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源氏物語画帖「その二十五 蛍」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

25 蛍(光吉筆) =(詞)烏丸光広(一五七九~一六三八)    源氏36歳夏

蛍・光吉.jpg

源氏物語絵色紙帖  蛍  画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/535418/2

蛍・光広.jpg

源氏物語絵色紙帖  蛍  詞・烏丸光広
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/535418/1

(「烏丸光広」書の「詞」)

鳴く声も聞こえぬ虫の思ひだに人の消つには消ゆるものかは
(第一章 玉鬘の物語 第五段 兵部卿宮、玉鬘にますます執心す)

1.5.3 鳴く声も聞こえぬ虫の思ひだに 人の消つには消ゆるものかは
(鳴く声も聞こえない螢の火でさえ、人が消そうとして消えるものでしょうか。)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第二十五帖 蛍
 第一章 玉鬘の物語 蛍の光によって姿を見られる
  第一段 玉鬘、養父の恋に悩む
  第二段 兵部卿宮、六条院に来訪
  第三段 玉鬘、夕闇時に母屋の端に出る
  第四段 源氏、宮に蛍を放って玉鬘の姿を見せる
  第五段 兵部卿宮、玉鬘にますます執心す
(「烏丸光広」書の「詞」) →  1.5.3 
  第六段 源氏、玉鬘への恋慕の情を自制す
 第二章 光る源氏の物語 夏の町の物語
  第一段 五月五日端午の節句、源氏、玉鬘を訪問
  第二段 六条院馬場殿の騎射
  第三段 源氏、花散里のもとに泊まる
 第三章 光る源氏の物語 光る源氏の物語論
  第一段 玉鬘ら六条院の女性たち、物語に熱中
  第二段 源氏、玉鬘に物語について論じる
  第三段 源氏、紫の上に物語について述べる
  第四段 源氏、子息夕霧を思う
  第五段 内大臣、娘たちを思う
  
http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3209

源氏物語と「蛍」(川村清夫稿)

【 源氏物語には、各所で紫式部個人の意見が、光源氏たちの口を借りて表明されている。山本淳子京都学園大学教授が指摘するように、「蛍」の帖で光源氏は玉鬘に、物語の歴史書に対する優越性を唱えている。中国の伝統的価値観では歴史書、思想書を「大書」と呼んで讃え、物語、説話を「小説」と軽視していた。「蛍」の帖で紫式部は日本の知識人として、中国の価値観に真っ向から挑戦したのである。光源氏の台詞を、大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
「こちなくも、聞こえ落としてけるかな。神代より世にあることを、記しおきけるななり。日本紀などは、ただかたそばぞかし。これらにこそ道々しく詳しきことはあらめ」

(渋谷現代語訳)
「失礼にも(物語を)けなしてしまいましたね。神代から世の中にあることを、書き記したものだそうだ。日本紀などは、ほんの一面にしか過ぎません。物語にこそ道理にかなった詳細な事柄は書いてあるのでしょう」

(ウェイリー英訳)
“So you see as a matter of fact I think far better of this art than I have led you to suppose. Even its practical value is immense. Without it what should we know of how people lived in the past, from the age of the Gods down to the present day? For history-books such as the Chronicles of Japan show us only one small corner of life; whereas these diaries and romances which I see piled around you contain, I am sure, the most minute information about all sorts of people’s private affairs…”

(サイデンステッカー英訳)
“I have been rude and unfair to your romances, haven’t I? they have set down and preserved happenings from the age of the gods to our own. The Chronicles of Japan and the rest are a mere fragment of the whole truth. It is your romances that fill in the details.”

 ウェイリーは原文から逸脱した超訳をしている。光源氏が物語を高く評価していることを強調して、I think far better of this art than I have led you to supposeとかWithout it what should we know of how people lived in the pastと、原文に存在しない表現を使っている。サイデンステッカーは正確で簡潔な翻訳をしている。

(大島本原文)
「その人のうへとて、ありのままに言ひ出づることこそなけれ、善きも悪しきも、世に経る人のありさまの、見るにも飽かず、聞くにもあまることを、後の世にも言ひ伝へさせまほしき節々を、心に籠めがたくて、言ひおき始めたるなり。善きさまに言ふとては、善きことの限り選り出でて、人に従はむとては、また悪しきさまの珍しきことを取り集めたる、皆かたがたにつけたる、この世の他のことならずかし」

(渋谷現代語訳)
「誰それの話といって、事実どおりに物語ることはありません。善いこと悪いことも、この世に生きている人のことで、見飽きず、聞き流せないことを、後世に語り伝えたい事柄を、心の中に籠めておくことができず、語り伝え初めたものです。善いように言おうとするあまりには、善いことばかりを選び出して、読者におもねろうとしては、また悪いことでありそうにもないことを書き連ねているのは、皆それぞれのことで、この世の他のことではないのですよ」

(ウェイリー英訳)
“But I have a theory of my own about what this art of the novel is, and how it came into being. To begin with, it does not simply consist in the author’s telling a story about the adventures of some other person. On the contrary, it happens because the storyteller’s own experience of men and things, whether for good or ill _ not only what he has passed through himself, but even events which he has only witnessed or been told of _ has moved him to an emotion so passionate that he can no longer keep it shut up in his heart. Again and again something in his own life or in that around him will seem to the writer so important that he cannot bear to let it pass into oblivion. There must never come a time, he feels, when men do not know about it. That is my view of how this art arose.
Clearly then, it is no part of the storyteller’s craft to describe only what is good or beautiful. Sometimes, of course, virtue will be his theme, and he may then make such play with it as he will. But he is just as likely to have been struck by numerous examples of vice and folly in the world around him, and about them he has exactly the same feelings as about the pre-eminently good deeds which he encounters; they are important and must all be garnered in. thus anything whatsoever may become the subject of a novel, provided only that it happens in this mundane life and not in some fairyland beyond our human ken.”

(サイデンステッカー英訳)
“We are not told of things that happened to specific people exactly as they happened; but the beginning is when there are good things and bad things, things that happen in this life which one never tires of seeing and hearing about, things which one cannot bear not to tell of and must pass on for all generations. If the storyteller wishes to speak well, then he chooses the good things; and if he wishes to hold the reader’s attention he chooses bad things, extraordinarily bad things. Good things and bad things alike, they are things of this world and no other.”

 ウェイリーは極めて冗漫な翻訳をしている。「その人のうへとて…言ひおき始めたるなり」では、Again and again … when men do not know about itは不要である。逆にサイデンステッカーの訳文は、あまりに簡単過ぎる。「善きさまに言ふとては…この世の他のことならずかし」でもウェイリーは、「悪しきさまの、珍しき事を取り集めたる」をBut he is just as likely to … which he encountersと、だらしないほど長ったらしい翻訳をしている。サイデンステッカーの訳文は簡潔直截である。

 ウェイリーの翻訳が冗漫で超訳が目立つのは、フランスのマルセル・プルースト(Marcel Proust)の小説「失われた時を求めて」(À la Recherche du Temps perdu)の影響を受けているからである。  】

(「三藐院ファンタジー」その十五)

光広・詠草.jpg

「烏丸光広筆二条城行幸和歌懐紙」 慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)

https://objecthub.keio.ac.jp/object/803

【 後水尾天皇〈ごみずのおてんのう・1596-1680〉の二条城行幸は、寛永3年〈1626〉9月6日より5日間、執り行なわれた。その華麗な行粧と、舞楽・和歌・管弦・能楽などの盛大な催しの様子は、『寛永行幸記』『徳川実紀』などに詳述されている。この懐紙は、二条城行幸の時の徳川秀忠〈とくがわひでただ・1579-1632〉・家光〈いえみつ・1604-51〉・後水尾天皇の詠歌を、烏丸光広〈からすまるみつひろ・1579-1638〉が書き留めたもの。光広はこのとき48歳、和歌会の講師を務めた。「「竹、遐年を契る」ということを詠める和歌/左大臣源秀忠/呉竹のよろづ代までとちぎるかなあふぐにあかぬ君がみゆきを/右大臣源家光/御幸するわが大きみは千代ふべきちひろの竹をためしとぞおもふ/御製/もろこしの鳥もすむべき呉竹のすぐなる代こそかぎり知られね」

(釈文)

詠竹契遐年和歌/左大臣源秀忠/呉竹のよろづ代までとちぎるかなあふぐにあかぬ君がみゆきを/右大臣源家光御幸/するわが大きみは千代ふべきちひろの竹をためしとぞおもふ/御製/もろこしの鳥もすむべき呉竹のすぐなる代こそかぎり知られね   】

 この寛永三年(一六二六)の「二条城行幸」の全記録は、下記のアドレスで、その全容を見ることができる。

https://www.imes.boj.or.jp/cm/research/komonjo/001005/016/910170_1/html/

 その「一連の儀式のクライマックスとなった、天皇以下、宮廷の構成員を総動員する形で上演された『青海波』」の舞」の全容は、下記のアドレスのものが参考となり、これは、『源氏物語画帖』の「詞書」の執筆者などを探る上で、極めて重要なデータとなってくる。

https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiBw_ux9obxAhVSFogKHaIqBFsQFjAAegQIAxAD&url=https%3A%2F%2Fglim-re.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_uri%26item_id%3D795%26file_id%3D22%26file_no%3D1&usg=AOvVaw1LejrASRSFdRxGu9Y6EYoe

【 「王権と恋、その物語と絵画―〈源氏将軍〉徳川家と『源氏物語』をめぐる政治」(松島仁稿)(抜粋)

秀忠は寛永三年(一六二六)、息子である三代将軍・家光とともに大軍を率いて上洛し、〈天皇の庭〉神泉苑を大幅に切り取ったうえ、壮麗に改築された二條城に後水尾天皇を迎る。足利義満や豊臣秀吉、そして光源氏の故事を踏まえたこの行幸の模様は、一代の盛儀として屏風絵や絵巻、古活字版・整版として板行された絵入りの行幸記などにも記録されるが、ここで一連の儀式のクライマックスとなったのが、天皇以下、宮廷の構成員を総動員する形で上演された「青海波」の舞だった。
(註22)
 「この日兼てより舞御覧の事仰出されしかば。未刻に至て主上(後水尾天皇)の玉座を階間御簾際に設け。あらかじめ上畳御菌をしく、西間を中宮(東福門院和子・徳川氏)。女院(中和門院前子・近衛氏)の御座とし。畳菌を設く。姫宮方には畳なし。東間を爾御所(徳川秀忠・家光)御座とし。屏風をへだてて二間を親王。門跡。大臣の座とし。關白はじめ公卿。殿上人は縁より孕張に至るまでの間圓座を設く。(中略)
青海波序(輪台)。中院侍從通純。飛鳥井侍從雅章。左京大夫忠勝。治部大輔宗朝。破は(青海波)四辻侍從公理。西洞院侍從時良。いつれも麹塵閾腋。紅葉の下襲。表袴も同じ。巻纓。蒔絵野太刀。紅緂の平緒。絲鞋。青海波の二侍從は菊花を挿頭す。垣代は堀川中將康胤を始め。殿上人十四人。皆弓。壺胡簶。伶人十二人。染装束。御随身八人。襲装束なり。箏は内(後水尾天皇)の御所作。琵琶は伏見兵部卿貞清親王。箏は高松弾正罪好仁親王。琵琶は伏見の若宮。みな簾中にての所作なり。簀子には關白(近衛信尋・後水尾天皇弟)井に一條右大臣昭良公。九條前関白兼孝公。ともに箏。二條内大臣康道公笙。鷹司左大將教平卿。九條右大將幸家卿は共に笛。四辻中納言季継卿は箏。西園寺宰相中將實晴卿は琵琶。西洞院右衛門督時直卿は篳篥。其座下に打板敷。円座を設。殿上人の座とす。山科少將言総は笙。櫛笥侍從隆朝は笛。清水谷侍從忠定。久世少將通式は共に箏。小倉侍從公根は琵琶。花園侍從
公久は笙。唐橋民部少輔在村は篳篥。同所砌下に板敷をかまへ伶人の座とす。(中略)垣代の輩次第に中門にいり。舞人斜に庭上を巡り大輪をなし。御座の前東西に小輪をなせば。序破の舞人両輪の中にいり。次に一行平立。次に舞人打すちかへめぐりて前行す。(後略)」(『大猷院殿御實紀』寛永三年(一六二六)九月七日條く黒板勝美・國史大系編修會編『徳川實紀第二篇〈新訂増捕國史大系三十九巻〉』、吉川弘文館、一九三〇年〉。括弧内は筆者) 】

光広・富士山.jpg

「烏丸光広筆富嶽自画賛」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/object/1844

【烏丸光広〈からすまるみつひろ・1579-1638〉は、江戸時代初期の公卿。多芸多才の文化人として知られ、和歌・連歌はもとより、書画・茶道も能くした。とりわけ和歌は、細川幽斎〈ほそかわゆうさい・1534-1610〉に学び古今伝授を受けている。一方、能書家としても声価が高い。当初は、当時の公卿に共通の手習書法であった持明院流を習う。が、のちに光悦流に強い影響を受け、また同時に藤原定家〈ふじわらのさだいえ・1162-1241〉の書風にも私淑して、定家流も掌中にしている。しだいに不羈奔放の光広の性格を投影した光広流ともいうべき書風を確立、わが書道史上、近衛信尹〈このえのぶただ・1565-1614〉・本阿弥光悦〈ほんあみこうえつ・1558-1637〉・松花堂昭乗〈しょうかどうしょうじょう・1584-1639〉ら「寛永の三筆」と並び称される評価を得ている。本図は、富士山を一筆書きに描き、その余白に富士山を詠み込んだ1首の和歌を書き添えたもの。光広は、徳川家康〈とくがわいえやす・1542-1616〉の厚遇を受け、朝廷と江戸幕府との斡旋役として、生涯幾度となく関東へ下向。そのたびたび京から江戸・駿府に下向している。東海道往来の折に、仰いだ富士の霊峰を詠んだ和歌は数知れず、家集『黄葉和歌集』(巻第七・羈旅部)には20首が収められている。この和歌はその中には見あたらないが、かれの自詠にちがいない。のびのびと淡墨を駆った書画一体の妙は、光広の真骨頂を示すものである。

(釈文)

おもかげの
山なる
気かな
朝夕に
ふじの
高根が
はれぬ
くもゐの         】


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yahantei

「烏丸光広筆二条城行幸和歌懐紙」

【詠竹契遐年和歌/左大臣源秀忠/呉竹のよろづ代までとちぎるかなあふぐにあかぬ君がみゆきを/右大臣源家光御幸/するわが大きみは千代ふべきちひろの竹をためしとぞおもふ/御製/もろこしの鳥もすむべき呉竹のすぐなる代こそかぎり知られね 】



『黄葉集(下)』(国立国会図書館蔵)

1480 寛永三年行幸将軍二条第、竹契遐年
天下ときはのかけになひかせて君かちよませやとのくれ竹


『烏丸光広集か(上)橘りつ編』(古典文庫) p224



『松永貞徳と烏丸光広(高梨素子著)』(コレクション日本歌人選032)
p86-87

天(あめ)が下常盤の陰になびかせて君が千代ませ宿のくれ竹
(天下を常緑の木陰に従わせて、君のお治めになる千年の間生えていて下さい。この宿のくれ竹よ。)



【 寛永三年〈一六二六〉秋、前将軍徳川秀忠と三代将軍家光父子が江戸から上洛し二条城に滞在した。九月六日から十日の間二条城に、後水尾天皇と中宮和子(徳川秀忠の娘)、中和門院(天皇の母)、女一宮(天皇と和子の間の長女、後の明正天皇)を迎え寛永行幸があり、さまざまなもてなしが行われた。
 七日には舞楽が、八日には歌会が、十日には猿樂(能)が天皇への接待として行われた。八日の歌会は徳川御三家を含めた将軍家一門と、関白・太閤以下宮廷の重臣が合せて二十名、歌会の部屋の畳の上に列席し、部屋の外にも公家が詰めて行われた。この歌会に歌を出した者は総勢で七十八名にもなる。歌はすでに作られ懐紙に書かれて用意されていて、歌会では、それを披講といって皆の前で歌い上げる儀式を行うのである。読み上げ順序に懐紙をそろえる読師の役は内大臣二条康道がつとめ、講師といって始めに歌を読み上げる役は冷泉中将為頼が行った。最後に天皇の歌を披講するとき、役を交替して、読師を関白左大臣近衛信尋が、講師を大納言烏丸光広がつとめた。大変に晴れがましいことであった。
 題は「竹遐年(かねん)ヲ契ル」。常緑の竹が長寿を約束するという意味で、祝の題として鎌倉時代からよまれてきた。光広の歌の「君」は表面上は天皇を指すが、将軍の意味も含むように感じられる。双方をうまくもり立ててよみこんだ巧妙な歌であろう。
 光広は徳川家とは縁が深く、慶長十三年には徳川家康と側室お万の方の仲人により、家康次男秀康の未亡人を妻とし、翌年後陽成天皇の勅勘を受けた特には、駿府の家康のもとにすがって流刑を免れている。」


 】
by yahantei (2021-06-19 16:09) 

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