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狩野内膳筆「南蛮屏風」周辺(その一) [狩野内膳]

(その一)「ロレンソ了斎」か「千利休」か(?)

狩野内膳・ロレンソ了斎.jpg

「狩野内膳筆・南蛮屏風・右隻(神戸市立博物館蔵)」→ 「狩野内膳筆『右隻』・カピタンを出迎える修道者たち」(第一・二扇拡大図)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-01-07

 上記のアドレスで紹介したときの、「狩野内膳筆・南蛮屏風(神戸市立博物館蔵)」は、次のものであった。

狩野内膳・左隻.jpg

「狩野内膳筆・南蛮屏風・左隻(神戸市立博物館蔵)」紙本金地著色・6曲1双・各154.5×363.2
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=1

狩野内膳・右隻.jpg

「狩野内膳筆・南蛮屏風・右隻(神戸市立博物館蔵)」紙本金地著色・6曲1双・各154.5×363.2
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

 そして、上記のアドレスのときの、「狩野内膳筆『右隻』・カピタンを出迎える修道者たち」(第一・二扇拡大図)の、この中央の老イルマン(修道者・修道士)は、次のアドレスの「ロレンソ了斎」とうことで、次の、「南蛮屏風・狩野内膳が描いた屏風について―イルマン・ロレンソの事(長崎26聖人記念館館長・結城了悟稿)」のみを紹介していた。

http://nagasaki-keizai.co.jp/sky/2003_06.html

【 (前略)
出迎えの人達の中に三人の神父と二人のイルマン、そして、もう一人・若者の案内人、そして、彼等の外にもう一人の老人がいることに注目したい。その老人は特別の服を着ていることに気がつかれるであろう。更に、彼等の後には服装の違った二人のフランシスコ会の修道者と街の人達が描かれている。
(中略)
この屏風に描かれているナウ(ポルトガル船の船型)は以下のことより考えて1591年7月の初め長崎に入港してきたロケ・デ・メル(ロケ・デ・メロ・ペレイア)の船であると考えた。
 其の年は秀吉の朝鮮出兵の準備として肥前名護屋(呼子)を中心にしてお城や陣屋、そのための街が建設されていたので、京都の町より狩野派の絵師達も招かれ活躍していたと神父達の記録に記してある。
 この時、長崎にポルトガル船入港の知らせが各地に伝えられた。秀吉はこの時期にはまだ関東にいたので、名護屋にいた人達は長崎に走ってポルトガル人見物に出かけた。狩野派の画家も長崎に走ったと考える。そして、画家達は長崎の風景、南蛮船、神父達をスケッチした。
 その事は屏風の中に描かれているイエズス会神父達の中にひときわ背が高い神父が描かれているが、この人物こそヴァリニャーノ神父なのである。神父は長崎に天正少年使節一行と共に1590年7月21日、アントニオ・ダ・コスタの船で着いたと記録されている。
 (中略)
 ここで今1つ神父達と共にいる老人の事について考えてみよう。その姿は他の人物に比べて顔面の細部まで陰影をつけ丁寧に描かれている。服装は他の日本人と違い元琵琶法師とよばれた老人を思わせる着物を身につけているが、被っている帽子はイエズス会員の帽子と同じものである。
 老人は右手には杖を持ち、左手にはコンタスを握っている。白い眉の下の目は遠い所をじっと見つめている。当時このような特色をもつ日本人のイエズス会員は、聖F.ザビエルより受洗した盲目の琵琶法師ロレンソりょう斎しか他にいなかった。
 ロレンソは1587年、秀吉のキリシタン追放令のとき、それまで居た京都より長崎に下り、長崎の近くの古賀の教会で2年程活躍したが老年と病気のため長崎のコレジヨに引退していた。
前述のように1590年来航したヴァリニャーノ神父とロレンソは話を交し、1592年2月3日長崎のコレジヨで昇天している。
 以上の事よりヴァリニャーノ神父とロレンソが一緒に入港したポルトガル船を出迎えることができたのは、1591年入港してきたロケの船だけであり、岬の教会も其の年までは建っていたのである。
 (中略)
 唯ここで加えておくことは、屏風に描かれているフランシスコ会の修道者のことである。この屏風は たしかに1591年の長崎の様子を描いたものであるが、その時期にはフランシスコ会士は未だ我が国に は来航していなかったので、内膳は京都に帰って屏風を仕上げるときフランシスコ会士も加えたと考える。内膳がフランシスコ会士をスケッチできた時期は、会士達が肥前名護屋を訪ねた1593年か、其の後京都の町に行った時であると考える。
 以上の事よりこの屏風の下図(構想)は1591年長崎に入港したポルトガル船と町の様子をスケッチし、それを京都に帰り、南蛮屏風として仕上げたものであると考える。 】
(「南蛮屏風・狩野内膳が描いた屏風について―イルマン・ロレンソの事(長崎26聖人記念館館長・結城了悟稿)」)

南蛮屏風(千利休?).jpg

「狩野内膳筆『右隻』・カピタンを出迎える修道者たち」(第一・二扇拡大図の二)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

 上記の「南蛮屏風・狩野内膳が描いた屏風について―イルマン・ロレンソの事(長崎26聖人記念館館長・結城了悟稿)」は、「狩野内膳筆『南蛮屏風』を読み解くための貴重な情報を提供してくれる。
 まず、その「この屏風に描かれているナウ(ポルトガル船の船型)は以下のことより考えて1591年7月の初め長崎に入港してきたロケ・デ・メル(ロケ・デ・メロ・ペレイア)の船である」ということは、この一年後の、文禄元年(一五九二)二月に、「ロレンソ了斎」
は亡くなっている。
 すなわち、この「右手には杖を持ち、左手にはコンタスを握っている」老人(老修道士)は、亡くなる一年前の「ロレンソ了斎」(六十五歳)ということになる。

【1592 年(文禄元)(ロレンソ 66 歳) 2 月 3 日 ロレンソの死去 長崎の修道院で死去した。66 歳。

『毎週必ず修道院の小聖堂へ椅子にすわったまま運ばれて御聖体拝領する習慣があったが、この日、食事の後、あるイルマンとひとりの信者が話している時,用があるからちょっと部屋からでるようにと彼らに言い、いつも彼に仕えているひとりの小者を呼び、起き上がるのを手伝うように頼んだ。ベットにすわり小者が腕をかかえた時には、ロレンソは「イエズス」の聖なる名を呼んで、一瞬の間に静かに亡くなったので、小者さえ、彼がこの世を去ったとは気が付かなかった。その後しばらくして、ロレンソが死んでいることに気がつき、外で待っていたイルマンを呼んだ。イルマンは部屋に入ると、そのまますわって小者にかかえられて死んでいるロレンソを見つけた。亡くなったのは 1592 年 2 月 3 日のことであった。家の人もよその人もみんな非常に悲しんで彼を偲んだ。』
*Luis Frois S.I.,“Apparatos para a Histpria Ecclesiastica do Bispado de Japam”
Biblioteca de Ajuda, Lisboa Codex 49, IV, 57, cap. 35    】
(ロレンソ了斎の豊後府内滞在の記録  ロレンソ了斎の生涯に沿って)
http://takayama-ukon.sakura.ne.jp/pdf/booklet/pdf-takata/2017-08-17-04.pdf

 この「ロレンソ了斎」が亡くなる一年前の、この「ロケ・デ・メロ・ペレイア」のポルトガル船が長崎に入港した、その天正十九年(一五九一)は、豊臣秀吉が天下の茶頭「千利休」を賜死(切腹?)させた年なのである。

【天正19年(1591年)2月13日 利休は突然、京都を追放され堺の自宅に蟄居させられる。
同年2月25日 京都一条戻橋に、大徳寺山門にあった問題の利休木像が磔にされる。
同年2月28日 木像の下に利休の首がさらされる。 】
(豊臣秀吉が命じた『茶人千利休切腹事件』の真相はこれ!ホント?)
https://rekishizuki.com/archives/1538

 これらを前回(その三十五「参考その一「荒木村重・岩佐又兵衛と結城秀康・松平忠直」周辺略年譜」追加「狩野内膳」)の、その「天正十九年(一五九一)」前後の「年譜(略年譜)」は、次のとおりとなる。

【※※1590年(天正18年)黒田如水45歳 小田原征伐において、小田原城(神奈川県小田原市)を無血開城させる。
※※※1590年(天正18年)結城秀康17歳  北条氏掃討のため、小田原征伐へ参陣。前年、豊臣秀吉に実子・鶴松が生まれ、豊臣家の後継者に指名されたことから、結城秀康は同家を出る。結城家を継ぎ、11万1,000石の地方大名となる。
●1590年(天正18年)狩野内膳21歳 内膳こと狩野久蔵筆「平敦盛像」。この頃小出播磨守新築に「嬰児遊技図」を描き豊臣秀吉に認められる(画工便覧)。

△1591年(天正19年)千利休70歳 秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられ、利休七哲の前田利家らの奔走・助命適わず、京都に呼び戻され、聚楽屋敷内で賜死(切腹?)。

※※1592年(天正20年/文禄元年)黒田如水47歳  文禄の役、及び慶長の役において築城総奉行となり、朝鮮出兵の拠点となる名護屋城(佐賀県唐津市)の設計を担当する。
〇〇1592年(天正20年/文禄元年)岩佐又兵衛 15歳 この頃、織田信雄に仕える。狩野派、土佐派の画法を学ぶ。絵の師匠は狩野内膳の説があるが不明。
●1592年(天正20年/文禄元年)狩野内膳 23歳 狩野松栄没。永徳(松栄の嫡男)の嫡男・光信(探幽は甥)、文禄元年(一五九二)から二年にかけて肥前名護屋に下向、門人の狩野内膳ほか狩野派の画家同行か?(『南蛮屏風(高見沢忠雄著)』)   】(下記の「参考一」から抜粋)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-01-19

 この天正十八年(一五九〇)の「小田原征伐」とは、豊臣秀吉が頂点に上り詰めた「天下統一」の、その上り坂を象徴するものであろう。そして、天正二十年(一五九二)の「朝鮮出兵の拠点となる名護屋城(佐賀県唐津市)の築城」は、豊臣秀吉の野望とその後の豊臣家の滅亡を予兆する、その下り坂を象徴するものということになる。
 そして、その分岐点に位置するのが、天正十九年(一五九一)の「千利休の賜死(切腹?)」事件ということになる。そして、この真相は、上記のアドレスの「豊臣秀吉が命じた『茶人千利休切腹事件』の真相はこれ!ホント?」では、下記の八点を紹介しているが、この「六 利休キリシタン説」も、上記の「ロケ・デ・メロ・ペレイアのポルトガル船長崎入港、そしてその一年後の『ロレンソ了斎』の死」に関連させると、その「七 利休芸術至上主義の抵抗説」などと併せ、無下にすることは出来ないであろう。

https://rekishizuki.com/archives/1538

「千利休の賜死(切腹?)」の真相を巡る見解のあれこれ

一 売僧行為(茶道具不当売買)説
二 大徳寺木像不敬説
三 利休の娘説
四 秀吉毒殺説
五 利休専横の疑い説
六 利休キリシタン説
七 利休芸術至上主義の抵抗説
八 利休所持茶道具の献上拒否説

(「六 利休キリシタン説」に関連して)

【 大徳寺の説に云、諸長老を聚楽の城へ被召寄、家康公、幽斎公を以て被仰出候者、大徳寺山門の下は、上様も御通被成候に、利休が木像を山門の上に作置るゝ事、曲事に被思召候。
申分有之候はヾ可申上と有、古渓承て山門の普請外、木像置候事、我等相談仕候。一山の長老の被存儀ニ無御座候。いか様にも私壱人曲事可被仰付候と被申上候。太閤重而、利休が木像を置る、いわれを可申上由、被仰出、
古渓何共御返答無御座候と被申候。家康公、常々古渓に御懇故、夫ニ而者、埒不明候。何とぞ御機嫌直り候様ニ申上度と被仰候。其時、古渓懐中より、長谷部の小釼を抜出し、御返事ハ是ニ而、自害可仕覚悟ニ候と被申候。
家康公一段埒明候と被仰、則、其段被仰上候へハ、太閤早速御機嫌直り、古渓ハ左様ニて有と思召候。諸事御赦免被成候間、一山の諸長老も可罷歸由、被仰出候。
扨、利休か木像ハ堀川戻り橋の下にくゝりさせ、往来の人に御踏せ候。此木像二条獄所の二階に、今に有之とかやと云々。
(引用:小松茂美 『利休の手紙 310頁「細川家記」』1985年 小学館)

大意、”大徳寺の話では、長老らが聚楽第に召喚され、徳川家康、細川幽斎から尋問を受けた。それは、『大徳寺の山門は関白殿下も通られるのに、利休の像を山門の上に作り置くとは何事か。申し開きの弁があるなら申してみよ。』とあった。
 それに対して古渓和尚が受けて言うには、『山門の普請ほか木像安置の件なども相談してみましたが、一山の長老たちは知らぬことです。これはわたしひとりの罪として仰せ付け下さい。』と。
 対して、『関白殿下も重く見ておられるので、利休の木像が山門に安置してある理由を答えてください』と重ねて尋問すると。
 古渓和尚言うには、『どうとも答えようがありません。』と。
家康公は常日頃古渓和尚と親しくしているので、『それでは埒があきませんね、どうか関白殿下の機嫌が直るように申し上げたいとお話ください。』
 その時、古渓和尚は懐中より小刀の名刀長谷部を抜き出されて、『返事はこれです。自害する覚悟です。』と申し上げます。
 すると、家康公は『これで埒が明きましたよ。』と言われ、すぐに関白殿下にその事を報告になり、「古渓はそうであったか」と関白殿下の機嫌は忽ち直り、すべて御赦免になりました。大徳寺の他の長老らも帰山することが出来ました。
 さて一方、利休と木像はと言うと、一条戻橋に括り付けられ、往来に人々に踏みつけられまして、今木像は二条の獄舎の二階にあると言います。”  】

(「参考その一」)

 「荒木村重・岩佐又兵衛と結城秀康・松平忠直」周辺略年譜

荒木村重略年譜    https://www.touken-world.jp/tips/65407/
※高山右近略年譜   https://www.touken-world.jp/tips/65545/
※※黒田如水略年譜  https://www.touken-world.jp/tips/63241/
※※※結城秀康略年譜 https://www.touken-world.jp/tips/65778/
〇松平忠直略年譜   
https://meitou.info/index.php/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E7%9B%B4
〇〇岩佐又兵衛略年譜
https://plaza.rakuten.co.jp/rvt55/diary/200906150000/
△千利休略年譜
https://www.youce.co.jp/personal/Japan/arts/rikyu-sen.html
●狩野内膳略年譜
https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/jart/nenpu/2knnz001.html

△1522年(大永2年)千利休1歳 和泉国・堺の商家に生まれる。
1535年(天文4年)荒木村重1歳 摂津国の池田家に仕えていた荒木義村の嫡男として生まれる。幼名は十二郎(後に[弥介]へ変更)。
△1539(天文8年)千利休18歳 北向道陳、武野紹鴎に師事。
※※1546年(天文15年)黒田如水1歳 御着城(兵庫県姫路市)の城主・小寺政職の重臣・黒田職隆の嫡男として生まれる。
※1552年(天文21年)高山右近1歳 摂津国(現在の大阪府北中部、及び兵庫県南東部)にて、高山友照の嫡男として生まれる。高山氏は、59代天皇・宇多天皇を父に持つ敦実親王の子孫。また高山氏は、摂津国・高山(大阪府豊能町)の地頭を務めていた。
※1564年(永禄7年)高山右近13歳 父・高山友照が開いた、イエズス会のロレンソ了斎と、仏僧の討論会を契機に入信。妻子や高山氏の家臣、計53名が洗礼を受け、高山一族はキリシタンとなる。高山右近の洗礼名ドン・ジュストは、正義の人を意味する。父はダリヨ、母はマリアという洗礼名を授かる。
※※1567年(永禄10年)黒田如水22歳 黒田家の家督と家老職を継ぎ、志方城(兵庫県加古川市)の城主・櫛橋伊定の娘であった光姫を正室として迎え、姫路城(兵庫県姫路市)の城代となる。
※※1568年(永禄11年)黒田如水23歳 嫡男・黒田長政が生まれる。
●1570年(元亀元年)狩野内膳1歳  荒木村重の家臣(一説に池永重光)の子として生まれる。
1571年(元亀2年)荒木村重37歳 白井河原の戦いで勝利。織田信長から気に入られ、織田家の家臣になることを許される。
※1571年(元亀2年)高山右近20歳 白井河原の戦いにおいて和田惟政が、池田氏の重臣・荒木村重に討たれる。高山右近は和田惟政の跡を継いだ嫡男・和田惟長による高山親子の暗殺計画を知る。
1573年(元亀4年/天正元年)荒木村重39歳 荒木城(兵庫県丹波篠山市)の城主となる。現在の大阪府東大阪市で起こった若江城の戦いで武功を挙げる。
※1573年(元亀4年/天正元年)高山右近22歳 荒木村重の助言を受け、主君・和田惟長への返り討ちを決行。高槻城で開かれた会議の最中に、和田惟長を襲撃し致命傷を負わせた。その際、高山右近も深い傷を負う。高山親子は荒木村重の配下となり、高槻城主の地位を高山右近が譲り受ける。
1574年(天正2年)荒木村重40歳 伊丹城(有岡城)を陥落させ、同城の城主として摂津国を任される。
※※※1574年(天正2年)結城秀康1歳 徳川家康の次男として誕生。母親は徳川家康の正室・築山殿の世話係であった於万の方で、当時忌み嫌われた双子として生まれる。徳川家康とは、3歳になるまで1度も対面せず、徳川家の重臣・本多重次と交流のあった、中村家の屋敷で養育された。
1575年(天正3年)荒木村重41歳 摂津有馬氏を滅ぼし、摂津国を平定。
1576年(天正4年)荒木村重42歳 石山合戦における一連の戦いのひとつ、天王寺の戦いに参戦。
1577年(天正5年)荒木村重43歳  紀州征伐に従軍。
1578年(天正6年)荒木村重44歳  織田信長に対して謀反を起こし、三木合戦のあと伊丹城(有岡城)に籠城。織田軍と1年間交戦する。
※1578年(天正6年)高山右近27歳 主君・荒木村重が織田家から離反。高山右近が再考を促すも荒木村重の意志は固く、やむなく助力を決断。荒木村重は居城・有岡城(兵庫県伊丹市)での籠城を決め、有岡城の戦いへと発展。
※※1578年(天正6年)黒田如水33歳 三木合戦で兵糧攻めを提案し、三木城(兵庫県三木市)を攻略した。織田信長に対して謀反を起こした荒木村重を説得するために、有岡城(兵庫県伊丹市)に向かうが、幽閉される。
〇〇1578年(天正6年)岩佐又兵衛1歳 摂津伊丹城で荒木村重の末子として誕生。父荒木村重が織田信長に叛く
1579年(天正7年)荒木村重45歳 妻子や兵を置いて、突如単身で伊丹城(有岡城)を脱出。嫡男の荒木村次が城主を務めていた尼崎城へ移る。そのあと、織田信長からの交渉にも応じず出奔。自身の妻子を含む人質が処刑される。
※1579年(天正7年)高山右近28歳 有岡城にて織田軍と対峙。織田信長から、「開城しなければ、修道士達を磔にする」という苛烈な脅しを受ける。これにより高山右近は領地や家族を捨て頭を丸め紙衣一枚で、単身織田信長のもとへ投降。その潔さに感じ入った織田信長は、再び高槻城主の地位を高山右近に安堵。摂津国・芥川郡を拝領した高山右近は、2万石から4万石に加増され、以降織田信長に仕えることとなる。
※※1579年(天正7年)黒田如水34歳 有岡城が陥落し、救出される。
〇〇1579年(天正7年)岩佐又兵衛2歳 伊丹城落城。乳母に救い出され奇跡的に逃げ延びる。母ら一族、京の六条河原で処刑。
△1579年(天正7年)千利休58歳 織田信長に茶頭として雇われる。 
●1579年(天正7年)狩野内膳10歳 主家(荒木村重)が滅亡し父池永重光は諸国を流浪。重郷(内膳)は画を好み狩野松栄門人となる。
1581年(天正9年)荒木村重47歳 花隈城(神戸市中央区)に移り、花隈城の戦いが勃発。その後、毛利家へ亡命。
※1581年(天正9年)高山右近30歳 織田信長の使者として、鳥取城(鳥取県鳥取市)を侵攻中の羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)のもとへ参陣。織田信長秘蔵の名馬3頭を羽柴秀吉に授与し、織田信長へ戦況を報告する。ローマから派遣された巡察師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノを迎え盛大な復活祭を開催する。
1582年(天正10年)荒木村重48歳 本能寺の変で織田信長が亡くなると、大坂の堺(現在の大阪府堺市)に移る。大坂では茶人として復帰し、千利休とも親交があったとされる。豊臣秀吉を中傷していたことが露呈し、処罰を恐れ荒木道薫と号して出家する。
※1582年(天正10年)高山右近31歳 甲州征伐において、織田信長が諏訪に布陣。西国諸将のひとりとしてこれに帯同する。山崎の戦いでは先鋒を務め、明智光秀軍を破る。
△1582年(天正10年)千利休58歳 本能寺の変、以降・豊臣秀吉に仕える。
※1583年(天正11年)高山右近32歳 柴田勝家との賤ヶ岳の戦いで、豊臣家の勝利に貢献する。
※※1583年(天正11年)黒田如水38歳 大坂城(大阪市中央区)の設計を担当し、豊臣政権下で普請奉行となる。キリスト教の洗礼を受けて、洗礼名「ドン=シメオン」を与えられる。
※※※1584年(天正12年)結城秀康11歳  3月、豊臣秀吉軍と徳川家康・織田信雄連合軍による小牧・長久手の戦いが勃発。講和の条件として、戦後、結城秀康は豊臣家の養子として差し出される。このとき結城秀康は、徳川家康からの餞別として名刀「童子切安綱」を授かっている。12月、元服を迎える。
※1585年(天正13年)高山右近34歳 歴戦の戦功が認められ、播磨国・明石(現在の兵庫県明石市)の船上城を豊臣秀吉から拝領。6万石の大名となる。
※※1585年(天正13年)黒田如水40歳 四国攻めで軍監として加わって長宗我部元親の策略を破り、諸城を陥落。
△1585年(天正13年)千利休64歳 正親町天皇から「利休」の居士号を与えられる。
1586年(天正14年 )荒木村重52歳 5月4日、堺にて死去。
※※1586年(天正14年)黒田如水41歳 従五位下・勘解由次官に叙任。九州征伐でも軍監を担当し、豊前国(現在の福岡県東部)の諸城を落とす。
△1586年(天正14年)千利休65歳 黄金の茶室の設計、聚楽第の築庭に関わる。
※1587年(天正15年)高山右近36歳 6月、筑前国(現在の福岡県西部)でバテレン追放令が施行される。豊臣秀吉に棄教を迫られ、領土の返上を申し出る。かつて同じく豊臣秀吉の家臣を務めていた小西行長にかくまわれ、肥後国(現在の熊本県)や小豆島(現在の香川県小豆郡)で暮らす。最終的には、加賀国(現在の石川県南部)の前田利家に預けられ、密かに布教活動を続けながら禄高1万5,000石を受け、政治面や軍事面の相談役となる。
※※※1587年(天正15年)結城秀康14歳  九州征伐にて初陣を飾る。豊前国(現在の福岡県東部)の岩石城(福岡県田川郡)攻めで先鋒を務め、日向国(現在の宮崎県)の平定戦でも戦功を遂げる。
△1587年(天正15年)千利休66歳 北野大茶会を主管。
〇〇1587年(天正15年) 岩佐又兵衛10歳 秀吉主催の北野の茶会に出席?
●1587年(天正15年) 狩野内膳18歳 狩野松栄から狩野姓を名乗ることを許される。
※※1589年(天正17年)黒田如水44歳 広島城(広島市中区)の設計を担当する。黒田家の家督を黒田長政に譲る。
※※1590年(天正18年)黒田如水45歳 小田原征伐において、小田原城(神奈川県小田原市)を無血開城させる。
※※※1590年(天正18年)結城秀康17歳  北条氏掃討のため、小田原征伐へ参陣。前年、豊臣秀吉に実子・鶴松が生まれ、豊臣家の後継者に指名されたことから、結城秀康は同家を出る。結城家を継ぎ、11万1,000石の地方大名となる。
●1590年(天正18年)狩野内膳21歳 内膳こと狩野久蔵筆「平敦盛像」。この頃小出播磨守新築に「嬰児遊技図」を描き豊臣秀吉に認められる(画工便覧)。
△1591年(天正19年)千利休70歳 秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられ、利休七哲の前田利家らの奔走・助命適わず、京都に呼び戻され、聚楽屋敷内で賜死(切腹?)。
※※1592年(天正20年/文禄元年)黒田如水47歳  文禄の役、及び慶長の役において築城総奉行となり、朝鮮出兵の拠点となる名護屋城(佐賀県唐津市)の設計を担当する。
〇〇1592年(天正20年/文禄元年)岩佐又兵衛 15歳 この頃、織田信雄に仕える。狩野派、土佐派の画法を学ぶ。絵の師匠は狩野内膳の説があるが不明。
●1592年(天正20年/文禄元年)狩野内膳 23歳 狩野松栄没。永徳(松栄の嫡男)の嫡男・光信(探幽は甥)、文禄元年(一五九二)から二年にかけて肥前名護屋に下向、門人の狩野内膳ほか狩野派の画家同行か?(『南蛮屏風(高見沢忠雄著)』)
※※1593年(文禄2年)黒田如水48歳 剃髪して出家。如水軒円清の号を名乗る。
〇1595年(文禄4年)松平忠直1歳 結城秀康の長男として摂津東成郡生魂にて生まれる。生母は秀康の側室、中川一元の娘(清涼院、岡山)。幼名は仙千代。
※1600年(慶長5年)高山右近49歳 関ヶ原の戦いの前哨戦である浅井畷の戦いでは東軍に属し、丹羽長重を撃退する。
※※1600年(慶長5年)黒田如水55歳 関ヶ原の戦いが起こる。石垣原の戦いで、大友義統軍を破る。
※※※1600年(慶長5年)結城秀康27歳 関ヶ原の戦いの直前、徳川家康と共に会津藩(現在の福島県)の上杉景勝の討伐へ出陣。道中、石田三成挙兵を知り、徳川家康は西へ引き返す。一方で結城秀康は宇都宮城に留まり、上杉景勝からの防戦に努めた。関ヶ原の戦い後に徳川家康より、越前・北の庄城(福井県福井市)68万石に加増される。
〇1603年(慶長8年)松平忠直7歳 江戸参勤のおりに江戸幕府2代将軍・徳川秀忠に初対面している。秀忠は大いに気に入り、三河守と呼んで自らの脇に置いたという。
※※1604年(慶長9年)黒田如水59歳 京都の伏見藩邸で死去する。
※※※1604年(慶長9年)結城秀康31歳 結城晴朝から家督を相続し、松平に改姓。
〇〇1604年(慶長9年)岩佐又兵衛 27歳 秀吉の七回忌、京で豊国祭礼
●1604年(慶長9年)狩野内膳36歳 秀吉七回忌の豊国明神臨時祭礼の「豊国祭礼図」を描く。
〇1605年(慶長10年)松平忠直 9歳 従四位下・侍従に叙任され、三河守を兼任する。
※※※1606年(慶長11年)結城秀康33歳  徳川家から伏見城(京都府京都市伏見区)の居留守役を命じられて入城するも、病に罹り重篤化する。
●1606年(慶長11年)狩野内膳37歳 1606年、片桐且元、内膳の「豊国祭礼図」を神社に奉納(梵舜日記)。弟子に荒木村重の子岩佐又兵衛との説(追考浮世絵類考/山東京伝)もある。
※※※1607年(慶長12年)結城秀康34歳  越前国へ帰国し、のちに病没。
〇1607年(慶長12年)松平忠直 13歳 結城秀康の死に伴って越前75万石を相続する。
〇1611年(慶長16年)松平忠直 17歳 左近衛権少将に遷任(従四位上)、三河守如元。この春、家康の上京に伴い、義利(義直)・頼政(頼宣)と同じ日に忠直も叙任された。9月には、秀忠の娘・勝姫(天崇院)を正室に迎える。
〇1612年(慶長17年)松平忠直 18歳 重臣たちの確執が高じて武力鎮圧の大騒動となり、越前家中の者よりこれを直訴に及ぶに至る。徳川家康・秀忠の両御所による直裁によって重臣の今村守次(掃部、盛次)・清水方正(丹後)は配流となる一方、同じ重臣の本多富正(伊豆守)は逆に越前家の国政を補佐することを命じられた。
〇1613年(慶長18年)松平忠直 19歳 家中騒動で再び直訴のことがあり、ついに本多富正が越前の国政を執ることとされ、加えて本多富正の一族・本多成重(丹下)を越前家に付属させた。これは、騒動が重なるのは、忠直がまだ若く力量が至らぬと両御所が判断したためである。
〇〇1613年(慶長18年) 岩佐又兵衛 37歳 この頃、舟木本「洛中洛外図屏風」
※1614年(慶長19年)高山右近63歳 キリシタンへの弾圧が過酷さを増し、徳川家康がキリスト教の禁教令を発布。国外追放の命令が下され、妻・高山ジュスタを始めとする一族を引き連れ、長崎経由でスペイン領ルソン島のマニラ(現在のフィリピン)へ旅立つ。スペイン国王の名において国賓待遇で歓待された。
〇1614年(慶長19年)松平忠直 20歳 大坂冬の陣では、用兵の失敗を祖父・家康から責められたものの、夏の陣では真田信繁(幸村)らを討ち取り、大坂城へ真っ先に攻め入るなどの戦功を挙げている。家康は孫の活躍を喜び、「初花肩衝」(大名物)を与えている。また秀忠も「貞宗の御差添」を与えている。
※1615年(慶長20年/元和元年)高山右近64歳 前年の上陸からわずか40日後、熱病に冒され息を引き取る。葬儀は聖アンナ教会で10日間に亘って執り行われ、マニラ全市を挙げて祈りが捧げられた。
〇1615年(慶長20年/元和元年)松平忠直 21歳 従三位に昇叙し、参議に補任。左近衛権中将・越前守を兼帯。
〇〇1616年(元和2年)岩佐又兵衛39歳 この頃、京から北之庄に移住。徳川家康没。狩野内膳没。
●1616年(元和2年)狩野内膳47歳 京都で没。
〇〇1617年(元和3年)岩佐又兵衛40歳 狩野探幽が江戸に赴任。この間、「金谷屏風」・「山中常盤」など制作か。
〇1621年(元和7年)松平忠直 27歳 病を理由に江戸への参勤を怠り、また翌元和8年(1622年)には勝姫の殺害を企て、また、軍勢を差し向けて家臣を討つなどの乱行が目立つようになった。
〇1623年(元和9年)松平忠直 29歳 将軍・秀忠は忠直に隠居を命じた。忠直は生母清涼院の説得もあって隠居に応じ、敦賀で出家して「一伯」と名乗った。5月12日に竹中重義が藩主を務める豊後府内藩(現在の大分県大分市)へ配流の上、謹慎となった。豊後府内藩では領内の5,000石を与えられ、はじめ海沿いの萩原に住まい、3年後の寛永3年(1626年)に内陸の津守に移った。津守に移ったのは、海に近い萩原からの海路での逃走を恐れたためとも言う。竹中重義が別件で誅罰されると代わって府内藩主となった日根野吉明の預かり人となったという。
〇〇1623年(元和9年)岩佐又兵衛46歳 松平忠直、豊後に配流。
〇〇1624(寛永元年)岩佐又兵衛 47歳 忠直を引き継ぐ松平忠昌が福井に改称。この間、「浄瑠璃物語絵巻」なと。
〇〇1637年(寛永14年)岩佐又兵衛 60歳 福井より、京都、東海道を経て江戸に赴く。
〇〇1638年(寛永15年)岩佐又兵衛61歳 川越仙波東照宮焼失。
〇〇1639年(寛永16年)岩佐又兵衛 62歳 家光の娘の千代姫、尾張徳川家に嫁ぐ
〇〇1640年(寛永17年)岩佐又兵衛 63歳 仙波東照宮に「三十六歌仙額」奉納。
〇〇1645年(正保2年)岩佐又兵衛 68歳 ・松平忠昌没。
〇1650年(慶安3年) 松平忠直死去、享年56。
〇〇1650年(慶安3年)岩佐又兵衛 江戸にて没す。享年73。
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