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狩野内膳筆「南蛮屏風」周辺(その九) [狩野内膳]

(その九)「異国の南蛮寺」(デウスの教会)と「日本の南蛮寺」(被昇天の聖母教会)

デウス教会の祭壇のキリスト.jpg

「内膳屏風(左隻)」の「南蛮寺(デウス教会)の祭壇の天主画像(十字架と球体を持ったキリスト像)」
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=1

聖母教会の祭壇のキリスト.jpg

「内膳屏風(右隻)」の「南蛮寺(被昇天聖母の教会)の祭壇の天主画像(水色のペールのキリスト像)」
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

内膳屏風(右隻・左隻・全体).jpg 

「内膳屏風(右隻=日本・左隻=異国、連続=異国から日本へ)

「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」(『文教大学国際学部紀要』第二号掲載)の、冒頭に出てくる「英文(要約)」の、その(1)と(2)とは、次のものである。

(1)The name of one ship painted on the right screen is Santa Maria Go (サンタ・マリア号), the other ship painted on the left screen is Deus Go (デウス号).
(右隻画面に描かれている船の名前は、「サンタマリア号」(Santa Maria Go)、左隻画面に描かれている船の名前は、「デウス号」(Deus Go)である。)

(2)The name of an Ecclesia (chapel) painted on the right screen is Assumptio Beatae Mariae Virginis (被昇天の聖母教会), another chapel name painted on the left screen Is Deus (デウス寺).
(右隻の画面に描かれている教会(南蛮寺)の名前は、「被昇天の聖母教会」(Assumptio Beatae Mariae Virginis)、左隻の画面に描かれている異国の教会(南蛮寺)の名前は、「デウス寺」(Deus)である。)

 この冒頭に出てくる「要約」の、「左隻の『デウス号』(Deus Go)と『デウス寺』(Deus)」の、その「デウス」(Deus)とは、この「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」では、「デウス パドレー」(Deus Padre)そして「デウス フィロー」(Deus Filho)=(イエズス=Jesu Christo)の、その「デウス パドレー」(DeusPadre)=『父たる神』と「デウス フィロー」(Deus Filho)=(イエズス=Jesu Christo)=「子たる神」の、その「神=Deus」=「父性的神(宗教)」の意が言外に潜んでいるように解したい。
 そして、それは、この「右隻の『サンタマリア号』(Santa Maria Go)と『被昇天の聖母教会』(Assumptio Beatae Mariae Virginis)」の、その「聖母マリア=Maria」=「母性的神(宗教)」とを対比しているように解したい。
 ここで、「父性的神(宗教)」を、「父なる神(正義に背くものは十字架を背負させ殉教を強いる『怒りの父』)とすると、「母性的神(宗教)」とは、「母なる神(その『怒りの父』の裁きを『許せり母』)との、「子なる神(Iesus)の母(Mariae)」の「御母サンタマリヤ」(『どちりいなきりしたん』)ということになる。
 そして、上記の「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」の「英文(要約)」の、その(1)と(2)との、その中核に位置するポイント(要点)は、「異国のイエズス会による日本へのキリシタン布教は、その本来の『デウス(Deus)』信仰なるものが、その『デウス(Deus)』に召された(昇天した)『被昇天の(聖母)マリア(Maria)』信仰」へと様変わりしている、その「日本的宗教土壌」(「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」)こそ、この論稿の究極の要点のように理解したい。
 そして、それらは、下記のアドレスの「遠藤周作短編集」の言葉ですると、次のようなものと軌を一にするものであろう。

https://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/hpohta/fl-bungaku2/endo-03.htm

【昔、宣教師たちは父なる神の教えを持って波濤万里、この国にやって来たが、その父なる神の教えも、宣教師たちが追い払われ、教会がこわされたあと、長い歳月の間に日本のかくれたちのなかでいつか身につかぬすべてのものを棄てさりもっとも日本の宗教の本質的なものである、母への思慕に変ってしまったのだ。私はその時、自分の母のことを考え、母はまた私のそばに灰色の翳のように立っていた。ヴァイオリンを弾いている姿でもなく、ロザリオをくっている姿でもなく、両手を前に合わせ、少し哀しげな眼をして私を見つめながら立っていた。 】(遠藤周作『母なるもの』)

【もし、宗教を大きく、父の宗教と母の宗教とにわけて考えると、日本の風土には母の宗教-つまり、裁き、罰する宗教ではなく、許す宗教しか、育たない傾向がある。多くの日本人は基督教の神をきびしい秩序の中心であり、父のように裁き、罰し怒る超越者だと考えている。だから、超越者に母のイメージを好んで与えてきた日本人には、基督教は、ただ、厳格で近寄り難いものとしか見えなかったのではないかというのを私は序論にした。】(遠藤周作『小さな町にて』)

 この遠藤周作の「父の宗教と母の宗教」とに関連して、その遠藤周作の「小西行長伝」の副題がある『鉄の首枷』の、当時の「キリシタン大名」としての「高山右近と小西行長」との、その対蹠的な「キリシタン受容」の仕方が交差して来る。
 この二人は、豊臣秀吉の配下にあって、共に、イエズス会士として、高山右近が「陸の司令長官」とすると、小西行長は「海の司令官」ともいうべき、当時のキリシタン大名の中で将来の嘱望を託された若手の屹立した位置にあった二人と言える。
 そして、天正十四年(一五八七)の豊臣秀吉の「禁教令」(バテレン追放令=伴天連追放令)により、その翌年に高山右近は棄教を迫られるが、右近は信仰を守るために、播磨国(兵庫県)明石領(六万石)の全ての領地と財産を秀吉に返上し、明石領からの追放処分を受ける。
 この時に、その最終の棄教を促す使者として、右近の茶道の師匠である「千利休」に対し、右近は「『宗門は師君の命を重んずる、師君の命というとも改めぬ事こそ武士の本意ではないか』と答えた。利休はその志に感じて異見を述べなかった(『混見摘写』)」と言われている(「ウィキペディア」)。
 この高山右近が明石領から追放処分を受けた天正十五年(一五八七)の「小西行長年譜」(『鉄の首枷(遠藤周作)』所収)には、次のとおり記されている。

【 天正十五年(一五八七)丁亥 (小西行長)三十歳
一月 秀吉自ら島津氏を討つことを決し、諸臣に布告、先鋒を送る。
三月 秀吉、大阪を発して西下する。
四月二十八日 小西行長、加藤嘉明、脇坂安治、九鬼嘉隆の率いる水軍は、秀吉の命で薩摩平佐城を攻撃する。
五月 秀吉は薩摩川内に入り、島津義久は降伏する。(略)
六月七日 秀吉は筑前宮崎に帰り、九州諸大名の封城を定める。(略)
同十九日 秀吉は日本副管区長コエリョを呼びつけてキリスト教の禁止、二十日以内を期して国外追放を布告する。高山右近は棄教を肯んぜず、明石の所領を棄てる。
六月下旬~七月上旬 この頃オルガンティーノ師は動揺した小西行長と室津で会う。信仰と権力の板挟みになった行長は、面従腹背に生きる。
八月~九月 (略)
十月 秀吉は北野大茶湯を催す。  】「小西行長年譜」(『鉄の首枷(遠藤周作)』p271所収)

 この「小西行長年譜」に出てくる、小西行長の「面従腹背の生き方」について、『鉄の首枷』では、次のように綴っている。

【 右近が永遠の神以外には仕えぬと室津で語った時、行長は友人とはちがった「生き方」をしようと決心した。それは堺商人がそれまで権力者にとってきたあの面従腹背(めんじゅうふくはい)の生き方である。表では従うとみせ、その裏ではおのれの心はゆずらぬという商人の生き方である。(中略)
室津で行長がオルガンティーノの決意の前に泣いたことは彼の生涯の転機となった。その正確な日付は我々にはわからぬが天正十五年(一五八七)の陰暦六月下旬から七月上旬であったことは確かである。ながい間、彼は神をあまり問題にはしていなかった。彼の受洗は幼少の時であり、その動機も功利的なものだったからだ。にもかかわらず彼はこの日から、真剣に神のことを考えはじめるようになる。そのためには高山右近という存在とその犠牲が必要だったのである。 】(『鉄の首枷』p95-98)

この「室津で行長がオルガンティーノの決意の前に泣いたことは彼の生涯の転機となった」周辺のことについては、次のアドレスのものが参考となる。

https://ameblo.jp/ukon-takayama/entry-12210752690.html

【(再掲)

● 「 ペテロは、外に出て、激しく泣いた。」( ルカの福音書 22章62節 )
イエス ・ キリストのことを、ペテロは 三度も、
「 そんな人は知らない! 」 と言って否定し、
 しかも、三度目には、呪いをかけて誓ってまでして、否定します。
 すると すぐに、鶏が鳴きます。
「 鶏が ( 二度 ) 鳴く前に 三度、あなたは、わたしを 知らないと言います。」
と言われた イエス ・ キリストの言葉を思い出して、
ペテロは 激しく泣いたのでした。

● 「 伴天連追放令 」 が出されたあと、「 御意 次第 」 と答えて、豊臣秀吉に対する恭順を示した 小西行長でしたが ・・・・・・・
「( オルガンチーノ神父の ) この言葉を聞くと、行長は 泣きはじめた。彼は 右近を思い、今、オルガンチーノ神父の不退転の決心に、おのれの勇気なさを感じたのである。」    
  ( 「 鉄の首枷 」 遠藤周作 ・ 著 )

 遠藤周作は、「 行長が泣いた 」と書かれていますが、正確に言いますと、
「 私の言葉を聞いたアゴスチーノは、ほとんど泣き出さんばかりになりました。そして、私には 何も答えずに立ち上がりますと、結城ジョルジ弥平次を、その部屋に訪ねて行き、そこに 三時間以上留まりました。」 
  ( 小豆島 発、オルガンチーノ書簡 )    】

 ここで、「高山右近」(行長より六歳上とすると三十六歳)の、「永遠の神(Deus)以外には仕えぬ」とする、その「キリシタン受容」を、「父の宗教」とすると、上記の「小西行長」の「面従(面=棄教=永遠の神(Deus)を棄てる)、腹背(心=永遠の神(Deus)に従う)」の「キリシタン受容」の仕方も、これまた、壮絶な「父の宗教(Deus)=キリスト信仰」であるという思いと同時に、ここに、「母なる宗教(Mariae)=マリア信仰」の、その萌芽の全てが宿っているように解したい。
 グレコには、上記の「 ペテロは、外に出て、激しく泣いた。」( ルカの福音書 22章62節 )を主題とした「聖ペテロの涙」の作品もあるが、そこには、「小さくマグダラのマリア」が描かれている。この「マグダラのマリア」とは、「聖母マリア」が「キリストの生母たるマリア」とするならば、「キリストの最期をみとった使徒たるマリア」ということになる。

マグダラのマリア.jpg

悔悛するマグダラのマリア エル・グレコ ウースター美術館蔵
http://www.art-library.com/el-greco/mary-magdalene.html

【 マグダラのマリアがイエスの死を見届けたゴルゴタの丘(ゴルゴダの丘)の「ゴルゴタ」とは「頭蓋骨・どくろ」を意味する。エル・グレコの作品に限らず、マグダラのマリアを主題とした宗教画ではアトリビュートとして頭蓋骨・どくろが描かれる。
 中央公論社「カンヴァス世界の大画家12 エル・グレコ」の作品解説によれば、この頭蓋骨・どくろについて次のように解釈できるという。
 「頭蓋骨の存在はこの場合、聖女(マグダラのマリア)が死を瞑想していることを示している。死を思い天上を渇仰する聖女の表情に、自分の罪を悔悟し、神への愛に生きようとする決心が読み取れる。」 】

 この上記のアドレスでは、この作品の他に、「ブダペスト国立絵画館蔵 悔悛するマグダラのマリア」と「カウ・フェラット美術館蔵 悔悛するマグダラのマリア」とが紹介されている。
 そして、下記のアドレスのグレコの「ペテロの涙」には、次のとおりの解説が施されている。

ペドロの涙.jpg

聖ペテロの涙 エル・グレコ フィリップス・コレクション蔵
https://www.marinopage.jp/%e3%80%8c%e8%81%96%e3%83%9a%e3%83%86%e3%83%ad%e3%81%ae%e6%b6%99%e3%80%8d/

【 遠く雷鳴が聞こえてきそうな空の下、ペテロはキリストを裏切り、三度否認したことを悔いて、天を仰ぎ涙を流しています。
 グレコ独特の、白眼の部分のウルウルした光がペテロの心情をよく表していて、彼をこの上なく高貴な存在として輝かせています。ペテロの背後には、蔦がからまる洞窟が描かれていますが、蔦は「不滅の愛」のシンボルとされていますから、すでにキリストが悔い悩むペテロを赦し、愛をもって包もうとしているのが感じられます。
 当時、カトリック教会は「悔悛」をテーマとした作品を称揚していましたから、宗教画家だったグレコはマグダラのマリアの悔悛とともに、この聖ペテロをテーマとして礼拝用にいくつも描いています。その中で、この作品はごく初期のもので、グレコ特有のデフォルメもまだ自然な段階にあり、非常に親しみ易い作品の一つと言えると思います。それでも、どこか地上的要素が姿を消し、超自然的な雰囲気が漂ってしまうところは、やはりグレコ・・・と思ってしまうのです。
 できれば自分もゆらゆら揺れて天に昇ってしまいたい、と願うように両手を組むペテロの左手奥には、見えにくいのですが、小さくマグダラのマリアが描かれています。これは、磔刑の三日後、マグダラのマリアが香油を持ってイエスの棺を訪れたことを暗示しています。すでにその時、主は復活した後で、石棺に白い天使が座っていました。これをペテロに知らせようとするマグダラのマリアの姿が描き込まれているのです。
 流れるようなタッチの中に劇的な雰囲気が漂い始めた時期の、グレコらしい作品です。】
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