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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その八)「亀田鵬斎」(その周辺)

鵬斎像.jpg

谷文晁筆・亀田鵬斎賛「亀田鵬斎像」(北村探僊宿模)個人蔵 文化九年(一八一二)作
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-03-20

 この「亀田鵬斎像」は、文化九年(一八一二)四月六日、鵬斎還暦の賀宴が開かれ、越後北蒲原郡十二村の門人曽我左京次がかねてから師の像を文晁に依頼して出来たものであるという。そして、その文晁画に、鵬斎は自ら自分自身についての賛を施したのである。
 その賛文と訳文とを、『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達(渥美国泰著)』から抜粋して置きたい。

 這老子  其頸則倭 其服則倭  この老人  頭は日本  服も日本だ
 爾為何人 爾為誰氏 仔細看来  どんな人で 誰かと見れば 鵬斎だ
 鵬斎便是 非商非工 非農非士  商でなく 工でなく 農でなく 士でもない
 非道非佛 儒非儒類       道者でなく 仏者でなく 儒類でもない
 一生飲酒 終身不仕       一生酒を飲んで過ごし 仕官もしない
 癡耶點耶 自視迂矣       ばかか わるか 気の利かぬ薄のろさ
  壬申歳四月六十一弧辰月題
   関東亀田興 麹部尚書印

鵬斎像・文晁筆.jpg

「亀田鵬斎像」谷文晁画 北村探僊縮模(「ウィキペディア」=上記図の部分拡大図)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-25

 この「鵬斎」像と、冒頭に掲げた「食卓を囲む文人たち」(次図)の中央に位置する「鵬斎」像とを交互に見て行くと、江戸後期の、当時の並み居る「文人・墨客」の中で、まさに、鵬斎というのは、常に中央に居した、その人物像が彷彿として来る。
 ちなみに、冒頭の「食卓を囲む文人たち」の、右端の大田南畝(蜀山人・四方赤良)は、左端の、大窪詩仏(詩聖堂・既酔亭)について、「詩は詩仏(大窪詩仏)、書は米庵(市川米庵)に狂歌俺(大田南畝)、芸者小万(山谷堀の花形芸者)に料理八百善(山谷堀の名店)」という狂歌を残している。
 この狂歌は、料亭・八百善で、当時の山谷堀の花形芸者であった小万に、その三味線の胴裏に、この狂歌の賛を書いたとも言われている。
 そして、もう一人の、鵬斎の前面に座っている、抱一と間違われている坊主頭の鍬形蕙斎は、一介の浮世絵師から異例の抜擢で美作津山藩の御用絵師となった画人で、山東京伝(北尾政演)とは、同門(北尾重正門)、同年齢(宝暦十一年=一七六一)の間柄である。

料理通.jpg

『江戸流行料理通大全』p29 「食卓を囲む文人たち」

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-25

 上記は、文政五年(一八二二)に刊行された『江戸流行料理通大全』(栗山善四郎編著)の中からの抜粋である。ここに出てくる人物は、右から、「大田南畝(蜀山人)・亀田鵬斎・酒井抱一(?)か鍬形蕙斎(?)・大窪詩仏」で、中央手前の坊主頭は、酒井抱一ともいわれていたが、その羽織の紋所(立三橘)から、この挿絵の作者の「鍬形蕙斎(くわがたけいさい)」のようである(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「江戸の文人交友録(武田庸二郎稿))。
 (中略)
 上記の、『江戸流行料理通大全』の、上記の挿絵の、その中心に位置する「亀田鵬斎」とは、「鵬斎・抱一・文晃」の、いわゆる、「江戸」(東京)の「下谷」(「吉原」界隈の下谷)の、その「下谷の三幅対」と云われ、その三幅対の真ん中に位置する、その中心的な最長老の人物が、亀田鵬斎なのである。
 そして、この三人(「下谷の三幅対」)は、それぞれ、「江戸の大儒者(学者)・亀田鵬斎」、「江戸南画の大成者・谷文晁」、そして、「江戸琳派の創始者・酒井抱一」と、その頭に「江戸」の二字が冠するのに、最も相応しい人物のように思われるのである。
 これらの、江戸の文人墨客を代表する「鵬斎・抱一・文晁」が活躍した時代というのは、それ以前の、ごく限られた階層(公家・武家など)の独占物であった「芸術」(詩・書・画など)を、四民(士農工商)が共用するようになった時代ということを意味しよう。
 それはまた、「詩・書・画など」を「生業(なりわい)」とする職業的文人・墨客が出現したということを意味しよう。さらに、それらは、流れ者が吹き溜まりのように集中して来る、当時の「江戸」(東京)にあっては、能力があれば、誰でもが温かく受け入れられ、その才能を伸ばし、そして、惜しみない援助の手が差し伸べられた、そのような環境下が助成されていたと言っても過言ではなかろう。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-03-06

写山楼.jpg

「江戸・足立 谷家関係地図」(谷文晁関係・部分抜粋図)
https://blog.goo.ne.jp/87hanana/e/5009c26242c14f72aff5e7645a2696a9

 上記は、谷文晁関係の「江戸・足立 谷家関係地図」のものであるが、ここに、「下谷三幅対」と言われた、「酒井抱一(宅)」(雨華庵)と「谷文晁(宅)」(写山楼)と「亀田鵬斎(宅)」の、それぞれの住居の位置関係が明瞭になって来る。
 その他に、「鵬斎・抱一・文晁」と密接な関係にある「大田南畝」や「市河米庵」などとの、それぞれの住居の位置関係も明瞭になって来る。その記事の中に、「文晁の画塾・写山楼と酒井抱一邸は、3キロくらい。お隣は、亀田鵬斎(渥美国泰著『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達』には、現在の台東区根岸3丁目13付近)」とある。
 この「酒井抱一宅・亀田鵬斎宅」は、旧「金杉村」で、正岡子規の「根岸庵」は、旧「谷中村」であるが、この地図の一角に表示することが出来るのかも知れない。また、当時の江戸化政期文化のメッカである「新吉原」も表示することが出来るのかも知れない。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-03-09

高陽闘飲図二.jpg

「高陽闘飲図巻」(大田南畝記・歌川季勝画)(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_01594/wo06_01594_p0014.jp

 この「高陽闘飲図巻」中の、桟敷席で酒合戦を観覧しているのは、右から、「文晁・鵬斎・抱一」の下谷の三幅対(三人組)の面々であろう。そして、鵬斎と抱一との間の人物は、大田南畝、抱一の後ろ側の女性と話をしている人物は、文晁の嗣子・谷文一なのかも知れない。
 そして、この抱一像は、法衣をまとった「権大僧都等覚院文詮暉真(ぶんせんきしん)・抱一上人」の風姿で、鵬斎も文晁も、共に、羽織り・袴の正装であるが、この酒合戦の桟敷の主賓席では一際異彩を放ったことであろう(その上に、抱一は「下戸」で酒は飲めないのである)。
 この時の、抱一像について、別種の「文晁(又は文一)作」とされているものを、下記のアドレスで紹介している(しかし、当日の写生図は、この図巻の「文晁・文一合作」のものが基本で、それを模写しての数種の模本のものなのかも知れない)。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-30

 ここで、文化十二年(一八一五)の、この海外にまで名を馳せている(ニューヨーク公共図書館スペンサーコレクション蔵本)、この「千住酒合戦」(「高陽闘飲」イベント)は、
「酒飲みで、酒が足りなくなると羽織を脱いで妻に質に入れさせ、酒に変えたという」(増田昌三郎稿「江戸の画俳人建部巣兆とその歴史的背景」・ウィキペディア)の、「千住連」の俳諧宗匠・「秋香庵巣兆」(建部巣兆)の、その一周忌などに関連するイベントのような、そんな思いもして来る。
 さらに、続けて、この「高陽闘飲図巻」の、次の「太平餘化」の「題字」は、谷文晁の書のようである。

高陽闘飲図三.jpg

「高陽闘飲図巻」(大田南畝記・歌川季勝画)(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_01594/wo06_01594_p0002.jp

 この文晁書の「太平餘化」が何を意味するのかは不明であるが、建部巣兆の義兄の、そして「下谷三幅対(鵬斎・抱一・文晁)」の長兄たる亀田鵬斎の雅号の一つの「太平酔民」などが背景にあるもののように思われる。

高陽闘飲図四.jpg

「高陽闘飲図巻」(大田南畝記・歌川季勝画)(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_01594/wo06_01594_p0003.jp

 これは、文晁の題字「太平餘化」の後に続く、鵬斎の「高陽闘飲序」(序文)である。ここには、巣兆に関する記述は見当たらない。「千寿(住)駅中六亭主人(注・「中六」こと飛脚問屋「中屋」の隠居・六右衛門)」の「還暦を祝う酒の飲み比べの遊宴」ということが紹介されている。
 この「高陽闘飲」の「高陽」は『史記』に出典があって、「われは高陽の酒徒、儒者にあらず」に因るものらしく、「千住宿の酒徒」のような意味なのであろうが、この「序」を書いた鵬斎自身を述べている感じでなくもない。
 この鵬斎の「序」に、前述の抱一の会場入り口の看板「不許悪客下戸理窟入菴門(下戸・理屈ノ悪客菴門ニ入ルコトヲ許サズ)」の図があって、次に、南畝の「後水鳥記」が続く。
 この「後水鳥記」の「水鳥」は、「酒」(サンズイ=水+鳥=酉)の洒落で、この「後」は、延喜年間や慶安年間の「酒合戦記」があり、それらの「後水鳥記」という意味のようである。
 そして、この南畝の「後水鳥記」と併せ、「酒合戦写生図」(谷文晁・文一合作)が描かれている。
 この「酒合戦写生図」(谷文晁・文一合作)の後に、大窪詩仏の「題酒戦図」の詩(漢詩)、狩野素川筆の「大盃(十一器)」、そして、最後に、市河寛斎の「跋」(漢文)が、この図巻を締め括っている。
 この図巻に出てくる「抱一・鵬斎・文晁・文一・南畝・詩仏・素川・寛斎」と、さながら、江戸化政期のスーパータレントが、当時の幕藩体制の封建社会の身分制度(男女別・士農工商別)に挑戦するように、この一大イベントに参加し、その「高陽闘飲図巻」を合作しているのは何とも興味がつきないものがある(これらに関して、下記アドレスのものを再掲して置きたい)。
 なお、この「高陽闘飲図巻」については、全文翻刻はしていないが、『亀田鵬斎(杉村英治著・三樹書房)』が詳しい。

(追記)「後水鳥記」(大田南畝記)

http://www.j-texts.com/kinsei/shokuskah.html#chap03

 後水鳥記
  文化十二のとし乙亥霜月廿一日、江戸の北郊千住のほとり、中六といへるものの隠家にて酒合戦の事あり。門にひとつの聯をかけて、
不許悪客〔下戸理窟〕入庵門 南山道人書
としるせり。玄関ともいふべき処に、袴きたるもの五人、来れるものにおのおのの酒量をとひ、切手をわたして休所にいらしめ、案内して酒戦の席につかしむ。白木の台に大盃をのせて出す。其盃は、江島杯五合入。鎌倉杯七合入。宮島杯一升入。万寿無彊盃一升五合入。緑毛亀杯二升五合入。丹頂鶴盃三升入。をの/\その杯の蒔絵なるべし。
干肴は台にからすみ、花塩、さゝれ梅等なり。又一の台に蟹と鶉の焼鳥をもれり。羹の鯉のきりめ正しきに、はたその子をそへたり。これを見る賓客の席は紅氈をしき、青竹を以て界をむすべり。所謂屠龍公、写山、鵬斎の二先生、その外名家の諸君子なり。うたひめ四人酌とりて酒を行ふ。玄慶といへる翁はよはひ六十二なりとかや。酒三升五合あまりをのみほして座より退き、通新町のわたり秋葉の堂にいこひ、一睡して家にかへれり。大長ときこえしは四升あまりをつくして、近きわたりに酔ひふしたるが、次の朝辰の時ばかりに起きて、又ひとり一升五合をかたぶけて酲をとき、きのふの人々に一礼して家にかへりしとなん。掃部宿にすめる農夫市兵衛は一升五合もれるといふ万寿無彊の杯を三つばかりかさねてのみしが、肴には焼ける蕃椒みつのみなりき。つとめて、叔母なるもの案じわづらひてたづねゆきしに、人より贈れる牡丹餅といふものを、囲炉裏にくべてめしけるもおかし。これも同じほとりに米ひさぐ松勘といへるは、江の島の盃よりのみはじめて、鎌倉宮島の盃をつくし萬寿無彊の杯にいたりしが、いさゝかも酔ひしれたるけしきなし。此の日大長と酒量をたゝかはしめて、けふの角力のほてこうてをあらそひしかば、明年葉月の再会まであづかりなだめ置きけるとかや。その証人は一賀、新甫、鯉隠居の三人なり。小山といふ駅路にすめる佐兵衛ときこえしは、二升五合入といふ緑毛亀の盃にて三たびかたぶけしとぞ。北のさと中の町にすめる大熊老人は盃のの数つもりて後、つゐに萬寿の杯を傾け、その夜は小塚原といふ所にて傀儡をめしてあそびしときく。浅草みくら町の正太といひしは此の会におもむかんとて、森田屋何がしのもとにて一升五合をくみ、雷神の門前まで来りしを、其の妻おひ来て袖ひきてとゞむ。其辺にすめる侠客の長とよばるゝ者来りなだめて夫婦のものをかへせしが、あくる日正太千住に来りて、きのふの残り多きよしをかたり、三升の酒を升のみにせしとなん。石市ときこえしは万寿の杯をのみほして酔心地に、大尽舞のうたをうたひまひしもいさましかりき。大門長次と名だゝるをのこは、酒一升酢一升醤油一升水一升とを、さみせんのひゞきにあはせ、をの/\かたぶけ尽せしも興あり。かの肝を鱠にせしといひしごとく、これは腸を三杯漬とかやいふものにせしにやといぶかし。ばくろう町の茂三は緑毛亀をかたぶけ、千住にすめる鮒与といへるも同じ盃をかたぶけ、終日客をもてなして小杯の数かぎりなし。天五といへるものは五人とともに酒のみて、のみがたきはみなたふれふしたるに、おのれひとり恙なし。うたひめおいくお文は終日酌とりて江の島鎌倉の盃にて酒のみけり。その外女かたには天満屋の美代女、万寿の盃をくみ酔人を扶け行きて、みづから酔へる色なし。菊屋のおすみは緑毛亀にてのみ。おつたといひしは、鎌倉の盃にてのみ、近きわたりに酔ひふしけるとなん。此外酒をのむといへども其量一升にもみたざるははぶきていはず。写山、鵬斎の二先生はともに江の島鎌倉の盃を傾け、小杯のめぐる数をしらず。帰るさに会主より竹輿をもて送らんといひおきてしが、今日の賀筵に此わたりの駅夫ども、樽の鏡をうちぬき瓢もてくみしかば、駅夫のわづらひならん事をおそれしが、果してみな酔ひふしてこしかくものなし。この日調味のことをつかさどれる太助といへるは、朝より酒のみてつゐに丹頂の鶴の盃を傾けしとなん。一筵の酒たけなはにして、盃盤すでに狼籍たり。門の外面に案内して来るものあり。たぞととへば会津の旅人河田何がし、此の会の事をきゝて、旅のやどりのあるじをともなひ推参せしといふ。すなはち席にのぞみて江の島鎌倉よりはじめて、宮島万寿をつくし、緑毛の亀にて五盃をのみほし、なほ丹頂の鶴の盃のいたらざるをなげく。ありあふ一座の人々汗を流してこれをとゞむ。かの人のいふ。さりがたき所用ありてあすは故郷に帰らんとすれば力及ばす。あはれあすの用なくば今一杯つくさんものをと一礼して帰りぬ。人々をして之をきかしむるに、次の日辰の刻に出立せしとなん。この日文台にのぞみて酒量を記せしものは、二世平秩東作なりしとか。
むかし慶安このとし、大師河原池上太郎左衛門底深がもとに、大塚にすめる地黄坊樽次といへるもの、むねとの上戸を引ぐしおしよせて酒の戦をしき。犬居目礼古仏座といふ事水鳥記に見えたり。ことし鯉隠居のぬし来てふたゝびこのたゝかひを催すとつぐるまゝに、犬居目礼古仏座、礼失求諸千寿野といふ事を書贈りしかば、其の日の掛物とはせしときこへし。かゝる長鯨の百川を吸ふごときはかりなき酒のともがら、終日しづかにして乱に及ばず、礼儀を失はざりしは上代にもありがたく、末代にまれなるべし。これ会主中六が六十の寿賀をいはひて、かゝる希代のたはむれをなせしとなん。かの延喜の御時亭子院に酒たまはりし記を見るに、その筵に応ずるものわづかに八人、満座酩酊して起居静ならず。あるは門外に偃臥し、あるは殿上にえもいはぬものつきちらし、わづかにみだれざるものは藤原伊衡一人にして、騎馬をたまはりて賞せられしとなん。かれは朝廷の美事にして、これは草野の奇談なり。今やすみだ川のながれつきせず、筑波山のしげきみかげをあふぐ武蔵野のひろき御めぐみは、延喜のひじりの御代にたちまさりぬべき事、此一巻をみてしるべきかも。
               六十七翁蜀山人
               緇林楼上にしるす

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-05-10

(追記二)「抱一・鵬斎・文晁と七世・市川団十郎」関連メモ

【酒井抱一の『軽挙館句藻』の文化十三年のところに、  
正月九日節分に市川団十郎来たりければ、扇取り出し発句を乞ふに、「今こゝに団十郎や鬼は外」といふ其角の句の懸物所持したる事を前書して、
  私ではござりませんそ鬼は外   七代目三升
折ふし亀田鵬斎先生来りその扇に
  追儺の翌に団十郎来りければ
  七代目なを鬼は外団十郎     鵬斎
谷文晁又その席に有て、其扇子に福牡丹を描く、又予に一句を乞ふ
  御江戸に名高き団十郎有り
  儒者に又団十郎有り
  畫に又団十郎有り
  その尻尾にすがりて
 咲たりな三幅対や江戸の花     抱一    】
(『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達・渥美国泰著』)


https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-06-23

【「一六四 酒井抱一筆 亀田綾瀬賛 桜に小禽図」「一六五 酒井抱一筆 亀田綾瀬賛 菊に小禽図」「一六五 酒井抱一筆 亀田綾瀬賛 枯芦に白鷺図」 
 十二ヶ月花鳥図の中でも最晩年の作。三図はもと同じ十二ヶ月花鳥図屏風を成していた。他に同屏風より「牡丹に蝶図」(フリア美術館蔵)「柿に目白図」(ファインバーグコレクション)が知られる。掛軸に改装する際、画面の一部を裁ち落としている図もあり、本来はもう少し大きい画面であったようだ。
 これらには抱一の親友の亀田鵬斎の子、綾瀬(りょうらん)(一七七八~一八五三)が七言絶句の賛を寄せる。綾は抱一より十七歳年下だが、文政九(一八二六)年に鵬斎は亡くなるので、その前後に抱一が綾瀬と親密に関わった可能性は高いと思われる。
 このセットは細い枝や茎を対角線状に配し、画面の上から下にゆったりとモチーフが下降する構図を特徴とする。最後の数年の抱一作品には花鳥画が少ないが、ここでは余白の中で鳥が要のような役割を果たし、抱一花鳥画の到達点を示している。
 「一六四 酒井抱一筆 亀田綾瀬賛 桜に小禽図(賛)略」
 「一六五 酒井抱一筆 亀田綾瀬賛 菊に小禽図(賛)略」
 「一六五 酒井抱一筆 亀田綾瀬賛 枯芦に白鷺図(賛)」
      西風吹冷至漁家片雪
      飛来泊水涯独立斜陽
      如有待擬邀名月伴戸
      花    綾瀬老漁               】 
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「作品解説(岡野智子稿)」)

芦に白鷺三.jpg

酒井抱一筆 亀田綾瀬賛 「枯芦に白鷺図」 一幅 山種美術館蔵
一四二・〇×五〇・二cm
【 もと図一六四(桜に小禽図)、図一六五(菊に小禽図)と同じく十二ヶ月花鳥図のセットの内の一図で、十一月の図とみられる。枯芦に鷺図は室町以来の水墨画でよく描かれ、江戸狩野や京琳派にも作例は多い。『光琳百図』前編の下には、「紙本六枚折屏風墨画鷺之図」としてさまざまな姿の白鷺図が紹介されており、抱一はそうした先行図様を組み合わせたのだろう。さらに雪の降りかかる枯芦を大きく斜めに配して季節感の表出に工夫を加えた。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「図版解説(岡野智子稿)」)
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