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狩野内膳筆「南蛮屏風」周辺(その三) [狩野内膳]

(その三)「イエズス会修道士」と「フランシスコ会修道士」周辺

イエズス会とフランシスコ会.jpg

「狩野内膳筆『南蛮屏風』(「イエズス会(修道士)」と「フランシスコ会(修道士)」)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

 この「狩野内膳筆『南蛮屏風』」(「右隻」第一・二扇「中央・全体拡大図」)は、色々のことが満載されている。
先の(その一、その二)で、この左端から、「天正少年使節団」の「伊東マンショ(主席正使)」、その右脇の長身の神父を「イエズス会の巡察使(司祭=神父)アレッサンドロ・ヴァリニャーノ」とし、その右側の神父を「ルイス・フロイス」(膨大な「フロイス・日本史」の原著者)と見立てた。
そして、そもそもの、この「狩野内膳筆『南蛮屏風』」の、そのスタートの原点に位置する、この中央の日本人の老修道士(「イエズス会修道士」)は、いわゆる、「高山右近などの『キリシタン大名』」を宣教した、その中心人物の一人である「イルマン(宣教師)・ロレンソ了斎」その人なのであろうか?
 さらに、その背後に、これまでの、「光悦・宗達・素庵 → 光琳・乾山 → 抱一・其一」等々の、その背後に潜んでいるような「茶道」の、その原点に位置する「侘茶・わび茶」を樹立した「千利休」、その人をも、この「イルマン(宣教師)・ロレンソ了斎」が体現して描かれているのだろうかということの、その謎解きの一端が、ここに描かれているような、そんな雰囲気を有している。
 その謎解きの一端の一つが、この「ロレンソ了斎」の右側に描かれている、二人の「フランシスコ会修道士」ということになる。
 「フランシスコ会」(またはフランチェスコ会)は、十三世紀のイタリアで、「アッシジのフランチェスコ」によってはじめられたカトリック教会の修道会の総称で、広義には第一会(男子修道会=修道士)、第二会(女子修道会=修道女)、第三会(在俗会)を含むが、狭義には、その第一会(男子修道会)の「男子修道士(修道士)」のみを指す。
 そして、この第一会(狭義の「フランシスコ会」)は、同時代に設立されたドミニコ会とともに、居住する家屋も食物ももたず、人びとの施しにたよったところから「托鉢修道会」(ないし「乞食僧団」)とも呼ばれ、当時のポルトガル国王の支援を背景としているエリート集団の「イエズス会」とは一線を画している(「ウィキペディア」)。

フランシスコ会の二人.jpg

「狩野内膳筆『南蛮屏風』(「フランシスコ会(修道士)」の二人)

 この「フランシスコ会」の修道士は、無所有と清貧を主張したフランチェスコの精神にもとづき、染色を施さない修道服をまとって活動している。その上、この二人の修道士は、よく見ると「裸足(はだし)」である。これは、履物を世俗のものとみて,聖所ではそれを着けることを避けるとともに,より積極的に「裸足(はだし)」が神の前での卑下と服従を示すという意味を有し、「フランシスコ会」や「改革カルメル会」の一部で採用されていて、これらの修道会は、「托鉢修道会」の中でも「跣足(せんそく)修道会」との別名を有している(「世界大百科事典」所収「跣足修道会」)。

聖フランシスコ.jpg

タペストリー「聖フランシスが鳥に説教する」
https://ja.topwar.ru/165466-dva-lica-katolicheskoj-cerkvi-francisk-iz-assizi-chelovek-ne-ot-mira.html

聖フランシスコ2.jpg

ブロンズ「動物に説教する聖フランチェスコ」
https://ja.topwar.ru/165466-dva-lica-katolicheskoj-cerkvi-francisk-iz-assizi-chelovek-ne-ot-mira.html

https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=3368

 この下図の「動物に説教する聖フランチェスコ」は、サンダル履きで、「跣足修道会」の修道士は、何処でも裸足かというと、それは「聖所」とかと限られたもので、それよりも、この下図の腰に巻いた荒縄の「三つの結び目」の、「修道誓願」(貞潔・清貧・従順)を意味するものの方が、より、「托鉢修道会」、そして、「跣足修道会」を象徴するものなのであろう(「ウィキペディア」所収「修道請願)。

貞潔 - 結婚しないこと
清貧 - 私的財産を持たないこと
従順 - 上長の正当な命令への従順

 ここで、「フランシスコ会(修道士)」の日本での活動は、文禄二年(一五九三)の「ペドロ・バブチスタの来日」を嚆矢とし、以後、「イエズス会」の活動と共に、この「フランシスコ会」の活動は、次のとおり、「日本キリシタン史」上に大きな影を宿すことになる。

【 「フランシスコ会」の日本での活動(1593~1622)

1593年(文禄2年) - フィリピン総督の使節としてフランシスコ会宣教師のペドロ・バプチスタが来日し、肥前国名護屋で豊臣秀吉に謁見。
1594年(文禄3年) - 京都に「天使の元后教会」(聖母マリア教会)を建立。
1596年(文禄5年) - サン・フェリペ号事件。ペドロ・バプチスタ、京都で捕縛される。
1597年(慶長元年)- ペドロ・バプチスタやマルチノ・デ・ラ・アセンシオンなどフランシスコ会員6名をふくむカトリック教徒26人が長崎で処刑される(日本二十六聖人の殉教)。
1603年(慶長8年) - フランシスコ会宣教師ルイス・ソテロが来日して徳川家康・徳川秀忠に謁見。日本での布教に従事し伊達政宗との知遇を得て東北地方にも布教開始。
1613年(慶長18年) - ソテロ、慶長遣欧使節団の正使としてローマに派遣されたが、日本でのキリスト教弾圧にともない外交交渉成功せず。
1622年(元和8年) - ソテロ、長崎に潜入を図るが捕らえられ、1624年(寛永元年)肥前大村で殉教。 】(「ウィキペディア」)

 この年譜を見て明らかになることは、「狩野内膳筆『南蛮屏風』(「イエズス会(修道士)」と「フランシスコ会(修道士)」)の、ここに描かれているような「「イエズス会」の修道士と「フランシスコ会」の修道士とが一緒になって、「ロケ・デ・メル(ペレイア)」のポルトガル船の入港を出迎えるような光景は有り得ないのである。
 「ロケ・デ・メル(ペレイア)」のポルトガル船の入港は、天正十九年(一五九一)七月、そして、フランシスコ会宣教師の「ペドロ・バプチスタ」が初めて来日したのは、文禄二年(一五九三)のことで、さらに、こちらは、スペインのフィリピン総督の使節としの来日で、ポルトガルの「カピタン・モール(マカオ総督を兼ねた船長)」の「ロケ・デ・メル(ペレイア)」を出迎えるということは、土台有り得ないことなのである。
 即ち、この「狩野内膳筆『南蛮屏風』(「イエズス会(修道士)」と「フランシスコ会(修道士)」)は、この筆者の「狩野内膳」の、さまざまな事象を、実際に見たものに、さらに想像上のものとを加味しながら、少なくとも、天正十九年(一五九一)から文禄二年(一五九三)、さらには、文禄三年(一五九四)の「秀吉の吉野の花見」、そして、上記の年譜の、慶長元年(一五九七)の「日本二十六聖人の殉教」(フランシスコの宣教師「ペドロ・バプチスタ」を含む二十六人聖人の殉教)をも踏まえているのかも知れない。

二十六聖人.jpg

「26人の処刑を描いた1862年の版画」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%85%AD%E8%81%96%E4%BA%BA#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Calvary-of-Nagasaki-1597-by-Eustaquio-Maria-de-Nenclares-(1862).png

 この版画は、江戸時代末期の文久二年(一八六二)の版画で、日本人が中国人(当時の清人の辮髪)のように描かれているが、この「日本二十六聖人」は、右側から順に次のとおりとなる(「ウィキペディア」)。

1 フランシスコ吉(きち) → 日本人、フランシスコ会信徒、道中で捕縛。
2 コスメ竹屋 → 日本人、38歳。大坂で捕縛。
3 ペトロ助四郎(またはペドロ助四郎)→ 日本人、イエズス会信徒、道中で捕縛。
4 ミカエル小崎(またはミゲル小崎)→ 日本人、46歳、京都で捕縛、トマス小崎の父。
5 ディエゴ喜斎(時に、ヤコボ喜斎など)→ 日本人、64歳、イエズス会員。
6 パウロ三木 → 日本人、33歳、大坂で捕縛、イエズス会員。
7 パウロ茨木 → 日本人、54歳、京都で捕縛、レオ烏丸の兄。
8 五島のヨハネ草庵(またはヨハネ五島)→ 日本人、19歳、大坂で捕縛、イエズス会員。
9 ルドビコ茨木 → 日本人、12歳で最年少。京都で捕縛。パウロ茨木、レオ烏丸の甥。
10 長崎のアントニオ → 日本人、13歳、京都で捕縛、父は中国人、母は日本人。
11 ペトロ・バウチスタ(またはペドロ・バプチスタ、ペドロ・バウティスタ)→スペイン人、48歳。京都で捕縛。フランシスコ会司祭。
12 マルチノ・デ・ラ・アセンシオン → スペイン人、30歳、大坂で捕縛。フランシスコ会司祭。
13 フェリペ・デ・ヘスス(またはフィリッポ・デ・ヘスス])→メキシコ人、24歳、京都で捕縛、フランシスコ会修道士。
14 ゴンザロ・ガルシア → ポルトガル人、40歳。京都で捕縛。フランシスコ会修道士。
15 フランシスコ・ブランコ → スペイン人、28歳。京都で捕縛。フランシスコ会司祭。
16 フランシスコ・デ・サン・ミゲル→スペイン人、53歳、京都で捕縛、フランシスコ会修道士。
17 マチアス → 日本人、京都で捕縛。本来逮捕者のリストになかったが、洗礼名が同じというだけで捕縛。
18 レオ烏丸 → 日本人、48歳。京都で捕縛。パウロ茨木の弟。ルドビコ茨木のおじ。
19 ボナベントゥラ → 日本人、京都で捕縛。
20 トマス小崎 → 日本人、14歳。大坂で捕縛。ミカエル小崎の子。
21 ヨアキム榊原(またはホアキン榊原)→ 日本人、40歳、大坂で捕縛。
22 医者のフランシスコ(またはフランシスコ医師)→日本人、46歳、京都で捕縛。
23 トマス談義者 → 日本人、36歳、京都で捕縛。
24 絹屋のヨハネ → 日本人、28歳、京都で捕縛。
25 ガブリエル → 日本人、19歳、京都で捕縛。
26 パウロ鈴木 → → 日本人、49歳、京都で捕縛。

 これらの二十五名の内訳は、「日本人(二十名)・スペイン人(四名)・ポルトガル人(一人)・メキシコ人(一人)」、そして、「フランシスコ会員関係者(二十二人)・イエズス会関係者(四人)」で、これらの捕縛は、「ペトロ・バウチスタ(バプチスタ)」等の「フランシスコ会員関係者」が、その中心であったことが歴然としてくる。
 これらの、「日本の二十六聖人」関連については、下記アドレスの「二十六聖殉教者のメッセージ(片岡千鶴子稿)」が、参考となる。

http://theology.catholic.ne.jp/

 また、「イエズス会」と「フランシスコ会」などによる、日本の布教活動関連については、下記のアドレスの「近世長崎町におけるイエズス会と托鉢修道会の対立について(トロヌ・カルラ稿)が参考となる。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/232933/1/asia16_117.pdf

26聖人・ペドロ・パプチスタ.jpg

「26人の処刑を描いた1862年の版画」(部分拡大図)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%85%AD%E8%81%96%E4%BA%BA#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Calvary-of-Nagasaki-1597-by-Eustaquio-Maria-de-Nenclares-(1862).png

 この「6」の殉教者が、「パウロ三木(イエズス会員)」(「聖パウロ三木と仲間たち」の異名を有する代表的殉教者)、「9」が「ルドビコ茨木」(最年少の十二歳)、「10」が 長崎のアントニオ(十三歳)、そして、この「11」の人物が、この殉教者の中心に位置する、フランシスコ会司祭の「ペトロ・バウチスタ(またはペドロ・バプチスタ、ペドロ・バウティスタ)、その脇の「12」の人物が、同じく、フランシスコ会司祭の「マルチノ・デ・ラ・アセンシオン」となる。
 ここで、冒頭の「狩野内膳筆『南蛮屏風』(「フランシスコ会(修道士)」の二人)に戻って、この二人の「フランシスコ会(修道士)」は、この「二十六聖殉教者」の、二人のフランシスコの神父(キリシタン宣教師のうちの司祭=ポルトガル語padre《パードレ:「神父」》=バテレン《パードレの転訛》)の、「ペトロ・バウチスタ(またはペドロ・バプチスタ)」と「マルチノ・デ・ラ・アセンシオン」と見立てることも、許容範囲の内に入るであろう。

フランシスコ会の二人.jpg

「狩野内膳筆『南蛮屏風』(「フランシスコ会(修道士)」の二人)

 この二人が、スペインのフィリピン総督の使節として来日したのは、文禄二年(一五九三)のことで、この時には、この二人の「フランシスコ会員」の「パードレ・バテレン」(神父)の左脇の、「イエズス会員」の「イルマン」(宣教師)・ロレンソ了斎」は、既に、その一年前の、文禄元年(一五九二)に亡くなっており、この画面のように、これらの三人が一同に会することは土台有り得ないことなのである。
 とすれば、この「ロレンソ了斎」を、同時に、その二年前の、天正十九年(一九五一)に、豊臣秀吉によって賜死(自刃)させられた、キリシタン擁護派の「千利休」と見立てることも、これまた、許容範囲内と解しても差し支えなかろう。
 そして、「わび茶(草庵の茶)」の完成者として、そして、後に、「茶聖」として仰がれる「千利休」は、「キリシタン」(キリスト教)のうちの「イエズス会」との接触はあるが、「フランシスコ会」(「貞潔・清貧・従順」を標榜する)系統の、それらの接触とは、全くの没交渉なのである。
 ここで、「千利休」が完成した「わび茶(草庵の茶)」(「ウィキペディア」)の根源にあるものは、全く未知の世界の、イタリーの片田舎・アッシジの、「パードレ・バテレン」(神父)ではなく、一介の「イルマン」(「修道士・宣教師」)とも言い得る「聖フランシス(聖フランチェスコ)」の標榜した「貞潔・清貧・従順」の世界に、極めて近い世界のものという思いがしてくる。
特に、豊臣秀吉の「黄金の茶屋・黄金の茶器」(「富貴の茶」・「大名の茶」)に比して、「草庵の茶屋・手造りの茶器」(「清貧の茶」・「わび茶(草庵)=『市中の山居』の茶)の世界を、己の命と引き替えに秀吉と対峙したとも思える「千利休」その人と見立てることは、これぞ、この南蛮屏風を制作した筆者(「狩野内膳」とその工房)が、密かに、これらの画面の中に潜ませていたのではなかろうかという、何やら謎めいた「内膳ファンタジー(幻想)」的な思いということになる。

千利休の娘・亀?.jpg

「狩野内膳筆『南蛮屏風』(「千利休・娘の亀・フランシスコ会員・イエズス会員)」)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

 この「内膳ファンタジー(幻想)」という観点での、この画面の、何とも奇妙な描写というのは、この右端の、右手をかざして、この左端の老人(ロレンソ了斎とも千利休とも見立てられている)の背を見守っているような女性の足首が描かれていないことなのである。
 この女性の足首が描かれていないことを指摘したのは、『キリシタン千利休』(山田無庵著・河出書房新社)が嚆矢なのかも知れない。そこでは、この女性を、「千利休」の六女(末女)の「(お)亀」と特定しているが、その真相は、全くのファンタジーの謎のままである。
 なお、「千利休の賜死(切腹?)」周辺については、下記のアドレスの「千利休の切腹の状況および原因に関する一考察(福井幸男稿)」の論稿が参考となる。

https://www.andrew.ac.jp/soken/pdf_5-1/ningen40.pdf
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