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狩野内膳筆「南蛮屏風」周辺(その四) [狩野内膳]

(その四)「南蛮唐物屋の女性」周辺

千利休の娘・亀?.jpg

「狩野内膳筆『南蛮屏風』(「千利休・南蛮唐物屋の女性=千利休の娘の亀?・フランシスコ会員・イエズス会員」)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

 この右端の「足首のない女性」は、「赤紐で旅装用の模様の付いた革足袋」を履いている。
この女性は、『南蛮屏風の女と岩佐又兵衛(千草子著)』では、「足袋のもとである単皮(注・たんぴ=鹿などの動物の一枚革の足袋)を、冬でもないのに、なぜはいているのか。これは、遠出 ― 旅支度である。この女 ― 藤の暖簾がかかっているから、藤屋の女としておこう」(『南蛮屏風の女と岩佐又兵衛(千草子著)』所収「あとがき」)と、その二部作(「第一部 南蛮屏風の女」「第二部 ささやき竹―あるいは、洞の聖母子」)の、フィクション(小説)もので、「狩野内膳の妻・岩佐又兵衛の執心(注・思い慕った)の女性」として見立てられている。
 この『南蛮屏風の女と岩佐又兵衛(千草子著)』は、フィクション(小説)もので、その「あとがき」を見ると、別名(小林千草稿)の「内膳南蛮屏風の宗教性」(『文教大学国際学部紀要』第二号掲載)が、このフィクション(小説)ものの、その背景となっている論稿のようなのである。
 そして、その論稿の「内膳南蛮屏風の宗教性」(小林千草稿)が、下記のアドレスで、その全容を知ることが出来る。

https://ci.nii.ac.jp/naid/110001149737

 さらに、この「内膳南蛮屏風の宗教性」(小林千草稿)を主要な参考文献としている次のアドレスの「長崎ディープ ブログ」(「南蛮屏風」を読む9)では、この「足首のない、革足袋を履いた女性」と「黒いマントの神父(ヴァリニャーノ神父)の横にいる、小綺麗な着物姿の少年(先に「天正少年使節団」の「伊東マンショ(主席正使)」と見立てた)」とは「親子なのではなかろうか」との見方をしている。

http://blog.nadeg.jp/?eid=25

南蛮屏風右隻の革足袋の二人.jpg

「狩野内膳筆・南蛮屏風・右隻(神戸市立博物館蔵)」→ 「狩野内膳筆『右隻』・カピタンを出迎える修道者たち」(第一・二扇拡大図)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-01-07
「狩野内膳筆『南蛮屏風』(「イエズス会(修道士)」と「フランシスコ会(修道士)」)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

 この右端の女性(足首が無く、旅装用の革足袋を履いている)と、左端の正装した少年(右端の女性と同じ模様の革足袋を履いている)とを「親子関係」と見立てると、中央の老人(左手に数珠を持ち、右手で杖をついている)は、「ロレンソ了斎」のイメージがから、敢然として「千利休」のイメージと豹変してくる。そして、それは、即、「千家(千利休家)の聖家族(ファミリー)」のイメージと重なってくる。

中央の老人→千利休(千家一世)・千少庵(千家二世、利休後妻の連れ子、利休娘・亀の夫)
左端の少年→千宗旦(千家三世、三千家の祖、少庵と亀の子、千家中興の祖、乞食宗旦)
右端の女性→(お)亀(利休の娘、少庵の妻、宗旦の母)

千家系図(千利休→千少庵→千宗旦)

千利休家系図.jpg

「千利休と女たち」
https://ameblo.jp/morikawa1113/entry-12258588885.html

 ここで、これまでの「宗達ファンタジー・三藐院ファンタジー・又兵衛ファンタジー」に続く「内膳ファンタジー(その一)」として、次の「内膳南蛮屏風の唯一の女性は何故『足首が描かれていないのか?』」周辺について、未整理のままにメモ的に記して置きたい。

(「内膳ファンタジー」その一)「内膳南蛮屏風の唯一の女性は何故『足首が描かれていないのか?』」

中央の老人→千利休(千家一世)・千少庵(千家二世、利休後妻の連れ子、利休娘・亀の夫)
左端の少年→千宗旦(千家三世、三千家の祖、少庵と亀の子、千家中興の祖、乞食宗旦)
右端の女性→(お)亀(利休の娘、少庵の妻)

千利休(千家一世)→大永2年(1522年) - 天正19年2月28日(1591年4月21日)
千少庵(千家二世、利休後妻の連れ子、利休娘・亀の夫)→天文15年(1546年)- 慶長19年9月7日(1614年10月10日)
千宗旦(千家三世、三千家の祖、少庵と亀の子、千家中興の祖、乞食宗旦)→天正6年1月1日(1578年2月7日)- 万治元年11月19日(1658年12月19日)
(お)亀(利休の娘、少庵の妻)→生年不詳 - 慶長11年10月29日(1606年11月29日)

 千利休の死とその死因などについては、今に至るまで、全くの謎のままである。その死の原因などについて、下記のアドレスでは、次のとおり紹介した(さらに「ウィキペディア」などにより補注・追加などを施した)。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/

「千利休の賜死(切腹?)」の真相を巡る見解のあれこれ

一 売僧行為(茶道具不当売買)説→『多聞院日記』巻三十七、天正19年2月28日条(1591年4月21日)
二 大徳寺木像不敬説→勧修寺晴豊『晴豊公記』第七巻、天正19年2月26日条(1591年4月19日)、吉田兼見『兼見卿記』巻十六、天正19年2月26日条(1591年4月19日)
三 利休の娘説→『南方録』第七巻・滅後、『秀頼公御小姓古田九郎八直談、十市縫殿助物語』承応2年(1653年)
四 秀吉毒殺説→ 岡倉天心薯『茶の本』国立国会図書館、千利休薯『利休百会記』岡山大学付属図書館
五 利休専横の疑い説→平直方『夏山雑談』巻之五、寛保元年(1741年)
六 利休キリシタン説→小松茂美『利休の手紙 310頁「細川家記」』1985年・小学館
七 利休芸術至上主義の抵抗説→芳賀幸四郎『千利休』(吉川弘文館、1963年)、米原正義『天下一名人千利休』(淡交社、1993年)、児島孝『数寄の革命―利休と織部の死―』(思文閣出版、2006年)
八 利休所持茶道具の献上拒否説→竹中重門『豐鑑』国立国会図書館デジタルコレクション
(「ウィキペディア」などにより下記を追加)
九 秀吉の朝鮮出兵を批判したという説→杉本捷雄『千利休とその周辺』淡交社、1970年
十 交易を独占しようとした秀吉に対し、堺の権益を守ろうとしたために疎まれたという説→会田雄次・山崎正和対談「利休が目指し、挫折したもの」(『プレジデント』27(9) 《特集》千利休、1989年9月)
十一 秀吉は「わび茶」を陰気なものとして嫌っており、黄金の茶室にて華やかで伸びやかな茶を点てさせた事に不満を持っていた利休が信楽焼の茶碗を作成し、これを知った秀吉からその茶碗を処分するよう命じられるも、拒否したという説→笠原一男編集『学習漫画 人物日本の歴史〈12〉織田信長・豊臣秀吉・千利休―安土・桃山時代』集英社
十二 豊臣秀長死後の豊臣政権内の不安定さからくる政治闘争に巻き込まれたという説→田孫四郎雄翟 編『武功夜話』巻十七、寛永15年(1638年)

 これまでの「荒木村重・岩佐又兵衛と結城秀康・松平忠直」周辺略年譜と、「天正遣欧使使節団の豊臣秀吉謁見」・「千利休賜死(切腹?)」周辺年譜は、下記のアドレスなどにより、次のとおりである。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-01-27

「荒木村重・岩佐又兵衛と結城秀康・松平忠直」周辺略年譜と「天正遣欧使使節団の豊臣秀吉謁見」・「千利休賜死(切腹?)」周辺年譜

天正十八年(一五九〇)
七月二十一日 「天正少年使節団」、ゴア、マカオに長期逗留の後、長崎に帰帆。
(「ヴァリニャーノ」解題Ⅱ)
七月二十一日 長崎上陸。有馬など巡察。長崎(第一回協議会)
八月十三日~十五日 島原半島加津佐(第二回協議会)
十一月初旬 長崎→諫早→有明海を渡って佐賀→→久留米→秋月→小倉→下関、海路を辿った「天正少年使節団」と合流し、瀬戸内海を東航して播磨の室津へ。
(「フロイス」第二二章)関白(秀吉)坂東での勝利を収めて天下統一。
(「同」第二三章)巡察師(ヴァリニャーノ)秀吉謁見のため京都(聚楽第)へ旅立つ。
(「同」第二四章)巡察師、室津(播磨=兵庫の室津港)に逗留。
1590年(天正18年)結城秀康17歳  北条氏掃討のため、小田原征伐へ参陣。前年、豊臣秀吉に実子・鶴松が生まれ、豊臣家の後継者に指名されたことから、結城秀康は同家を出る。結城家を継ぎ、11万1,000石の地方大名となる。
●1590年(天正18年)狩野内膳21歳 内膳こと狩野久蔵筆「平敦盛像」。この頃小出播磨守新築に「嬰児遊技図」を描き豊臣秀吉に認められる(画工便覧)。

天正十九年(一五九一)
(「ヴァリニャーノ」解題Ⅱ)
一月十五日(天正十九年元旦) 秀吉より上京せよとの通告。
二月十七日 室津を出航。
二月十九日 大阪に着く(大阪に三日滞在、淀川を遡て鳥羽を経る)
二月二十三日 都(京都)に入る
(「ヴァリニャーノ」解題Ⅱ)
三月三日(「天正十九年閏正月八日)三月三日「天正少年使節団」、京都の聚楽第で豊臣秀吉と謁見。
(「フロイス」第二六章)関白(秀吉)、巡察師(ヴァリニャーノ)とその同伴者(「天正少年使節団」)と謁見・饗応。
(「ヴァリニャーノ」解題Ⅱ)
三月の末、都(京都)を離れ、大阪から海路、平戸を経て長崎に着き、さらに、二日後和津佐の学院に帰着。
1591年(天正19年)千利休70歳 秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられ、利休七哲の前田利家らの奔走・助命適わず、京都に呼び戻され、聚楽屋敷内で賜死(切腹?)。
《天正19年(1591年)2月13日(新暦「四月六日」か?)→利休は突然、京都を追放され堺の自宅に蟄居させられる。
同年2月25日(新暦「四月十八日」か?)→京都一条戻橋に、大徳寺山門にあった問題の利休木像が磔にされる。
同年2月28日(新暦「四月二十一日」か?)→木像の下に利休の首がさらされる。》

 ここで、この「千利休賜死(切腹?)」後の、千家(千少庵・千宗旦など)は、一時取り潰しの状態におかれ、利休の「先妻・宝心妙樹(上記家系図の「お稲」)の子である嫡男・千道安(上記家系図の「紹安」=堺千家=後に断絶)」は、飛騨高山藩主金森長近に謹慎・蟄居を命ぜられ(「ウィキペディア・千道安」)、同じく、「後妻・宗恩の連れ子で娘婿でもある千少庵=京千家」は、会津藩の蒲生氏郷のもとに謹慎・蟄居を命じられている(「ウィキペディア・千道安」)。
 その他の千利休の身内も、この「千道安(堺千家)・千少庵(京千家)」の謹慎・蟄居の処分に関連しての過酷のものであったことは想像するに難くない。そして、千少庵とお亀の子の「千宗旦」(「三千家」の祖)は、「千利休賜死(切腹?)」前の、天正十六年(一五八八)の十歳の頃に、大徳寺の仏門に入り、後に、春屋宗園のもとで禅の修行を積み、得度している(「ウィキペディア・千宗旦」)。
 これらの「千道安(堺千家)・千少庵(京千家)の謹慎・蟄居」が解かれたのは、文禄三年(一五九四)のことで、この時に、「千宗旦」(十七歳?)は「千少庵」の希望で還俗し、「この際、豊臣秀吉が利休から召し上げた茶道具を宗旦を名指しして返したことから、伯父の道安ではなく宗旦が利休の後継者と目されるようになったとも言われている。しかし、聞き書きである『茶話指月集』の情報であるため、確証があるわけではない(「ウィキペディア・千宗旦」))。
 この「千宗旦」が「千少庵」の家督を継いだのは、慶長五年(一六〇〇)の「関ケ原合戦」があった年で、ここから「豊臣時代」から「徳川時代」へと歴史の流れは大きく変動する年にあたる。この時に、「千宗旦」は、二十三歳(?)の頃で、その六年後の、慶長十一年(一六〇六)に、上図の右端の女性に見立てられる「(お)亀」(利休の娘、少庵の妻、宗旦の母)は没する。この「(お)亀」と見立てられる女性の「足首は描かれず、旅装用の足袋を履いている」ということは、この女性(「(お)亀」)は昇天して、別世界に旅立ったということを意味するのであろう。
 ここで、この「千少庵」の家督を継いだ、慶長五年(一六〇〇)の「関ケ原合戦」から、その慶長時代が終焉し、「元和元年(一六一五)」になるまでの、「荒木村重・岩佐又兵衛と結城秀康・松平忠直」周辺略年譜(抜粋)は、次のとおりである。

【「荒木村重・岩佐又兵衛と結城秀康・松平忠直」周辺略年譜(抜粋「一六〇〇~一六一五)

※1600年(慶長5年)高山右近49歳 関ヶ原の戦いの前哨戦である浅井畷の戦いでは東軍に属し、丹羽長重を撃退する。
※※1600年(慶長5年)黒田如水55歳 関ヶ原の戦いが起こる。石垣原の戦いで、大友義統軍を破る。
※※※1600年(慶長5年)結城秀康27歳 関ヶ原の戦いの直前、徳川家康と共に会津藩(現在の福島県)の上杉景勝の討伐へ出陣。道中、石田三成挙兵を知り、徳川家康は西へ引き返す。一方で結城秀康は宇都宮城に留まり、上杉景勝からの防戦に努めた。関ヶ原の戦い後に徳川家康より、越前・北の庄城(福井県福井市)68万石に加増される。
〇1603年(慶長8年)松平忠直7歳 江戸参勤のおりに江戸幕府2代将軍・徳川秀忠に初対面している。秀忠は大いに気に入り、三河守と呼んで自らの脇に置いたという。
※※1604年(慶長9年)黒田如水59歳 京都の伏見藩邸で死去する。
※※※1604年(慶長9年)結城秀康31歳 結城晴朝から家督を相続し、松平に改姓。
〇〇1604年(慶長9年)岩佐又兵衛 27歳 秀吉の七回忌、京で豊国祭礼
●1604年(慶長9年)狩野内膳36歳 秀吉七回忌の豊国明神臨時祭礼の「豊国祭礼図」を描く。
〇1605年(慶長10年)松平忠直 9歳 従四位下・侍従に叙任され、三河守を兼任する。
※※※1606年(慶長11年)結城秀康33歳  徳川家から伏見城(京都府京都市伏見区)の居留守役を命じられて入城するも、病に罹り重篤化する。
●1606年(慶長11年)狩野内膳37歳 1606年、片桐且元、内膳の「豊国祭礼図」を神社に奉納(梵舜日記)。弟子に荒木村重の子岩佐又兵衛との説(追考浮世絵類考/山東京伝)もある。
※※※1607年(慶長12年)結城秀康34歳  越前国へ帰国し、のちに病没。
〇1607年(慶長12年)松平忠直 13歳 結城秀康の死に伴って越前75万石を相続する。
〇1611年(慶長16年)松平忠直 17歳 左近衛権少将に遷任(従四位上)、三河守如元。この春、家康の上京に伴い、義利(義直)・頼政(頼宣)と同じ日に忠直も叙任された。9月には、秀忠の娘・勝姫(天崇院)を正室に迎える。
〇1612年(慶長17年)松平忠直 18歳 重臣たちの確執が高じて武力鎮圧の大騒動となり、越前家中の者よりこれを直訴に及ぶに至る。徳川家康・秀忠の両御所による直裁によって重臣の今村守次(掃部、盛次)・清水方正(丹後)は配流となる一方、同じ重臣の本多富正(伊豆守)は逆に越前家の国政を補佐することを命じられた。
〇1613年(慶長18年)松平忠直 19歳 家中騒動で再び直訴のことがあり、ついに本多富正が越前の国政を執ることとされ、加えて本多富正の一族・本多成重(丹下)を越前家に付属させた。これは、騒動が重なるのは、忠直がまだ若く力量が至らぬと両御所が判断したためである。
〇〇1613年(慶長18年) 岩佐又兵衛 37歳 この頃、舟木本「洛中洛外図屏風」
※1614年(慶長19年)高山右近63歳 キリシタンへの弾圧が過酷さを増し、徳川家康がキリスト教の禁教令を発布。国外追放の命令が下され、妻・高山ジュスタを始めとする一族を引き連れ、長崎経由でスペイン領ルソン島のマニラ(現在のフィリピン)へ旅立つ。スペイン国王の名において国賓待遇で歓待された。
〇1614年(慶長19年)松平忠直 20歳 大坂冬の陣では、用兵の失敗を祖父・家康から責められたものの、夏の陣では真田信繁(幸村)らを討ち取り、大坂城へ真っ先に攻め入るなどの戦功を挙げている。家康は孫の活躍を喜び、「初花肩衝」(大名物)を与えている。また秀忠も「貞宗の御差添」を与えている。
※1615年(慶長20年/元和元年)高山右近64歳 前年の上陸からわずか40日後、熱病に冒され息を引き取る。葬儀は聖アンナ教会で10日間に亘って執り行われ、マニラ全市を挙げて祈りが捧げられた。 】

 いみじくも、この「周辺略年譜(抜粋「一六〇〇~一六一五)」は、高山右近の「関ケ原戦い」(「東軍=徳川軍)に始まり、その「高山右近の死」(味方した「東軍=徳川家康」の「キリスト教の禁教令」での国外追放による「マニラの死」)で終わっている。

南蛮屏風右隻の革足袋の二人.jpg

(再掲)「狩野内膳筆・南蛮屏風・右隻(神戸市立博物館蔵)」→「狩野内膳筆『右隻』・カピタンを出迎える修道者たち」(第一・二扇拡大図)→「内膳南蛮屏風・右隻・利休?」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-01-07

 この上図を読み解くための、その順序とその周辺のことを、箇条書きに要点のみ記して置きたい。

一 右端の女性「お亀?」(利休の娘・少庵の妻・宗旦の母)の視線は、左端の正装した少年「宗旦?」(利休の孫、少庵と亀の子、千家三世、千家中興の祖、乞食宗旦)の方に向いている。そして、その右端の少年「宗旦?」の視線は、中央に描かれている老人「千利休?」(わび茶《草庵の茶》の完成者=千家一世、この背景に、「千家二世・千少庵」のイメージが潜んでいる?)と、その脇の二人の「フランシスコ会修道士」(托鉢修道士・乞食修道士)に注がれている。

豊臣家聖家族.jpg

「狩野内膳筆『左隻』・豊臣家聖家族(秀吉・秀頼・淀君そして高台院)」(第一・二扇拡大図)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=1

 「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」(『文教大学国際学部紀要』第二号掲載)では、その「八 おわりに」で、次のように記している。

【 慶長三年八月十八日秀吉六十三歳で没するが、その直前に本屏風は出来ていたと筆者は推定する。それは、左隻聖家族の別視点からの” 見なし“から成り立っている。文禄・慶長の役と朝鮮出兵に失敗してからも、秀吉の夢は世界制覇にあったと伝えられている。だとすると、秀吉の夢……外国に宮殿を造り、そこに秀頼と赴く……を描いたものであれば、キリシタンの関係の事象がいくつか描いてあっても咎めがその絵師には及ぶはずはない。つまり聖家族の父子は、秀吉と秀頼、脇部屋の女性は淀君(秀頼母)と見なすのである。そう言えば、左隻の老父は、高台寺蔵などの秀吉絵像に似ていないであろうか。 】「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」(『文教大学国際学部紀要』第二号掲載)

二 この左隻の「聖家族」(豊臣秀吉・秀頼そして淀君=秀頼生母)に「高台院」(秀吉正室・秀頼正母=お寧・寧々・北政所)を加えると、先の右隻の「千家聖家族」(千利休・宗旦・お亀そして少庵)と見事に対応することとなる。

 豊臣秀吉     ⇄ 千利休
 豊臣秀頼     ⇄ 千宗旦
 淀君(秀頼生母) ⇄ お亀(宗旦生母)
 高台院(秀吉正室・秀頼正母)⇄ 千少庵(宗旦の父、お亀の夫、利休の後妻の連れ子)
(注・上記の「淀君」の背後に「高台院」が潜み、「千利休」の背後に「少庵」が潜んでいる。)

三 ここで、「千利休はキリシタンなのか? 千利休の、この『コンタス=ロザリオの鎖とT(タウ)型の杖』は何を意味するのか?」などについては、「千利休は、生前はキリシタンではなかった。そして、キリシタンの洗礼名も受けていない。しかし、豊臣秀吉より「賜死(切腹?)」させられて、その死後、その『コンタス=ロザリオの鎖とT(タウ)型の杖』を、愛弟子の「利休七哲」(前田利長《加賀の肥前》、蒲生氏郷、細川忠興《三斎》、古田織部、牧村兵部、高山南坊《右近》、芝山監物)の一人の、「高山南坊《右近》」より、利休の娘の「お亀」に託され、その「お亀」が昇天した日(慶長11年10月29日《1606年11月29日》)に、今は亡き、茶人として生涯を全うした「千利休」は、この「コンタス=ロザリオの鎖とT(タウ)型の杖」を継受するに至ったと理解をしたい。
 そして、その理解に至った理由の一つとして、平成二十八年(二〇一六)の「高山右近福者認定記念」に際し、バチカン教皇庁が明らかにした高山右近とその業績の一つ「教会の柱石」中で、「(高山右近が)千利休を含め、彼の多くの弟子たちにキリスト教を伝え、何人もの人をキリスト教に導き」 との記述(バナー「ユスト高山右近」、カトリック中央協議会、(https://www.cbcj.catholic.jp/2015/10/01/10440/)、2020 年 9 月 21 日閲覧)】(「キリスト教宣教としての茶の湯 ―大阪の史跡を中心に―(朴賢淑稿)」抜粋)を挙げて置きたい。

http://ir-lib.wilmina.ac.jp/dspace/bitstream/10775/3723/3/08U05.pdf

【 利休がキリスト教を積極的に排除しないものの、イエズス会宣教師による洗礼者名簿やキリシタン名簿に利休が全く言及されてないこと、利休がキリスト教では禁止されている一夫多妻制婚であったことなどから利休キリシタン説を否定している。(※増渕宗一『茶道と十字架』、角川書店、1996 年)
 しかし、2016 年の高山右近福者認定記念に際し、バチカン教皇庁が明らかにした高山右
近とその業績の一つ「教会の柱石」中で、「(高山右近が)千利休を含め、彼の多くの弟子
たちにキリスト教を伝え、何人もの人をキリスト教に導き」 との記述がある。(※バナー「ユスト高山右近」、カトリック中央協議会、(https://www.cbcj.catholic.jp/2015/10/01/10440/)、
2020 年 9 月 21 日閲覧)】(「キリスト教宣教としての茶の湯 ―大阪の史跡を中心に―(朴賢淑稿)p79、脚注36」抜粋)

四 ここで、何故、≪「お亀」が昇天した日(慶長11年10月29日《1606年11月29日≫》に拘るのかというと、それは、この「お亀」と見立てられる、この右端に描かれている女性の「足首が描かれていない」という、その特異性に起因するに他ならない。
 そして、この慶長十一年(一六〇六)というのは、「周辺略年譜(抜粋「一六〇六)」)では、下記のとおり、この「南蛮屏風(紙本金地著色・六曲一双・神戸市立博物館蔵)」を描いた「狩野内膳」が、もう一つの代表作とされている「豊国祭礼図屏風」(紙本著色・六曲一双・豊国神社蔵)を神社に奉納(梵舜日記)した年なのである。

【●1606年(慶長11年)狩野内膳37歳 1606年、片桐且元、内膳の「豊国祭礼図」を神社に奉納(梵舜日記)。弟子に荒木村重の子岩佐又兵衛との説(追考浮世絵類考/山東京伝)もある。】

 この「豊国祭礼図屏風」の神社への奉納が「片桐且元」ということは、慶長九年(一六〇四)の「秀吉七回忌」の「豊国祭礼」の総奉行であり、その依頼主は、時の大阪城に君臨していた「豊臣秀吉の継嗣・秀頼とその生母・淀君」の命を受けたということに他ならない。
 そして、この「豊臣秀頼・淀君」が狩野内膳に描かせたとされている「豊国祭礼図屏風」(豊国神社本)の描写中の「皺くちゃな顔の高台院」(「左隻」第三扇中部)を介在しての、当時の「大阪城の『淀君』(秀吉側室・秀頼生母=母)」と「京都高台寺の『高台院』(秀吉正室・秀頼正=母上)」との「相克・葛藤・軋轢」などについて、『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』の指摘を中心にして、下記のアドレスで紹介してきた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-10-07

高台院二・豊國神社本.jpg

「豊国祭礼図屏風(左隻)」(豊国神社蔵=豊国神社本)第三扇中部拡大図「桟敷に坐っている老尼」』

【(再掲)

《 狩野内膳は、淀殿・秀頼の注文(指示)通りに、図Ⅵ-5や図Ⅵ-7(「図Ⅵ-8」の誤記?)のような皺くちゃで怖い顔をした高台院を「豊国祭礼図屏風」のなかに描いたのである。
なお、皺だらけで怖い顔に高台院が描かれているという私の見解に対して、それは主観的判断なのではないかとこだわる人がいると思う。確かに美醜は厄介である。本章では、徳川美術館本しか比較していないが、管見の近世初期風俗画の諸作品については、老人・老女がどのように描かれているかの比較・検討は、私は悉皆的に行ってみた。その結果では、豊国神社本の老尼表現の特異性は明瞭であった。(以下、略)  》『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』(P-196)

 そして、これらの背景については、次のように記述している。

《 慶長九年八月に執り行われた豊国大明神臨時祭礼に臨席できなかった淀殿と秀頼は、狩野内膳に命じてその盛大な祭礼のありさまを屏風に描かせることにした。しかし、同十年に生じた家康と淀殿・秀頼の間の政治的緊張のなかで、家康の使者となった高台院に対して激しい怒りを抱いた淀殿・秀頼は、高台院を皺だらけの怖い顔の老尼として描いた屏風つまり豊国神社本「豊国祭礼図屏風」をつくらせ、それを同十一年八月に片桐且元の奉納ということにして、豊国社の「下陣」で公開させたのだ、と。(以下略) 》『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』(P195-196) 】

 ここまで来ると、「お亀」が昇天した日(慶長11年10月29日《1606年11月29日≫)に、その年に豊国神社に奉納された、先(慶長9《1604》年秀吉の7回忌臨時大祭)の公式記録ともいうべき、狩野内膳筆の「豊国祭礼図屏風」は、その豊国大明神臨時祭礼に臨席できなかった「淀殿と秀頼」よりの一方的な意向を反映しているもので、それに反駁しての、「京都高台寺の『高台院)」側(「高台院側近の『親キリシタン・親千利休』(「秀吉が殉教させた二十六聖人そして賜死させた親キリシタン茶人の千利休)系の面々」)が、同じ、狩野内膳をして描かせたのが、下記の「狩野内膳筆・南蛮屏風(六曲一双・神戸市立博物館蔵)」と解したいのである。

狩野内膳・右隻.jpg

「狩野内膳筆・南蛮屏風・左隻(神戸市立博物館蔵)」紙本金地著色・6曲1双・各154.5×363.2
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=1

狩野内膳・左隻.jpg

「狩野内膳筆・南蛮屏風・右隻(神戸市立博物館蔵)」紙本金地著色・6曲1双・各154.5×363.2
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

 そして、この屏風の実質的な注文主の「京都高台寺の『高台院)」側(「高台院側近の『親キリシタン・親千利休』(「秀吉が殉教させた二十六聖人そして賜死させた親キリシタン茶人の千利休)系の面々」)の人物というのは、「高台院(北政所・お寧・寧々)の侍女、マグダレナ(洗礼名)とカタリナ(洗礼名)」(「バジェニスの『切支丹宗門史』には、彼女(北政所)はアウグスチノ(小西行長)の母マグダレナ、同じく同大名の姉妹カタリナを右筆として使っていた。此の二人の婦人は、偉大なる道徳の鏡となってゐた。妃后(北政所)は、この婦人達に感心し、自由に外出して宗教上の儀礼を果たすことを赦してゐた」と記されている)。

https://www.kyohaku.go.jp/jp/pdf/gaiyou/gakusou/31/031_zuisou_a.pdf

「秀吉に導かれて宝物殿に出会う……社寺調査の思い出……(河上繁樹稿)p110」

(参考一)「小西行長=アウグスティヌス(アゴスチノ、アグスチノ)行長周辺」(「ウィキペディア」)

祖父:小西行正
父:小西隆佐
養父:阿部善定の手代であった源六(後に岡山下之町へ出て呉服商をしていた魚屋九郎右衛門)[4]。
※母:ワクサ - 熱心なキリシタンで洗礼名はマグダレーナ。秀吉の正室・寧々に仕えたといわれるが不詳。
正室:菊姫 - 夫と同様に熱心なキリシタンで霊名はジュスタ(宇喜多家資料より)。
側室:立野殿 - のち島津忠清室。霊名カタリナ。

小西兵庫頭- 菊姫との間の子。
小西秀貞(与助) - 子孫あり。
小西兵右衛門 - 立野殿との間の子。子孫あり。
小西宇右衛門
浅山弥左衛門:末子。小西家改易後は加藤・有馬家に仕え、島原の乱の際に黒田忠之に召し抱えられる(禄高は1300石)。子孫あり。
娘:妙(たえ、宗義智正室) - 関ヶ原の戦い後直ちに離縁・対馬から追放された。追放後は長崎の修道院に匿われていたが間もなく家康によって大赦される。慶長10年(1605年)に病没。 霊名マリア。
※※娘:小西弥左衛門の妻 - 菊姫との間の子。霊名カタリナ。
猶子:ジュリアおたあ - ジュリアは霊名、おたあは日本名。文禄の役の際に連れて帰った朝鮮人女子。
孫:マンショ小西 - 宗義智と妙の間の子。江戸時代最後の日本人司祭(殉教)。
孫:小川宗春 - 小西宇右衛門の子。江戸の医師。
このほか天草四郎が行長の次男の子という説もあるが、詳細は不明である。

(注)※母:ワクサ(マグダレーナ)と※※娘:小西弥左衛門の妻 - 菊姫との間の子(カタリナ)が、「秀吉に導かれて宝物殿に出会う……社寺調査の思い出……(河上繁樹稿)p110」の、「バジェニスの『切支丹宗門史』の「マグダレーナとカタリナ」と思われる。

(参考二)「淀君(秀頼生母=母)と高台院(秀頼正母=母上」並びに「何故小西行長は西軍の責任者で,石田三成とともに斬首されなければならなかったのか?」周辺

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平成28年7月9日開催「よみがえる小西行長公」講演会 第11弾
第1部 基調講演「戦国大名正室の美しさ」質問および回答

【質問】 側室が生んだ男子が家を継いでも,正室の家柄がものを言うことはあるのでしょうか?
【回答】 側室が生んだ子どもの「正式な母上」は正室でした。庶子には,生母と「母上」の二人がいるわけです。
「正式な母上」の役割は,その時代に適応した一人前の人間に子どもを育てあげることでした。たとえば『源氏物語』で,明石の上が産んだ娘の入内の支度は,「母上」の紫の上が丁寧に調えています。生母明石の上は身分が低く,源氏の「妻」としても序列が低かったので,公式には母として振る舞うことができませんでした。同じように,側室に産まれた男子も,側室は生母として可愛がり育てますが,養育・教育の責任は正室が持ちます。
 正室より側室の方が身分が高かったり,正室実家と側室実家が不仲だったりすると,家庭問題が政治問題になって複雑化します。ですから夫は,だれかれかまわず好きに手をつけて側室にすることはできません。既存の側室たち,その実家同士の関係,周辺国衆のパワーバランスを見ながら,適切な位置の家の娘を側室にすることになりました。
秀吉の場合,糟糠の妻・北政所ねねが居る所に,淀君(信長の姪)を側室としたので,確かにややこしいことにはなりましたが,ねねも淀君も聡明に行動したので,「家庭」を上手に運営しました。
なぜ秀吉が淀君を側室にしたのか。「お市の方に憧れていたから」という俗説もありますが,秀吉が織田信長の後継者であることを全国に認めさせるためには,どうしても信長の DNA(血筋)が必要だったとみることができます。「出自もはっきりしない秀吉を天下人として敬え」と命じるのは,当時としても無理がありました。信長の後継者を自称するためには,信長の血統を持つ娘と結婚して「信長の婿並み」になる必要があったのでしょう。
徳川秀忠も,淀君の妹の江と結婚しています。豊臣も徳川も,織田信長の血統がなければ世間に認められなかったとも言えます。
秀吉は,人々が自分を内心馬鹿にしていることを熟知しています。秀吉本人は知略と大軍と富があるので自分の政権を維持できますが,自分が死んで子どもの時代になったら?
「秀吉の子」では人々があっさり見限りかねません。ここはどうしても,「信長 DNA」を継ぐ子どもが「豊臣政権」の次代に欲しいところです。するとライバル徳川氏も,「信長 DNA」を継ぐ家光でなければ,豊臣秀頼と対抗しきれなかったのでしょう。
「秀頼は秀吉の子ではない」という研究もありますが,当時の人々にとっては父が誰かより,
「母上はまちがいなく織田家出身」で十分だったのでしょう。
【参考文献】
田端泰子『北政所おね』(ミネルヴァ書房,2007 年)。福田千鶴『淀殿』(ミネルヴァ書房,2007 年)

【質問】 何故小西行長は西軍の責任者で,石田三成とともに斬首されなければならなかったのか?
【回答】 なぜ小西行長が「西軍の主要人物」として関ヶ原の戦場に居たかと言えば,それだけ「三成が信頼できる人材」が西軍に不足していたからか,行長が三成を見捨てきれなかったのか,家康政権での行長の将来図を描けなかったからでしょう。
筆者としても,多くの西軍大名が命どころか領地まで保全したにもかかわらず,小西行長が石田三成(西軍の実質指揮官)・安国寺恵瓊(西軍総大将毛利輝元の身代わり・この戦争の首謀者)と並んで斬首されなければいけなかったのか,それが知りたくて 30 年彷徨っているところです。だいたい伊吹山中糟賀部村で,行長がわが身を村人にゆだねた時「内府に連れて行き褒美を得よ」と言いましたが,その大物意識,自意識過剰じゃないですよね???
行長は,天正 15 年に九州で働くようになって以来,ずっと秀吉のために九州の貿易統制(日明貿易の権利を,日本側では秀吉だけが握り,秀吉が許可した者以外は貿易に参入できない体制)を目指して外交交渉を行っていました。文禄慶長の役という悲惨な戦争も,要はそれを明皇帝に認定させるための手段という側面を持っていました。
当時のアジア世界では,「国際的に通用する国王称号を使えると,対明貿易も独り占めできる」という感覚がありました。もし秀吉が明皇帝から日本国王の称号を認められれば,秀吉の船は対明貿易を許可されます。仮に徳川家康が明に船を送っても追い返されるのです。
 それで文禄 3 年に行長は明に「秀吉を日本国王として認め,秀吉の重臣たちにも『日本国王の部下』としてそれなりの称号を与えてほしい」というリストを提出しました。ここで行長は,自分と西九州の貿易大名たち,そして石田三成・増田長盛ら奉行衆のために高い位の称号を求めました。その「日本国王の臣下」の称号で明に船を出せば,それなりの接待をされて取引もできるのです。その一方で行長は,徳川家康など国内の大物大名についてはかなり下のランクの称号で良いとし,隣領加藤清正などは名前すら載せてやりませんでした。
そんな原案はあまりに露骨なので,結局,当時の政権のパワーバランスに沿った称号が,文
禄5年に明から各大名に与えられました。
 行長が考えていたことは,秀吉亡き後の政権の守り方でした。このままではナンバー2の実力を持つ徳川家康が天下を獲る。それを防ぐには,幼い秀頼を次代の「日本国王」として明皇帝にその権威を保障してもらい,有能な官僚石田三成らが行政を担当し,肥後宇土を中心とする西九州の海の勢力が活躍して,貿易立国として日本を豊かにする構想。これ以外に秀頼政権を維持する方法はないと思い詰めたのでしょう。
 小西行長や石田三成らがそんな構想を企てていると知れば,家康も許しておけません。
だいたい,九州大名が貿易で小遣い稼ぎをしている限り,徳川幕府を開いたところで権威が
保てません。豊臣秀頼を無力化し,日本中が徳川様の顔色だけを窺うようにしたいのに,小西行長とその周囲はいつも海外に目を向けています。「日本列島だけが世界じゃない」と肌身で知っている西日本大名たち。その中心が小西行長でした。
小西行長も,慶長4年には,亡き秀吉の政治秩序を守るよりも,新しい考え方をとる徳川体
制に入りそうな気配を見せましたが,結局慶長5年には,家康の下で西日本の貿易の自由は守られないと結論を出し,家康と戦う道を選びました。
それを行長は,「家康はキリシタンを禁止するから」という言い方で宣教師に伝えます。つまり行長は,貿易を仲介する外国人宣教師の国内定住,宣教師と親しくて海のかなたに友だちや取引先を持つような貿易商の居場所は今後なくなっていく,と見切ったわけです。行長は将来の「鎖国」を予想していたのでしょう。
また,行長がその貿易立国派の中心人物だと家康に思われていることも自覚していました。家康が天下を獲れば,行長は居場所がなくなります。
慶長 5 年 10 月1日,家康は京都六条河原で石田三成を斬ることにより豊臣政治の終焉を人々に見せつけました。同様に小西行長を斬ることで,権力に平伏せず,常に海外に目を見渡せる自由な思考を持つことは今後許されないことを,人々に思い知らせたのでしょう。
【参考文献】
佐島顕子「謎の海将小西行長」(『歴史群像』17 号,学研)。同「文禄役講和の裏側」(山本博文・堀新・曽根勇二編『偽りの秀吉像を打ち壊す』柏書房,2013 年)。米谷均「豊臣秀吉の『日本国王』冊封の意義」(山本博文・堀新・曽根勇二編『豊臣政権の正体』柏書房,2014 年)。

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