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源氏物語画帖「その三十二 梅枝」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

32 梅枝(光吉筆) =(詞)日野資勝(一五七七~一六三九)    源氏39歳春

土佐光吉・梅枝.jpg

源氏物語絵色紙帖  梅枝  画・土佐光吉
https://syuweb.kyohaku.go.jp/ibmuseum_public/index.php?app=pict&mode=detail&list_id=1900648&parent_data_id=323&data_id=538

日野資枝・梅枝.jpg

源氏物語絵色紙帖  梅枝  詞・日野資勝
https://syuweb.kyohaku.go.jp/ibmuseum_public/index.php?app=pict&mode=detail&list_id=1900648&parent_data_id=323&data_id=539

(「日野資勝」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/04/02/%E6%A2%85%E6%9E%9D_%E3%81%86%E3%82%81%E3%81%8C%E3%81%88%E3%83%BB%E3%82%80%E3%82%81%E3%81%8C%E3%81%88%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%B8%96

花の香をえならぬ袖にうつしもて ことあやまりと妹やとがめむ
とあれば、「いと屈したりや」と笑ひたまふ。御車かくるほどに追ひて
めづらしと故里人も待ちぞ見む 花の錦を着て帰る君
(第一章 光る源氏の物語 薫物合せ 第四段 薫物合せ後の饗宴)

1.4.18 花の香をえならぬ袖にうつしもて ことあやまりと妹やとがめむ 
(この花の香りを素晴らしい袖に移して帰ったら、女と過ちを犯したのではないかと妻が咎めるでしょう。) 
1.4.19 とあれば、(と言うので、)
1.4.20 「 いと屈したりや」(「たいそう弱気ですな」)
1.4.21 と笑ひたまふ。 御車かくるほどに、 追ひて、(と言ってお笑いになる。お車に牛を繋ぐところに、追いついて、)
1.4.22 めづらしと故里人も待ちぞ見む花の錦を着て帰る君 (珍しいと家の人も待ち受けて見ましょう。この花の錦を着て帰るあなたを、)
1.4.23 またなきことと思さるらむ (めったにないこととお思いになるでしょう。)


(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第三十二帖 梅枝
  第一章 光る源氏の物語 薫物合せ
   第一段 六条院の薫物合せの準備
   第二段 二月十日、薫物合せ
   第三段 御方々の薫物
   第四段 薫物合せ後の饗宴
(「日野資勝」書の「詞」) → 1.4.18 1.4.19 1.4.20 1.4.21 1.4.22 1.4.23  
  第二章 光る源氏の物語 明石の姫君の裳着
   第一段 明石の姫君の裳着
   第二段 明石の姫君の入内準備
   第三段 源氏の仮名論議
   第四段 草子執筆の依頼
   第五段 兵部卿宮、草子を持参
   第六段 他の人々持参の草子
   第七段 古万葉集と古今和歌集
  第三章 内大臣家の物語 夕霧と雲居雁の物語
   第一段 内大臣家の近況
   第二段 源氏、夕霧に結婚の教訓
   第三段 夕霧と雲居の雁の仲

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3673

源氏物語と「梅枝」(川村清夫稿)

【 光源氏は、文化的には流行に流されない、保守的な趣味の持ち主であった。彼は織物に関しても、「錦、綾なども、なほ古きものこそなつかしうこまやかにはありけれ」(錦、綾なども、やはり古い物が好ましく上品であった)と言っている。彼は、明石の君との間にもうけた娘である明石の姫君を東宮妃として入内させる準備を進めていた。他方、光源氏の子息である夕霧は、内大臣の娘である雲居の雁と恋愛関係にあったが、なかなか身を固めなかった。そこで光源氏は、自分の恋愛経験を話しながら、結婚を勧めるのであった。では光源氏の台詞を、大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
「つれづれとものすれば、思ふところあるにやと、世人も推し量るらむを、宿世の引く方にて、なほなほしきありありてなびく、いと尻びに、人悪ろきことぞや。」

「いみじう思ひのぼれど、心にしもかなはず、限りのあるものから、好き好きしき心つかはるな。いはけくより、宮の内に生ひ出でて、身を心にまかせず、所狭く、いささかの事のあやまりもあらば、軽々しきそしりをや負はむと、つつしみだに、なほ好き好きしき咎を負ひて、世にはしたなめられき。位浅く、何となき身のほど、うちとけ、心のままなる振る舞ひなどものせらるな。心おのづからおごりぬれば、思ひしづむべきくさはひなき時、女のことにてなむ、かしこき人、昔も乱るる例ありける。」

(渋谷現代語訳)
「所在なく独身でいると、何か考えがあるのかと、世間の人も推量するであろうから、運命の導くままに、平凡な身分の女との結婚に結局落ち着くことになるのは、たいそう尻すぼまりで、みっともないことだ。」

「ひどく高望みしても、思うようにならず、限界があることから、浮気心を起こされるな。幼い時から宮中で成人して、思い通りに動けず、窮屈に、ちょっとした過ちもあったら、軽率の非難を受けようかと、慎重にしていたのでさえ、それでもやはり好色がましい非難を受けて、世間から非難されたものだ。位階が低く、気楽な身分だからと、油断して、思いのままの行動などなさるな。心が自然と思いあがってしまうと、好色心を抑える妻子がいない時、女性関係のことで、賢明な人が、昔も失敗した例があったのだ。」

(ウェイリー英訳)
“But what I wanted to say to you now was this: your present unsettled way of living is doing your reputation a great deal of harm. Naturally everyone assumes that a previous attachment of some kind is holding you back, and the impression most people are likely to get is that you have got tied up with someone so lowborn or discreditable that you cannot possibly introduce her into your family. I know that this idea is the opposite of the truth; indeed no one could possibly accuse you of aiming too low. But it is now perfectly clear that you cannot get what you want… Under such circumstances the only thing to do is to take what one can get, and make the best of it…”

“I myself had just the same sort of trouble at your age. But things were even worse; for in the Palace one is hedged round by all kinds of rules and restrictions. All eyes were upon me, and I knew that the slightest indication on my part would be eagerly seized upon and exploited by those who stood to gain by my undoing. In consequence of this I was always extremely careful… Yes. In spite of all my precautions I did once get into trouble, and it even looked at one time as though I had ruined myself for good and all. I was still low in rank then and had not particularly distinguished myself in any way. I felt that I was free to do as I chose, and that if things went wrong I had not much to lose. As a matter of fact it is just at such a moment in life that one makes the most far-reaching and irreparable mistakes, for it is then that passion is at its strongest, while the checks and restraints, that in middle age inevitably protect us against the wilder forms of folly, have not yet come into play. To suggest that you need advice on this subject is in no way derogatory to your intelligence; for in their relations with women people who show the utmost good sense in other matters seem constantly to get into the most inextricable mess.”

(サイデンステッカー英訳)
“People think there is something odd about you because you are not married, and if in the end it seems to have been your fate to disappoint us, well, we can only say that you once showed promise. Do please always be on guard against the possibility that you are throwing yourself away because your ambitions have proven unreal.”

“I grew up at court and had little freedom. I was very cautious, because the smallest mistake could make me seem reckless and giddy. Even so, people said that I showed promiscuous tendencies. It would be a mistake for you to think that because you are still relatively obscure you can do as you please. The finest of men - it was true long ago and it is still true today - can disgrace themselves because they do not have wives to keep them from temptation.”

 ウェイリー訳が冗漫なのに対して、サイデンステッカー訳は簡潔である。しかし「なほなほしきありてなびく」をウェイリーはtied up with someone so lowborn or discreditableと的確に訳しているが、サイデンステッカーの訳は意味がわからない。「位浅く、何となき身のほど」をサイデンステッカーはyou are still relatively obscureと正確に訳しているが、ウェイリーは光源氏のことだと勘違いしている。I felt that I was free to do as I choseからin middle age inevitably protect us against the wilder forms of folly, have not yet come into playまでは、原文にないウェイリーの創作である。この光源氏の恋愛体験談は、「帚木」の帖の冒頭にある光源氏の紹介と内容が一致する。

 夕霧と雲居の雁は、次の「藤の裏葉」の帖で、晴れて結婚するのである。 】


(「三藐院ファンタジー」その二十二)

日野資枝・渕亀.jpg

「日野資枝筆詠草」
https://objecthub.keio.ac.jp/object/744

【 日野資枝〈ひのすけき・1737-1801〉は、江戸時代中期の公卿、歌人。内大臣烏丸光栄の末子だが、日野資時の子が相次いで没したため、嗣子となった。賀茂社奉行・神宮弁など歴任したのち、宝暦13年〈1763〉参議に列せられた。翌年、権中納言に任ぜられ、以後累進し、天明5年〈1785〉権大納言に任ぜられ、寛政5年〈1793〉従一位に昇った。日野家は代々、儒道と歌道をもって朝廷に仕えた。歌学者の実父・光栄の血もあってか、資枝は歌人として名高い。冷泉為村・烏丸光胤・有栖川宮職仁親王らに歌道を学んだのち、為村の没後の、宮廷歌壇において主要な存在となったのである。塙保己一や内藤正範らは歌道を資枝に学んだ。その書は日野流の系譜にあるという。この詠草では、最後の一行に位署を記す。57歳から65歳で没するまでの間に書かれた、晩年期の筆跡であるが、豪放な書きぶりである。「渕の亀すむ亀はさこそ齢も限りなき千尋の渕ををのが常世に/従一位資枝」

(釈文)

渕亀すむかめはさこそよはひもかぎりなき千ひろの渕ををのがとこ世に従一位資枝  】


(参考)「日野資枝」周辺

 「日野家」(「日野家」嫡流)の「日野資勝」(1577-1639)と、「烏丸家」(「日野家」庶流)の「烏丸光広」(1579-1638)とは、資勝が二歳年上で、亡くなったのは、光広の方が一年早く、この二人は、下記の略歴のとおり、同時代の、謂わば、資勝が兄貴、光広が弟分というような関係にある。
 この『烏丸家』から「日野家」の当主(三十六代)になつたのが、「蕪村・秋成」時代の「日野資枝」(1737-1801)で、この資枝も、資勝や光広と全く同じような、謂わば、「儒学と和歌と実務官僚という家職を持って、名家の家格を確立した日野家(そして烏丸家)」(「中世文人貴族の家と職―名家日野家を中心として―(申美那稿)」)の一典型的な道を歩むことになる。
 そして、それは、「日野流儒者・日野流歌人・日野流書家」で、且つ、「名家(日野家・烏丸家)」としての「実務官僚」(資勝=踏歌内弁・神宮伝奏・武家伝奏等、光広=踏歌外弁・賀茂伝奏等、資枝=踏歌外弁・賀茂伝奏等)の重役を歴任することになる。

(日野資勝)  →  「日野家」29代当主
生没年:1577-1639
父:権大納言 日野輝資
1578 従五位下
1581 従五位上
1581 侍従
1585 正五位下
1586 左少弁
1589 右中弁
1590-1595 蔵人
1590 正五位上
1594 左中弁
1595 従四位下
1595 従四位上
1597 正四位上
1597 蔵人頭
1599 左大弁
1599 参議
1600 従三位
1601 美作権守
1601-1604 勘解由長官
1611 正三位
1611 権中納言
1614 権大納言
1615 従二位
1616 踏歌内弁
1619 正二位
1626-1628 神宮伝奏
1630-1639 武家伝奏
妻:(父:准大臣 烏丸光宣)
1591-1630 光慶
娘(左大臣 三条実秀室)
養玉院(対馬府中藩二代藩主 宗義成室)
娘(権中納言 平松時庸室)
日野光慶

(烏丸光広)  → 「烏丸家」9代当主
生没年:1579-1638
父:准大臣 烏丸光宣
1581 従五位下
1583 侍従
1583 従五位上
1586 正五位下
1589 右少弁
1594 左少弁
1595 正五位上
1595 蔵人
1599 左中弁
1599 従四位下
1599 蔵人頭
1599 従四位上
1600 正四位下
1600 正四位上
1601 左宮城使
1604 右大弁
1606 参議
1608 従三位
1609 左大弁
1609 猪熊事件
1609-1611 蟄居
1611 参議
1611 左大弁
1612 権中納言
1613 正三位
1616 権大納言
1617 従二位
1617 踏歌外弁
1620 正二位
1625 春日祭上卿
1627 賀茂伝奏
1637 春日祭上卿
正室:鶴姫(父:江戸重通、義父:結城晴朝、結城秀康未亡人)
側室:清源院(父:越後村上藩初代藩主 村上頼勝)
1600-1638 光賢
妻:家女房
1632-1679 勘解由小路資忠(勘解由小路家へ)
(生母不明)
?-1658 六角広賢
親広
1624-1709 明正院梅小路局
西本願寺宗西光寺照貞室
昭子内親王上臈

(日野資枝) →  (「烏丸家」→「日野家」36代当主)
生没年:1737-1801
父:内大臣 烏丸光栄
義父:権大納言 日野資時
1742 従五位下
1746 従五位上
1746 侍従
1753 権右少弁
1750 正五位下
1752 蔵人
1752 右衛門権佐
1752 正五位上
1753-1761 賀茂社奉行
1753-1756 御祈奉行
1753-1758 神宮弁
1754 左少弁
1755 権右中弁
1756 右中弁
1758 左中弁
1761 蔵人頭
1761 従四位下
1761 従四位上
1761 正四位下
1762 正四位上
1762 左大弁
1763 参議
1764 従三位
1764-1774 権中納言
1765 踏歌外弁
1767 賀茂伝奏
1768 正三位
1774 従二位
1778 正二位
1785 権大納言
1793 従一位
妻:喜子(父:准大臣 広橋勝胤)
1756-1830 資矩
1763-1819 北小路祥光(北小路家へ)
娘(典薬頭 錦小路頼尚室)

http://www.l.u-tokyo.ac.jp/postgraduate/database/2009/662.html

「中世文人貴族の家と職―名家日野家を中心として―(申美奈稿)」

https://www.jstage.jst.go.jp/article/kinseibungei/101/0/101_17/_pdf/-char/ja

「日野資枝の画賛(田代一葉稿)」

https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/50076/gobun95_12.pdf

「交誼と報謝 : 秋成晩年の歌文(飯倉 洋一稿)」

http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0020-84512

「日野資枝百首(宮内庁書陵部)」

http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0020-84515

「日野資枝金毘羅社壇詠百首(宮内庁書陵部)」

http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-ymst/yamatouta/sennin/sukeki.html

「日野資枝千人万首(asahi net)」
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https://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/enjyo.html



【   日野資枝は、従一位の公卿。宣長(72歳)への返歌。
  「宣長より「波の下くさ」とよみておくられしかば
 わかの浦やちよまつかげのみるふさをだれかはなみの下くさとみむ
                      従一位(花押)」

 宣長が、自分は波の下草のような者ですと卑下したのに対して、和歌の浦の海松房(みるぶさ)のような立派なお前を誰が、名もない下草と見るものか、と詠み返した。

 国学の普及を念願していた宣長にとって、最晩年の、京都での公家からの厚遇は、大変嬉しいことであった。 】

http://www.kinseibungakukai.com/summary/m201401.html



【 日野資枝の画賛
近世中期の堂上歌人・日(ひ)野(の)資(すけ)枝(き)の画賛詠は、子の資矩(すけつね)が編集した詠草集『先考御詠』(国立国会図書館蔵)絵讃部に、八百十三首(重複を含む)が収められている。詞書から知られる絵の傾向としては、国学者や地下歌人が盛んに詠んだような新奇なものはほぼ含まれず、四季の景物や富士や松竹、鶴亀など、慶賀性のある伝統的なやまと絵の画題が大半を占め、賛も絵を言祝ぎ唱和する、二条派の温雅な詠み振りであると言える。
 画賛は、堂上歌人にとっては余技とも言える私的な詠歌ではあるが、例えば『先考御詠』絵讃部の最終歌には、死期が迫った中、依頼を受けた「関羽」の絵に、苦吟の末、本紙を忠実に模写させたものに下書きをするも、実際の染筆には至らなかったという経緯が記され、資枝の真摯な姿勢が看取されるのである。
 画賛に対する熱意は、古歌を書きつける画賛においても発揮されていて、門弟・石塚(いしづか)寂(じゃく)翁(おう)記の聞書『和歌問答』には、ある人物から、柳の下に佇む西行の図に「道の辺の」歌の着賛を依頼されるが、寂翁や藤(とう)貞(てい)幹(かん)らと議論の上、この歌は相応しくないとし、『山家集』の別の歌に変更した記事がある。また、門人から依頼された和歌三神像には、送られてきた住吉・玉津島の神像を風景に描き直させた上で、神詠を書きつけて返送している。そこには、与えられた画題を歌学の立場から検討し、その誤りを正すことで、実践的に門人を指導する様子もうかがえる。 】

https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/50076/gobun95_12.pdf



【 「交誼と報謝 : 秋成晩年の歌文 (飯倉 洋一)」
三 神意への報謝―加島稲荷
(「三条西実起・日野資枝・芝山持豊」の奉納和歌)
四「神医」への報謝i谷川家伝存の歌文
(上田秋成の七十五歳時の作「大井川」五首) 






by お名前(必須) (2021-07-08 11:09) 

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