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「洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その四) [岩佐又兵衛]

(その四) 御所に入る「牛車」には誰が乗っているのか?

家康が乗っている牛車.jpg

「牛車の参内行列(家康・義直・頼宣)」(左隻第四扇上部) → A図
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=044&langId=ja&webView=null

 この上図について、下記のアドレスで、次のように紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-16

【 この牛車には「三つ葉葵と桐紋」があり、「大御所家康か秀忠」が乗っているようだが、
その後ろに、二挺の「手輿(たごし)」が並んでおり、脇には被衣の二人の女と、赤傘をさしかけている侍女が描かれている。この「手輿」には、家康の幼い子息が乗っているようである。
 家康は、慶長十一年(一六〇六)八月十一日に、五郎太丸(七歳、後の尾張の徳川義直)と長福丸(五歳、後の紀伊の徳川義宣)を元服させて、その二人を伴って叙任の参内をしている。この参内行列は、その時のものであろうと、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』では推測をしている。 】

 これが、『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』では、この時の、家康の参内には、「祖父家康に連れられて参内した忠直」と、松平忠直も、一緒に参内していると、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』の記述を一歩進めている。

【 慶長十六年(一六一一)は、十七歳になった忠直にとって重大な出来事が次々に起こった。越前藩主としての忠直にとって大きな節目となった年である。第一に京都で叙位・任官があり、忠直は祖父家康に連れられて参内した。
 慶長十六年三月六日に駿府を出発した大御所家康は、同月十七日に京着して二条城に入った。同月二十日には、家康の子義利(義直)・頼将(頼宣)が右近衛権中将・参議に、鶴松(頼房)が従四位下右近衛少将に、そして、孫の松平忠直が従四位上左近衛少将に叙任された。その御礼のために、同月二十三日、家康は子の義利・頼将と孫の松平忠直を従えて参内したのである。
 のちに御三家となる徳川義利(尾張徳川家)と同頼将(紀伊徳川家)と共に参内した忠直は、天下人家康の孫として振る舞ったのである。忠直の人生にとって最初で最後の晴れやかな出来事であった。家康の孫、秀康の子であることを強烈に意識したことであろう。清和源氏新田氏の門葉(子孫)であることを自覚した機会でもあったに違いない。 】(『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』P116-117)

参内する松平忠直.jpg

「家康と共に参内する松平忠直」(左隻第四扇上部) → B図

この図(B図)は、「(A図)」の上部に描かれているものである。この「(B図)」の、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』の記述は、次のものである。

【 これで行列は終わらない(註・「(A図)」の行列)。金雲の上には、二騎の騎馬を中心にして、二十人近い白丁(註・下級武士)が駆け出している。かれらは、おそらく牛車の後に付き従っている白丁なのだ。 】

 ここで、「(A図)」(「徳川家康・義直・頼宣」麾下の「白丁」の「静」なるに対し、この騎馬の若武者の「白丁」は、前回の「(A-4)図」(「三番目の母衣武者周辺」)の「取り巻き」と同じように「動」なる姿態で、そして、その太鼓の上部の「日の丸」の扇子を持った男性と同じように、この「(B図)」でも「扇子」を持った、「白丁」よりも身分の高いような男性が描かれている。
 これらのことからして、その「(A-4)図」(「三番目の母衣武者周辺」)の「母衣武者」を「松平忠直」と見立てたことと同じように、この騎馬の貴公子は、「松平忠直」その人と見立てることは、極めて自然であろう。

日の丸胴母衣武者周囲.jpg

「三番目の母衣武者周辺」(左隻第二扇上部) → A-4図

 ここまでのことを整理すると、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』では、慶長十六年(一六一一)八月(これは三月が正しいか?)に、徳川家康は、「五郎太丸(七歳、後の尾張の徳川義直)と長福丸(五歳、後の紀伊の徳川義宣)」を元服させて、その二人を伴って叙任の参内をしている。」
 この時に、「(A図)」(「牛車の参内行列(家康・義直・頼宣)」)の「牛車」に「徳川家康」、そして、二挺の「手輿(たごし)」に、「五郎太丸(七歳、後の尾張の徳川義直)と長福丸(五歳、後の紀伊の徳川義宣)」が乗っている。
 さらに、『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』において、この参内の時には、十七歳の「松平忠直」(越前藩主)も、「祖父家康に連れられて
参内」しており、これは、「忠直の人生にとって最初で最後の晴れやかな出来事であった。家康の孫、秀康の子であることを強烈に意識したことであろう。清和源氏新田氏の門葉(子孫)であることを自覚した機会でもあったに違いない」ということになる(この書では、上記の抜粋の通り、慶長十六年(一六一一)三月になっており、それは、『大日本史料』第十二巻之七の記述が「三月」で、前書の「八月」は『大日本史料』第十二巻之四に因っており、その違いのようである)。
 そして、この時には、「(B図)」(「家康と共に参内する松平忠直」))の通り、松平忠直は「従四位上左近衛少将」の騎馬の英姿で描かれているということになる。
 
 これが、岩佐又兵衛が、越前藩主・松平忠直の招聘により、越前北ノ庄の真言寺院、興宗寺(本願寺派)の僧「心願」を介して、それまで住み慣れた京から越前へと移住し、その松平忠直から依頼された、所謂、「又兵衛絵巻群」の、その絵巻の中で、次のように変貌して結実してくることになる。

山中常盤物語絵巻.jpg

「山中常盤(山中常盤物語絵巻)」(重要文化財 全十二巻 各34.1×1239.0~1263.0 MOA美術館蔵 )の「山中常盤物語絵巻・第11巻(佐藤の館に戻った牛若は、三年三月の後、十万余騎をひきいて都へ上がる)」→ C図

http://www.moaart.or.jp/?event=matabe-2019-0831-0924

「山中常盤(山中常盤物語絵巻)」関連については、上記のアドレスで、その全貌を知ることが出来る。
 ここでは、この「義経(牛若)」の「従者」の恰好が、「(A-4)図」(「三番目の母衣武者周辺」)の、左端上方に描かれている」日の丸の扇子を持った男」に瓜二つのように似ているのである。同様に、「(B図)」「家康と共に参内する松平忠直」の左の「扇子を持った男」と、その仕草・恰好が瓜二つなのである。
 そして、この「義経(牛若)」の「金色の烏帽子」について、『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』では、次のように読み解くのである。

【第一に、金色の烏帽子は能装束の冠り物であり、牛若・判官(義経)の姿に特徴的な記号表現であった。忠直と又兵衛は、この金色の烏帽子の記号表現を共有しており、クライマックスにおける主人公としたのである。(略)
第二に、主人公の金色の烏帽子姿の大半は、能の風折烏帽子ではなくて、梨子打烏帽子に鉢巻をした姿で描かれている。軍勢と戦闘の中心にいる主人公は鎧姿であるから、それにふさわして梨子打烏帽子とし、それを金色に表現したのであった。(略)
そして、第三に、金色の梨子打烏帽子という主人公の姿は、能の牛若の物語を好み、源氏(新田氏)の後裔という強烈な自覚をもった注文主、すなわち松平忠直にふさわしい記号表現だったのである。また、金色の梨子打烏帽子は、忠直が又兵衛ら画工集団とのコラボレーションによって「又兵衛風絵巻群」をつくっていたことを端的に物語っている。】(『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』P260-262)

 ここで、「又兵衛風絵巻群」というのは、次の七種類のもので、『岩佐又兵衛風古浄瑠璃絵巻群』(辻惟雄の命名)の一群の絵巻を指す。「質量ともに物凄い絵巻群で、現存分を繋ぐと全長一・二キロメート近くになる」という(『黒田・前掲書)。

一 残欠本「堀江物語絵巻」(香雪本上巻・香雪本中巻・三重県立美術館本・京都国立博物館本・香雪本下巻・長国寺本など) 
二 「山中常盤物語絵巻」(全十二巻)(重要文化財・MOA美術館蔵) 
三 「上瑠璃(浄瑠璃物語絵巻)」(全十二巻)(重要文化財・MOA美術館蔵) 
四 「をぐり(小栗判官絵巻)」(全十五巻)(宮内庁三の丸尚蔵館蔵・総長約三二四メートル)
五 「堀江巻双紙」(全十二巻)(MOA美術館蔵)
六 「村松物語(村松物語絵巻)」(全十八巻)(このうち、十二巻=海の見える美術館蔵、三巻=アイルランドのチェスター・ビーティ・ライブラリー蔵、三巻=所在不明)
七 「熊野権現縁起絵巻」(全十三巻)(津守熊野神社蔵、大分市歴史資料館寄託)

 これらの「又兵衛風絵巻群」の全資料を読み解きながら、『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』では、次のような結論に達している。

【 「又兵衛風絵巻群」の注文主は、越前藩主の松平忠直であった。元和二年(一六一六)に、忠直は、岩佐又兵衛を中心とする画工(絵師)集団に命じて「又兵衛風絵巻群」つくらせ始めた。ところが、忠直は、同七・八年に参勤途中で関ケ原に滞留し、越前に引き返す行動を繰り返し、同九年二月に、将軍秀忠の命によって「隠居」とされ、豊後国に流されてしまう。絵巻の制作は、そこで一旦終わった。したがって「又兵衛風絵巻群」は、元和年間に集中的に制作された作品群であった。 】(『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』P242)

 これらの「洛中洛外図屏風・舟木本」そして「又兵衛風絵巻群」の、これらの謎解きの経過は、次の著書などにより明らかにされているのだが、未だに、「洛中洛外図屏風・舟木本」の「注文主」は、「越前藩主の松平忠直であった」とは、言明していない。それは、それなりに、何か、そう言明出来ない、何かしらの、納得し兼ねるものがあるのかも知れない。

一 『江戸図屏風の謎を解く(黒田日出男著・角川選書471)』
二 『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』
三 『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』

四  徳川美術館蔵「豊国祭礼図」の注文主(黒田日出男稿)
https://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/%E9%87%91%E9%AF%B1%E5%8F%A2%E6%9B%B846.pdf

五 『岩佐又兵衛と松平忠直(黒田日出男著・岩波現代全書1.03)』
六 『岩佐又兵衛風絵巻の謎を解く(黒田日出男著・角川選書637)』
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yahantei

『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』P116-117)

【 慶長十六年(一六一一)は、十七歳になった忠直にとって重大な出来事が次々に起こった。越前藩主としての忠直にとって大きな節目となった年である。第一に京都で叙位・任官があり、忠直は祖父家康に連れられて参内した。
 慶長十六年三月六日に駿府を出発した大御所家康は、同月十七日に京着して二条城に入った。同月二十日には、家康の子義利(義直)・頼将(頼宣)が右近衛権中将・参議に、鶴松(頼房)が従四位下右近衛少将に、そして、孫の松平忠直が従四位上左近衛少将に叙任された。その御礼のために、同月二十三日、家康は子の義利・頼将と孫の松平忠直を従えて参内したのである。
 のちに御三家となる徳川義利(尾張徳川家)と同頼将(紀伊徳川家)と共に参内した忠直は、天下人家康の孫として振る舞ったのである。忠直の人生にとって最初で最後の晴れやかな出来事であった。家康の孫、秀康の子であることを強烈に意識したことであろう。清和源氏新田氏の門葉(子孫)であることを自覚した機会でもあったに違いない。 】

この徳川家康の参内の時に、松平忠直が一緒に参内していたというのは、正直、目を疑った。これにより、それまでの「舟木本」の理解が一変した。これにより、それまでの、「松平忠直」は、「見立て」として、表面には出て来ない、背後の人物像が、これにより、前面に出てきたという感じなのである。

これにより、「舟木本」の注文主は、「松平忠直」というのは、心象的には、ますます、増大してきたことは歪めない。
by yahantei (2021-08-27 09:12) 

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