SSブログ

源氏物語画帖「その二十三初音」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

23 初音(光吉筆)=(詞)妙法院常胤(一五四八~一六二一)  源氏36歳正月

光吉・初音.jpg

源氏物語絵色紙帖  初音  画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/583170/2

妙法院・初音.jpg

源氏物語絵色紙帖  初音  詞・妙法院常胤
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/583170/1

(「妙法院常胤」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/24/%E5%88%9D%E9%9F%B3%E3%83%BB%E5%88%9D%E5%AD%90_%E3%81%AF%E3%81%A4%E3%81%AD%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%8D%81%E4%B8%89%E5%B8%96_%E7%8E%89%E9%AC%98%E5%8D%81

今日は子の日なりけり。げに、千年の春をかけて祝はむに、ことわりなる日なり。姫君の御方に渡りたまへれば、童女、下仕へなど、御前の山の小松引き遊ぶ。若き人びとの心地ども、おきどころなく見ゆ。北の御殿より、わざとがましくし集めたる鬚籠ども、破籠などたてまつれたまへり。えならぬ五葉の枝に移る鴬も、思ふ心あらむかし。
  年月を松にひかれて経る人に今日鴬の初音聞かせよ 
(第一章「光る源氏の物語 新春の六条院の女性たち」「第一段 春の御殿の紫の上の周辺」「第二段 明石姫君、実母と和歌を贈答」  )

1.1.13 今日は子の日なりけり。げに、 千年の春をかけて祝はむに、ことわりなる日なり。
(今日は子の日なのであった。なるほど、千歳の春を子の日にかけて祝うには、ふさわしい日である。)
1.2.1 姫君の御方に渡りたまへれば、童女、下仕へなど、御前の山の小松引き遊ぶ。若き人びとの心地ども、おきどころなく見ゆ。 北の御殿より、わざとがましくし集めたる鬚籠ども、破籠などたてまつれたまへり。 えならぬ五葉の枝に移る鴬も、 思ふ心あらむかし。
(姫君の御方にお越しになると、童女や、下仕えの女房たちなどが、お庭先の築山の小松を引いて遊んでいる。若い女房たちの気持ちも、じっとしていられないように見える。北の御殿から、特別に用意した幾つもの鬚籠や、破籠などをお差し上げになっていた。素晴らしい五葉の松の枝に移り飛ぶ鴬も、思う子細があるのであろう。)
1.2.2 年月を松にひかれて経る人に今日鴬の初音聞かせよ
(長い年月を子どもの成長を待ち続けていました。わたしに今日はその初音を聞かせてください。)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第二十三帖 初音
 第一章 光る源氏の物語 新春の六条院の女性たち
  第一段 春の御殿の紫の上の周辺
  第二段 明石姫君、実母と和歌を贈答
  (「妙法院常胤」書の「詞」) → 1.1.13 1.2.1 1.2.2  
第三段 夏の御殿の花散里を訪問
  第四段 続いて玉鬘を訪問
  第五段 冬の御殿の明石御方に泊まる  
  第六段 六条院の正月二日の臨時客 
 第二章 光る源氏の物語 二条東院の女性たちの物語
  第一段 二条東院の末摘花を訪問
  第二段 続いて空蝉を訪問
 第三章 光る源氏の物語 男踏歌
  第一段 男踏歌、六条院に回り来る
  第二段 源氏、踏歌の後宴を計画す

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3086

源氏物語と「初音」(川村清夫稿)

【光源氏は新居となった六条院で正月を迎えた。六条院は六条御息所の旧居を拡大造営した2町(1町は110m)四方の豪邸で、9世紀に源融が現在の松原通と六条通の間、河原町通と柳馬場通の間に造営した豪邸の河原院がモデルと思われる。東南の春の町には光源氏と紫上と明石の姫君、東北の夏の町には花散里と夕霧と玉鬘、西南の秋の町には六条御息所の遺児の秋好中宮、西北の冬の町には明石御方(明石入道の娘、明石姫君の母)が住んだ。
「初音」の帖では、光源氏は紫上と正月を祝った後、花散里、玉鬘、明石御方を訪問するのだが、彼が紫上といた時に明石御方から和歌が届く。和歌には、紫上のもとで養育されている明石姫君に会えない母親の悲しみが表現されていて、光源氏は同情するのである。
 それでは大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
「年月を松にひかれて経る人に
   今日鶯の初音聞かせよ
     音せぬ里の」
と聞こえたまへるを、「げに、あはれ」と思し知る。言忌もえしあへたまはぬけしきなり。
「この御返りは、みづから聞こえたまへ。初音惜しみたまふ方にもあらずかし」
とて、御硯取りまかなひ、書かせたてまつりたまふ。いとうつくしげにて、明け暮れ見たてまつる人だに、飽かず思ひきこゆる御ありさまを、今までおぼつかなき年月の隔たりにけるも、「罪得がましう、心苦し」と思す。
「ひき別れ年は経れども鶯の
   巣立ちし松の根を忘れめや」
幼き御心にまかせて、くだくだしくぞあめる。

(渋谷現代語訳)
「長い年月を子どもの成長を待ち続けていました
    わたしに今日はその初音を聞かせて下さい
『音を聞かせない里に』」
とお申し上げになったのを、「なるほど、ほんとうに」とお感じになる。縁起でもない涙をも堪えきれない様子である。
「このお返事は、ご自身がお書き申し上げなさい。初便りを惜しむべき方でもありません」とおっしゃって、御硯を用意なさって、お書かせ申し上げなさる。たいそうかわいらしくて、朝な夕なに拝見する人でさえ、いつまでも見飽きないとお思い申すお姿を、今まで会わせないで年月が過ぎてしまったのも、「罪作りで、気の毒なことであった」とお思いになる。
「別れて何年も経ちましたがわたしは
    生みの母君を忘れましょうか」
子供心に思ったとおりに、くどくどと書いてある。

(ウェイリー英訳)

O nightingale, to one that many months,

While strangers heard you sing,

Has waited for your voice, grudge not today

The first song of the year!

Genji read the poem and was touched by it; for he knew that only under the stress of great emotion would she have allowed this note of sadness to tinge a New Year poem. “Come, little nightingale!” he said to the child, “you must make haste with your answer; it would be heartless indeed if in the quarter whence these pretty things come you were ungenerous with your springtime notes!” and taking his own ink-stone from a servant who was standing by, he prepared it for her and made her write. She looked so charming while she did this that he found himself envying those who spent all day in attendance upon her, and he felt that to have deprived the Lady of Akashi year after year of so great a joy was a crime for which he would never be able to forgive himself. He looked to see what she had written.

Though years be spent asunder,

Not lightly can the nightingale forget

The tree where first it nested and was taught to sing.

The flatness of the verse had at least this much to recommend it _ the mother would know for certain that the poem had been written without grown-up assistance!

(サイデンステッカー英訳)

“The old one’s gaze rests long on the seeding pine,
Waiting to hear the song of the first warbler, in a village where it does not sing.”

Yes, thought Genji, it was a lonely time for her. One should not weep on New Year’s Day, but he was very close to tears.
“You must answer her yourself,” he said to his daughter. “You are surely not the sort to begrudge her that first song.” He brought ink and brush.
She was so pretty that even those who were with her day and night had to smile. Genji was feeling guilty for the years he had kept mother and daughter apart.
Cheerfully, she jotted down the first poem that came to her:

“The warbler left its nest long years ago,
But cannot forget the roots of the waiting pine.”

 「鶯」をウェイリーはnightingale、サイデンステッカーはwarblerと訳した。明石御方の歌、光源氏の台詞、明石姫君の歌に関しては、ウェイリーは原文にない事を書き加えていて冗漫であり、サイデンステッカーの方が簡潔で正確だ。しかし光源氏の心理描写については、サイデンステッカー訳はあまりにそっけない。ウェイリー訳の方が丁寧だ。

 明石姫君は入内して明石中宮になり、東宮の皇子を懐妊する。実の母である明石御方とは、「若菜」の帖になって対面するのである。  】

(「三藐院ファンタジー」その十三)

常胤法親王.jpg

「常胤法親王筆書状」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)

https://objecthub.keio.ac.jp/object/529

【常胤法親王〈じょういんほうしんのう・1548-1621〉は、伏見宮邦輔親王〈くにすけしんのう・1513-63〉の第5王子。永禄7年〈1564〉4月、堯尊法親王(ぎょうそんほうしんのう)について、天台宗門跡寺院妙法院(みょうほんいん)に入室。天正3年〈1575〉2月、正親町天皇〈おおぎまちてんのう・1517-93〉の猶子となり親王宣下、性胤(せいいん)と名乗る。出家して常胤と改め、二品に叙せられた。慶長2年〈1597〉、弟・尊朝法親王〈そんちょうほうしんのう・1552-97〉の後を継いで第168世天台座主に補せられ、同17年〈1612〉までつとめる。文中「法印」は、豊臣氏五奉行の一人、前田玄以〈まえだげんい・1539-1602〉のこと。「太閤」はいうまでもなく豊臣秀吉〈とよとみひでよし・1536-98〉。秀吉が「太閤」を称するのは、天正19年〈1591〉以降のこと。とすると、この書状は、天正19年から慶長2年〈1597〉、常胤44歳から50歳の間と知る。内容の子細は明らかにしがたいが、所領加増に関わる地所・年貢・斎料などについて、さまざま具申したものである。宛名の「梅軒(ばいけん)」は、前田玄以に右筆として仕えた武将であろうか。常胤法親王の書は、尊円親王〈そんえんしんのう・1298-1356〉にはじまる青蓮院(しょうれんいん)流を継承する、尊朝法親王の尊朝流に属するが、この書状の筆致には、巧みに伝統の型の書法を学んだ跡が歴然としている。
「此の中、其の地に今小路付け置かせしめ候へば、法印(前田玄以)御取り紛れの故、しかじか御意の得ざるの由に候間、一書を以って申し候。具さに披露憑み入り候。一、今度御加増の三百石、仁和寺辺りの由に候。最前申す如くに候。其元の儀は、外聞如何に候。其の上、何れの村々も一円悪しき所計りに候。是非又、右の所相定むべきに於いては、彼の境内、同じく村々の竹木等、当門進退に堅く成り候様に、御朱印にも書き載せられ、法印の副折紙など給い候はん哉。一軄にこれ無く、年貢などは、中々、迷惑千万に候。兎角、遅々に候とも、別の所ならでは、御請け申すまじく候。別の所ならば、悪しき所にても苦しからず候事。一、御斎料の儀、何方成りとも、早速に知行所相定め候様に、是又頼み入り候事。一、先日、太閤の御方(豊臣秀吉)御覧候て、法印へ御申し渡す如くに候。廊下以下、当門何所の作事(普請)の儀、急度仰せ付けられ給うべく候事。以上。十一月十八日(花押=常胤)より梅軒」

(釈文)

此中其地ニ今小路付置候へ者法印御取紛故しか/\不得御意之由候間以一書申候具披露憑入候一、今度御加増之三百石仁和寺邊之由候最前如申候其元之儀ハ外聞如何ニ候其上何之村々も一円悪所計候是非又右之所於可相定者彼境内同村々之竹木等当門進退ニ堅成候様ニ御朱印ニも書のせられ法印副折帋なと給候ハん哉一軄ニ無之年貢計なとハ中/\迷惑千万候兎角遅々候共別之所ならてハ御請申ましく候別所ならハ悪所にても不苦候事一、御斎料之儀何方成共早速ニ知行所相定候やうに是又頼入候事一、先日大閣(閤)御方御覧候て法印へ如御申渡候廊下以下当門何所之作事之儀急度被仰付可給候事以上十一月十八日より(花押)梅軒     】

  常胤法親王は、この「源氏物語画帖」の、二十三名中の「詞書」の筆者の中で、一番の年長者である。年齢順に、その筆者の皇族関係者を列記すると、次のとおりとなる。

※妙法院常胤法親王(正親町天皇の猶子・一五四八~一六二一)  →(初音・胡蝶)
※後陽成院周仁(誠仁親王の第一皇子・一五七一~一六一七) →(桐壺・箒木・空蝉)
※大覚寺空性法親王(誠仁親王の第二皇子・一五七三~一六五〇) →(紅葉賀・花宴)
※曼殊院良恕法親王(誠仁親王の第三皇子・一五七三~一六四三) →(関屋・絵合・松風)
興意法親王(誠仁親王の第五皇子・一五七六~一六二〇)→方広寺大仏鐘銘事件(蟄居?)
※八条宮智仁親王(誠仁親王の第六皇子・一五七九~一六二九) →(葵・賢木・花散里) 
※青蓮院尊純(常胤法親王の子・一五九一~一六五三)→(篝火・野分・夕顔・若紫・末摘花

 ここに、近衛家の筆者を、追記すると次のとおりなる。

※近衛信尹→(信尹の養父・太郎君の父・一五六五~一六一四)→(澪標・乙女・玉鬘・蓬生)
※近衛信尋→(後陽成天皇の子・後水尾天皇の弟・信尹の養子・太郎君の夫?・一五九九~一六四九)→(須磨・蓬生)
※近衛太郎(君)→(近衛信尹息女・慶長三年(一五九八)誕生?)・ 信尋の正室?)→(花散里・賢木)

 常胤法親王は、後陽成天皇の父「誠仁親王」(一五五二~一五八六)よりも年長で、「後陽成天皇・後水尾天皇」関係者(下記「参考一」)のうちの最長老ということになる。
その最長老のことを反映しているかのように、常胤法親王が揮毫したのは、光源氏の栄華の絶頂を描写した「初音」巻と、それに続く「胡蝶」である。
 ちなみに、元和元年(一六一五)七月、豊臣家を滅ぼし「禁中垣公家諸法度」を公布した徳川家康が、その直後に、源氏長者の家筋であった村上源氏中院流の若き源氏学者・中院通村を講釈させたのが、この「初音」ということである(「参考二」)。
 また、慶長一九年(一六一四)八月に勃発した「方広寺鐘銘事件」(豊臣秀頼が京都方広寺大仏再興に際して鋳造した鐘の銘文中、「国家安康」の文に対して、徳川家康の名前が分割されて使われていることから、家康の身首両断を意図したものとして、家康が秀頼を論難した事件。大坂冬の陣のきっかけとなった)当時の「方広寺住職・興意法親王」の「蟄居」中の、その「方広寺」を管轄下に置いたのは、他ならず、この「妙法院常胤法親王」なのである(「参考三」)。
 この「方広寺鐘銘事件」が勃発した三か月後の、慶長一九年(一六一四)十一月十四日に、「源氏物語画帖」の企画者とも目されている「近衛信尹」は、その五十年の生涯を閉じている。
 この「近衛信尹」の意向を汲んで、「信尹」の妹(中和門院前子)との間の「第四皇子・信尋」(第三皇子・「後水尾天皇」の弟)を、「信尹」の跡を継いで「近衞家十九代目当主の近衞家を皇別摂家」とした「後陽成天皇」(後陽成院周仁)の、上記の「皇族関係者」の、「揮毫『帖』の分担」などの細やかな配慮などが、上記(「帖別」筆者・下記の「参考一」)から伝わってくる。
 それにしても、この常胤法親王の書は、「尊円親王〈そんえんしんのう・1298-1356〉にはじまる青蓮院(しょうれんいん)流を継承する、尊朝法親王の尊朝流に属するが、この書状の筆致には、巧みに伝統の型の書法を学んだ跡が歴然としている」(上記「常胤法親王筆書状」解説)。


(参考一)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-20

【 「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図(周辺)
 「源氏物語画帖(源氏物語絵色紙帖)」の「詞書」の筆者は、後陽成天皇を中心とした皇族、それに朝廷の主だった公卿・能筆家などの二十三人が名を連ねている。その「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図()周辺は、下記記のとおりで、※印の方が「詞書」の筆者となっている。その筆者別の画題をまとめると次のとおりとなる。

正親町天皇→陽光院(誠仁親王)→ ※後陽成天皇   → 後水尾天皇
    ↓※妙法院常胤法親王 ↓※大覚寺空性法親王 ↓※近衛信尋(養父・※近衛信尹)    
      ↓        ↓※曼殊院良恕法親王 ↓高松宮好仁親王
      ↓          ↓※八条宮智仁親王  ↓一条昭良(養父・一条内基)
      ↓        ↓興意法親王     ↓良純法親王 他
    ※青蓮院尊純法親王(常胤法親王の王子、良恕法親王より灌頂を受け親王宣下)
 
※後陽成院周仁(誠仁親王の第一皇子・一五七一~一六一七) →(桐壺・箒木・空蝉)
※大覚寺空性法親王(誠仁親王の第二皇子・一五七三~一六五〇) →(紅葉賀・花宴)
※曼殊院良恕法親王(誠仁親王の第三皇子・一五七三~一六四三) →(関屋・絵合・松風)
興意法親王(誠仁親王の第五皇子・一五七六~一六二〇)→方広寺大仏鐘銘事件(蟄居?)
※八条宮智仁親王(誠仁親王の第六皇子・一五七九~一六二九) →(葵・賢木・花散里) 
※妙法院常胤法親王(正親町天皇の猶子・一五四八~一六二一)  →(初音・胡蝶)
※青蓮院尊純(常胤法親王の子・一五九一~一六五三)→(篝火・野分・夕顔・若紫・末摘花)
※近衛信尋→(後陽成天皇の子・後水尾天皇の弟・信尹の養子・太郎君の夫?・一五九九~一六四九)→(須磨・蓬生)
※近衛信尹→(信尹の養父・太郎君の父・一五六五~一六一四)→(澪標・乙女・玉鬘・蓬生)
※近衛太郎(君)→(近衛信尹息女・慶長三年(一五九八)誕生?)・ 信尋の正室?)→(花散里・賢木)        】

(参考二)

https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiBw_ux9obxAhVSFogKHaIqBFsQFjAAegQIAxAD&url=https%3A%2F%2Fglim-re.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_uri%26item_id%3D795%26file_id%3D22%26file_no%3D1&usg=AOvVaw1LejrASRSFdRxGu9Y6EYoe

【 「王権と恋、その物語と絵画―〈源氏将軍〉徳川家と『源氏物語』をめぐる政治」(松島仁稿)(抜粋)

元和元年(一六一五)七月、豊臣家を滅ぼし「禁中垣公家諸法度」を公布した家康は、その直後、源氏長者の家筋であった村上源氏中院流の若き源氏学者・中院通村を召し、『源氏物語』「初音」巻を講釈させる。
 中院通村はそれまでの注釈書の集大成ともいえる『眠江入楚』を著した中院通勝の嫡男であり、中世源氏学の正統・三條西流の継承者でもあった。そのためこの源氏講釈を新しい源氏長者に対するかつての源氏長者筋の服属儀礼、徳川将軍家による中世源氏学、つまり〈読み〉の正統の収奪とみることも可能である。同じ時期、家康は、吉田神道の継承者・神龍院梵舜からも神道の講釈を受けている。豊臣家滅亡ののち、「禁中竝公家諸法度」を発布
して〈王朝世界〉に対峙した家康は、三條西家の古典学と吉田家の唯一神道という中世文化の核となる言説の吸収に努めたのである。
 宮川葉子氏によれば、源氏講釈が行われた数寄屋の庭には、豊臣秀吉を祀る豊國社から伐採された松の葉が敷かれたという。豊臣家滅亡後、豊國大明神の神号を廃し秀吉を神の座から引きずり下ろした家康は、秀吉の俳名でもあった松を踏みにじり、光源氏の栄華の絶頂を描写した「初音」巻を高らかに謡い上げ、悦惚感に酔い痴れたのである。   (中略)
 『源氏物語』のく読みを独占した徳川将軍は、自らの身体で光源氏を演じ、王権をたぐり寄せる。二代将軍・徳川秀忠は元和六年(一六二〇)、女・和子を後水尾天皇に入内させ、光源氏や源頼朝の故事を忠実に踏まえながら外戚の地位を手に入れる。また秀忠は寛永三年(一六二六)、息子である三代将軍・家光とともに大軍を率いて上洛し、〈天皇の庭〉神泉苑を大幅に切り取ったうえ、壮麗に改築された二條城に後水尾天皇を迎える。足利義満や豊臣秀吉、そして光源氏の故事を踏まえたこの行幸の模様は、一代の盛儀として屏風絵や絵巻、古活字版・整版として板行された絵入りの行幸記などにも記録されるが、ここで一連の儀式のクライマックスとなったのが、天皇以下、宮廷の構成員を総動員する形で上演された「青海波」の舞だった。  】(『徳川将軍権力と狩野派絵画(松島仁著)』所収「第三部 徳川将軍権力の権威化と新しい〈王朝絵画〉の創成」p146-p148)

(参考三)  「興意法親王」と「「方広寺鐘銘事件」そして「妙法院常胤法親王」

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-26

【一 「信尹」と「興意法親王=道勝=聖護院(33世)=照高院(1世)」と「道澄准后=道澄=聖護院(31世)=照高院(2世)」とは、親しい仲で、この「笑話」では実名で出てくる(もう一人の「浄光院」は、フィクション上の「捩りの人物」である)。
二 「興意法親王」は、「源氏ノ外題かき給ふ」と、『源氏物語』などに精通し、この種の
「寄合書き」(数人が合作で一つの書画をかくこと。また、その書画)の常連の一人なのである。その「興意法親王」が、何故に、親交の深い「信尹」が深く関与するとされている『源氏物語画帖』に、「後陽成天皇」の生存する兄弟の親王(空性法親王・良恕法親王・智仁親王)が皆参画しているのに、唯一、その名が見られないということは、どうしたことなのであろうか。
三 その理由は、「慶長19年8月豊臣氏が建立した方広寺大仏殿の棟札銘文に,書くべき大工頭の名を入れなかったという江戸幕府の嫌疑を受け蟄居した。元和2(1616)年聖護院寺務および三井寺長吏を退いた」(上記の「朝日日本歴史人物事典」)と深く関わっているのではなかろうか。
四 そもそも、この「方広寺鐘銘事件」の「方広寺」の初代の住職は、「道澄」(照高院1世)で、「道澄」が、慶長十三年(一六〇八)に亡くなり、その後を継いだのが「道勝」(照高院2世=興意法親王)なのである。
五 ここで、大事なことは、「方広寺鐘銘事件」というのは、「慶長19年8月豊臣氏が建立した方広寺大仏殿の棟札銘文」に起因するもので、この慶長十九年(一六一四)十一月十四日に、「源氏物語画帖」の企画者とも目されている「近衛信尹」は、その五十年の生涯を閉じている。
六 すなわち、「信尹」は、養子(近衛家の「婿」)の「信尋」(後陽成天皇の「皇子」)と愛娘「太郎(君)」とに関わる「吉事」の、この「源氏物語画帖」の制作に、その「吉事」の「源氏物語画帖」に汚点を残すことも思料される、勃発している「方広寺鐘銘事件」(豊臣家滅亡となる「大阪冬の陣・夏の陣」の切っ掛けとなる事件)の、その「方広寺」のトップの位置にある「興意法親王=道勝=聖護院(33世)=照高院(1世)」の名は、どういう形にしろ、留められるべき環境下ではなかったのであろう。
七 その「興意法親王」は、元和二年(一六一六)に「聖護院寺務および三井寺長吏」も退き、嫌疑が晴れて、洛東白川村に「照高院」を再興(幕府より所領千石が付与)できたのは、元和五年(一六一九)、そして、その翌年(元和六年九月)その再興の御礼に「江戸へ下向し、その滞在中に客死する(享年四十五)」という、後陽成天皇の兄弟中では、その後半生は多難の生涯であったことであろう(別記一)。
八 そもそも、「道澄」(照高院1世)、そして、「道勝」(照高院2世=興意法親王)が門跡となった「方広寺」は、「豊臣秀吉の創建だが、慶長元年(一五九六)の畿内を襲った大地震で倒壊、それを秀頼がブロンズ製で再建に着手したが、工事中の火災などでの曲折を経て、慶長十九年(一六一四)に完成。後は開眼供養と堂供養を待つだけとなったが、有名な『方広寺鐘銘事件』が起き、落慶は中止。その後も、寛文二年(一六六二)に再び震災で倒壊、そして、寛政十年(一七九八)七月一日に、落雷により焼失してしまう」(別記二)という、誠に、「豊臣家の滅亡」を象徴するような数奇な背景を漂わせている。この「方広寺」は、「道勝」(興意法親王)の後、その叔父の「妙法院常胤法親王」の管轄下の寺院となり、今に続いている。この「妙法院常胤法親王」(一五四八~一六二一)は、「源氏物語画帖」の「初音・胡蝶」の「詞書」を書いている。       】


(別記) 「 近衛信尹筆連歌懐紙」周辺

信尹・連歌懐紙.jpg

「近衛信尹筆連歌懐紙」 慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)

https://objecthub.keio.ac.jp/object/697

【 夢想連歌は、夢に現れた神仏が示現した句を発句として詠む連歌。これは、その夢想連歌を近衛信尹〈このえのぶただ・1565-1614〉が清書したもの。3句目の「杉」は、信尹の一字名である。この他に、西洞院時慶〈にしのとういんときよし・1552-1640〉、滋野井冬隆〈しげのいふゆたか・1586-1655〉、北野社の松梅院禅昌〈しょうばいいんぜんしょう・生没年未詳〉、西洞院時直〈にしのとういんときなお・1584-1636〉、連歌師里村昌琢〈さとむらしょうたく・1574-1636〉らの名前がみられる。執筆(しゅひつ=書記)役を務める信尹の、のびやかな筆致、見事な行配りが真骨頂を示す。

(釈文)

夢想 来二十三日 みどりあらそふ友鶴のこゑ(後陽成天皇) 霜をふる年もいく木の庭松
瑞久 冬より梅の日かげそふ宿 杉 朝附日軒のつま/\うつろひて 時慶 月かすか
なるおくの谷かげ 冬隆 うき霧をはらひははてぬ山颪禅昌 あたりの原はふかき夕露
時直 村草の中にうづらの入臥て昌琢 田づらのつゞき人かよふらし宗全    】

夢想   来二十三日
みどりあらそふ友鶴のこゑ    (後陽成天皇?)※(桐壺・箒木・空蝉)
霜をふる年もいく木の庭の松    瑞久 (「杉=信尹」の父「近衛前久」か?)
冬より梅の日かげそふ宿      杉  (「杉」=信尹) ※(澪標・乙女・玉鬘・蓬生)
朝附日軒のつま/\うつろひて   時慶 →※「時直」(七句目)の父「西洞院時慶」 
月かすかなるおくの谷かげ     冬隆 (「滋野井家」を再興、後に「季吉」に改名)
うき霧をはらひははてぬ山颪    禅昌 (北野社の「松梅院禅昌」)
あたりの原はふかき夕露      時直 ※(若紫・末摘花)
村草の中にうづらの入臥て     昌琢 (連歌師「里村昌琢」)
田づらのつゞき人かよふらし    宗全 (連歌師?)       

 「夢想連歌」とは、「夢で歌や句を得た時、それを神仏のお告げだとみて、神仏への奉謝のために作る連歌。懐紙に「夢想連歌」あるいは「夢想之連歌」と端作りして脇句から始め、九九句を付け、夢の句が短句もしくは歌一首の場合は一〇〇句付ける。夢想連歌。夢想開連歌(むそうびらきれんが)」(『精選版 日本国語大辞典』)とある。
 この解説に、『俳文学大事典(角川書店)』所収「夢想連歌」(島津忠夫稿)の次の事項を追記して置きたい。
「普通、懐紙には『夢想之連歌』と記し、賦物は書かない。夢想の作者は『御』と記す。夢想の句が長句(上の句)の場合き脇起し連歌となり、短句(下の句)の場合は、表八句を九句にして一〇一句で百韻となる。」
 これらのことを念頭に置くと、上記の「釈文」は、次のように解すべきのように思われる。

夢想(之連歌)  来 二十三日

(夢想句) みどりあらそふ友鶴のこゑ   空白(「御」の「後陽成院」作かは不明?)
発句  霜をふる年もいく木の庭の松   瑞久
脇    冬より梅の日かげそふ宿    杉 
第三  朝附日軒のつま/\うつろひて  時慶
四    月かすかなるおくの谷かげ   冬隆
五   うき霧をはらひははてぬ山颪   禅昌
六    あたりの原はふかき夕露    時直
七   村草の中にうづらの入臥て    昌琢
八    田づらのつゞき人かよふらし  宗全

 ここで、「客=発句、亭主=脇」の「連歌(連句)」の式目からすると、「亭主=興行主」は「杉」(近衛信尹)、そして、「客=主賓」は、「(夢想之句作者)=空白=「御」=「後陽成院?」ではなく、発句作者の「瑞久」か、脇句の作者の「杉」(信尹)のものと解したい。
 そして、この「瑞久」は、この「久」の一字を有することから、「信尹」の父の「前久」(号=「龍山」)なのではなかろうか?(少なくとも、この連歌の「連衆」は「後陽成院サロン」のそれというよりも「近衛前久・信尹・信尋」の、それに連なる「近衛家サロン」連衆の面々と解したい)。
 そう解して行くと、『安土桃山時代の公家と京都―西洞院時慶の日記にみる世相』(村山修一著・塙書房)の、「公家では文禄二年十一月二十一日の近衛家の夢想連歌二百韻、慶長五年五月二十七日、慶長八年九月二十六日、慶長九年一月二十三日など数多く催されている」と連動して来る。
 ずばり、この「夢想之連歌」は、、慶長九年(一六〇四)一月二十三日の、恒例の「近衛家連歌会」での「夢想連歌百韻」の「表九句」(「夢想句(短句))+表八句」)と解したい。
 そして、一番目の「夢想句」の作者名(「空白」の「御」に相当する)は、「御製」の「後陽成天皇」を意味するものではなく、「夢想之連歌」の「夢想句の短句」の作者名の「御」を意味するもので、この連歌の流れからすると、「脇句」の作者「杉=信尹」のような感じを受ける。
 因みに、この信尹の「一字名」(「連歌」などの号)の「杉」は、その「偏」の「木」と「旁」の「彡(サン)」とで「三木」となり、この「三木」も、信尹の「号」(姓号?)で、陽明文庫所蔵の「龍山(「前久」の号)書状などには、「三木公」(信尹)宛のものも見受けられるとのことである(『三藐院 近衛信尹―残された手紙から(前田多美子著)』所収「8 信尹死す」p167)。
 また、信尹が亡くなる一年前(慶長十八年=一六一三・十一月十一日付け)に認めた「信尹公御書置」(遺書)の中に、この連歌の五句目の作者(禅昌)の「松梅院禅昌」(北野天満宮の社葬。連歌を通じての交流。禅昌は信尹の書を学ぶ)に、「松梅院へ硯、文台」との形見分けの遺言を残している。「北野天満宮」は「連歌(連句)」のメッカ(聖地)で、その宗匠(師匠)という風格を漂わしている。
 そして、この七句目の作者(昌琢)の「里村昌琢」も、「祖父に持つ里村昌叱と里村紹巴の娘婿」で、里村南家を継ぎ、慶長十三年(一六〇八)に「法橋」、寛永三年(一六二六)には後水尾上皇から「古今伝授」を継受され、寛永九年(一六三二年)には「法眼」に叙せられた、連歌界の大立者(大宗匠)である。
この八句目の作者(宗全)は不詳であるが、「宗祇・宗長」に連なる連歌師という雰囲気である。第三の作者(西洞院時慶)と六句目の作者(西洞院時直)は、親(時慶)と子(時直)の関係で、近衛家の側近であると同時に、朝廷(禁中)連歌界の「執筆(宗匠助士兼書記)」などを担当する中心人物である。さらに、この「西洞院時慶」は、今に『時慶卿記』(全十巻)を残す、「安土桃山・江戸初頭の公家と京都」を知る上での、必須の中心人物でもある。
 もう一人の、四句目の作者「冬孝(滋野井季吉:一五八六~一六五五)は、「西洞院時直」(一五八四~一六三六6)」と共に、「飛鳥井家」(「歌道・蹴鞠」の家元)の出の、「近衛家」の二大ホープ(若手側近)という感じで無くもない。
 「夢想連歌百韻」の「表九句」(「夢想句(短句))+表八句」)の「発句」の作者(「瑞久」)は、信尹の父の「龍山公」の「前久」と解すると、その「脇句」の作者(「杉」)の、その嫡男なる「三杉公」の「信尹」の「親子競演(協演・共演・竟宴)」となり、次のアドレスの「近衛信尹・前久詠『法薬位置夜百首』攷』(大谷俊太稿)と重奏してくることになる。

http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/bitstream/11173/2690/1/0010_163_006.pdf
nice!(1)  コメント(1) 
共通テーマ:アート

nice! 1

コメント 1

yahantei

夢想(之連歌)  来 二十三日

(夢想句) みどりあらそふ友鶴のこゑ   空白(「御」の「後陽成院」作かは不明?)
発句  霜をふる年もいく木の庭の松   瑞久
脇    冬より梅の日かげそふ宿    杉 
第三  朝附日軒のつま/\うつろひて  時慶
四    月かすかなるおくの谷かげ   冬隆
五   うき霧をはらひははてぬ山颪   禅昌
六    あたりの原はふかき夕露    時直
七   村草の中にうづらの入臥て    昌琢
八    田づらのつゞき人かよふらし  宗全

「夢想の作者は『御』と記す。夢想の句が長句(上の句)の場合き脇起し連歌となり、短句(下の句)の場合は、表八句を九句にして一〇一句で百韻となる。」『俳文学大事典(角川書店)』所収「夢想連歌」(島津忠夫稿)の、「表八句を九句にして一〇一句で百韻となる」のには、初めて遭遇した。
 「瑞久」が、信尹の父の「前久」であると、「信尋」と「太郎(君)」との「友鶴」(仲のよい鶴。また、雌雄そろった鶴)を「夢想句」とした、「色変へぬ松」の、「近衛家の永久の繁栄」を願った発句として、当季・嘱目の句としても申し分のない一句である。
 「信尹」の「一字名」の「杉」に対応して、「前久」は若くして出家して「龍山」と号して、その「一字名」は「山」のようなのだが、「瑞久」の号も、この「久」から、「前久」の号と考えても、「三藐院ファンタジー」としては面白い。
 
by yahantei (2021-06-14 09:03) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。