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源氏物語画帖「その四十五 橋姫」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

45 橋姫(長次郎筆) =(詞)四辻季継(一五八一~一六三九) 薫20歳-22歳(以下宇治十帖)

長次郎・橋姫.jpg

源氏物語絵色紙帖  橋姫  画・長次郎
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

四辻・橋姫.jpg

源氏物語絵色紙帖  橋姫  詞・四辻季継
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

(「四辻季継」書の「詞」)

雲隠れたりつる月のにはかにいと明くさし出でたれば扇ならでこれしても月は招きつべかりけりとてさしのぞきたる顔いみじくらうたげに匂ひやかなるべし
(第三章 薫の物語 八の宮の娘たちを垣間見る 第三段 薫、姉妹を垣間見る)

(周辺メモ)

第四十五帖 橋姫
 第一章 宇治八の宮の物語 隠遁者八の宮
  第一段 八の宮の家系と家族
  第二段 八の宮と娘たちの生活
  第三段 八の宮の仏道精進の生活
  第四段 ある春の日の生活
  第五段 八の宮の半生と宇治へ移住
 第二章 宇治八の宮の物語 薫、八の宮と親交を結ぶ
  第一段 八の宮、阿闍梨に師事
  第二段 冷泉院にて阿闍梨と薫語る
  第三段 阿闍梨、八の宮に薫を語る
第四段 薫、八の宮と親交を結ぶ
 第三章 薫の物語 八の宮の娘たちを垣間見る
  第一段 晩秋に薫、宇治へ赴く
  第二段 宿直人、薫を招き入れる
  第三段 薫、姉妹を垣間見る
  第四段 薫、大君と御簾を隔てて対面
  第五段 老女房の弁が応対
  第六段 老女房の弁の昔語り
  第七段 薫、大君と和歌を詠み交して帰京
  第八段 薫、宇治へ手紙を書く
  第九段 薫、匂宮に宇治の姉妹を語る
 第四章 薫の物語 薫、出生の秘密を知る
  第一段 十月初旬、薫宇治へ赴く
  第二段 薫、八の宮の娘たちの後見を承引
  第三段 薫、弁の君の昔語りの続きを聞く
  第四段 薫、父柏木の最期を聞く
  第五段 薫、形見の手紙を得る
  第六段 薫、父柏木の遺文を読む

(参考)

四辻季継書状.jpg

「四辻季継筆書状」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/object/402

【四辻季継〈よつつじすえつぐ・1581-1639〉は、正二位・権大納言公遠〈きんとお・1440-95〉の二男。初名は教遠(のりとお)。寛永3年〈1626〉、46歳の時、正二位・権大納言に至る。四辻家は、もともと和琴・箏をもって朝廷に仕えた家柄であった。この書状は、某年の一月、仙洞(後水尾上皇)における御会始の歌会にあたって詠んだ詠草ながら、その不出来を恥じつつ、その添削を中院亜相(亜相は大納言の唐名)、すなわち、中院通村〈なかのいんみちむら・1588-1653〉に求めたものである。季継の権大納言在任(寛永3年〈1626〉~同16年〈1639〉=死去)と通村の権大納言在任期間(寛永6年〈1629〉~同19年〈1642〉)から、季継の50代の筆跡と判明する。かれは、書流系図においても近衛流の能書として知られるが、この書状にもその特徴が見え隠れしている。「仙洞の御会始めの愚作に候。何とも成らず候て、正体無く候。御詞加えられ候て、下され候はば、畏れ入り候。殊に御急ぎにて候て、赤面此の事に候。猶、面拝を以って申し入るべく候。恐々謹言。十九日中(院)亜相公四辻大納言季継」

(釈文)

仙洞之御会始之愚作ニ候何とも不成候て無正躰候御詞被加候て被下候者可畏入候殊御急に候て赤面此事候猶以面拝可申入候恐々謹言十九日(花押)四大納言中亜相公季継   】

(「三藐院ファンタジー」その三十五)

豊国祭礼図・秀頼周辺.jpg

『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』カバー表紙図

 この「かぶき者けんか図」(岩佐又兵衛筆・「豊国祭礼図屏風・徳川美術館蔵」右隻第六扇・部分拡大図)は、豊臣秀頼と徳川家忠との「大阪夏の陣」の見立てで、その登場人物は、主役の「秀頼と家忠」の他に、「淀殿・高台院・千姫・大野治長・治房兄弟・孝蔵主・方広寺関係僧・蜂須賀家・前田家・浅野家関係武士」などが読み取れるというのが、『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』などの謎解きであった。
 この「豊国祭礼図屏風」(徳川美術館本)は、「洛中洛外図屏風・舟木本」(東京国立博物館本)と連動していて、この「豊国祭礼図屏風」の「高台院」が、同じ格好をして、「洛中洛外図・舟木本」に出て来るというのである(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』)。

右四・五中・五条大橋で踊る高台院.jpg

「洛中・洛外図屏風・舟木本」(東京国立博物館本)の「右隻第四・五扇中部部分拡大図」(五条橋で踊る老後家尼)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&

右四中・高台院アップ.jpg

同上(五条橋で踊る老後家尼)第五扇拡大図

《老後家尼》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P204)

「この桜の枝を右手に持って肩に担ぎ、左足を高くあげて楽しげに踊っている、この老後家尼は、ただの老女ではありえない。又兵衛は、いったい誰を描いているのだろう。」

《花見帰りの一行の姿』((『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』)P204-205)

「この老後家尼の一行は、笠を被った男二人、それに続き、女たち十二人と男たち十人余りが踊っており、六本の傘が差しかけられている。乗掛馬に乗った武士二人と馬轡持ち二人、荷物を担いでいる男四人、そして、五人の男が振り返っている視線の先に、酔いつぶれた男が両脇から抱きかかえられ、その後ろには、宴の食器や道具を担いだ二人の男がいる。総勢四十五人以上の集団である。」

《傘の文様は?》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P205-206)

「六本の傘を見ると、先頭の白い傘には日の丸(日輪)、次の赤い傘には桐紋、三本目の赤い傘は鶴と亀の文様である。四本目は不明、五本目は日・月の文様のようであり、六本目は花か南蛮の樹木の葉のようである。この先頭の日輪と二本目の桐紋が決定的に重要だ。このような後家尼の姿で描かれる人物は、秀吉の後家、高台院(北政所おね)以外にあり得ない。」

《豊国祭礼図屏風の老後家尼》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P206-207)

「ここで、拙著『豊国祭礼図を読む』の記述を想い起こしたい(二六六頁)。そこで、淀殿の乗物の脇にいて、慌てて飛び退いている老後家尼の高台院がかかれていると指摘しておいた。この高台院も、舟木屏風の老後家尼と同様の姿で描いている。つまり舟木屏風は、徳川美術館本豊国祭礼図屏風に先行して、高台院を五条橋の上で踊る老後家尼として描いていたのである。」

 それだけではないのである。「豊国祭礼図屏風」の、豊臣秀頼と徳川秀忠の「かぶき者の喧嘩」に見立てての「大阪夏の陣」に対応する「大阪冬の陣」が、何と、「洛中洛北屏風・舟木本」の、右隻第二扇の「方広寺大仏殿」の上の、「妙法院」の門前で「かぶき者らしき男たちの喧嘩」の見立てで、又兵衛は、それとなく描いているのである。
 その舟木本の「かぶき者らしき男たちの喧嘩」の図は、次のものである。

舟木本・大阪冬の陣.jpg

「洛中・洛外図屏風・舟木本」(東京国立博物館本)の「右隻第二扇中部部分拡大図」
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&

徳川美術館蔵「豊国祭礼図」の注文主
―桟敷に坐る武士の姿と蜂須賀家政の肖像画―(黒田日出男稿)

https://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/%E9%87%91%E9%AF%B1%E

【《二年前に出した拙著『豊国祭礼図を読む』では、徳川美術館本の右隻第五・第六扇の喧嘩の場面に、「かぶき者」に見立てられた豊臣秀頼の姿を見出したというに、みの舟木本の喧嘩の場面については、肝心のディテールを「見落とし」てしまったのである。家紋を見落としたのだ。》

《妙法院と照高院の門前で喧嘩が始まっている。双方六人ずつ、武器は鑓・薙刀と刀である。》

《この妙法院と照高院の門前の喧嘩は何を意味しているのか? それを物語るのが、右側の男の背中に描かれている家紋であったのだ。この男の茶色の短い羽織の背中には、「丸に卍紋」が大きく描かれている。この「丸に卍紋」は阿波の蜂須賀氏の家紋である。妙法院・照高院の門前に描かれているのは下郎ないし「かぶき者」の喧嘩であるが、この家紋は、それが大きな戦いの「見立て」であることを示唆している。》

《慶長十九年(一六一四)十月からの「大阪冬の陣」において、とくに目立った軍勢は阿波の蜂須賀家勢(蜂須賀隊)であった。十一月十九日、大阪方の木津川の砦を、蜂須賀至鎮・浅野長晟・池田忠雄の三者で攻めることになったが、蜂須賀至鎮は抜け駆して、砦を陥落させたのであった。次に蜂須賀勢が著しい成果を挙げたのは、同月二十九日の未明に、薄田隼人の守っていた博労ケ淵の砦を攻撃し、砦を奪取した。また逆に、十二月十六日の深更に、蜂須賀勢の陣地は、大阪方の塙団右衛門らによって夜襲をかけられてもいる。》

《すなわち、大阪冬の陣における蜂須賀勢の攻防・活躍はとくに顕著であり、世間によく知られたことであった。他方、「大阪夏の陣」での蜂須賀軍はどうだったか。蜂須賀軍は、荒れた海と紀伊の一揆のために、夏の陣の決戦には間に合わず、夜通し進軍して、五月八日(大阪城の落城は五月七日)に住吉に着陣し、茶臼山と岡山の陣営に行って家康と秀忠に拝謁したのであった。》

《したがって、「かぶき者」の背中に描かれた「丸に卍紋」は、大阪冬の陣における蜂須賀勢を意味する。この場面は、大阪冬の陣における戦いを「かぶき者」たちの喧嘩に見立てたものだったのである。以上のように読むと、舟木本の右隻第二扇の喧嘩は、徳川美術館本の右隻第五・六扇上部に描かれた「かぶき者」の喧嘩の場面と繋がってくる。》 】
(「一 舟木本「洛中洛外図屏風」読解の「補遺」」の要点要約)

 この「徳川美術館蔵「豊国祭礼図か」の注文主(黒田日出男稿)」の論稿は、平成三十年(二〇一八)の徳川美術館での講演用のものを改稿したもので、この種の読解は現在進行形の形で、その後の知見も集積されていることであろう。
 それらの中には、おそらく、この「大阪冬の陣に見立てた『かぶき者』の喧嘩」が、「何故、『妙法院・照高院』の門前で描かれているのか」にも触れられているのかも知れない。
 これは、大阪冬の陣の勃発の発端となった「方広寺鐘名事件」の震源地の「方広寺」の総括責任者が、当時の方広寺を所管していた「照高院・興意法親王」で、この「方広寺鐘名事件」で、一時「照高院」は廃絶され、興意法親王は「聖護院宮」に遷宮となり、方広寺は「妙法院・常胤法親王」の所管となり、その「方広寺鐘名事件」関連の終戦処理は、その「妙法院・常胤法親王」が担うことになる。この「方広寺鐘名事件」に関連する、「興意法親王」の書状が今に遺されている。

興意法親王書状.jpg

御書状 「立札通」(聖護院宮 興意法親王書 ・海の見える杜美術館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/237671
【 慶長十年(一六〇五)徳川秀忠江戸下向の際、暇乞に信尹や常胤らと礼参(義演准后日記)するなど、時の為政者によく仕えていたが、慶長十九年(一六一四)の方広寺鐘銘事件では、大仏殿住職の職を解かれ、聖護院にて遷居となった。なお、常胤が大仏殿住職を継いだ。
 後陽成天皇の皇弟で、酒樽二つ贈られた礼状。宛名は「金□□」と見えるが、明らかにしない。「諸白」はよく精白した米を用いた麹によってつくられた酒である。江戸へ下向して将軍に会ったことを述べて、末尾にはお目に懸ってまた申しましょうとあるが、文末の決まり文句で「期面云々」「面上云々」などを結びとするのが通例である。(『名筆へのいざない―深遠なる書の世界―』海の見える杜美術館2012 解説より)  】

豊国祭礼図・秀頼周辺.jpg

『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』カバー表紙図

 上記の図について、前回、下記のとおり記した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-07-30#comments

【ここまで来ると、上記の図・上部の「大阪城から脱出した千姫」と思われる貴女の、左後方の屋敷から、喧嘩の状況を見極めているような人物は、千姫を大阪城の落城の時に、家康の命により救出した「坂崎直盛(出羽守)」という「見立て」も可能であろう。
 さらに、この図の下部の「秀頼と秀忠との喧嘩を止めようとしている僧侶(三人?)
のうちの中央の身分の高い僧衣をまとった人物は、「方広寺鐘銘事件」が勃発した時の、方広寺門跡「興意法親王(誠仁親王の第五皇子・一五七六~一六二〇)」の「見立て」と解することも、これまた、許容されることであろう。
そして、この後陽成天皇の弟にあたる興意法親王(照高院)の前の、家忠に懇願しているような僧が、「方広寺鐘銘事件」の、問題の「国家安康」(家康の身首両断を意図している呪文の文字)と「君臣豊楽」(豊臣家の繁栄を祈願している文字」とを撰した、禅僧の「文英清韓」という「見立て」になってくる。
 この「方広寺鐘銘事件」と「興意法親王(照高院)」との関連などについては、下記のアドレスで取り上げている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-26

ここで、先の(参考一)に、興意法親王(照高院)も入れて置きたい。

(参考一)「源氏物語画帖」と「猪熊事件」そして「豊国祭礼図」「洛中洛外図・舟木本」との主要人物一覧

※※豊臣秀吉(1537-1598) → 「豊臣政権樹立・天下統一」「豊国祭礼図屏風」
※※土佐光吉(1539-1613) → 「源氏物語画帖」
※※徳川家康(1543-1616) →「徳川政権樹立・パクス・トクガワーナ(徳川の平和)」
花山院定煕(一五五八~一六三九)  →「夕霧」「匂宮」「紅梅」
※※高台院 (1561? - 1598) →  「豊国祭礼図屏風」
近衛信尹(一五六五~一六一四)   →「澪標」「乙女」「玉鬘」「蓬生」
久我敦通(一五六五~?)      →「椎本」
※※淀殿(1569?-1615) →  「豊国祭礼図屏風」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣 」
後陽成院周仁(一五七一~一六一七) →「桐壺」「帚木」「空蝉」
日野資勝(一五七七~一六三九)   →「真木柱」「梅枝」
※※興意法親王(照高院)(一五七六~一六二〇) → 「方広寺鐘銘事件」
※大炊御門頼国(1577-1613) →「猪熊事件」

※※岩佐又兵衛(1578-1650)→「豊国祭礼図屏風」「洛中洛外図・舟木本」

※※徳川秀忠(1579-1632) →「豊国祭礼図屏風」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」
※烏丸光広(一五七九~一六三八) →「猪熊事件」→「蛍」「常夏」 
八条宮智仁(一五七九~一六二九) →「葵」「賢木」「花散里」
四辻季継(一五八一~一六三九)  →「竹河」「橋姫」

※織田左門頼長(道八)(1582-1620) →「猪熊事件」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」
※猪熊教利(1583-1609)      →「猪熊事件」
※徳大寺実久(1583-1617)     →「猪熊事件」

飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一)   →「夕顔」「明石」
中村通村(一五八七~一六五三)    →「若菜下」「柏木」 
※花山院忠長(1588-1662) →「猪熊事件」
久我通前(一五九一~一六三四     →「総角」    
冷泉為頼(一五九二~一六二七)     → 「幻」「早蕨」
※※豊臣秀頼(1593-1615)  → 「豊国祭礼図屏風」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」
菊亭季宣(一五九四~一六五二)    →「藤裏葉」「若菜上」
※※松平忠直(1595-1650)   →「豊国祭礼図屏風」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」
近衛信尋(一五九九~一六四九)    →「須磨」「蓬生」
烏丸光賢(一六〇〇~一六三八)   →「薄雲」「槿」
西園寺実晴(一六〇〇~一六七三)   →「横笛」「鈴虫」「御法」  】

 さらに、次のアドレスのものも再掲をして置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-20

【「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図(周辺)
 「源氏物語画帖(源氏物語絵色紙帖)」の「詞書」の筆者は、後陽成天皇を中心とした皇族、それに朝廷の主だった公卿・能筆家などの二十三人が名を連ねている。その「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図()周辺は、下記記のとおりで、※印の方が「詞書」の筆者となっている。その筆者別の画題をまとめると次のとおりとなる。

正親町天皇→陽光院(誠仁親王)→ ※後陽成天皇   → 後水尾天皇
    ↓※妙法院常胤法親王 ↓※大覚寺空性法親王↓※近衛信尋(養父・※近衛信尹)
      ↓        ↓※曼殊院良恕法親王 ↓高松宮好仁親王
      ↓          ↓※八条宮智仁親王  ↓一条昭良(養父・一条内基)
      ↓        ↓興意法親王     ↓良純法親王 他
    ※青蓮院尊純法親王(常胤法親王の王子、良恕法親王より灌頂を受け親王宣下)
 
※後陽成院周仁(誠仁親王の第一皇子・一五七一~一六一七) →(桐壺・箒木・空蝉)
※大覚寺空性法親王(誠仁親王の第二皇子・一五七三~一六五〇) →(紅葉賀・花宴)
※曼殊院良恕法親王(誠仁親王の第三皇子・一五七三~一六四三) →(関屋・絵合・松風)
興意法親王(誠仁親王の第五皇子・一五七六~一六二〇)→方広寺大仏鐘銘事件(蟄居?)
※八条宮智仁親王(誠仁親王の第六皇子・一五七九~一六二九) →(葵・賢木・花散里)
※妙法院常胤法親王(誠仁親王の弟・一五四八~一六二一)  →(初音・胡蝶)
※青蓮院尊純(常胤法親王の子・一五九一~一六五三)→(篝火・野分・夕顔・若紫・末摘花)
※近衛信尋→(後陽成天皇の子・後水尾天皇の弟・信尹の養子・太郎君の夫?・一五九九~一六四九)→(須磨・蓬生)
※近衛信尹→(信尹の養父・太郎君の父・一五六五~一六一四)→(澪標・乙女・玉鬘・蓬生)
※近衛太郎(君)→(近衛信尹息女・慶長三年(一五九八)誕生?)・ 信尋の正室?)→(花散里・賢木)   】

舟木本・大阪冬の陣.jpg

(再掲)「洛中・洛外図屏風・舟木本」の「右隻第二扇中部部分拡大図」(東軍=蜂須賀勢)

舟木本・大阪冬の陣・幸村の槍.jpg

「洛中・洛外図屏風・舟木本」(東京国立博物館本)の「右隻第二扇中部部分拡大図」
(西軍=真田勢)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&

 「照高院・妙法院」前の、「かぶき者」の小競り合い(六人対六人)が、何と、「大阪冬の陣」の見立てとし、その「東軍」の代表選手が、薙刀を持って、背中に「丸に卍紋」の軍羽織をした男が「蜂須賀勢」を意味するとなると、それに相対する「西軍」の代表選手は、
 この下図の「大千鳥十文字槍」を持っている男の「真田勢」ということになろう。

大千鳥十文字槍.jpg

「真田信繁(幸村)愛用の大千鳥十文字槍」(真田宝物資料館蔵)
https://monorog.com/archives/1112

 上記のアドレスのものは、「大千鳥十文字槍の由来 現在の持ち主は真田宝物資料館?」というもので、関連する記事として、「大阪冬の陣の歴史 真田丸の戦いとは?」「大阪夏の陣の歴史 豊臣家の滅亡と高台院」の、三本立ての記事として見ると、この「洛中洛外図屏風・舟木本」そして「豊国祭礼図屏風」の見立てを読み解くのには参考となる。
 ついでに、「東軍」の「蜂須賀勢」(「丸に卍紋の軍羽織」を着ている男)が手にしている「薙刀」も、「蜂須賀勢」を象徴するものでなく、これも、「真田信繁(幸村)」が、大阪夏の陣で、越前松平勢(藩主は岩佐又兵衛のパトロンとなる松平忠直)に討ち取られた時に使用していたものとして、越前松平藩に伝わっているものに由来があるように思われる。

幸村所用の薙刀.jpg

「真田信繁(幸村)が大阪夏の陣で越前松平藩に討ち取られた際の所用の薙刀」(越葵文庫蔵)
http://www.history.museum.city.fukui.fukui.jp/tenji/kaisetsusheets/yukimura.pdf

 上記のアドレスに、次のように解説されている。

【 采配とともに真田信繁を討ち取った福井藩士・西尾宗次の子孫の家に伝わったもので、のち藩主松平家に献上され、松平家に伝来している。由緒書が残されており、
「慶長二十年乙卯七月十三日元和ト改 大坂御陣茶臼山御本陣之節 真田左衛門尉幸村ヲ討取采配ト長刀 西尾仁左衛門尉宗次」
「此長刀及采配ハ当藩士西尾仁左衛門尉宗次が茶臼山陣ニ於テ真田幸村ヲ討取リタル際分捕セシモノ也」
「采配 薙刀西尾久馬所持 祖先西尾仁左衛門尉宗次大阪ノ役ニ茶臼山陣ニ於テ真田左衛門尉幸村ヲ討取此両品ヲ分捕」といった文言が見える 】

 ここで、真田信繁(幸村)は、越前松平藩(藩主は岩佐又兵衛のパトロンとなる松平忠直)に討ち取られたのは、この大阪冬の陣ではなく、それに続く、大阪夏の陣に於いてなのである。
とすると、「豊国祭礼図屏風」の「大阪夏の陣」の何処かに、真田信繁(幸村)を見立てているものが描かれている筈である。

かぶき者の「窯〇怒』紋.jpg

https://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/%E9%87%91%E9%AF%B1%E5%8F%A2%E6%9B%B846.pdf

 このアドレスの「徳川美術館蔵「豊国祭礼図」の注文主―桟敷に坐る武士の姿と蜂須賀家政の肖像画―(黒田日出男稿)の記述は次のとおりである。

【「かぶき者」の「鎌〇怒(かまわぬ)」紋があることに気付く(指図四)。この紋は、従来、幡随院長兵衛の頃に生まれたとされてきたが、慶長期の「かぶき者」がすでに使用していた紋であったことは、これで明らかになった。このような判じ物的な趣向は、江戸中期まで下らず、慶長期の「かぶき者」たちがすでに好んでいたものであった(註9=「岩佐又兵衛の『豊国祭礼図屏風』から歴史を読む」=『Kotoba』(集英社) 30号。2018年12月)。】

 上記の「かぶき者」の「鎌〇怒(かまわぬ)」紋の読み方は、それだけではない。もう一つの読み方は、「かぶき者」は、上半身裸の主人公の「殿様スタイル」の男なのである。   
 そして、それを引き留め取っているような「鎌〇怒(かまわぬ)」紋の男と、その下の、真田家の家紋の「六文銭」もどきの紋章の男二人は、この「もろ肌脱ぎの主人公(殿様)」が誰であるかを証明している、その示唆を投げかけている、謂わば「説明用の黒子の人物」ということに他ならない。
 すなわち、上記の「もろ肌脱ぎの主人公(殿様)」は、「鎌〇怒(かまわぬ)」紋の、「鎌」形の「(大千鳥)十文字槍」の「鎌槍(十文字槍など)」と、次の「六文銭」もどきの男の、この二つ備えて示唆している、すなわち、「真田信繁(幸村)」ということになる。

豊国祭礼図屏風・主役たち.jpg

『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』カバー表紙図の下部の拡大(「中央=興以法親王(照高院門跡)・文英清韓)、左方、「豊臣秀頼・真田信繁(幸村)」、右方、「徳川秀忠・徳川忠直(岩佐又兵衛のパトロン「越前松平藩主)」

 ここで、この「豊国祭礼図屏風」(右隻第六扇・中部)の「かぶき者の喧嘩図」に戻って、この喧嘩図が、「大阪夏の陣」の見立てで、左方の上半身裸の「かぶき男」が、西軍の「豊臣秀頼」で、右方の上半身が、東軍の「徳川秀忠」とすると(『黒田・角川選書533)、
この秀頼の後方の、もろ肌脱ぎの「かぶき男」は、西軍の代表選手の「真田信繁(幸村)」という見立てが成り立つという、「三藐院ファンタジー」的な推理なのである。
 そして、右方の秀忠の右後方の、もろ肌脱ぎの「かぶき男」は、この大阪夏の陣で、その「真田信繁(幸村)」を討ち取った越前松平藩主の「徳川忠直」(岩佐又兵衛のパトロン)と解したいという、これまた、「三藐院ファンタジー」的な見立てなのである。
 この「松平忠直」(1595-1650)と「岩佐又兵衛」(1578-1650)との関連などについては、
『岩佐又兵衛と松平忠直(黒田日出男著・岩波現代全書1.03)』で詳細に記述されているのだが、ここでは、そのタイトルの副題にあるとおり、「パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎」解きに関連するもので、「豊国祭礼図屏風」や「洛中洛外図屏風・舟木本」に関する事項は、皆目出て来ない。
 そして、下記アドレスの「徳川美術館蔵『豊国祭礼図』の注文主(黒田日出男稿)」では、「豊国祭礼図屏風」の注文主は、阿波の徳島藩主の「蜂須賀家政(蓬庵)」(1558-1639)、そして、「洛中洛外図屏風・舟木本」は、「京の上層町人・暖簾『雪輪笹』の室町二条上ルの笹屋半四郎(呉服商)」と推定をしているのだが、この「洛中洛外図屏風・舟木本」も、阿波徳島藩主の「蜂須賀家政(蓬庵)」に匹敵する、後に、岩佐又兵衛のパトロンとなる、越前松平藩主の「松平忠直」こそ、この「洛中洛外図屏風・舟木本」の注文主に相応しい人物と推定をいたしたい。

https://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/%E9%87%91%E9%AF%B1%

 ここで、「松平忠直」のプロフィールを紹介して置きたい。

【 松平忠直(まつだいらただなお・1595―1650)
江戸前期の大名。2代将軍徳川秀忠(ひでただ)の兄結城秀康(ゆうきひでやす)の長男。母は中川一茂(かずしげ)の娘。1607年(慶長12)父秀康の領地越前(えちぜん)国福井城(67万石といわれる)を相続し、11年将軍秀忠の三女を娶(めと)る。15年(元和1)の大坂夏の陣では真田幸村(さなだゆきむら)らを討ち取り大功をたてた。その結果同年参議従三位(じゅさんみ)に進むが領地の加増はなく、恩賞の少なさに不満を抱き、その後酒色にふけり、領内で残忍な行為があるとの評判がたった。
また江戸へ参勤する途中、無断で国へ帰ったりして江戸へ出府しないことが数年続いたりしたので、藩政の乱れを理由に23年豊後萩原(ぶんごはぎわら)(大分市)に流され、幕府の豊後目付(めつけ)の監視下に置かれた(越前騒動)。豊後では5000石を生活のために支給され、当地で死んだ。いわば将軍秀忠の兄の子という優越した家の抑圧の結果とみられる。なお処罰前の乱行について菊池寛が小説『忠直卿(きょう)行状記』を著したので有名となるが、かならずしも史実ではない。 [上野秀治] 『金井圓著「松平忠直」(『大名列伝 3』所収・1967・人物往来社)』 】
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yahantei

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源氏物語と「橋姫」(川村清夫稿)

【「橋姫」の帖は、源氏物語の最終部分「宇治十帖」の最初の帖である。光源氏の異母弟である八の宮は朝廷の権力闘争から離れて、宇治の別荘で大君、中君の2人の娘とひっそりと暮らしていた。薫は世俗的な欲望のない八の宮に惹かれて、彼の屋敷に通うようになった。秋の夜に八の宮邸を訪れた薫は、月の光の下で筝と琴を合奏する大君と中君の姿を見て、大君に一目ぼれをした。薫と大君の間を取り次いだのは弁の君という年配の侍女だったが、彼女は柏木の乳母子で、薫の出生の秘密を知っていた。弁の君が涙ながらに薫が柏木と女三宮の間の不義の子であることを教えると、薫は長年の謎が解けて、感涙にむせぶのだった。

 それでは薫が弁の君から出生の秘密を知る場面を、明融臨模本の原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(明融臨模本原文)
姫君の御後見にてさぶらはせたまふ。弁の君とぞいひける。年も六十にすこし足らぬほどなれど、みやびかにゆゑあるけはひして、ものなど聞こゆ。
故権大納言の君の、世とともにものを思ひつつ、病づき、はかなくなりたまひにしありさまを、聞こえ出でて、泣くこと限りなし。
「げに、よその人の上と聞かむだに、あはれなるべき古事どもを、まして、年ごろおぼつかなく、ゆかしう、いかなりけむことの初めにかと、仏にもこのことをさだかに知らせたまへと、念じつる験にや、かく夢のやうにあはれなる昔語りを、おぼえぬついでに聞きつけつらむ」と思すに、涙とどめがたかりけり。

(渋谷現代語訳)
姫君のご後見として伺候させなさっている、弁の君と言った人である。年も六十に少し届かない年齢だが、優雅で教養ある感じがして、話など申し上げる。
故大納言の君が、いつもずっと物思いに沈み、病気になって、お亡くなりになった様子を、お話し申し上げて泣く様子はこの上ない。
「なるほど、他人の身の上話として聞くのでさえ、しみじみとした昔話を、それ以上に、長年気がかりで、知りたく、どのようなことの始まりだったのかと、仏にもこのことをはっきりお知らせ下さいと、祈って来た効があってか、このように夢のようなしみじみとした昔話を、思いがけない機会に聞き付けたのだろう」とお思いになると、涙を止めることができなかった。

(ウェイリー英訳)
When he was gone Kaoru sent for the old gentlewoman Ben no Kimi, who immediately resumed the story. She must, he thought, have been almost sixty, but there was nothing in her speech to suggest decrepitude nor any influence of the remote province in which she had lived so long. In telling the tale of Kashiwagi’s desperate love, the illness that ensued upon it and his miserable end, she wept profusely. The story was of a kind that would certainly have moved Kaoru profoundly even if it had in no way specially concerned him. But now as he heard the great uncertainty that had weighed upon him ever since he could remember, being step by step removed, he too could hardly refrain from tears. For years he had never uttered a prayer to Buddha without imploring that these torturing doubts might be resolved, and now suddenly, when he had given up hope, the whole of that pitiful past flowed by him as in a dream.

(サイデンステッカー英訳)
When the prince had withdrawn for matins, Kaoru summoned the old woman. Her name was Benokimi, and the eighth Prince had her in constant attendance upon his daughters. Though in her late fifties, she was still favored with the graces of a considerably younger woman. Her tears flowing liberally, she told him of what an unhappy life “the young captain,” Kashiwagi, had led, of how he had fallen ill and presently wasted away to nothing.
It would have been a very affecting tale of long ago even if it had been about a stranger. Haunted and bewildered through the years, longing to know the facts of his birth, Kaoru had prayed that he might one day have a clear explanation. Was it in answer to his prayers that now, without warning, there had come a chance to hear of these old matters, as if in a sad dream? He too was in tears.

 ウェイリーとサイデンステッカーの翻訳は、一長一短である。弁の君の性格「みやびかにゆゑあるけはひして」に関してサイデンステッカーはshe was still favored with the graces of a considerably younger womanと訳したが、誤訳である。ウェイリーがthere was nothing in her speech to suggest decrepitude nor any influence of the remote province in which she had lived so longと訳した方が正しい。「故権大納言」(柏木)の呼称についてサイデンステッカーはyoung captain Kashiwagiと訳したが、これも誤訳である。captainでは大尉で、陸軍の下級将校になってしまう。大納言は内大臣に次ぐ三位相当の朝廷の高官であり、major counselorと訳すべきである。ウェイリーはKashiwagiと名前をそのまま表記している。出生の秘密を打ち明けられた薫の反応「年ごろおぼつかなく、ゆかしう、いかなりけむことの初めにかと、仏にもこのことをさだかに知らせたまへと、念じつる験にや、かく夢のやうにあはれなる昔語りを、おぼえぬついでに聞きつけつらむ」に関しては、ウェイリーが原文にない文を加えているのに対して、サイデンステッカーはHaunted and bewildered through the years, longing to know the facts of his birth, Kaoru had prayed that he might one day a clear explanation. Was it in answer to his prayers that now without warning, there had come a chance to hear of these old matters, as if in a sad dream?と、原文に忠実な翻訳をしている。

 薫と匂宮と浮舟を主役とする「宇治十帖」は、ここにはじまるのである。   】
by yahantei (2021-08-02 19:00) 

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