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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その三十五) [岩佐又兵衛]

(その三十五) 「舟木本」と「歴博D本」そして「南蛮屏風」との周辺(その四)

舟木本・あやつり小屋.jpg

「舟木本・四条河原のあやつり小屋(山中常盤・阿弥陀胸割)」(「右隻」第五扇上部)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&webView=null

歴博D本四条仮橋.jpg

「歴博D本・四条河原の歌舞伎と人形浄瑠璃」(「右隻」第三扇上部)
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakuchu_d/rakuchu_d_r.html

 「舟木本・四条河原のあやつり小屋(山中常盤・阿弥陀胸割)」の、「山中常盤」を演じている「あやつり(人形浄瑠璃)」小屋の、下記の「幔幕の紋」は、「越前(北庄・福井)松平家」の「結城秀康(初代)・松平忠直(二代)」が使用していた「定紋」(正式の紋。表紋)であることは、これまでに、しばしば触れてきた。

結城家・家紋.jpg

「結城家(結城秀康・松平忠直)家紋」(「舟木本・「山中常盤」小屋の幔幕の紋)

 そして、その「山中常盤」を演じている「あやつり(人形浄瑠璃)」小屋の脇の、下記の「阿弥陀胸割」小屋の「幔幕の紋」については、前回(その三十四)で、「筑前国福岡藩祖」の「黒田孝高」の「紋所」の一つが、「ふじどもえ」(「藤・巴」)で、この「ふじどもえ」の紋所は、信長に叛旗をひるがえして毛利方についた孝高と親交のある「荒木村重」を説得しに行き、そのまま「有岡城」の奥牢に幽閉された時の裏窓の「藤の花」に由来があることなどについて触れた。

阿弥陀胸割・家紋?.jpg

「舟木本・「阿弥陀胸割」小屋の幔幕の紋)「右隻」第五扇上部)

 ここで、上記の「歴博D本・四条河原の歌舞伎と人形浄瑠璃」の、下記の「十」の「幔幕」の小屋は、下記のアドレスで、「一見すると、キリシタンの『十字架』の『十』と見間違うが、これは、『丸に轡(くつわ)十字』の家紋ではなく、『筆書きの十文字』の、やはり、『薩摩』の『島津家』などの家紋と解すべきなのであろう」としたが、これは、ここまでの、
「黒田孝高」(官兵衛・如水)、そして、「結城秀康」などとの関連ですると、ここは、どうしても、この「黒田孝高」(官兵衛・如水)を受洗させた、いわゆる、「キリシタン大名」として、その生涯を貫いた、「高山右近」の、その「家紋」の一つの「十」と解する方が、より馴染み深いのかも知れない。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-12-30

歴博D本「十」の小屋.jpg

「歴博D本・四条河原の歌舞伎と人形浄瑠璃」(「右隻」第三扇上部)拡大図
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakuchu_d/rakuchu_d_r.html

 下記のアドレスなどによると、「高山右近」の家紋は、次の「七曜紋」が「定紋」で、「十字架紋」は、天正十五年(一五八七)の、豊臣秀吉の「バテレン追放令」後の、加賀国(現在の石川県南部)の「前田利家」家に謹慎の身となり加賀へ移住後の、非公式な「替紋」なのかも知れない。

https://kisetsumimiyori.com/takayamaukon/#117

高山右近・七曜紋.jpg

高山右近の「七曜紋」

高山右近・十字架紋.jpg

高山右近の「十字架紋」

 これらの「高山右近」の「七曜紋」や「十字架紋」について、下記のアドレスでは、「フィリピンで宣教に従事したコリン著『フィリピン諸島におけるイエズス会の布教史』の第28章が『高山右近伝』」の「太閤様が全領主を率いて関東の戦いに行ったとき、その中には筑前殿(前田利家)がいたが、彼の武将としてドン・ジュスト(高山右近)は、・・・前の紋章の七つ星を用いないで、十字の印をかかげていた。」との記述に由来があるようである。

https://ameblo.jp/ukon-takayama/entry-11240219453.html

 ここで、「荒木村重・黒田如水(官兵衛)・高山右近・岩佐又兵衛」が、それぞれの「略年譜」(下記「)に揃って登場するのは、天正六年(一五七八)の、荒木村重が織田信長に反旗を翻し、伊丹城(有岡城)に籠城、織田軍と約一年間に及ぶ交戦状態に入った時である。  
 すなわち、この「洛中洛外図屛風・舟木本」の筆者の「岩佐又兵衛」が生まれた年に、全てのドラマがスタートとするということになる。

【 1578年(天正6年)荒木村重44歳 織田信長に対して謀反を起こし、三木合戦のあと伊丹城(有岡城)に籠城。織田軍と1年間交戦する。

〇〇1578年(天正6年)岩佐又兵衛1歳 摂津伊丹城で荒木村重の末子として誕生。父荒木村重が織田信長に叛く

※1578年(天正6年)高山右近27歳 主君・荒木村重が織田家から離反。高山右近が再考を促すも荒木村重の意志は固く、やむなく助力を決断。荒木村重は居城・有岡城(兵庫県伊丹市)での籠城を決め、有岡城の戦いへと発展。

※※1578年(天正6年)黒田如水33歳 三木合戦で兵糧攻めを提案し、三木城(兵庫県三木市)を攻略した。織田信長に対して謀反を起こした荒木村重を説得するために、有岡城(兵庫県伊丹市)に向かうが、幽閉される。   】(「参考その一」抜粋)

 そして、その翌年の天正七年(一五七九)には、「千利休」が、織田信長より「茶頭」(茶の湯の師匠)として「今井宗久・津田宗及」と共に重用されて登場してくる。

【 1579年(天正7年)荒木村重45歳 妻子や兵を置いて、突如単身で伊丹城(有岡城)を脱出。嫡男の荒木村次が城主を務めていた尼崎城へ移る。そのあと、織田信長からの交渉にも応じず出奔。自身の妻子を含む人質が処刑される。

〇〇1579年(天正7年)岩佐又兵衛2歳 伊丹城落城。乳母に救い出され奇跡的に逃げ延びる。母ら一族、京の六条河原で処刑。

※1579年(天正7年)高山右近28歳 有岡城にて織田軍と対峙。織田信長から、「開城しなければ、修道士達を磔にする」という苛烈な脅しを受ける。これにより高山右近は領地や家族を捨て頭を丸め紙衣一枚で、単身織田信長のもとへ投降。その潔さに感じ入った織田信長は、再び高槻城主の地位を高山右近に安堵。摂津国・芥川郡を拝領した高山右近は、2万石から4万石に加増され、以降織田信長に仕えることとなる。

※※1579年(天正7年)黒田如水34歳 有岡城が陥落し、救出される。

△1579年(天正7年)千利休58歳 織田信長に茶頭として雇われる。  】(「参考その一」抜粋)

 ここで、後に、「高山右近」は「利休七哲」の一人として、「前田利長・蒲生氏郷・細川忠興(三斎)・古田織部・牧村兵部・芝山監物」と共に「高山南坊(右近)」の名で、その名を連ねるが(「ウィキペディア」所収『『茶道四祖伝書』)、この当時は、「千利休」の前号の「千宗易」と親しかった「荒木村重」の部下の一人としての「千利休」とに連なる一人ということになる(織田信長の没後、荒木村重は豊臣秀吉の下で茶人として復帰し、「利休十哲」の一人として名をとどめている。)
 そして、この「高山右近」は、当時、ポルトガル語で「正義の人、義の人」を意味する「ジュスト(ユストとも)」を洗礼名とするキリシタン武将の一人である。とすれば、その主家筋に当たる「荒木村重」も、いわゆる「キリシタン大名(武将)」の一人であったかというと、「一族郎党を見殺しにした」という汚名を拭い去ることも出来ずに、時代に翻弄され続けた敗残の武将の五十二年の生涯であったといえる。
 しかし、下記のアドレスのように、「荒木村重もクリスチャンであったから、有岡城籠城
の際、説得に来た黒田如水を殺さずに入牢にした」のであろうと、その「自死」をしない一生と共に、己の信念を貫いた「クリスチャン」的な生涯であったという見方もあり得るであろう。

https://www.ncbank.co.jp/corporate/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/hakata/005/01.html

 この荒木村重の、たった一人の遺児である「岩佐又兵衛」は、生前に、この茶人としての「道薫」(自己卑下的な「道糞」から秀吉が改名したとされる「道薫」の茶号)と、一度だけ対面したといわれているが、このときの二人は、下記のアドレスなどでは、終始ほぼ無言だったと伝えられている。

https://www.touken-world.jp/tips/46496/

 そして、この荒木村重は、天正十四年(一五八六)に堺で没し、千利休が修行したとされる「南宗寺」(臨済宗大徳寺派の寺院)に葬られたと伝えられているが、その「南宗寺」には村重の墓は現存せず、その位牌は、村重が籠城した「有岡城」のあった伊丹市の「荒村寺」にある。
 この荒木村重に関しては、次のアドレスの「荒木村重」が参考となる。

http://bunkazai.hustle.ne.jp/jinbutu/jinbutu_photo/arakimurashige.pdf

 この荒木村重が没した翌年の、天正十五年(一五八七)の「北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)」(京都北野天満宮境内において豊臣秀吉が催し、千利休が主管した大規模な茶会)が開催され、当時十歳であった岩佐又兵衛も誰(実父の茶人「道薫」に連なる茶人?)かの供をして出席したことが、又兵衛の回想録の『廻国道之記』に、「わらわべの時なれば夢のやうにあれど、少しおぼえ侍る」と記されている。

【 1586年(天正14年 )荒木村重52歳 5月4日、堺にて死去。

※※1586年(天正14年)黒田如水41歳 従五位下・勘解由次官に叙任。九州征伐でも軍監を担当し、豊前国(現在の福岡県東部)の諸城を落とす。

△1586年(天正14年)千利休65歳 黄金の茶室の設計、聚楽第の築庭に関わる。

※1587年(天正15年)高山右近36歳 6月、筑前国(現在の福岡県西部)でバテレン追放令が施行される。豊臣秀吉に棄教を迫られ、領土の返上を申し出る。かつて同じく豊臣秀吉の家臣を務めていた小西行長にかくまわれ、肥後国(現在の熊本県)や小豆島(現在の香川県小豆郡)で暮らす。最終的には、加賀国(現在の石川県南部)の前田利家に預けられ、密かに布教活動を続けながら禄高1万5,000石を受け、政治面や軍事面の相談役となる。

※※※1587年(天正15年)結城秀康14歳  九州征伐にて初陣を飾る。豊前国(現在の福岡県東部)の岩石城(福岡県田川郡)攻めで先鋒を務め、日向国(現在の宮崎県)の平定戦でも戦功を遂げる。

△1587年(天正15年)千利休66歳 北野大茶会を主管。

〇〇1587年(天正15年) 岩佐又兵衛10歳 秀吉主催の北野の茶会に出席?  】
(「参考その一」抜粋)

舟木本・市中の山居.jpg

「『雪輪笹紋』のある店舗のウラ庭の『剃頭の人物』」(左隻第四・五扇)」(拡大図)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=044&langId=ja&webView=null

 この「長暖簾の『雪輪笹紋』のある店舗のウラ庭」に居る人物は、下記のアドレスでは、次のように紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-11-25

【 (再掲)
『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)p230-232』では、次のように記述している。

雪輪笹紋の暖簾の町家

 雪輪笹の暖簾が戸口にかかり、水引暖簾に笹紋が三つ描かれて印象的な町家の笹屋は、③の桟瓦葺であった。店内に描かれている箱は呉服を入れる箱のように見えるので、たぶん呉服屋であろう。それはともかく、富裕な商人であることは明瞭だ。しかも、重要な表現が集中している中心軸の二条通に面して描かれている。(以下略)
  杉森哲也の仕事  (省略)
  「呉服所」の笹屋 (省略)
  室町二条上ル町の笹屋半四郎 
(前略) 舟木屏風左隻第四扇の二条通に面している雪輪笹紋の笹屋は、『京羽二重』の笹屋半四郎であると推測したい。(以下略)
  笹屋半四郎と京都所司代板倉勝重
(前略) 「呉服商」笹屋半四郎の祖父か父が、板倉勝重の御用をつとめていたのではないかと推測したい。暖簾の雪輪笹紋や水引暖簾の笹紋は、笹屋半四郎の屋号と合致し、この二条通に描かれた雪輪笹紋の町家は、板倉隠岐守殿の「呉服商」笹谷半四郎の店に「近い」からである。もしも雪輪笹紋の町家が笹屋半四郎の祖父か父の店であり、京都所司代板倉勝重の御用をつとめていた商人なら、舟木屏風における京都所司代板倉勝重や大御所家康の近習筆頭人板倉重昌の描かれ方は、極めて自然に解釈することができる。
(中略) この屏風は、統治する側の視線や関心によって描かれてはいない。この屏風の表現から読み取れるのは、下京に生きる町人たちの姿であり、視線であり、関心対象である。舟木屏風には、町人たちが日々生活し、働いている下京の町と、彼らが出掛けるのを楽しみにしている六条柳町・四条河原・東山の歓楽・遊楽地が描き出されている。左隻に、民事裁判をする勝重、禁裏と公家を統制する勝重、そして近習出頭人となった勝重の次男重昌が、大御所の意思を体現して描かれているとしても、下京はあくまで町人にとって町々として描かれているのである。京都所司代板倉勝重は、下京の法と秩序を維持してくれる存在として描かれているし、大御所家康の近習出頭人板倉重昌も同様である。
 美術史家たちが異口同音に述べているように、この屏風は浮世絵の出発点に位置付けられる作品だ。この屏風の注文主は、やはり、下京の上層町人の一人であろう。

庭にいる主の姿

(前略) この笹屋のウラ庭には建物の一角が描かれ、そこには坊主頭の人物が座っている。かれは何をしているのだろうか。小袖の着流し姿で、縁に後ろ手を突いて、静かに木々を見上げている。このような閑居もしくは休息している姿の人物表現は、ここだけである。前述したように、このような姿は、他の洛中洛外図屏風では見たことがない。

「市中の山居」

 (前略)  雪輪笹紋が描かれた暖簾の掛かっている立派な町家は、中心軸となる二条通に面しており、ウラ庭には樹木が茂り、しずかに座って、それを見上げている上層町人の主の姿がある。このようなウラ庭は、特別である。この剃頭の人物は、注文主その人を描いているのではあるまいか。 (『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)p230-232』の要点抜粋。)  

(中略)

しかも、気になるのはその筆致である。この人物は抑揚のある(ないしは肥痩のある)線で、ササっと描かれている。この筆致の違いがとても気になる。左右両隻で、この人物の筆致だけが特別なのだ。もしかすると、この剃頭の人物を描くにあたっては、注文主と岩佐又兵衛との間に何らかのやりとりがあったのではあるまいか。これ以上は書かないが、この剃頭の人物が注文主さの人なのではないかと思う理由の一つである。 (『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』所収「気になる筆致p231-232」

この「雪輪笹紋の町家周辺その一図」の「剃頭の人物」と、天正十四年(一五八六)に法眼から法印に進み延命院の号を賜り、のちに慶長二年(一五九七)に延寿院と改号している「曲直瀬玄朔」(上記の「曲直瀬玄朔像」)とを相互に見比べていると、「雪輪笹紋の町家周辺その一図」の「剃頭の人物」は、この「豊臣秀吉・関白秀次・徳川家康・秀忠そして後陽成天皇の診療に当った『日本医学中興の祖』の曲直瀬玄朔」その人、若しくは、その周辺ということは、「三藐院ファンタジー」の謎解きとしては、徐々に動かし難いものとなってきている。  】

 そして、ここに至るまでの前段階として、次のアドレスで紹介したものであった。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-16

【 (再掲)

「雪輪笹」の暖簾は、呉服商・笹屋(笹谷半四郎)のもので、その「笹屋」の奥庭(この図の左上)の人物が、笹谷半四郎(その父か祖父)、この「洛中洛外図屏風・舟木本」の注文主ではないかと『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』では推定している。

(中略)

「数寄者(茶人)・隠遁者」風の人物は、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』では、この「洛中洛外図・舟木本」の注文主の、「『雪輪笹』の暖簾主の、呉服商・笹屋(笹谷半四郎)」の、京の有力町衆「笹谷半四郎」と推測しているのだが、それを「是」としても、この「数寄者(茶人)・隠遁者(市中の山居人)」風の人物は、限りなく、この大作「洛中洛外図・舟木本」を描いた「岩佐又兵衛」その人 の、その当時のイメージが、これまた、ダブルイメージとしてオ―バラップしてくるのである。

(中略)

数寄者(茶人)・隠遁者(市中の山居人)」風の人物が、この大作「洛中洛外図・舟木本」を描いた「岩佐又兵衛」その人 のイメージをも宿しているとすると、この「岩佐又兵衛」と同時代に生きた、「狩野派」に匹敵する大きな画壇を形成してくる「琳派の創始者」と目されている「本阿弥宗達・俵屋宗達」、そして、この二人に深い関係にある、当時の三大豪商の一人の「角倉素庵」なども、この「洛中洛外図・舟木本」の中に、何らかの形で描かれているのではなかろうか?

(中略)

この京の有力町衆「笹谷半四郎」(「数寄者(茶人)・隠遁者」風の人物)は、「三藐院ファンタジー」風の見方では、この「洛中洛外図・舟木本」を描いた張本人の「岩佐又兵衛」のイメージと重なるとしたのだが、何やら、この、五条通りの数寄者「俵屋宗達・本阿弥光悦」と、この二条通りの数寄者(「市中の山居人」)「岩佐又兵衛」とは、相互に、何かしらの因縁を有しているような雰囲気を醸し出している。  】

 上記の、これまでの記述では、この「剃頭の人物」は、「豊臣秀吉・関白秀次・徳川家康・秀忠そして後陽成天皇」等々の診療に当った「日本医学中興の祖』の「曲直瀬玄朔」その人、若しくは、その周辺などと解してきたのだが、この人物は、この「洛中洛外図屛風・舟木本」の筆者の「岩佐又兵衛」の実父にあたる、戦国時代の摂津国の大名の一人である「荒木村重」の、その「市中の山居(人)=数奇(人)=茶道(芸道の一つ)の人=茶人」の、晩年の「道薫」(その前号は「道糞」)その人なのではなかろうか(?)

月見西行図(部分図).jpg

岩佐又兵衛筆「月見西行図(部分図)」群馬県立近代美術館蔵(戸方庵井上コレクション)

【 手に笠と杖、背には笈を背負った西行法師が、旅の途中で月を見上げる姿を描く。上部には「月見はと 契りていてし ふる郷の 人もやこよひ 袖ぬらすらん」と西行の歌が書き込まれている。「布袋図」と同じ篆文二重円印が捺されているが外郭は狭く、制作は寛永十四(一六三七)年の江戸出府後と考えられている。一人たたずむ西行の姿が、妻子を残し江戸へ向かう又兵衛と重ね合わされ鑑賞されてきた。 】(『別冊太陽247 岩佐又兵衛』所収「作品解説・戸田浩之)」

 この「月見西行図」の全体図は、下記のとおりだが、この上部に書き込まれていたる、「月見はと 契りていてし ふる郷の 人もやこよひ 袖ぬらすらん」(西行)の歌は、『新古今和歌集』の「巻第十 羇旅歌」に、次のとおり収載されている。

939 月見ばと 契りおきてしふるさとの 人もや今宵袖ぬらすらむ

【 月を見たら思おう約束しておいた故郷の人も、ひょっとしたら、今夜は わたしと同じように月を見て、涙で袖を濡らしていることであろか。 】(『日本古典文学全集26 新古今和歌集(校注・訳 峯村文人)』)

月見西行図(全体図).jpg

岩佐又兵衛筆「月見西行図(全体図)」群馬県立近代美術館蔵(戸方庵井上コレクション)
紙本墨画淡彩 一幅 101.3× 33.0  


(参考その一)

 「荒木村重・岩佐又兵衛と結城秀康・松平忠直」周辺略年譜

荒木村重略年譜    https://www.touken-world.jp/tips/65407/
※高山右近略年譜   https://www.touken-world.jp/tips/65545/
※※黒田如水略年譜  https://www.touken-world.jp/tips/63241/
※※※結城秀康略年譜 https://www.touken-world.jp/tips/65778/
〇松平忠直略年譜   
https://meitou.info/index.php/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E7%9B%B4
〇〇岩佐又兵衛略年譜
https://plaza.rakuten.co.jp/rvt55/diary/200906150000/
△千利休略年譜
https://www.youce.co.jp/personal/Japan/arts/rikyu-sen.html

△1522年(大永2年)千利休1歳 和泉国・堺の商家に生まれる。
1535年(天文4年)荒木村重1歳 摂津国の池田家に仕えていた荒木義村の嫡男として生まれる。幼名は十二郎(後に[弥介]へ変更)。
△1539(天文8年)千利休18歳 北向道陳、武野紹鴎に師事。
※※1546年(天文15年)黒田如水1歳 御着城(兵庫県姫路市)の城主・小寺政職の重臣・黒田職隆の嫡男として生まれる。
※1552年(天文21年)高山右近1歳 摂津国(現在の大阪府北中部、及び兵庫県南東部)にて、高山友照の嫡男として生まれる。高山氏は、59代天皇・宇多天皇を父に持つ敦実親王の子孫。また高山氏は、摂津国・高山(大阪府豊能町)の地頭を務めていた。
※1564年(永禄7年)高山右近13歳 父・高山友照が開いた、イエズス会のロレンソ了斎と、仏僧の討論会を契機に入信。妻子や高山氏の家臣、計53名が洗礼を受け、高山一族はキリシタンとなる。高山右近の洗礼名ドン・ジュストは、正義の人を意味する。父はダリヨ、母はマリアという洗礼名を授かる。
※※1567年(永禄10年)黒田如水22歳 黒田家の家督と家老職を継ぎ、志方城(兵庫県加古川市)の城主・櫛橋伊定の娘であった光姫を正室として迎え、姫路城(兵庫県姫路市)の城代となる。
※※1568年(永禄11年)黒田如水23歳 嫡男・黒田長政が生まれる。
1571年(元亀2年)荒木村重37歳 白井河原の戦いで勝利。織田信長から気に入られ、織田家の家臣になることを許される。
※1571年(元亀2年)高山右近20歳 白井河原の戦いにおいて和田惟政が、池田氏の重臣・荒木村重に討たれる。高山右近は和田惟政の跡を継いだ嫡男・和田惟長による高山親子の暗殺計画を知る。
1573年(元亀4年/天正元年)荒木村重39歳 荒木城(兵庫県丹波篠山市)の城主となる。現在の大阪府東大阪市で起こった若江城の戦いで武功を挙げる。
※1573年(元亀4年/天正元年)高山右近22歳 荒木村重の助言を受け、主君・和田惟長への返り討ちを決行。高槻城で開かれた会議の最中に、和田惟長を襲撃し致命傷を負わせた。その際、高山右近も深い傷を負う。高山親子は荒木村重の配下となり、高槻城主の地位を高山右近が譲り受ける。
1574年(天正2年)荒木村重40歳 伊丹城(有岡城)を陥落させ、同城の城主として摂津国を任される。
※※※1574年(天正2年)結城秀康1歳 徳川家康の次男として誕生。母親は徳川家康の正室・築山殿の世話係であった於万の方で、当時忌み嫌われた双子として生まれる。徳川家康とは、3歳になるまで1度も対面せず、徳川家の重臣・本多重次と交流のあった、中村家の屋敷で養育された。
1575年(天正3年)荒木村重41歳 摂津有馬氏を滅ぼし、摂津国を平定。
1576年(天正4年)荒木村重42歳 石山合戦における一連の戦いのひとつ、天王寺の戦いに参戦。
1577年(天正5年)荒木村重43歳  紀州征伐に従軍。
1578年(天正6年)荒木村重44歳  織田信長に対して謀反を起こし、三木合戦のあと伊丹城(有岡城)に籠城。織田軍と1年間交戦する。
※1578年(天正6年)高山右近27歳 主君・荒木村重が織田家から離反。高山右近が再考を促すも荒木村重の意志は固く、やむなく助力を決断。荒木村重は居城・有岡城(兵庫県伊丹市)での籠城を決め、有岡城の戦いへと発展。
※※1578年(天正6年)黒田如水33歳 三木合戦で兵糧攻めを提案し、三木城(兵庫県三木市)を攻略した。織田信長に対して謀反を起こした荒木村重を説得するために、有岡城(兵庫県伊丹市)に向かうが、幽閉される。
〇〇1578年(天正6年)岩佐又兵衛1歳 摂津伊丹城で荒木村重の末子として誕生。父荒木村重が織田信長に叛く
1579年(天正7年)荒木村重45歳 妻子や兵を置いて、突如単身で伊丹城(有岡城)を脱出。嫡男の荒木村次が城主を務めていた尼崎城へ移る。そのあと、織田信長からの交渉にも応じず出奔。自身の妻子を含む人質が処刑される。
※1579年(天正7年)高山右近28歳 有岡城にて織田軍と対峙。織田信長から、「開城しなければ、修道士達を磔にする」という苛烈な脅しを受ける。これにより高山右近は領地や家族を捨て頭を丸め紙衣一枚で、単身織田信長のもとへ投降。その潔さに感じ入った織田信長は、再び高槻城主の地位を高山右近に安堵。摂津国・芥川郡を拝領した高山右近は、2万石から4万石に加増され、以降織田信長に仕えることとなる。
※※1579年(天正7年)黒田如水34歳 有岡城が陥落し、救出される。
〇〇1579年(天正7年)岩佐又兵衛2歳 伊丹城落城。乳母に救い出され奇跡的に逃げ延びる。母ら一族、京の六条河原で処刑。
△1579年(天正7年)千利休58歳 織田信長に茶頭として雇われる。 
1581年(天正9年)荒木村重47歳 花隈城(神戸市中央区)に移り、花隈城の戦いが勃発。その後、毛利家へ亡命。
※1581年(天正9年)高山右近30歳 織田信長の使者として、鳥取城(鳥取県鳥取市)を侵攻中の羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)のもとへ参陣。織田信長秘蔵の名馬3頭を羽柴秀吉に授与し、織田信長へ戦況を報告する。ローマから派遣された巡察師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノを迎え盛大な復活祭を開催する。
1582年(天正10年)荒木村重48歳 本能寺の変で織田信長が亡くなると、大坂の堺(現在の大阪府堺市)に移る。大坂では茶人として復帰し、千利休とも親交があったとされる。豊臣秀吉を中傷していたことが露呈し、処罰を恐れ荒木道薫と号して出家する。
※1582年(天正10年)高山右近31歳 甲州征伐において、織田信長が諏訪に布陣。西国諸将のひとりとしてこれに帯同する。山崎の戦いでは先鋒を務め、明智光秀軍を破る。
△1582年(天正10年)千利休58歳 本能寺の変、以降・豊臣秀吉に仕える。
※1583年(天正11年)高山右近32歳 柴田勝家との賤ヶ岳の戦いで、豊臣家の勝利に貢献する。
※※1583年(天正11年)黒田如水38歳 大坂城(大阪市中央区)の設計を担当し、豊臣政権下で普請奉行となる。キリスト教の洗礼を受けて、洗礼名「ドン=シメオン」を与えられる。
※※※1584年(天正12年)結城秀康11歳  3月、豊臣秀吉軍と徳川家康・織田信雄連合軍による小牧・長久手の戦いが勃発。講和の条件として、戦後、結城秀康は豊臣家の養子として差し出される。このとき結城秀康は、徳川家康からの餞別として名刀「童子切安綱」を授かっている。12月、元服を迎える。
※1585年(天正13年)高山右近34歳 歴戦の戦功が認められ、播磨国・明石(現在の兵庫県明石市)の船上城を豊臣秀吉から拝領。6万石の大名となる。
※※1585年(天正13年)黒田如水40歳 四国攻めで軍監として加わって長宗我部元親の策略を破り、諸城を陥落。
△1585年(天正13年)千利休64歳 正親町天皇から「利休」の居士号を与えられる。
1586年(天正14年 )荒木村重52歳 5月4日、堺にて死去。
※※1586年(天正14年)黒田如水41歳 従五位下・勘解由次官に叙任。九州征伐でも軍監を担当し、豊前国(現在の福岡県東部)の諸城を落とす。
△1586年(天正14年)千利休65歳 黄金の茶室の設計、聚楽第の築庭に関わる。
※1587年(天正15年)高山右近36歳 6月、筑前国(現在の福岡県西部)でバテレン追放令が施行される。豊臣秀吉に棄教を迫られ、領土の返上を申し出る。かつて同じく豊臣秀吉の家臣を務めていた小西行長にかくまわれ、肥後国(現在の熊本県)や小豆島(現在の香川県小豆郡)で暮らす。最終的には、加賀国(現在の石川県南部)の前田利家に預けられ、密かに布教活動を続けながら禄高1万5,000石を受け、政治面や軍事面の相談役となる。
※※※1587年(天正15年)結城秀康14歳  九州征伐にて初陣を飾る。豊前国(現在の福岡県東部)の岩石城(福岡県田川郡)攻めで先鋒を務め、日向国(現在の宮崎県)の平定戦でも戦功を遂げる。
△1587年(天正15年)千利休66歳 北野大茶会を主管。
〇〇1587年(天正15年) 岩佐又兵衛10歳 秀吉主催の北野の茶会に出席?
※※1589年(天正17年)黒田如水44歳 広島城(広島市中区)の設計を担当する。黒田家の家督を黒田長政に譲る。
※※1590年(天正18年)黒田如水45歳 小田原征伐において、小田原城(神奈川県小田原市)を無血開城させる。
※※※1590年(天正18年)結城秀康17歳  北条氏掃討のため、小田原征伐へ参陣。前年、豊臣秀吉に実子・鶴松が生まれ、豊臣家の後継者に指名されたことから、結城秀康は同家を出る。結城家を継ぎ、11万1,000石の地方大名となる。
△1591年(天正19年)千利休70歳 秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられ、利休七哲の前田利家らの奔走・助命適わず、京都に呼び戻され、聚楽屋敷内で賜死(切腹?)。
※※1592年(天正20年/文禄元年)黒田如水47歳  文禄の役、及び慶長の役において築城総奉行となり、朝鮮出兵の拠点となる名護屋城(佐賀県唐津市)の設計を担当する。
〇〇1592年(天正20年/文禄元年)岩佐又兵衛 15歳 この頃、織田信雄に仕える。狩野派、土佐派の画法を学ぶ。絵の師匠は狩野内膳の説があるが不明。
※※1593年(文禄2年)黒田如水48歳 剃髪して出家。如水軒円清の号を名乗る。
〇1595年(文禄4年)松平忠直1歳 結城秀康の長男として摂津東成郡生魂にて生まれる。生母は秀康の側室、中川一元の娘(清涼院、岡山)。幼名は仙千代。
※1600年(慶長5年)高山右近49歳 関ヶ原の戦いの前哨戦である浅井畷の戦いでは東軍に属し、丹羽長重を撃退する。
※※1600年(慶長5年)黒田如水55歳 関ヶ原の戦いが起こる。石垣原の戦いで、大友義統軍を破る。
※※※1600年(慶長5年)結城秀康27歳 関ヶ原の戦いの直前、徳川家康と共に会津藩(現在の福島県)の上杉景勝の討伐へ出陣。道中、石田三成挙兵を知り、徳川家康は西へ引き返す。一方で結城秀康は宇都宮城に留まり、上杉景勝からの防戦に努めた。関ヶ原の戦い後に徳川家康より、越前・北の庄城(福井県福井市)68万石に加増される。
〇1603年(慶長8年)松平忠直7歳 江戸参勤のおりに江戸幕府2代将軍・徳川秀忠に初対面している。秀忠は大いに気に入り、三河守と呼んで自らの脇に置いたという。
※※1604年(慶長9年)黒田如水59歳 京都の伏見藩邸で死去する。
※※※1604年(慶長9年)結城秀康31歳 結城晴朝から家督を相続し、松平に改姓。
〇〇1604年(慶長9年)岩佐又兵衛 27歳 ・秀吉の七回忌、京で豊国祭礼
〇1605年(慶長10年)松平忠直 9歳 従四位下・侍従に叙任され、三河守を兼任する。
※※※1606年(慶長11年)結城秀康33歳  徳川家から伏見城(京都府京都市伏見区)の居留守役を命じられて入城するも、病に罹り重篤化する。
※※※1607年(慶長12年)結城秀康34歳  越前国へ帰国し、のちに病没。
〇1607年(慶長12年)松平忠直 13歳 結城秀康の死に伴って越前75万石を相続する。
〇1611年(慶長16年)松平忠直 17歳 左近衛権少将に遷任(従四位上)、三河守如元。この春、家康の上京に伴い、義利(義直)・頼政(頼宣)と同じ日に忠直も叙任された。9月には、秀忠の娘・勝姫(天崇院)を正室に迎える。
〇1612年(慶長17年)松平忠直 18歳 重臣たちの確執が高じて武力鎮圧の大騒動となり、越前家中の者よりこれを直訴に及ぶに至る。徳川家康・秀忠の両御所による直裁によって重臣の今村守次(掃部、盛次)・清水方正(丹後)は配流となる一方、同じ重臣の本多富正(伊豆守)は逆に越前家の国政を補佐することを命じられた。
〇1613年(慶長18年)松平忠直 19歳 家中騒動で再び直訴のことがあり、ついに本多富正が越前の国政を執ることとされ、加えて本多富正の一族・本多成重(丹下)を越前家に付属させた。これは、騒動が重なるのは、忠直がまだ若く力量が至らぬと両御所が判断したためである。
〇〇1613年(慶長18年) 岩佐又兵衛 37歳 この頃、舟木本「洛中洛外図屏風」
※1614年(慶長19年)高山右近63歳 キリシタンへの弾圧が過酷さを増し、徳川家康がキリスト教の禁教令を発布。国外追放の命令が下され、妻・高山ジュスタを始めとする一族を引き連れ、長崎経由でスペイン領ルソン島のマニラ(現在のフィリピン)へ旅立つ。スペイン国王の名において国賓待遇で歓待された。
〇1614年(慶長19年)松平忠直 20歳 大坂冬の陣では、用兵の失敗を祖父・家康から責められたものの、夏の陣では真田信繁(幸村)らを討ち取り、大坂城へ真っ先に攻め入るなどの戦功を挙げている。家康は孫の活躍を喜び、「初花肩衝」(大名物)を与えている。また秀忠も「貞宗の御差添」を与えている。
※1615年(慶長20年/元和元年)高山右近64歳 前年の上陸からわずか40日後、熱病に冒され息を引き取る。葬儀は聖アンナ教会で10日間に亘って執り行われ、マニラ全市を挙げて祈りが捧げられた。
〇1615年(慶長20年/元和元年)松平忠直 21歳 従三位に昇叙し、参議に補任。左近衛権中将・越前守を兼帯。
〇〇1616年(元和2年)岩佐又兵衛39歳 この頃、京から北之庄に移住。徳川家康没。狩野内膳没。
〇〇1617年(元和3年)岩佐又兵衛40歳 狩野探幽が江戸に赴任。この間、「金谷屏風」・「山中常盤」など制作か。
〇1621年(元和7年)松平忠直 27歳 病を理由に江戸への参勤を怠り、また翌元和8年(1622年)には勝姫の殺害を企て、また、軍勢を差し向けて家臣を討つなどの乱行が目立つようになった。
〇1623年(元和9年)松平忠直 29歳 将軍・秀忠は忠直に隠居を命じた。忠直は生母清涼院の説得もあって隠居に応じ、敦賀で出家して「一伯」と名乗った。5月12日に竹中重義が藩主を務める豊後府内藩(現在の大分県大分市)へ配流の上、謹慎となった。豊後府内藩では領内の5,000石を与えられ、はじめ海沿いの萩原に住まい、3年後の寛永3年(1626年)に内陸の津守に移った。津守に移ったのは、海に近い萩原からの海路での逃走を恐れたためとも言う。竹中重義が別件で誅罰されると代わって府内藩主となった日根野吉明の預かり人となったという。
〇〇1623年(元和9年)岩佐又兵衛46歳 松平忠直、豊後に配流。
〇〇1624(寛永元年)岩佐又兵衛 47歳 忠直を引き継ぐ松平忠昌が福井に改称。この間、「浄瑠璃物語絵巻」なと。
〇〇1637年(寛永14年)岩佐又兵衛 60歳 福井より、京都、東海道を経て江戸に赴く。
〇〇1638年(寛永15年)岩佐又兵衛61歳 川越仙波東照宮焼失。
〇〇1639年(寛永16年)岩佐又兵衛 62歳 家光の娘の千代姫、尾張徳川家に嫁ぐ
〇〇1640年(寛永17年)岩佐又兵衛 63歳 仙波東照宮に「三十六歌仙額」奉納。
〇〇1645年(正保2年)岩佐又兵衛 68歳 ・松平忠昌没。
〇1650年(慶安3年) 松平忠直死去、享年56。
〇〇1650年(慶安3年)岩佐又兵衛 江戸にて没す。享年73。


(参考その二) 「市中の山居(しちゅうのさんきょ)」周辺

http://augusutinusu-t-ukon.cocolog-nifty.com/httpjusutotuko/files/tyanoyu.pdf

高山右近と茶道について(「抜粋」)

・右近は千利休とは親友であること、茶道は心の潜心には最適であるとして、その道に励んだことが宣教師の記録に記されている 日本側の資料にも右近は利休七哲のひとりであることや加賀では第一人者であることなどが記されている このようなことから、茶道と右近の信仰との関係について色々なことが書かれてきている 右近の茶道にキリシタン右近の霊性そのものがあるかのように考える人もおられるようです 茶道の主要な精神的要素である市中の山居や 和敬静寂や一座建立などは、人間本来の心のありように立ち返らせ、相手を心から大切にするという人間の普遍的な価値観に繋がるものです 右近の茶の湯の師匠であった千利休が目指した侘び茶の世界はまさにそのようなものであったので、右近も共感し、そのような精神的なカタルシスを味わうために、茶の湯三昧の日々を送った事もあったのではないかと思います 右近のことを知らない人、誤解を持っている人などに対する導入として紹介することは大切なことです しかし、茶道はキリストの教えではありません 茶道に宗教的な要素がるとすれば、それは禅宗であり、道教であろうと思います 殉教者右近の霊性の本質的な要素ではないことを十分意識しておくことが大切であると考えます
 そこで、私は次のような観点から考えてみたいと思っています
・右近にとって、茶室は神と自己の霊魂が交わる、深い祈りの場所であった 茶室での祈りは右近独特の「確固たる形ある祈り」であり、「日常を断つ祈り」であり、常に神と一体であるための念祷であり、信仰を深め継続するために右近が考えだしたもので、そのスタイルは禅的な要素を多く取り入れたものであったと想像します 右近は日常の生活感を断ち切り、神と語り合うことが出来る、確固たる自分の祈りの形を持っていた人であったと想像します 現在行われている茶道とは全く異なるもので、霊性に満ちた右近の霊操の場所であったことは間違いないと思います 加賀の前田家家臣であった時代、彼の信仰は、この形ある断つ祈りで深められ、継続されていったのだと思います なぜ、そう思うのかというと、右近はイエズス会の「霊操」を身に付けた人であり、霊操は禅宗の摂心(接心)と似ている(門脇神父)と言われており、右近は何時も神と同行二人の祈りのうちに生きていた人だと思うからです そして、このような神聖な場所での右近のおもてなしは、多くの人に感動を与えたのではないかと想像します 茶道は当時の武士階級の人々では必要な社交術であり、右近も茶道を通して、友を得るとともに、茶道の場を、福音宣教の契機として大いに活用し、有力な武将を受洗に導きました このような観点から、右近と茶道について次のようにまとめました
 まず、注目すべき次のような資料があります ここには右近が生きた当時の茶道の状況を知る上で最も重要とされている宣教師が記した資料のなかに右近と茶道との-関係が 極めて判り易く記されています この資料は現在茶道に関わる人が利休の時代の茶道を 知る上で極めて貴重な資料とされているものです

 【宣教師が書いた資料】

①日本教会史 未刊 岩波書店・大航海時代叢書Ⅳ(4) 日本教会史上巻
・著者:ロドリゲス神父 (1561~1634 イエズス会士、日本語に長け、第2次巡察使秀吉通訳を努める 伴天連追放令下秀吉に気に入られ貴重な存在となる 会計責任者で生糸貿易に関わる)
・イエズス会より「日本教会史」を編纂するよう命令され作成するも未刊・一部原稿有、
写本 1610年頃最初の命令、ロドリゲス1620年~1622年編纂

・茶道の辞典にもでてくる資料で、宣教の報告書であるが、特に堺の数寄者の茶事に招かれて体験した事柄が詳細に記されており、この時代の茶道の様式知る上で貴重な資料

②  完訳日本史

③  巡察使バリニアーノの「イエズス会士の礼節に関する規則書」及び巡察記≪規則書≫

【高山」右近史話】 (チースリク神父著)
【キリシタンの心】 (チースリク神父著) (「史話」のベースになるもので、より詳しい記述)

 侘び茶の精神性の高さを高く評価し、それとキリシタンの教えの共通性に着目し、    右近が茶の道に邁進した意味を論じている

(論 旨) 

・茶道には三つの要素がある-①市中の山居 ②和敬静寂 ③一座建立

① 市中の山居(しちゅうのさんきょ)-ロドリゲス日本教会史にもある言葉-世間の多忙雑多な生活から逃れ静けさを求めること(自省神と語り合う)
② 和敬静寂 侘びの精神(心正しく慎み深く奢らぬ様(武野紹鴎))(家は漏らぬ程、食事は餓えぬ
  程にてたること、これ仏の教、茶の湯の本意也(僧宋啓))
  和敬静寂の精神は、キリシタン茶人にとって、最高の目的ではなく、むしろ完全な        清貧に達し心を清めながら、神との出会いを準備するための手段となった
③一座建立
  主客一体、同じ杯を交わす・同じ釜の飯を食といった感覚、    
 
この三つの要素は、キリスト教の修養の道(①内面の浄化の道②キリストに照ら      されて修得に努める照明の道③キリストとの一致の道)に相応している(「霊操」の三段階)

・キリシタンにとって、

和敬静寂は、・・・神の恵みのために自由な心を開く恵みであり、
 市中の山居は、・・・静けさの中で神との出会いに達するであり、
一座建立は、・・・神との一致への導きそして、神においてこそ友人との神秘的な交流ま
        で達す

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