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狩野内膳筆「南蛮屏風」周辺(その八) [狩野内膳]

(その八)「被昇天の聖母教会」(Assumptio Beatae Mariae Virginis)周辺

聖母被昇天の教会.jpg

「狩野内膳筆『南蛮屏風(右隻)』(「被昇天の聖母教会」)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」(『文教大学国際学部紀要』第二号掲載)では、その「四 被昇天の聖母教会」で、次のように記している。

https://ci.nii.ac.jp/naid/110001149737

【 右隻日本の港、その奥まった所に十字架の立つ南蛮寺がある。その鬼瓦はマリアのレリーフである。また、南蛮寺の離れの二階では、パドレー(神父)が二人のイルマン(修道士)に教義指導をしているが、その一階アーチ形入口上部を飾っているのは、天女である。飛翔する肩巾(ひれ)も見出せる。ここで、『被昇天の聖母』(Assumptio Beatae Mariae Virginis)が浮かぶ。京都に南蛮寺が初めて建てられたのは天正五年(一五七七)、ルイス・フロイスやオルガンチノを中心に畿内のキリシタンの尽力でできあがったものであるが、この教会は『被昇天の聖母』に捧げられてられている。また、アビラ・ビロンの報告で知られるように、長崎にも聖母昇天天主堂があった。 】

鬼瓦・マリア.jpg

左下 → 鬼瓦 → 「マリアのレリーフ」
右上 → 御堂中央屋根 → 「十字架と白鳩(聖霊の象徴)」

天女・パドレー・イルマン.jpg

下(アーチ形の入口の上部) → 聖母被昇天の「天女」が描かれている。
上(南蛮寺の離れの二階) →中央のパドレー(神父)が「どちりいなーきりしたん」(ドチリナ・キリシタン=近世初期にイエズス会によって作成されたカトリック教会の教理本)を手に持ち「教義指導」をしている(?)。右にイルマン=修道士)が二人、左に信者が座している。」

 また、「その六 ミサと教会」では、下記の絵図についての詳細な紹介がなされている。

【 右隻第一扇(右端)上部には、ミサ執行中の日本の南蛮寺が描かれている。(中略)右隻日本の南蛮寺の祭壇画は、球体がデウスの青いベールと一体化して確認しがたい。福永氏は前掲書(『図説日本の歴史10 キリシタンの世紀』所収「図版特集南蛮寺(福永重樹稿)」)において、「水色のベールを被って描かれているのは画家が聖母像と混同したためか」と記されが、達磨像にイメージを重ねて禁教下を生き抜こうとする内膳の粉飾の可能性もある。(後略) 】

南蛮寺のミサ.jpg

中央 → ミサ執行中のパドレー(神父・司祭)、手に「オスチア」(聖体=ミサや聖体礼儀で拝領、礼拝するために聖別されたパン=聖餅=イエス・キリストの体の実体)を捧げている。バドレー(神父)の右脇にイルマン(修道士・助祭)が座している。
左 → ミサ参加の信者(武士)
右 → ミサ参加の信者(茶人?)
右上の祭壇 → 球体に十字架を持っているイエス・キリスト(水色のベールをしているのは、「被昇天の聖母教会」の強調か?)


(「内膳ファンタジー」その二)「内膳南蛮屏風の唯一の女性は何故『足首が描かれていないのか?』」

 下記のアドレスの「内膳ファンタジー(その一)」で、下記のとおり、内膳南蛮屏風の唯一の女性は何故『足首が描かれていないのか?』」については、「この女性が亡くなった(昇天した)」ことを意味するということに触れた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-02-12

【 (再掲)

 ここで、何故、≪「お亀」が昇天した日(慶長11年10月29日《1606年11月29日≫》に拘るのかというと、それは、この「お亀」と見立てられる、この右端に描かれている女性の「足首が描かれていない」という、その特異性に起因するに他ならない。
 そして、この慶長十一年(一六〇六)というのは、「周辺略年譜(抜粋「一六〇六)」)では、下記のとおり、この「南蛮屏風(紙本金地著色・六曲一双・神戸市立博物館蔵)」を描いた「狩野内膳」が、もう一つの代表作とされている「豊国祭礼図屏風」(紙本著色・六曲一双・豊国神社蔵)を神社に奉納(梵舜日記)した年なのである。  】

 これに続けて、「この女性の足首が描かれていない」は、この「女性が亡くなった(昇天した)」ということと、「この女性が『被昇天の聖母(マリア)』」を意味し、そして、「その背後に描かれている『南蛮寺』は『被昇天の聖母教会(「被昇天の聖母(マリア=Mariae)に捧げられた教会」)を暗示していると理解をいたしたい。


聖母教会の祭壇のキリスト.jpg

右隻の「南蛮寺(被昇天聖母教会)の祭壇の天主画像(水色のペールのキリスト像)」

 「足首が描かれていない女性」の「足首が描かれていない」のは、この女性が「被昇天の聖母(マリア)」を暗示していると同様に、その女性の背後に描かれている「南蛮寺」が、いわゆる、「被昇天聖母の教会」であることを強調するかのごとく、その祭壇に描かれた天主画像の「十字架と地球をかたどった球体を持っているキリスト(子たる神)」が、「聖母マリアが被る水色のベール」をして描かれているのである。

デウス教会の祭壇のキリスト.jpg

左隻の「南蛮寺(デウス教会)の祭壇の天主画像(十字架と球体を持ったキリスト像)」

 右隻の「南蛮寺」(被昇天聖母の教会)の祭壇の天主画像が、「水色のベールのマリア像」に擬したような「水色のペールのキリスト像」に対して、左隻の「南蛮寺」(デウスの教会)の祭壇の天主画像は、その本来の「十字架と球体を持ったキリスト像」の雰囲気を醸し出している。
 この「十字架と球体を持ったキリスト像」の原型は、「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」で、「(左隻の外国の南蛮寺の)天主(デウス)画像は、『ドチリナーキリシタン』(1952天草刊ローマ字本)の表紙(銅版画)や銅版油彩「救世主(サルバトール・ムンディ)像」(東京大学総合図書館蔵 IS97, Sacam Jacobusと記されているもの)にあるように、地球を型どった球体に十字架が付けられたものをいだいている」と紹介されている。
 「イエズス会(ラテン語: Societas Iesu)は、キリスト教、カトリック教会の男子修道会。1534年にイグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルらによって創設され、1540年にローマ教皇パウルス3世により承認された。世界各地への宣教に務め、日本に初めてカトリックをもたらした。なおイエズスは、中世ラテン語による Iesus(イエス・キリスト)の古くからのカトリックの日本語表記である。
 (中略)
イエズス会は『神の軍隊』、イエズス会員は『教皇の精鋭部隊』とも呼ばれ、軍隊的な規律で知られる。このような軍隊的な会風は、創立者の1人で・初代総長のイグナチオ・デ・ロヨラが、修道生活に入る以前に騎士であり、長く軍隊で過ごしたことと深い関係がある」(「ウィキペディア」)

救世主像.jpg

救世主像(東京大学総合図書館蔵)  制作年:不明 寸法(cm):縦23×横17
https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/kyuseisyuzou/document/5061e0fa-b328-431f-a95e-7b417137335b#?c=0&m=0&s=0&cv=7&xywh=-1988%2C-147%2C6497%2C3875

【左手に十字架のついた珠を持ち、右手で祝福を与えるキリスト像は、礼拝用聖画として代表的な図像の一つです。この像はアントワープで刊行された銅版画をもとに、銅板に油絵具で描かれました。画面右下に「IS 97」と記されていることから、「IS」を「15」と解釈し、1597年に描かれたとする説があります。

当時の日本ではキリスト教の布教をすすめたイエズス会によって、西洋流の絵画教育が行われていました。この像も裏面に「Sacam. Iacobus」と書き込まれていることから、ヤコブ丹羽(丹羽ジャコベ)が宣教師ジョバンニ・ニコラオの指導を受けて描いたものと推測されています。 】

ドチリナーキリシタンのキリスト像.jpg

『長崎版 どちりな きりしたん』 海老沢有道 校註 (岩波文庫)
口絵: 「羅馬字綴 「ドチリナ キリシタン」 1592年(天正20年) 天草刊 標紙」
http://leonocusto.blog66.fc2.com/blog-entry-2246.html?sp

【解題
凡例
どちりな きりしたん
 第一 キリシタンといふは何事ぞといふ事
 第二 キリシタンのしるしとなる貴きクルスの事
 第三 パアテル ノステルの事
 第四 アヘ マリヤの事
 ○たつときビルゼン マリヤのロザイロとて百五十反(ぺん)のオラシヨの事
 ○御よろこびのくはんねん五かでうの事
 ○御かなしみのくはんねん五かでうの事
 ○ゴラウリヤのくはんねん五かでうの事
 ○コロハのオラシヨの事
 第五 サルベ レジイナの事
 第六 ケレドならびにヒイデスのアルチイゴの事
 第七 Dの御おきて十のマンダメントスの事
 ○御(ご)おきてのマンダメントス
 第八 たつときヱケレジヤの御(ご)おきての事
 第九 七のモルタル科の事
 第十 サンタ ヱケレジヤの七のサカラメントの事
 第十一 此ほかキリシタンにあたるかんようの條
 ○じひのしよさ
 ○テヨロガレスのビルツウデスといふ三の善あり
 ○カルヂナレスのビルツウデスといふ四の善あり
 ○スピリツサントのダウネスとて御あたへは七あり
 ○ベナベンツランサは八あり
 ○あやまりのオラシヨ 

洋語略解より:

「クルス Cruz 十字架。
モルタル Mortal 死すべき。―科、死に當る罪、重罪。
バウチズモ Baptismo 洗禮。
コンヒサン Confiçan, Confissan 告解。懺悔告白。
サカラメント Sacramento 聖典。秘蹟。
ガラサ Graça 聖寵、恩寵。」

◆本書より◆

「第二 キリシタンのしるしとなる貴きクルスの事。」より:

「弟 キリシタンのしるしとはなに事ぞや。
師 たつときクルスなり。
弟 そのゆへいかん。
師 われらが御あるじJxクルスのうへにて我等を自由になしたまへば也。かるがゆへにいつれのキリシタンもわれらがひかりとなる御あるじJxのたつとき御(み)クルスにたいし奉りて、こゝろのをよぶほどしんじんをもつべき事もつぱらなり。われらをとがよりのがしたまはんために、かのクルスにかゝりたくおぼしめしたまへばなり。
弟 じゆうになし玉ふとはなに事ぞや。
師 てんぐ(天狗、惡魔の意)のとらはれ人となりたる我等が普代の所をのがし玉ふによて也。
弟 とらはれ人となりたるいはれはいかん。
師 てんぐとわれらがとがのやつこ(奴)なり。御あるじの御辭(みことば)に科ををかす者はてんま(天魔)のやつこなりとの玉ふなり。されば人モルタルとがををかせば、てんぐすなはちそのものをしんだい(進退)するがゆへに、やつことなりたる者也。しかればクルスにかゝり玉ふみちをもてさだめ玉ふバウチズモのさづけをうけ、又コンヒサンのサカラメントをうけ奉れば御あるじJxあたへ玉ふガラサをもてその人のもろもろのとがをゆるし玉ふによて、クルスの御くりき(功力)をもて御あるじJxてんまのやつことなりたるところをうけかへし玉ふと申なり。されば人のやつことなりたるものをうけかへしてじゆうになす事は、まことにふかきぢうをん(重恩)也。なを又やつことなしたる人のつらさをふかく思ひしるにをひては、いまうけかへされたるところのをんどく(恩德)をよくわきまふべきもの也。やつこなりしときの主人なさけなくあたりたるほど、うけかへされたるをんもふかき者也。然るにわれらが御あるじJxのガラサをもててんぐのてよりとがにん(科人)をとりかへし玉ひてじゆうになし玉ふ御をんのふかき事はいかばかりの事とおもふや。」

「Jx」は「ゼス キリシト」(イエス・キリスト)、「D」は「デウス」(神)のことです。 】

(追記)「丹羽ジャコベ」周辺

【丹羽ジャコベまたはヤコブ丹羽(Jacob NIWA, 天正7年(1579年) - 崇禎11年9月19日(1638年10月26日)は、安土桃山時代から江戸時代前期(明代)のキリシタン画家。漢名は倪雅各。
 天正7年(1579年)、中国人の父、日本人の母のあいだに生まれる。肥前国有馬(現在の長崎県南島原市(旧北有馬町))のセミナリヨに入り、そこで天正11年(1583年)に来日したイタリア人修道士ジョバンニ・ニコラオに洋画(南蛮画)の技法を学んだ。
 慶長6年(1601年)、カトリック教会における明の布教長であったマテオ・リッチの要請をうけた日本巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノの指示によって、聖像を描くため明のマカオに派遣された。マカオでは、聖パウロ協会の被昇天の聖母像を描いている。翌万暦30年(1602年)には、北京に赴いて聖母子像を描き、その作品は万暦帝に献上された。万暦34年(1606年)には、マテオ・リッチのもとでイエズス会に入会している。
 万暦38年(1610年)、南昌にある2つの聖堂のキリスト画とマリア画を描き、翌万暦39年(1611年)には再び北京に赴いて使徒や天使らに囲まれた救世主図を描いている。
 その後も明に滞在し、崇禎11年(1638年)にマカオにて60歳で死去した。
 なお、東京大学総合図書館には丹羽の筆になる銅板油彩の救世主像が所蔵されている。 】
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