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源氏物語画帖「その三十七 横笛」(京博本)周辺 [源氏物語画帖]

37 横笛(長次郎筆)=(詞)西園寺実晴(一六〇〇~一六七三)   源氏49歳

長次郎・横笛.jpg

源氏物語絵色紙帖  横笛  画・長次郎
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

西園寺・横笛.jpg

源氏物語絵色紙帖  横笛 詞・西園寺実晴
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

(「西園寺実晴」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/04/10/%E6%A8%AA%E7%AC%9B_%E3%82%88%E3%81%93%E3%81%B6%E3%81%88%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B8%83%E5%B8%96%E3%80%91

筍をつと握り待ちて、雫もよよと食ひ濡らしたまへば、いとねぢけたる色好みかなとて
  憂き節も忘れずながら呉竹のこは捨て難きものにぞありける
(第一章 光る源氏の物語 薫の成長 第三段 若君、竹の子を噛る)

1.3.13 筍をつと握り待ちて、雫もよよと食ひ濡らしたまへば、
(筍をしっかりと握り持って、よだれをたらたらと垂らしてお齧りになっているので、)
1.3.14 「 いとねぢけたる色好みかな」とて、
(「変わった色好みだな」とおっしゃって、)
1.3.15  憂き節も忘れずながら呉竹の  こは捨て難きものにぞありける
(いやなことは忘れられないがこの子は、かわいくて捨て難く思われることだ)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第三十七帖 横笛
 第一章 光る源氏の物語 薫の成長
  第一段 柏木一周忌の法要
  第二段 朱雀院、女三の宮へ山菜を贈る
  第三段 若君、竹の子を噛る
(「西園寺実晴」書の「詞」)  →  1.3.13 1.3.14 1.3.15 
 第二章 夕霧の物語 柏木遺愛の笛
  第一段 夕霧、一条宮邸を訪問
  第二段 柏木遺愛の琴を弾く
  第三段 夕霧、想夫恋を弾く
  第四段 御息所、夕霧に横笛を贈る
  第五段 帰宅して、故人を想う
  第六段 夢に柏木現れ出る
 第三章 夕霧の物語 匂宮と薫
  第一段 夕霧、六条院を訪問
  第二段 源氏の孫君たち、夕霧を奪い合う
  第三段 夕霧、薫をしみじみと見る
  第四段 夕霧、源氏と対話す
  第五段 笛を源氏に預ける

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3755

源氏物語と「横笛」(川村清夫稿)

【 柏木の一周忌になり、朱雀院から女三宮のもとに、筍が送られてきた。歯が生えてきた幼い薫は、櫑子(らいし、丈の高い漆塗りの皿)にあった筍をかじって、光源氏からとがめられた。光源氏は薫を抱き上げ、そのまなざしが格別に高貴であることに気付いたが、初老になった光源氏は果たして薫の成長した姿を見ることができるだろうか、行く末の不安を感じるのである。

 それでは光源氏が薫を抱き上げる場面を、大島本の原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
わづかに歩みなどしたまふほどなり。この筍の櫑子に、何とも知らず立ち寄りて、いとあわただしう取り散らして、食ひかなぐりなどしたまへば、
「あな、らうがはしや。いと不便なり。かれ取り隠せ。食ひ物に目とどめたまふと、もの言ひさがなき女房もこそ言ひなせ」
とて、笑ひたまふ。かき抱きたまひて、
「この君のまみのいとけしきあるかな。小さきほどの稚児を、あまた見ねばにやあらむ、かばかりのほどは、ただいはけきものとのみ見しを、今よりいとけはひ異なるこそ、わづらはしけれ。女宮ものしたまふめるあたりに、かかる人生ひ出でて、心苦しきこと、誰がためにもありなむかし。
あはれ、そのおのおのの生ひゆく末までは、見果てむとすらむやは、花の盛りは、ありなめど」
と、うちまもりきこえたまふ。

(渋谷現代語訳)
やっとよちよち歩きをなさる程である。この筍が櫑子に、何であるのか分からず近寄って来て、やたらにとり散らかして、食いかじったりなどなさるので、
「まあ、お行儀の悪い、いけません。あれを片づけなさい。食べ物に目がなくていらっしゃると、口の悪い女房が言うといけない」
と言って、お笑いになる。お抱き寄せになって、
「若君の目もとは普通とは違うな。小さい時の子を、多く見ていないからだろうか、これくらいの時は、ただあどけないものとばかり思っていたが、今からとても格別すぐれているのが、厄介なことだ。女宮がいらっしゃるようなところに、このような人が生まれて来て、厄介なことが、どちらにとっても起こるだろうな。
ああ、この人たちが育って行く先までは、見届けることができようか。花の盛りにめぐり逢うことは、寿命あってのことだ」
と言って、じっとお見つめ申していらっしゃる。

(ウェイリー英訳)
The child was just beginning to walk. As soon as he entered the room he caught sight of Suzaki’s strange looking roots lying in the fruit-dish, and toddled in that direction. Anxious to discover what sort of things they were, he was soon pulling at them, scattering them over the floor, breaking them in pieces, munching them, and in general making a terrible mess both of himself and the room. “Look what mischief he is up to,” said Genji. “You had better put them somewhere out of sight. I expect one of the minds thought it a good joke to tell him they were meant to eat.” So saying, he took up the child in his arms., “What an expressive face this boy has!” he continued. “I have had very little to do with children of this age, and had got it into my head that they were all much alike and all equally uninteresting. I see now how wrong I was. What havoc he will live one day to work upon the hearts of the princesses that are growing up in these neighboring apartments!” I am half sorry that I shall not be these to see. But ‘though Spring comes each year…’”

(サイデンステッカー英訳)
Able to walk a few steps, the boy totted up to a bowl of bamboo shoots. He bit at one and, having rejected it, scattered them in all directions.
“What vile manners! Do something, someone. Get them away from him. These women are not kind, sir, and they will already be calling you a little glutton. Will that please you?” he took the child in his arms. “Don’t you notice something rather different about his eyes? I have not seen great numbers of children, but I would have thought that at his age they are children and no more, one very much like another. But he is such an individual that he worries me. We have a little princess in residence, and he may be her ruination and his own. Will I wonder, to watch them grow up? ‘If we wish to see them we have but to stay alive.’” He was gazing earnestly at the little boy.

 「この君のまみのいとけしきあるかな」をウェイリーは「人相」と解釈してWhat an expressive face this boy has!と訳したが、サイデンステッカーは「まなざし」と正しく解釈してDon’t you notice something rather different about his eyes?と訳している。「女宮ものしたまふめるあたりに、かかる人生ひ出でて、心苦しきこと、誰がためにもありなむかし」の「女宮」とは、明石の女御(光源氏と明石の君の娘)の1人娘のことである。ウェイリーはWhat havoc he will live one day to work upon the hearts of the princesses that growing up in these neighboring apartments!と女宮を複数形で訳してしまったが、サイデンステッカーはWe have a little princess in residence, and he may be her ruination and his ownと正確に単数形で訳している。「あはれ、そのおのおのの生ひゆく末までは、見果てむとすらむやは」は、ウェイリーはI am half sorry that I shall not be these to see. 、サイデンステッカーはWill I wonder, to watch them grow up? とそっけなく訳している。

光源氏は、彼の亡き後に起こる、薫の恋愛遍歴を予言しているのである。  】

(「三藐院ファンタジー」その二十七)

西園寺実晴書状.jpg

「西園寺実晴筆書状」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/object/504

【 西園寺実晴〈さいおんじさねはる・1600-73〉、内大臣公益〈きんます・1582-1640〉の子。順調に累進を重ね、慶安2年〈1649〉には内大臣、承応3年〈1654〉には右大臣、寛文7年〈1667〉には従一位・左大臣を極めた。が、翌8年辞任、12月に出家、大忠院入道と号した(法名・性永)。礼楽を好み、画事をたしなみ、とくに仏祖像を描くのに優れていたという。その書は、当時の書流系譜によると、三条西実隆〈さんじょうにしさねたか・1455-1537〉を祖とする三条流にその名をつらね、伝存する短冊にはその面目が躍如とする。が、この手紙のように草卒に筆を執る筆跡はまた別のもの。枯淡な味わいに渋滞の筆意から、晩年の執筆を思わせる。となれば、宛名の「前(飛鳥)井大納言」は、飛鳥井雅章〈あすかいまさあき・1611-79〉が有力。実晴の出家(寛文八年・1668)、雅章の大納言辞任(承応四年・1655)を勘案すると、これは実晴60代半ばのものと推定される。雅章の江戸下向に際して、寒中の旅途を案じ、慰めとして「野山吹く……」の一首を送る。両者の親しい間柄がほのぼのとする。「寒気以っての外(意外)に候。東州(江戸)への御下向、寒さ察し入り候。/野山吹くあらしの末の激しさを伏せてたよりの頭巾ともなれ/一笑々々。近日、参会を遂げ述ぶべく候。穴賢(あなかしこ)。寒菊移ろい候へども、一枝、見参に入れ候。十一月十日実晴/飛(鳥井)前大納言殿」

(釈文)

寒菊うつ(ろ)ひ候へ共一枝見参ニ入候寒気以外ニ候東州江之御下向さむさ察入候野山吹くあらしのすゑのはけしさをふせくたよりの頭巾ともなれ一笑々々近日遂参会可申述候穴賢十一月十日 実晴飛前大納言殿            】
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yahantei

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%82%E4%B8%8A%E5%AE%B6

江戸時代の「堂上公家」で、石高の高い順位で見てみると次のとおりとなる。

近衞家 →     2,862石 (摂家)
九条家 →     2,044石 (摂家)
一條家 →     2,044石 (摂家)
二條家 →     1,708石 (摂家)
菊亭(今出川)家→ 1,655石 (清華家)※(武家伝奉=寛永16年)
鷹司家 →     1,500石 (摂家)
日野家     → 1,153石 (名家)※(武家伝奉=寛永7年)
烏丸家     → 1,004石 (名家)
萩原家     → 1,000石 (半家) 
飛鳥井家    → 928石  (羽林家)
廣橋家     → 858石  (名家) ※(武家伝奉=慶長8年)
高倉家     → 813石  (半家)
吉田家     → 766石  (半家) 
花山院家    → 715石  (清華家)
勸修寺家    → 708石  (名家)※(武家伝奉=慶長8年)
久我家     → 700石  (清華家)
水無瀬家    → 631石  (羽林家)
西園寺家    → 597石  (清華家)
三條西家    → 502石  (大臣家)※(武家伝奉=慶長18年)
廣幡家     → 500石  (清華家)
中院家     → 500石  (大臣家)※※(武家伝奉=元和9年)
橋本家     → 500石  (羽林家)

 「西園寺家」の石高は597石で、分家筋の「菊亭(今出川)家」(1,655石)に比すると、その半分にも満たない。この西園寺家も、「西園寺実晴」の時代に、その正室(細川忠興とガラシャの子の細川忠隆の長女・徳姫)の「細川忠孝=廃嫡後の長岡休無」から「毎年助成金」が贈られ、また、忠孝没時に、その「遺産500石が徳姫=西園寺家に相続され、西園寺家の財政の基盤」となっているという(ウィキペディア)。
 この忠孝(休無)と父の忠興(幽斎)との確執は、「慶長5年(1600年)の徳川家康の留守中に五奉行の石田三成らは挙兵し、三成らは忠隆の母・ガラシャに対して人質となるよう迫った。ガラシャは拒絶して大坂玉造の細川屋敷で自決したが、忠隆正室の千世は姉・豪姫の指図で隣の宇喜多屋敷に逃れた」ことに起因するという、まことに、数奇なる一つのドラマなのであるが、この「細川家」(幽斎と休無)と「京都公家衆」(殊に、「烏丸光広」・「中院通勝・通村」など)と昵懇の関係で、この「西園寺実晴」と「徳姫」(西園寺家御台所)との関係は、それらの昵懇関係を、以後、さらに緊密化していく。
 こういう、有力公家衆と有力武家衆との結びつきは、例えば、上記の堂上公家の、その背後に大きく横たわっている。
by yahantei (2021-07-17 09:55) 

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