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狩野内膳筆「南蛮屏風」周辺(その五) [狩野内膳]

(その五)「豊臣家聖家族(脇室の女性は誰か?)」周辺

豊臣家聖家族.jpg

「狩野内膳筆『左隻』・豊臣家聖家族(秀吉・秀頼・淀君そして高台院)」(第五・六扇拡大図)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=1

 「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」(『文教大学国際学部紀要』第二号掲載)では、その「八 おわりに」で、次のように記している。

【 慶長三年八月十八日秀吉六十三歳で没するが、その直前に本屏風は出来ていたと筆者は推定する。それは、左隻聖家族の別視点からの” 見なし“から成り立っている。文禄・慶長の役と朝鮮出兵に失敗してからも、秀吉の夢は世界制覇にあったと伝えられている。だとすると、秀吉の夢……外国に宮殿を造り、そこに秀頼と赴く……を描いたものであれば、キリシタンの関係の事象がいくつか描いてあっても咎めがその絵師には及ぶはずはない。つまり聖家族の父子は、秀吉と秀頼、脇部屋の女性は淀君(秀頼母)と見なすのである。そう言えば、左隻の老父は、高台寺蔵などの秀吉絵像に似ていないであろうか。 】「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」(『文教大学国際学部紀要』第二号掲載)

 この末尾記述の、「左隻の老父は、高台寺蔵などの秀吉絵像に似ていないであろうか」の、その「高台寺蔵などの秀吉絵像」は、次の絵像などを想定しているのであろう。

秀吉と寧々像二.jpg

左「豊臣秀吉像 弓箴善疆賛(慶長六年《1601》)」(高台寺蔵)
右「高台院像」(高台寺蔵) 
https://www.kodaiji.com/museum/Treasure.html

 この「豊臣秀吉像」と「高台院像」とは、高台寺所蔵のもので、別々に制作されたものだが、一対のものと解して差し支えなかろう。
 高台寺は、慶長十一年(一六〇六)に関白・豊臣秀吉正室・北政所が慶長三年(一五九八)に亡くなった豊臣秀吉の菩提を弔う為、弓箴善彊(きゅうしんぜんきょう)を開山として創建しもので、北政所は当初実母・朝日局が弔われている菩提寺・康徳寺に弔うとしたが、手狭だったことから岩栖院と敷地交換して、現在の場所に創建したと言われている。
 名称は北政所の落飾(仏門に入る)後の慶長八年(一六〇三)に後陽成天皇から賜った院号・高台院湖月尼(こうだいいんこげつに)に由来している。
 そして、江戸幕府初代将軍・徳川家康は北政所を手厚く扱い、普請奉行に京都所司代・板倉勝重、普請御用掛に酒井忠世と土井利勝、普請掛に堀直政(堀監物)とを任命している。
 この「豊臣秀吉像」には、その高台寺開山の曹洞宗の「弓箴善彊」の賛があり、慶長六年(一六〇一)の制作ということで、晩年の「豊臣秀吉像」のスタンダードとなる画像なのであろう。
 そして、この「高台院像」も、そのスタンダードな「豊臣秀吉像」と好一対の、高台寺創建の頃の「高台院像」の実像に近いものと解したい。

`秀吉と寧々像.jpg

「名古屋市秀吉清正記念館蔵《高台院(おね)画像》に関する考察ノート(池田洋子稿)」所収「参照挿図(「ⅠのⅠ」=高台院像、「2のⅠ」=関白秀吉像)」
http://www.nzu.ac.jp/lib/journal/files/2012/4.pdf

 「豊臣秀吉像」と「高台院像」は、名古屋市秀吉清正記念館蔵のものもあり、その「高台院像」については、上記の「名古屋市秀吉清正記念館蔵《高台院(おね)画像》に関する考察ノート(池田洋子稿)」で詳細に紹介されている。
 それに因ると、「高台院像」に書かれている賛から、寛文六年(一六六六)作で、高台院も、「若々しい容貌で、神格化された晩年の『豊臣家』を意識した高台院像」ではないとコメントされており、先の高台寺蔵の「高台院像」よりも、さらに高台院の実像に近いものなのかも知れない。

高台院像二.jpg

高台院画像(名古屋市秀吉清正記念館蔵)
江戸時代前期 寛文6年(1666年) 名古屋市指定文化財
https://www.city.nagoya.jp/kurashi/category/19-15-2-5-0-0-0-0-0-0.html

`寧々像(マリア像).jpg

「狩野内膳筆『左隻』・豊臣家聖家族(淀君?→高台院)」(第五扇拡大図)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=1

「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」(『文教大学国際学部紀要』第二号掲載)では、上記下図の「豊臣家聖家族」の「脇部屋の女性は淀君(秀頼母)と見なすのである」が、ここは、落飾(仏門に入る)後の「豊臣秀吉正室→北政所→高台院」の、上記上図の「高台院」のイメージに解したい。

`寧々と淀君.jpg

左「「高台院像」(高台寺蔵)の部分拡大図 
右「伝淀殿画像』(奈良県立美術館蔵)の部分拡大図(「ウィキペディア」) 

【東洋画題綜覧 (「茶々・淀君」)
豊臣秀吉の側室、姓は浅井、名は茶々、淀君又は淀殿と称へる、浅井長政の長女で、母の小谷の方は織田信長の妹である、長政戦死するや、小谷の方は子女を伴つて信長に拠つたが、柴田勝家に嫁することゝなつたので淀君も亦之に従つた、然るに勝家また秀吉に攻められて北庄の城に自刃し、小谷の方も之に殉じた、そこで淀君は叔父の織田長益に頼つたが、秀吉偶々淀君を見てその美貌を喜び容れて側室とし寵愛至らざるなく、遠征の途なほこれを伴つた、文禄二年秀頼を生むに及び勢力を加ふ、三年秀次自刃するや秀頼、秀吉の嗣となつたので、淀君は生母たる所以をもつて益々権力を振つたので、大名の中には私に心を寄するものあり、期せずして秀吉の正室杉原氏に心を寄するものと、淀君に与するものと二派に岐れて隙を生じた、慶長四年秀吉薨ずるや、秀頼を助けて大阪城に居り、権勢を恣にしたが、大野治長を近づけて乱行に及び、更に治長に勧められて秀頼をして事を起さしめ家康を図らうとしたが、戦利あらず元和元年五月八日大阪城陥り秀頼と共に自殺した、年三十九。  (野史)
北野恒富筆  『茶々』  第八回日本美術院展
市原寿一筆  『淀君』  第七回帝展出品
伊藤竜涯筆  『同』   同  (『東洋画題綜覧』金井紫雲)    】
タグ:狩野内膳
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