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鶴下絵三十六歌仙和歌巻(光悦書・宗達画)」周辺(その十八) [光悦・宗達・素庵]

(その十八)I図『鶴下絵和歌巻』(14藤原興風)

鶴下絵A-E  F-.jpg

「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」(A図~J図)
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kinsei/item02.html

鶴下絵和歌巻I図.jpg

藤原清正 子の日しに占めつる野辺の姫小松 引かでや千代の蔭を待たまし(「撰」「俊」)
14藤原興風 誰をかも知る人にせむ高砂の 松も昔の友ならなくに(「撰」「俊」)
(釈文)誰を可もし流人尓世無高砂濃ま徒も無可し濃友那らな久に

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/okikaze.html

     題しらず
14 誰をかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに(古今909)

【通釈】知合いが次々と亡くなってゆく中、私は生き残ってしまい、このうえまあ誰を親しい友とすればよいだろう。長寿で名高い高砂の松も、昔からの友ではあり得ないのに。
【語釈】◇誰をかも 「か」「も」いずれも係助詞で、それぞれ疑問と詠嘆をあらわす。◇知る人 自分を親しく知る人。気心の知れた人。友人。◇高砂の松 高砂は播磨国の歌枕。今の兵庫県高砂市、加古川河口付近。古今集仮名序に「たかさご、すみの江のまつも、あひおひのやうにおぼえ」とあるように、古来松の名所とされた。当該歌については「山の惣名なるべし」(幽斎抄)と、歌枕でなく「山」を意味する普通名詞と見る説もある。

藤原興風一.jpg

藤原興風/妙法院宮堯然親王:狩野尚信/慶安元年(1648)  金刀比羅宮宝物館蔵
http://www.konpira.or.jp/museum/houmotsu/treasure_house_2015.html

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/okikaze.html

    寛平御時后宮歌合
契(ちぎ)りけむ心ぞつらきたなばたの年にひとたび逢ふは逢ふかは(古今178)

【通釈】織女と牽牛とで約束を交わしたのだろうが、その心は薄情だ。一年に一度だけ逢うなんて、逢ううちに入るだろうか。
【補記】「つらし」は元来仕打ちの非情さ、冷酷さなどについて言った語。

藤原興風二.jpg

『三十六歌仙』(藤原興風)本阿弥光悦書(国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288424

契(ちぎ)りけむ心ぞつらきたなばたの年にひとたび逢ふは逢ふかは(古今178)

(追記)「西行法師行状絵詞(西行物語絵巻)」(俵屋宗達画・烏丸光広書)周辺メモ

西行絵物語一.jpg

「西行法師行状絵詞」(俵屋宗達画・烏丸光広書)第三巻 紙本著色 7幅
第一段断簡 32.8cm×98.0cm 第四段断簡 詞 32.4cm×47.8cm 絵 32.7cm×48.9cm 
第六段断簡 詞32.8cm×48.5cm 絵32.9cm×98.0cm 第一四段断簡 詞 33.1cm×48.5cm 絵 33.1cm×96.5cm 国(文化庁)
文化庁分室 東京都台東区上野公園13-9 平成17・21年度 文化庁購入文化財
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/145397

【本作品は、烏丸光広(1579~1638)が禁裏御本を俵屋宗達に写させ、寛永七年(1630)に成立した紙本著色西行法師行状絵詞のうち第三巻の断簡である。全一七段で構成される第三巻のうち、本作は第一段、第四段、第六段、第一四段の絵と詞、七幅から成る(第一段は絵と詞併せて一幅)。巻第三は、西行が西国への歌行脚の末に、戻った都で娘に再会するまでを描いた巻であり、第一段は、草深い伏見の里を訪れる旅姿の西行、第四段は、北白川にて秋を詠むところ、第六段は、天王寺に参詣にむかう西行が交野の天の川にいたり、業平の歌を思い出して涙が袖に落ちかかったと詠んだ場面、第一四段は、猿沢の池に映る月に昔を偲ぶところを描く。絵は、美しい色彩を賦した景物をゆったりと布置して、詩情漂う名所をあらわしている。宗達らしいおおらかな雰囲気を保持しており、また現在知られている宗達作品中、製作時期の確実な唯一の遺品として貴重である。 】

西行絵物語二.jpg

「西行物語絵巻」(出光美術館蔵)第一巻・第二巻・第四巻
http://idemitsu-museum.or.jp/collection/painting/rimpa/01.php

https://www.tobunken.go.jp/materials/nenki/814581.html

(「西行物語絵巻」第一巻・部分図)(出光美術館蔵)
画/俵屋宗達(生没年不詳) 詞書/烏丸光広(1579 - 1638)
江戸時代 寛永7年(1630)第一巻 第二巻 第四巻 紙本着色
第一巻 33.4×1785.0cm
第二巻 33.5×1855.7cm
第四巻 33.6×1821.0cm
【 宗達作品のなかで、年紀が明らかな唯一の作品です。能書家の公家・烏丸光広の奥書によれば、本多伊豆守富正の命を受けた光広が、「禁裏御本」を「宗達法橋」に模写させ、詞は光広自身が書いたこと、また「寛永第七季秋上澣」という年紀が判明します。宗達が写した禁裏御本は失われていますが、時代の異なる同じ系統の模写類本がいくつか存在し、宗達が古絵巻をどのように写し、創意を加えているかを間接的ながら考察することができます。"たらし込み"をもちいた軽快な筆致や、鮮麗な色彩は宗達ならではのものです。 】

西行絵物語三.jpg

(「第四巻」の『奥書き』)
  右西行法師行状之絵
  詞四巻 本多氏伊豆守
  富正朝臣依所望 申出
  禁裏御本 命于宗達法橋
  令模写焉 於詞書予染
  禿筆了 招胡盧者乎
   寛永第七季秋上澣
           特進光広(花押)
[右、西行法師行状乃絵詞四巻は、本多伊豆守富正朝臣、
所望に依って、禁裏御本を申し出で、宗達法橋に命じて模写せしむ。
詞書に於いては、予(光広)禿筆を染め了(おわ)んぬ。
胡慮(嘲笑)を招くか。
寛永第七(一六三〇)季秋上幹(九月上旬)。
特進(正二位の唐名) 光広(花押)]
(『日本の美術№31 宗達(千沢楨治著)』など)

一 作画年代→「寛永第七(一六三〇)季秋上幹(九月上旬)」光広(52)、宗達(63?)
二 原本は「禁裏御本」→「後水尾上皇」の依頼により「揚梅図」を描く(宗達)
三 烏丸光広との交友関係→「特進 光広」(元和6年・一六二〇、正二位)、光悦(73)
四 法橋叙位(宗達)→「宗達法橋」(このとき既に「法橋」の地位にある)
五 古典的題材→宗達の模写したものは「室町時代の海田采女(うねめ)本」
六 模写の態度→大和絵系列の宗達好みの模写の姿勢が顕著である。
七 技法上の特色→「没骨法」「たらし込み法」「ほりぬり(彫り塗り)=最初にひいた描線を塗りつぶさずにこれを生かして彩色する技法」の線の上に墨の「くゝり」の線を加える技法などが随所に見られる。
八 部分転写活用→個々の「人物・樹木・土坡・下草」などを部分的に借用して創作する姿勢が顕著である。
(『日本の美術№31 宗達(千沢楨治著)』など)
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