洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その十六) [岩佐又兵衛]
(その十六) 「六条三筋町・中の町遊郭街で踊る『風流踊り』一行」は何を物語っているのか?
「六条三筋町・中の町遊郭街で踊る『風流踊り』一行」(「舟木本」右隻第六扇下部)→A-3図
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&
「六条三筋町(上の町・中の町・下の町)」は、幕府(京都所司代)公認の「遊郭街」である。
【 室町時代に足利義満が現在の東洞院通七条下ルに許可した傾城町が日本の公娼地の始まりといわれる。桃山時代(1589年)には豊臣秀吉の許可を得て、原三郎左衛門らが二条万里小路(までのこうじ)に「二条柳町」を開設した。江戸時代になると六条付近に移されて「六条三筋町」と呼ばれるようになり、吉野太夫などの名妓が輩出した。ところが、1641年にはさらに朱雀野付近への移転が命ぜられ、以後「島原」と呼ばれた。「島原」の名称は、この移転騒動が島原の乱時の乱れた様子に似ていたためについたという説や、周りが田原であったため、島にたとえて呼ばれたという説など、諸説がある。 】(ウィキペディア)
https://gionchoubu.exblog.jp/23030606/
↓
【 二条柳町の廓は僅か十三年後の慶長七年(1602)に東本願寺の北、六条三筋(ろくじょうみすじ)に移転を命じられます。最初は東半分が開かれ、北は五条、南は六条、東が室町通り、西が新町通りで今の下京中学校あたりになり、北から柳町上の町、柳町中の町、柳町下の町と名付けられました。
三筋の由来は楊梅通り、鍵屋町通り、的場通りにあります。この区画に今も上柳町があるのは、その時の名残といえます。
一般に移転の理由は御所に近いからとか、周辺に家が建ち都市化したとか云われていますが、御所の近くは始めから分かっていたことですし、十余年でそう都市化するのも考えにくいので、多分、最初の選定がそもそも間違っており、これを定めた当局の面目を保つための方便だったと私は考えます。
明田鉄男氏は造営中の二条城から遠ざけたかったから、さらに広大な傾城を作り、税制の増収をもくろんだ可能性にも言及されています。
元和三年(1617)三月、元和五ヶ条が幕府より出されるのですが、それは
一、 傾城町は三筋に限り、その区域を越えて遊女稼業は禁止である。
一、 客は一晩しか泊まっていけない。
一、 傾城の衣類は紺屋染を用い質素に、金銀などはもっての外
一、 廓内の建築も質素に、町役は厳正に
一、 不審者は奉行所に通報せよ
移転当初から市内に散らばる無免許の遊女渡世は公許の三筋の人達にとって悩みの種で、六条三筋に住吉神社を勧請した同年六月、上記元和五か条を受け、六条三筋の総中は無免許業者をお恐れ乍らと訴えでました。
訴えられたのは、二条柳町の開発者の一人であった林又一郎を中心に市内広くに及びます。又一(市)は二条柳町にも六条三筋にも属すのを拒んだようです。
四条河原町 又市
同ていあんのうしろ 一町(貞安前之町は今の高島屋の西部分)
同こりき町 一町(現先斗町の一画)
同中島 一町(三条河原町東)
同ますや町 一町(上京、中京、下京に十箇所ほどもあり特定できません)
とひ小路 しつか太夫(富小路がとびのかうし通と『京雀』あるも分からず)
同たかみや町 一町(富小路蛸薬師下ルに現存します。)
たこやくし通 ゑいらくや
二条たわら町 たなかつら(かつて夷川新町西入ルに俵町あり)
こうしんのうしろ (庚申?荒神?どこを指したものか・・・)
北野 六軒町(上七軒の近くと思われる)
同 れいしょう(同上)
大仏この町(五条~七条間の山和大路辺り?)
以上が告訴された無免許にて営業していた所です。 】
「洛中・洛外図屏風・舟木本」の「右隻第四・五扇拡大図」(五条橋で踊る老後家尼)→A-2図
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&
この「五条橋で踊る老後家尼」は、「六本の傘を見ると、先頭の白い傘には日の丸(日輪)、次の赤い傘には桐紋、三本目の赤い傘は鶴と亀の文様である。四本目は不明、五本目は日・月の文様のようであり、六本目は花か南蛮の樹木の葉のようである。この先頭の日輪と二本目の桐紋が決定的に重要だ。このような後家尼の姿で描かれる人物は、秀吉の後家、高台院(北政所おね)以外にあり得ない」『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P205-206)というのは、肯定的に解したい。
として、この赤い小袖の桜の小枝を手にかざして踊っている『老後家尼』(B図)が、何と、六条三筋町の中の町遊郭街の一角で、笹や菖蒲、あるいは牡丹を手にして踊っている遊女一行(C図)の主人公(赤い小袖の紋様が同じ)のように描かれている。
よもや、高台院が、幕府(京都所司代)公認の遊郭街で、このような踊りをしているということは、どう見ても考えなれない。この「C図」と「B図」との、この赤い小袖を着た女性をどのように解すべきなのか?
ここで、「豊国大明神臨時祭礼」時の、「風流・風流踊・豊国踊」」関連などについて、下記のアドレスのものを抜粋して紹介して置きたい。
https://www.gakushuin.ac.jp/univ/g-hum/art/web_library/author/arakawa/shino_and_oribe/02.html
【 「風流」はいまでは世俗を離れた趣味的な生活態度をさしているが、当時はもっと積極的で具体的な意味をもった、すなわち邸宅や庭、服装、調度、絵画から玩具のようなものにまでいたる生活のさまざまな用具に、金銀や多色で意匠をこらすことを意味したのである。風流の意匠がその効果を発揮するのは歌合わせや物合わせ、あるいは賀茂祭、宮詣で、踊りといった、日常生活のなかでの「ハレ」の場においてであった。それらの折には、造り物といって、自然景や人物、牛車さらには破子、厨子、炭櫃(火鉢)、折櫃にもった菓子などの美しい模型が人目を引いたが、風流はそれらの造り物もさしている。 (辻惟雄「飾る喜び」『日本美術の見方』岩波書店 1992年)
芸能史研究の小笠原恭子氏は、桃山時代の風流に関して興味深い指摘をする。
この国の芸能は、風流という事象を措いて語ることはできない。風流の歴史はそのまま、平安後期から近世初頭にかけての、激動の時代の芸能の歴史であった。この間風流はじつに複雑多岐に変貌しつつ、芸能のみならず多方面にわたって文化を彩り、新しい芸能を生み、また押し流しさえして大河のように流れながら、自らはついに完結することなく、江戸幕府の体制確立とともに静かに七百年を超える生命を終える。そのもっとも華やかな時期が、風流踊として展開した中世後期であった。
…豊国神社祭礼の風流は、その最後の華、いわば生命の燃え尽きる直前の炎に似ているといえるだろう。(小笠原恭子「風流盛衰」『近世風俗図譜9 祭礼(二)』小学館1982年)
豊臣秀吉の七回忌を記念して慶長9年(1604)8月に催された豊国大明神臨時祭礼は、志野と織部を生んだ慶長年間を象徴する最大のイベントであった。8月15日の上京・下京の町衆の人々による「風流踊」は京の都を興奮のるつぼと化した。その様子は「豊国祭礼図屏風」の画面に群集の織りなす熱気として見事に描き出されている。
この慶長期とは、「今が弥勒の世なるべし」(『慶長見聞集』)という活況に満ちた時代であったが、慶長末年(1615)の大坂の陣(豊臣氏滅亡)を控えて、平和ななかにも不穏な空気が漂う混沌とした時代でもあった。
「豊国祭礼図屏風」においてひときわ目立つ存在が、華美をこらした異様な姿で港を横行する無頼の徒、いわゆる「かぶき者」たちである。華美異装を好んだかぶき者は、南蛮風俗をはじめとする奇抜なファッションを身にまとった。その風姿のなかに、小笠原氏がいうところの生命の燃え尽きる直前の炎に似たような「風流」の精神が発露していたのである。
ところで、芸能史においては主に踊りを指す言葉として使われてきた風流であるが、同時に祭礼において神霊が降臨する依代(よりしろ)の飾りをも意味していたようである。神を招き、寄りつかせるために頭や冠に挿した花や木の枝、あるいは神の遠来を象徴する傘や杖などの派手やかな飾りを風流といったのである。つまり風流とは単に人間の目を楽しませるものではなく、まずは神霊が招き寄せられて乗り移る依代を装飾したものであり、神を大いに喜ばすということを第一の目的としていた。そこで志野と織部の装飾にも、本来神を寄りつかせたり、喜ばすようなモチーフが選ばれたと考えることができるのではないだろうか。その意味では、聖性を帯びたうつわという側面もあったことを指摘してみたい。 】(「志野と織部―風流なるうつわ―(荒川正明稿)」 )
「醍醐花見図屏風(六曲一隻・国立歴史民俗博物館蔵)」所収「秀吉と北政所」(部分拡大図)→ A-1図
慶長三年(一五九八)、豊臣秀吉が亡くなる半年前に、京都の醍醐寺三宝院裏の山麓において催した花見の宴での「秀吉と北政所(寧々・お嚀)」の肖像である。この年の八月に秀吉は瞑目する。
その二年後の慶長五年(一六〇〇)、「関ヶ原の戦い」で、勝者の徳川家康が、幕藩体制確立への道筋を開き、豊臣政権は統一政権の地位を失うこととなる。
その四年後の慶長九年(一六〇四)の「豊臣秀吉七回忌」に、「高台院(北政所・寧々・お嚀)」は、「徳川家康」(家康の「御意」を得ての実施)と「徳川秀頼・淀殿」(「祭礼」の費用負担は「豊臣氏」)との両方の手綱を巧みに捌いて、「豊国大明神臨時祭礼」の実質的な「企画・実施」の重責を担ったのである。
「豊国祭礼図屏風」左隻(第一~六扇)(徳川美術館蔵)各 縦166.7 横345.0 六曲一双→B図 https://bunka.nii.ac.jp/heritages/heritagebig/18957/1/2 0
「豊国祭礼図屏風」左隻(第四扇部分拡大図)の「大仏殿前の豊国踊=風流踊」→B-1図
https://artsandculture.google.com/asset/festival-of-h%C5%8Dkoku-shrine-left-screen-iwasa-matabei/DQG2KSydiLG95A?hl=ja&ms=%7B%22x%22%3A0.5011565150346956%2C%22y%22%3A0.48255
この「豊国大明神臨時祭礼」に関連ついては、下記のアドレスで紹介している。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-14
そこに、次の図を追加して置きたい。
「豊国祭礼図屏風」左隻(第四扇部分拡大図)の「大仏殿前の豊国踊=風流踊・太閤踊」→B-2図
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/heritagebig/18957/1/4
さらに、この「B-1図」と「B-2図」を読み解くために、次のアドレスの、「伝又兵衛筆豊国祭礼図―風俗画における主題と変奏(鈴木廣之稿)」を、その背景をより正確に知るためののものとして紹介して置きたい。
https://tobunken.repo.nii.ac.jp/?action=repository_view_common_usagestatistics&itemId=6504&itemNo=1&page_id=13&block_id=21&nc_session=h04uusv31275es4ofoju0rror4
そして、この「豊国大明神臨時祭礼」時の、このB-1図」と「B-2図」の、「京都の上京から三組、下京から二組が出て、各組三百名構成、総計 千五百名の「京町衆」が参加した」と記録されている「豊国踊・太閤踊=風流踊」の、実質的な「企画・実施」の重責を担った
「高台院」のイメージは、次の「誓願寺門前の二人の尼僧」(左手前の尼僧)のようなものとしてとらえて置きたい。
岩佐又兵衛筆 誓願寺門前図屏風 17世紀 江戸時代 (京都文化博物館蔵)の「誓願寺門前の二人の尼僧」→ B-3図
https://www.bunpaku.or.jp/exhi_special_post/machishubunka/
ここまで来ると、慶長九年(一六〇四)の「豊臣秀吉七回忌」に、「高台院(北政所・寧々・お嚀)」が、「徳川家康」(家康の「御意」を得ての実施)と「徳川秀頼・淀殿」(「祭礼」の費用負担は「豊臣氏」)との両方の手綱を巧みに捌いて、挙行した「豊国大明神臨時祭礼」の「風流踊=豊国踊・太閤踊」は、次の二系統に分化して、それが、それぞれに継承発展していくものとして理解をしたい。
その一つ目は、「高台院」の「誓願寺門前の二人の尼僧」(B-3図)をイメージとしての、次の系統のもので、ネーミング的には、「風流踊=豊国踊=太閤踊」ということにして置きたい。
「誓願寺門前の二人の尼僧」 →B-3図
「大仏殿前の豊国踊=風流踊」 → B-1図
「大仏殿前の豊国踊=風流踊・太閤踊」→B-2図(大集団の踊・傾奇志向)
そして、その二つ目は、「北政所」の「秀吉と北政所」(醍醐の花見・A-1図)をイメージがとしての、次の系統のもので、ネーミング的には、「風流踊=豊国踊=寧々・お寧踊」ということになる。
「秀吉と北政所」(醍醐の花見) →A-1図
「五条橋で踊る老後家尼」 → A-2図
「六条三筋町遊郭街で踊る一行」→A-3図(小集団の踊・数寄志向)
「六条三筋町・中の町遊郭街で踊る『風流踊り』一行」(「舟木本」右隻第六扇下部)→A-3図
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&
この「遊女の踊」は、「風流踊=豊国踊=寧々・お寧踊」の「北政所(寧々・お寧)=高台院」をイメージ化してもので、「風流踊=豊国踊=太閤踊」の「太閤秀吉」をイメージ化したものではない。
そして、この「風流踊=豊国踊=寧々・お寧踊」を、左端で、編み笠を被り、口を袖や扇で隠して見守っている「武士」らしき集団は、これまた、当時の「京都所司代・板倉勝重」の率いる一行と解したい。
これらの「京都所司代・板倉勝重」の率いる一行が、何を看守しているかというと、先に紹介した、下記アドレスの、次のようなことなどが浮かび上がってくる。
https://gionchoubu.exblog.jp/23030606/
【 一、 傾城町は三筋に限り、その区域を越えて遊女稼業は禁止である。
一、 客は一晩しか泊まっていけない。
一、 傾城の衣類は紺屋染を用い質素に、金銀などはもっての外
一、 廓内の建築も質素に、町役は厳正に
一、 不審者は奉行所に通報せよ。 】
「六条三筋町・中の町遊郭街で踊る『風流踊り』一行」(「舟木本」右隻第六扇下部)→A-3図
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&
「六条三筋町(上の町・中の町・下の町)」は、幕府(京都所司代)公認の「遊郭街」である。
【 室町時代に足利義満が現在の東洞院通七条下ルに許可した傾城町が日本の公娼地の始まりといわれる。桃山時代(1589年)には豊臣秀吉の許可を得て、原三郎左衛門らが二条万里小路(までのこうじ)に「二条柳町」を開設した。江戸時代になると六条付近に移されて「六条三筋町」と呼ばれるようになり、吉野太夫などの名妓が輩出した。ところが、1641年にはさらに朱雀野付近への移転が命ぜられ、以後「島原」と呼ばれた。「島原」の名称は、この移転騒動が島原の乱時の乱れた様子に似ていたためについたという説や、周りが田原であったため、島にたとえて呼ばれたという説など、諸説がある。 】(ウィキペディア)
https://gionchoubu.exblog.jp/23030606/
↓
【 二条柳町の廓は僅か十三年後の慶長七年(1602)に東本願寺の北、六条三筋(ろくじょうみすじ)に移転を命じられます。最初は東半分が開かれ、北は五条、南は六条、東が室町通り、西が新町通りで今の下京中学校あたりになり、北から柳町上の町、柳町中の町、柳町下の町と名付けられました。
三筋の由来は楊梅通り、鍵屋町通り、的場通りにあります。この区画に今も上柳町があるのは、その時の名残といえます。
一般に移転の理由は御所に近いからとか、周辺に家が建ち都市化したとか云われていますが、御所の近くは始めから分かっていたことですし、十余年でそう都市化するのも考えにくいので、多分、最初の選定がそもそも間違っており、これを定めた当局の面目を保つための方便だったと私は考えます。
明田鉄男氏は造営中の二条城から遠ざけたかったから、さらに広大な傾城を作り、税制の増収をもくろんだ可能性にも言及されています。
元和三年(1617)三月、元和五ヶ条が幕府より出されるのですが、それは
一、 傾城町は三筋に限り、その区域を越えて遊女稼業は禁止である。
一、 客は一晩しか泊まっていけない。
一、 傾城の衣類は紺屋染を用い質素に、金銀などはもっての外
一、 廓内の建築も質素に、町役は厳正に
一、 不審者は奉行所に通報せよ
移転当初から市内に散らばる無免許の遊女渡世は公許の三筋の人達にとって悩みの種で、六条三筋に住吉神社を勧請した同年六月、上記元和五か条を受け、六条三筋の総中は無免許業者をお恐れ乍らと訴えでました。
訴えられたのは、二条柳町の開発者の一人であった林又一郎を中心に市内広くに及びます。又一(市)は二条柳町にも六条三筋にも属すのを拒んだようです。
四条河原町 又市
同ていあんのうしろ 一町(貞安前之町は今の高島屋の西部分)
同こりき町 一町(現先斗町の一画)
同中島 一町(三条河原町東)
同ますや町 一町(上京、中京、下京に十箇所ほどもあり特定できません)
とひ小路 しつか太夫(富小路がとびのかうし通と『京雀』あるも分からず)
同たかみや町 一町(富小路蛸薬師下ルに現存します。)
たこやくし通 ゑいらくや
二条たわら町 たなかつら(かつて夷川新町西入ルに俵町あり)
こうしんのうしろ (庚申?荒神?どこを指したものか・・・)
北野 六軒町(上七軒の近くと思われる)
同 れいしょう(同上)
大仏この町(五条~七条間の山和大路辺り?)
以上が告訴された無免許にて営業していた所です。 】
「洛中・洛外図屏風・舟木本」の「右隻第四・五扇拡大図」(五条橋で踊る老後家尼)→A-2図
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&
この「五条橋で踊る老後家尼」は、「六本の傘を見ると、先頭の白い傘には日の丸(日輪)、次の赤い傘には桐紋、三本目の赤い傘は鶴と亀の文様である。四本目は不明、五本目は日・月の文様のようであり、六本目は花か南蛮の樹木の葉のようである。この先頭の日輪と二本目の桐紋が決定的に重要だ。このような後家尼の姿で描かれる人物は、秀吉の後家、高台院(北政所おね)以外にあり得ない」『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P205-206)というのは、肯定的に解したい。
として、この赤い小袖の桜の小枝を手にかざして踊っている『老後家尼』(B図)が、何と、六条三筋町の中の町遊郭街の一角で、笹や菖蒲、あるいは牡丹を手にして踊っている遊女一行(C図)の主人公(赤い小袖の紋様が同じ)のように描かれている。
よもや、高台院が、幕府(京都所司代)公認の遊郭街で、このような踊りをしているということは、どう見ても考えなれない。この「C図」と「B図」との、この赤い小袖を着た女性をどのように解すべきなのか?
ここで、「豊国大明神臨時祭礼」時の、「風流・風流踊・豊国踊」」関連などについて、下記のアドレスのものを抜粋して紹介して置きたい。
https://www.gakushuin.ac.jp/univ/g-hum/art/web_library/author/arakawa/shino_and_oribe/02.html
【 「風流」はいまでは世俗を離れた趣味的な生活態度をさしているが、当時はもっと積極的で具体的な意味をもった、すなわち邸宅や庭、服装、調度、絵画から玩具のようなものにまでいたる生活のさまざまな用具に、金銀や多色で意匠をこらすことを意味したのである。風流の意匠がその効果を発揮するのは歌合わせや物合わせ、あるいは賀茂祭、宮詣で、踊りといった、日常生活のなかでの「ハレ」の場においてであった。それらの折には、造り物といって、自然景や人物、牛車さらには破子、厨子、炭櫃(火鉢)、折櫃にもった菓子などの美しい模型が人目を引いたが、風流はそれらの造り物もさしている。 (辻惟雄「飾る喜び」『日本美術の見方』岩波書店 1992年)
芸能史研究の小笠原恭子氏は、桃山時代の風流に関して興味深い指摘をする。
この国の芸能は、風流という事象を措いて語ることはできない。風流の歴史はそのまま、平安後期から近世初頭にかけての、激動の時代の芸能の歴史であった。この間風流はじつに複雑多岐に変貌しつつ、芸能のみならず多方面にわたって文化を彩り、新しい芸能を生み、また押し流しさえして大河のように流れながら、自らはついに完結することなく、江戸幕府の体制確立とともに静かに七百年を超える生命を終える。そのもっとも華やかな時期が、風流踊として展開した中世後期であった。
…豊国神社祭礼の風流は、その最後の華、いわば生命の燃え尽きる直前の炎に似ているといえるだろう。(小笠原恭子「風流盛衰」『近世風俗図譜9 祭礼(二)』小学館1982年)
豊臣秀吉の七回忌を記念して慶長9年(1604)8月に催された豊国大明神臨時祭礼は、志野と織部を生んだ慶長年間を象徴する最大のイベントであった。8月15日の上京・下京の町衆の人々による「風流踊」は京の都を興奮のるつぼと化した。その様子は「豊国祭礼図屏風」の画面に群集の織りなす熱気として見事に描き出されている。
この慶長期とは、「今が弥勒の世なるべし」(『慶長見聞集』)という活況に満ちた時代であったが、慶長末年(1615)の大坂の陣(豊臣氏滅亡)を控えて、平和ななかにも不穏な空気が漂う混沌とした時代でもあった。
「豊国祭礼図屏風」においてひときわ目立つ存在が、華美をこらした異様な姿で港を横行する無頼の徒、いわゆる「かぶき者」たちである。華美異装を好んだかぶき者は、南蛮風俗をはじめとする奇抜なファッションを身にまとった。その風姿のなかに、小笠原氏がいうところの生命の燃え尽きる直前の炎に似たような「風流」の精神が発露していたのである。
ところで、芸能史においては主に踊りを指す言葉として使われてきた風流であるが、同時に祭礼において神霊が降臨する依代(よりしろ)の飾りをも意味していたようである。神を招き、寄りつかせるために頭や冠に挿した花や木の枝、あるいは神の遠来を象徴する傘や杖などの派手やかな飾りを風流といったのである。つまり風流とは単に人間の目を楽しませるものではなく、まずは神霊が招き寄せられて乗り移る依代を装飾したものであり、神を大いに喜ばすということを第一の目的としていた。そこで志野と織部の装飾にも、本来神を寄りつかせたり、喜ばすようなモチーフが選ばれたと考えることができるのではないだろうか。その意味では、聖性を帯びたうつわという側面もあったことを指摘してみたい。 】(「志野と織部―風流なるうつわ―(荒川正明稿)」 )
「醍醐花見図屏風(六曲一隻・国立歴史民俗博物館蔵)」所収「秀吉と北政所」(部分拡大図)→ A-1図
慶長三年(一五九八)、豊臣秀吉が亡くなる半年前に、京都の醍醐寺三宝院裏の山麓において催した花見の宴での「秀吉と北政所(寧々・お嚀)」の肖像である。この年の八月に秀吉は瞑目する。
その二年後の慶長五年(一六〇〇)、「関ヶ原の戦い」で、勝者の徳川家康が、幕藩体制確立への道筋を開き、豊臣政権は統一政権の地位を失うこととなる。
その四年後の慶長九年(一六〇四)の「豊臣秀吉七回忌」に、「高台院(北政所・寧々・お嚀)」は、「徳川家康」(家康の「御意」を得ての実施)と「徳川秀頼・淀殿」(「祭礼」の費用負担は「豊臣氏」)との両方の手綱を巧みに捌いて、「豊国大明神臨時祭礼」の実質的な「企画・実施」の重責を担ったのである。
「豊国祭礼図屏風」左隻(第一~六扇)(徳川美術館蔵)各 縦166.7 横345.0 六曲一双→B図 https://bunka.nii.ac.jp/heritages/heritagebig/18957/1/2 0
「豊国祭礼図屏風」左隻(第四扇部分拡大図)の「大仏殿前の豊国踊=風流踊」→B-1図
https://artsandculture.google.com/asset/festival-of-h%C5%8Dkoku-shrine-left-screen-iwasa-matabei/DQG2KSydiLG95A?hl=ja&ms=%7B%22x%22%3A0.5011565150346956%2C%22y%22%3A0.48255
この「豊国大明神臨時祭礼」に関連ついては、下記のアドレスで紹介している。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-14
そこに、次の図を追加して置きたい。
「豊国祭礼図屏風」左隻(第四扇部分拡大図)の「大仏殿前の豊国踊=風流踊・太閤踊」→B-2図
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/heritagebig/18957/1/4
さらに、この「B-1図」と「B-2図」を読み解くために、次のアドレスの、「伝又兵衛筆豊国祭礼図―風俗画における主題と変奏(鈴木廣之稿)」を、その背景をより正確に知るためののものとして紹介して置きたい。
https://tobunken.repo.nii.ac.jp/?action=repository_view_common_usagestatistics&itemId=6504&itemNo=1&page_id=13&block_id=21&nc_session=h04uusv31275es4ofoju0rror4
そして、この「豊国大明神臨時祭礼」時の、このB-1図」と「B-2図」の、「京都の上京から三組、下京から二組が出て、各組三百名構成、総計 千五百名の「京町衆」が参加した」と記録されている「豊国踊・太閤踊=風流踊」の、実質的な「企画・実施」の重責を担った
「高台院」のイメージは、次の「誓願寺門前の二人の尼僧」(左手前の尼僧)のようなものとしてとらえて置きたい。
岩佐又兵衛筆 誓願寺門前図屏風 17世紀 江戸時代 (京都文化博物館蔵)の「誓願寺門前の二人の尼僧」→ B-3図
https://www.bunpaku.or.jp/exhi_special_post/machishubunka/
ここまで来ると、慶長九年(一六〇四)の「豊臣秀吉七回忌」に、「高台院(北政所・寧々・お嚀)」が、「徳川家康」(家康の「御意」を得ての実施)と「徳川秀頼・淀殿」(「祭礼」の費用負担は「豊臣氏」)との両方の手綱を巧みに捌いて、挙行した「豊国大明神臨時祭礼」の「風流踊=豊国踊・太閤踊」は、次の二系統に分化して、それが、それぞれに継承発展していくものとして理解をしたい。
その一つ目は、「高台院」の「誓願寺門前の二人の尼僧」(B-3図)をイメージとしての、次の系統のもので、ネーミング的には、「風流踊=豊国踊=太閤踊」ということにして置きたい。
「誓願寺門前の二人の尼僧」 →B-3図
「大仏殿前の豊国踊=風流踊」 → B-1図
「大仏殿前の豊国踊=風流踊・太閤踊」→B-2図(大集団の踊・傾奇志向)
そして、その二つ目は、「北政所」の「秀吉と北政所」(醍醐の花見・A-1図)をイメージがとしての、次の系統のもので、ネーミング的には、「風流踊=豊国踊=寧々・お寧踊」ということになる。
「秀吉と北政所」(醍醐の花見) →A-1図
「五条橋で踊る老後家尼」 → A-2図
「六条三筋町遊郭街で踊る一行」→A-3図(小集団の踊・数寄志向)
「六条三筋町・中の町遊郭街で踊る『風流踊り』一行」(「舟木本」右隻第六扇下部)→A-3図
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&
この「遊女の踊」は、「風流踊=豊国踊=寧々・お寧踊」の「北政所(寧々・お寧)=高台院」をイメージ化してもので、「風流踊=豊国踊=太閤踊」の「太閤秀吉」をイメージ化したものではない。
そして、この「風流踊=豊国踊=寧々・お寧踊」を、左端で、編み笠を被り、口を袖や扇で隠して見守っている「武士」らしき集団は、これまた、当時の「京都所司代・板倉勝重」の率いる一行と解したい。
これらの「京都所司代・板倉勝重」の率いる一行が、何を看守しているかというと、先に紹介した、下記アドレスの、次のようなことなどが浮かび上がってくる。
https://gionchoubu.exblog.jp/23030606/
【 一、 傾城町は三筋に限り、その区域を越えて遊女稼業は禁止である。
一、 客は一晩しか泊まっていけない。
一、 傾城の衣類は紺屋染を用い質素に、金銀などはもっての外
一、 廓内の建築も質素に、町役は厳正に
一、 不審者は奉行所に通報せよ。 】
https://kyotofukoh.jp/kyotokagai.html
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「京都花街・遊郭略史」
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1 6 0 6 年 、 ⾼ 台 寺 建 ⽴ に 伴 い 、 寺 に 舞 伎 が 出 ⼊ り す る 。 北 政 所 ( ⾼ 台 院 ) は 侍 ⼥ に 遊 芸 を 学 ば せ る 。
1 6 1 2 年 、 禁 中 で ⼥ 歌 舞 伎 が 上 演 さ れ る 。 元 和 年 間 ( 1 6 1 5 - 1 6 2 4 ) 、 祇 園 社 、 東 ⼭ に 茶 汲 ⼥ が 現 れ る 。
1 6 1 7 年 、 六 条 三 筋 町 を 対 象にす る 「 元 和 五 ヶ 条 」 が 出 さ れ る 。 六 条 三 筋 町 に 住 吉 神 社 を 勧 請 す る 。 廓 内 ⻄ に 上 ‧ 下 太 夫 町 が できた。
1 6 1 8 年 、 京 都 所 司 代 ‧ 板 倉 勝 重 は 、 ⼥ 芸 能 者 を 集 め 、 三 筋 町 内 に ⻄ 洞 院 町 を 開 く 。 六 条 柳 町 は 拡 ⼤ さ れ 、 そ の 範 囲 は 北 が 五 条 通 、 南は ⿂ 棚 通 、 東 は 室 町 通 、 ⻄ は ⻄ 洞 院 通 内 に な る 。 清 ⽔ 町 三 丁 ⽬ に 茶 屋 渡 世 、 茶 ⽴ ⼥ を 許 可 す る 。
1 6 1 9 年 、 京 都 所 司 代 ‧ 板 倉 勝 重 は ⼋ 坂 法 観 寺 ⾨ 前 に 、 茶 ⽴ ⼥つき の 茶 屋 渡 世 を 許 可 す る 。 ⼋ 坂 上 町 が 開 発 さ れ る 。
元 和 年 間 ( 1 6 1 5 - 1 6 2 4 ) 、 三 筋 町 遊 ⼥ の 町 売 が 禁 じ ら れ る 。 祇 園 町 の ⽔ 茶 屋 、 煮 売 茶 屋 、 料 理 茶 屋 に 茶 汲 ⼥ 、 茶 ⽴ ⼥ 、 酌 取 ⼥ が 現れる 。京 都 所 司 代 は 七 ッ 櫓 を 公 許 す る 。
寛 永 年 間 ( 1 6 2 4 - 1 6 4 3 ) 、 六 条 三 筋 町 は 繁 栄 す る 。 上 七 軒 は 公 許 さ れ 、 以 後 、 北 野 ⾨ 前 遊 ⾥ と し て 栄 え る 。
1 6 2 4 年 、 北 政 所 ( ⾼ 台 院 ) 没 後 、 ⾼ 台 寺 の 芸 者 が 市 井 で 営 業 を ⾏ う 。 ⼭ 根 ⼦ ( や ま ね こ 、 ⼭ 猫 ) 芸 者 と 呼 ば れ 、 下 河 原 ( ⼋ 坂 神 社 南 ⾨ - 庚 申 堂 ) に 住 ん だ 。
1 6 2 9 年 、 ⾵ 俗 を 乱 す と し て 「 ⼥ 歌 舞 伎 禁 令 」 が 出 る 。 以 後 、 前 髪 ⽴ ち の 美 少 年 が 演 じ る 若 衆 歌 舞 伎 が 盛 ん に な る 。 た だ 、 ⼥ 歌 舞 伎 と 並 ⾏ 、 ま た 、 そ れ 以 前 よ り 興 ⾏ さ れ て い た と も い う 。
1 6 3 1 年 、 吉 野 太 夫 は 京 都 の 豪 商 ‧ 灰 屋 紹 益 に ⾝ 請 け さ れ 結 婚 す る 。
1 6 4 0 年 、 幕 府 、 京 都 所 司 代 ‧ 板 倉 周 守 重 宗 の 命 に よ り 六 条 三 筋 町 は 、 朱 雀 野 に 移 転 に な る 。 ( 「 替 地 受 取 証 ⽂ 」 ) 。 ⻄ 新 屋 敷 、 ま た 島 原 ⼀ 揆 に 喩 え て 島 原 と 名 付 けられ 、 島 原 の 始 ま り に な る 。 幕 府 公 認 、 唯 ⼀ の 遊 郭 街 ( 東 ⻄ 9 9 間 、 南 北 1 2 3 間 ) に な る 。 以 後 、 京 中 の 廓 、 遊 ⼥ の 町 売 、 夜 の 営 業 が 禁 じ られる 。
1 6 4 2 年 、 京 都 所 司 代 ‧ 板 倉 重 宗 は 「 寛 永 傾 城 法 度 」 を 出 す 。
京都の遊郭街は、二条柳町から六条三筋町、そして、島原(朱雀野・西新屋敷)へと、時の幕府(京都所司代)の命により、強制移転を余儀なくされる。
その陣頭指揮をとったのは、慶長・元和年間は、板倉勝重、そして、寛永以降は、その嫡男の板倉重宗ということになる。
この京都所司代の「花街・遊郭」に対する、一連の規制などは、まさに、当時の「京のミヤコ」の息吹が聞こえてくる。
この「板倉勝重」と共に、京の三本木に隠棲した「高台院」も、「花街・遊郭」の、特に、祇園 の「花街」に与えた影響は、上記の「京都花街・遊郭略史」を、忠実に見ていくと、その一端が見えてくる。
by yahantei (2021-10-12 08:46)