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四季花卉下絵古今集和歌巻(その十二) [光悦・宗達・素庵]

その十二 妙顕寺の「尾形光琳の墓」など

洛中絵図・本法寺.jpg

B図:寛永後萬治前洛中絵図(部分図・京都大学附属図書館蔵)
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/libraries/uv-wrapper/uv.php?archive=metadata_manifest&id=RB00000143#?c=0&m=0&s=0&cv=0&xywh=30213%2C8303%2C3087%2C6111&r=270

 上図(B図)の中央上部が、本阿弥家(そして光悦)の菩提寺の「本法寺」、その左側(西側)には、光悦筆の「立正安国論」を所蔵している「妙蓮寺」、そして、右側(東側)は、「妙顕寺」である。
 この「妙顕寺」は、「本能寺」が織田信長の京都の宿泊寺とすると、「妙顕寺」は豊臣秀吉の京都の宿泊寺と、秀吉と関係の深い「日蓮宗大本山」の、京都法華宗の根本をなす寺である。そして、この「妙顕寺」の塔頭(本寺=妙顕寺の境内にある小寺)の「泉妙院」(妙顕寺の興善院の旧跡)が、尾形光琳・乾山の「尾形家」の菩提所なのである。
 この「泉妙院」については、下記のアドレスで紹介されている。

https://kyotofukoh.jp/report350.html

 そのアドレスの「泉妙院」のマップ図は、次のとおりである。

妙顕寺.jpg
C図「妙顕寺と泉妙院」マップ図(中央上部の赤の位置マークの地点=泉妙院)

 ここには(C図)、光悦と等伯と関係の深い「本法寺」(日蓮宗本山)も、「妙蓮寺」(本門法華宗大本山)も図示されていないが、「本法寺」は、この地図の「茶道総合資料館」の右(東)寄り、そして、「妙蓮寺」は左(西)寄りに位置する。

https://blog.goo.ne.jp/korede193/e/788d6d021e1305253c20b39434684815

尾形光琳とその一族の墓は、日蓮宗大本山妙顕寺の表門の東に接する塔頭・泉妙院にあって境内の北隅に南面する4つの墓石がそれである。この内中央の大小2基の墓石が古く、光琳の没後につくられたもので、大碑の方には尾形家の初代伊春以下、2代道柏(光琳の曾祖父)、3代宗伯(光琳の祖父)、4代宗甫(光琳の叔父)、5代宗謙(光琳の父)及び光琳の「長江軒寂明青々光琳」の法名がきざまれ、小碑の方には、光琳の弟乾山の法名「雲海深省居士」をはじめ10数名の名がみえ、尾形家の有為転変さを如実に示しているようである。

尾形(緒方)家はもと武家であったが、のちに町人になり、雁金屋と号し、京呉服商を営み、巨万の財を成した江戸初期の豪商である。2代目道柏までは貧乏であったが、本阿弥光悦の姉(日秀)を妻に迎えてから家運は次第に栄え、後には上層町人の筆頭の一人となった。

このような家柄であったから、当然墓も立派なものを建てるべきであるが、5代目宗謙の子 藤三郎、子 市之丞(光琳)兄弟の徹底的な遊蕩によって、家庭を蕩尽し、のちには個々の墓をたてることができず、このような合葬墓としたものだろう。墓石の側面に「小形」とあるのは、晩年の光琳が家運の挽回を図って「尾形」と姓を改めたのだが、ついに復興することができず、光琳の没後しばらくして同家は断絶した。元来、尾形家の宿坊は興善院といい、今の泉妙院のあたりにあったと伝える。しかし尾形家断絶後は墓のみ残して取り払い、本行院(妙顕寺塔頭)の管理下に入った。その本行院も天明の大火によって焼亡したので、墓は妙顕寺の総墓地に移すことに至った。

光琳が没して100年後に画家酒井抱一は光琳を追慕するあまり上洛し(メモ:抱一の名代・佐原鞠塢を派遣し、調査させる)、尾形家の墓に詣で、本行院跡に光琳だけの墓を建てたのが、現在善行院(妙顕寺塔頭)の南にあるのがそれである。これには表面に「長江軒青々光琳墓」、側面に「文政2年(1819)画家酒井抱一再建」の旨をしるしている。一方、泉妙院は天保2年(1831)尾形家の宿坊興善院跡に建立され、旧本行院が預かっていた尾形家先祖の墓を管理し、またその菩提寺となったが、一般には酒井抱一の建てた墓が光琳の本墓とみられ、妙顕寺総墓地のある肝心の古い墓は忘れられたかたちになっていた。近年、光琳・乾山兄弟の名が有名になるにつれ、寺もほっておけなくなり、昭和37年、総墓地から古い墓を移し、さらに昭和57年有志の人によって、光琳・乾山両人の供養塔(宝塔)が建立され、併せて光琳の位牌が保管されるに至った。

光琳邸宅跡.jpg
D図「尾形光琳邸宅跡」(上御霊前通東入る北側=上記赤の位置マーク)

https://blog.goo.ne.jp/korede193/e/788d6d021e1305253c20b39434684815

上御霊神社より西、烏丸通に及ぶ上御霊中町の西北部は、尾形光琳が生涯の半ばをすごし、ここで没したところである。光琳は呉服商 雁金屋宗謙の次男として、万治元年(1658)に生まれた金持ちのぼんぼんで、若い頃から兄藤三郎とともにぜいたく三昧な生活を送ったため、兄は廃嫡となり、父が亡くなって家督をついだ頃家業は左前になっていた。そこで上京区智恵光院中立売下ル西側、山里町にあった広大な屋敷を売り払い、上京薮内町とよばれていたこの地に転居するに至った。

https://ja.kyoto.travel/journey/winter2018/special/public01.php?special_exhibition_id=8

等伯・波龍図屏風.jpg
E図 長谷川等伯筆「波龍図屏風」(六曲一隻のうち「第二扇から第四扇) 本法寺蔵

 上記は、等伯の本法寺所蔵の「波龍図屏風」(六曲一隻)の部分図である。等伯には、この種の「龍虎図」を何点か手掛けているが、その代表的なものが、下記のアドレスで紹介されているボストン美術館所蔵の「龍虎図屏風」(六曲一双)である。この作品には、「自雪舟五代長谷川法眼等伯」の署名があり、等伯、六十八歳の時のものである。

https://j-art.hix05.com/16.2.hasegawa-tohaku/tohaku16.ryuko.html

等伯・虎図.jpg
F図 長谷川等伯筆「龍虎図屏風」(六曲一双のうち「左隻の第四扇から第六扇) ボストン美術館蔵(綴プロジェクト画像)

https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kinsei/item09.html

光琳竹虎図.jpg
J図 尾形光琳筆「竹虎図」(紙本墨画 28.3×39.0cm) 京都国立博物館蔵
【著色の花鳥図や草花図などを描く時の光琳には、どこかしら肩肘張ったように見受けられる場合があるが、墨画に関してはまことに軽妙で、親しみ易い作品が多い。その代表作品が「維摩図」と本図である。竹林を背景にちんまりと腰をおろした虎は、いたずらっ子のようなやんちゃな眼をして横を睨む。中国画の影響を受けた狩野山楽などの「龍虎図」が、強烈な力と力の対決の場面に仕上げているのに比すれば、これはもはや戯画とでも称すべき画風であって、本図が対幅であったとすれば、龍もまた愛くるしい龍であるに違いない。それにしても戯画を描くということは、画家の自由性を物語って余りある。】

 この光琳の「虎」(J図)は、等伯の「虎」(F図)に通じていて、それを一層戯画化し、「まことに軽妙で、親しみ易い作品」に仕上がっている。

https://global.canon/ja/tsuzuri/works/17.html

宗達・龍図.jpg
H図 俵屋宗達筆「雲龍図屏風」(六曲一双のうち「右隻の第一扇から第三扇) フリーア美術館蔵(綴プロジェクト画像)

https://j-art.hix05.com/17sotatsu/sotatsu13.unryu.html
【「雲龍図屏風」は、「松島図屏風」とともに海外に流出した宗達の傑作。ワシントンのフリーア美術館が所蔵している。水墨画の名品だ。六曲一双の屏風絵で、左右の龍が互いに睨みあっている図柄だ。どちらも背景を黒く塗りつぶすことで、龍の輪郭を浮かび上がらせる工夫をしている。また、波の描き方に、宗達らしい特徴がある。(中略)
こちらは右隻の図柄(メモ:上図H図)。左の龍とは対照的な姿勢で、左隻の龍を睨んでいる。その表情にはどこかしらユーモアが感じられる。波の描き方は、細い線を組み合わせる手法をとっているが、この手法は光琳や抱一にそのまま受け継がれていった。全体として、墨の濃淡を生かした、ダイナミックさを感じさせる絵である。(紙本墨画 各150.6×353.6㎝ フリーア美術館) 】


 この宗達の「龍」(H図)も、等伯の「龍」(E図)の「厳しい目つき」ではなく、同じ等伯の「虎」(F図)の「優しげな眼つき」をも加味している雰囲気を有している。
 これらは、等伯が、織田信長、そして、豊臣秀吉の激動の時代を潜り抜けてきた冷厳な絵師の眼とすると、宗達は、慶長五年(一六〇〇)の「関ヶ原の戦い」以後の「パクス・トクガワーナ」(戦乱なき徳川時代)の夜明け前後の、闊達自在な絵師の眼ということになろう。
 そして、光琳は、その「パクス・トクガワーナ」(戦乱なき徳川時代)の頂点の「元禄文化」(「憂き世から浮世へ」の時代)の、華麗優美な絵師の眼ということになろう。
 ここに一つ付け加えることは、これらの「等伯から宗達・光琳」への橋渡しをした中心人物こそ、等伯より、二十歳前後若い、そして、宗達・光琳と続く「琳派の創始者」(書家・陶芸家・蒔絵師・芸術家・茶人)たる本阿弥光悦その人ということになろう。
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「四季花卉下絵古今集和歌巻」の次は、「百人一首和歌巻」と考えていたのだが、「等伯・宗達・光琳」の水墨画(龍虎図)に触れているうちに、たまたま、『宗達の水墨画(徳川義恭著)』(文庫版)を閲覧することが出来たので、頂妙寺の「伝俵屋宗達の墓」のことにあわせ、その図版解説(その口絵は未見、他の図録などを参酌して)などを見ていきたい。
 光悦筆・宗達下絵の「百人一首和歌巻」は、その断簡が「諸家分蔵」で、焼失したものもあり、その全容を知るには、『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』のモノクローム(黒・白の画像)のものなどを基本に据えると、水墨画のモノクロームの世界が、どういうものなのかも、これまた、新しいテーマであろう。
 やや慣れてきた「和歌」の世界は、一休止して、水墨画のモノクロームの世界も、これまた一興であろう。

by お名前(必須) (2020-12-14 16:17) 

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