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「洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その二) [岩佐又兵衛]

(その二) 「舟木本)」の「祇園会で神輿を担いでいる男は誰か?」

 「2021年4月14日(水)[NHK・BSプレミアム]前10:45~11:15」に、「洛中洛外図屏風 舟木本(国宝)」が放送されていた。その時の、ネット記事が、下記のアドレスで次のとおり紹介されている。

https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=28261

【京都のパノラマを描いた洛中洛外図屏風。現存する100を超える洛中洛外図屏風の中で、異彩を放つのが江戸時代のはじめに描かれた国宝「舟木本」。この屏風には、権力者である武士のみならず、庶民や商人まで2700人を超える人物が所せましと描かれ、当時の風俗を知る一級資料として注目されています。日本の中心が江戸に移ったころの京都にはどんな暮らしがあったのか? 450インチのスクリーンに屏風を投影し、ゲームコントローラーで拡大すると、現代にはない商売人の姿や意外な女性像などが次々と発見できます。さらに、現代の京都地図と比較しながら深掘りすると、隠された政治的メッセージが見えてくる!?  400年前の知られざる京都の姿に迫ります。】

 そして、次の図がアップされていた。

舟木本・神輿を担ぐ男.jpg

「洛中洛外図・舟木本」の「神輿を担ぐ男」(「2021年4月14日(水)[NHK・BSプレミアム]図)

 この「神輿を担ぐ男」を、「洛中洛外図・舟木本」右隻(C図)と「洛中洛外図・舟木本」左隻(D図)から、「権力者である武士のみならず、庶民や商人まで2700人を超える人物」の中から、探し出すのは容易ではない)。

舟木本・神輿を担ぐ男(板倉勝重?).jpg

「洛中洛外図・舟木本(A・B図)」の「神輿を担ぐ男」(左隻=B図・第三扇上部)

 確かに、この「神輿を担ぐ男」は、「洛中洛外図・舟木本」の「左隻=D図・第三扇上部」に、上図のとおり出てくる。
 この図の左端の、神輿を担いでいる、愛嬌のある、ふっくら顔の「おっさん」風情の男が、上記の、アップして放映されていた男性である。この男性は、「町人なのか? 武士なのか?」……、周りの男性は、町人というよりも武士という雰囲気である。右隣りの日の丸の扇子をかざしている男は、どう見ても武士という恰好であろう。
 この図は、祇園会の神輿を担いでいる図である。この「舟木本」の祇園会は、この「神輿渡御」(八坂神社主宰の「官祭」)関連のみで、「山鉾巡行」(八坂神社氏子主宰の「町衆祭」 )関連のものは、出て来ない。
 ここで、上記の放映記事の、「現代の京都地図と比較しながら深掘りすると、隠された政治的メッセージが見えてくる!?  400年前の知られざる京都の姿」が、この「舟木本」の六曲一双に、巧妙に配置されていることに思い知る。
 これらのことを、冒頭に掲げた、「舟木本」の解説記事(「東京国立博物館」)を、下記に再掲し、その「隠された政治的メッセージ」などの一端を記して置きたい。
 
【 (再掲)
右端には豊臣氏の象徴ともいうべき方広寺大仏殿の偉容を大きく描き、左端には徳川氏の二条城を置いて対峙させ、
《隠された政治的メッセージ》豊臣時代の「桃山文化」を右端に、そして、徳川時代の「パックス・トクガワ-ノ(徳川の平和)」の到来を象徴する「二条城」を左端に、その両者を対峙させる。
その間に洛中、洛東の町並が広がる。右隻を斜めによこ切る鴨川の流れが左隻に及び、2隻の図様を密に連繋させている。建物や風俗をとらえる視点は一段と対象に近づき、随所に繰り広げられる市民の生活の有様を生き生きと描出する。
《隠された政治的メッセージ》応仁の乱以降、戦乱の中を逞しく、そして、「公家・武家文化」から「町衆文化」を生み出していく、京の人々の生き様を描出する。

右隻の上方には桜の満開する豊国廟をはじめ、清水寺、祇園などの洛東の名刹が連なり、鴨川の岸、四条河原には歌舞伎や操り浄瑠璃などが演じられ、歓楽街の盛況ぶりが手にとるように眺められる。
《隠された政治的メッセージ》右隻の上方に、「豊国廟」(豊臣秀吉の眠る廟)・「清水寺・祇園」(古都京都を代表する「清水寺」そして、京の人々の「産土」の「祇園さん・八坂さん」)などを背景にして、鴨川の岸、四条河原には「歌舞伎・浄瑠璃・能」の小屋が建ち並び、それに続く「遊楽歓楽街」の盛況ぶりが活写される。

左隻では祇園会の神輿(みこし)と風流が町を進行し、南蛮人の姿も認められる。右下の三筋町の遊廊では路傍で遊女と客が狂態を演じ、街には各種の階層の人々がうごめき、その数はおよそ2500人に及ぶ。
《隠された政治的メッセージ》五条の橋を渡り、左隻では、祇園会の「神輿」(八坂神社主催の「神輿渡御」)が出発し、その前座の「山鉾」(祇園社氏子の「町衆」主催)に代わり、母衣を背にした鎧武者と仮装した町衆の「風流」衆が、練り歩いている。その「三条通・四条通・五条通」の下方に、二条城の整備に関連して移住してきた「六条三筋町」の遊郭街が現出する。この「下京」(商業街区の「町衆」の町)と「上京」(御所のある「公家・武家・上層町衆」の町)との、各種・各層の2500人とも2700人と言われている人々が生き生きと描かれている。

その活趣あふれる人物の諸態を見事に描き表した画家の名は不明であるが、岩佐又兵衛が候補にあげられている。
《隠された政治的メッセージ》この「活趣あふれる人物の諸態を見事に描き表した画家の名」は、「岩佐又兵衛」、あるいは、その一派(岩佐又兵衛工房)の手によると伝えられている。この「岩佐又兵衛」は、近松門左衛門による人形浄瑠璃の演目の一つ『傾城反魂香(けいせい はんごんこう)』の中に登場する大津絵師・「吃又平(どものまたへい)」とか、在世中から「浮世又兵衛」のあだ名で呼ばれている「又兵衛浮世絵開祖説」有する、その人物像は伝説化している。 】

 さて、冒頭の「神輿を担ぐ男」に戻って、祇園会の「山鉾」は、祇園社氏子の「町衆」(町人)が主催するのに対し、「神輿」は、八坂神社主催の「神事」で、その担ぎ手は「輿丁(よちょう)といい、同じ法被姿(白装束など)で、この「神輿を担ぐ男」も町人風情であるが、隣りの裃姿で日の丸扇子を煽っている武士風情の男性などと関係からすると、何やら、武士階級の「輿丁」の一人という雰囲気で無くもない。

左六下・板倉勝重の九曜紋.jpg

(「九曜紋の板倉勝重」(左隻第六扇下部)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-11

 上記のアドレスに出てくる、この京都所司代の「九曜紋の板倉勝重」(1545-1624)は、幼少時に出家して浄土真宗の永安寺の僧であったが、三十七歳の時、徳川家康の命で還俗して武士となり、家督を相続したという、家康配下の十六武将の一人だが、他の武将と違った経歴の持ち主なのである。
 板倉勝重が、京都所司代になったのは、関ヶ原の戦い後の慶長六年(一六〇一)のことで、
その職務は、「朝廷や公家の監察、畿内の天領の訴訟処理、さらには豊臣家や西国大名の監視」という、単に、京都という区域内に関するものではなかった。
 元和六年(一六二〇)に、長男・重宗に京都所司代の職を譲るまで、その名所司代として、下記のアドレスでは、その業績として、次の三点を挙げている。

https://tikugo.com/osaka/busho/itakura/b-itakura-sige.html

一 朝廷にメスを入れる → 慶長十四年(一六〇九)の「猪熊事件」(女官・公家の密通事件)に際し、後陽成天皇と家康の意見調整を図って処分を決め、朝廷統制を強化した。

二 大坂冬の陣・夏の陣の功労者 → 慶長十九年(一六一四)からの大坂の陣の発端となった「方広寺鐘銘事件」、続く、「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」の、和議交渉と、豊臣家滅亡後の一連の終戦処理に主導的役割を果たした。

三 公家諸法度の制定の立役者 → 慶長十九年、改元して、元和元年(一六一四)に発効した「公家諸法度」の制定の立役者であると同時に、朝廷がその実施を怠りなく行うよう指導と監視に怠りがなかった。

 ここで、この京都所司代・板倉勝重の、これらの業績のことごとくが、何やら、この「洛中洛外図屏風・舟木本(岩佐又兵衛作)」の「右隻」「左隻」の六曲一双の屏風の中に、それとなく描かれているようなのである(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男男)著』)。

 として、この「九曜紋の板倉勝重」に似通っている人物が、「権力者である武士のみならず、庶民や商人まで2700人を超える人物」([NHK・BSプレミアム]、「東京国立博物館」では2500人)から、「あれかこれか」していたら、どことなく、何と、冒頭の「神輿を担ぐ男」と交差してきたのである。

板倉勝重と神輿男.jpg

(「神輿を担ぐ男」=左隻第三扇上部と「九曜紋の板倉勝重」=左隻第六扇下部)

 もとより、「他人の空似」(まったく血のつながりがない者同士なのに、肉親であるかのように顔つきがよく似ていること)の世界のものなのかも知れないが、そうとも取れない、次のような情報がある。

「天下で切支丹御法度となった事」→ 「稲荷の神輿」に関する「板倉勝重」の「板倉政要」の一つ(?)

【 天下で切支丹が御法度となった事について、それは板倉伊賀守(勝重)が京都所司代に成った頃のこと、五条松原通を稲荷の神輿が渡っていた所、柳の馬場の辻において、神輿に半弓が射掛けられた。これにより神輿の渡りは出来なくなってしまい、この事は板倉伊賀守に報告された。
 ↓
伊賀守は早速配下を数多遣わしてこれを捜査した所、犯人が切支丹宗旨の者だと判明した。
そしてこの事件以降、切支丹が御法度と成ったのである。
 ↓
三条五条の橋に、切支丹の者たちを竹のす巻きにして欄干にもたせ掛けて置き、宗旨変えを誓う者は赦された。宗旨を変えない者たちは、その後七条河原にて70人が火炙りを仰せ付けられた。以降、切支丹は厳重に禁止された。  (長澤聞書)  】

 もう一つある。

「彼らは勅封蔵に忍び入り」→ 両替商の亭主の妻女の訴え

【 この頃、南都東大寺の衆徒三人が搦め捕られ、この他一人同宿の者、以上四人が搦め捕られた。
何故かといえば、六、七年前、彼らは勅封蔵(正倉院)に忍び入り、敷板を切り抜き、宝物の内金作の鶏、同じく盂を捜し取って、折々京都へ持って上がり、金として両替し私用に使った。
 今年、かの盂をそのままにて両替することを両替商に相談した所、その亭主はこの盂を見ると、
「これは尋常の物ではない、殊に昔の年号が有り、きっとこれは勅物、もしくは御物では無いだろうか」
と不審に思い、この旨をかの僧に申した。

僧は難儀に及び、往々この事が亭主の口より漏れてしまうと思い、別宿にて亭主に振る舞いをし、そこで鴆毒を摂取させ、亭主はたちまち死に果てた。

この亭主の妻女は、すぐに板倉伊賀守(勝重)の所へ行この旨を言上した。伊賀守は奈良代官に届けたため、かの僧三人、并びに同宿一人が搦め捕られ京都に上らされた。伊賀守はの彼らに対し事の内容を直接に尋問したところ、ありのままに白状した。

そして彼らの身柄は南都へ下し置かれ、またこの事件については東国(駿府、江戸)に報告された。捕縛された者たちは、来年二月、薪の能見物に集まる貴賤にその姿を晒した上で成敗される、などと風聞されている。また猿澤の池傍に牢が構えられ、彼らはそこに入れられ、これを貴賤が見物している という。『当代記』  】

 この、板倉勝重に訴える「(毒殺された)両替商の亭主の妻女」の図、舟木本に、下記の図により描かれている。

 これに関連する二図を下記に掲げて置きたい。下記の図の、左上が、この裁判での女性の訴えを聞いている板倉勝重である。この中央(下方)の女性が、板倉勝重に必死に何かを訴えかけている女性である。

民事裁判する市倉勝重.jpg

「裁判で女性の訴えを傾聴している板倉勝重」(左隻第六扇下部)

板倉勝重に訴える女.jpg

(「裁判で板倉勝重に訴えている女性」(左隻第六扇下部「上記の図」の部分拡大)

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yahantei

 この「神輿を担ぐ男」と、京都所司代の「板倉勝重」と同一人物という「見立て」は、「奇想派の元祖・岩佐又兵衛」の、その「奇想」に感染した幻影なのかも知れない。
 その「奇想派」感染を恐れて、一昼夜、時間を置いて、この「舟木本」の、「神輿を担ぐ男」と「二条城での板倉勝重」とは、「全然、別人か?」と、何時もののことながら、「あれかこれか」をしていたら、一つ、何やら見えてきたのは、「奇想派の岩佐又兵衛」の理解には、その土台として「奇想」(「奇妙奇天烈」のイマージネーション=想像力・創作力など)的な見方を徹底しないと、「どうにもならない」という、そんな、フィリ-ング(感じ・雰囲気)なのである。
 ということで、この「洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索)は、この種の、俳諧(「俳諧」の「連歌」)ですると、「飛び過ぎ」の、「風船玉」のような、手前勝手の世界が、「ワンさ」と出てくるであろうが、これもまた、一興(一狂)か?






by yahantei (2021-08-24 16:23) 

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