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四季花卉下絵古今集和歌巻(その十一) [光悦・宗達・素庵]

その十一 妙蓮寺の「立正安国論」(光悦筆)

洛中絵図・本法寺.jpg

B図:寛永後萬治前洛中絵図(部分図・京都大学附属図書館蔵)
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/libraries/uv-wrapper/uv.php?archive=metadata_manifest&id=RB00000143#?c=0&m=0&s=0&cv=0&xywh=30213%2C8303%2C3087%2C6111&r=270

上図(B図)の中央上部に「本法寺」、その左側(西)に「妙蓮寺」がある。ここに、光悦筆の「立正安国論 と「始聞仏乗義」とが所蔵されている。「本阿弥光悦略年表」(『光悦―琳派の創始者―(河野元昭編)所収)の元和五年(一六一九)の項に、次のような記述がある

【元和五年(一六一九) 六十二歳 本阿弥宗家九代光徳没する(一五五六~)。母の忌日にあたって『立正安国論』を、父の忌日にあたって『始聞仏乗義(儀)』を、それぞれ京都妙蓮寺の日源上人のために書く。加賀藩の長九郎左衛門連龍没する(一五四六~)。角倉素庵嵯峨に退隠して学究生活に入る。 】 

 本阿弥宗家(本阿弥一類=一族)の菩提寺は「本法寺」で、本阿弥家と本法寺との関係については、下記のアドレスが参考となる。

https://eishouzan.honpouji.nichiren-shu.jp/info/info.htm

 「本法寺」は日蓮宗の本山(由緒寺院、開祖=日親、開基=本阿弥清信)、この「妙蓮寺」は本門法華宗の大本山(開祖=日像、開基=柳屋仲興)で、共に、天正十五年(一五八七)の、豊臣秀吉の命(聚楽第の整備に伴う都市改造)により、現在地に移転したことに伴う、強制的な隣接関係ということになる。
 この「聚楽第の整備に伴う都市改造」については、次のアドレスが参考となる。

https://www.city.kyoto.lg.jp/kamigyo/page/0000012443.html

 この「妙蓮寺」には、「立正安国論(三九・一㎝×三五一・四㎝)」と「始聞仏乗義(三九・一㎝×八七六㎝)」とが、当時の、「妙蓮寺法印権大僧都日源上人依御所望書之」とし、前者には「元和五年七月五日」(光悦の父の忌日)、後者には「元和五年十二月二十七日」(母の忌日)とを記し、「大虚庵光悦(花押)」の署名したものを、今に遺している。

立正安国論一.jpg

※立正安国論 本阿弥光悦筆→『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』作品解説136
(巻頭の部分)

【立正安国論
「旅客来たりて嘆いて曰く、
近年より近日に至るまで、
天変地夭飢饉疫癘遍く天下に満ち、
広く地上にはびこる。
牛馬巷に斃れ、骸骨路に充てり。
死を招くの輩既に大半に超え、
之を悲しまざるの族敢えて一人も無し。
然る間或いは利剣即是の文を専らとして、
西土教主の名を唱え、
或いは衆病悉除の願を恃んで、
東方如来の経を誦し、」       】

立正安国論二.jpg

※立正安国論 本阿弥光悦筆→『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』作品解説136
(巻末の部分)

【いささか経文を披きたるに、世皆正に背き、
人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てて相去り、
聖人所を辞して還らず、
是を以て魔来たり鬼来たり、
災起こり難起こる、言わずんばあるべからず、
恐れずんばあるべからずと。

妙蓮寺
法印権大僧都日源上人
依御所望書之(御所望に依って之を書す。)
元和五年七五日
大虚庵 光悦(花押)             】

(「巻頭」と巻末との間に次の文章が続く=この図録は省略されている)

http://www.daianzi.com/ronbun/ronb0138.htm

【然りと雖も、唯肝胆をくだくのみにしていよいよ
飢疫にせまる。
乞客目に溢れ、死人眼に満てり。
屍を臥せて観となし、尸を並べて橋と作す。
観ればそれ二離璧を合わせ、
五緯珠を連ね、三宝世に在し、
百王未だ窮らざるに、この世早く衰え、
その法何ぞ廃れたる。
是何なる禍に依り、是何なる誤りに由るや。
主人の曰く、独り此の事を愁えて胸臆に憤す。
客来たりて共に嘆く、しばしば談話を致さん。
それ出家して道に入る者は、
法に依って仏を期する也。
しかるに今神術もかなわず、仏威も験無し。
つぶさに当世の体をみて、
愚にして後生の疑いを発す。
然れば則ち円覆を仰いで恨みを呑み。
方載に俯して慮りを深くす。つらつら微管を傾け、
いささか経文を披きたるに、世皆正に背き、
人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てて相去り、  】

https://ci.nii.ac.jp/naid/110008915196

本阿弥光悦筆《立正安国論》《始聞仏乗義》について
Rissho Ankoku-ron and Shimonbutsujo-gi by Hon'ami Koetsu
高橋 伸城(TAKAHASHI Nobushiro 立命館大学文学研究科)

【 (要点抜粋)
この寺院の再興が前政権者であった豊臣秀吉の都市計画によるものであることを考えると、日源の任期は政治的過渡期である慶長から元和に重なっていたと思われる。では日源と光悦の接点はどこにあったのか。この問題についても、寺院などに残る文書は多くを語らない。唯一手がかりとなるのが、光悦から妙蓮寺宛てに送られた手紙である。これは妙蓮寺の本光院に宛てられたものであり、光悦が昵懇にしていた神尾之直への伝言を託している。文中に膳所藩主の菅沼定芳に頼まれたという揮毫の話が出てくるが、定芳と光悦との交流を考えるとこの手紙が書かれたのは元和中期以降と推測できる。つまり、《立正安国論》等が書かれた時期にはすでに、妙蓮寺を通じて光悦と彼の友人間でメッセージの受け渡しを行うような関係が築かれていたのである。
 また、妙蓮寺と光悦とのつながりを考える上で、地理的な要素も考慮しなければなるまい。秀吉の聚楽第建設によって、天正十五年(一五八七)頃から洛中の多くの寺院が移転を余儀なくされた。京都の法華宗において中心的役割を果たしてきた本法寺も例外ではなく、秀吉の命が下ってから間もなく、一条堀川から現在の堀川寺之内へと移動している。同じように妙蓮寺も都市の再編成から逃れることはできず、天文年間以降そこにあった大宮西北小路を去ることになるのだが、その移転地は本法寺のちょうど真向いであった。堀川通りを挟んで、本法寺と妙蓮寺は対峙する形になったのである
(中略)
日源もしくは光悦がなぜ「立正安国論」と「始聞仏乗義」をテキストに選んだかについては、やはり法華宗内での両書の扱われ方と無関係ではない。「立正安国論」はもともと、日蓮が文応元年(一二六〇)に国家諫暁を目的として北条時頼に提出したものである。当時、鎌倉を中心に多発していた天変地異を法華経への違背によるものとし、日蓮は時頼に改宗を迫ったのだ。臨済宗に帰依していた時頼は当然のことながらこれを退け、日蓮の迫害に満ちた人生が始まるのである。時頼に提出された「立正安国論」の原本は行方が知れないが、日蓮当人による写しが中山法華経寺に残っている。法華宗の間では重書中の重書とされ、繰り返しその教義について講義されたのみならず、後に述べるように写本も数多くつくられた。光悦の書の題材に選ばれたのも不思議ではない。
 「始聞仏乗義」についても中山法華経寺に真蹟が残っており、元和頃に 最初に出版されたと考えられている『録内御書』にも、「立正安国(論」ともども収録されている((())。これは建治四年(一二七八)、日蓮から弟子の一人である富木常忍に宛てられた消息であり、内容は日蓮仏法の教義を巡る問答となっている。そして最後に、末法の凡夫がこの法華経の法門を聞けば、自身のみならず父母までをも成仏させることができると結んで終わっている。日蓮の直弟子の一人であった日興が「始聞仏乗義」を写していることなどからも、日蓮の生前からいかにこの書が大切に受け止められてきたかがわかるであろう。
(中略)
 日蓮提唱の文字曼荼羅を本尊としてきた法華宗においては、書の内容だけではなく、日蓮が残した文字の形そのものも写し取るべき神聖なものであった。現在、鎌倉の妙本寺に保管されている「立正安国論」の写本は寂静房日進の筆になるものと言われているが、日蓮の原典と比べてみると、祖師の筆跡まで忠実になぞられた臨書であることがわかる(図7・図8)。
 これら前例と照らし合わせると、光悦筆《立正安国論》《始聞仏乗義》の特異性がよりはっきりと浮かび上がってくる。それはつまり、光悦にそもそも日蓮の書を「写し取る」という意識はあったのかどうかという問題に言い換えられよう。
(中略)
 光悦の書と日蓮のそれとを比較してみると、形と内容その両面において光悦は原典から逸脱していると言えよう。多数に上る脱字や教義に関わる誤字などは、本来の写経では許されることではない。これは、光悦の書写態度の不遜や教義の無理解からくるというよりも、そもそも彼の目指すべきものが写経者のそれとは違ったと考える方が自然であろう。《立正安国論》や《始聞仏乗義》に見られる光悦の筆は、それが写経の枠にはまるものではなく、書の「作品」として鑑賞されるべきものであることをより強調してはいないだろうか。
(後略)    】

(本法寺の重要文化財) 『ウィキペディア(Wikipedia)』
重要文化財(国指定)
松尾社一切経3545巻(附 経箱38合)
奥書院及び玄関の間障壁画 38面 長谷川派
紙本金地著色松桜図 一之間 襖貼付8、天袋貼付4
紙本金地著色松桜図 二之間 襖貼付8
紙本金地著色松杉桜図 脇一之間 襖貼付6
紙本金地著色松桜図 玄関之間 襖貼付12
附指定:紙本著色柳図 脇二之間 襖貼付4
伏見天皇宸翰法華経(沈金箱入り)8巻
※立正安国論 本阿弥光悦筆
※始聞仏乗義 本阿弥光悦筆

(メモ)
※立正安国論 本阿弥光悦筆→『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』作品解説136
 紙本 一巻 三九・一㎝×三五一・四㎝ 元和五年(一六一九)

※始聞仏乗義 本阿弥光悦筆→『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』作品解説137
紙本 一巻 三九・一㎝×八七六㎝ 元和五年(一六一九)
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yahantei

https://ci.nii.ac.jp/naid/110008915196

本阿弥光悦筆《立正安国論》《始聞仏乗義》について

 こういう論稿に接することが出来るということは、まさに、ネット社会の恩恵であろう。

「そもそも彼の目指すべきものが写経者のそれとは違ったと考える方が自然であろう。《立正安国論》や《始聞仏乗義》に見られる光悦の筆は、それが写経の枠にはまるものではなく、書の「作品」として鑑賞されるべきものであることをより強調してはいないだろうか。」



 このことは、光悦書・宗達下絵の「和歌巻」の全てに通ずるもので、光悦は、「古今集・千載集・新古今集」を、単に、書写するのではなく、光悦流の、独創的ともいえる「仮名文字」を駆使して、光悦流の、類まれなる「空間認識的」(「もの」を空間的に認識する能力)且つ造形感覚的な「散らし書き」によって、それが、宗達の下絵と相まって、「詩(和歌)・書・画」の三位一体の世界を創出している。
 この光悦流の「仮名文字」と「散らし書き」は、その書の光悦門下の「素庵・光広」などは、やはり、光悦の後塵を拝するということは、その感を大にする。
by yahantei (2020-12-13 10:41) 

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