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源氏物語画帖「その三十 藤袴(蘭)」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

30 藤袴(蘭)(光吉筆) =(詞)阿野実顕(一五八一~一六四五)  源氏37歳秋 

光吉・蘭.jpg

源氏物語絵色紙帖  藤袴(蘭)  画・土佐光吉
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阿野実顕・蘭.jpg

源氏物語絵色紙帖  藤袴(蘭) 詞・阿野実顕 
https://syuweb.kyohaku.go.jp/ibmuseum_public/index.php?app=pict&mode=detail&list_id=1900644&parent_data_id=322&data_id=537

(「阿野実顕」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/30/%E8%A1%8C%E5%B9%B8%E3%83%BB%E5%BE%A1%E5%B9%B8_%E3%81%BF%E3%82%86%E3%81%8D%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%8D%81%E4%B9%9D%E5%B8%96_%E7%8E%89%E9%AC%98%E5%8D%81

宰相中将、 同じ色の、今すこしこまやかなる直衣姿にて、纓巻きたまへる姿しも、またいと なまめかしくきよらにておはしたり。初めより、ものまめやかに心寄せきこえたまへば、 もて離れて疎々しきさまには、もてなしたまはざりしならひに、今、あらざりけりとて、こよなく変はらむもうたてあれば、なほ御簾に几帳添へたる御対面は、人伝てならでありけり。
(第一章 玉鬘の物語 玉鬘と夕霧との新関係 第二段 夕霧、源氏の使者として玉鬘を訪問)

1.2.1  宰相中将、 同じ色の、今すこしこまやかなる直衣姿にて、纓巻きたまへる姿しも、またいと なまめかしくきよらにておはしたり。
(宰相中将が、同じ喪服の、もう少し色の濃い直衣姿で、纓を巻いていらっしゃる姿が、またたいそう優雅で美しくいらっしゃった。)

1.2.2 初めより、ものまめやかに心寄せきこえたまへば、 もて離れて疎々しきさまには、もてなしたまはざりしならひに、今、あらざりけりとて、こよなく変はらむもうたてあれば、なほ御簾に几帳添へたる御対面は、人伝てならでありけり。
(初めから、誠意を持って好意をお寄せ申し上げていらっしゃったので、他人行儀にはなさらなかった習慣から、今、姉弟ではなかったといって、すっかりと態度を改めるのもいやなので、やはり御簾に几帳を加えたご面会は、取り次ぎなしでなさるのであった。)


(周辺メモ)

第三十帖 藤袴
 第一章 玉鬘の物語 玉鬘と夕霧との新関係
  第一段 玉鬘、内侍出仕前の不安
  第二段 夕霧、源氏の使者として玉鬘を訪問
(「阿野実顕」書の「詞」) → 1.2.1 1.2.2 
  第三段 夕霧、玉鬘に言い寄る
  第四段 夕霧、玉鬘と和歌を詠み交す
  第五段 夕霧、源氏に復命
  第六段 源氏の考え方
  第七段 玉鬘の出仕を十月と決定
 第二章 玉鬘の物語 玉鬘と柏木との新関係
  第一段 柏木、内大臣の使者として玉鬘を訪問
  第二段 柏木、玉鬘と和歌を詠み交す
 第三章 玉鬘の物語 玉鬘と鬚黒大将
  第一段 鬚黒大将、熱心に言い寄る
  第二段 九月、多数の恋文が集まる


http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3651

源氏物語と「藤袴(蘭」(川村清夫稿)

【 桐壺帝の妹で光源氏の叔母に当たる三条の大宮が亡くなり、光源氏の養女となっていた玉鬘は孫娘として喪に服した。玉鬘は宮中へ出仕するか迷っていたところ、夕霧がやって来て、藤袴の花を差し出して求愛したが、玉鬘は相手にしなかった。夕霧は光源氏に、光源氏が玉鬘を側室にしようとしているとの噂を内大臣が聞いていると言って、光源氏の真意をただしたが、光源氏は言葉巧みに真意をはぐらかせた。玉鬘は夕霧の他に、内大臣の息子の柏木、右大臣の息子の髭黒大将、光源氏の異母弟の蛍兵部卿宮などの男性貴族から求愛の手紙を送られるが、結局彼女は蛍兵部卿宮だけに返事を書いたのである。

 「藤袴」の帖の英訳に関しては、ウェイリーは玉鬘と柏木、髭黒大将、蛍兵部卿宮の恋愛だけ描いていて、玉鬘と夕霧の場面、夕霧と光源氏の場面を省略しており、サイデンステッカーは原文に忠実に翻訳している。

 それでは夕霧と光源氏の場面を、大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、サイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
「かたしや、わが心ひとつなる人の上にもあらぬを、大将さへ、我をこそ恨むなれ。すべてかかることの心苦しさを見過ぐさで、あやなき人の恨み負ふ、かへりては軽々しきわざなりけり。かの母君のあはれに言ひおきしことの忘れざりしかば、心細き山里になど聞きしを、かの大臣、はた聞き入れたまふべくもあらずと愁へしに、いとほしくて、かく渡しはじめたるなり。ここにかくものめかすとて、かの大臣も人めかいたまふなめり」と、つきづきしくのたまひなす。…
「年ごろかくて育みこきえたまひける御心ざしを、ひがざまにこそ人は申すなれ。かの大臣も、さやうになむおもむけて、大将の、あなたざまのたよりにけしきばみたりけるにも、応へける」と聞こえたまへば、うち笑ひて、
「かたがたいと似げなきことかな。なほ、宮仕へをも、御心許して、かくなむと思されむさまにぞ従ふべき。女は三つに従ふものにこそあれど、ついでを違へて、おのが心にまかせむことは、あるまじきことなり」
とのたまふ。

(渋谷現代語訳)
「難しいことだ。自分の思いのままに行く人のことではないので、大将までが、わたしを恨んでいるそうだ。何事も、このような気の毒なことは見ていられないので、わけもなく人の恨みを負うのは、かえって軽率なことであった。あの母君(夕顔)がしみじみと遺言したことを忘れなかったので、寂しい山里になどと聞いたが、あの内大臣は、やはり、お聞きになるはずもあるまいと訴えたので、気の毒に思って、このように引き取ることにしたのだ。わたしがこう大切にしていると聞いて、あの大臣も人並みの扱いをなさるようだ」
と、もっともらしくおっしゃる。…
「長年このようにお育てなさったお気持ちを、変なふうに世間の人は噂申しているようです。あの大臣もそのように思って、大将が、あちらに伝を頼って申し込んできた時にも、答えました」
と申し上げなさると、ちょっと笑って、
「それもこれもまったく違っていることだな。やはり、宮仕えでも、お許しがあって、そのようにとお考えになることに従うのがよいだろう。女は三つのことに従うものだというが、順序を取り違えて、わたしの考えにまかせることは、とんでもないことだ」
とおっしゃる。

(サイデンステッカー英訳)
“It is very difficult. Higekuro seems to be annoyed with me too, quite as if her arrangements were mine to make. Her life is very complicated and I thought I should do what I could for her. And the result is that I am unjustly reproached by both of them. I should have been more careful. I could not forget her mother’s last request, and one day I heard that she was off in the far provinces. When she said that her father refused to listen to her troubles. I had to feel sorry for her and offer to help her. I think her father is finally beginning to treat her like a human being because of the interest I have taken in her.” It was a consistent enough account of what had happened…
Yugiri wished to probe further. “People seem a curious about your reasons for being so good to her. Even her father hinted to a messenger from General Higekuro at what he thought might be your deeper reasons.”
Genji smiled. “People imagine too much. I shall defer entirely to her father’s wishes. I shall be quite happy if he sends her to court, and if he finds a husband for her that will be splendid too. A woman must obey three men in her life, and it would not do for her to get the order wrong.”

 「宮仕えへをも、御心許して、かくなむと思されむさまにぞ従ふべき」は、意味がよくわからない。サイデンステッカーの訳文I shall be quite happy if he sends her to court, and if he finds a husband for her that will be splendid tooの方がはるかにわかりやすい。「女は三つに従ふもの」は、女性は父、夫、息子の順に従えという、当時の婦道である。「おのが心」を渋谷は「わたしの考え」と訳したが、誤訳である。「玉鬘の考え」と訳すべきである。

 光源氏は、求愛者が群がる玉鬘の出仕を、十月に決定するのである。  】


(「三藐院ファンタジー」その二十)

阿野実顕・書状.jpg

「阿野実顕筆書状」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/object/587

【阿野実顕〈あのさねあき・1581-1645〉は従四位上右少将季時(すえとき)の子(実は、季時の子・休庵〔大和内山の上乗院住持〕の子で、請われて季時の養子となる)。初名は実政、のち実時、さらに天正20年〈1592〉に実顕と改名した。元和5年〈1619〉権中納言、寛永10年〈1633〉権大納言に至る。蹴鞠の宗家・飛鳥井家において催された蹴鞠を見物、その見事な競技に、一座の皆々が満足の旨を報告してきた。早速にその礼を申し述べるべきところ用事で外出、日延べしたことを詫びている。宛名を「飛鳥井様」とのみ記す。が、実顕と同年代の飛鳥井某となれば、飛鳥井雅宣〈あすかいまさのぶ・1586-1651。雅章の父〉が相当するものと思われる。実顕は、当時光悦流の能書公卿として知られる。この書状の筆致にもその面目が遺憾なく発揮されている。「一昨日は御鞠興行、本望の至りに存じ候。皆々見物仕り候衆、満足仕り候由申し越し候。昨日御礼申し入るべくの処、他出致し、延引本意に背くと存じ候。猶、参を以って御意を得べく候。かしく。御報に及ばず候。以上。二月十六日飛鳥井様人々御中実顕」

(釈文)

[端裏書]飛鳥井様人々御中実顕不及御報候以上一昨日者御鞠興行本望之至存候皆々見物仕候衆満足仕候由申越候昨日御礼可申入之処致他出延引背本意存候猶以参可得御意候かしく二月十六日      】

光悦・書状.jpg

「本阿弥光悦筆書状」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/object/427

【本阿弥光悦〈ほんあみこうえつ・1558-1637〉は、桃山~江戸時代初期の能書家・工芸家。徳友斎・大廬庵を号した。室町時代より刀剣の磨研・浄拭・鑑定の三業で知られる本阿弥家に生まれる。父光二(こうじ)の分家に伴い、この家職から半ば解放され鷹ヶ峰に芸術村をつくり、そこで書画・蒔絵・陶器などにすぐれた芸術作品を生み出し、その才能を発揮した。書においては「寛永の三筆」の一人として知られる。慶長期〈1596~1615〉には、俵屋宗達〈たわらやそうたつ・生没年未詳〉下絵の華麗な料紙に展開した彼の筆致は、上代様を基盤に光悦の個性が加味された豊麗なものであった。が、元和期〈1615~24〉に入ると、中国宋代の張即之〈ちょうそくし・1186-1266〉や空海〈くうかい・774-835〉の書の影響をうけた、肥痩の著しい新たな書風を展開した。いわゆる光悦流である。角倉素庵〈すみのくらそあん・1571-1632〉・小島宗真〈こじまそうしん・1580-1655?〉・尾形宗謙〈おがたそうけん・1621-87〉ら多くの追従者を出している。茶道においても、古田織部〈ふるたおりべ・1544-1615〉に学び、小堀遠州〈こぼりえんしゅう・1579-1647〉に並ぶ傑出した存在であった。この手紙は、光悦が京の町に居住の養嗣子光瑳〈こうさ・1578-1637〉に、江戸の本阿弥家からの到来物の鮭を裾分けするに際して添えたもの。当節、気分よく、書の揮毫に励んでいる旨の近況と、9月晦日か10月朔日に京へ出ると告げている。つまりこれは、鷹ヶ峰から上京・本阿弥辻子の光瑳に宛てたものである。光悦と光瑳は20歳違い、宛所に光瑳老としたためているので、光悦晩年の筆と知る。「江戸より上り申し候間、鮭を進じ入れ候。拙者、気相能く、物を書き申し候。御心易かるべく候。晦日、朔日(十月一日)時分、出京せしむべく候。かしく。九ノ二十五日。光悦(花押)/光瑳老光悦(花押)座下」

(釈文)

従江戸上申候間鮭 進入候拙者気相能物をかき申候可御心易候晦日朔日時分可令出京候かしく九ノ廿五日光悦(花押)[封]光瑳老 光悦(花押)座下     】
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yahantei

 阿野実顕〈あのさねあき・1581-1645〉と本阿弥光悦〈ほんあみこうえつ・1558-1637〉とは、光悦が十三歳年長である。光悦が「慶長・元和・寛永」の時代の人とすると、実顕は、「元和・寛永・正保」の時代の人ということになる。
 光悦が京の「町衆」出の多芸多才の「書家」とすると、実顕は「権大納言」にまで昇り上がった「上層公家衆」出の「能書公家」ということになる。この「能書公家」の実顕が「光悦流の能書公卿」として知られていることが、興味深い。
 この「光悦と実顕」との接点は、やはり、「光悦流」の一人と目されている、多芸多才の「烏丸光広〈からすまるみつひろ・1579-1638〉」がクローズアップされてくる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-06-19

【当時の公卿に共通の手習書法であった持明院流を習う。が、のちに光悦流に強い影響を受け、また同時に藤原定家〈ふじわらのさだいえ・1162-1241〉の書風にも私淑して、定家流も掌中にしている。しだいに不羈奔放の光広の性格を投影した光広流ともいうべき書風を確立、わが書道史上、近衛信尹〈このえのぶただ・1565-1614〉・本阿弥光悦〈ほんあみこうえつ・1558-1637〉・松花堂昭乗〈しょうかどうしょうじょう・1584-1639〉ら「寛永の三筆」と並び称される評価を得ている。】
by yahantei (2021-06-30 11:12) 

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