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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その十五) [岩佐又兵衛]

(その十五)「五条橋で踊る老後家尼」は「高台院」なのか?

右四中・高台院アップ.jpg

「洛中・洛外図屏風・舟木本」の「右隻第四・五扇拡大図」(五条橋で踊る老後家尼)→B図
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&

【《老後家尼》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P204)

「この桜の枝を右手に持って肩に担ぎ、左足を高くあげて楽しげに踊っている、この老後家尼は、ただの老女ではありえない。又兵衛は、いったい誰を描いているのだろう。」

《花見帰りの一行の姿』((『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』)P204-205)

「この老後家尼の一行は、笠を被った男二人、それに続き、女たち十二人と男たち十人余りが踊っており、六本の傘が差しかけられている。乗掛馬に乗った武士二人と馬轡持ち二人、荷物を担いでいる男四人、そして、五人の男が振り返っている視線の先に、酔いつぶれた男が両脇から抱きかかえられ、その後ろには、宴の食器や道具を担いだ二人の男がいる。総勢四十五人以上の集団である。」

《傘の文様は?》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P205-206)

「六本の傘を見ると、先頭の白い傘には日の丸(日輪)、次の赤い傘には桐紋、三本目の赤い傘は鶴と亀の文様である。四本目は不明、五本目は日・月の文様のようであり、六本目は花か南蛮の樹木の葉のようである。この先頭の日輪と二本目の桐紋が決定的に重要だ。このような後家尼の姿で描かれる人物は、秀吉の後家、高台院(北政所おね)以外にあり得ない。」】


https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-21


 上記の『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』の論理の展開に、肯定的に解しても、「気がかり」のことは、これは「五条橋で踊る老後家尼」というよりは、「五条橋で踊る若後家尼」という、そんな風情で、その周辺のことについて、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』と『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』とを足掛かりにして触れて置きたい。

醍醐の花見.jpg

「醍醐花見図屏風(六曲一隻・国立歴史民俗博物館蔵)」所収「秀吉と北政所」(部分拡大図)
→ A-1図

 この花見図は、「慶長三年(一五九八)三月十五日に秀吉が催した醍醐寺における花見の宴」のもので、最晩年の秀吉と当時の北政所を描いたものである。
 北政所が落飾して、朝廷(後陽成天皇)から院号を賜り、はじめ高台院快陽心尼、のちに改め高台院湖月心尼と称したのは、慶長八年(一六〇三)、そして、家康の全面的な支援のもとに高台寺を建立したのは、慶長十年(一六〇五)のことである。
 この醍醐の花見の時には、北政所は白系統の頭巾を被っているが落飾はしていない。そして、この時の小袖は赤系統のもので、B図の「五条橋で踊る老後家尼」は、慶長八年(一六〇三)前の「北政所」の花見時の風流踊りの一スナップを描いたものという見方もあり得るであろう。

誓願寺前屏風・誓願寺前の二人の老尼.jpg

岩佐又兵衛筆 誓願寺門前図屏風 17世紀 江戸時代 (京都文化博物館蔵)
「誓願寺門前の二人の尼僧」→ A-2図
https://www.bunpaku.or.jp/exhi_special_post/machishubunka/

 この「誓願寺門前図屏風」については、下記のアドレスで紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-12

 そこで描かれている「誓願寺門前の二人の尼僧」(A-2図)のうちの一人(右脇の老尼僧)が、慶長十年(一六〇五)時、高台寺を創建して頃以降の高台院のような雰囲気を有している。
 この老尼僧(A-2図)に近い、老尼僧姿の高台院が、慶長十一年(一六〇六)八月十三日に、豊臣秀頼とその母の淀殿が豊国神社に奉納した「豊国祭礼図屏風」(豊国神社本、狩野内膳=重郷筆、六曲一双)の中の何か所かに描かれている。
 この「豊国祭礼図屏風」(豊国神社本)については、『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』では、次のような項目で詳細に吟味しながら、それらの絵解き(絵の背景の謎解き)をしている。

Ⅵ 豊国神社本「豊国祭礼図屏風」と淀殿—慶長十年
〇 狩野内膳に制作を命じ、奉納したのは誰か(p167-168)
〇 臨時祭礼図屏風(p168)
〇 片桐且元の奉納とあるのはなぜか(p169)
〇 諸人の見物に供された(p169-170)
〇 不都合な表現?(p170-171)
〇 豊国神社本の構図(p171-174)
〇 祭礼次第の表現(p174-175)
〇 東山の遊楽空間と豊国廟(p176-178)
〇 豊国躍の集団(p178-179)
〇 それぞれの輪の特徴(p179-181)
〇 桟敷の描かれ方(p181-182)
〇 高台院は描かれているか(p182)
〇 高台院の桟敷(p182-184)
〇 ここに高台院の姿があった(p184)
〇 皺くちゃな顔の高台院(p184-185)
〇 豊国躍を見物する高台院も怖い顔(p185-187)
〇 豊国神社本の老人表現(p187-188)
〇 徳川美術館本の老人表現(p188-189)
〇 狩野内膳が描いたおだやかな表情の老女(p189-192)
〇 高台院とその周囲の者たちは見た(p192-193)
〇 慶長十年の政治的緊張(p193-194)
〇 敵対か連繋か?(p194-195)
〇 淀殿・秀頼の「豊国祭礼図屏風」(p195-197)

ここで、狩野内膳について紹介をして置きたい(この狩野内膳は、岩佐又兵衛の師の一人とされている)。

【狩野内膳 没年:元和2.4.3(1616.5.18) 生年:元亀1(1570)
安土桃山・江戸初期の画家。名は重郷、号は一翁。荒木村重の家臣池永重元の子として生まれる。天正6(1578)年ごろ、根来密厳院に入ったが、のち還俗して狩野松栄に絵を学んだ。15年には狩野氏を称することを許され、またそのころ、天下人秀吉の支持を得て、以後、豊臣家の絵事を勤めた。秀頼の命で「家原寺縁起」の模写をしている。「豊国祭礼図屏風」(豊国神社蔵)は、慶長9(1604)年秀吉の7回忌臨時大祭の公式記録ともいうべきもので、内膳の代表作である。同11年秀頼によって奉納された。その他内膳の作としては「南蛮屏風」(神戸市立博物館蔵)が著名である。<参考文献>成沢勝嗣「狩野内膳考」(『神戸市立博物館研究紀要』2号) (榊原悟) 】(朝日日本歴史人物事典)

豊國神社本・右隻.jpg

「豊国祭礼図屏風(右隻)」(豊国神社蔵=豊国神社本)
https://www.kyotodeasobo.com/art/static/houmotsukan/img/saireizu-right2.jpg

豊國神社本・左隻.jpg

「豊国祭礼図屏風(左隻)」(豊国神社蔵=豊国神社本)
https://www.kyotodeasobo.com/art/static/houmotsukan/img/saireizu_left2.jpg

https://www.kyotodeasobo.com/art/static/houmotsukan/toyokuni-shrine/01-toyokuni-byoubu.html#.YVv5iDHP3IU


【《右隻》当時の神社の広大さに驚き。今の京都へ繋がる要素も満載。
右隻には、当時の広大な豊国神社を中心に、8月14日(旧暦)に行われた祭礼の様子が描かれています。画面上部にあるのが当時の豊国神社の建物。画面の右側には三十三間堂の建物も見えます。当時、神社は現在秀吉のお墓「豊国廟」がある阿弥陀ヶ峯の中腹に建てられていたということですが、これだけ巨大な建物が山の上にあったのかと思うと驚くばかりです。
 画面手前は大和大路、門の辺りが東大路と七条通の交差点付近にあたるとのこと。当時豊国神社は社領が1万石、境内の敷地は30万坪の誇大な敷地を有していましたが、具体的に現在の京都の町並みと照らし合わせながら見ると、とても実感が沸いてきます。
 門の前に設けられた舞台では秀吉に奉納する「新作能」が舞われ、周りの客席から豊臣家をはじめとした大名や公家などの人々が見物しています。秀吉は大のお能ファンだったといいますから、その趣味も反映しているのでしょう。この能は大和猿楽四座、現在の観世・宝生・金剛・金春(こんぱる)の流派が合同で行われたそうで、現在から考えてもとても贅沢な内容だったようです。
 築地塀を挟んで手前には、馬に乗った人々の行列が左端からずっと続いています。これは「神官馬揃え」といい、着飾った神官たち200名が、それぞれ諸大名から提供された馬に乗って建仁寺から豊国神社までを行進したのだとか。
「馬揃え」といえば織田信長が京都で行ったものが特に豪華なものとして知られていますが、この祭礼の時の馬揃えはそれを凌駕するほどの規模だったといいます。
 因みに、行列が神社の敷地へ入っていくときに通っている門。実はこれ、現在の東寺の南大門。元々は方広寺の西門だったのですが、後に東寺に移築されたのだそうです。
絵の中には、今の京都へと繋がる色々な要素が詰まっていることが、よくわかります。

《左隻》祭りの最高潮を彩る「風流踊り」の図は、細部にご注目。
左隻には、右隻の翌日、8月15日(旧暦)に行われた祭礼の様子が描かれています。中心にどん、と構えるのは巨大な方広寺の大仏殿。ちょうど、現在豊国神社が建っている位置です。(門の辺りが現在神社の鳥居がある位置)画面左上の方には清水寺が見えます。清水寺名物の舞台や、「音羽の滝」もきちんと描かれています。
 大仏殿の前では、幾重にも輪になって踊る人々の姿が目をひきます。彼らは主に京都の上京・下京に住んでいた町衆たち。この踊りは「風流踊り」といい、大きな「風流傘」と呼ばれる飾りを押し立てて、それを中心に花笠を被った人々がエネルギッシュに乱舞するその様子は、まさに祭のクライマックスを感じさせます。
ちょうど祭礼の前の年に出雲阿国の舞が京都では評判になっていたようで、恐らく「かぶき者」の影響もあるのでしょう。人々の衣装はどれも派手で鮮やかです。
 大仏殿の門の周辺には、桟敷席で見物している人々も見られます。(門の正面で傘を差しかけてもらっている尼さんは北政所。秀吉の妻、お寧です)
この桟敷席の背景部分には屏風が立てかけられているのですが、実はこの中には長谷川等伯の作品と思われる絵が描きこまれているのだそうです。
この作品が描かれた当時は、ちょうど画檀の覇権を巡って狩野派と長谷川派がしのぎを削っていた時期。狩野派の絵師がライバル長谷川派の絵が描かれている。相手の作品を否定するどころか逆に肯定して取り入れてしまっているというのは、非常に面白いポイントではないでしょうか。
 他にも注目しておきたいのは、人々の服装。おそろいの衣装をまとった踊り手たちに混じって、よく見るとヨーロッパ風の格好をしている人もいます。要するに南蛮人の仮装、所謂コスプレです。また、打ち出の小槌のようなものを持った人もいます。これは七福神でしょうか。今でこそよく知られるようになった「コスプレ」ですが、もうこの時代に既にあったのですね。
そして極めつけは「たけのこ」。なんとたけのこの被り物をした人がいるのです。一体どうしてこの人はこんな格好をしてしまったのでしょうか?何か特別な理由でもあったのでしょうか?筍の季節のお祭でもないのに…
「本当に?」と思う方もいらっしゃるかと思いますが、ちゃんと絵の中にいますので、ご覧になる際は是非、探してみて下さい。 】

 この「豊国祭礼図屏風」(狩野内膳筆・豊国神社本)が、下記のアドレスで触れている「豊国祭礼図屏風」(岩佐又兵衛筆・徳川美術館本)と連動しているというよりも、そのモデルとなっている先行的な作品であることは、先にも簡単に触れてはいるが、以後も関係するところで触れて行きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-14

高台院豊國神社本・.jpg

「豊国祭礼図屏風(左隻)」(豊国神社蔵=豊国神社本)第二扇中部拡大図(「石段で豊国躍を見る『老尼』たち」) → A-3図
https://www.kyotodeasobo.com/art/static/houmotsukan/img/saireizu_left2.jpg

 上記の解説(左隻)の「大仏殿の門の周辺には、桟敷席で見物している人々も見られます。(門の正面で傘を差しかけてもらっている尼さんは北政所。秀吉の妻、お寧です)」というのが、上記の図(A-3図)で、ここに中心に位置する老尼が「高台院」なのだが、その老尼は、その「第三扇中部の桟敷に坐っている老尼」(A-4図)と同一老尼のようである。

高台院二・豊國神社本.jpg

「豊国祭礼図屏風(左隻)」(豊国神社蔵=豊国神社本)第三扇中部拡大図「桟敷に坐っている老尼」』 → A-4図 

この図(A-4図=左隻第三扇)は、「石段で豊国躍を見る『老尼』たち」(A-3図=左隻第二扇)の、左側(第三扇)に描かれている「桟敷に坐っている老尼」』で、『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』の「図Ⅵ-8」(p188)のものである。
 この「皺くちゃな顔の高台院」は、「右隻第四扇(上部)」にも、「品玉(田楽)を見ている『老尼』」(『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』の「図Ⅵ-5=p185」)で、やはり「皺くちゃな顔の高台院」で、同じような顔つきで描かれている。
 そして、『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』(P196-197)で、次のような見解を記述している。

【 狩野内膳は、淀殿・秀頼の注文(指示)通りに、図Ⅵ-5や図Ⅵ-7(「図Ⅵ-8」の誤記?)のような皺くちゃで怖い顔をした高台院を「豊国祭礼図屏風」のなかに描いたのである。
なお、皺だらけで怖い顔に高台院が描かれているという私の見解に対して、それは主観的判断なのではないかとこだわる人がいると思う。確かに美醜は厄介である。本章では、徳川美術館本しか比較していないが、管見の近世初期風俗画の諸作品については、老人・老女がどのように描かれているかの比較・検討は、私は悉皆的に行ってみた。その結果では、豊国神社本の老尼表現の特異性は明瞭であった。(以下、略)  】『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』(P-196)

 そして、これらの背景については、次のように記述している。

【 慶長九年八月に執り行われた豊国大明神臨時祭礼に臨席できなかった淀殿と秀頼は、狩野内膳に命じてその盛大な祭礼のありさまを屏風に描かせることにした。しかし、同十年に生じた家康と淀殿・秀頼の間の政治的緊張のなかで、家康の使者となった高台院に対して激しい怒りを抱いた淀殿・秀頼は、高台院を皺だらけの怖い顔の老尼として描いた屏風つまり豊国神社本「豊国祭礼図屏風」をつくらせ、それを同十一年八月に片桐且元の奉納ということにして、豊国社の「下陣」で公開させたのだ、と。(以下略)  】『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』(P195-196)

続いて、『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』では、「Ⅶ 妙法院模本「豊国祭礼図屏風」と高台院—慶長十七年」(P198-229)の「妙法院模本」(原本が紛失し、「メクリ十枚」の写本が現存)の「高台院」が、どのように描かれているのかを、これまた、「豊国神社本」の検討視点と同じような角度で考察している。

妙法院も本の高台院.jpg

「妙法院模本右隻第二扇(中部)」所収「図Ⅶ-3楼門北側の桟敷に坐っている高台院」・「図Ⅶ-4桟敷で騎馬行列を見物している高台院」 → A-5図

【 神龍院梵舜と高台院は、慶長十五年八月の秀吉十三回忌にちなんだ豊国大明神臨時祭礼と、その翌年三月の二条城における家康と秀頼の対面という二つの大きな出来事を契機にして、「豊國祭礼図屏風」(妙法院模本の原本屏風)を新調することにしたのであった。そして、狩野孝信とされている画家に制作させた新調屏風は、慶長十七年四月に「下陣」に立てられ、諸人の見物に供せられたのである。
この新調屏風には、高台院の姿が右隻に三か所、左隻に一か所描かれ、豊国神社本の皺だらけで怖い男顔に描かれていた高台院の姿を、豊国社の宝庫へと追いやったのであった。(中略)
淀殿や高台院の制作意図は、明らかに慶長期政治史の緊張関係のなかで生まれた。一方のおそらく慶長十年に制作が開始され、同十一年八月に奉納された豊国神社本は、同十年の政治的危機に関する貴重な絵画史料なのである。他方の、たぶん同十六年に制作が開始され、同十七年四月に「下陣」に立てられた妙法院模本の原本屏風は、同十六年前後の政治的危機を物語る重要な絵画史料なのであった。 】『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』(P227-228)

 これに続いて、『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』では、「Ⅷ 徳川美術館本豊国祭礼図屏風」と岩佐又兵衛—元和元・同二年」(P230-270)の、論理の展開と見解の一端を記述している。

【〇 祭礼の場面に高台院はいない(P268)  
 われわれの視線を徳川美術館本の画面に戻して、改めて左右両隻に描かれた臨時祭礼の場面を見ると、桟敷にも、そして見物する人びとのなかにも、どこにも高台院とおぼしき老尼や後家尼の姿は見当たらない。これは画家の姿勢だけではあるまい。発注者である蓬庵・蜂須賀家政は、桟敷などにいる高台院を描くようにといった細かい指示・指定はしなかったのであろう。つまり、蓬庵は、岩佐又兵衛に豊国神社本と同様の「豊國祭礼図屏風」を注文しただけであり、徳川美術館本の表現は岩佐又兵衛に任されていたと思われるのである。

〇 蓬庵と岩佐又兵衛、そして元和元年かその翌年(P269-270)
徳川美術館本の制作を思い立ったのは、蓬庵・蜂須賀家政であった。慶長十九年頃に、岩佐又兵衛工房に発注され、元和元年四―五月の大阪夏の陣後のある時期(元和元年後半から翌年)に完成した。それは阿波小松島の豊国社か蓬庵・蜂須賀家政の手元(中田村の隠居屋敷など)に置かれていたが、寛永六年の蓬庵の死に際して、彼の遺品として遺骨とともに高野山光明院へ奉納されたのであった。
(中略)
 すなわち、徳川美術館本「豊國祭礼図屏風」は、慶長十九年の方広寺銘事件に始まり、元和元年四―五月の大阪夏の陣で終わった生々しい政治史のなかで生み出された作品だったのである。
 また、朱鞘の若者の姿は、大阪夏の陣直後の画家・岩佐又兵衛が、豊臣秀頼の死と豊臣氏の滅亡を解釈して「かぶき者」に見立てた姿なのであった。元和元年における戦争の終結を、このように見立て、橋向こうに「うき世」の到来を描くところに、私は、慶長十九年・元和元年の岩佐又兵衛を見たい。  】『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』(P268-270)

これらの周辺については、下記のアドレスで、幾度となく、触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-14

 ここで、改めて、これらの「豊國祭礼図屏風」(豊国神社本・妙法院模本・徳川美術館本)と冒頭のB図の「洛中・洛外図屏風・舟木本」の「右隻第四・五扇拡大図」(五条橋で踊る老後家尼)との関連はどうかということになると、やはり、さらにクリアすべき様々な疑問点が浮かび上がってくる。

徳川美術館本右隻貴賓席二.jpg

「豊国祭礼図屏風(徳川美術館本)」右隻(第二・三・四扇部分拡大図)の「豊国社前の『舞楽』と『騎馬行列』」→C図→C-1図の「貴賓桟敷席(その一)」
https://artsandculture.google.com/asset/festival-of-h%C5%8Dkoku-shrine-right-screen-iwasa-matabei/2AFW7iv6tr1u3g?hl=ja

 『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』の「Ⅷ 徳川美術館本豊国祭礼図屏風」と岩佐又兵衛—元和元・同二年」(P230-270)では、「祭礼の場面に高台院はいない(P268)」というのだが、この「C-1図の「貴賓桟敷席(その一)」に高台院が描かれているのではなかろうか(この画像からは判定できない)。

徳川美術館本右隻貴賓席.jpg

「豊国祭礼図屏風(徳川美術館本)」右隻(第二・三・四扇部分拡大図)の「豊国社前の『舞楽』と『騎馬行列』」→C図→C-2図の「貴賓桟敷席(その二)」
https://images.dnpartcom.jp/ia/workDetail?id=TAM000411

 この「C-1図」と「C-2図」は、同じものなのだが、この画面(上記のアドレスの画像の拡大図)の左端の尼僧らしき女性が高台院の雰囲気なのである。この女性の右後ろと、この画像の右端の女性が尼僧(白い頭巾=被きをかぶっている。しかし、墨染の僧衣ではない)らしき雰囲気である。
 この「C-1図」と「C-2図」とは、下記の「C図」の「豊国社の『舞楽』と『騎馬行列』」の拡大図なのだが、下記アドレスのものと、さらに検討を要する点が多々あるという課題提起にして置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-14

豊国祭礼図・右隻部分拡大図.jpg

「豊国祭礼図屏風」右隻(第二・三・四扇部分拡大図)の「豊国社前の『舞楽』と『騎馬行列』」→C図
https://artsandculture.google.com/asset/festival-of-h%C5%8Dkoku-shrine-right-screen-iwasa-matabei/2AFW7iv6tr1u3g?hl=ja


 ここで冒頭の「五条橋で踊る老後家尼」(B図)に戻って、この「老後家尼」(B図)は、
「豊国神社本」の「高台院」(A-3図とA-4図)、そして、「妙法院模本」の「高台院」(A-5図)から、それを「高台院」(老後家尼=高台院)とイメージするには、余りにも乖離が甚だしいということを指摘して置きたい。
 さらに、同じ、岩佐又兵衛筆と伝承されている「誓願寺門前の二人の尼僧」(A-2図)からも、「老後家尼」(B図)をイメージ化することが困難であることは、「豊国神社本」(A-3図とA-4図)と「妙法院模本」(A-5図)と全く同じ印象を受ける。
 そして、この岩佐又兵衛筆の「老後家尼」(B図)は、唯一、「醍醐花見図屏風(六曲一隻・国立歴史民俗博物館蔵)」所収「秀吉と北政所」(A-1図)の「北政所」の「老後家尼」のイメージと合致してくる。
 さらに、検討を要する点が多々あるという課題提起に留めている「徳川美術館本」の「貴賓桟敷席(その二)」(C-2図)の「老後家尼」は、「舟木本」の、この岩佐又兵衛筆の「老後家尼」(B図)と連動している思いを深くする。
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yahantei

「舟木本」(「洛中洛外図屏風)の、「五条橋で踊る老後家尼「」(B図)を、「豊國祭礼図屏風」、その「豊国神社本」、「妙法院模本」そして「徳川美術館本」の三本立ての関連で、比較検討していく作業は、労の多い作業である。
 そして、一にも二にも、豆粒ほどの人物(高台院)を、画像を拡大しても、予期するような画像は得られず、そういう限界がある作業でもある。
 それに加えて、「誓願寺門前屏風」を加えると、四本立てとなり、この作業は、どうにも、余り深入りしないで、凡その検討がついたら、先に進むのが肝要のようである。
(この種のコメントをアップしたら、画像認証の関係などで、アップされず、迷宮入りするという、このコメントの弱点もあるようである。これは、アップされるのかどうか?)

by yahantei (2021-10-07 10:11) 

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