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源氏物語画帖「その二十六 常夏」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

26 常夏(光吉筆) =(詞)烏丸光広(一五七九~一六三八)   源氏36歳夏

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源氏物語絵色紙帖  常夏  画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/512727/2

光広・常夏.jpg

源氏物語絵色紙帖  常夏  詞・烏丸光広
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/512727

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/27/%E5%B8%B8%E5%A4%8F_%E3%81%A8%E3%81%93%E3%81%AA%E3%81%A4%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%85%AD%E5%B8%96_%E7%8E%89%E9%AC%98%E5%8D%81%E5%B8%96%E3%81%AE

(「烏丸光広」書の「詞」)

いと暑き日、東の釣殿に出でたまひて涼みたまふ。中将の君もさぶらひたまふ。親しき殿上人あまたさぶらひて、西川よりたてまつれる鮎、近き川のいしぶしやうのもの、御前にて調じて参らす。
(第一章 玉鬘の物語 養父と養女の禁忌の恋物語 第一段 六条院釣殿の納涼)

1.1.1  いと暑き日、東の釣殿に出でたまひて涼みたまふ。 中将の君もさぶらひたまふ。親しき殿上人あまたさぶらひて、 西川よりたてまつれる鮎、 近き川のいしぶしやうのもの、御前にて調じて参らす。
(たいそう暑い日、東の釣殿にお出になって涼みなさる。中将の君も伺候していらっしゃる。親しい殿上人も大勢伺候して、西川から献上した鮎、近い川のいしぶしのような魚、御前で調理して差し上げる。)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第二十六帖 常夏
 第一章 玉鬘の物語 養父と養女の禁忌の恋物語
  第一段 六条院釣殿の納涼
(「烏丸光広」書の「詞」) →  1.1.1 
  第二段 近江君の噂
  第三段 源氏、玉鬘を訪う
  第四段 源氏、玉鬘と和琴について語る
  第五段 源氏、玉鬘と和歌を唱和
  第六段 源氏、玉鬘への恋慕に苦悩
  第七段 玉鬘の噂
  第八段 内大臣、雲井雁を訪う
 第二章 近江君の物語 娘の処遇に苦慮する内大臣の物語
  第一段 内大臣、近江君の処遇に苦慮
  第二段 内大臣、近江君を訪う
  第三段 近江君の性情
  第四段 近江君、血筋を誇りに思う
  第五段 近江君の手紙
  第六段 女御の返事

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3299

源氏物語と「常夏」(川村清夫稿)

【 内大臣(頭中将)の隠し子玉鬘は、光源氏が養女同然に育てていたが、内大臣には他に近江の君という娘がいた。彼女は末摘花、源典侍以上の、「源氏物語」の笑われ役になっている。「常夏」の帖では、彼女が五節の君と双六に夢中になっているのを内大臣がのぞいて、器量が良くないのを嘆く場面がある。大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、アーサー・ウェイリーとエドワード・サイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
手をいと切におしもみて、
「せうさい、せうさい」
とこふ声ぞ、いと舌疾きや。「あな、うたて」と思して、御供の人の前駆追ふをも、手かき制したまうて、なほ、妻戸の細目なるより、障子の開きあひたるを見入れたまふ。この従姉妹も、はた、けしきはやれる、
「御返しや、御返しや」
と筒をひねりて、とみに打ち出でず、中に思ひはありやすらむ、いとあさへたるさまどもしたり。容貌はひちちかに、愛敬づきたるさまして、髪うるはしく、罪軽げなるを、額のいと近やかなると、声のあはつけさとにそこなはれたるなめり。取りたててよしとはなけれど、異人とあらがふべくもあらず、鏡に思ひあはせられたまふに、いと宿世心づきなし。

(渋谷現代語訳)
手をしきりに揉んで、
「小賽、小賽」
と祈る声は、とても早口であるよ。「ああ、情ない」とお思いになって、お供の人が先払いするのをも、手で制しなさって、やはり、妻戸の細い隙間から、襖の開いているところをお覗き込みなさる。この従姉妹も、同じく、興奮していて、
「お返しよ、お返しよ」
と筒をひねり回して、なかなか振り出さない。心中に思っていることはあるのかも知れないが、たいそう軽薄な振舞をしている。器量は親しみやすく、かわいらしい様子をしていて、髪は立派で、欠点はあまりなさそうだが、額がひどく狭いのと、声の上っ調子なのとで台なしになっているようである。取り立てて良いというのではないが、他人だと抗弁することもできず、鏡に映る顔が似ていらっしゃるので、まったく運命が恨めしく思われる。

(ウェイリー英訳)
The two were playing Double Sixes, and the Lady of Omi, perpetually clasping and unclasping her hands in her excitement, was crying out ”Low, low! Oh, how I hope it will be low!” at the top of her voice, which rose at every moment to a shriller and shriller scream. “What a creature!” thought To no Chujo, already in despair, and signaling his attendant, who were about to enter the apartments and announce him, that for a moment he intended to watch unobserved, he stood near the double door and looked through the passage window at a point where the paper did not quite meet the frame. The young dancer was entirely absorbed in the game. Shouting out: “A twelve, a twelve. This time I know it is going to be a twelve!” she continually twirled the dice cup in her hand, but could not bring herself to make the throw. Somewhere there, inside that bamboo tube, the right number lurked, she saw the two little stones with six pips on each… But how was one to know when to throw? Never were excitement and suspense more clearly marked on two young faces. The Lady of Omi was somewhat homely in appearance; but nobody (thought To no Chujo) could possibly call her downright ugly. Indeed, she had several very good points. Her hair, for example, could alone have sufficed to make up for many shortcomings. Two serious defects, however, she certainly had; her forehead was far too narrow, and her voice was appallingly loud and harsh. In a word, she was nothing to be particularly, proud of; but at the same time(and he called up before him the image of his own face as he knew it in the mirror) it would be useless to deny that there was a strong resemblance.

(サイデンステッカー英訳)
Her hands at her forehead in earnest supplication, she was rattling off her prayer at a most wonderous speed. “Give her a deuce, give her a deuce.” Over and over again. “Give her a deuce, give her a deuce.” This really was rather dreadful. Motioning his attendants to silence, he slipped behind a hinged door from which the view was unobstructed through sliding doors beyond. “Revenge, revenge,” shrieked Gosechi, the clever young woman who was her opponent. Gosechi was not to be outdone in earnestness or shrillness. She shook and shook the dicebox and was not quick to make her throw. If either of them had anything at all in her empty mind sha was not showing it. The Omi daughter was small and pretty and had beautiful hair, and could by no means have been described as an unrelieved scandal – though a narrow forehead and a too exuberant and indeed a torrential way of speaking canceled out her good points. No beauty, certainly, and yet it was impossible not to recognize immediately whose daughter she was. It made To no Chujo uncomfortable to realize that he might have been looking at his own mirror image.

ウェイリー訳は冗漫で、サイデンステッカー訳は簡潔である。「小賽」と「御返しや」を前者はlowとa twelve、後者はgive her a deuceとrevengeと訳している。「あな、うたて」を前者はWhat a creature!と露骨に訳し、後者は省略している。「中に思ひはありやすらむ」は、前者はSomewhere there, inside that bamboo tube, the right number lurked, she saw the two little stones with six pips on each… But how was one to know when to throw?と超訳して、後者はthe clever young womanと誤訳している。内大臣の落胆を表わす「異人とあらがふべくもあらず、鏡に思ひあはせられたまふに、いと宿世心づきなし」は、前者はbut at the same time (and he called up before him the image of his own face as he knew it in the mirror) it would be useless to deny that there was a strong resemblance、後者はit was impossible not to recognize immediately whose daughter she was. It made To no Chujo uncomfortable to realize that he might have been looking at his own mirror image.と訳している。

 近江の君は文学的教養も欠けていた。弘徽殿女御に手紙と和歌を送るが、あまりに出来が悪いので、女官たちの失笑を買うのである。 】

(「三藐院ファンタジー」その十六)

光広・西行.jpg

「西行法師行状絵巻」(奥書:烏丸光広「賛」) 慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)

https://objecthub.keio.ac.jp/object/1795

【 西行の出家から入滅までの生涯を描いた物語絵巻である。「西行物語絵巻」は数種類の写本があり、大きく「広本系」「略本系」「采女本系」「永正・寛永本系」の4種に分けられるが、本絵巻は、「采女本系」にあたる。巻末に、明応九年(1500)に槐下桑門(三条公敦(1439–1507))が記した奥書、すなわち、海田采女佑相保が絵を描き、詞書を公敦が書写したことが記される写本群であり、宮中に伝わった「禁裏御本」(海田采女佑相保筆)を原本とする。
 詞書は、巻第2のみ、烏丸光広(1579–1638)が独自の書風で認めている。同じく光広の命によって俵屋宗達(生没年不詳)が描いた2組の「西行物語絵巻」である、旧毛利家本(出光美術館所蔵)、旧渡辺家本(文化庁所蔵)との関係性が興味深い。宗達はたらしこみを用い、着衣の形状など随所に個性を発揮しているのに対し、本絵巻は原本である「禁裏御本」の姿を忠実に伝える模本とされる。確かに、西行が那智滝を拝む場面の、緑青と群青で鮮やかに描かれた山岳と、垂直に注ぎ落ちる滝壺の空間表現が力強く、室町時代の原本の姿が想起される。(松谷)  

西行〈さいぎょう・1118-90〉は、もともと鳥羽上皇〈とばじょうこう・1103-56〉の北面武士であったが、23歳で出家して諸国を行脚、放浪の歌人として生存中からその歌才を謳われ、『新古今和歌集』の代表的歌人の1人として声価を得ていた。没後もその声望は高まり、その生涯を歌と文で綴る『西行物語』が生まれ、さらに画面をともなった絵巻もつくられるようになった。詞書を藤原為家〈ふじわらのためいえ・1198-1275〉、絵を土佐経隆〈とさつねたか・生没年未詳〉と伝える「西行物語絵巻」(2巻・徳川黎明会および萬野家蔵)が最古の遺品(鎌倉時代・13世紀)として知られる。その後、明応9年〈1500〉に海田采女佑源相保〈かいだうねめのすけみなもとのすけやす・生没年未詳〉が描いた絵巻(4巻本)が作られた。その原本は現存しないが、その模写本がいくつか伝存する。そのうち、寛永7年〈1630〉9月、権大納言烏丸光広〈からすまるみつひろ・1579-1638〉がこの海田采女佑本を禁裏御所から借り出し、詞書はみずからが揮毫、画面を俵屋宗達〈たわらやそうたつ・生没年未詳〉に模写せしめたものが2種現存する(出光美術館本=毛利家旧蔵と、渡辺家蔵本)。これらはいずれも絵は宗達独自の画風で描かれ、かならずしも原本(海田采女佑本)に忠実とはいえない。これらに対してこのセンチュリー文化財団蔵本は、細緻を尽くした精妙な模写本、すなわち禁裏御本(海田采女佑本)の原本を再現するものとして注目される。ただ、巻第二の詞書のみを光広自身がみずからの書風で書写する。光広の「西行物語絵巻」に抱く執念をみる思いである。現世の無常と仏道専念による頓証菩提の思想をあらわした詞書からはじまり、西行の死を惜しむ場面まで、4巻あわせて57場面が描かれる。

[奥書釈文] 「右此四巻画図者/海田采女佑源相保/所筆也段々文字乃愚翁書焉/明応竜集庚申上陽月中浣日/槐下桑門」         】

https://objecthub.keio.ac.jp/object/1603

「耳底記」(烏丸光広著)

光広・耳底記.jpg

【 中世の歌学を江戸時代に伝えた、高名な武将歌人細川幽斎(1534–1610)の歌道の教えを、弟子の公家烏丸光広(1579–1638)が、慶長三年八月から幽斎の田辺籠城を挟む同七年十二月まで、70回以上にわたって記録した聞書の自筆原本である。質素な茶表紙の中央に光広の手で「耳底記」と記され、裏表紙にも同筆で「一二記」とある。前遊紙裏に光広花押が書かれ、内題は「幽斎口義 光廣記之」とある。1丁目表のみ平仮名書きで、同丁裏以降は速筆できる片仮名書きである。墨色は転変して墨滅も目立ち、末尾に白紙も多く残るなど、原本の趣をよく示している。系統立たない雑多な歌話の集成であるが、幽斎の動静とともに、幽斎が学んだ三条西家の正統的な歌学思想がうかがえる貴重な資料である。
 本書の「耳底記 光廣卿自筆」との箱書は、飛鳥井雅章(1611–79)筆と思われ、天理図書館蔵本の飛鳥井家蔵自筆本を写したとする安永五年(1776)の烏丸光祖奥書の記述と整合する。(佐々木)
[参考文献]大谷俊太『和歌史の「近世」─道理と余情─』ぺりかん社、2007年/
 『耳底記』は細川幽斎(1534–1610)・烏丸光広(1579–1638)師弟の高名さもあって尊重され、写本も少なくなく、版本も寛文元年(1661)・元禄二年(1689)・同十五年(「和歌奥義抄」)本や数種の無刊記本などの多数を確認できる。公家関係の歌書が江戸前期に刊行された珍しい例として注目されるものである。
 本書は伝本の多い、末尾に「林和泉掾開版」とのみある刊本である。初丁表の解題と凡例的な文章には、俗言は改めずに、片仮名は童蒙の為に平仮名に改めたこと、部分的な歌の引用を一首全体の形にしたこと等が記される。また自筆本の外題と花押を透き写しして「首に冠らしむ」とある通り、初丁裏にそれらが模刻されている。刊行に際して3巻に分かっており、本文冒頭に「耳底記巻之一(二・三)」との内題も加えられている。自筆本との最大の違いは、「光廣卿別紙」にあるという「詠歌制之詞」を追加していることである。自筆本との比較ができるように、一具として保管されてきたものである。(佐々木) [参考文献]小松茂美『古筆学大成』第6巻、講談社、1989年      】
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yahantei

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-03-31

【「西行法師行状絵詞(西行物語絵巻)」(俵屋宗達画・烏丸光広書)周辺メモ

「西行法師行状絵詞」(俵屋宗達画・烏丸光広書)第三巻 紙本著色 7幅
第一段断簡 32.8cm×98.0cm 第四段断簡 詞 32.4cm×47.8cm 絵 32.7cm×48.9cm 
第六段断簡 詞32.8cm×48.5cm 絵32.9cm×98.0cm 第一四段断簡 詞 33.1cm×48.5cm 絵 33.1cm×96.5cm 国(文化庁)
文化庁分室 東京都台東区上野公園13-9 平成17・21年度 文化庁購入文化財
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/145397

本作品は、烏丸光広(1579~1638)が禁裏御本を俵屋宗達に写させ、寛永七年(1630)に成立した紙本著色西行法師行状絵詞のうち第三巻の断簡である。全一七段で構成される第三巻のうち、本作は第一段、第四段、第六段、第一四段の絵と詞、七幅から成る(第一段は絵と詞併せて一幅)。巻第三は、西行が西国への歌行脚の末に、戻った都で娘に再会するまでを描いた巻であり、第一段は、草深い伏見の里を訪れる旅姿の西行、第四段は、北白川にて秋を詠むところ、第六段は、天王寺に参詣にむかう西行が交野の天の川にいたり、業平の歌を思い出して涙が袖に落ちかかったと詠んだ場面、第一四段は、猿沢の池に映る月に昔を偲ぶところを描く。絵は、美しい色彩を賦した景物をゆったりと布置して、詩情漂う名所をあらわしている。宗達らしいおおらかな雰囲気を保持しており、また現在知られている宗達作品中、製作時期の確実な唯一の遺品として貴重である。

「第四巻」の『奥書き』)
  右西行法師行状之絵
  詞四巻 本多氏伊豆守
  富正朝臣依所望 申出
  禁裏御本 命于宗達法橋
  令模写焉 於詞書予染
  禿筆了 招胡盧者乎
   寛永第七季秋上澣
           特進光広(花押)
[右、西行法師行状乃絵詞四巻は、本多伊豆守富正朝臣、
所望に依って、禁裏御本を申し出で、宗達法橋に命じて模写せしむ。
詞書に於いては、予(光広)禿筆を染め了(おわ)んぬ。
胡慮(嘲笑)を招くか。
寛永第七(一六三〇)季秋上幹(九月上旬)。
特進(正二位の唐名) 光広(花押)]
(『日本の美術№31 宗達(千沢楨治著)』など  】
by yahantei (2021-06-21 09:45) 

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