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徳川義恭の「宗達の水墨画」(その六) [水墨画]

その六 「兎図(宗達筆・東京国立博物館蔵)」周辺

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0032462

宗達・兎桔梗図.jpg

A図「兎桔梗図」作者:俵屋宗達 時代:江戸時代_17c  形状:75.5×36.7
落款名:宗達法橋 印章「対青軒」 東京国立博物館蔵

【 宗達は動物が好きであつたらしい。単に動物画が多く在ると云ふだけでなく、それらが皆、深い愛情を以て描かれて居る事で解る。
兎の顔の柔かく温かい表情、草々の豊かな構図。……東洋水墨画中、これ程兎といふものゝ特徴をよく捉へた絵が他にあらうか。 】(『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第四図」p3~p4)

【 これは、もと日本画の大家川合玉堂の旧蔵品、没後、遺族より東京国立博物館に寄贈されたもの。桔梗の花を墨で描き、秋野の景を表した中に、白兎が一匹うずくまっている。柔かいタッチの豊潤な線がみごとに兎の生態をとらえている。賛の歌(はな野にものこる雪かとみるがうちにふしどかへたる秋のうさぎか)は、宗達の請いを入れて気軽に筆を執ったものらしく、『黄葉和歌集』にも漏れている。光広五十代半ばの筆であろう。「宗達法橋」款記「対青軒」印。  】(『烏丸光広と俵屋宗達(板橋区立美術館編)』所収「作品解説70」)

 『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第四図」の「兎」図は、この縦長のA図「兎桔梗図」(形状:75.5×36.7)ではなく、横長の「竪四二・四 横四五・八」
の「兎図」 で、形状的には、下記の「B図 安田靫彦《うさぎ》」に近いものなのかも知れない(口絵は未見)。
 この「B図 安田靫彦《うさぎ》」は、「A図『兎桔梗図』」を参考として、「兎と桔梗」をモチーフにしているのだが、「後ろに足を跳ねさせている」もので、安田靫彦は、この「A図『兎桔梗図』」だけではなく、「B図 安田靫彦《うさぎ》」に近い、別の宗達の「兎」図をも参考にしているのかも知れない。

https://sheage.jp/article/35541

安田靫彦・兎.jpg

B図 安田靫彦《うさぎ》1938 (昭和13)年頃 絹本・彩色 山種美術館
【 明治40年代後半から昭和にかけて、琳派に刺激を受けた作品が多数発表されました。戦後も琳派に対する関心は高く、画家のアイデアの源泉となっています。
近代、現代の画家、安田靫彦(やすだ ゆきひこ)もまた、うさぎをモチーフに描いています。安田靫彦が参考にしたと考えられている琳派の作品は、宗達の《兎桔梗図》です。この《うさぎ》という作品は昭和13年頃の作品。中央に丸い背中のうさぎを置く構図は宗達と同じです。宗達は、そのまわりを囲むように桔梗を配しましたが、安田は右側に一輪だけ。周囲を空白 にし独自性を出しているのでしょうか。また後ろに足を跳ねさせているのも、御舟のうさぎ同様、宗達のデザイン表現の影響なのかもしれません。 】

 この安田靫彦関連の年譜については、下記のアドレスが参考となる。

https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9601.html

 その昭和十三年の項は、次のとおりである。

【昭和13年(1938) 1月、茶道を習い始める。矢来荘展「菊御作」。2月、関尚美堂展「うさぎ」。3月、多聞堂展「百合」、第5回日本美術院同人作品展「赤人」。6月、第5回展「うさぎ」、本山竹荘展「豊公」。9月、白日荘展「上宮太子」。10月、第2回新文展「孫子勒姫兵」(審査員出品)。11月、七絃会第9回展「観自在」。12月、井南居展「行秋」、関尚美堂展「曾呂利」。 】

 この年譜からすると、安田靫彦は、「うさぎ」と題する作品を二点(「2月、関尚美堂展『うさぎ』」・「6月、第5回展『うさぎ』」)制作している。上記の、山種美術館所蔵の「うさぎ」は、形状などからすると、「2月、関尚美堂展『うさぎ』」なのかも知れない。
 また、その昭和二十一年の項に、つぎのような記述がある。

【昭和21年(1946) 6月、国宝保存会委員となる。文部省主催日本美術展覧会(第1、2回日展)審査員となる。この頃、大磯在住の若き学徒徳川義恭と宗達の研究を続ける。7月、清光会第11回展「観世音菩薩像」。この年、「白椿」を制作。】

 この「徳川義恭」については、下記のアドレスに、次のような記述がある。

https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8743.html

【 徳川義恭 没年月日:1949/12/12 分野:研究者, 美術関係者 (学) 読み:トクガワ, ヨシヤス、 Tokugawa, Yoshiyasu 
東大美術史研究室助手徳川義恭は12月12日、日赤中央病院で逝去した。享年29。大正10年東京に生れ、昭和19年東大文学部美術史学科を卒業した。大学提出の研究論文には「仏教彫刻に於ける半跏思惟像の研究」「牧谿に関する研究」がある。卒業後同研究室の副手、助手を勤め、主として宗達の研究に専心し、関係論文を種々の美術雑誌に発表、著書としては「宗達の水墨画」がある。かたわら日本画を安田靫彦にまなび、昭和23年高島屋で個展を開いた。  】


https://silentsilent.blog.ss-blog.jp/_pages/user/iphone/article?name=2012-02-08-1

徳川義恭・画.jpg

徳川義恭画・書「月と山梔子の実」(画=倣宗達、書=倣良寛)
賛の書=「万葉集巻十」旧・二三二四、新・二三二八
足引山爾白者我屋戸爾昨日暮零之雪疑意(「万葉集巻十」旧・二三二四、新・二三二八)  
(足引の山に白きは我が屋戸(宿)に昨日の暮れ(夕)に降りし雪かも)

 『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』の「あとがき(p131)」に、「此の小著のすべてに亘つて、恩師児島喜久雄先生には多大な御教示を戴いた。又、安田靫彦先生からは常に実技と平行して温かい御指導を受けた。矢代幸雄先生も亦絶えず私を励まされた」と、これらの恩師に対する謝辞が記されている。
 上記の、徳川義恭の画・書「月と山梔子の実」は、実技(宗達流の画)と書(良寛流の書)と歌(『万葉集』)との、これらの全てに堪能の「安田靫彦」への傾倒ぶりを示す、その証しともいえるものであろう。
 この徳川義恭の画・書「月と山梔子の実」は、「昭和23年高島屋で個展」に出品した作品の一つなのであろうか。徳川義恭は、その個展の一年後の、昭和二十四年(一九四九)十二月十二日に、亜急性細菌性心内膜炎で急逝する。三十歳に満たない短い生涯であった。
 上記の書画の款記には、「昭和二十二年(一九四七)十二月」と記されている。逝去する二年前の作である。ここに記されている「足引山爾白者我屋戸爾昨日暮零之雪疑意(「万葉集巻十、旧・二三二四、新・二三二八」(足引の山に白きは我が屋戸(宿)に昨日の暮れ(夕)に降りし雪かも) の「足引(「山にかかる枕詞)の山」)は、「万葉集」の故郷の「飛鳥」から仰ぎ見られる「大和三山」(香具山=かぐやま・畝傍山=うねびやま・耳成山=みみなしやま)であろうか。
 この「足引山(あしびきの山)」が、徳川義恭の「彼岸(仏の世界)」とするならば、「我屋戸(わが宿)」は、徳川義恭の「此岸(現世)」の世界ということになる。何かしら、その二年後の徳川義恭の急逝を予兆している雰囲気を宿している。
 この徳川義恭の急逝後の十五年後の、昭和三十九年(一九六四)に、安田靫彦の傑作画の一つの「飛鳥の春の額田王」が誕生する。そこに、徳川義恭の「彼岸(仏の世界)」の「大和三山」が描かれ、その「飛鳥の春」と「万葉集」とを象徴する「額田王」の緋の衣装は、徳川義恭画・書「月と山梔子の実」の「山梔子の実」の緋に通ずるものを宿している。

靫彦・切手.jpg

「飛鳥の春の額田王(安田靫彦作)」の切手(発行日:昭和56年2月26日(1981年))

http://www.shiga-kinbi.jp/db/?p=11013

【「飛鳥の春の額田王」(安田靫彦作) 紙本著色 額装 1面 131.1  80.2 滋賀県立近代美術館蔵
 昭和39年の第49回院展に出品された作品で、戦後における安田靫彦の最高傑作のひとつであるのみならず、戦後の日本画の中でも群を抜いて傑出した作品のひとつと位置付けられている。飛鳥古京、遠くに春霞がたなびく大和三山を背景にして立つ、万葉の代表的な宮廷歌人額田王を題材としてしている。そのとぎすまされた線描、鮮やかな色彩感など、極めて画格の高い表現になっている。】

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-10-12

光悦・兎扇面図.jpg

本阿弥光悦筆「月に兎図扇面」紙本金地著色 一七・三×三六・八㎝ 畠山記念館蔵 
→D図

【扇面を金地と濃淡二色の緑青で分割し、萩と薄そして一羽の白兎を描く。薄い緑は土坡を表わし、金地は月に見立てられている。兎は、この月を見ているのであろうか。
扇面の上下を含んで、組み合わされた四本の孤のバランスは絶妙で、抽象的な空間に月に照らし出された秋の野の光景が呼び込まれている。箔を貼った金地の部分には『新古今和歌集』巻第十二に収められた藤原秀能の恋の歌「袖の上に誰故月はやどるぞと余所になしても人のとへかし」の一首が、萩の花を避けて、太く強調した文字と極細線を織り交ぜながら散らし書きされている。
薄は白で、萩は、葉を緑の絵具、花を白い絵具に淡く赤を重ねて描かれている。兎は、細い墨線で輪郭を取って描かれ、耳と口に朱が入れられている。
単純化された空間の抽象性は、烏山光広の賛が記され、「伊年」印の捺された「蔦の細道図屏風」(京都・相国寺蔵)に通じるものの、細部を意識して描いていく繊細な表現は、面的に量感を作り出していく宗達のたっぷりとした表現とはやや異なるものを感じる。
画面左隅に「光悦」の黒文方印が捺されており、光悦の手になる数少ない絵画作品と考えられる。  】(『尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展 継承と変奏(読売新聞社)』所収「作品解説Ⅰ-14(田沢裕賀稿)」)

この作品解説は、『尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展 継承と変奏(読売新聞社)』の「二〇〇八年」に開催された図録によるものであるが、それより、三十六年前の「一九七二年」に開催された『創立百年記念特別展 琳派 目録 (東京国立博物館)』の作品解説は下記のとおりである。これからすると、上記の扇面画は、光悦作と解して差し支えなかろう。

【 本阿弥光悦筆「扇面月兎画賛」一幅 紙本墨書 一七・〇×三六・五㎝ 畠山記念館蔵
秋草に兎、扇面という形態の構図を十分に考慮した作品である。緑青をバックに映える白い兎、これに対して大胆にも、金箔の月が画面の三分の一以上を占める。光悦の筆になる和歌は、『新古今集』(巻一二)の藤原秀能の一首で、「袖の上に誰故月ハやどるぞとよそになしても人のとへかし」と読める。左下に、大きな「光悦」の墨方印がある。】(『創立百年記念特別展 琳派 目録 (東京国立博物館)』)
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yahantei

「徳川義恭画・書『月と山梔子の実』」などは、ネット情報でなければ、まずはお目にかかれないであろう。
 しかも、このネット情報は、同じ「SSブログ」の何回かお邪魔しているサイトのものであった。この頃、情報のアップが途絶えているけれども、オリンピック東京大会(?)の頃の、昭和三十年代(昭和三十九年か)の「東京・神田」周辺の懐かしい写真など、身につまされるような写真などが満載していた。
 その「徳川義恭画・書『月と山梔子の実』」周辺を散策しているうちに、2021年の、今日は、三日である。このスタートには、徳川義恭の、日本画の実技の指導など恩師の一人でもある安田靫彦の「飛鳥の春の額田王」が似つかわしい。
by yahantei (2021-01-03 10:37) 

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