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源氏物語画帖「その二十四 胡蝶」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

24 胡蝶(光吉筆) =(詞)妙法院常胤(一五四八~一六二一) 源氏36歳春-夏

光吉・胡蝶.jpg

源氏物語絵色紙帖  胡蝶  画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/579123/2

妙法院・胡蝶.jpg

源氏物語絵色紙帖  胡蝶  詞・妙法院常胤
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/579123/1

(「妙法院常胤」書の「詞」)

春の上の御心ざしに、仏に花たてまつらせたまふ。鳥蝶に装束き分けたる童べ八人、容貌などことに整へさせたまひて、鳥には銀の花瓶に桜をさし、蝶は金の瓶に山吹を、同じき花の房いかめしう、世になき匂ひを尽くさせたまへり。南の御前の山際より漕ぎ出でて御前に出づるほど風吹きて瓶の桜すこしうち散りまがふいとうららかに晴れて霞の間より立ち出でたるはいとあはれになまめきて見ゆ
(第一章 光る源氏の物語 第四段 中宮、春の季の御読経主催す)

1.4.3 春の上の御心ざしに、仏に花たてまつらせたまふ。 鳥蝶に装束き分けたる童べ八人、容貌などことに整へさせたまひて、 鳥には、銀の花瓶に桜をさし、蝶は、金の瓶に山吹を、同じき花の房いかめしう、世になき匂ひを尽くさせたまへり。
(春の上からの供養のお志として、仏に花を供えさせなさる。鳥と蝶とにし分けた童女八人は、器量などを特にお揃えさせなさって、鳥には、銀の花瓶に桜を挿し、蝶には、黄金の瓶に山吹を、同じ花でも房がたいそうで、世にまたとないような色艶のものばかりを選ばせなさった。)

1.4.4 南の御前の山際より漕ぎ出でて、 御前に出づるほど、風吹きて、瓶の桜すこしうち散りまがふ。いとうららかに晴れて、霞の間より立ち出でたるは、いとあはれになまめきて見ゆ。
(南の御前の山際から漕ぎ出して、庭先に出るころ、風が吹いて、瓶の桜が少し散り交う。まことにうららかに晴れて、霞の間から現れ出たのは、とても素晴らしく優美に見える。)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第二十四帖 胡蝶
 第一章 光る源氏の物語 春の町の船楽と季の御読経
  第一段 三月二十日頃の春の町の船楽
  第二段 船楽、夜もすがら催される
  第三段 蛍兵部卿宮、玉鬘を思う
  第四段 中宮、春の季の御読経主催す
(「妙法院常胤」書の「詞」) → 1.4.3  1.4.4  
 第五段 紫の上と中宮和歌を贈答
 第二章 玉鬘の物語 初夏の六条院に求婚者たち多く集まる
  第一段 玉鬘に恋人多く集まる
  第二段 玉鬘へ求婚者たちの恋文
  第三段 源氏、玉鬘の女房に教訓す
  第四段 右近の感想
  第五段 源氏、求婚者たちを批評
 第三章 玉鬘の物語 夏の雨と養父の恋慕の物語
  第一段 源氏、玉鬘と和歌を贈答
  第二段 源氏、紫の上に玉鬘を語る
  第三段 源氏、玉鬘を訪問し恋情を訴える
  第四段 源氏、自制して帰る
  第五段 苦悩する玉鬘

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3189

源氏物語と「胡蝶」(川村清夫稿)

【 春になり、光源氏は、豪邸六条院の池に舟を浮かべ、雅楽寮の楽人を乗せて演奏させる「船楽」を催し、六条御息所の遺児の秋好中宮も招かれた。多くの皇族や貴族も集まったが、彼らの目当ては、頭中将と夕顔の娘だが光源氏の養女になった玉鬘だった。光源氏の異母弟で妻を亡くした蛍兵部卿宮、妻と倦怠期にある髭黒右大将たちから玉鬘に求愛の恋文が届いた。光源氏は右近に、返事を出すべき相手を選別するよう指示して、男女関係の機微に関する私見を開陳するのである。

(大島本原文)
「好き好きしうあざれがまし今やうの人の、便ないことし出でなどする、男の咎にしもあらぬことなり。我にて思ひしにも、あな情けな、恨めしうもと、その折にこそ、無心なるにや、もしはめざましかるべき際は、けやけうなどもおぼえけれ、わざと深からで、花蝶につけたる便りごとは、心ねたうもてないたる、なかなか心立つやうにもあり。また、さて忘れぬるは、何の咎かはあらむ」

(渋谷現代語訳)
「浮気で軽薄な新しがりやな女が、不都合なことをしでかすのは、男の罪とも言えないのだ。自分の経験から言っても、ああ何と薄情な、恨めしいと、その時は、情趣を解さない女なのか、もしくは身の程をわきまえない生意気な女だと思ったが、特に深い思いではなく、花や蝶に寄せての便りには、男を悔しがらせるように返事をしないのは、かえって熱心にさせるものです。また、それで男の方がそのまま忘れてしまうのは、女に何の罪がありましょうか」

(ウェイリー英訳)
“For the unfortunate situations which sometimes result from our present freedom of manners we men are not always to blame. It often happens that a little timely severity on the lady’s part would avert the quandaries into which we are led by our determination to treat love as our principal pastime and distraction. At the time (who should know it better than I?) such severity is of course resented by the gentleman, who will rail in the accepted style at his lady’s ‘cruelty’ and ‘insensibility.’ But in the end he will be grateful that the matter was not allowed to go further. “

(サイデンステッカー英訳)
“The dissolute gallants of our day are capable of anything, but sometimes they are not wholly to blame. My own experience has been that a lady can at the outset seem cold and unfeeling and unaware of the gentler things, and if she is of no importance I can call her impertinent and forget about her. Yet in idle exchange about birds and flowers the lady who teases with silence can seem very interesting. If the man does forget, then of course part of the responsibility is hers.”

 「好き好きしう…男の咎にしもあらぬことなり」に関しては、ウェイリー訳が原文に忠実で、サイデンステッカー訳は意訳している。次の原文は長すぎるので、「我にて思ひしにも…わざと深からで」と「花蝶につけたる便りごとは…心立つやうにもあり」に分けて訳しているが、この部分はサイデンステッカー訳の方が原文に忠実で簡潔である。「また…何の咎かはあらむ」は「罪がない」という意味なので、両者ともに訳文は正確でない。

 ここで光源氏は玉鬘の養父でありながら、欲情を抑えきれなくなり、彼女を口説くだけでなく、手を握り、添い寝するのである。

(大島本原文)

「橘の薫りし袖によそふれば
変はれる身とも思ほえぬかな

世とともに心にかけて忘れがたきに、慰むことなくて過ぎつる年ごろを、かくて見たてまつるは、夢にやとのみ思ひなすを、なほえこそ忍ぶまじけれ。思し疎むなよ」

(渋谷現代語訳)

「あなたを昔懐かしい母君と比べてみますと
とても別の人とは思われません

いつになっても心の中から忘れられないので、慰めることなくて過ごしてきた歳月だが、こうしてお世話できるのは夢かとばかり思ってみますが、やはり堪えることができません。お嫌いにならないでくださいよ」

(ウェイリー英訳)

“As the orange-blossom gives its scent unaltered to the sleeve that brushes it, so have you taken on your mother’s beauty, till you and she are one.” So he recited, adding; “Nothing has ever consoled me for her loss, and indeed, though so many years have passed I shall die regretting her as bitterly as at the start. But tonight, when I first caught sight of you, it seemed to me for an instant that she had come back to me again _ that the past was only a dream… bear with me; you cannot conceive what happiness was brought me by one moment of illusion.”

(サイデンステッカー英訳)

“Scented by orange blossoms long ago,
The sleeve she wore is surely the sleeve you wear.”

“So many years have gone by, and through them all I have been unable to forget. Sometimes I feel as if I might be dreaming _ and as if the dream were too much for me. You must not dismiss me for my rudeness.”

 和歌は玉鬘を夕顔と同じようだとうたっているので、ウェイリー訳の方が正しい。次の原文も長いので「世とともに…過ぎつる年ごろを」と「かくて…忍ぶまじけれ」に分けて訳しているが、両者とも翻訳が不正確である。末尾の「思し疎むなよ」については、サイデンステッカー訳の方が正しい。

 玉鬘は、養女としているものの、本当は頭中将の娘のはずだ。養父の愛情を越えた欲情を感じて口説くとは、光源氏という人物はあまりにも倫理性が乏しくて、共感できない。)】

(「三藐院ファンタジー」その十四)

前久書状.jpg

「近衛前久筆書状」 慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/object/492

【近衛前久〈このえさきふさ・1536-1612〉は摂関家の嫡流として、従一位・太政大臣をきわめた。が、折柄、戦国乱世の中に運命を翻弄され、越後、摂津に出奔した。天正3年〈1575〉9月、織田信長の命をうけて薩摩に下り、島津義久の下降をすすめたが、応じなかった。同5年2月、むなしく帰洛。同10年6月2日、本能寺の変で信長横死を機に剃髪して、法名・龍山を号した。歌道・書道・有職故実・暦学など諸芸に精通、古今伝授を近衛稙家から受け、島津義久に授けている。和歌・連歌の作品を多く残す。諸国を歴訪、地方文化の向上・普及に貢献した。この手紙は西洞院時直〈にしのとういんときなお・1584-1636。時慶の子〉にあてたもの。まず、前月に貸与した『鷹百首』(前久が天正17年〈1589〉4月に著した歌書)を使者を通じて返却してほしいと申し送っている。また、昨年より貸与中の『源氏物語』についても同様の旨を記す。さらに、明日予定の連歌会に息男信尹(のぶただ)を介して参加を求められたが、先約があり不参を報じている。「山」は、前久の一字名。この手紙の書写年代は、考証の結果、慶長12年〈1607〉ころと推定される。この年、前久(龍山)は72歳。時直は24歳。文中に登場する時慶(ときよし)は56歳。信尹は43歳であった。結構の小さな温和な書風。豪放な信尹の書に較べ、父子の置かれていた立場、生き抜いた時代のすがたをまざまざと感知する。「去月の鷹百首、取りに参り候。此の者に給うべく。将亦(はたまた)、東山より御両所に申し入れ候去々年の源氏、是又、御隙(おひま)に馮(たの)み申し候由、申すべき由を度々(たびたび)、申し越し候。何様、御透(おすき)に来臨、待ち入り候。明日の連歌に拙老にも参り候半かと、一昨日の儀、信尹(近衛)より申され候へども、兼約(かねての約束)の子細候て、参らず、御残り多く候いき。旁(かたがた)、先参(まず参上)を期し候。謹言。/猶々、時慶卿(時直の父)へも此の旨、久しく面謁、能わざるも、御隙に来臨待ち入り候由、申し度く候。十月十四日山平少納言殿」  

(釈文)

猶々、時慶卿へも此旨、久不能面謁も御隙ニ来臨待入候由、申度候。去月之鷹百首、取ニ参候。此者ニ可給。将亦、東山より御両所ニ申入候去々年之源氏、是又、御隙ニ馮申候由、可申由ヲ度々、申越候。何様御透ニ来臨待入候。明日之連哥ニ拙老ニも参候半歟と、一昨日儀、信尹より被申候へ共、兼約之子細候而、不参、御残多候キ。旁、期先参候。謹言。十月十四日山平少納言殿       】

 この「近衛前久筆書状」は、慶長十二年(一六〇七)の頃で、「前久(龍山=山=瑞久?)」は七十二歳、「時直(西洞院)」は二十四歳、「時慶(西洞院)」は五十六歳。そして「信尹(杉=三木)」は四十三歳の頃の書状(手紙)だというのである。

夢想(之連歌)  来(慶長九年=一六〇四・一月?)二十三日

(夢想句) みどりあらそふ友鶴のこゑ   空白(「御」の「後陽成院」作かは不明?)
発句  霜をふる年もいく木の庭の松   瑞久=前久(龍山=山=瑞久?)」
脇    冬より梅の日かげそふ宿    杉=「信尹(杉=三木)」 
第三  朝附日軒のつま/\うつろひて  時慶=「時慶(西洞院)」
四    月かすかなるおくの谷かげ   冬隆=(滋野井冬隆)
五   うき霧をはらひははてぬ山颪   禅昌=「松梅院禅昌」
六    あたりの原はふかき夕露    時直=「時直(西洞院)」
七   村草の中にうづらの入臥て    昌琢=(里村昌啄)
八    田づらのつゞき人かよふらし  宗全=(施薬院全宗か?)

 前回、上記の「夢想連歌」を、「(慶長九年=一六〇四・一月)二十三日」の作と推定したのだが(『安土桃山時代の公家と京都―西洞院時慶の日記にみる世相(村山修一著・塙書房)』)、
その推定年次よりも、この書状は三年前のものということになる。
 そして、この両者(「書状」と「夢想連歌」)を相互に見て行くと、「前久・信尹」親子と「時慶・時直」親子とは、「前久」の時代から「側近」の関係というよりも、「主従」関係に近いような深い関係にあったことが伺われる。
 この書状の文中の「源氏(『源氏物語』)」に関連して、下記のアドレスの「近世初頭における都市貴族の生活(村山修一稿)」(p131-132)に、「慶長七年(一六〇二)より近衛家では源氏の講義が始められた。時慶始め小寺如水・神光院・松梅院・妙法院・曲直瀬正彬の顔ぶれで、始めの頃は昌叱が読み役になっていた」との記述がある。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/249507

 この記述中の「時慶=西洞院時慶、松梅院=松梅院禅昌、昌叱=里村昌琢の義父」と、「夢想連歌」の連衆と同一メンバーの顔ぶれが似通っていることが伺える。
 ここに出てくる「妙法院」は「妙法院常胤法親王」、「小寺如水」は「黒田如水=黒田官兵衛」、「曲直瀬正彬=曲直瀬道三に連なる医師=道三の孫娘が妻」、「神光院=醍醐寺三宝院・
義演に連なる住職?)などで、「近衛家」と関係の深い面々のように思われる。
 また、「夢想連歌」の連衆のうちの「宗全」については、「宗祇・宗長に連なる連歌師か?」と前回記述したが、「玄朔(曲直瀬道三)には秦宗巴・施薬院全宗・曲直瀬正彬・同正純など多士済々」(『安土桃山時代の公家と京都―西洞院時慶の日記にみる世相(村山修一著・塙書房) 』(P30))との記述の「施薬院全宗か?」と疑問符を付したものを、一応の解として置きたい。

【施薬院全宗(せやくいん-ぜんそう)
没年:慶長4.12.10(1600.1.25)
生年:大永6(1526)
戦国・安土桃山時代の医者。本姓は丹波、号は徳運軒、近江国(滋賀県)甲賀郡に生まれ、幼くして父を失い比叡山薬樹院の住持となる。織田信長の叡山攻め後に還俗して曲直瀬道三の門に入り、医を学んで豊臣秀吉の侍医となり、施薬院の旧制を復興、京都御所の一画(烏丸一条通下ル中立売御門北側)に施薬院を建て、施薬院使に任ぜられて、庶民の救療に当たった。子孫は施薬院を家姓とした。秀吉の側衆としても重用され政治にも参画した。京都で没し比叡山に葬られたが、現在は施薬院家代々の葬地十念寺(京都市上京区)に墓がある。<参考文献>京都府医師会編『京都の医学史』(宗田一) 】(出典 朝日日本歴史人物事典)

 因みに、「西洞院時慶」自身が、「医者としては曲直瀬道三と親交があり」((『安土桃山時代の公家と京都―西洞院時慶の日記にみる世相(村山修一著・塙書房) 』(P28)))と、近衛家周辺としては、医師としての「医療的活動」もしていたようである(村山『前掲書』p26-28)。

さらに、上記アドレスの「近世初頭における都市貴族の生活(村山修一稿)」(p132)に、次のように記されている。

【 これ(「源氏講釈」)と併行して何時頃から出来たのか「源氏絵」が流行した。経師にたのんで表紙をつけたり裏打ちをさせたりしている(寛永五、八、十~十六・寛永六、四、六等)が、これは絵巻物ではなく、物語中の一つの情景を題材として画いた一枚一枚ばらばらのものであったらしく、その詞書を竹内門跡・西園寺・園・日野・持明院などの公家に依頼したり(寛永五、十二、五・寛永六、四、八―九等)、人からの希望で詞書の揮毫をしたりしている(寛永六、三、十七)、また小瀬甫庵(道喜)が時慶にみせた詞書には、後奈良院や竹内門跡の古い歴代の筆跡があったという(元和七、八、二十二日)。甫庵は豊臣秀次の侍医で多数の書籍したことで知られているが、時慶と親しかった。 】

 『源氏物語画帖』(京博本)の「詞書」の執筆時期については、「慶長十九年以前より始まった詞書の作成は、元和三年頃になってようやく一応の完成を見ることとなり、その時点でまず最初の執筆者目録が作られた。以後も詞書は作り続けられ、最終的にそれが完成を見たのが、元和五年頃ではなかった」(『源氏物語画帖―京都国立博物館蔵・勉誠社』所収「源氏物語画帖の詞書(下坂守稿)」)と推定されているが、上記の記述(『時慶卿記』に基づく「近世初頭における都市貴族の生活(村山修一稿)」)からすると、その萌芽は、「慶長七年(一六〇二)より近衛家では源氏の講義が始められた」ことに関連し、そして、その「源氏講釈」として併行して「源氏絵」(物語中の一つの情景を題材として画いた一枚一枚ばらばらのもの)が定着していたということになろう。
 そして、この『源氏物語画帖』(京博本)は、その「源氏絵」(「画」と「詞書」)の先鞭的な、そして、その後の「源氏絵」のスタンダード(基準・指標)的な作品として不動の位置を占めることになる。
 これらが、やがて、寛永二十年(一六四三)の「後光明天皇の即位および徳川家綱の江戸城二之丸移徒、すなわち天皇家と徳川将軍家の後継者誕生を奉祝する」意味合いを背景としての、当時の、「宮廷の構成員を網羅したような詞書執筆陣の豪勢(五十四名を数える)」なる、
『源氏物語絵巻(狩野尚信筆)』模本(東京国立博物館蔵)=『尚信筆模本』が誕生することになる(別記「参考」)。
 この『尚信筆模本』関連については、下記アドレスの「王権と恋、その物語と絵画―〈源氏将軍〉徳川家と『源氏物語』をめぐる政治(松島仁稿)」でも紹介されているが、そこには、五十四名の執筆陣は収載されていない。

https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiBw_ux9obxAhVSFogKHaIqBFsQFjAAegQIAxAD&url=https%3A%2F%2Fglim-re.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_uri%26item_id%3D795%26file_id%3D22%

(別記「参考」)

 「源氏物語画帖(土佐光吉・長次郎筆)」(京都国立博物館蔵)と
 『源氏物語絵巻(狩野尚信筆)』模本(東京国立博物館蔵)=『尚信筆模本』

上段=『源氏物語画帖』(京博本)の「詞書」執筆者(1614以前~1619頃)
下段=『尚信筆模本』(東博本)の「詞書」執筆者(1642以前~1643頃)

1 桐壺(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 
→  「二条摂政殿」=二条康道 (一六〇七~一六六六) 
2 帚木(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 
→  「近衛右大臣」=近衛尚詞(一六二二一~一六五三) 
3 空蝉(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 
→  「八条殿中務」=八条宮智忠(一六一九一~一六六二) 
4 夕顔(光吉筆)=(詞)飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一) 
   (長次郎筆)=(詞)※青蓮院尊純(一五九一~一六五三) 
→  「近衛前関白」=※近衛信尋(一五九九~一六四九)
5 若紫(光吉筆)=(詞)西洞院時直(一五八四~一六三六) 
   (長次郎筆)=(詞)※青蓮院尊純(一五九一~一六五三) 
→  「妙法院宮」=妙法院堯然法(一六〇二~一六六九)
6 末摘花(光吉筆)=(詞)西洞院時直(一五八四~一六三六)
   (長次郎筆)=(詞)※青蓮院尊純(一五九一~一六五三)
→  「知恩院宮」=知恩院良純法親王(一六〇三~一六六九)
7 紅葉賀(光吉筆)=(詞※)大覚寺空性 (一五七三~一六五〇
→  「梶井殿さすの宮」=梶井宮(三千院)慈胤法親王(一六一七~一六九九)
8 花宴((光吉筆)=(詞)※大覚寺空性(一五七三~一六五〇
→  「しやうれんゐんの宮」=※青蓮院尊純(一五九一~一六五三) 
9 葵(光吉筆)=(詞)八条宮智仁(一五七九~一六二九) 
→  「しつそうゐん前大僧正」=実相院義尊大僧正(一六〇一~一六六一)
10 賢木(光吉筆)=(詞) 八条宮智仁(一五七九~一六二九)
   (長次郎筆)=(詞)近衛信尹息女(?~?)
→  「中の院前大納言」=中院通村(一五八八~一六五三)
11 花散里(光吉筆)=(詞)近衛信尹息女(?~?) 
(長次郎筆)=(詞)八条宮智仁(一五七九~一六二九)
→  「大炊の御門大納言」=大炊御門経孝(一六一三~一六八二)
12 須磨(光吉筆)=(詞)※近衛信尋(一五九九~一六四九)
→  「さいおん院前大納言」=※西園寺実晴(一六〇〇~一六七三)
13 明石(光吉筆)=(詞)飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一)
→  「姉小路中納言」=姉小路公景(一六〇二~一六五一)
14 澪標(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四)
→  「水瀬入道」=「水無瀬氏成」(一五七一~一六四四))
15 蓬生(光吉筆)=(詞)※近衛信尋(一五九九~一六四九)
(長次郎筆)=(詞※)近衛信尹(一五六五~一六一四)
→  「園前中納言」=園基音(一六〇四~一六五五)
16 関屋(光吉筆)=(詞)※竹内良恕(一五七三~一六四三)
→  「清水谷中納言」=清水谷実任(一五八七~一六六四)
17 絵合(光吉筆) =(詞)※竹内良恕(一五七三~一六四三)
→  「三条西前宰相中将」=「三条西実教」(一六一九~一七〇一)
18 松風(光吉筆) =(詞)※竹内良恕(一五七三~一六四三)
→  「白河三位」=「白川雅陳王」(一五九二~一六六三)
19 薄雲(光吉筆)=(詞)※烏丸光賢(一六〇〇~一六三八)
→  「飛鳥井三位」=「飛鳥井雅章」(一六一一~一六七九)
20 朝顔(槿)(光吉筆) =(詞)※烏丸光賢(一六〇〇~一六三八)
→  「野々宮三位」=「野宮定逸」(一六一〇~一六五八)
21 少女(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四)
→  「岩倉三位」=「岩倉具起」(一六〇一~一六六〇)
22 玉鬘(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四)
→  「日野頭左少弁」=「日野弘資」(一六一七~一六八七)
23 初音(光吉筆)=(詞)妙法院常胤(一五四八~一六二一)
→  「千草中将」=「千種有能」(一六一五~一六八七)
24 胡蝶(光吉筆) =(詞)妙法院常胤(一五四八~一六二一)
→  「はゝ中将」=「正親町三条公高」(一六一九~一六四八)
25 蛍(光吉筆) =(詞)烏丸光広(一五七九~一六三八)
→  「その少将」=「園基福」(一六二二~一六九九)
26 常夏(光吉筆) =(詞)烏丸光賢(一五七九~一六三八)
→  「柳原左少弁」=「柳原資行」(一六二〇~一六七九)
27 篝火(光吉筆) =(詞)※青蓮院尊純(一五九一~一六五三) 
→  「富小路兵衛佐」=「富小路頼直」(一六〇五~一六五八)
28 野分(光吉筆) =(詞)※青蓮院尊純(一五九一~一六五三) 
→  「飛鳥井授従」=飛鳥井雅宣」(難波宗勝) (一五八六~一六五一)
29 行幸(光吉筆)=(詞)阿部実顕(一五八一~一六四五) 
→  「烏丸右少弁」=「烏丸資慶」(一六二二~一六六九)
30 藤袴(蘭)(光吉筆) =(詞)阿部実顕(一五八一~一六四五) 
→  「高辻侍従」=「高辻遂長」(一六〇〇~一六四二)
31 真木柱(光吉筆)=(詞)日野資勝(一五七七~一六三九)
→  「水瀬少将」=「水無瀬氏信」(一六一九~一六九〇)
32 梅枝(光吉筆) =(詞)日野資勝(一五七七~一六三九) 
→  「□木町」=「正親町実豊」(一六一九~一七〇三)
33 藤裏葉(光吉筆)=(詞)菊亭季宣(一五九四~一六五二) 
→  「浦辻宰相中将」=「裏辻季福」(一六〇五~一六四四)
34 若菜(上) (光吉筆) =(詞)菊亭季宣(一五九四~一六五二) 
→  「安野三位」=「阿野公業」(一五九九~一六八三) 
34 若菜(下) (光吉筆) =(詞)中村通村(一五八七~一六五三)
→  「四辻中納言」=「四辻公理」(一六一〇~一六七七)
35 柏木(長次郎筆) =(詞)中村通村(一五八七~一六六七) 
→  「自妙院三位」=「持明院基定」(一六〇七~一六四二)
36 横笛(長次郎筆)=(詞)※西園寺実晴(一六〇〇~一六七三)
→  「四条三位」=「四条隆術」(一六一一~一六四七)
37 鈴虫(長次郎筆)=(詞)※西園寺実晴(一六〇〇~一六七三)
→  「平松右衛門督」=「平松時庸」(一五九九~一五五四)
38 夕霧(筆)=(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九)
→  「六条前宰相」=「六条有純」(一六〇四~一六四四)
39 御法(長次郎筆)=(詞)※西園寺実晴(一六〇〇~一六七三)
→  「水瀬宰相」=「水無瀬兼俊」(一五九三~一六五八)
40 幻(長次郎筆)=(詞)冷泉為頼(一五九二~一六二七) 
→  「高倉大納言」=「高倉水慶」(一五九一~一六六四)
41 雲隠  (本文なし。光源氏の死を暗示)
42 匂宮(長次郎筆) =(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九) 
→  「松原大納言」=「松原道基」(一六一五~一六四六)
43 紅梅(長次郎筆) =(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九)
→  「中院中納言」=「中院通純」(一六一二~一六五三)
44 竹河(長次郎筆)=(詞)四辻季継(一五八一~一六三九) 
→  「阿野前大納言」=「阿野実顕」(一五八一~一六四五)
45 橋姫(長次郎筆) =(詞)四辻季継(一五八一~一六三九)
→  「柳原大納言」=「柳原兼光」(一五九四~一六五四)
46 椎本(長次郎筆)=(詞)久我敦通(一五六五~?)    
→  「円満院前大僧正」=「円満院常尊」(一六〇四~一六七一)
47 総角(長次郎筆) =(詞)久我通前(一五九一~一六三四)
→  「竹内新宮」=「曼殊院良尚法親王」(一六二二~一六九三)
48 早蕨(長次郎筆) =(詞)冷泉為頼(一五九二~一六二七) 
→  「すいあん」=※「大覚寺空性法親王」(瑞庵) (一五七三~一六五〇)
49 宿木   (欠)                
→  「勝巌院宮」=「聖護院道晃法親王(一六一二~一六七八)
50 東屋   (欠)                
→  「一条院宮」=「一条院尊覚法親王(一六〇八~一六六一)
51 浮舟   (欠)                
→  「まんしゆいん宮」=※「曼殊院良恕法親王」(一五七四~一六四三)
52 蜻蛉   (欠)               
→  「九条前関白」=「九条幸家」(一五八六~一六六五)
53 手習    (欠)                
→  「伏見院殿兵部卿宮」=「伏見宮貞清親王」(一五九五~一六五四)
54 夢浮橋   (欠)
→  「九条左大臣」=「九条道房」(一六〇九~一六四七) 

上段=(出典:『源氏物語画帖 土佐光吉画 後陽成天皇他書 京都国立博物館所蔵 (勉誠社)』所収「京博本『源氏物語画帖』の画家について(狩野博幸稿)」「源氏物語画帖の詞書(下坂守稿)」
下段=(出典:『徳川将軍権力と狩野派絵画―徳川王権の樹立と王朝絵画の創成(松島仁著)』所収「前期徳川時代における『源氏物語』絵画化の位相)」p162-p192 「註78」p328331-)
※=『源氏物語画帖』(京博本)と『尚信筆模本』(東博本)との両書の執筆者
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yahantei

夢想(之連歌)  来(慶長九年=一六〇四・一月?)二十三日

(夢想句) みどりあらそふ友鶴のこゑ   空白(「御」の「後陽成院」作かは不明?)
発句  霜をふる年もいく木の庭の松   瑞久=前久(龍山=山=瑞久?)」
脇    冬より梅の日かげそふ宿    杉=「信尹(杉=三木)」 
第三  朝附日軒のつま/\うつろひて  時慶=「時慶(西洞院)」
四    月かすかなるおくの谷かげ   冬隆=(滋野井冬隆)
五   うき霧をはらひははてぬ山颪   禅昌=「松梅院禅昌」
六    あたりの原はふかき夕露    時直=「時直(西洞院)」
七   村草の中にうづらの入臥て    昌琢=(里村昌啄)
八    田づらのつゞき人かよふらし  宗全=(施薬院全宗か?)

 この八句目の作者「宗全」が、「施薬院全宗」とすると面白い。さながら、「麒麟がくる」の「東庵先生」(堺正章)の登場である。事実、これが、施薬院全宗」とすると、「全宗」は「東庵先生」のモデルとされる「曲直瀬道三」の一門の医師であり、「西洞院時慶」と
極めて近い人物である。この「宗全」が「施薬院全宗」とする見方は、『安土桃山時代の公家と京都―西洞院時慶の日記にみる世相(村山修一著・塙書房)』(p30)などから、その確率は決して低くはない。
「曲直瀬道三」は、下記のアドれレスのものが面白い。

https://serai.jp/hobby/1014053



by yahantei (2021-06-18 15:35) 

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