内藤正人稿」)

 御簾ほどに なかば 霞のかゝる時 さくらや 花の王と見ゆらん (尻焼猿人)

 これは、尻焼猿人(抱一)が、この己の肖像画(山東京伝「画」)を見て、即興的に作った一首なのであろうか。とすると、この狂歌の歌意は、次のとおりとなる。

「京都の公家さんの御簾ならず、江戸前のすだれが掛かると、ここ吉原の霞の掛かった桜が、『花の王』のような風情を醸し出すが、そのすだれ越しの人物も、どこやらの正体不明の『花の王』のように見えるわい」というようなことであろうか。
 
 これが、「宿屋飯盛撰」の、「宿屋飯盛」(石川雅望 )作とするならば、歌意は明瞭となってくる。

「この『尻焼猿人』さんは、尊いお方で、御簾越しに拝顔すると、半ば霞が掛かった、その桜花が『百花の王』のように見えるように、なんと『江戸狂歌界の王』のように見えるわい」というようなことであろう。
 
 ほれもせず ほれられもせず よし原に 酔うて くるわの 花の下かげ(尻焼猿人)

 この狂歌は、『絵本詞の花』(宿屋飯盛撰・喜多川歌麿画、天明七年=一七八七)での尻焼猿人(抱一)の一首である。この時、抱一、二十七歳、その年譜(『酒井抱一と江戸琳派全貌(求龍堂)』所収)に、「十月十三日、忠以、徳川家斉の将軍宣下のため、幕府日光社参の名代を命じられ出立。抱一も随行。十六日に日光着。二十日まで。このとき、号「屠龍」。(玄武日記別冊)」とある。
 この頃は、兄の藩主忠以の最側近として、常に、酒井家を支える枢要な地位にあったことであろう。そして、上記の、「『屠龍(とりゅう)』『尻焼猿人(しりやけのさるんど)』の両号で知られる抱一の俗文芸における存在感は大きく」、且つ、「二十代の彼の文化サロンにおける立ち位置」は、極めて高く、謂わば、それらの俗文芸(狂歌・俳諧・浮世絵など)の箔をつけるために、その名を実態以上に喧伝されたという面も多かろう。
 そして、それらのことが、この「俗文芸」と密接不可分の関係にあった「吉原文化」と結びつき、上記の、「抱一の二十代は、一般に放蕩時代とも言われる。それはおそらく、松平雪川(大名茶人松平不昧の弟)・松前頼完といった大名子弟の悪友たちとともに、吉原遊郭や料亭、あるいは 互いの屋敷に入り浸り、戯作者や浮世絵たちと派手に遊びくらした、というイメージが大きく影響している」というようなことが増幅されることになるのであろう。
 しかし、その実態は、この、「ほれもせず ほれられもせず よし原に 酔うて くるわの 花の下かげ」のとおり、「この時代、部屋住みの身であった彼は、ただただ酒色に溺れて奔放に暮らしていたわけではない」ということと、後に、抱一は、吉原出身の「小鶯女史」を伴侶とするが、この当時は、吉原の花柳界の憧れのスターの一人であったが、抱一側としては、常に、酒井家における立つ位置ということを念頭に、分を弁えた身の処し方をしていたように思われる。
 これらのことについては、この『絵本詞の花』の画像と共に、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-03-06

(再掲)

吉原の抱一.jpg

国立国会図書館デジタルコレクション『絵本詞の花』(版元・蔦屋重三郎編)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2533129

 上記は、吉原引手茶屋の二階の花見席を描いた喜多川歌麿の挿絵である。この花見席の、左端の後ろ向きになって顔を見せていないのが、「尻焼猿人=酒井抱一」のようである(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂刊)』)。

 酒井抱一は、ともすると、上記の『本朝画人伝巻一(村松削風著)』のように、「吉原遊興の申し子」のように伝聞されているが、その実態は、この狂歌の、「ほれもせずほれられもせずよし原に 酔うてくるわの花の下蔭」の、この「花の下蔭」(姫路城主酒井雅樂頭家の「次男坊」)という、「日陰者」(「日陰者」として酒井家を支える)としての、そして、上記の、「よし原へ泊り給ふ事ハ一夜もなく」、そして、「與助壱人駕籠へ乗せ、御自身ハ歩行ミて帰り給ふ」ような、常に、激情に溺れず、細やかな周囲の目配りを欠かさない、これぞ、「江戸の粋人(人情の機微に通じたマルチタレント)」というのが、その実像のように思われて来る。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-25

料理通.jpg

『江戸流行料理通大全』p29 「食卓を囲む文人たち」

 上記は、文政五年(一八二二)に刊行された『江戸流行料理通大全』(栗山善四郎編著)の中からの抜粋である。ここに出てくる人物は、右から、「大田南畝(蜀山人)・亀田鵬斎・酒井抱一(?)か鍬形蕙斎(?)・大窪詩仏」で、中央手前の坊主頭は、酒井抱一ともいわれていたが、その羽織の紋所(立三橘)から、この挿絵の作者の「鍬形蕙斎(くわがたけいさい)」のようである(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「江戸の文人交友録(武田庸二郎稿))。
 この「グルメ紹介本」は、当時、山谷にあった高級料亭「八百善」の主人・栗山善四郎が刊行したものである。酒井抱一は、表紙見返し頁(P2)に「蛤図」と「茸・山葵図」(P45)などを描いている。「序」(p2・3・4・5)は、亀田鵬斎の漢文のもので、さらに、谷文晁が、「白菜図」(P5)などを描いている(補記一のとおり)。
 ここに登場する「下谷の三幅対」と称された、年齢順にして、「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」とは、これは、まさしく、「江戸の三幅対」の言葉を呈したい位の、まさしく、切っても切れない、「江戸時代(三百年)」の、その「江戸(東京)」を代表する、「三幅対」の、それを象徴する「交友関係」であったという思いを深くする。
 その「江戸の三幅対」の、「江戸(江戸時代・江戸=東京)」の、その「江戸」に焦点を当てると、その中心に位置するのが、上記に掲げた「食卓を囲む文人たち」の、その長老格の「亀田鵬斎」ということに思い知るのである。
 しかも、この「鵬斎」は、抱一にとっては、無二の「画・俳」友である、「建部巣兆」の義理の兄にも当たるのである。

 上記の、『江戸流行料理通大全』の、上記の挿絵の、その中心に位置する「亀田鵬斎」とは、「鵬斎・抱一・文晃」の、いわゆる、「江戸」(東京)の「下谷」(「吉原」界隈の下谷)の、その「下谷の三幅対」と云われ、その三幅対の真ん中に位置する、その中心的な最長老の人物が、亀田鵬斎なのである。
 そして、この三人(「下谷の三幅対」)は、それぞれ、「江戸の大儒者(学者)・亀田鵬斎」、「江戸南画の大成者・谷文晁」、そして、「江戸琳派の創始者・酒井抱一」と、その頭に「江戸」の二字が冠するのに、最も相応しい人物のように思われるのである。
 これらの、江戸の文人墨客を代表する「鵬斎・抱一・文晁」が活躍した時代というのは、それ以前の、ごく限られた階層(公家・武家など)の独占物であった「芸術」(詩・書・画など)を、四民(士農工商)が共用するようになった時代ということを意味しよう。
 それはまた、「詩・書・画など」を「生業(なりわい)」とする職業的文人・墨客が出現したということを意味しよう。さらに、それらは、流れ者が吹き溜まりのように集中して来る、当時の「江戸」(東京)にあっては、能力があれば、誰でもが温かく受け入れられ、その才能を伸ばし、そして、惜しみない援助の手が差し伸べられた、そのような環境下が助成されていたと言っても過言ではなかろう。
 さらに換言するならば、「士農工商」の身分に拘泥することもなく、いわゆる「農工商」の庶民層が、その時代の、それを象徴する「芸術・文化」の担い手として、その第一線に登場して来たということを意味しよう。
 すなわち、「江戸(東京)時代」以前の、綿々と続いていた、京都を中心とする、「公家の芸術・文化」、それに拮抗しての全国各地で芽生えた「武家の芸術・文化」が、得体の知れない「江戸(東京)」の、得体の知れない「庶民(市民)の芸術・文化」に様変わりして行ったということを意味しょう。

 抱一の「略年譜」(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収)の「享和二年(一八〇二)四十二歳」に、「亀田鵬斎、谷文晁とともに、常陸の若芝金龍寺に出かけ、蘇東坡像を見る」とある。
 この年譜の背後には大きな時代の変革の嵐が押し寄せていた。それは、遡って、天明七年(一七八七)、徳川家斉が第十一代将軍となり、松平定信が老中に就任し、いわゆる、「寛政の大改革」が始まり、幕府大名旗本に三年の倹約令が発せられると、大きな変革の流れであったのである。
 寛政三年(一七九一)、抱一と同年齢の朋友、戯作者・山東京伝(浮世絵師・北尾政演)は、洒落本三作が禁令を犯したという理由で筆禍を受け、手鎖五十日の処分を受ける。この時に、山東京伝らの黄表紙・洒落本、喜多川歌麿や東洲斎写楽の浮世絵などの出版で知られる。「蔦重」こと蔦屋重三郎も過料に処せられ、財産半分が没収され、寛政九年(一七九七)には、その四十八年の生涯を閉じている。
 この蔦屋重三郎が没した寛政九年(一七九七)、抱一、三十七最の時が、抱一に取って、大きな節目の年であった。その十月十八日、西本願寺第十八世文如の弟子となり、出家し、「等覚院文詮暉真」の法名を名乗り、以後、「抱一上人」と仰がれることになる。
 しかし、この抱一の出家の背後には、抱一の甥の姫路藩主、酒井忠道が弟の忠光を養嗣子に迎えるという幕府の許可とセットになっており、抱一は、酒井家を実質的に切り捨てられるという、その「酒井家」離脱を意味するものなのであろう。
 この時に、抱一は、柿本人麻呂の和歌「世の中をうしといひてもいづこにか身をばかくさん山なしの花」を踏まえての、「遯入(のがれい)る山ありの実の天窓(あたま)かな」(句稿『椎の木陰』)との、その出家を受け入れる諦めにも似た一句を詠んでいる。そして、この句は、抱一の自撰句集『屠龍之技』では、「遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな」と、自らの意思で出家をしたように、断定的な句形で所収され、それが最終稿となっている。これらのことを踏まえると、抱一の出家というのは、抱一に取っては、不本意な、鬱積した諸事情があったことを、この一句に託していねかのように思われる。
 これらのことと、いわゆる、時の老中・松平定信の「寛政の改革」とを直接的に結びつけることは極めて危険なことであるが、亀田鵬斎の場合は、幕府正学となった朱子学以外の学問を排斥するところの、いわゆる「寛政異学の禁」の発布により、「異学の五鬼」(亀田鵬斎・山本北山・冢田大峯・豊島豊洲・市川鶴鳴)の一人として目され、その門下生が殆ど離散するという、その現実的な一面を見逃すことも出来ないであろう。
 この亀田鵬斎、そして、その義弟の建部巣兆と酒井抱一との交友関係は、この三人の生涯にわたって密なるものがあった。抱一の「画」に、漢詩・漢文の「書」の賛は、鵬斎のものが圧倒的に多い。そして、抱一の「画」に、和歌・和文の「書」は、抱一が見出した、橘千蔭と、この二人の「賛」は、抱一の「画」の一つの特色ともなっている。
 そして、この橘千蔭も、鵬斎と同じように、寛政の改革により、その賀茂真淵の国学との関係からか、不運な立場に追い込まれていて、抱一は、鵬斎と千蔭とを、自己の「画」の「賛」者としていることは、やはり、その根っ子には、「寛政の改革」への、反権力、反権威への、抱一ならでは、一つのメッセージが込められているようにも思われる。
 しかし、抱一は、出家して酒井家を離脱しても、徳川家三河恩顧の重臣の譜代大名の酒井雅樂頭家に連なる一員であることは、いささかの変わりもない。その酒井雅樂頭家が、時の権力・権威の象徴である、老中首座に就いた松平定信の、いわゆる厳しい風俗統制の「寛政の改革」に、面と向かって異を唱えることは、決して許されることではなかったであろう。

 さて、「下谷の三幅対(抱一・鵬斎・文晁)」の、鵬斎・抱一に並ぶ、もう一人の谷文晁は、鵬斎・抱一が反「松平定信(楽翁)」とすると、親「松平定信(楽翁)ということになる。
文晁は、寛政四年(一七九に)に、寛政の改革の中心人物・松平定信に認められて、その近習となり、定信の伊豆・相模の海岸防備の視察に随行して、西洋画の陰影法、遠近法を用いた『公余探勝(こうよたんしょう)図巻』を描き、また『集古十種』の編纂にも従って挿図を描いている。
 その画塾写山楼には多くの弟子が参集し、渡辺崋山・立原杏所など後の大家を輩出した。写山楼の名の由来は、下谷二長町に位置し楼上からの富士山の眺望が良かったことによる。門弟に対して常に写生と古画の模写の大切さを説き、沈南蘋の模写を中心に講義が行われ、、狩野派のような粉本主義・形式主義に陥ることなく、弟子の個性や主体性を尊重する教育姿勢だったと言う。弟子思いの師としても夙に知られているが、権威主義的であるとの批判も伝えられている。それは、鵬斎・抱一が反「松平定信(楽翁)」なのに比して、親「松平定信(楽翁)」であったことなどに由来しているのかも知れない。
 しかし、この「鵬斎・抱一・文晁」の三人の交友関係は、その「下谷の三幅対」の命名のとおり、「長兄・鵬斎、次兄・抱一、末弟・文晁」の、真ん中に「鵬斎」、右に「抱一」、左に「文晁」の、その「三幅対」という関係で、そして、その関係は、それぞれの生涯にわたって、いささかの微動すらしていないという思いを深くする。

(追記)「芭蕉涅槃図(鈴木芙蓉画・太田南畝賛)」周辺

芭蕉涅槃図.jpg

「芭蕉涅槃図(鈴木芙蓉画・太田南畝賛)」(部分図)「早稲田大学會津八一記念博物館」蔵
≪大田南畝賛「椎樹芭蕉木笠 琵琶湖水跋提河 一自正風開活眼 俳諧不復擬連歌 庚午仲冬 蜀山人題」≫
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E8%8A%99%E8%93%89

 この「太田南畝(四方赤良・蜀山人)賛」の、「椎樹芭蕉木笠 琵琶湖水跋提河」は、芭蕉の「幻住庵記」の末尾に記されている、「先(ま)づたのむ椎の木も有(あり)夏木立」に由来している。

https://intweb.co.jp/miura/myhaiku/basyou_genjyu/genjyuan01.htm

≪「幻住庵記」全文
石山の奥、岩間のうしろに山有り。国分山といふ。そのかみ国分寺の名を伝ふなるべし。… 日ごろは人の詣(もうで)ざりければ、いとど神さび、もの静かなるかたはらに、住み捨てし草の戸有り。蓬(よもぎ)・根笹軒(ねざさのき)をかこみ、屋根もり壁おちて、狐狸(こり)ふしどを得たり。幻住庵(げんじゅうあん)といふ。…
 予また市中を去ること十年ばかりにして、五十年(いそじ)やや近き身は、蓑虫(みのむし)の蓑を失ひ、蝸牛(かたつむり)家を離れて、奥羽象潟の暑き日に面(おもて)をこがし、高砂子(たかすなご)歩み苦しき北海の荒磯(あらいそ)にきびすを破りて、今歳(ことし)湖水の波にただよふ。鳰(にお)の浮巣の流れとどまるべき蘆(あし)の一本のかげたのもしく、軒端ふきあらため、垣根ゆひそへなどして、卯月(うげつ)の初めいとかりそめに入りし山の、やがて出でじとさへ思ひそみぬ。…  かく言へばとて、ひたぶるに閑寂(かんじゃく)を好み、山野に跡を隠さんとにはあらず。やや病身、人に倦(う)んで、世をいとひし人に似たり。つらつら年月の移り来し拙(つたな)き身の科(とが)を思ふに、ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一(ひと)たびは佛離祖室の扉(とばそ)に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこの一筋につながる。楽天は五臓の神を破り、老杜は痩(やせ)せたり。賢愚文質(けんごうぶんひつ)の等しからざるも、いづれか幻の栖(すみか)ならずやと、思ひ捨ててふしぬ。
 先づたのむ椎の木も有夏木立  ≫(『猿蓑』所収「抜粋」)

 そして、太田南畝の「壬戌紀行」(「享和2年(1802年)3月21日、 大田南畝 が大坂銅座詰の任を終え大坂を立ち、木曾路を経由して4月7日に江戸に着くまでの紀行」)は、
「3月22日(東福寺・西本願寺・金閣寺)→3月23日(膳所城・石山寺・草津宿)→3月24日(高宮宿・醒ヶ井宿・柏原宿)→3月25日(不破の関屋の跡・垂井宿・赤坂宿)→3月26日(岐阜城・犬山城・鵜沼宿)→3月27日(細久手宿・大湫宿・大井宿)→3月28日(立場茶屋・上松宿・福島関所)→4月1日(下諏訪宿)→4月2日(和田宿・望月宿)→4月3日(八幡宿・塩名田宿・追分宿・坂本宿)→4月4日(碓氷関所跡・板鼻宿・高崎宿)→4月5日(本庄宿・深谷宿・熊谷宿)→4月6日(鴻巣宿・浦和宿・蕨宿)→4月7日(戸田の渡し・板橋宿)という行程である。

 抱一の「花洛の細道」は、寛政九年(一七九七)、そして、太田南畝の「壬戌紀行」は、享和二年(一八〇二)のことで、抱一の方が先行するが、抱一と南畝の交遊は、天明八年(一七八八、「一月、太田南畝との交流初見」=『酒井抱一・井田太郎著・岩波新書』)、さらには、天明四年(一七八四、『たなぐひあわせ』に杜綾公で入集)の頃まで遡ることが出来るのかも知れない。
 とにもかくにも、抱一(狂歌名=尻焼猿人)と太田南畝(狂歌名=四方赤良)との関係というのは、謂わば、「狂歌・俳諧・戯作・漢詩・浮世絵・吉原」等々の、抱一の兄事すべき師匠格の一人であったということは、抱一の自撰句集『屠龍之技』の「跋」を太田南畝が起草していることからも、窺い知れるところのものであろう。 
 そして、その太田南畝が、上記の「壬戌紀行」で、「西本願寺」そして「石山寺」、さらに、
「芭蕉涅槃図(鈴木芙蓉画・太田南畝賛)」で、「椎樹芭蕉木笠 琵琶湖水跋提河 一自正風開活眼 俳諧不復擬連歌」との賛書きをしているということは、この幻住庵で、抱一一行の一人の「其爪」が剃髪して、次の前書のある一句を、抱一が、その『軽挙館句藻』に遺していることは、やはり、特記をして置く必要があろう。

   みなみな翁の旧跡おたづぬるに、キ爪が幻住庵の清水に
かしら剃(そり)こぼちけるをうらやみて
(石山寺・幻住庵:其爪の剃髪) 椎の霜個ゝの庵主の三代目(『軽挙館句藻』所収「椎の木蔭」)

 さらに、これらの句が入集されている句集名が「椎の木陰・椎の木かげ」で、その句集名の由来は、本所番場の屋敷(酒井家の下屋敷関連?)近くの「平戸藩主松浦家の上屋敷(隅田川を往来する猪牙舟がランドマークした)椎の木」に因るとされているが(『酒井抱一・玉蟲敏子著・日本史リーフレット』)、芭蕉が生前自らの意思で公表した唯一の俳文とされている「幻住庵記」(『猿蓑』所収)の「先づたのむ椎の木も有(あり)夏木立」の、その「椎の木」も、その背景の一つに横たわっているようにも解せられる。

先づ頼む椎の木も有り夏木立(芭蕉「幻住庵の記」)
(これからどうしようというほどの計画があるわけではない。とりあえず旅路の果てに幻住庵にやってきた。見れば、庵の傍には大きな椎木がある。先ずはこの木の下で心と身体を休めてみようではないか。西行の歌「ならび居て友を離れぬ子がらめの塒<ねぐら>に頼む椎の下枝」(『山家集 下 雑の部』)に呼応していることは明らか。ここに子がらめとは、小雀のこと。)
https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/genjuan/genjuan5.htm#ku

 この「幻住庵記」は、「A最初期草案断簡・B初期草案・C初稿(元禄三夷則下)・D再稿草案断簡・E再稿一・再稿二(元禄三初秋日)・F定稿一(元禄三秋)・定稿二(元禄三仲秋日)・定稿三(猿蓑)」と、その諸本は、六類型、合計九種類のものが伝来している(『芭蕉七部集(新日本古典文学大系)』所収「幻住庵記の諸本(白石悌三稿))。
 その「A最初期草案断簡」(京都国立博物館真蹟)に、「ともにこもれる人ひとり心さしひとしうして水雲の狂僧なり、薪をひろひ水をくみて(以下欠)」とあり、この「水雲の狂僧」は、『笈日記』を著わした「各務支考」(寛文5年(1665年) - 享保16年)その人だとしている見方がある(『俳聖芭蕉と俳魔支考(堀切実著)』)。
 もとより、支考は、江戸時代中期の人で、南畝・抱一は、それに続く後期の人と、時代を異にするが、「其角らを祖とする都会派江戸座の蕉門」の「抱一」らと、「支考らを祖とする田舎蕉門(「支(支考)麦(麦林=乙由)の徒」と揶揄された「美濃派・伊勢派」など)」とは、相互に相対立する流派と考えられがちだが、少なくとも、南畝・抱一らは、支考らの『葛の松原』・『笈日記』・『梟日記』・『続五論』・『本朝文鑑』・『俳諧十論』・『俳諧古今抄』・『十論為弁抄』・『芭蕉翁廿五箇条』・『古今集俳諧歌解』などとは、直接・間接とを問わず大きな影響を受けたであろうことは、想像するに難くない。
 この支考に連なる俳人で、蕪村と親交の深い俳人に、「雲裡坊杉夫(さんぷ)」(1692~1761)が、「幻住庵再興のため各地を行脚して句を請い、宝暦二年に『蕉門名録集』を刊行した」ことは、下記のアドレスで紹介されている。

https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/haiku/42260035075.htm

≪雲裡坊杉夫(うんりぼうさんぷ)1692~1761
渡辺氏。尾張の人。俳諧を支考に学び、鳥巣仁の号を授けられ、三四庵・杉夫・有椎翁五世とも号した。延享四年琵琶湖畔の無名庵に入って五世の主となり、境内に幻住庵を再興し、且つ幻住庵の椎の木を無名庵に移植して有椎老人と号した。交友が多く、四方を行脚した。宝暦五年橋立に停留中の蕪村を訪ねて歌仙を巻き、その帰るに当って蕪村は宮津から橋立まで送って来て、「短夜や六里の松に更けたらず 蕪村」と別れを惜しんでいる。のち、雲裡追悼集『桐の影』には、雲裡が江戸の中橋にいた昔をなつかしんだ蕪村の句があって、蕪村東遊時代からの友人である事が知られる。宝暦十年秋、無名庵を出て京都鎌倉の夜長庵に移り、晩秋には筑紫の旅に出た。この行庵が出来た記念に『柱かくし』、寛保三年『桑名万句』があり、無名庵に入って後、幻住庵再興のため各地を行脚して句を請い、宝暦二年に『蕉門名録集』を刊行した。宝暦十一年四月二十七日に没した。年六十九。追福集に明和二年『鳥帽子塚』、安永三年に『向芝園廻文』、同六年に『桐の影』、七年に『蕉門花伝授』などがある。『鳥帽子塚』には宝暦十一年盛夏浮巣庵文素の序があり、 他の文献に徴しても誤りはないと思われるが、『向芝園廻文』には、雲裡の像の上に「宝暦十二年壬午歳四月甘七日卒、葬於義仲寺、時年六十六」とある。≫
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