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徳川義恭の「宗達の水墨画」(その三) [水墨画]

その三 「牡丹図(宗達筆・東京国立博物館蔵)」周辺

牡丹図.jpg

牡丹図 俵屋宗達筆 紙本墨画 1幅 97.2×45.2 東京国立博物館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/233924
【 私が始めて此の絵を観たのは、冬の或る晴れた日であつた。静かな光線の中で、此の墨一色の華やかな境地に浸つてゐると、あの煙る様な白牡丹の感じが私の心を充した。殊に右下の一輪には、開き切つて崩れようとする此の上ない綺麗な花の趣があふれてゐた。
真に偉大な作家は、他人の様式に影響されただけでは済まされない。必ず固有の美的価値の高い様式を鮮やかに展開する。吾々は其の様な重要な作家の遺品を、平凡な作品と同列に置いてはいけない。「鈍い眼」に依つて、美しくないものが餘りに高く評価されてゐたならば、それを訂正しなければならない。吾々の祖先の残して呉れた作品は、如何なる一物と云へども其の時代の文化を語つてゐる。その意味では総てが貴重である。唯、それらが正当に評価され始めて、単なる過去のものが現在に生きるのである。東洋水墨画に於て、宗達のもつ意義は大きい。殊に我国の水墨画中、これほど新鮮な様式は稀である。(此の牡丹図に就いては、雑誌座右寶二號に記した) 】(『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第一図」p3~p4)

P23~p24 宗達は水墨画を描くに際して、当時彼の眼に触れる事の出来た前代の多くの水墨画を十分に鑑賞してゐたであらう。而して其の中で最も彼の関心の対象となつたのは、恐らく牧谿及び其の系統の画家の作品と思はれる。と云うのは、宗達の水墨画の様式には牧谿の様式と共通するものが見られるからである。
 今、大徳寺、牧谿筆観音図に就て見ると、其の線に於て、例えば観音の顔や衣服に見られる淡墨の柔かい線は、宗達の線と性質が似て居ることが分る。又、中心となる対象……例えば観音(牧谿)と蓮の花や白兎(宗達)……を線の濃度、又は線の太さに依つて強調せず、背景に淡墨を塗つて之を浮上らせる表現法も共通して居る。
 更に、構図の集中的ではなく展開性を有する点も同様である。併し、最も基本的な共通点は、統一された全体の様式が、没骨法を主として、奥深さを感じさせる事である。(「三 宗達の水墨画の様式 (一)牧谿と宗達」)

https://kazuow.exblog.jp/27769380/

牧谿・観音猿候図.jpg

【 牧谿「観音猿鶴図 」 中国・南宋時代(13世紀) 国宝 (大徳寺蔵)
 中国の宋末元初(13世紀後半)の画僧・牧谿の代表作。中幅に観音菩薩坐像、左右に
鶴図と親子の猿図を配する三幅対の掛軸。絹本墨画淡彩。室町幕府3代将軍足利義満が収
集した中国絵画で、長谷川等伯など後世の日本の絵師や水墨画に多大な影響を与えた。
湿潤な大気の動きや光の明暗を、墨の濃淡やぼかしで巧みに表現し、ここでは木の幹や枝
、 岩山や背後にかかる靄(もや), そして竹の葉や地上の線などによって、全体が大きな
一つの画面となるように構成されています。(小学館 「ニッポンの国宝」による) 】

https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kinsei/item13.html

枯木猿候図.jpg

【「枯木猿猴図」長谷川等伯筆 紙本墨画 各155.0×115.0 cm 龍泉庵蔵 重要文化財
桃山時代に狩野派と拮抗する制作活動をした長谷川等伯(1539-1610)の代表的作品。
現在は2幅の掛軸装に仕立て直されているが、本来は屏風であって、その4扇分が現存しているわけである。裱(ひょう)背墨書によれば、もと、加賀・小松城主の前田利長侯の蔵するところという。
等伯は能登半島の根元にある七尾の出身で京に上ってから本法寺の庇護を受け、さらに千利休にも可愛がられたので大徳寺に出入りするようになった。明らかに本図は、大徳寺が蔵する中国鑑賞画中の至宝である牧谿筆「猿猴図」(国宝)の直接的な影響のもとに成った作品である。  】

P24~p25 牧谿の様式を、我国に於て、多少の新味を加へて展開した画家に、長谷川等伯がある。併し等伯の水墨画には、牧谿の直模に依る感覚の粗雑さが窺はれる。例へば、枯木猿候図の葉や幹は、単なる筆技に陥つてゐて、表現になつゐない傾向がある。松林図に於ても、結局対象の採上げ方に新しさを認め得る程度であつて、特に宗達水墨画の様式の源とする訳には行かない。併し、宋元水墨画に現れた「厳格」、「尖鋭」なる調子が、我国に於て「明朗」「緩慢」なる調子に変化した、或は進展した、と云ふ事実には注意しなければならない。(「三 宗達の水墨画の様式 (一)牧谿と宗達」)

「枯木猿猴図」長谷川等伯筆(右幅拡大図)

https://nanao-art-museum.jp/?p=5344

猿候図・石川県立美術館.jpg

【作品名:猿猴図屏風 員数:2曲1隻 技法1:日本画 技法2:紙本墨画 作者:長谷川等伯(1539〜1610) 制作年代:桃山時代 法量(cm):縦160.0 横240.0 指定:石川県指定有形文化財
本図は平成27年4月に新発見作品として全国ニュースとなった作品で、発見当初は損傷が激しかったが、修復されてよみがえった。旧所蔵者である京都造形芸術大学のご厚意で、同年七尾市が購入し、同年秋に特別公開した。
 本図は「松竹図屏風」と共に伝わっているが、現段階では別の作品として紹介している。右扇の右端下部から大きな樹木の幹が二手に分かれ、その内1本は画面中央を横切って左扇へ伸び、そこに猿が1匹座っている。樹木の根元周辺には岩と笹が配されている。その猿は、「枯木猿猴図」(京都市・龍泉庵)右幅の母猿と、全く同じポーズである。「枯木猿猴図」では母猿の肩の上に子猿が描かれており、本図をよく見ると母猿の右側に子猿の小さな手が確認され、よく似た子猿が描かれていたことが想像される。次に左扇に移ると、「枯木猿猴図」の左幅に描かれる枯木にぶら下がる父猿らしき猿と、そっくりな猿が描かれている。  
 また、右扇の母子猿は足の向きは逆であるが、「竹林猿猴図屏風」(京都市・相国寺)の母子猿とも近似し、父猿は「猿猴捉月図襖」(京都市・金地院)の猿ともほぼ同じポーズである。興味深いのは猿の毛の筆法である。本図では縮れたような描き方が特徴的で、相国寺本や龍泉庵本の筆法とは明らかに異なる。しかし、相国寺本と龍泉庵本でもかなり描き方に違いがあり、意図的に描き分けたものと解釈される。調査にあたった黒田泰三氏も述べられているように、足の立体感は的確に描写され、顔の濃墨の入れ方、淡墨の上から鋭くかつ丁寧に描き込んだ毛、笹の勢いあるタッチや右端中頃の濃墨の樹葉なども、等伯の表現といってよい。
 制作年代については、研究者の中でも若干見解が分かれる。50歳代初めとなると、相国寺本と近いが、筆法からして相国寺本より前ではないであろう。一方龍泉庵本は、線自体に重きを置いている感があり、「濃墨を多用した豪快な筆さばき」という60歳代の特徴であり、本図より後の制作と考えられる。また、本図の細く鋭い毛描きは金地院本に最も近く、両者は近い時期に描かれた可能性がある。現在のところは、50歳代後半頃の筆としておきたい。
 なお、画面の構図や、右扇と左扇の各中心には縦の褪色が見られることから、本図は6曲屏風の4扇分で、本来は左右にもう1扇分ずつあったと解される。左側には捉月図が交わって、金地院本のように水面に映る月が描かれていた可能性もある。 】

(周辺メモ) 牧谿の「「観音猿鶴図 」と等伯の「枯木猿候図」周辺

 牧谿の「観音猿鶴図」は、天文年間(一五三二~五五)に太原崇孚(戦国時代の禅僧・今川義元の軍師)が大徳寺に寄進したことが知られている(『正法山誌』巻六)。五十歳代の等伯は春屋宗園(千利休,古田織部らと親交があった大徳寺百十一世)を通じて、大徳寺とのつながりがあり、その「枯木猿候図」は、その頃の制作とされている(『名宝日本の美術 永徳・等伯』所収「枯木猿候図―等伯と牧谿(鈴木広之)」「作品解説(鈴木広之)」)。
 等伯は、この大徳寺の「観音猿鶴図(牧谿筆)」の鑑賞体験を通して、さまざまな「猿候図」と「竹鶴図」などの名品を今に遺している。
 平成二十七年(二〇一五)に新発見された「猿候図屏風」(石川県立美術館蔵)の「作品解説」記事中の、「竹林猿猴図屏風」(京都市・相国寺)、「猿猴捉月図襖」(京都市・金地院)のほか、下記のアドレスの「竹鶴図屏風」(出光美術館蔵)なども夙に知られている。

https://media.thisisgallery.com/works/hasegawatohaku_08

等伯・竹鶴図屏風.jpg

長谷川等伯筆「竹鶴図屏風」(出光美術館蔵) 六曲一双 紙本墨画 
【等伯が私淑していた中国の画僧、牧谿による竹鶴図の構図を模した作品といわれる。初冬の竹林とそこに佇む2羽の鶴が描かれており、鶴の精緻かつ表情豊かな描写と、霧がかった竹林の表現が印象的な作品。】

 ここで、「等伯の水墨画には、牧谿の直模に依る感覚の粗雑さが窺はれる。例へば、枯木猿候図の葉や幹は、単なる筆技に陥つてゐて、表現になつゐない傾向がある」(徳川義恭)の批判的な見解については、『名宝日本の美術 永徳・等伯』所収「枯木猿候図―等伯と牧谿(鈴木広之稿)」の、次の記述が参考になる。

【 等伯は「枯木猿候図」を最後に、おそらく牧谿画と訣別をはかり、新たな展開へと向かう道を歩もうとしていたのではなかったか。牧谿画に啓示を受けて制作された「枯木猿候図」のなかにあらわれている強烈な自己表現の片鱗は、牧谿画が本来めざしたものとはおよそ対極的な表現へと等伯が向かおうとしていることを示しているのだ。「松林図屏風」という傑作を五十歳代に残して、この画家は急速に牧谿から歩み去ろうとしているのである。そして彼が接近していったのは、もっと硬質で自己主張の強いヴィジョンをもつ絵画だったのではないか。これこそ彼の六十歳代、晩年の画風の基調となっていくもののように思えるのである。 】(『名宝日本の美術 永徳・等伯』所収「枯木猿候図―等伯と牧谿(鈴木広之稿)」)
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yahantei

 桃山時代は「永徳・等伯」の時代、永徳が亡くなった天正十五年(一五九〇)以降の文禄時代は「等伯」の時代、それに続く「関ヶ原」戦い前後の慶長時代は「等伯」の晩年の時代と、あたらしく「光悦・宗達」の「書画和歌巻」等とが加わってくる。そして、等伯が亡くなった、慶長十五年(一六一〇)以降は、「宗達」の時代というのが、日本美術史の一つの潮流と解することも出来よう。
 その潮流の中にあって、宗達は、次の時代の、「宗達→光琳・乾山→抱一・其一」の「琳派」の流れのみが強調されて、「等伯→光悦・宗達→宗達」の、「絵屋の宗達→法橋の宗達」への変遷期というのは、何処かに置き忘れてしまった空白地帯という感が無きにしも非ずという印象を強くする。
 そして、この「絵屋の宗達→法橋の宗達」への様変わりの、キィーポイントが、「宗達の水墨画」という思いが、この「徳川義恭の水墨画」のスタート時点の、問題意識なのである。そのキィーポイントの
キィーポイントが、「等伯と宗達」ということで、そこに焦点を当てていきたい。 
by yahantei (2020-12-22 09:11) 

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