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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(五) [抱一の「綺麗さび」]

その五 「扇面散図屏風」(鶯蒲筆)

鶯蒲・扇面散図屏風.jpg

酒井鶯蒲筆「扇面散図屏風」(二曲一隻 紙本金地著色 一五〇・五×一六三・〇cm 東京国立博物館蔵 )

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0032501

【 二曲一隻のこの屏風絵には琳派独自の気分が横溢している。つまり背景が金色であること、それに扇面散らしの形式を踏んでいること、また全面開きでなく半開きのもを散らし、さらに横向き、ほとんど逆に近い図柄を平気で描いているからである。扇面散らしの伝統がここにまで生きている証拠は本屏風でもよくわかる。
図柄は右側上部から白牡丹、紫陽花、水墨仕立ての松に月、水上飛翔の白鷺、伊勢物語東下り、白梅図(ほとんど逆の図)、白菊黄菊、芒に白萩、富士、大山蓮華(半開き)、蒲公英・土筆・菫(半開き)、裏を見せた野毛金砂子(半開き)の十二面である。草花を描いたもの七面、鳥を描いた二面、山水と物語は各一面ずつ、といった具合で、やはり草花・鳥の類が大部分を占めている。
これを以てしても琳派は花鳥中心の画派であったと思われる。ただこの屏風扇面絵にも伊勢物語とくに業平東下り図が入っている。これは宗達、光琳、乾山以来、この派のパテントといってもよいもので、琳派を名乗る以上は伊勢物語とは切っても切れぬ関係のもので、琳派の看板とでも言えるものである。
ここに散らされた扇面画には濃彩画がほとんどで、その各々は琳派特有の図構成がなされている。とくに紫陽花、菊花、芒、白萩、蒲公英、土筆、菫の描写は琳派ならではのもので、他派の及ぶところではない。
またこの屏風絵の扇面散らし方も右脇下に「獅現鶯蒲筆」の落款があるように、自らこの散らし方を決定したことは明らかで、その伝統が確実に生きていることを物語っている。鶯蒲は文政元年(一八一八)、下根岸の抱一邸に引取られ、養子として迎えられただけあって、抱一から、また小鸞女史から殊の外可愛がられたことから察し、抱一もこの作画にかなり後から救助していたであろう。また彼は抱一なきあと、雨華庵二世として襲名しているほどである。
印章は二顆あり上の印文は「伴伊」朱文円印、下が「獅現」朱文方印である。  】
『抱一派花鳥画譜三(紫紅社)』所収「本文・図版解説(中村渓男稿)」)

 「酒井抱一と江戸琳派関係年表」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』所収)の文政八年(一八二五、抱一、六十五歳、鶯蒲、十八歳)の項に、「一月十七日、水戸藩主徳川斉修に扇子十本を進上する。(五本は鶯蒲が担当。)」とある。
 晩年の抱一は、雨華庵をこの鶯蒲に引き継ぐべき、この水戸候など抱一の支援者に引き合わせ、その推挽の労を執っていたことが了知される。この鶯蒲は、築地本願寺中の浄栄寺に二男として出生し、上記の解説文にあるとおり、抱一の養子というよりも、小鸞女史(妙華尼)の養子となり、雨華庵(抱一邸)に引き取られる(これらのことは「等覚院殿御一代記」の酒井家の記録として遺されている)。
 『古画備考』(朝岡興禎著)に「鶯蒲が抱一のことを御父様と呼ぶことを酒井家より咎められた」との聞き書きが記録されており、「酒井家→抱一・小鸞女史→鶯蒲・浄栄寺」との三者関係には微妙な謎(鶯蒲の抱一実子説など)が秘められているような雰囲気を有している。
 この聞き書きによると、水戸候に出た折、抱一とともに席画などもしたこと、書をよくし、茶事も好んだことなども伝えられている。鶯蒲は、天保十二年(一八四一)、三十四歳の若さで夭逝して居り、遺された作品は其一などに比べると極めて少ないが、作画領域は多方面にわたり、晩年の抱一の期待に十分に応え得る力量を示していた。
 この年に、抱一は、「富士山に昇龍図」(掛幅)を制作しているが、下記のアドレスで、北斎の絶筆の「冨士越龍図」の先行的な作品として、紹介したが、上記の年表と重ね合わせると、雨華庵二世を託すべき鶯蒲が、晩年の雨華庵一世・抱一の期待に十分応え得ることを暗示する「昇龍図」(「富士」は「抱一・其一らの江戸琳派」の見立て、そして「昇龍」は鶯蒲の見立て)と解することも可能であろう。
 そして、抱一の「昇龍図」に比して、北斎の「越龍図」というのが、当時の抱一と北斎との関係を暗示するようで面白い。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-09-05


冨士三.jpg

酒井抱一筆「富士山に昇龍図」一幅 絹本墨画 五三・八×一一一・八㎝ 東京都江戸東京博物館蔵(市ヶ谷浄栄寺伝来)

https://heritager.com/?p=54251


冨士越龍図.jpg

葛飾北斎筆「富士越龍図」一幅 紙本着色 九五・八×三六・二㎝ 
九十老人卍筆 印=百 すみだ北斎美術館蔵


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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(四) [抱一の「綺麗さび」]

その四  「扇面散図屏風」(抱一筆)

抱一・扇面散図屏風.jpg

酒井抱一筆「扇面散図屏風」(二曲一隻? 北野美術館蔵) → A図

http://kitano-museum.or.jp/collection/arts/429/

 『琳派五・総合(紫紅社刊)』所収「作品解説(三十四)」に、下記の二曲一双の「扇面散図屏風」(酒井抱一筆)が紹介されている。

抱一・扇面散図屏風二.jpg

酒井抱一筆「扇面散図屏風」(二曲一双 絹本著色 各隻一七〇・一×一七九・〇cm 落款「抱一筆(左隻)」 印「文詮」朱方印(左隻) 個人蔵 )→ B図

 この両図(A図とB図)を見比べていくと、二曲一隻(A図)と二曲一双(B図)とは、同じような構図で、同じような図柄なのだが、その仕上げの形式から必然的に相違しているのが明瞭となってくる。
 まず、流水(A図一・二扇)は、(B図=右隻一・二扇と左隻一扇)と右隻と左隻との繋がっている。同様に、(B図=右隻二扇と左隻一扇)とが繋がっているように、両隻に跨っての扇面画の描写になっている。
 そして、これらは、屏風に扇子(扇面画)そのものを貼付したものではなく、これらの扇子(全開・半開・全閉・正面・逆さ・横向き・斜め向き等々)は全て手描きのものなのであろう。
 この種のものには、「扇面散貼付」屏風と「扇面散図」屏風とがあり、前者は扇面画を貼付して仕上げたもの、後者は画中画のように扇面画を手描きして仕上げたものとがある。上記の二図(A図・B図)は、「扇面散貼付屏風」ではなく、「扇面散図屏風」で、扇面画を貼付して仕上げたものではなかろう。
 これらの「扇面屏風」というのは、俵屋宗達(宗達派の「伊年」印)以来、「宗達→光琳→抱一」の、琳派の主要なレパートリー(得意とする分野)の一つで、多種多様なものを目にするが、例えば、扇面画を貼付して、その「扇骨」などは手描きしたものなど、その制作時には、どのような仕上げのものであったかは、判然としないものが多い。
 ここで、改めて両図(A図とB図)を見ていくと、次のようなことが見えてくる。

一 この両図(A図とB図)とも、全体的(流水図・扇面画等)に、光琳風で、例えば、前回紹介した「扇面雑画(一)・白梅図」(「扇面雑画(六十面)の一面」)などとは、異質の世界という印象を深くする。
二 この両図(A図とB図)の「流水図」とその「(各)扇面画」の描写だけを見ても、抱一の光琳画の縮図帖ともいうべき『光琳百図』などを念頭に置いてのものというのは一目瞭然であろう。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/850491


抱一・光琳百図・扇面画.jpg

国立国会図書館デジタルコレクション『光琳百図』(23/89)

三 抱一が、光琳百回忌の法会を修し、『光琳百図』を刊行と合わせ「光琳遺墨展」を開催したのは、文化十二年(一八一五)、五十五歳のときであった。この「光琳遺墨展」には、抱一が各所蔵者から借り受けたものなど、光琳の作品が四十二点陳列されている。その中に、「扇面十枚」が、その出品目録に収載されている(『抱一派花鳥画譜三(紫紅社)』所収「本文・図版解説(中村渓男稿)」)。上記の『光琳百図』の扇面画の幾つかは、その「光琳遺墨展」も陳列されたのであろう。

四 この光琳百回忌のイベントが開催された文化十二年(一八一五)当時、抱一の付人で門弟の鈴木蠣潭(二十四歳)、そして、蠣潭没後、抱一の付人となる鈴木其一(二十歳、十八歳のとき内弟子となる)は、抱一の傍らにあって、抱一の画業を陰に陽に支えたのであろう。

五 抱一の「扇面屏風」は、この種の「扇面散図屏風」よりも「扇面散貼付屏風」(各扇面画に落款が施されている)の方が点数は多いと思われるが、抱一(雨華庵一世)没後、雨華庵二世を継受する酒井鶯蒲(抱一没年時、二十一歳)に、「扇面散図屏風」(二曲一隻・東京国立博物館蔵)があり、抱一から鶯蒲へ、この種のものが継受されていることの一端が知られてくる。

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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(三) [抱一の「綺麗さび」]

その三 「白梅図」(抱一筆)

扇面雑画一・白梅図.jpg

酒井抱一筆「扇面雑画(一)・白梅図」(「扇面雑画(六十面)の一面」)
紙本着色・墨画 三六・五×六三・八㎝(各面) 東京国立博物館蔵

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0095262

【 各種の画題を描いたこの六十面に及ぶ抱一の扇面画は、現在ガラス挟みの形式で保存されているが、それ以前の保管状態が好ましくなかったためか、画面がかなり傷んで画趣を殺いでいるものが少なくない。六十面の内訳は着色による草花・花木を描くものが約半数を占め、他は鳥類、動物、魚類、昆虫、また蔬菜、器物、盆栽、景物、さらに水墨の竹や山水、布袋など、題材、手法が多岐に及んでいる。花鳥画を最も得意としながら、画題の対象を新たに開拓、拡大していった抱一画業の特色がよく表われており、その縮図を見るようである。
 落款は六十面とも「抱一筆」であるが、印章は「鶯邨」朱文(上下)印(二十)、「文詮」朱文円印(十九)、「抱一」朱文重郭方印(十四)、「抱一」朱文方印(六)、「文詮」朱文瓢印(一)と五種が用いられている。 】(『琳派五・総合(紫紅社刊)』所収「作品解説(村重寧稿)」)

 上記のアドレスの抱一筆「扇面雑画」(六十面・東京国立博物館蔵)の中に、抱一の「綺麗さび」の世界の一つひとつが集約されているような思いが湧いてくる。
上記のアドレスでは、この「扇面雑画」(六十面)の全ては掲載されていないようであるが、その画題名(六十面)を記すと、次のとおりである。

(草花・花木など)
一 白梅 二 桜 三 桃 四 柳 五 早蕨 六 蕨と蒲公英 七 菜の花に蝶 八 桜草 九 藤 十 鉄線 十一 水草にあめんぼう 十二 沢瀉 十三 河骨と太蘭 十四 布袋葵 十五 枇杷 十六 蘭 十七 酸漿 十八 露草 十九 撫子 二十 山帰来 二十一 芒と嫁菜 二十二 萩 二十三 烏瓜 二十四 柿 二十五 吹寄 二十六 
雪中藪柑子 二十七 若松と藪柑子 二十八 譲葉 二十九 水仙 三十 墨竹

(蔬菜・虫類・魚類・鳥類・動物など)
三十一 瓜に飛蝗 三十二 生姜 三十三 茄子に蟋蟀 三十㈣ 結び椎茸 三十五 豆と藁苞 三十六 大根に河豚 三十七 瓜草に雲雀 三十八 鷭 三十九 稲穂に雀 四十 枯蓮に白鷺 四十一 蝶と猫 四十二 鹿 四十三 目高 四十四 蝸牛 

(山水・景物など) 
四十五 藁屋根に夕顔 四十六 浜松 四十七 蓬莱山 四十八 秋景山水 四十九 田園風景 五十 雨中山水 五十一 破墨山水 五十二 社頭風景   

(風物・器具・吉祥など)
五十三 ごまめと水引 五十四 鶯笛と若菜 五十五 盆栽 五十六 稗蒔 五十七 玩具 五十八 五徳と羽根箒 五十九 籠に雪紅葉 六十 布袋

 (上記の「画題名・分類」などは、『琳派五 総合(紫紅社)』所収「作品解説」などを参考にしている。)

 抱一には、画帖として、『絵手鑑』(七十二図・各二五・一×一九・九㎝・静嘉堂文庫美術館蔵)がある。その『絵手鑑』の画題名と、この「扇面雑画」の画題名と比較して見ると、例えば、前者の、「一 白梅 二 椎を喰む鼠 三 向日葵に百足 四 寒山拾得 五 羽子板に羽根 六 虎 七 龍 八 南瓜 九 釣人 十 南瓜 ----- 」と、随分と様変わりをしている。このトップの「白梅図」は、同じ画題名であるが、前者が、、「晴(ハレ)」の晴れ着的な作品とすると、後者の「扇面雑画」の方は、「褻(ケ)」の普段着の即興的な作品のような印象を受ける。
 もう一つ、抱一には、「晴(ハレ)と褻(ケ)」の中間のような、俳画集(俳画帖)ともいうべき『柳花帖』(五十六丁・五十二図)がある。これは抱一の親しい吉原の楼主加保茶元成(二世)の依頼により、雨華庵などの画室ではなく吉原の一室で描いたとの抱一の跋文が付いている。
この『柳花帖』については、下記のアドレスで触れている。その画題名と俳句などについて、再掲をして置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-03-23

(再掲)

酒井抱一俳画集『柳花帖』(一帖 文政二年=一八一九 姫路市立美術館蔵=池田成彬旧蔵)の俳句(発句一覧)
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「酒井抱一筆「柳花帖」俳句一覧(岡野智子稿)」) ※=「鶯邨画譜」・その他関連図(未完、逐次、修正補完など) ※※=『屠龍之技』に収載されている句(「前書き」など)

  (画題)      (漢詩・発句=俳句)
1 月に白梅図   暗香浮動月黄昏(巻頭のみ一行詩) 抱一寫併題  ※四「月に梅」
2 白椿図     沽(うる)めやも花屋の室かたまつはき
3 桜図      是やこの花も美人も遠くより ※「八重桜・糸桜に短冊図屏風」
4 白酒図     夜さくらに弥生の雪や雛の柵
5 団子に蓮華図  一刻のあたひ千金はなのミち
6 柳図      さけ鰒(ふぐ)のやなきも春のけしきかな※「河豚に烏賊図」(『手鑑帖』)
7 ほととぎす図  寶(ほ)とゝきすたゝ有明のかゝみたて
8 蝙蝠図     かはほりの名に蚊をりうや持扇  ※「蝙蝠図」(『手鑑帖』)
9 朝顔図     朝かほや手をかしてやるもつれ糸  ※「月次図」(六月)
10 氷室図    長なかと出して氷室の返事かな
11 梨図     園にはや蜂を追ふなり梨子畠   ※二十一「梨」
12 水鶏図    門と扣く一□筥とくゐなかな   
13 露草図    月前のはなも田毎のさかりかな
14 浴衣図    紫陽花や田の字つくしの濡衣 (『屠龍之技』)の「江戸節一曲をきゝて」
15 名月図    名月やハ聲の鶏の咽のうち
16 素麺図      素麺にわたせる箸や天のかは
17 紫式部図    名月やすゝりの海も外ならす   ※※十一「紫式部」
18 菊図      いとのなき三味線ゆかし菊の宿  ※二十三「流水に菊」 
19 山中の鹿図   なく山のすかたもみへす夜の鹿  ※二十「紅葉に鹿」
20 田踊り図     稲の波返て四海のしつかなり
21 葵図       祭見や桟敷をおもひかけあふひ  ※「立葵図」
22 芥子図      (維摩経を読て) 解脱して魔界崩るゝ芥子の花
23 女郎花図     (青倭艸市)   市分てものいふはなや女郎花
24 初茸に茄子図    初茸や莟はかりの小紫
25 紅葉図       山紅葉照るや二王の口の中
26 雪山図       つもるほと雪にはつかし軒の煤
27 松図        晴れてまたしくるゝ春や軒の松  「州浜に松・鶴亀図」   
28 雪竹図       雪折れのすゝめ有りけり園の竹  
29 ハ頭図      西の日や数の寶を鷲つかみ   「波図屏風」など
30 今戸の瓦焼図    古かねのこまの雙うし讃戯画   
            瓦焼く松の匂ひやはるの雨 ※※抱一筆「隅田川窯場図屏風」 
31 山の桜図      花ひらの山を動かすさくらかな  「桜図屏風」
  蝶図        飛ふ蝶を喰わんとしたる牡丹かな      
32 扇図        居眠りを立派にさせる扇かな
  達磨図       石菖(せきしょう)や尻も腐らす石のうへ
33 花火図       星ひとり残して落ちる花火かな
  夏雲図       翌(あす)もまた越る暑さや雲の峯
34 房楊枝図    はつ秋や漱(うがい)茶碗にかねの音 ※其一筆「文読む遊女図」(抱一賛)
  落雁図       いまおりる雁は小梅か柳しま
35 月に女郎花図    野路や空月の中なる女郎花 
36 雪中水仙図     湯豆腐のあわたゝしさよ今朝の雪  ※※「後朝」は
37 虫籠に露草図    もれ出る籠のほたるや夜這星
38 燕子花にほととぎす図  ほとときすなくやうす雲濃むらさき 「八橋図屏風」
39 雪中鷺図      片足はちろり下ケたろ雪の鷺 
40 山中鹿図      鳴く山の姿もミヘつ夜の鹿
41 雨中鶯図      タ立の今降るかたや鷺一羽 
42 白梅に羽図     鳥さしの手際見せけり梅はやし 
43 萩図        笠脱て皆持たせけり萩もどり
44 初雁図       初雁や一筆かしくまいらせ候
45 菊図        千世とゆふ酒の銘有きくの宿  ※十五「百合」の
46 鹿図        しかの飛あしたの原や廿日月  ※「秋郊双鹿図」
47 瓦灯図       啼鹿の姿も見へつ夜半の聲
48 蛙に桜図      宵闇や水なき池になくかわつ
49 団扇図       温泉(ゆ)に立ちし人の噂や涼台 ※二十二「団扇」
50 合歓木図     長房の楊枝涼しや合歓花 ※其一筆「文読む遊女図」(抱一賛)
51 渡守図       茶の水に花の影くめわたし守  ※抱一筆「隅田川窯場図屏風」
52 落葉図      先(まず)ひと葉秋に捨てたる団扇かな ※二十二「団扇」

 この『柳花帖』(画帖・俳画集)は、「花街柳巷図巻」(一巻・十二図)、そして、「吉原月次図(十二幅)」(旧六曲一双押絵貼屏風)と連動しており、抱一は、この種の、相互に連動している「画帖」形式、「絵巻」形式、「掛幅」形式など、同種の画題で、種々の形式のものを制作している。
 そして、一つひとつは小画面の、この種の「画帖」形式や「絵巻」形式のものは、抱一自筆の、門弟・其一など他の人の手が入ってないものが多く、冒頭に掲げた「扇面雑画」(「白梅図」など六十図)なども、これまてに見てきた『絵手鑑』や『柳花帖』、そして、「四季花鳥図絵巻」などと均しく、抱一の細やかな息吹きのする自筆そのものの「綺麗さび」の世界のものという印象を深くする。
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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(二) [抱一の「綺麗さび」]

その二 「風神雷神図扇(二)」(抱一筆)

抱一・扇一.jpg

抱一筆「風神雷神図扇」の「風神図扇」(三四・〇×五一・〇cm 太田美術館蔵)

抱一・扇二.jpg

抱一筆「風神雷神図扇」の「雷神図扇」(三四・〇×五一・〇cm 太田美術館蔵)

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-04-22

(再掲)
【 光琳画をもとにして扇に風神と雷神を描き分けた。『光琳百図後編』に掲載された縮図そのものに、二曲屏風の作例より小画面でかえって似ているところがある。また雲の表現や天衣の翻りなど鈴木其一による『風神雷神図襖』にも近い。すでに大作を仕上げていた身に付いた感じがあり、淡い色調が好ましくもある。 】
(『別冊太陽 酒井抱一 江戸の粋人(仲町啓子監修)所収「作品解説(松尾知子稿)」)

【 冒頭の「風神雷神図扇」は、『光琳百図後編』に掲載されている縮図を踏襲しており、それが刊行された文政九年(一八二六、六十六歳)前後の、晩年の作であろうか。こういう小画面のものになると、抱一の瀟洒な画技が実に見応えあるものとなって来る。 】

【 北斎にしても抱一にしても、屏風絵や大画面の肉筆画に目が奪われがちであるが、こうした、絵扇や扇面画の小画面のものや細密画の世界に、大画面ものに匹敵する凄さというものを実感する。 】

 「綺麗(きれい)さび」と同意義のような言葉に、「姫(ひめ)さび」という言葉があり、こちらは、『日本国語大辞典』(小学館)に、「はなやかで上品な中にさびの趣のあることをいう。茶器を鑑賞する時などにいう」と解説されている。
 この「姫(ひめ)さび」について、『茶道辞典(桑田忠親編)』(東京堂)は、「茶器を観賞する上での用語。華やかで上品の中にどこかさびの趣のあること。例えば、仁清の作品などをいう。茶匠の好みでいうと、宗和好み、遠州好みなどがこれに相当する。一名、綺麗さびとも称す」とあり、「綺麗さび」の別称のように解説されている。
 これらからすると、「綺麗さび」(小堀遠州好み)というのは、焼物の茶碗などの「茶器」の鑑賞上の用語から派生したものなのかも知れない。
そして、日本画の画面形式からすると、「扇面画」というのは、焼物の「茶碗」のように、手に取って実用的に使う、特殊な「小さな世界」のもので、「茶器」の鑑賞用語の「綺麗さび」などが好都合のような世界なのかも知れない。

 この「扇面画」について、「扇面構図論---宗達画構図研究への序論---(水尾比呂志稿)」(『琳派(水尾比呂志著)』所収)があり、そこで、「写経用扇面画(A類型)・漢画系扇面画(B類型)・宗達派扇面画(C類型)」の三類型に分け、「扇面画」の特性を「放射性・湾曲性・進行性」と指摘している。
 この「扇面画」の特性は、扇面が本来円の一部分であり、「上弦・下弦(その比率が上記の三類型で異なっている)」と、その中心(円の中心)は、「扇面」外の「扇の要」になるという、この特性からの「放射性・湾曲性」ということになる。そして、その「進行性」というのは、「扇」を「開く・閉じる」から、「絵巻」の「進行性」の特性も挙げられるというようなことである。
 これらのことは、言葉ですると難しいのだが、上記の二図を見て、「扇面画」の「逆三角形」の構図と、円の中心点が「扇の要」ということ、扇子を「開く・閉じる」との、これらのことから、「扇面画」の「放射性・湾曲性・進行性」の三特性は明瞭となって来よう。

 この「扇面画」の三特性を「扇面性」と名付け、「宗達屏風画構図論(水尾比呂志稿)」(『琳派(水尾比呂志著)』所収)で、「静嘉堂蔵源氏物語屏風」(六曲一双)、「醍醐寺蔵舞楽図屏風」(二曲一双)、「建仁寺蔵風神雷神図屏風」(二曲一双)を詳細に検討しながら、「宗達の屏風画を構成する基本的な原理が扇面性であることを確かめ得た」と、その「まとめ」を結んでいる。
 この論稿は、昭和三十七年(一九六二)一月「国華」(八一四号)が初出であるが、下記のアドレスで、「俵屋宗達『風神雷神図屏風』」(西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」)
と題し、その論稿の直接的な紹介ではないが、宗達の「風神雷神図屏風」について、図解をしながら、「扇面形式の構図」と「余白の美」について、分かり易い解説をしている。

https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-01-28-4  

 これらからすると、「綺麗さび」という遠州好みの美的鑑賞視点は、「茶器」とか「扇面画」とかという小物の「小さい世界」にのみ適用されるものではなく、例えば、この宗達の「風神雷神図屏風」(二曲一双)の大画面と同じように、下記アドレスの、遠州が作庭したといわれている庭園などにも均しく適用されるものと解したい。

https://garden-guide.jp/tag.php?s=100_1579

https://kyotomag.com/features/garden-authors/koborienshu/

https://ameblo.jp/taishi6764/entry-12370588022.html

https://oniwa.garden/tag/小堀遠州/

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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(一) [抱一の「綺麗さび」]

その一 風神雷神図扇(抱一筆)

風神雷神図扇.jpg

酒井抱一画「風神雷神図扇」紙本着色 各縦三四・〇cm 横五一・〇cm
(太田美術館蔵)
【 光琳画をもとにして扇に風神雷神を描いた。画面は雲の一部濃い墨を置く以外に、淡い線描で二神の体を形作り、浅い色調で爽快に表現されている。風神がのる雲は、疾走感をもたらすように筆はらって墨の処理がなされている。ここには重苦しく重厚な光琳の鬼神の姿はない。涼をもたらす道具としてこれほどふさわしい画題はないだろう。  】
(『尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展 継承と変奏(読売新聞社刊)』所収「作品解説(松嶋正人稿)」)

 この作品解説の、「ここには重苦しく重厚な光琳の鬼神の姿はない。涼をもたらす道具としてこれほどふさわしい画題はないだろう」というのは、抱一の「綺麗さび」の世界を探索する上での、一つの貴重な道標となろう。
 ここで、「綺麗さび」ということについては、下記のアドレスの「Japan Knowledge ことばjapan! 2015年11月21日 (土) きれいさび」を基本に据えたい。

https://japanknowledge.com/articles/kotobajapan/entry.html?entryid=3231

 そこでは、「『原色茶道大辞典』(淡交社刊)では、『華やかなうちにも寂びのある風情。また寂びの理念の華麗な局面をいう』としている。『建築大辞典』(彰国社刊)を紐解いてみると、もう少し具体的でわかりやすい。『きれいさび』と『ひめさび』という用語を関連づけたうえで、その意味を、『茶道において尊重された美しさの一。普通の寂びと異なり、古色を帯びて趣はあるけれど、それよりも幾らか綺麗で華やかな美しさ』と説明している」を紹介している。

 ここからすると、「俳諧と美術」の世界よりも、「茶道・建築作庭(小堀遠州流)」の世界で、やや馴染みが薄い世界(用語)なのかも知れない。しかし、上記の抱一筆の「風神雷神図扇」ほど、この「綺麗さび」(小堀遠州流)から(酒井抱一流)」の、「綺麗さび」への「俳諧そして美術」との接点を示す、その象徴的な作品と見立てて、そのトップを飾るに相応しいものはなかろう。
 その理由などは概略次のとおりである。

一 「綺麗さび」というのは、例えば、何も描かれていない白紙の扇子よりも、「涼をもたらす道具」としての「扇子」に、「風神雷神図」を描いたら、そこに、白紙のときよりも、さらに、涼感が増すのではなかろうかという、極めて、人間の本性に根ざした、実用的な欲求から芽生えてくるものであろう。

二 そして、この「扇子」に限定すると、そこに装飾性を施して瀟洒な「扇面画」の世界を創出したのが宗達であり、その宗達の「扇面画」から更に華麗な「団扇画」という新生面を切り拓いて行ったのが光琳ということになる。この二人は、当時の京都の町衆の出身(「俵屋」=宗達、「雁金屋」=光琳)で、それは共に宮廷(公家)文化に根ざす「雅び(宮び)」の世界のものということになる。

三 この京都の「雅(みや)び」の町衆文化(雅=「不易」の美)に対し、江戸の武家文化に根ざす「俚(さと)び」の町人文化(俗=「流行」の美)は、大都市江戸の「吉原文化」と結びつき、京都の「雅び」の文化を圧倒することとなる。

四 これらを、近世(江戸時代初期=十七世紀、中期=十八世紀、後期=十九世紀)の三区分で大雑把に括ると、「宗達(江戸時代初期)→光琳(同中期)→抱一(同後期)」ということになる。

五 これを、「芭蕉→其角→抱一」という俳諧史の流れですると、「芭蕉・其角・蕪村(江戸時代中期)=光琳・乾山」→「抱一・一茶(同後期)=抱一・其一」という図式化になる。

六 ここに、「千利休(「利休」流)→古田織部(「織部」流」)→小堀遠州(遠州流))」の茶人の流れを加味すると、「利休・織部」(桃山時代=十六世紀)、遠州(江戸時代前期=十七世紀)となり、この織部門に、遠州と本阿弥光悦(光悦・宗達→光琳・乾山)が居り、光悦(町衆茶)と遠州(武家茶)の「遠州・光悦(江戸時代前期)」が加味されることになる。

七 そして、茶人「利休・織部・遠州・光悦」を紹介しながら、「日常生活の中にアート(作法=芸術)がある」(生活の『芸術化』)を唱えたのが、日本絵画の「近世」(江戸時代)から「近代」(明治時代)へと転回させた岡倉天心の『茶の本』(ボストン美術館での講演本)である。

八 ここで、振り出しに戻って、冒頭に掲出した「風神雷神図扇(抱一筆)」は、岡倉天心の『茶の本』に出てくる「日常生活の中にアート(作法=芸術)がある」(生活の『芸術化』)を物語る格好な一つの見本となり得るものであろう。

九 と同時に、ここに、「光悦・宗達→光琳・乾山→抱一・其一」の「琳派の流れ」、更に、「西行・宗祇・(利休)→芭蕉・其角・巴人→蕪村・抱一」の「連歌・俳諧の流れ」、そして、「利休→織部→遠州・光悦→宗達・光琳・乾山・不昧・宗雅(抱一の兄)・抱一→岡倉天心」の「茶道・茶人の流れ」の、その一端を語るものはなかろう。

https://japanknowledge.com/articles/kotobajapan/entry.html?entryid=3231



【「Japan Knowledge ことばJapan! 2015年11月21日 (土) きれいさび」(全文)

「きれい(綺麗)さび」とは、江戸初期の武家で、遠州流茶道の開祖である小堀遠州が形づくった、美的概念を示すことばである。小堀遠州は、日本の茶道の大成者である千利休の死後、利休の弟子として名人になった古田織部(おりべ)に師事した。そして、利休と織部のそれぞれの流儀を取捨選択しながら、自分らしい「遠州ごのみ=きれいさび」をつくりだしていった。今日において「きれいさび」は、遠州流茶道の神髄を表す名称になっている。

 では、「きれいさび」とはどのような美なのだろう。『原色茶道大辞典』(淡交社刊)では、「華やかなうちにも寂びのある風情。また寂びの理念の華麗な局面をいう」としている。『建築大辞典』(彰国社刊)を紐解いてみると、もう少し具体的でわかりやすい。「きれいさび」と「ひめさび」という用語を関連づけたうえで、その意味を、「茶道において尊重された美しさの一。普通の寂びと異なり、古色を帯びて趣はあるけれど、それよりも幾らか綺麗で華やかな美しさ」と説明している。

 「さび」ということばは「わび(侘び)」とともに、日本で生まれた和語である。「寂しい」の意味に象徴されるように、本来は、なにかが足りないという意味を含んでいる。それが日本の古い文学の世界において、不完全な状態に価値を見いだそうとする美意識へと変化した。そして、このことばは茶の湯というかたちをとり、「わび茶」として完成されたのである。小堀遠州の求めた「きれいさび」の世界は、織部の「わび」よりも、明るく研ぎ澄まされた感じのする、落ち着いた美しさであり、現代人にとっても理解しやすいものではないだろうか。

 このことば、驚くことに大正期以降に「遠州ごのみ」の代わりとして使われるようになった、比較的新しいことばである。一般に知られるようになるには、大正から昭和にかけたモダニズム全盛期に活躍した、そうそうたる顔ぶれの芸術家が筆をふるったという。茶室設計の第一人者・江守奈比古(えもり・なひこ)や茶道・華道研究家の西堀一三(いちぞう)、建築史家の藤島亥治郎(がいじろう)、作庭家の重森三玲(しげもり・みれい)などが尽力し、小堀遠州の世界を表すことばとなったのである。 】

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