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源氏物語画帖「その三十一 真木柱」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

31 真木柱(光吉筆)=(詞)日野資勝(一五七七~一六三九)   源氏37歳冬-38歳冬 

光吉・真木柱.jpg

源氏物語絵色紙帖  真木柱  画・土佐光吉
https://syuweb.kyohaku.go.jp/ibmuseum_public/index.php?app=shiryo&mode=detail&list_id=1900645&data_id=321

日野資勝・真木柱.jpg

源氏物語絵色紙帖  真木柱  詞・日野資勝
https://syuweb.kyohaku.go.jp/ibmuseum_public/index.php?app=pict&mode=detail&list_id=1900645&parent_data_id=321&data_id=535

(「日野資勝」書の「詞」)

正身は、いみじう思ひしづめて、らうたげに寄り臥したまへりと見るほどに、にはかに起き上がりて、大きなる籠の下なりつる火取りを取り寄せて、殿の後ろに寄りて、さと沃かけたまふ
(第二章 鬚黒大将家の物語 第五段 北の方、鬚黒に香炉の灰を浴びせ掛ける)

2.5.7 正身は、いみじう思ひしづめて、らうたげに寄り臥したまへりと見るほどに、にはかに起き上がりて、大きなる籠の下なりつる火取りを取り寄せて、殿の後ろに寄りて、さと沃かけたまふ(ほど、人の ややみあふるほどもなう、あさましきに、 あきれてものしたまふ。)
(ご本人は、ひどく落ち着いていじらしく寄りかかっていらっしゃる、と見るうちに、急に起き上がって、大きな籠の下にあった香炉を取り寄せて、殿の後ろに近寄って、さっと浴びせかけなさる(間、人の制止する間もなく、不意のことなので、呆然としていらっしゃる)。)

(周辺メモ)

第三十一帖 真木柱
 第一章 玉鬘の物語 玉鬘、鬚黒大将と結婚
  第一段 鬚黒、玉鬘を得る
  第二段 内大臣、源氏に感謝
  第三段 玉鬘、宮仕えと結婚の新生活
  第四段 源氏、玉鬘と和歌を詠み交す
 第二章 鬚黒大将家の物語 北の方、乱心騒動
  第一段 鬚黒の北の方の嘆き
  第二段 鬚黒、北の方を慰める(一)
  第三段 鬚黒、北の方を慰める(二)
  第四段 鬚黒、玉鬘のもとへ出かけようとする
  第五段 北の方、鬚黒に香炉の灰を浴びせ掛ける
(「日野資勝」書の「詞」)  →  2.5.7
  第六段 鬚黒、玉鬘に手紙だけを贈る
  第七段 翌日、鬚黒、玉鬘を訪う
 第三章 鬚黒大将家の物語 北の方、子供たちを連れて実家に帰る
  第一段 式部卿宮、北の方を迎えに来る
  第二段 母君、子供たちを諭す
  第三段 姫君、柱の隙間に和歌を残す
  第四段 式部卿宮家の悲憤慷慨
  第五段 鬚黒、式部卿宮家を訪問
  第六段 鬚黒、男子二人を連れ帰る
 第四章 玉鬘の物語 宮中出仕から鬚黒邸へ
  第一段 玉鬘、新年になって参内
  第二段 男踏歌、貴顕の邸を回る
  第三段 玉鬘の宮中生活
  第四段 帝、玉鬘のもとを訪う
  第五段 玉鬘、帝と和歌を詠み交す
  第六段 玉鬘、鬚黒邸に退出
  第七段 二月、源氏、玉鬘へ手紙を贈る
  第八段 源氏、玉鬘の返書を読む
  第九段 三月、源氏、玉鬘を思う
 第五章 鬚黒大将家と内大臣家の物語 玉鬘と近江の君
  第一段 北の方、病状進む
  第二段 十一月に玉鬘、男子を出産
  第三段 近江の君、活発に振る舞う

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3657

源氏物語と「真木柱」(川村清夫稿)

【 源氏物語の31番目の帖「真木柱」は、22番目の帖「玉鬘」から続いてきた玉鬘十帖の最後の帖である。髭黒大将は北の方(妻)がいるにもかかわらず、玉鬘と強引に男女の仲を結んでしまった。北の方は夫の不倫に狂乱して香炉の灰を投げつけ、髭黒大将は家族と離別してしまった。彼の愛娘の真木柱は家の柱に父との離別の歌を書きつけ、母と行動を共にした。玉鬘を髭黒大将に取られた光源氏は悔しがり、彼女に恋文を送るが、髭黒大将は彼女の名をかたって返事をよこすのであった。

 それでは、光源氏からの恋文に髭黒大将が返事をよこす場面を、大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
「同じ巣にかへりしかひの見えぬかな
 いかなる人か手ににぎるらむ
などか、さしもなど、心やましうなむ」
などあるを、大将も見たまひて、うち笑ひて、
「女は、まことの親の御あたりにも、たはやすくうち渡り見えたてまつりたまはむこと、ついでなくてあるべきことにあらず。まして、なぞ、この大臣の、をりをり思ひ放たず、恨み言はしたまふ」
と、つぶやくも、憎しと聞きたまふ。…
「巣隠れて数にもあらぬかりの子を
 いづ方にかは取り隠すべき
よろしからぬ御けしきにおどろきて、すきずきしや」
と聞こえたまへり。
「この大将の、かかるはかなしごと言いたるも、まだこそ聞かざりつれ、めづらしう」
とて、笑ひたまふ。心のうちには、かく領じたるを、いとからしと思す。

(渋谷現代語訳)
「せっかくわたしの所でかえった雛が見えませんね
 どんな人が手に握っているのでしょう
どうして、こんなにまでもと、おもしろくなくて」
などとあるのを、大将も御覧になって、ふと笑って、
「女性は、実の親の所にも、簡単に行ってお会いなさることは、適当な機会がなくてはなさるべきではない。まして、どうして、この大臣は、度々諦めずに、恨み言をおっしゃるのだろう」
と、ぶつぶつ言うのも、憎らしいとお聞きになる。…
「巣の片隅に隠れて子供の数にも入らない雁の子を
 どちらの方に取り隠そうとおっしゃるのでしょうか
不機嫌なご様子にびっくりしまして、懸想文めいていましょうか」
とお返事申し上げた。
「この大将が、このような風流ぶった歌を詠んだのも、まだ聞いたことがなかった。珍しくて」
と言って、お笑いになる。心中では、このように一人占めにしているのを、とても憎いとお思いになる。

(ウェイリー英訳)
“What an extraordinary man this Genji is!” he said. “Why, even if he were your real father he could not now that you are married expect to meet you except on particular occasions. What does he want? He seems, in one way or another, to be always complaining that he does not see you.” She did not seem to have any intention of acknowledging the gift, …
“I am not minded that any should reclaim her, this fledging that was not counted among the brood of either nest.” Such was the poem he sent, and he added: “My wife was surprised at the nature of your gift, and was at a loss how to reply without seeming to attach an undue importance to it…”
Genji laughed when the note was brought to him. “I have never known Higekuro stoop to concern himself in such trifles as this,” he said, “What is the world coming to?” But in his heart he was deeply offended by the arrogantly possessive tone of Higekuro’s letter.

(サイデンステッカー英訳)
“I saw the duckling hatch and disappear. Sadly I ask who have taken it.”
Higekuro smiled wryly. “A lady must have very good reasons for visiting even her parents. And here is His Lordship pretending that he has some such claim upon your attentions and refusing to accept the facts.”
She thought it unpleasant of him. …
“Off in a corner not counted among the nestlings, It was hidden by no one. It merely picked up and left.
“Your question, sir, seems strangely out of place. And please, I beg of you, do not treat this as a billet-doux.”
“I have never seen him in such a playful mood,” said Genji, smiling in fact, he was hurt and angry.
 
 ウェイリーの翻訳に手抜きが目立つのに対し、サイデンステッカーは原文に忠実で簡潔な翻訳をしている。ウェイリーは光源氏と髭黒大将の和歌を訳さなかったので、訳文が説明調で味気ない。billet douxとは、「懸想文」のフランス語訳である。

玉鬘は男児を出産して、髭黒大将の新妻になった。内大臣が頭中将だった時に夕顔ともうけた玉鬘は、養女扱いしながら不純な恋愛感情を持つ光源氏の手から離れたところで、「玉鬘十帖」は終わるのである。  】

(「三藐院ファンタジー」その二十一)

 「日野資勝」に関連しては、総括的に、次のアドレスが、そのスタート地点ということになる。

https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E9%87%8E%E8%B3%87%E5%8B%9D-14898

【日野資勝(読み)ひの・すけかつ
没年:寛永16.6.15(1639.7.15)  生年:天正5(1577)
江戸前期の公家。権大納言輝資の子。母は津守国繁の娘。慶長4(1599)年参議,16年権中納言,19年権大納言となる。後水尾天皇譲位に際して,幕府の譴責を受け辞任した中院通村にかわり,父輝資が武家昵近衆として徳川家康の知遇を受けたことから,寛永7(1630)年武家伝奏となり朝幕間の斡旋に努める。16年まで在職。その日記『資勝卿記』は,10年にわたる武家伝奏在任期の記録も残され,江戸前期の朝幕関係を知る貴重な資料。資勝は,また後水尾院の立花会の重要メンバーであり,当時ブームとなった椿栽培においても珍種「日野椿」の栽培で知られる。法名涼源院。<参考文献>熊倉功夫『寛永文化の研究』 (母利美和)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 】

 ここに、年号の「慶長」から「元和」へ、そして「元和」から「寛永」へと、その元号が変わる時の、それらを審議した、謂わば、その時の「審議公家一覧」(「改元陣儀上卿一覧)」を添えて見たい。

https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/9279/HNkeizai0003301710.pdf
「戦国・織豊期の朝廷政治」(池享稿)

改元陣儀上卿一覧

改元陣義上卿一覧.jpg

 この「慶長」(後陽成天皇)の元号から、「元和」(後水尾天皇)の元号に代わった「元和元年」(一六一五)は、「大阪夏の陣」で豊臣家が滅亡した年である。その前年の「慶長十九年」(一六一四)が「大阪冬の陣」で、この年の十一月に「近衛信尹」が亡くなっている(享年五十)。この年に、「近衛信尋」が若干十五歳で、近衛家第十九代当主となり「右大臣」に進み、
元和六年(一六二〇)に左大臣、元和九(一六二三)には関白に補せられている。
 この「元和」の改元の審議に携わったトップが「右大臣・近衛信尋」で、その審議に携わったメンバーが、「権大納言・花山院定煕、同・日野資勝」等の十人ということになる。
これらの上記の「慶長・元和・「寛永」の改元に携わったメンバーのうち、「源氏物語画帖」の詞書の筆者となっているものが、「久我敦通・花山院定煕・近衛信尋・日野資勝・烏丸光広・四辻季継・阿野実顕・中院通村」の八人で、その他、「烏丸光賢〈烏丸光広〉・西園寺実晴〈西園寺公益〉・飛鳥井雅胤〈飛鳥井雅庸〉・菊亭季宣〈菊亭宣季〉・久我通前〈久我敦通〉」も上記のメンバー〈括弧書き〉と親子関係などの一族ということになる。
ここで、「源氏物語画帖」の詞書の二十三名の筆者のうち、皇族関係者と上記の公卿関係者と親子関係など直接的な関係に無い者は、「西洞院時直・冷泉為頼」の二人で、「西洞院時直」は、「西洞院時慶」の長男で、後水尾天皇の側近であると同時に、「西洞院」家は「近衛」家の「家司」で、その執事的な家政を司っていた人物ということになる。
もう一人、「冷泉為頼」は、第十代「上冷泉家」の当主で、「冷泉流歌道」と「定家流(書流)」との正統を伝承している人物ということになろう。そして、この「冷泉為頼」と、清華家の当主の「久我通前」との二人が、「定家流をもって詞書を書いている点は、その幅広い流行を物語る一例として興味深い」との指摘がなされている(『源氏物語画帖(京博本・勉誠社)』所収「源氏物語画帖の詞書(下坂守稿)」)。
ここで、源氏物語画帖」の詞書の二十三名の筆者のうち、皇族関係者を除いて、五摂家の「近衛家」などの公家の筆者を、この「書流」(書道の流派)の観点から見て行くと、当時の「書流」の代表的な能筆家の面々による制作であったということが浮き彫りになってくる。

https://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/000001278246-02.html

「三藐院流(近衛流)」
  近衛信尹(信輔・信基・三藐院) → 「澪標・乙女・玉鬘・蓬生」
  近衛信尋(応山)        → 「須磨・蓬生」
  近衛太郎(君)          → 「花散里・賢木」
  四辻季継            → 「竹河・橋姫」
  (西洞院時慶) → 西洞院時直  → 「若紫・末摘花」  
(西園寺公益) → 西園寺実晴  → 「横笛・鈴虫・御法」

「光悦流」
  阿野実顕            → 「行幸・藤袴(蘭)」
烏丸光広

「定家流」
  冷泉為頼            → 「幻・早蕨」
  久我通前            → 「総角」
  烏丸光広
  烏丸光賢
  日野資勝

「光広流」
  烏丸光広            → 「蛍・常夏」
  烏丸光賢            → 「薄雲・朝顔(槿)」

「中院流」             
  中院通村            → 「若菜下・柏木」
 菊亭季宣(今出川季宣・経季)    → 「藤裏葉・若菜上」

「栄雅流」
  飛鳥井雅胤            → 「夕顔・明石」

「花山院流」
  花山院定煕            → 「夕霧・匂兵部卿宮・紅梅」

「道澄流」
  久我敦通             → 「椎本」

「日野流」
  日野資勝             → 「真木柱・梅枝」



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yahantei

http://www.l.u-tokyo.ac.jp/postgraduate/database/2009/662.html



「中世文人貴族の家と職―名家日野家を中心として―」(申美那稿)

【 日野家は、内麿子真夏からはじまり、儒学をもって朝廷に奉仕すると代々の日記を調べて故実情報を提供することを家職とし、名家の家格を有する。名家とは、蔵人と弁官を経て(大)中納言まで昇る堂上家の家柄である。平安中期、有国の子広業と資業が儒門に入って以来、儒学を家業とした。二人は詩人であり有能な実務官僚であった父有国に従い、儒者と実務官僚との両方を目指した。広業も資業も、文章博士・式部大輔など儒者の要職を経て公卿に進み、儒家の基礎を固めた。
 日野家は代々御湯殿読書儒と東宮学士および侍読を勤仕して、皇室の教育に関わってきた。特に、御湯殿読書儒は有国の子孫が必ず召される例となっていたが、広業が勤めた「寛弘の例」が吉例として残ったことに因る。御湯殿読書を勤めた儒者は、東宮学士と侍読にも就く例が多く、高倉から後堀河に至る鎌倉初期はほぼ代々日野家儒者が侍読を務めた。この時期は日野家が名家の家格を確立する時期と一致する。
 日野家が代々弁官に就くようになるのは、資業の子孫実光のときからである。実光は内麿流でははじめて、弁官・蔵人を経て中納言まで昇った。これは後に名家専用の昇進コースとなるもので、実光の経歴は子孫にも受け継がれる。実光子資長と兼光も同じ出世を遂げることができた。実光―資長―兼光に至るにつれ、昇進のペースが速くなるとともに、日記の執筆と故実の収集が確認される。この時期に、名家日野家の基礎が築かれたといえる。日野家は儒者であることをもって弁官に進出したので、彼らはみな「儒弁」である。実光の子孫である家光からは、儒弁としての自覚がはっきりと現れ、特に器量と譜代を条件として重視している。
 文筆の才能が必要とされる弁官にはもともと儒者が登用されたが、中世社会で弁官を家職とすることが出来た儒家は、日野家が唯一である。その背景として、摂関家の後押しも考えられるが、有国以来続く実務官僚の伝統の強さと実用性を重視する日野家儒者の学風が挙げられる。学問を本としながら実務に通達した文人官僚こそ日野家儒者が目指したところであり、このような伝統があったからこそ、名家日野家の成立をみることができた。
 鎌倉前期の日野家は、侍読・詩歌会などにみえる儒者としての活躍と弁官・蔵人など実務官僚としての活躍を基盤として、朝廷のなかで地歩を固めていた。鎌倉前期に生じた摂関家の分裂は、有国以降代々にわたって摂関家の家司を勤めてきた日野家にも新たな選択を迫った。兼光は長男資実と長親を九条家に入れ、日野家の将来を九条家に託する選択をした。兼光がこのような選択をしたのは、日野家が代々領家職を知行する若山庄など皇嘉門院領が九条良通に譲られたことに起因するところが多い。
 一方、兼光は五男頼資を近衛家に入れたが、頼資から勘解由小路と号する新しい家が分かれる。頼資は長い年月をかけて遅いペースで中納言に昇り、家の基礎を作った。頼資は家の将来を長男経光に託して、彼を一人前の官僚として育てるために、物心両面の支援と教育を惜しまなかった。経光もまた儒学、漢詩、和歌の稽古と公事の勉強に日々精進した。経光は自分が儒弁である自覚をはっきり持っていて、儒弁の根幹は才能であると認識していた。若い経光が公事を遂行するためには、父頼資をはじめとする家族、親族、一門の協力が必要不可欠であった。勘解由小路家と日野家は公事情報に関しては基本的に協力しあったが、文書類は日野家と別々に保管しおり、貸借できないものもあった。
 兼仲は経光の二男で、兄兼頼が死んでから名家の出世コースに乗り始めた。彼は近衛家と鷹司家の執事と南曹弁を勤め、文筆能力をもって摂関家を補佐した。また、家宣が出家したあとは日野長者を勤めた。鎌倉前期の勘解由小路家は、日野家と同じ一門意識を持っていた。兼仲は祖先の例を強く意識していて、日記のなかには「譜代者」としての自負と「非譜代者」に対する非難が度々みえる。勘解由小路家に侍読や文章博士の勤仕歴がないことや、兼仲が菅・江家と勘解由小路家の違いを強調していることから推測するに、勘解由小路家は儒者より実務官僚の性格が強かったといえる。
 皇室の分裂からはじまった鎌倉後期の公家社会のなかで、日野俊光は持明院統の近臣として重用され、日野流でははじめて大納言に昇る栄進を遂げた。俊光は伏見天皇の親政期に実務官僚としてその才能を発揮し、天皇の譲位後は院執権として活躍しながら後伏見・花園の両天皇の乳父を勤め、公私ともに持明院統を支えた。俊光の子資名もやはり花園天皇の在位中に弁官・蔵人頭などを歴任し、父と同じく大納言まで昇進し、日野家は前例のない栄華を迎えた。
 一方、資名の弟資朝は後醍醐天皇の討幕計画に加わり、正中の変で捕まって結局処刑されてしまう。討幕運動には資朝のほか、日野家の庶流である俊基も参加している。日野家の儒者が二人も倒幕に関わった背景には、鎌倉後期に流行った宋学の影響と後醍醐政権下の破格的人事政策があった。鎌倉幕府が倒れたあと持明院統と足利尊氏を仲介したのは日野家であって、尊氏を朝敵の立場から挽回させる光厳院の院宣をもたらした人は俊光の子賢俊であった。尊氏が九州落ちしたあと再び東上するまで、長門国の住吉神社の協力を得る過程でも日野家の協力があったと考えられる。これらによって、室町幕府が成立したあと、日野家は武家の権威を借りて、勢力を振るうことができた。
 資明は卓越した実務官僚としての能力と武家との所縁をもって、北朝朝廷のなかで自分の地位を固めた。資明の子忠光は日野家の儒学の伝統を継ぎ、そのうえ三条家などから故実を収集し、柳原家が成立する基盤を造ったと言える。鎌倉後期の日野家は俊光からは侍読の勤仕例がなくなり、儒者の本職より実務官僚の活躍が目立つが、資名、資朝、忠光の例からみて、儒者であることは、相変わらず日野家の根幹をなすアイデンティティーであった。
 儒学とともに日野家の家業とも言える芸能が和歌である。日野家儒者の経歴からは歌人の経歴が多くみえる。なかでも、大嘗会和歌での活躍が大きい。天皇即位のときに行われる一世一度の大祀である大嘗会のとき、悠紀と主基、両斎国から和歌が詠進された。これを大嘗会和歌と呼ぶ。悠紀主基各々、風俗歌一〇首と屏風歌十八首とからなる。風俗歌は楽が付けられ、儀式中に奏され、屏風歌は図が加わり、宴会中に飾られた。大嘗会和歌の形式が整備され、作者がはっきり分かる例は三条天皇からである。
 大嘗会和歌の作者はもともと有名な歌人が起用されたが、後一条天皇のときから儒者が加わった。これは当時の権力者であった藤原道長の意図に依るものであった。以来、儒者二人か、儒者一人と歌人一人が詠む故実が生まれることとなった。大嘗会和歌は、儒者二人が吉例であり、少なくとも一人は必ず儒者にしなければいけない、という考え方は中世の貴族社会で根強く存在した。
 儒者が和歌を詠むようになった背景として、平安中期に広まった和漢兼作の風潮と、朝廷儀式に見られる形式主義、体面主義の影響を挙げることができる。国風文化の時代を経て、和歌は漢詩文と対等の地位をもって、公的場に導入されたと言われる。けれども、大嘗会和歌における儒者の活躍は、漢詩文の伝統的権威を以って、儀式の格式を高める必要が相変わらず存在していたことを意味する。大嘗会和歌は儀式歌であったから、なおさら伝統と権威が求められた。内容より先例と形式を重視する朝廷儀式の特殊性が、大嘗会和歌における儒者の存在に正当性を与えたと言える。
 そして、内麿流儒者は永承元年の大嘗会に資業と広業子家経が作者を勤めた例をはじめとして、六代続けて作者を勤めた。このあいだ、儒者二人の例が続き、特に白河・堀河・鳥羽の例が吉例として残り、儒者が大嘗会和歌を詠む故実を形成するのに、決定的に寄与した。資業と家経は大嘗会和歌を書くときにお互い違う様式を採用した。資業の書き方は彼の子孫だけではなく、そのあと大嘗会和歌を詠んだ他家の儒者にも影響を及ぼした。資業と家経の書き方の相違は、以後違う門流に発展する両流の関係を早くから示している。寛元四年からは日野家儒者一人と六条家歌人一人が慣例となったが、南北朝期に六条家が絶えると、永和元年以後はもっぱら日野流儒者が大嘗会和歌を詠進することとなる。
 儒者作者が日野流のみになった背景には、儒者層の没落があった。つまり、政治的地位の低下に伴って、文化創造者としての本来の役割が出来なくなったのである。一方、日野家は鎌倉時代にいわゆる名家の家格を確立した。儒学と和歌と実務官僚という家職を持って、名家の家格を確立した日野家は中世文人貴族の頂点を極めたといえる。しかし、知識と文化の担い手としての儒者の役割は、全般的に衰退したと言わざるを得ないだろう。】



「日野家」(「日野家」嫡流)の「日野資勝」(1577-1639)と、「烏丸家」(「日野家」庶流)の「烏丸光広」(1579-1638)との、この二人の「切磋琢磨」の関係は、殊に、『烏丸光広」の、その背景に横倒れるものであろう。


by yahantei (2021-07-04 16:45) 

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