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四季花卉下絵古今集和歌巻(その八) [光悦・宗達・素庵]

その八「蔦と躑躅・糸薄」

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「尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展―継承と変奏(東京国立博物館・読売新聞社編)」
所収「1-01 俵屋宗達下絵・本阿弥光悦筆 四季草花下絵古今和歌巻・重要文化財・畠山記念館蔵」(「四季花卉下絵古今集和歌巻」=『光悦……琳派の創始者(河野元昭編)』所収「書画の二重奏への道……光悦書・宗達画和歌巻の展開(玉蟲敏子稿)」) 三三・七×九一八・七

    題しらず
879 おほかたは月をもめでじこれぞこのつもれば人の老いとなるもの(在原業平)
(今の気持ちをおおまかに言えば、月をも愛でる気がしない。この月こそが、月日を重ねると、積もり積もって、老いたということを感じさせるが故に。)

   月おもしろしとて凡河内の躬恒がまうできたりけるによめる
880 かつ見れどうとくもあるかな月影のいたらぬ里もあらじと思へば(紀貫之)
(月を見て「素晴らしい」と思う一方で、「そうでもない」という感じがするのは、この月の光がささない里がないように、私にだけ特別でないと思うが故に。)

   池に月の見えけるをよめる
881 ふたつなきものと思ひしを水底に山の端ならでいづる月影(紀貫之)
(またとない美しい月だから二つはないものと思っていたのに、山上ではなく、水底にも、美しい月の姿が映し出されたよ。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

879 大方盤(は)月をもめ天(で)じ是曾(ぞ)此(この)徒(つ)も禮(れ)盤(ば)人濃(の)老(おい)登(と)なるも乃(の)

※大方盤(は)=大方は。普通のことならば。たいていは。
※月をも=人が賞美する月をも。この月は、空の月と年月の月を掛けている。

880 可(か)徒(つ)見連(れ)どう登(と)久(く)も安(あ)類(る)可(か)那(な)月影能(の)以(い)多(た)らぬ里も安(あ)らじ登(と)於(お)も遍(へ)半(ば)

※可(か)徒(つ)見連(れ)ど=かつ見れど。すばらしいと見る一方で
う登(と)久(く)も安(あ)類(る)=うとくもある。疎くもある。そうでもない。
※※月おもしろしとて凡河内の躬恒がまうできたりける=この月が自分(たち)だけのためにこうして美しく輝いているならいいのに、という気分を詠ったものだろうが、躬恒が女の所に行くついでに、ちょっと貫之の所に顔を出したという状況も考えられなくもなく、それをからかっているようにも見える。

881 婦(ふ)多(た)徒(つ)那(な)幾(き)物(もの)とおも日(ひ)しを水底尓(に)山乃(の)ハ(は)なら天(で)い徒(づ)る月可(か)遣(げ)

※婦(ふ)多(た)徒(つ)那(な)幾(き=二つ無き。月が一つしかない意と、またとなく美しいの意とを掛けている。
※山乃(の)ハ(は)なら天(で)=山の端(は)ならで。山の端でない所に。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/turayuki.html

【紀貫之(きのつらゆき) 貞観十四?~天慶八?(872-945)
生年については貞観十年・同十三年・同十六年など諸説ある。下野守本道の孫。望行(もちゆき)の子。母は内教坊の伎女か(目崎徳衛説)。童名は阿古久曽(あこくそ)と伝わる(紀氏系図)。子に後撰集の撰者時文がいる。紀有朋はおじ。友則は従兄。
幼くして父を失う。若くして歌才をあらわし、寛平四年(892)以前の「寛平后宮歌合」、「是貞親王家歌合」に歌を採られる(いずれも机上の撰歌合であろうとするのが有力説)。昌泰元年(898)、「亭子院女郎花合」に出詠。ほかにも「宇多院歌合」(延喜五年以前か)など、宮廷歌壇で活躍し、また請われて多くの屏風歌を作った。延喜五年(905)、古今和歌集撰進の勅を奉ず。友則の没後は編者の中心として歌集編纂を主導したと思われる。延喜十三年(913)、宇多法皇の「亭子院歌合」、醍醐天皇の「内裏菊合」に出詠。
官職は御書所預を経たのち、延喜六年(906)、越前権少掾。内膳典膳・少内記・大内記を経て、延喜十七年(917)、従五位下。同年、加賀介となり、翌年美濃介に移る。延長元年(923)、大監物となり、右京亮を経て、同八年(930)には土佐守に任ぜられる。この年、醍醐天皇の勅命により『新撰和歌』を編むが、同年九月、醍醐天皇は譲位直後に崩御。承平五年(935)、土佐より帰京。その後も藤原実頼・忠平など貴顕から機会ある毎に歌を請われるが、官職には恵まれず、不遇をかこった。やがて周防の国司に任ぜられたものか、天慶元年(938)には周防国にあり、自邸で歌合を催す。天慶三年(940)、玄蕃頭に任ぜられる。同六年、従五位上。同八年三月、木工権頭。同年十月以前に死去。七十四歳か。
原本は自撰と推測される家集『貫之集』がある。三代集(古今・後撰・拾遺)すべて最多入集歌人。勅撰入集計四百七十五首。古今仮名序の作者。またその著『土佐日記』は、わが国最初の仮名文日記作品とされる。三十六歌仙の一人。 】

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/mitune.html

【凡河内躬恒(おうしこうちのみつね) 生没年未詳
父祖等は不詳。凡河内(大河内)氏は河内地方の国造。
寛平六年(894)二月、甲斐少目(または権少目)。その後、御厨子所に仕える。延喜七年(907)正月、丹波権大目。延喜十一年正月、和泉権掾。延喜二十一年正月、淡路掾(または権掾)。延長三年(925)、任国の和泉より帰京し、まもなく没したと推定される。
歌人としては、昌泰元年(898)秋の亭子院女郎花合に出詠したのを始め、宇多法皇主催の歌合に多く詠進するなど活躍し、古今集の撰者にも任ぜられた。延喜七年九月、大井川行幸に参加。延喜十三年三月、亭子院歌合に参加。以後も多くの歌合に出詠し、また屏風歌などを請われて詠んでいる。古今集には紀貫之(九十九首)に次ぐ六十首を入集し、後世、貫之と併称された。貫之とは深い友情で結ばれていたことが知られる。三十六歌仙の一人。家集『躬恒集』がある。勅撰入集二百十四首。 】

上記三首の、一番目の「879 おほかたは月をもめでじこれぞこのつもれば人の老いとなるもの(在原業平)」は、そのものずばりで、『伊勢物語第八十八段・月をもめでじ』に出て来る。

【むかし、いと若きにはあらぬ、これかれ友だちども集りて、月を見て、それがなかにひとり、
   おほかたは月をもめでじこれぞこの
     つもれば人の老いとなるもの     】(『伊勢物語第八十八段・月をもめでじ』)

 そして、どことなく、この『伊勢物語第八十八段・月をもめでじ』の詞書の、「いと若きにはあらぬ、これかれ友だちども集りて」のような場面が連想され、それは、「在原業平(八二五年生れ)・紀貫之(八七二年の生れか?)・凡河内躬恒(紀貫之と同時代の歌人)」らの、架空の「歌会」の一場面のような、そんな雰囲気が、この『古今和歌集』の三首から感じ取れるのである。

 『古今和歌集』の撰者は、「紀友則・紀貫之・凡河内躬恒・壬生忠岑」の四人であるが、その編纂の中心的な歌人は、紀貫之(紀友則は、その編纂過程で没しているか?)ということになろう(在原業平は、その前の時期の「六歌仙(僧正遍昭・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町・、大友黒主の六人)」の一人)。
 そして、『伊勢物語』も、在原業平の作ではなく、この紀貫之ではないかという説(「折口信夫説」など)も、『古今和歌集』と『伊勢物語』との一体性という雰囲気から肯定的に解することは、否定的に解するよりも、より受け入れ易い感じなのである。

大内裏周辺.jpg

A図 平安京条坊図(大内裏周辺)

http://gekkoushinjyu.kt.fc2.com/heian/kyou.html

 この「平安京条坊図(大内裏周辺)」関連については、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-11-06

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-10-23

御所周辺.jpg

B図 平安京内裏跡と現在の京都御所周辺

https://mapandnews-japan.com/26kyotogosho_autumn/demo.html?csv=poi.csv

 A図の「紀貫之邸」(「四坊・一条と二条間」)は、B図の「仙洞御所」の敷地内にある。

https://hellokcb.or.jp/bunka/pdf/geihinkan-map_20170301_no4_1_a.pdf

https://kyotofukoh.jp/report20-1.html

 同様に、A図の「在原業平邸」(「四坊・三条と四条間」)、「藤原公任邸(「三坊・四条と五条の間)そして「藤原俊成邸」(四坊・五条と六条の間)を、上記のアドレスのマップを頼りして探索していくと、「光悦書・宗達画和歌巻」(『古今和歌集』から『新古今和歌集』までの八代勅撰和歌集)の、その全貌の一端が見えてくる。
 そして、「業平・貫之・公任・俊成・定家」の「平安時代」を下って、「光悦・宗達」の「関ヶ原合戦」後の、「江戸初期・慶長時代」の、その「光悦書・宗達画和歌巻」の陣頭指揮をとった「本阿弥光悦」の仕事場(「大虚庵)」)は、このB図の、中央に位置する「楽美術館」の上方の「小川通り」上方の「白峯神社」の、その東側の横丁の「本阿弥辻子(ずし・つし)」にある。

http://youryuboku.blog39.fc2.com/blog-entry-211.html?sp

参考) 「四季花卉下絵古今集和歌巻」(「その一~その三」「その四~その六」「その七~その九)

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「四季草花下絵古今和歌巻」(その一・その二・その三)

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「四季草花下絵古今和歌巻」(その四・その五・その六)

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「四季草花下絵古今和歌巻」(その七・その八・その九)

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C図「楽美術館」(アクセス)
https://www.raku-yaki.or.jp/museum/access.html

 上記アドレスの「楽美術館」の「アクセス」マップに、「本阿弥家旧跡」が図示されている。この「本阿弥家旧跡」関連については、下記のアドレスの「コミュニケーション行為論(六)─文化社会学へのいざない─(田中義久稿)」が参考となる。

https://hosei.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=21250&item_no=1&page_id=13&block_id=83

「コミュニケーション行為論(六)─文化社会学へのいざない─(田中義久稿)」(抜粋)

【 京都市上京区油小路通り五辻下る東側―1558年(永禄元年),本阿弥光悦(六郎左衛門,六左衛門,法名日豫,太虚庵,徳友斎)は,この地に生まれた。その地は,また,上京区小川今出川上る西側とも呼ばれ,上京の地域を東西に走る今出川通りを,それぞれ南北に横切る小川通りから油小路通りまでをつなぐ「本阿弥辻子」という地域であった。
 「辻子」は,「ずし」もしくは「つし」と訓(よまれ),「細道」・「小路」・「横町」を意味し,十世紀の平安京に既に存在していたが,それは,平安京の本来の「条坊制」に基づく道路ではなくて,とくに,平安京の北郊の発達にともない,新たに開発された東西の道路なのであった。ちなみに,『広辞苑』(第六版)の下巻(「た―ん」)に,「辻子」という項目は見当らず,「辻」の関連においても説明されていない。かえって,上巻(「あ―そ」)の方に,「ずし」(辻)⇨つじ(字類抄)という簡略な説明があり,その5項目後ろのところに,「ずし」(途子・図子)の項が存在し,「よこちょう。路地。伊京集『図子,小路也,或いは通次に作る』」という説明が付されている。
 実際には,前述の油小路通りを,今出川通りとの交差点から北に100m余り歩いた場所に,「上京区文化振興会」の手に成る「本阿弥光悦屋敷跡」の立札がたてられており,そこには「この地は,足利時代初期より,刀剣の研(とぎ)・拭(ぬぐひ)・目利(き)のいわゆる三事を以て,世に重きをなした本阿弥家代々の屋敷跡として,『本阿弥辻子』の名を今に遺している」と,説明されているのであった。
私が2016年秋に実踏した限りでは,この立札―その脚下には,白い玉砂利が敷きつめられ,石碑と井戸がしつらえられていた―の南側に,たしかに東の小川通りに向かって道幅一間ばかりの細い道が存在していたけれども,小川通りにまで突き抜けているようには思われず,今日では,京都の市街地によく見られる「路地」(ろうじ)になっているようであった。
 「本阿弥辻子」は,今日の町名で言えば,上京区実相院町に所在する。そこは,室町幕府の将軍御所である「室町第」(別名,花の御所)の真西400mばかりの近さ,である。この町名は,天台宗寺門派(比叡山延暦寺を本山とする山門派に対立する,円珍を派祖として園城寺を総本山とする一派)の門跡寺院,実相院(1229年,近衛基通の孫,静基僧正の開山)に由来するけれども,1411年に,足利三代将軍義満の弟,義運僧正が住持の際に,この寺は現在地の左京区岩倉に移っている。「室町第」は,今日の上京区役所の東側,築山北半町から南半町にかけての地域に所在したが,その周囲には,近衛殿表町,同北口町,一条殿町,徳大寺殿町などが存在し,また,これらの周辺に,中御霊図子町,今図子町,常盤井図子町や一条横町など,「辻子」に類縁する町名・地名が残っている。
(中略)
私は,本阿弥光悦の「京屋敷」の旧跡から本阿弥家の菩提寺である本法寺まで歩きながら,多くの「金襴」,「金糸・銀糸」,「金箔」の工房の家々を,見出した。それらの家々の戸口の軒先きには,一様に,祇園祭の山鉾巡行の先頭に立つ「長刀鉾」の御札が,貼られているのであった。 さて,とりあえず,光悦をめぐる本阿弥家の系譜―「家系図」―を辿るならば,第1図のようになる。周知のように,資・史料としての「家系図」は,時系列のそれぞれの段階で「混同」や「粉飾」がまぎれ込む場合があり,この系譜4 4も,当然のこととして,今後の研究の深化に応じて,さらに正確なものとされるべき性格のものである。

光悦系譜図.jpg

(以下略) 】「コミュニケーション行為論(六)─文化社会学へのいざない─(田中義久稿)」

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yahantei

「そして、「業平・貫之・公任・俊成・定家」の「平安時代」を下って、「光悦・宗達」の「関ヶ原合戦」後の、「江戸初期・慶長時代」の、その「光悦書・宗達画和歌巻」の陣頭指揮をとった「本阿弥光悦」の仕事場(「大虚庵)」)は、このB図の、中央に位置する「楽美術館」の上方の「小川通り」上方の「白峯神社」の、その東側の横丁の「本阿弥辻子(ずし・つし)」にある。」

上記の「仕事場(「大虚庵)」)は「仕事場(徳友斎)」の誤記入。

また、「コミュニケーション行為論(六)─文化社会学へのいざない─(田中義久稿)」では、「大虚庵」は「太虚庵」の表記であるが、「大虚庵」の「大虚」の語源の由来からすると「大虚庵」の方がベターなのかも知れない。活字情報では、両方見かけるが、「大虚庵」の表記が多いようである。
by yahantei (2020-12-07 09:53) 

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