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狩野内膳筆「南蛮屏風」周辺(その二) [狩野内膳]

(その二)「ヴァリニャーノ神父」と「天正遣欧少年使節派遣」周辺

ヴァリニャーノ神父.jpg

「狩野内膳筆『南蛮屏風・右隻』・ヴァリニャーノ神父とイエズス会員」(第一・二扇拡大図)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

 先の(その一)、「南蛮屏風・狩野内膳が描いた屏風について―イルマン・ロレンソの事(長崎26聖人記念館館長・結城了悟稿)」では、上図の左側の二番目の長身のイエズス会の神父を、「天正遣欧使節団」派遣を企画し、その実現の一部終始の責任者ともいえる「アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(ヴァリニャーニ)」神父その人だとし、次のように記述している。

【 屏風の中に描かれているイエズス会神父達の中にひときわ背が高い神父が描かれているが、この人物こそヴァリニャーノ神父なのである。神父は長崎に天正少年使節一行と共に1590年7月21日、アントニオ・ダ・コスタの船で着いたと記録されている。
 そして、其の翌1591年にはロケ・デ・メル(ペレイア)の船が7月頃入港している。ポルトガル船は通常7月頃入港し、10月頃の風でマカオに帰っていたが、ロケの船は以下の理由で其の年に帰国することができなかった。
 その理由と言うのは、フランシスコ・ピレスの覚書によるとロケの船は朝鮮出兵のごたごたですぐに積荷の絹の貿易ができなかったので、翌1592年10月ロケ(ペレイア)の船はマカオに帰っている。そして「此の船に乗ってヴァリニャーノ神父はマカオに帰った。」と記してある。】
(「南蛮屏風・狩野内膳が描いた屏風について―イルマン・ロレンソの事(長崎26聖人記念館館長・結城了悟稿)」)

このヴァリニャーノ神父の第一回目の来日は、天正七年(一五七九)から同十年(一五八二)にかけてで、さらに、その第一回目の来日の折りに実現させた「天正遣欧使節団」の帰国時にマカオから行動をともにし、その天正十八年(一五九〇)に第二回目の来日をしている。この時の日本滞在は、その翌々年(一五九二)にかけてで、その一年前に入港した、この狩野内膳が描いた「南蛮屏風」の「ロケ・デ・メル(ペレイア)」の船で帰国の途についている。
 そして、ヴァリニャーノ神父は、慶長三年(一五九八)から慶長八年(一六〇三)にかけての第三回目の最終となる来日をし、その三年後にマカオの地に没している。
 これらの三度にわたる、その「ヴァリニャーノ神父の来日」に簡単にまとめると次のとおりとなる。

【ヴァリニャーノ神父の来日
(第一回)
《 1579年(天正7年)7月25日から1582年(天正10年)までの三年間滞在。
1580年(天正8年)に、肥前有馬(現:長崎県南島原市)と近江安土(現・滋賀県近江八幡市安土町)に小神学校(セミナリヨ)設立、1581年に豊後府内(現:大分県大分市)大神学校(コレジオ)設立、そして1580年に豊後臼杵に設置されたイエズス会入会の第1段階である修練期のための施設、修練院(ノビシャド)を設立。また、日本布教における財政システムの問題点を修正し、天正遣欧少年使節の企画を発案した。これは日本人にヨーロッパを見せることと同時に、ヨーロッパに日本を知らしめるという2つの目的があった。1582年、ヴァリニャーノはインドのゴアまで付き添ったが、そこで分かれてゴアに残った。》
(第二回)
《1590年(天正18年)の2度目の来日は、帰国する遣欧使節を伴って行われた。このときは1591年(天正19年)に聚楽第で豊臣秀吉に謁見している。また、日本で初めての活版印刷機を導入、後に「キリシタン版」とよばれる書物の印刷を行っている。》
(第三回)
《1598年(慶長3年)、最後の来日では日本布教における先発組のイエズス会と後発組のフランシスコ会などの間に起きていた対立問題の解決を目指した。1603年(慶長8年)に最後の巡察を終えて日本を去り、3年後にマカオでその生涯を終えた。聖ポール天主堂の地下聖堂に埋葬された。》】(「ウィキペディア」)

 ここで、下記のアドレスなどにより、ヴァリニャーノ神父の大きな業績に上げられている「天正遣欧使使節団」派遣周辺のことについて記して置きたい。

https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/exhibition/tokubetuten/tenji/tensyou_syounen.html

【 天正少年使節渡欧年譜
1582. 2.20 少年使節、巡察師ヴァリニャーノに伴われ、長崎を出帆。
   3. 9 マカオ到着。年末まで同地逗留。
1583.11.10 ゴア(インド)到着。ヴァリニャーノと別れ、12.20同地出帆。
1584. 8.11 喜望峰をまわり、大西洋を北上し、リスボンに上陸。
  11.14 マドリードでスペイン国王フェリーペ2世に謁す。
1585. 3.23 ローマのヴァティカン宮でグレコリオ13世の謁見を賜る。
   6-8. ヴェネツィア、マントヴァ、ミラノ等、北イタリアを巡る。
1586. 4.12 リスボン出帆。
1590.[7.21] ゴア、マカオに長期逗留の後、長崎に帰帆。 】

天正少年使節肖像.jpg

「天正遣欧使節肖像画」(「京都大学附属図書館 Main Library, Kyoto University」蔵)
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00007683#?c=0&m=0&s=0&cv=2&r=0&xywh=-9334%2C-317%2C25963%2C6328

【 右上・伊東マンショ、右下・千々石ミゲル、左上・中浦ジュリアン、左下・原マルチノ。中央は案内兼通訳のメスキータ神父。
1586年にドイツのアウグスブルグで印刷された、天正遣欧使節の肖像画です。"Newe Zeyttung auss der Insel ]aponien"(日本島からのニュース)と題されたこの肖像画には、使節団のメンバー4人と案内兼通訳のメスキータ神父が描かれています。(出典:『京都大学の学術情報基盤の未来を考える』) 】(「天正遣欧使節肖像画」(「京都大学附属図書館 Main Library, Kyoto University」蔵))

【 使節(「天正遣欧使節団」)
伊東マンショ(主席正使) - 大友義鎮(宗麟)の名代。宗麟の血縁。日向国主伊東義祐の孫。後年、司祭に叙階される。1612年長崎で死去。
千々石ミゲル(正使) - 大村純忠の名代。純忠の甥で有馬晴信の従兄弟。後に棄教。
中浦ジュリアン(副使) - 後年、司祭に叙階。1633年、長崎で穴吊るしの刑によって殉教。2007年に福者に列せられる。
原マルチノ(副使) - 後年、司祭に叙階。1629年、追放先のマカオで死去。
随員(「天正遣欧使節団」)
ジョルジェ・ロヨラ修道士 - 使節の教育係、日本人
コンスタンチノ・ドラード - 印刷技術習得要員、日本人少年
アグスチーノ - 印刷技術習得要員、日本人少年
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父 - ローマへ随行するつもりだったが、職務によってゴアにとどまる。
ヌーノ・ロドリゲス神父 - ヴァリニャーノの後を継いで一行に従う。
ディオゴ・メスキータ神父 - 通訳、イエズス会員
ロレンソ・メシア神父
オリヴィエーロ修道士      】(「ウィキペディア」)

 これらの、「天正少年使節渡欧年譜」を、これまでの、「荒木村重・岩佐又兵衛と結城秀康・松平忠直」周辺略年譜」(参考その一)に加味すると次のとおりとなる。

【※1581年(天正9年)高山右近30歳 織田信長の使者として、鳥取城(鳥取県鳥取市)を侵攻中の羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)のもとへ参陣。織田信長秘蔵の名馬3頭を羽柴秀吉に授与し、織田信長へ戦況を報告する。ローマから派遣された巡察師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノを迎え盛大な復活祭を開催する。

1582年(天正10年)荒木村重48歳 本能寺の変で織田信長が亡くなると、大坂の堺(現在の大阪府堺市)に移る。大坂では茶人として復帰し、千利休とも親交があったとされる。豊臣秀吉を中傷していたことが露呈し、処罰を恐れ荒木道薫と号して出家する。
※1582年(天正10年)高山右近31歳 甲州征伐において、織田信長が諏訪に布陣。西国諸将のひとりとしてこれに帯同する。山崎の戦いでは先鋒を務め、明智光秀軍を破る。
△1582年(天正10年)千利休58歳 本能寺の変、以降・豊臣秀吉に仕える。
●●1582. 2.20 少年使節、巡察師ヴァリニャーノに伴われ、長崎を出帆。
   3. 9 マカオ到着。年末まで同地逗留。

※1583年(天正11年)高山右近32歳 柴田勝家との賤ヶ岳の戦いで、豊臣家の勝利に貢献する。
※※1583年(天正11年)黒田如水38歳 大坂城(大阪市中央区)の設計を担当し、豊臣政権下で普請奉行となる。キリスト教の洗礼を受けて、洗礼名「ドン=シメオン」を与えられる。
●●1583.11.10 ゴア(インド)到着。ヴァリニャーノと別れ、12.20同地出帆。

※※※1584年(天正12年)結城秀康11歳  3月、豊臣秀吉軍と徳川家康・織田信雄連合軍による小牧・長久手の戦いが勃発。講和の条件として、戦後、結城秀康は豊臣家の養子として差し出される。このとき結城秀康は、徳川家康からの餞別として名刀「童子切安綱」を授かっている。12月、元服を迎える。
●●1584. 8.11 喜望峰をまわり、大西洋を北上し、リスボンに上陸。
  11.14 マドリードでスペイン国王フェリーペ2世に謁す。

※1585年(天正13年)高山右近34歳 歴戦の戦功が認められ、播磨国・明石(現在の兵庫県明石市)の船上城を豊臣秀吉から拝領。6万石の大名となる。
※※1585年(天正13年)黒田如水40歳 四国攻めで軍監として加わって長宗我部元親の策略を破り、諸城を陥落。
△1585年(天正13年)千利休64歳 正親町天皇から「利休」の居士号を与えられる。
1586年(天正14年 )荒木村重52歳 5月4日、堺にて死去。
※※1586年(天正14年)黒田如水41歳 従五位下・勘解由次官に叙任。九州征伐でも軍監を担当し、豊前国(現在の福岡県東部)の諸城を落とす。
●●1585. 3.23 ローマのヴァティカン宮でグレコリオ13世の謁見を賜る。
     6-8. ヴェネツィア、マントヴァ、ミラノ等、北イタリアを巡る。

△1586年(天正14年)千利休65歳 黄金の茶室の設計、聚楽第の築庭に関わる。
●●1586. 4.12 リスボン出帆。

※1587年(天正15年)高山右近36歳 6月、筑前国(現在の福岡県西部)でバテレン追放令が施行される。豊臣秀吉に棄教を迫られ、領土の返上を申し出る。かつて同じく豊臣秀吉の家臣を務めていた小西行長にかくまわれ、肥後国(現在の熊本県)や小豆島(現在の香川県小豆郡)で暮らす。最終的には、加賀国(現在の石川県南部)の前田利家に預けられ、密かに布教活動を続けながら禄高1万5,000石を受け、政治面や軍事面の相談役となる。
※※※1587年(天正15年)結城秀康14歳  九州征伐にて初陣を飾る。豊前国(現在の福岡県東部)の岩石城(福岡県田川郡)攻めで先鋒を務め、日向国(現在の宮崎県)の平定戦でも戦功を遂げる。
△1587年(天正15年)千利休66歳 北野大茶会を主管。
〇〇1587年(天正15年) 岩佐又兵衛10歳 秀吉主催の北野の茶会に出席?
●1587年(天正15年) 狩野内膳18歳 狩野松栄から狩野姓を名乗ることを許される。
※※1589年(天正17年)黒田如水44歳 広島城(広島市中区)の設計を担当する。黒田家の家督を黒田長政に譲る。
※※1590年(天正18年)黒田如水45歳 小田原征伐において、小田原城(神奈川県小田原市)を無血開城させる。
※※※1590年(天正18年)結城秀康17歳  北条氏掃討のため、小田原征伐へ参陣。前年、豊臣秀吉に実子・鶴松が生まれ、豊臣家の後継者に指名されたことから、結城秀康は同家を出る。結城家を継ぎ、11万1,000石の地方大名となる。
●1590年(天正18年)狩野内膳21歳 内膳こと狩野久蔵筆「平敦盛像」。この頃小出播磨守新築に「嬰児遊技図」を描き豊臣秀吉に認められる(画工便覧)。
●●1590.[7.21] ゴア、マカオに長期逗留の後、長崎に帰帆。

△1591年(天正19年)千利休70歳 秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられ、利休七哲の前田利家らの奔走・助命適わず、京都に呼び戻され、聚楽屋敷内で賜死(切腹?)。 】

 この「略年譜」(抜粋)の、末尾の二年次に焦点を合わせて、そこに『ヴァリニャーノ・日本巡察記(東洋文庫229)』(以下「ヴァリニャーノ」)と『フロイス・日本史2 豊臣秀吉Ⅱ(中央公論社)』(以下「フロイス」))との要点(要約など)を、時系列的に見て行くと、次のとおりとなる。

【 「天正十八年(一五九〇)~天正二十年(一五九二)」の時系列的年譜

天正十八年(一五九〇)

七月二十一日 「天正少年使節団」、ゴア、マカオに長期逗留の後、長崎に帰帆。

(「ヴァリニャーノ」解題Ⅱ)
七月二十一日 長崎上陸。有馬など巡察。長崎(第一回協議会)
八月十三日~十五日 島原半島加津佐(第二回協議会)
十一月初旬 長崎→諫早→有明海を渡って佐賀→→久留米→秋月→小倉→下関、海路を辿った「天正少年使節団」と合流し、瀬戸内海を東航して播磨の室津へ。

(「フロイス」第二二章)関白(秀吉)坂東での勝利を収めて天下統一。
(「同」第二三章)巡察師(ヴァリニャーノ)秀吉謁見のため京都(聚楽第)へ旅立つ。
(「同」第二四章)巡察師、室津(播磨=兵庫の室津港)に逗留。

天正十九年(一五九一)

(「ヴァリニャーノ」解題Ⅱ)
一月十五日(天正十九年元旦) 秀吉より上京せよとの通告。
二月十七日 室津を出航。
二月十九日 大阪に着く(大阪に三日滞在、淀川を遡て鳥羽を経る)
二月二十三日 都(京都)に入る
  
(「ヴァリニャーノ」解題Ⅱ)
三月三日(「天正十九年閏正月八日)三月三日「天正少年使節団」、京都の聚楽第で豊臣秀吉と謁見。

(「フロイス」第二六章)関白(秀吉)、巡察師(ヴァリニャーノ)とその同伴者(「天正少年使節団」)と謁見・饗応。

(「ヴァリニャーノ」解題Ⅱ)
三月の末、都(京都)を離れ、大阪から海路、平戸を経て長崎に着き、さらに、二日後和津佐の学院に帰着。

《【天正19年(1591年)2月13日(新暦「四月六日」か?) 
利休は突然、京都を追放され堺の自宅に蟄居させられる。
同年2月25日(新暦「四月十八日」か?) 
京都一条戻橋に、大徳寺山門にあった問題の利休木像が磔にされる。
同年2月28日(新暦「四月二十一日」か?) 
木像の下に利休の首がさらされる。
(「豊臣秀吉が命じた『茶人千利休切腹事件』の真相はこれ!ホント?」=旧暦での記述?)
https://rekishizuki.com/archives/1538   】 》

七月 ポルトガル船の船長(カピタン・モール=総括責任者)、「ロケ・デ・メロ・ペレイア」」の船入港(「狩野内膳筆・南蛮屏風」右隻、出迎え光景)→(「南蛮屏風・狩野内膳が描いた屏風について―イルマン・ロレンソの事(長崎26聖人記念館館長・結城了悟稿)」)

天正二十年(一五九二)

(「ヴァリニャーノ」解題Ⅱ) 
天正二十年(一五九二)十月九日 ヴァリニャーノ、ルイス・フロイスを伴って、長崎を出航し、マカオに向かった。

文禄元年?(天正二十年か)12月20日(1592年2月3日) ロレンソ了斎、長崎の修道院で没。
http://takayama-ukon.sakura.ne.jp/pdf/booklet/pdf-takata/2017-08-17-04.pdf   】
(注=和暦(旧暦)と西暦との表示など、出典文献のものを一部?を付け修正)

 なお、上記の「利休の死」関連については、上記の『ヴァリニャーノ・日本巡察記(東洋文庫229)』と『フロイス・日本史2 豊臣秀吉Ⅰ・Ⅱ(中央公論社)』には、記述されていない。

ヴァリニャーノ神父.jpg

「狩野内膳筆『南蛮屏風・右隻』・ヴァリニャーノ神父とイエズス会員」(第一・二扇拡大図)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

 この狩野内膳が描いた、この「南蛮屏風・右隻」(第一・二扇拡大図)を、上記の「天正十八年(一五九〇)・天正十九年(一五九一)」関連の時系列的な年譜と照らし合わせて見ると、この左側の二番目の長身の人物が、「イエズス会の巡察使(司祭=神父)アレッサンドロ・ヴァリニャーノ」として、その左脇の正装した日本人の若者は、「天正少年使節団」の「伊東マンショ(主席正使)」、そして、ヴァリニャーノの右脇の、手に「コンタス(コンタンツ=ロザリオの鎖=下に十字架をつないだ数珠)」をもった司祭(神父)は、ルイス・フロイスと見立てても、それほどの違和感もないであろう。
 そして、この右端の、左手にコンタス、そして、右手に「タウ型十字架」(「T(タウ)」(アルファベットの『T』」に相当する)十字架)」に似せた「T(タウ)」型の杖を持った老修道士は、この一行の一人とすると、やはり、「イルマン(宣教師)・ロレンソ了斎」と解するのが自然のように思われる。
 そして、これを描いた狩野内膳が、この時の「ロレンソ了斎」を、いみじくも、その一年前に入港した「ロケ・デ・メル(ペレイア)」の船の出迎えの直前に(三か月前か?)賜死(自決)した「千利休」のイメージをもダブらせて描いたとしても、その見方は、これまたさほど唐突という印象は抱かないであろう。
 しかし、その「千利休」が、ここに描かれているように、この「コンタス=ロザリオの鎖」と「T(タウ)型の杖」と「イエズス会員の修道士の帽子」とを身に着けているということになると、これは即、「千利休=キリシタン」ということと結びつき、この見方には、やはり違和感を有する人も多いことであろう。
 これらのことに関しては、次のアドレスの論稿が参考となる。

http://ir-lib.wilmina.ac.jp/dspace/bitstream/10775/3723/3/08U05.pdf

「キリスト教宣教としての茶の湯 ―大阪の史跡を中心に―(朴賢淑稿)」

【 利休がキリスト教を積極的に排除しないものの、イエズス会宣教師による洗礼者名簿やキリシタン名簿に利休が全く言及されてないこと、利休がキリスト教では禁止されている一夫多妻制婚であったことなどから利休キリシタン説を否定している。(※増渕宗一『茶道と十字架』、角川書店、1996 年)
 しかし、2016 年の高山右近福者認定記念に際し、バチカン教皇庁が明らかにした高山右
近とその業績の一つ「教会の柱石」中で、「(高山右近が)千利休を含め、彼の多くの弟子
たちにキリスト教を伝え、何人もの人をキリスト教に導き」 との記述がある。(※バナー「ユスト高山右近」、カトリック中央協議会、(https://www.cbcj.catholic.jp/2015/10/01/10440/)、
2020 年 9 月 21 日閲覧)】(「キリスト教宣教としての茶の湯 ―大阪の史跡を中心に―(朴賢淑稿)」抜粋)

file:///C:/Users/User/Downloads/nike_062_035.pdf

「ヴァリニャーノの宣教方針と利休のわび茶(スムットニー 祐美稿)」
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