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源氏物語画帖「その四十六 椎本」(京博本)周辺 [源氏物語画帖]

46 椎本(長次郎筆)=(詞)久我敦通(一五六五~?)    薫23歳春-24歳夏

長次郎・椎本.jpg

源氏物語絵色紙帖  椎本  画・長次郎
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

久我・椎本.jpg

源氏物語絵色紙帖  椎本  詞・久我敦通
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/db/index.html

(「久我敦通」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/04/19/%E6%A4%8E%E6%9C%AC_%E3%81%97%E3%81%84%E3%81%8C%E3%82%82%E3%81%A8%E3%83%BB%E3%81%97%E3%81%B2%E3%81%8C%E3%82%82%E3%81%A8%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E5%8D%81

阿闍梨の室より炭などやうのものたてまつるとて年ごろにならひはべりにける宮仕への今とて絶えはつらむが 心細さになむと聞こえたりかならず冬籠もる山風ふせぎつべき綿衣など遣はししを思し出でてやりたまふ
(第四章 宇治の姉妹の物語 第一段 歳末の宇治の姫君たち)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第四十六帖 椎本
 第一章 匂宮の物語 春、匂宮、宇治に立ち寄る
  第一段 匂宮、初瀬詣での帰途に宇治に立ち寄る
  第二段 匂宮と八の宮、和歌を詠み交す
  第三段 薫、迎えに八の宮邸に来る
  第四段 匂宮と中の君、和歌を詠み交す
  第五段 八の宮、娘たちへの心配
 第二章 薫の物語 秋、八の宮死去す
  第一段 秋、薫、中納言に昇進し、宇治を訪問
  第二段 薫、八の宮と昔語りをする
  第三段 薫、弁の君から昔語りを聞き、帰京
  第四段 八の宮、姫君たちに訓戒して山に入る
  第五段 八月二十日、八の宮、山寺で死去
  第六段 阿闍梨による法事と薫の弔問
 第三章 宇治の姉妹の物語 晩秋の傷心の姫君たち
  第一段 九月、忌中の姫君たち
  第二段 匂宮からの弔問の手紙
  第三段 匂宮の使者、帰邸
  第四段 薫、宇治を訪問
  第五段 薫、大君と和歌を詠み交す
  第六段 薫、弁の君と語る
  第七段 薫、日暮れて帰京
第八段 姫君たちの傷心
 第四章 宇治の姉妹の物語 歳末の宇治の姫君たち
  第一段 歳末の宇治の姫君たち
  第二段 薫、歳末に宇治を訪問
  第三段 薫、匂宮について語る
  第四段 薫と大君、和歌を詠み交す
  第五段 薫、人びとを励まして帰京
 第五章 宇治の姉妹の物語 匂宮、薫らとの恋物語始まる
  第一段 新年、阿闍梨、姫君たちに山草を贈る
  第二段 花盛りの頃、匂宮、中の君と和歌を贈答
  第三段 その後の匂宮と薫
  第四段 夏、薫、宇治を訪問
  第五段 障子の向こう側の様子

(参考)

【久我 敦通(こが あつみち)
生誕 永禄8年8月21日(1565年9月15日)
死没 寛永元年11月22日(1625年1月1日)

室町時代後期から安土桃山時代の公卿。主に正親町天皇(106代)・後陽成天皇(107代)の二代にわたり朝廷に仕え、官位は正二位権大納言まで昇った。父は久我通堅。母は佐々木氏。初名は吉通、季通。一字名は橘。号は円徳院。
(生涯)
永禄9年(1566年)に叙爵。
永禄11年(1568年)に父が目々典侍との密通の風聞がたったことで正親町天皇の勅勘を被り、京都から追放され、元亀4年(1573年)には祖父の晴通が将軍・足利義昭の京都追放に同行してしまう。
その後、天正3年(1575年)3月に祖父が、翌4月には父が客死してしまうが、織田信長の配慮で家督継承が認められて、11月には信長から所領の安堵を受けた。
 以降累進し、天正6年(1578年)に従三位に達して公卿に列した。
 天正10年(1582年)に権大納言、天正15年(1587年)に従二位となる。
 文禄4年(1595年)より武家伝奏となり、朝廷と豊臣氏との取り次ぎに活躍。豊臣家からも信頼を受けて、しばしば加増を受けている。
 慶長4年(1599年)、勾当内侍との密通の風聞がたったことで、子の通世とともに後陽成天皇の勅勘を被り、京都から追放されている。  】(ウィキペディア)

(「三藐院ファンタジー」その三十六)

左五上・紫宸殿.jpg

「紫宸殿」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第五扇上部)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&

 「紫宸殿」の「垂簾(すいれん)」の中には、天皇(後陽成天皇か次の後水尾天皇)が出御しているのであろう。その前の「簀子縁(すのこえん)」には、冠束帯姿のトップクラスの殿上公家が居並んでいる。垂簾の右脇に黒い枠の「格子」(上に「半蔀」で夜間に「蔀戸」になる)があり、左方にも黒い「格子」が見える。

左五上・舞楽.jpg

「紫宸殿南庭の舞台の舞樂(青海波)」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第五扇上部)

 その「紫宸殿」の南庭に舞台が設置され、二人舞の「青海波」が演じられている。その右側に、「大太鼓・笙(しょう)・篳篥(ひちりき)・横笛(おうてき)・笏拍子(しゃくびょうし)などの楽器を演奏する人が描かれている。
 この舞台は架設用の舞台ではなく、慶長期の内裏造営は、「慶長十七年末より慶長十八年中工事が行われ、同年十二月八日、新造内裏の移徒(わたまし)の日時が定められ、後水尾天皇が仮内裏から新内裏へ移徒したのは、同年十九日。そして、慶長十九年年(一六一四)に、紫宸殿の前に舞台や楽屋が建てられた」(『新訂京都御所(藤岡通夫)』)、したがって、「舟木屏風の制作時期は、それ以降ということになろう」(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P144-145)との見解を提示している。

左上六上・清涼殿.jpg

「清涼殿」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第六扇上部)

 一見すると、「紫宸殿」と同じかという印象を受けるが、「紫宸殿」は、「内裏」(天皇の日常居住する住居)の「正殿」(朝賀・即位・大嘗会などの重要な儀式を行う建物)で、「清涼殿」は、天皇の日常の御座所の、四方拝・小朝拝や除目などの諸公事を行う建物と、まず、その建てられている位置関係が、異なっている。
 すなわち、「紫宸殿」の前庭は「南庭」に位置し、その左右に「左近の桜」(東方)と「右近の橘」(西方)が植えられている。一方の「清涼殿」の前庭は、「東庭」に位置し、北方に「呉竹」(格子の籬垣の中に淡竹が植えられている)、南方に「河竹」(格子の籬垣の中に漢竹が植えられている)が据えられている。
 この「清涼殿」の後方(北側)に、宮中の后妃・女官が居住する殿舎(七殿五舎)が位置し、これらが、いわゆる、「後宮(こうきゅう)」である。
 これらの全体像を把握するのには、次の「源氏物語(源氏物語画帖)に見る内裏の図」が分かりやすい。

内裏.jpg

「源氏物語に見る内裏の図」
http://wakogenji.o.oo7.jp/sonota/dairizu.html

【1.紫宸殿(ししんでん)→宮中の行事を執り行う御殿。
「桐壺・第1帖」で第一皇子(弘徽殿の春宮)が御元服の儀を行った所。
「花宴・第8帖」で桜の宴が催された。
2.清涼殿(せいりょうでん)→帝の住まい。これより北側の建物を後宮と言い多くの女性が暮らしていた。
「桐壺・第1帖」で源氏の君の御元服の儀が行われた。
「紅葉賀・第7帖」舞楽の予行演奏がこの前庭で催され、源氏の君が清海波を舞われた。
3.後涼殿(こうりょうでん)→清涼殿の西隣で帝付きの女房の住まい。
「桐壺・第1帖」で淑景舎8に住む桐壺の更衣が女房達のイジメを受け、帝に最も近いこの御殿を賜ることになる。
4.弘徽殿(こきでん)→桐壺帝の第1皇子を産んだ女御の住まい。物語を通して、源氏の君と反目する立場にある。
「花宴・第8帖」源氏の君の須磨流離の原因となる朧月夜の姫君との出逢いの場となる。
5.飛香舎(ひぎょうしゃ)→藤壷と呼ばれる御殿。
「桐壺・第1帖」桐壺の更衣亡き後、中宮として迎えられた先帝の姫君の住まいで、源氏の君がこの継母を愛することから物語が展開される。
6.凝華舎 (ぎょうかしゃ)→梅壺と呼ばれる殿。
「賢木・第10帖」桐壺院亡き後、弘徽殿の大后が使われた部屋。当時弘徽殿には、朱雀帝の寵愛を受けていた朧月夜の姫君が住んでいた。
7.麗景殿(れいけいでん)→帝に仕えた女御の住まい。
「花散里・第11帖」の姫君(花散里)はここに住む女御の妹君に当たる。
8.淑景舎(しげいしゃ)→桐壺と呼ばれ、北側の一番遠い所にある。
「桐壺・第1帖」光源氏の母君は帝の寵愛を受けながら更衣という低い身分のためここにいた。
9.温明殿(うんめいでん)→帝に仕える女房の住まい。
「紅葉賀・第7帖」老女典侍と源氏の君とのお戯れの場。   】

左六上・若公家と上臈.jpg

「若公家と上臈の逢瀬」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第六扇上部)

《内裏の不思議な光景》《若い公家と上臈の逢瀬》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P151-153とP154)

「この内裏様には、これまで誰も着目してなかった、じつに不思議な光景が二か所にあることに気付く。一つは、清涼殿の左側(奥)に描かれている、この『若公家と上臈の逢瀬』である。このような男女の表現は、他の洛中洛外図屏風にはおそらくない。
 この図だけでは解釈が難しいが、次の「短冊を書いている五人の上臈たち」と合わせ考えれば、これは、「猪熊事件あるいは官女密通事件という一大不祥事」に関係しているように思えるのである。

左五上・五人の上臈.jpg

「短冊を書いている五人の上臈たち」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第五扇上部)

《内裏の不思議な光景》《短冊に恋の歌を書いている五人の上臈たち》》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P151-153)

「この屏風は、改装の際に各扇の上下左右を切り落とされている。その結果として、肝心の読解が困難になってしまった個所が多い。この図も上部が裁ち落とされて読解が困難なのだが、『短冊に恋の歌を書いている五人上臈たち』が描かれているように思える。
 この五人の上臈の数が、「猪熊事件」(官女密通事件)に関わった五人の官女の数と一致するのである。

《猪熊事件あるいは官女密通事件という一大不祥事》《事件の発端》《「かぶき者」の公家猪熊教利と兼屋頼継》《発覚》《処罰》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P154-158)

 「猪熊事件」(官女密通事件)については、豊富な資料に基づき、その詳細が記述されているが、これらのことについては、下記アドレスで紹介したものと大筋で一致するので、それらの一端について、下記に再掲をして置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-07-27

【  https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-23

《 猪熊事件(いのくまじけん)は、江戸時代初期の慶長14年(1609年)に起きた、複数の朝廷の高官が絡んだ醜聞事件。公家の乱脈ぶりが白日の下にさらされただけでなく、江戸幕府による宮廷制御の強化、後陽成天皇の退位のきっかけともなった。(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

公家衆への処分
慶長14年(1609年)9月23日(新暦10月20日)、駿府から戻った所司代・板倉勝重より、事件に関わった公卿8人、女官5人、地下1人に対して以下の処分案が発表された。

死罪    
左近衛少将 猪熊教利(二十六歳)
牙医 兼康備後(頼継)(二十四歳)

配流《年齢=発覚時=慶長十四年(一六〇九)時(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』》
左近衛権中将 大炊御門頼国《三十三歳》→ 硫黄島配流(→ 慶長18年(1613年)流刑地で死没)
左近衛少将 花山院忠長《二十二歳》→ 蝦夷松前配流(→ 寛永13年(1636年)勅免)
左近衛少将 飛鳥井雅賢《二十五歳》→ 隠岐配流(→ 寛永3年(1626年)流刑地で死没)
左近衛少将 難波宗勝《二十三歳》→ 伊豆配流(→ 慶長17年(1612年)勅免)
右近衛少将 中御門(松木)宗信《三十二歳》→ 硫黄島配流(→ 流刑地で死没)

配流(年齢=発覚時=慶長十四年(一六〇九)時=下記のアドレスの<女房一覧 桃山時代 106代正親町天皇―107代後陽成天皇>)
新大典侍 広橋局(広橋兼勝の娘)<二十歳?>→伊豆新島配流(→ 元和9年9月(1623年)勅免)
権典侍 中院局(中院通勝の娘)<十七歳?>→伊豆新島配流(→ 元和9年9月(1623年)勅免)
中内侍 水無瀬(水無瀬氏成の娘)<?>→ 伊豆新島配流(→元和9年9月(1623年)勅免)
菅内侍 唐橋局(唐橋在通の娘)<?>→ 伊豆新島配流(→元和9年9月(1623年)勅免)
命婦 讃岐(兼康頼継の妹)<?>→ 伊豆新島配流→ 元和9年9月(1623年)勅免)

恩免《年齢=発覚時=慶長十四年(一六〇九)時(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』》
参議 烏丸光広《三十一歳》
右近衛少将 徳大寺実久《二十七歳》    》

https://ameblo.jp/kochikameaikouka/entry-11269980485.html

《 ※広橋局と逢瀬を重ねていた公家は花山院忠長です。
※中院仲子については烏丸光広との密通を疑われた、と言われています。  》

https://toshihiroide.wordpress.com/2014/09/18/%E8%8A%B1%E5%B1%B1%E9%99%A2%E5%AE%B6%E3%81%AE%E4%BA%BA%E3%80%85%EF%BC%881%EF%BC%89/

《 権典侍中院局の兄で正二位内大臣まで上り詰めた中院通村(なかのいん・みちむら)が、後水尾帝の武家伝奏となって朝幕間の斡旋に慌ただしく往復していたころ、小田原の海を眺めつつ妹の身を案じて詠んだ歌がある。
  ひく人のあらでや終にあら磯の波に朽ちなん海女のすて舟
 一首は「私の瞼には、捨てられた海女を載せて波間を漂う孤舟が浮かぶ。いつの日か舟をひいて救ってくれる人が現れるであろうか。それとも荒磯に打ちあげられて朽ちてしまうのか。かわいそうに可憐な妹よ、私はいつもお前のことを憂いているのだよ」と。】

https://tracethehistory.web.fc2.com/nyoubou_itiran91utf.html

<女房一覧 桃山時代 106代正親町天皇―107代後陽成天皇>)   》  】

 すなわち、「短冊を書いている五人の上臈たち」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第五扇上部)の、その「五人の上臈たち」とは、次の五人の女臈を指している。

新大典侍 広橋局(広橋兼勝の娘)<二十歳?>
権典侍 中院局(中院通勝の娘)<十七歳?>
中内侍 水無瀬(水無瀬氏成の娘)<?>
菅内侍 唐橋局(唐橋在通の娘)<?>
命婦 讃岐(兼康頼継の妹)<?>

 そして、「若公家と上臈の逢瀬」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第六扇上部)に描かれている二人は、「左近衛少将 花山院忠長(二十二歳>と新大典侍 広橋局(広橋兼勝の娘)<二十歳?>)ということになる。
 さらに、この「新大典侍 広橋局」の父親の、当時、武家伝奏として朝廷と幕府の融和に努め、「出頭無双」といわれその権勢は大きかったが、幕府に譲歩も強いられ「奸佞の残賊」と罵られる存在でもあった「広橋兼勝」が、「二条城大手門を潜る一行」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第五扇下部)、また、その「猪熊事件」の裁定に大きく関わった、時の京都所司代の「板倉勝重」(伊賀守)が、「二条城内での裁判での九曜紋の板倉勝重」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第五扇下部)が描かれているとの見解が記述されている(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P171-178)。
 これは、次の「三藐院ファンタジー」で記述することにして、ここでは、「内裏」(御所=後水尾天皇)の近くの「院御所」(後陽成院)の図を掲載して置きたい。

左四上・院御所.jpg

「院御所(後陽成院)」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第四扇上部))

《院御所》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P160)

「名所は上部が切れていて、「□□所」とある。この建物は「女院御所」と「院御所」の二つの解釈があるが、簀の子縁では文書が作成されている最中である。これは院政の表現なのであろう。とすれば、この院御所にいるのは、譲位したばかりの後陽成上皇なのである。この点に着目すると、内裏は後水尾天皇のそれということになる。」

《内裏様のダブルイメージ》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P161)

「つまり、舟木屏風には二つの内裏が表現されている。後陽成天皇の内裏と、即位してまだ間もない後水尾天皇の内裏である。慶長十六年三月二十七日、後陽成天皇は退位し、同年四月十二日に後水尾天皇が即位した。その以前の後陽成天皇の内裏とそれ以後の後水尾天皇の内裏、そのいずれにも見えるように描かれている。このダブルイメージとして描いたのは、注文主の意向に基づく画家又兵衛と創作ということになる。」(要点、要約記述)

 このことを「猪熊事件」当時に当てはめてみると、「猪熊事件」が発覚したのは、慶長十四年(一六〇九)六月半ば頃で、後陽成天皇の時代であった。後陽成天皇は、自分に仕える官女たちと若公家衆による集団的な密通行為を知って、捜査権を有する幕府(京都所司代)に、厳罰(死罪)に処したい意向を伝えたが、事件を聞いた大御所・徳川家康の命を受け、京都所司代の板倉勝重およびその三男重昌が、この事件の裁定に関わり、すべて幕府主導のままにその結着を見ることになる。
 その結着は、国母(後陽成天皇の生母)新上東門院(勧修寺晴子)などの意向を汲んでの、後陽成天皇の意向は無視され、結果的に、死罪(二人)、配流(十名)、恩赦(二人)ということになった(個々の処分裁定は前述のとおり)。後陽成天皇は、この処分措置には大不満で、その後、周囲と孤立しまま、不本意な譲位を余儀なくされ、徳川家康が亡くなった翌年の元和三年(一六一七)に崩御した。
 すなわち、後陽成天皇は、幕府主導の後水尾天皇の譲位を強いられ、この「院御所」で、意のままに、後水尾天皇の背後で、後陽成上皇としての「院政」を行う状況下には置かれていなかった。
 「院御所(後陽成院)」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第四扇上部))の、「簀の子縁では文書が作成されている最中である。これは院政の表現なのであろう」というのは、後陽成天皇時代の、「慶長勅版」(大型木活字による勅版の開版)や「近臣を動員した収書・書写活動に専心し禁裏本歌書群の基礎を築いた」、その業績を、象徴的に見立てたもので、「院政の表現」の見立てではなかろう。
 そして、「見立て」(あるものを他になぞらえて創作すること)というは、その「なぞらえて創作したもの」が、その「本体が何か」ということを暗示するもので、「ダブルイメージ」というよりも、臨機応変に「多様なイメージ」を伝達するということが、その本意なのであろう。
 例えば、「若公家と上臈の逢瀬」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第六扇上部)の図は、「猪熊事件」の見立てというよりも、『源氏物語』の主人公「光源氏」と「実父の桐壺帝の後添えの藤壺中宮、亡き母の面影を宿している光源氏の初恋の女性」との「不義密通」の見立てで、その描かれている位置は、その「藤壺中宮」が住んでいる、清涼殿の後方(北側)の《5.飛香舎(ひぎょうしゃ)=藤壷と呼ばれる御殿=「桐壺・第1帖」桐壺の更衣亡き後、中宮として迎えられた先帝の姫君の住まいで、源氏の君がこの継母を愛することから物語が展開される》(先の「源氏物語に見る内裏の図」)の箇所辺りに、この「若公家と上臈の逢瀬」が描かれている。
 また、「紫宸殿南庭の舞台の舞樂(青海波)」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第五扇上部)の図も、これも、「源氏物語」の「紅葉賀・第7帖」での、「光源氏が、その藤壺の御前で青海波を舞う」、それをイメージしての見立てと解することも出来よう。

岩佐勝友・青海波.jpg

「紅葉賀」(岩佐勝友筆「源氏物語屏風・六曲一双・紙本金地著色・各155.2×364.0・出光美術館蔵」の「紅葉賀・右隻第二扇」)

 この『源氏物語・第七帖』の「紅葉賀」の「青海波」の図は、「又兵衛工房と岩佐派のゆくえ(戸田浩之稿)」(『岩佐又兵衛―血と笑いとエロスの絵師(辻惟雄・山下裕二著・とんぼの本)』)所載のものであるが、これに続く「花の宴・第八帖」は次のものである。

岩佐勝友・花の宴.jpg

「花の宴」(岩佐勝友筆「源氏物語屏風・六曲一双・紙本金地著色・各155.2×364.0・出光美術館蔵」の「花の宴・右隻第二扇」)

 これを描いた「岩佐勝友」(屏風縁裏に「勝友書之」の署名あり)は、岩佐又兵衛の弟子で、「又兵衛工房」の一人なのだが、詳細は不明である。又兵衛の「又兵衛工房」を継いだのは、又兵衛の福井移住後の、長男・勝重(?~一六七三)、そして、その子の陽雲(?~一七〇八)だが、それらの「又兵衛工房」の実態は謎のままである。
 そして、又兵衛の弟子の、この岩佐勝友筆の「花の宴」は、「若公家と上臈の逢瀬」(「洛中洛外図屏風・舟木本」左隻第六扇上部)のイメージと重なってくる。このイメージは「光源氏と朧月夜の君との逢瀬」の見立てということになる。
 この「洛中洛外図屏風・舟木本」(六曲一双)のような屏風絵(画)の展開は、「俳諧」(俳諧の連歌)の、三十六場面(句)からなる「歌仙(三十六句形式の俳諧=連句)」の構造と極めて類似している。
 すなわち、六曲一双屏風の「右隻」(第一扇~第六扇を各三区分=上・中・下して「十八場面」)、「左隻(「右隻と同じ構造で「十八場面」)の「三十六場面」で、その「三十六場面」が、「一場面一場面の独自の面白さ(創作)」があり、「他の場面と連動しての面白さ(創作)」があり、その連動の仕方に、「物付け・心付け・余情付け」などの配慮がなされる。さらに、「一巻(全体)として、舞楽の拍子の『序・破・急』の展開の面白さ(創作)」が、その創作(作る=場面を作る・味わう=場面を味わう)に加わった人に、「盤上転珠(ばんじょうてんじゅ)=盤の上を珠が転がる」の「心地よさ」にさせる」というのが基本になる。
 そして、この俳諧の「他の場面と連動しての面白さ(創作)」では、その連動しようとする場面(前の場面)を自分なりに「見立てて」(他人の作ったものを、自分なりに解釈して連動させる)創作(作句)することになる。
 具体的には、「紫宸殿南庭の舞台の舞樂(青海波)」の図に連動して、「若公家と上臈の逢瀬」の図は、「花の宴」(「光源氏と朧月夜の君との逢瀬」)のようにも思えるが、それを、当時の「猪熊事件」の「若公家と上臈の逢瀬」と「見立て替え」して、次のステップの図を創作するということになる。
 この次のステップ以降の展開を、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』をベースにして見ていくことにする。
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yahantei

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=3878

「源氏物語と「椎本」(しいがもと)((川村清夫稿)

【 京の都の権力闘争を嫌って宇治に隠棲した八の宮は、余命が長くないことを悟り、薫に大君と中君の後見人となってくれるよう頼んだ。同時に八の宮は大君と中君に、生涯宇治を離れず、俗世間に恥をさらすことがないよう遺言を残し、宇治の山寺で亡くなった。薫は悲しみに沈んでいる大君に、京の自邸(三条院)に迎えたいとプロポーズをするが、あっさり断られてしまうのである。

 それでは八の宮の遺言と、大君が薫のプロポーズを断る場面を、大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
「おぼろけのよすがならで、人の言にうちなびき、この山里をあくがれたまふな。ただ、かう人に違ひたる契り異なる身と思しなして、ここに世を尽くしてむと思ひとりたまへ。ひたぶるに思ひなせば、ことにあらず過ぎぬる年月なりけり」

(渋谷現代語訳)
「しっかりと頼りになる人以外には、相手の言葉に従って、この山里を離れなさるな。ただ、このように世間の人と違った運命の身とお思いになって、ここで一生を終わるのだとお悟りなさい。一途にその気になれば、何事もなく過ぎてしまう歳月なのである」

(ウェイリー英訳)
“Above all, on no account let yourselves be persuaded to stray a single step from your present home, unless in exchange for it you are offered some position of the most definite and absolute security. It may be that, if the worst comes to the worst, you will have to end your days here where they began. In that case, be patient, bear with the hours as they come, and you will find that even in idleness and solitude times passes far more quickly than you would ever have supposed. “

(サイデンステッカー英訳)
“Men who are not worthy of you will try to lure you out of these mountains, but you are not to yield to their blandishments. Resign yourselves to the fact that it was not meant to be – that you are different from other people and were meant to be alone – and live out your lives here at Uji. Once you have made up your mind to it, the years will go smoothly by. “

 ウェイリー訳よりサイデンステッカー訳の方が正確である。ただし「おぼろげのよすがならで」の解釈は、渋谷、ウェイリー、サイデンステッカーはそれぞれ違っている。

(大島本原文)
「雪深き山のかけはし君ならで
またふみかよふ跡を見ぬかな」

と書きて、さし出でたまへれば、
「御ものあらがひこそ、なかなか心おかれはべりぬべけれ」とて、

「つららとぢ駒ふみしだく山川を
しるべしがてらまづや渡らむ
さらばしも、影さへ見ゆるしるしも、浅うははべらじ」

と聞こえたまへば、思はずに、ものしうなりて、ことにいらへたまはず。

(渋谷現代語訳)
「雪の深い山の懸け橋は、あなた以外に
誰も踏み分けて訪れる人はございません」

と書いて、差し出しなさると、
「お言い訳をなさるので、かえって疑いの気持ちが起こります」と言って、

「氷に閉ざされて馬が踏み砕いて歩む山川を
宮の案内がてら、まずはわたしが渡りましょう
そうなったら、わたしが訪ねた効も、あるというものでしょう」

と申し上げなさると、意外な懸想に、嫌な気がして、特にお答えなさらない。

(ウェイリー英訳)
On a piece of paper however she wrote the poem: “Look on the snow-clad hills and you will find no track that leads to other gate save yours,” and handed it out to him from behind her screen.
“That is a poor excuse,” he said, “Indeed, your treatment of Niou is a sign of unfriendliness to me rather than the reverse. “Over the ice-bound river that splinters under my horse’s hoofs how dare I send others, till I myself have crossed?” That much encouragement I can at least lay claim to, if I am to throw myself with full energy into my task.”
She had not expected this sort of thing from him, nor was it at all to her taste, and she did not reply.

(サイデンステッカー英訳)
Presently she pushed a verse from under her curtains:

“Along the cliffs of these mountains, locked in snow,
Are the tracks of only one. That one is you.”

“A sort of sophistry that does not greatly improve things.

“My pony breaks the ice of the mountain river
As I lead the way with things from him who follows.
‘No such shallowness, ‘ is it not apparent?”

More and more uncomfortable, she did not answer.

 ウェイリー訳は、大君と匂宮の関係について説明的に加筆しているが、原文の雰囲気に忠実に翻訳している。サイデンステッカー訳は、簡潔だがそっけない翻訳で、原文の雰囲気が伝わってこない。「さらばしも、影さへ見ゆるしるしも、浅うははべらじ」と「思はずに、ものしうなりて、ことにいらへたまはず」の翻訳で、両者の原文に対する思い入れの格差が顕著に見える。

薫の下手な求愛を拒んだ大君は次の「総角」の帖で、この世を去ってしまうのである。  】
by yahantei (2021-08-06 21:27) 

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