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「洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その三) [岩佐又兵衛]

(その三) 「舟木本)」の「祇園会で神輿の前座の母衣武者は何を意味するのか?」

三人の母衣武者.jpg

「傘鉾・三人の母衣武者」(左隻第二扇上部) → A図

 祇園会の「神輿」集団の前に、この「傘鉾・三人の母衣武者」集団が描かれている。この先頭集団は、拡大すると次の図のとおりである。

三人の母衣武者の先頭集団.jpg

「傘鉾・三人の母衣武者」の先頭集団(左隻第二扇上部)→ B図

 「三条通り」から「寺町通り」を下って、横の「四条通り」を練り歩いている、この中央の「大きな朱傘」が、「傘(笠)鉾」である。
『洛中洛外図舟木本―町のにぎわいが聞こえる(奥平俊六著)』では、この場面を次のように解説している。

【 四条通りを行く傘鉾、大きな朱傘を押し立てて、鬼面の者が団扇を振り仰ぎ、赤熊(赤毛のかぶり物)の者が笛や太鼓で囃す。先頭で踊るのは棒振り。みな異形の出で立ち、激しく踊り、囃す。見物も興味津々と見ている。『御霊会細記』によるとスサオノミコトが巨旦(こたん)を退治したときに、鬼たちが北天竺まで送っていった姿という。鉾というと巨大な山鉾を思い浮かべるが、この傘ひとつが鉾である。もともと祭礼の作り物や出で立ちは、過差風流(かさふうりゅう)、すなわち、日常とかけ離れたほどに工夫し、飾り立てる趣向を競うものであった。この傘鉾には風流の伝統が横溢している。長く途絶えていたが近年復活した。ところで、祇園祭礼の山鉾巡行は、洛中洛外図の主要モティ-フであり、室町期の作例にも江戸期の作例にも必ず描かれるが、本図にはこの傘鉾以外描かれない。これはどうしてだろうか。洛中をクロ-ズアップした本図に大きな山鉾を描き込むと周りの人々も含めて尺度感が微妙にずれる。その代わりに傘鉾を描き、母衣武者をやや誇張気味に大きく描いている。画家の構図や尺度感に対する慎重な配慮に感嘆せざるを得ない。 】(『洛中洛外図舟木本―町のにぎわいが聞こえる(奥平俊六著)』所収「祭りは異形の風流にみちている」)

山鉾(住吉具慶).jpg

「祇園会の山鉾巡行(「寺町通り」と「四条通り」の交差点)」(「洛中洛外図」(歴博F本・右隻・拡大図)→C図
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakuchu_f_ex/r

 この「洛中洛外図」(歴博F本)」に関しては、次のアドレスで紹介されている。

https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/rekihaku/164/witness.html

【 「職人風俗絵巻」と「洛中洛外図屏風歴博F本」

●職人風俗絵巻 → (略)
●職人の種類  → (略) 
●路上の人物  → (略)
●洛中洛外図屏風「歴博F本」→ (略)
●住吉具慶との関係 
それがどんな工房だったかについては、実は「自己申告」がなされていて、歴博F本には、「法眼具慶筆」という落款がある。落款は後世に書き込まれることもあるが、F本とよく似た別の屏風にも、やはり「法眼具慶筆」の落款があるので、制作当初から書かれていたと見られる。
 「法眼具慶」は、住吉具慶(すみよしぐけい)(一六三一~一七〇五)のことで、江戸幕府の奥絵師となり、大和絵の一派をなした画家だが、本人の筆としてはいかにも下手だし、落款もやや異なるようだ。しかし、「職人風俗絵巻」は、住吉具慶の代表作として知られる「洛中洛外図巻」(東京国立博物館蔵)や「都鄙図巻(とひずかん)」(興福院(こんぶいん)<奈良市>蔵)と似た構成を取っているとも言えるし、歴博F本も、画面は基本的に横方向の金雲で区切られ、つまり絵巻を縦に並べたような画面になっている。住吉具慶と何らかの関係があるか影響を受けた工房で、具慶をブランドとして用いていたのかもしれない。
●シェアと購買層
いずれにしても、現存の洛中洛外図屏風で言えば、この工房が最も「シェア」が高く、この種の都市風俗図をかなり量産していたことは間違いない。ということは、一方に安定した需要があったはずだが、いったいどのような人々がそれを購入していたのだろうか。この「職人風俗絵巻」も、実物はかなり美麗で、けっして安価なものだったとは思われない。上級の武家や公家・寺社、有力町人などが、その享受者だったと一応想定できよう。「職人風俗屏風」は、書き込まれた文字がほとんど平仮名なので、女性向きに作られたものと思われる。洛中洛外図屏風は嫁入り道具として好まれたことが知られており、これもそうだったのかもしれない。 】

この「洛中洛外図」(歴博F本)」は、「嫁入り道具として好まれた」、謂わば、誰にでも分かりやすい、「洛中洛外図」の「住吉具慶ブランド」の屏風物として、恰好のものである。そして、下京の代表的な風物詩として、この「山鉾巡行」は、主要なテ-マで、その屏風の主要な部分を占めてしまうことになる。
「舟木本」では、大胆に、この「山鉾巡行」を、何と、「一つの傘鉾と三人の母衣武者」で見立て替えして、しかも、今から、下京入りする「神輿」の、その前座の場面として描くという、これは、確かに、「奇想派の元祖」の「岩佐又兵衛」の面目躍如たるものがある。
 それにしても、この三人の母衣武者の「母衣」(鎧の背にかけて流れ矢を防ぎ,あるいは装飾にした袋状の布)の、周囲の建物の以上の大きさで、何とも目を惹くように描かれていることか。この「三人の母衣武者」を描くのに参考にしたような「二条城の前を行く母衣武者」の図がある。

二条城の前を行く母衣武者.jpg

「二条城の前を行く母衣武者」(「洛中洛外図(歴博D本)」左隻第二・三扇・中部)→D図
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakuchu_d/rakuchu_d_l.html

 この「洛中洛外図(歴博D本)」は、「大仏の前での乱闘場面や六条三筋町の遊郭が描かれている」など「舟木本」との共通点が多く、恐らく、「舟木本」と同時代の、そして、「舟木本」の先行的な作品で、「舟木本」は、ここから多くの示唆を受けているというような雰囲気なのである。

歴博D本の山鉾巡行.jpg

「三条橋・四条橋・五条橋と山鉾巡行」(「洛中洛外図(歴博D本)」右隻第二・三・四扇・中部)→E図)
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakuchu_d/rakuchu_d_r.html

 これは、「洛中洛外図(歴博D本)」の、「三条橋・四条橋・五条橋と山鉾巡行」の図である。上記の鴨川に架かる橋、右から「五条(大)橋・四条橋・三条(大)橋」と、下京の中心街を行く「山鉾巡行」の図である。
 この「E図」は、上記の「C図」(「祇園会の山鉾巡行(「寺町通り」と「四条通り」の交差点)」(「洛中洛外図」(歴博F本・右隻・拡大図))と、ほぼ、同じ方向の場面(その大小の差はあれ)と解して差し支えなかろう。 
 「舟木本」の「右隻」では、これらの「山鉾巡行」は全てカットして、その代わりに、
「洛中洛外図(歴博D本)」の「二条城の前を行く母衣武者」(D図)を換骨奪胎して、「傘鉾・三人の母衣武者」(A図)を仕上げたのではないかという印象を深くする。
 さらに、細かく指摘すると、「二条城の前を行く母衣武者」(D図)の、その「二条城の前で母衣武者一行を見守っている二条城の武将たち」の三人の武将(五人のうちの三人)、この冒頭の「傘鉾・三人の母衣武者」(A図)の、その「三人の母衣武者」のモデルなのではないかという見方である。

二条城前の徳川五人衆.jpg

「二条城の前を行く母衣武者を見守っている五人の武将」(「洛中洛外図(歴博D本)」左隻第二・三扇・中部)→E図
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakuchu_d/rakuchu_d_l.html

 この二条城の前で、座って、祇園祭礼の仮装した「母衣武者行列」一行を見守っている、
Bの五人の武将たちの、左端の「馬藺(ばりん)」の「光背(こうはい)指物」を背にしている武将は、二条城の総大将の「徳川家康」の見立てということになる。
 そして、次の「軍配」を持っている武者は、家康の跡を継いで二代目将軍となる「徳川秀忠」ということになる。 

馬藺指物の母衣武者.jpg

「傘鉾・三人の母衣武者の先頭の武者」(左隻第二扇上部) → A-1図

この巨大な「指物」(鎧の受筒に立てたり部下に持たせたりした小旗や飾りの作り物。旗指物。背旗)の「馬藺」(あやめの一種である馬藺の葉をかたどった檜製の薄板を放射状に挿している飾り物)の母衣武者(A-1図)は、「二条城の前を行く母衣武者を見守っている五人の武将」(E図)の「馬藺」の指物を背にした総大将「徳川家康」の見立てと解すると、「徳川家康」という見立ても許されるであろう。

軍配指物の母衣武者.jpg
「傘鉾・三人の母衣武者の二番目の武者」(左隻第二扇上部) → A-2図

 同様に、この「軍配」(武将が自軍を指揮するのに用いた指揮用具。軍配団扇 の略。)の指物を背にした母衣武者(A-2図)は、「二条城の前を行く母衣武者を見守っている五人の武将」(E図)の」軍配」を手にしている武将が「徳川秀忠」の見立てとすると、これまた、「徳川家忠」と見立てることは、決して、無理筋ではなかろう。

羽指物の母衣武者.jpg
「傘鉾・三人の母衣武者の三番目の武者」(左隻第二扇上部) → A-3図

 問題は、この三番目の母衣武者なのである。この背にある指物は、「二条城の前を行く母衣武者を見守っている五人の武将」(E図)には出て来ない。そこ(E図)での三番目の武者は、この羽色をした母衣を背にした武将で、その武将は、この(A-3図)のような、甲冑の「胴」に「日の丸」印のものは着用していない。
 そして、この「日の丸」印は、上記の「A-1図」では、「徳川家康」と見立てた母衣武者の左脇に、「日の丸」印の「陣笠」(戦陣所用の笠の称)に、「金色」のものが記されている。
 その「A-2図」では、「徳川秀忠」と見立てた母衣武者の右側で、今度は「団扇」に「日の丸」印が入っている。
 さらに、「B図」を仔細に見て行くと、「A-1図」の「徳川家康」と「A-2図」では、「徳川秀忠」周囲の「陣笠」は、「赤い日の丸」印と、「金色の日の丸」印とが、仲良く混在しているのに比して、この「A-3図」の母衣武者周囲の「陣笠」には、次の図(「A-4図」)のように、「無印」か「日の丸印」ではないもので、さらに、その左端の上部の男性の手には、「日の丸印」の「扇子」が描かれている。

日の丸胴母衣武者周囲.jpg
「三番目の母衣武者周辺」(左隻第二扇上部) → A-4図

 この「A-4図」の母衣武者(「A-3図」)集団と、「A-1図」(「徳川家康」の見立て)と「A-2図」(「徳川秀忠」の見立て)集団とは、別集団という雰囲気なのである。
 そして、この「A-3・4図」の母衣武者の甲冑の胴の「日の丸」と、「A-4図」の左端上部の「祭礼関係者?」の持つ扇子の「日の丸」は、「徳川幕府の天下統一」の「江戸幕府の公用旗」(「ウィキペディア」)に類するもののような印象なのである。
 その上で、この「A-3・4図」の母衣武者は、例えば、「徳川四天王」(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政)の家臣団ではなく、「徳川親藩大名」(「徳川家康の男系男子の子孫が始祖となっている藩」)の、下記の藩主の一人という雰囲気を有している。

尾張徳川家(尾張藩)
紀州徳川家(和歌山藩)
水戸徳川家(水戸藩)
越前松平家(福井藩|松江藩|津山藩|明石藩|前橋藩 → 川越藩 → 前橋藩)
会津松平家(会津若松藩)
越智松平家(館林藩 → 棚倉藩 → 館林藩 → 浜田藩)

 このうちで、この岩佐又兵衛の「洛中洛外図屏風・舟木本」が作成された、「大阪冬の陣」(慶長十九年=一六一四)・「大阪夏の陣」(元和元年=一六一五)に、「徳川家康・同秀忠」と共に参戦した藩主は、十三歳にして越前六十七万石を継承した、越前福井藩主・松平忠直
が挙げられるであろう。
 その「大阪の陣の殊勲」関連について、『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』から要約して抜粋して置こう。

【 慶長十九年十月に大阪冬の陣が起こった。十月四日に出陣の命令があり、同十六日、忠直は、越前からの軍勢と近江坂本と合流した。十一月十五日、徳川軍は大阪へ向かい、越前勢は前田・井伊・藤堂軍と共に大阪城の東南方に陣した。大阪城の東南部端には出城(真田丸)が築かれ、真田信繁が守っていた。(略)十二月四日、真田丸の挑発で前田軍が攻めかかったが、真田丸の猛烈な発砲によって死傷者が続出し、その援軍の井伊勢と越前勢は、先を争って進撃するが、こちらも真田丸や総構(そうがまえ)からの射撃で多数の戦死者を出し、忠直にとっては惨めな結果であった。
翌二十年(元和元)年四月に再び緊張が高まり、五月三日には徳川方が大阪城を包囲した。夏の陣である。そして五月七日の城攻めにおいて、天王寺表の先鋒を命じられた越前軍は「掛レカヽレノ越前衆、タンダ掛レノ越前衆、命シラズノ爪クロノ旗」と当時流行の小唄に謡われたような勇猛果敢さを発揮して一番乗りし、真田信繁を含む三千七百五十の首をとるなどの大殊勲をあげたのであった。
(当時、血気盛んな二十歳代の青年大名・松平忠直の英姿である。) 】(『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』p124-127)

ここで紹介されている小唄の「爪クロノ旗」は、「真田勢=赤甲冑・赤旗」に対する「越前勢=黒甲冑・黒旗」のイメージだが、それは、丁度、「A-4図」の「三番目の母衣武者周辺」の、この「黒い陣笠」の集団が、「大阪夏の陣」の「命シラズノ爪クロノ旗」集団を見立てているものと理解をしたい(下記の「参考」を参照)。
 そして、その理解の上に、もう一つ、次の「飛躍した理解」を積み重ねたい。

「三人の母衣武者の三番目の武者」(A-3図・A-4図)の、この「母衣武者」は、「大阪冬の陣・夏の陣」の頃の、「徳川家康」(一番手の母衣武者=大御所・家康)と「徳川秀忠」(二番手の母衣武者=徳川二代目将軍・秀忠)に続く、三番手の徳川親藩・越前福井藩主「松平忠直」(「徳川家康」の孫、「秀忠」の「兄・結城秀康の嫡子、娘・勝姫の婿)の「見立て」(あるものを他になぞらえてイメージすること)と解したい。

 さらに、もう一つ、その「砂上の楼閣」を重ねるように、この「越前松平家の当主・松平忠直こそ、岩佐又兵衛の、この『洛中洛外図屏風・舟木本』の、その背後に蠢いている中核に居座る「注文主」のその人である」ということを、様々な、この『洛中洛外図屏風・舟木本』の「見立て」の「謎解き」をして、その実像に迫りたいということなのである。

 ここでは、その「謎解き」の、そのスタートに相応しいものを記して置きたい。

【 忠直は、元和元年前後には岩佐又兵衛とその作品を知っており、翌二年に越前に呼び寄せた。そして、又兵衛を中心とした画工集団に、自分の選んだ『堀江物語』以下の物語を次々に絵巻に作らせたのであった。したがって、「又兵衛風絵巻群」の絵巻としての諸特徴には、忠直の好みがよく現れており、忠直が進んで絵巻化した五つの物語には、彼の倫理や願望が色濃く映しだされている。「又兵衛風絵巻群」は、越前藩主松平忠直の斑紋と彼の趣味が生み出した稀有の作品群であり、「忠直絵巻群」だったのだ。】(『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』p242-243)

ここに、簡略な「松平忠直のプロフィール」も併記して置きたい。

【 松平忠直(まつだいらただなお) (1595―1650)
江戸前期の大名。2代将軍徳川秀忠(ひでただ)の兄結城秀康(ゆうきひでやす)の長男。母は中川一茂(かずしげ)の娘。1607年(慶長12)父秀康の領地越前(えちぜん)国福井城(67万石といわれる)を相続し、11年将軍秀忠の三女を娶(めと)る。
15年(元和1)の大坂夏の陣では真田幸村(さなだゆきむら)らを討ち取り大功をたてた。その結果同年参議従三位(じゅさんみ)に進むが領地の加増はなく、恩賞の少なさに不満を抱き、その後酒色にふけり、領内で残忍な行為があるとの評判がたった。
また江戸へ参勤する途中、無断で国へ帰ったりして江戸へ出府しないことが数年続いたりしたので、藩政の乱れを理由に23年豊後萩原(ぶんごはぎわら)(大分市)に流され、幕府の豊後目付(めつけ)の監視下に置かれた(越前騒動)。
豊後では5000石を生活のために支給され、当地で死んだ。いわば将軍秀忠の兄の子という優越した家の抑圧の結果とみられる。なお処罰前の乱行について菊池寛が小説『忠直卿(きょう)行状記』を著したので有名となるが、かならずしも史実ではない。[上野秀治]
『金井圓著「松平忠直」(『大名列伝 3』所収・1967・人物往来社)』 】(出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ))

(参考)「松平忠直」周辺

https://www.saizou.net/rekisi/tadanao3.htm

「忠直をめぐる動き」

1595(文禄4)
 結城秀康の長男、長吉丸(忠直)誕生
1601(慶長6)
 秀康、越前入国。北庄城の改築始まる
1607 秀康、北庄で死去
忠直、越前国を相続
1611 勝姫と婚姻
1612 家臣間の争論、久世騒動起きる
1615(元和元)
 大坂夏の陣で戦功、徳川家康から初花の茶入れたまわる。
 長男仙千代(光長)北庄に誕生
1616 家康、駿府で死去
1618 鯖江・鳥羽野開発を命じる
1621 参勤のため北庄を出発も、今庄で病気となり北庄に帰る。
仙千代、忠直の名代として江戸へ
1622 参勤のため北庄たつも関ケ原で病気再発、北庄に帰る。
永見右衛門を成敗
1623 母清涼院通し豊後国へ隠居の上命受ける。3月北庄を出発、
5月豊後萩原に到着
1624(寛永元)
 仙千代、越後高田に転封。弟忠昌が高田より越前家相続。
 北庄を福井と改める
1626 忠直、豊後萩原から同国津守に移る
1650(慶安3)
 9月10日、津守で死去。56歳。10月10日、浄土寺で葬儀

https://www.saizou.net/rekisi/tadanao7.htm

「大阪夏の陣の松平忠直」

夏の陣の松平忠直.jpg

「大阪夏の陣の松平忠直」(「大坂夏の陣図屏風(大阪城天守閣蔵)」右隻・部分拡大図)→F-1図

 この図は、上記の「本田忠朝」(「本田忠勝」の次男)は、この大阪夏の陣で戦死を遂げる。
その下が「松平忠直」の「越前勢」で、「赤備え」の「真田勢」との合戦の場面である。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/18/The_Siege_of_Osaka_Castle.jpg

夏の陣松平忠直・爪黒の旗.jpg

「大阪夏の陣の松平忠直」(「大坂夏の陣図屏風(大阪城天守閣蔵)」右隻・部分拡大図)→F-2図

この図(F-2図)は、F-1図の拡大したもので、この中央に黒馬に跨っている若き武将が、「越前勢」の総大将「松平忠直」の英姿であろう。その上に林立する「吹流し」が、小唄に謡われた「掛レカヽレノ越前衆、タンダ掛レノ越前衆、命シラズノ爪クロノ旗」の「爪クロノ旗」なのかも知れない。

https://www.saizou.net/rekisi/tadanao8.htm

「恩賞にもらった初花の茶入れ」

https://www.saizou.net/rekisi/hideyasu.htm

「結城秀康は松平本家を継いだ?」

https://www.saizou.net/rekisi/etizen/matudaira.htm

「将軍は本家、越前は嫡家」

https://www.saizou.net/rekisi/tadanao1.htm

「松平忠直の謎」
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yahantei

 画像が違ったものが入っており、それらを正しいものに入れ替えた。この種のミスが多いが、正しいものに入れ替える作業はなかなか大変で、そのままで、とにもかくにも、先に進むことにした。

https://www.saizou.net/rekisi/hideyasu.htm



この一連のものは、「松平忠直」情報としては、恰好のものである。



〇結城秀康は松平本家を継いだ?

〇松平系譜では秀忠より上

江戸時代、松平を名乗った大名は多数いたが、家康の血を引く子孫は秀康の系統以外は、三代将軍家光の異母弟保科正之の系統、六代将軍家宣の弟らの系譜があるだけ。ほとんどが秀康の系統で親藩の松平は占められている。また家康の11人の男子のうち後にまで子孫を残すのは秀康、秀忠、義直(尾張家)、頼宣(紀伊家)、頼房(水戸家)の5人だけでこの中で松平を名乗ったのは秀康だけだった。

〇秀康の子100万石を超える

秀康の四人の男子のうち長男の忠直は越前藩を継ぐ。さらに忠直が大坂夏の陣で手柄を立てた後、二男の忠昌は直江津藩、三男の直正が松江藩、五男の直基が姫路藩、六男の直良の系統は明石藩となる。忠直自身は恩賞に不満があったと言われるが、秀康の系統は次々と大名家を起こし、「越前藩の繁栄」をうらやむ声が他の大名から出ていた。一時は秀康の子だけで百万石を軽く超えていた。
 忠直が乱行によって流された後も、越前は弟の忠昌が入り、忠直の子光長が直江津に入る。さらに直江津藩がお家騒動で取りつぶされた後も、秀康の嫡流である光長の後継は岡山の津山藩に入る。

〇福井城は慶長の大普請

〇御三家は秀康の死後に誕生


 徳川15代を支える一端となる御三家の最初である水戸藩ができるのは1609(慶長14)年、三番目の紀伊藩ができて御三家制度が確立するのは1619年。秀康が亡くなってから2年後、12年後の出来事だった。もし秀康が長生きしていた御三家はなかったかもしれないし、徳川の系譜も変わっていたかもしれない。今松平という名は、徳川家に対する家臣という見方をされがちだが、秀康が松平を継いだときにはもっと重い響きがあったのではなかろうか。
 そしてこの秀康に対する優遇が、子の忠直が一大名として生きていくには邪魔になったのかもしれない。 
by yahantei (2021-08-25 09:31) 

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