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狩野内膳筆「南蛮屏風」周辺(その六) [狩野内膳]

(その六)「豊臣家聖家族(秀吉・秀頼・寧々・茶々)」周辺

`豊臣家聖家族(一).jpg

「狩野内膳筆『左隻』・豊臣家聖家族(秀吉・秀頼・淀君そして高台院)」(第五・六扇拡大図)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=1

 「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」(『文教大学国際学部紀要』第二号掲載)では、その「五 聖家族」で、次のように記している(なお、「追記一」と「追記二」とを参照)。

【 南蛮寺内部に描かれた人物は三人。うち、襞襟(ひだえり)をつけた老年の男性は、ヨゼフというよりデウスその人であり、膝にいだかれた緑衣・白襟袖(えり)の少年はイエズスであり、部屋を隔て、カーテンの脇に片膝をつく女性は、当然聖母マリアとなる。
(中略)
 父と子の居る図番2(注・上記図の左端上部の「父と子」の居る空間)は、《天の国(パライゾ)》でもある。
(中略)
 左隻南蛮寺内部の三人の人物を聖家族という範疇で括りうる表象の一つは、三人が共通して纏う肩掛けである。色も青……聖なる色で統一されている。脇部屋にひざまずくマリア(図番③参照《注・上記図の右端上部の「女性」》)の肩掛けは更に金糸で彩られた小豆(あずき)色の上掛けで掩(おお)われている。
 マリアの姿態に今少し注目すると、左膝を立てて右膝を床(サラセン風の文様のタイルが貼られている)についている。片膝を立てる坐り方は、中世一般に日本女性が行っていたもので、洛中洛外図・職人絵・物語絵巻の中に幾つかの事例を見出すことができる。ただ左手まで床についている所から、単に坐っているのではなく、かしこまった様子がうかがわれる。マリアのかしこまり……《受胎告知》が浮かぶ。
 (中略)
 左隻南蛮寺を余り近くで見すぎたようである。少し足を離そう。すると、デウスとおぼしき男性が小手をかざし何を見つめているかがわかるかもしれない。その対象は、目の前を通り過ぎる貴人(一人は象に乗り、一人はパランキンに乗る)達の群れではない。これらは、南蛮寺が天の宮殿とするならば、いつか捨て去らねばならない世界《Contemptus Muundi》なのである。やはり、左隻半分を占める海と黒船(デウス)であろう。 】

狩野内膳・左隻.jpg

「狩野内膳筆・南蛮屏風・左隻(神戸市立博物館蔵)」紙本金地著色・6曲1双・各154.5×363.2
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=1

 上記の「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」(『文教大学国際学部紀要』第二号掲載)の「五 聖家族」の長文の引用(原典などと対比して主要部部分を省略)の、その「デウスとおぼしき男性が小手をかざして見つめている男性(「デウス→ヨゼフ→秀吉)」)は、「左隻半分を占める海と黒船(デウス)であろう」と、この上図は、その上部が、「聖なる世界《天の国(パライゾ)》=「聖」の世界)」とすると、その下部は、「俗なる世界《地の国(Contemptus Muundi=ラテン語の「コンテムツス‐ムンジ」=「世を厭う」の意=憂き世)=俗の世界》で、その「俗なる世界」を見つめているのではなく、その遠方の「聖」の世界の「左隻半分を占める海と黒船(デウス)」を見つめているとし、それは「布教の行末をはるかに見守っている」ことに他ならないと鑑賞している。
 そして、それは、「右隻と左隻との対比という観点で見なおすと、日本人として描かれた唯一の女……さがり藤を染め上げた暖簾脇の女性に目がとまる」とし、次のように記述している。

【 左隻のデウスが小手をかざし、右隻の日本女性も同じく小手をかざしている。これは、すでに述べたように(注・「左隻のデウス」は「海と黒船(デウス)」、「右隻の女性」は「同じ足袋を履いている少年」を指す)、それぞれの場面における何かを探していると一応受け取られるが、屏風を左右連続して並べ一つの大きな視野に入れる時、それはさらに、天なる父子と地なる母子の精神的な信仰の世界の共有を意味しているように思われる。その幾何学的空間は、海と空を包んで均整のとれたトライアングルを成し、精神的な静寂をもたらしてくれるようである。  】

南蛮屏風右隻の革足袋の二人.jpg

「狩野内膳筆・南蛮屏風・右隻(神戸市立博物館蔵)」→ 「狩野内膳筆『右隻』・カピタンを出迎える修道者たち」(第一・二扇拡大図)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-01-07
「狩野内膳筆『南蛮屏風』(「イエズス会(修道士)」と「フランシスコ会(修道士)」)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=1

狩野内膳・右隻.jpg

「狩野内膳筆・南蛮屏風・右隻(神戸市立博物館蔵)」紙本金地著色・6曲1双・各154.5×363.2
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

パラキンの秀吉・象に乗る秀頼.jpg

「狩野内膳筆『左隻』・豊臣家聖家族(パランキンの秀吉・象に乗る秀頼)」(第五・六扇拡大図)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=1

 ここで冒頭の「狩野内膳筆『左隻』・豊臣家聖家族(秀吉・秀頼・淀君そして高台院)」(第五・六扇拡大図)に戻って、その上部の「聖なる世界《天の国(パライゾ)》=「聖」の世界)」の前方(下部)の、「目の前を通り過ぎる貴人(一人は象に乗り、一人はパランキンに乗る)達」の、その「パランキン」(スペイン語の「palanca」=人を運ぶための籠(乗り物))に乗っている人物(老人)は、この上部の「豊臣家聖家族(秀吉・秀頼・淀君そして高台院)」の、豊臣秀吉との見立てとなってくる。
 そして、もう一人の「象に乗っている人物(若者)」は、これまた、当然のことながら「豊臣家聖家族(秀吉・秀頼・淀君そして高台院)」の、豊臣秀頼という見立てということになる。
 これらのことは、実際には有り得ない、架空の虚構の創作で、それは、この「南蛮屏風」(「右隻」と「左隻」)を描いた「狩野内膳」の独創的な創見に因ることに他ならない。そして、その独創的な内膳の創見の背後には、晩年の豊臣秀吉を彩る二つの事象が潜んでいる。
 その一つは、文禄三年(一五九四)春の、秀吉の生母・天瑞院の三回忌法要を執りおこなう高野山への参詣途上で催された「豊公吉野花見」(「吉野の観桜会」)であり、これには、その情景を描いた「豊公吉野花見図屏風」(六曲一双・細見美術館蔵)が、その背後に横たわっている。

吉野の花見二.jpg

重要文化財 豊公吉野花見図屛風(左隻) 桃山時代 細見美術館蔵
https://www.fashion-press.net/news/75048
https://www.fashion-press.net/news/gallery/75048/1293657

 この「豊公吉野花見図屛風」については、下記のアドレスの「豊公吉野花見図屛風の寿祝性(三宅秀和稿)」が参考となる。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/bigaku/55/3/55_KJ00004585337/_pdf/-char/ja

 また、『近世風俗図譜⑬ 南蛮屏風』では、「南蛮服の日本人」という見出しで、次のように紹介している。

【 太閤秀吉は文禄三年に吉野山で観桜会を催した。南蛮人宣教師は、秀吉がこの行列に際して家臣に南蛮の服装で加わることを命じたと報じているが、事実この有名な花見図には、日本人で南蛮服をまとっている人たちが幾人も見いだせるのである。 】(『近世風俗図譜⑬ 南蛮屏風』所収「南蛮文化考え(松田毅一稿)」)

 もう一人の、「象に乗っている人物(若者)」については、慶長二年(一五九七)、秀吉、六十歳、そして、秀頼、六歳前後に、当時の「マニラの総督ドン・フランシスコ・テーリョ」より、象一頭(象名=ドン・ペドロ)が贈られ、二人が、その象に謁見した様が、『日本王国記』(スペインの貿易商アビラ・フロン著)に、下記のアドレスのとおり記されている(その抜粋を掲載して置きたい)。

http://blog.livedoor.jp/misemono/archives/51983789.html

【(アビラ・フロン『日本王国記』)抜粋

 第九章 マニラの総督ドン・フランシスコ・テーリョ、太閤に使節を送り、聖殉教者の遺骸を求める

  聖殉教に続く八月、すなわち同じ九七年のことであったが、ここから十五レグワ隔たった平戸の港ならびに市へ、マニラ市の使節として、かの地の総督(ゴベルナドール)ドン・フランシスコ・テーリョに派遣された船長(カピタン)ドン・ルイス・デ・ナバレーテ・ファハルドが到着した。(中略)彼は象一頭、前述の総督の肖像、その他貴重な品々を国王に持って来た。平戸に着くやいなや、ただちに首都(コルテ)に向けて出発し、大坂に到着したが、そのとき太閤は堺の市にして、使節の到着を知るとただちに使節のもとに赴いた。(中略)

 何はさておきマニラの使節一行は日本では見たことのない象を通りに引き出した。カンボジャの王が何年も前に豊後の殿ドン・フランシスコ[大友宗麟]に象を一頭送ったことがあるにはあったが、間もなく死んでしまったので、その地方の幾つかの村や町の物しか象を見ていないからである。そんなわけで大勢の人々が象を見ようと駆けつけて来たので、いくら棒で打ち叩いても群衆を立ち退かせることはできなかったばかりか、遂には国王の家来(クリアード)たちが多数、百人の獄卒を連れてやって来て道を開けさせなければならなかったし、幾人かの死者を出したほどであった。

 一行が城に到着すると、奉行(ゴベルナドール)の治部少輔[石田三成]と玄以法印その他の諸公(セニヨール)が、ドン・ルイスを迎えたが、そのとき彼は下痢でひどく衰弱していた。一行は中に入って、第一の座敷に着いたが、そこへ太閤が象を見ようと、当時六歳の子息秀頼の手をひいて出て来た。ドン・ルイス、ディエゴ・デ・ソーザ、それに連れて行った他の四人の者は太閤の前に進み出て、われわれの方式の挨拶、つまり三度おじぎをして、それからそのまま立っていた。国王も同じように挨拶し、非常に愛想よく使節に話しかけ、また通訳のロレンソにディエゴ・デ・ソーザはいかなる人かとたずねられた。するとロレンソはありのままに答えた。そこでディエゴ・デ・ソーザにも言葉をかけ、かたがた、よくぞ参られたといったのである。

 それから象のいるところへ近づいて行ったが、象は太閤がやって来るのを見るやいなや、象使いの命令で地面に三度ひざまずき、鼻を頭の上にもち上げて、大きな吠声を放った。国王は驚嘆して、あれは一体何事かとロレンソに訊ねられた。相手は、すでに殿下をそれと存じあげていましたので、あのようなご挨拶をいたしたのでございますと答えた。太閤はいたく感嘆して、名前はあるのかと訊ねられた。すると人々はドン・ペドロと呼んでおりますと言った。太閤は下にこそ降りなかったが座敷のはじまで近づいて行って、ドン・ペドロ、ドン・ペドロと二度呼びかけた。すると象は再び同じようなお辞儀をしたので、太閤はいたく満悦して、「さて、さて、さて」と言いながら、幾度か気ぜわしく手をたたいた。

 そこには、当時朝鮮に行っていた諸公は別として、日本のすべての大名(セニヨール)が列席していたが、立っている者はただ一人もなく、いずれも頭を低くたれて坐っていた。象は何を食うのかと太閤が訊ねられた。与えられるものなら何でも食べますると人々が言った。間もなく、まくわ瓜と桃を盛った二つの大皿が運ばれて来た。すると太閤みずからその一つをとって象に与えると、象はそれを鼻の先で取りあげ、頭の上にのせたが、これは日本人たちが行なうのと同じ儀礼である。それから象はそれを食べたが、残りの果物を前に置いてやると、瞬く間に、ものも言わずに、まくわ瓜と桃とを、種も核も出さずに、ぺろりと平げた。国王は、象を眺め、こういう醜いけものがすばらしい知恵を持っているという人々の話に耳を傾けて飽きるところがなかった。太閤は隣りの座敷へ引きあげたが、そこには果物や日本のいろんな食物、それに暖めた酒が運ばれたが、太閤はそれを使節とその一行にふるまい、彼らを手厚くもてなして、自分はこれから休息いたすつもりである、なお使節の携えた書簡は都で読みたいと思うと言って、一行にいとまを告げられた。こういう次第で、一行は宿舎へ赴いたのである。(後略)。 】

追記一 「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」周辺について

https://ci.nii.ac.jp/naid/110001149737

【 (上記論稿の最初に書かれている「英文」の要約)=未整理のままに掲載

Kano Naizen (1570~1616) painted Namban Screens which are now in the possession of the Kobe-City Museum. In this paper I try to compare these Namban Screens with the early Christian literature and Arts in Japan. I find several religious points symbolized by Kano Naizen. The results obtained are as follows : (1)The name of one ship painted on the right screen is Santa Maria Go (サンタ・マリア号), the other ship painted on the left screen is Deus Go (デウス号).(2)The name of an Ecclesia (chapel) painted on the right screen is Assumptio Beatae Mariae Virginis (被昇天の聖母教会), another chapel name painted on the left screen Is Deus (デウス寺).(3)The three persons painted on left screen are Deus Padre Deus Filho (Jesu Christo), and Maria. In other words, the three figures in an exotic church are the Holy Family.(4)On the right screen, a woman who stands by a shop curtain (Noren) and a boy who leads the way are mother and son. They symbolize Maria and Jesu in this world. Naizen was not a Christian, but he was friendly forwards Christian religion and produced a holy work of art.

 (上記「英文」の意訳)

 狩野内膳(1570〜1616)は、現在神戸市立博物館が所蔵している南蛮屏風を描いた。この論稿は、この南蛮屏風を、日本の初期のキリスト教文学や芸術との関連で鑑賞したい。
 その狩野内膳の、この南蛮屏風に象徴される宗教的なポイント(宗教性の要点)は、次のとおりとなる。

(1)右隻画面に描かれている船の名前は、「サンタマリア号」(Santa Maria Go)、左隻画面に描かれている船の名前は、「デウス号」(Deus Go)である。

(2)右隻の画面に描かれている教会(南蛮寺)の名前は、「被昇天の聖母教会」(Assumptio Beatae Mariae Virginis)、左隻の画面に描かれている異国の教会(南蛮寺)の名前は、「デウス寺」(Deus)である。

(3)左隻に描かれている三人の画面は、「デウス パドレー」(DeusPadre)、「デウス フィロー」(Deus Filho)=(イエズス=Jesu Christo)と「マリア」(Maria)である。言い換えれば、エキゾチックな教会(異国の南蛮寺)の三人の人物は、「聖家族(デウス、イエズス、マリア)」ということになる。

(4)右隻の画面では、店の暖簾のそばに立つ女性と、道を先導する少年とは、母と子である。そして、その母と子との関係は、「マリアとイエズス」との関係を象徴しているということになる。

 狩野内膳は、キリスト教徒ではないが、この内膳が描いた「南蛮屏風」は、キリスト教の本質をとらえ、前向きに且つ友好的に表現して、それを、神聖な芸術作品にまで高めている。  】

追記二 「こんてむつすむんぢ抄」周辺

「こんてむつすむんぢ抄」(底本:吉利支丹文学抄、1926年 編者:村岡典嗣 発行所:改造社)については、下記のアドレスで、その全文を見ることが出来る。

https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%81%93%E3%82%93%E3%81%A6%E3%82%80%E3%81%A4%E3%81%99%E3%82%80%E3%82%93%E3%81%A2%E6%8A%84
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