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狩野内膳筆「南蛮屏風」周辺(その十) [狩野内膳]

(その十)「内膳南蛮屏風」の「聖家族(豊臣秀吉家と千利休家)」周辺

内膳屏風(豊臣家・千家).jpg

「内膳南蛮屏風(左隻・右隻)」の「聖家族(豊臣秀吉家と千利休家)」(模式図)
上→左隻→「上部左(デウス寺・教会=聖=浮世)」・上部右(デウス号=海=回路)・「下部左(豊臣秀吉他)+下部右(南蛮国出航)」=俗=憂世」
下→右隻→「上部左(サンタマリア号=海=回路)」・上部右(マリア寺・教会=聖=浮世)・「下部左(日本国入港)」+「下部右(千利休他)」=俗=憂世}

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-02-15

 上記のアドレスで、次の絵図(a-1図)について、次のとおり紹介した。

豊臣家聖家族.jpg

「狩野内膳筆『左隻』・豊臣家聖家族(秀吉・秀頼・淀君そして高台院)」(第五・六扇拡大図)→ a-1図
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=1

【 「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」(『文教大学国際学部紀要』第二号掲載)では、その「八 おわりに」で、次のように記している。
《 慶長三年八月十八日秀吉六十三歳で没するが、その直前に本屏風は出来ていたと筆者は推定する。それは、左隻聖家族の別視点からの” 見なし“から成り立っている。文禄・慶長の役と朝鮮出兵に失敗してからも、秀吉の夢は世界制覇にあったと伝えられている。だとすると、秀吉の夢……外国に宮殿を造り、そこに秀頼と赴く……を描いたものであれば、キリシタンの関係の事象がいくつか描いてあっても咎めがその絵師には及ぶはずはない。つまり聖家族の父子は、秀吉と秀頼、脇部屋の女性は淀君(秀頼母)と見なすのである。そう言えば、左隻の老父は、高台寺蔵などの秀吉絵像に似ていないであろうか。》「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」(『文教大学国際学部紀要』第二号掲載) 】

パラキンの秀吉・象に乗る秀頼.jpg

「狩野内膳筆『左隻』・豊臣家聖家族(秀吉・秀頼・淀君そして高台院)」(第五・六扇拡大図)→ a-2図
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=1

 また、上記の絵図(a-2図)については、下記のアドレスで次とおり紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-02-20

【「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」(『文教大学国際学部紀要』第二号掲載)では、その「五 聖家族」で、次のように記している(なお、「追記一」と「追記二」とを参照)。

《 南蛮寺内部に描かれた人物は三人。うち、襞襟(ひだえり)をつけた老年の男性は、ヨゼフというよりデウスその人であり、膝にいだかれた緑衣・白襟袖(えり)の少年はイエズスであり、部屋を隔て、カーテンの脇に片膝をつく女性は、当然聖母マリアとなる。
(中略)
 父と子の居る図番2(注・上記図の左端上部の「父と子」の居る空間)は、《天の国(パライゾ)》でもある。
(中略)
 左隻南蛮寺内部の三人の人物を聖家族という範疇で括りうる表象の一つは、三人が共通して纏う肩掛けである。色も青……聖なる色で統一されている。脇部屋にひざまずくマリア(図番③参照《注・上記図の右端上部の「女性」》)の肩掛けは更に金糸で彩られた小豆(あずき)色の上掛けで掩(おお)われている。
 マリアの姿態に今少し注目すると、左膝を立てて右膝を床(サラセン風の文様のタイルが貼られている)についている。片膝を立てる坐り方は、中世一般に日本女性が行っていたもので、洛中洛外図・職人絵・物語絵巻の中に幾つかの事例を見出すことができる。ただ左手まで床についている所から、単に坐っているのではなく、かしこまった様子がうかがわれる。マリアのかしこまり……《受胎告知》が浮かぶ。
 (中略)
 左隻南蛮寺を余り近くで見すぎたようである。少し足を離そう。すると、デウスとおぼしき男性が小手をかざし何を見つめているかがわかるかもしれない。その対象は、目の前を通り過ぎる貴人(一人は象に乗り、一人はパランキンに乗る)達の群れではない。これらは、南蛮寺が天の宮殿とするならば、いつか捨て去らねばならない世界《Contemptus Muundi》なのである。やはり、左隻半分を占める海と黒船(デウス)であろう。》  】

 そして、それに続けて、下記の絵図(a-3図)と共に、上記の「いつか捨て去らねばならない世界《Contemptus Muundi》=《ラテン語の「コンテムツス‐ムンジ」=「世を厭う」の意=憂き世)=俗の世界》」ということを紹介した。

狩野内膳・左隻.jpg

「狩野内膳筆・南蛮屏風・左隻(神戸市立博物館蔵)」紙本金地著色・6曲1双・各154.5×363.2
→ a-3図
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=1

【 上記の「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」(『文教大学国際学部紀要』第二号掲載)の「五 聖家族」の長文の引用(原典などと対比して主要部部分を省略)の、その「デウスとおぼしき男性が小手をかざして見つめている男性(「デウス→ヨゼフ→秀吉)」)は、「左隻半分を占める海と黒船(デウス)であろう」と、この上図は、その上部が、「聖なる世界《天の国(パライゾ)》=「聖」の世界)」とすると、その下部は、「俗なる世界《地の国(Contemptus Muundi=ラテン語の「コンテムツス‐ムンジ」=「世を厭う」の意=憂き世)=俗の世界》で、その「俗なる世界」を見つめているのではなく、その遠方の「聖」の世界の「左隻半分を占める海と黒船(デウス)」を見つめているとし、それは「布教の行末をはるかに見守っている」ことに他ならないと鑑賞している。】

狩野内膳・右隻.jpg

「狩野内膳筆・南蛮屏風・右隻(神戸市立博物館蔵)」紙本金地著色・6曲1双・各154.5×363.2
→ b-1図
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

南蛮屏風右隻の革足袋の二人.jpg

「狩野内膳筆・南蛮屏風・右隻(神戸市立博物館蔵)」→ 「狩野内膳筆『右隻』・カピタンを出迎える修道者たち」(第一・二扇拡大図)→ b-2図
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-01-07
「狩野内膳筆『南蛮屏風』(「イエズス会(修道士)」と「フランシスコ会(修道士)」)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=1

 続けて、この右隻の二図(b-1図・b-2図)は、左隻の三図(a-1図・a-2図・a-3図)と対応し、その「左隻の小手をかざしている男性」(a-1図・a-2図)と、右隻の「小手をかざしている女性」(b-2図)とは、相互に連動していて、それらの関係は、「天なる父子」(a-1図・a-2図・a-3図)と「地なる母子」(b-1図・b-2図)との「精神的な信仰の世界の共有を意味し」、と同時に、その「幾何学的空間は、海と空を包んで均整のとれたトライアングルを成し、精神的な静寂をもたらしてくれるようである」との、「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」の、下記の指摘を紹介した。

【 左隻のデウスが小手をかざし、右隻の日本女性も同じく小手をかざしている。これは、すでに述べたように(注・「左隻のデウス」は「海と黒船(デウス)」、「右隻の女性」は「同じ足袋を履いている少年」を指す)、それぞれの場面における何かを探していると一応受け取られるが、屏風を左右連続して並べ一つの大きな視野に入れる時、それはさらに、天なる父子と地なる母子の精神的な信仰の世界の共有を意味しているように思われる。その「幾何学的空間は、海と空を包んで均整のとれたトライアングルを成し、精神的な静寂をもたらしてくれるようである。  】(「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」所収「「五 聖家族」の長文の引用(原典などと対比して主要部部分を省略)」)

 ここで、この「左隻の小手をかざしている男性」(a-1図・a-2図)が、「秀吉の夢……外国に宮殿を造り、そこに秀頼と赴く……を描いたもの」という、その「豊臣秀吉」の見立てという鑑賞は、これは賛同することはあっても、真っ向から「否(ノン)」とする方は少ないであろう。
 それに比して、「右隻の小手をかざしている女性」(b-2図)を、「千利休?」の、その娘(「お亀」?または「お吟」?)、さらに、その妻(「おりき=宗恩」?または「お稲」?)とかと特定することは、どうにも飛躍ありとして、この見立ての見方については、逆に、「否(ノン)」とする方は多いようにも思われる。
 それらのことを前提として、これらの「左隻の小手をかざしている男性」(a-1図・a-2図)=「豊臣秀吉」と、その「右隻の小手をかざしている女性」(b-2図)の、「豊臣秀吉」に対応する、その「女性」(b-2図)の関係者(その前方に描かれている老人)」を、「千利休」と見立て、下記のアドレスでは、次のとおりの「豊臣家(聖家族)」と「千家(聖家族)」との人物群像が描かれているとした。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-02-12

【 この左隻の「聖家族」(豊臣秀吉・秀頼そして淀君=秀頼生母)に「高台院」(秀吉正室・秀頼正母=お寧・寧々・北政所)を加えると、先の右隻の「千家聖家族」(千利休・宗旦・お亀そして少庵)と見事に対応することとなる。

 豊臣秀吉(1537-1598)    ⇄ 千利休(1522-1591)
 豊臣秀頼(1593-1615)    ⇄ 千宗旦(1578-1658)
 淀君(秀頼生母(1569?-1615)⇄ お亀(宗旦生母、?―1606)
 高台院(秀吉正室・秀頼正母、?―1624)⇄千少庵(宗旦の父、お亀の夫、利休の後妻の連れ子、1546-1614)
(注・上記の「淀君」の背後に「高台院」が潜み、「千利休」の背後に「少庵」が潜んでいる。)     】

 これらの「豊臣・千両家」の六人の群像の中で、その生前に、その全てと、程度の差はあれ、それぞれとのネットワークがあって、陰に陽に交流があった人物は、「高台院(秀吉正室・秀頼正母、?―1624)」その人ということになろう。
 「高台院と千利休・千少庵」とは、そもそも、「千利休の賜死」関連の背景が、「秀吉・淀君・石田三成」(朝鮮出兵などの「外征」派)に対する「秀長(秀吉の弟)・高台院・千利休」(反朝鮮出兵などの「内政」派)との軋轢などが、その一端ともいわれるほどに、同じサークル圏と解しても差し支えなかろう。
 また、「高台院と千宗旦」とは、「親と子」というよりも「親と孫」との関係という年代差はありながら、晩年の「高台院」を支え続けた「キリシタン大名の一人でもあった『木下秀俊・長嘯子・(洗礼名=ペドロ)、1569-1649』」(「高台院」の甥=兄の嫡男)は、この若き「千宗旦」(1578-1658)の門人の一人となっている。
 ここで、「豊臣・千両家」の六人の群像の周辺を、「利休七哲」「キリシタン大名など」「豊臣秀吉と高台院の『養子・養女・猶子』など」「『高台院』周辺(侍女)のキリシタン関係者」などで列挙すると別記のとおりとなる。

(別記) 「豊臣秀吉・千利休(聖家族)」周辺の人物群像

豊臣秀吉(1537-1598)    ⇄ 千利休(1522-1591)
豊臣秀頼(1593-1615)    ⇄ 千宗旦(1578-1658)
淀君(秀頼生母(1569?-1615)⇄ お亀(宗旦生母、?―1606)
高台院(秀吉正室、?―1624)⇄千少庵(宗旦の父、お亀の夫、1546-1614)
↓↑
(利休七哲)
前田利長(肥前)1562-1614→ 父(利家)=利休門(キリシタン大名高山右近を庇護)
蒲生氏郷(飛騨)1556-1595→キリシタン大名(洗礼名=レオン・レオ・レアン)
細川忠興(越中/三斎)1563-1646→正室(玉=キリシタン=洗礼名・ガラシャ)
古田重然(織部)1544-1615→(キリシタン大名高山右近と親交=書状)
牧村利貞(兵部)1546-1593→キリシタン大名(フロイス書簡)
高山長房(右近/南坊)1552-1615→キリシタン大名(洗礼名=ジュスト・ユスト)
芝山宗綱(監物)?―?→(キリシタン大名高山右近と親交=同じ「荒木村重」門=離反)
(瀬田正忠・掃部)1548-1595(キリシタン大名高山右近と親交=右近の推挙で秀吉武将)
↓↑
(キリシタン大名など)
明石全登(ジョアン、ヨハネ、ジョパンニ・ジュスト)?―1618→ 宇喜多家の客将
織田秀信(ペトロ)1580-1605→ 織田信忠の嫡男、信長の嫡孫
織田秀則(パウロ)1581 ―1625 → 織田信忠の次男、信長の孫
木下勝俊(ペテロ)1569-1649→ 若狭小浜城主。北政所(ねね)の甥
京極高吉1504-1581→ 晩年に受洗するも急死、妻は浅井久政の娘(京極マリア)
京極高次1563-1609→ 秀吉、家康に仕えて近江大津・若狭小浜藩主、正室=初姫(常高院)
京極高知1572-1622→ 秀吉、家康に仕えて信州伊奈・丹後宮津藩主、継室=毛利秀頼の娘
黒田長政(ダミアン)1568-1623→ 棄教後、迫害者に転じる。
黒田孝高(シメオン)1546-1604→ 官兵衛の通称と如水の号で知られる
小西行長(アウグスティノ)1558-1600→ 関ヶ原敗戦後、切腹を拒み刑死
小西隆佐(ジョウチン)?―1592→ 小西行長の父、堺の豪商・奉行
高山友照(ダリオ)?―1595→ 飛騨守、高山右近の父
高山右近(ドン・ジュスト)1552-1615→明石城主、追放先のマニラで客死
細川興元1566-1619→- 細川幽斎の次男、細川忠興の弟
毛利秀包(シマオ)1567-1601 → 毛利元就の子、小早川隆景の養子
↑↓
(豊臣秀吉と高台院の「養子・養女・猶子」など)
(養子)
羽柴秀勝(織田信長の四男・於次)1569-1586→墓所=秀吉建立の大徳寺・総見院など
豊臣秀勝(姉・とも(日秀)と三好吉房の次男)1569-1592→正室=江(浅井長政の三女)
豊臣秀次(姉・とも(日秀)と三好吉房の長男)1568-1595→豊臣氏の第二代関白
池田輝政(池田恒興の次男)1565-1613→継室=継室:徳川家康の娘・督姫
池田長吉(池田恒興の三男)1570-1614→因幡鳥取藩初代藩主
結城秀康(徳川家康の二男)1574-1607→下総結城藩主、越前松平家宗家初代
小早川秀秋(木下家定の五男。高台院の甥)1582-1602→備前岡山藩主
(養女)
豪姫(前田利家の娘。宇喜多秀家正室)1574-1634→洗礼名=マリア
摩阿姫(前田利家の娘。豊臣秀吉側室)1572-1605→秀吉の死後万里小路充房の側室
菊姫(前田利家の庶女。早世)1578-1584→七歳で夭逝
小姫(織田信雄の娘。徳川秀忠正室。早世)1585-1591→秀忠(十二歳)と小姫(六歳)
竹林院(大谷吉継の娘。真田信繁正室)?―1649→真田信繁=幸村の正室
大善院(豊臣秀長の娘。毛利秀元正室)?―1609→毛利秀元の正室
茶々(浅井長政の娘。豊臣秀吉側室)1569?―1615→豊臣秀頼生母
初(浅井長政の娘。京極高次正室)1570-1633→常高院、高次・初=キリシタン?
江(浅井長政の娘。佐治一成正室→豊臣秀勝正室→徳川秀忠継室)1573-1626→崇源院
糸姫(蜂須賀正勝の娘。黒田長政正室)1571―1645→黒田長政(キリシタン後に棄教)
宇喜多直家の娘(吉川広家正室)?―1591→容光院、弟に宇喜多秀家(正室=豪姫)
(猶子)
宇喜多秀家(宇喜多直家の嫡子、養女の婿で婿養子でもある)1572-1655(正室=豪姫)
智仁親王(誠仁親王第6皇子。後に八条宮を創設)1579-1629→同母兄=後陽成天皇
伊達秀宗(伊達政宗の庶子)1591-1658→伊予国宇和島藩初代藩主
近衛前子(近衛前久の娘。後陽成天皇女御)1575-1630→後水尾天皇生母、父は近衛前久
(秀吉が「偏諱(いみな)」を与えた者)
徳川秀忠(徳川家康三男)1579-1632→江戸幕府第二代征夷大将軍(在職:1605 - 1623)
結城秀康(徳川家康二男)→前掲(養子)  など
↑↓
(「高台院」周辺(侍女)のキリシタン関係者)

小西行長(洗礼名=アウグスティヌス(アゴスチノ、アグスチノ)/ドム・オーギュスタン・ジヤクラン)
↑↓
父:小西隆佐(洗礼名:ジョウチン)、※母:ワクサ(洗礼名:マグダレーナ)=侍女
兄弟:如清(洗礼名:ベント)、行景(洗礼名:ジョアン)、小西主殿介(洗礼名:ペドロ)、小西与七郎(洗礼名:ルイス)、伊丹屋宗付の妻(洗礼名:ルシア)
妻:正室:菊姫(洗礼名:ジュスタ)
側室:立野殿(洗礼名:カタリナ)
※娘:小西弥左衛門の妻 - 菊姫との間の子。霊名カタリナ

高山右近(洗礼名=ジュスト・ユスト)
↑↓
父母:父:高山友照、母:高山(洗礼名=マリア)
妻:正室・高山(洗礼名=ジュスタ)
子:洗礼名・ルチヤ(横山康玄室)

内藤如安(洗礼名=洗名ジョアン)
↑↓
父母:父・松永長頼、母:・藤国貞の娘 妹・内藤ジュリア=女子修道会ベアタス会を京都に設立=豪姫の洗礼者?

不干斎ハビアン(1565-1621)の母ジョアンナ=北政所(おね、高台院)の侍女→佐久間信栄(1556-1632)=不干斎との関係は?

高台寺の聖母子像.jpg

高台寺所蔵の「聖母子像に花鳥文様刺繍壁掛」
https://www.kyotodeasobo.com/art/exhibitions/hideyoshi-woman/

 このポスターの「戦国と秀吉をめぐる女性」(高台寺「掌美術館」)は、二〇一一年秋の特別展のものであるが、この絵図は、高台寺所蔵の「聖母子像に花鳥文様刺繍壁掛」で、この「聖母子像」関連については、下記のアドレスで、「秀吉に導かれて宝物殿に出会う……社寺調査の思い出……(河上繁樹稿)p108-110」を簡単に紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-02-12

【この屏風の実質的な注文主の「京都高台寺の『高台院)」側(「高台院側近の『親キリシタン・親千利休』(「秀吉が殉教させた二十六聖人そして賜死させた親キリシタン茶人の千利休)系の面々」)の人物というのは、「高台院(北政所・お寧・寧々)の侍女、マグダレナ(洗礼名)とカタリナ(洗礼名)」(「バジェニスの『切支丹宗門史』には、彼女(北政所)はアウグスチノ(小西行長)の母マグダレナ、同じく同大名の姉妹カタリナを右筆として使っていた。此の二人の婦人は、偉大なる道徳の鏡となってゐた。妃后(北政所)は、この婦人達に感心し、自由に外出して宗教上の儀礼を果たすことを赦してゐた」と記されている)

https://www.kyohaku.go.jp/jp/pdf/gaiyou/gakusou/31/031_zuisou_a.pdf

「秀吉に導かれて宝物殿に出会う……社寺調査の思い出……(河上繁樹稿))p108-110」

小西行長(洗礼名=アウグスティヌス(アゴスチノ、アグスチノ)/ドム・オーギュスタン・ジヤクラン)
※母:ワクサ(洗礼名:マグダレーナ)=高台院の侍女
※娘:小西弥左衛門の妻 - 菊姫との間の子、霊名カタリナ=高台院の右筆?  】

 その「秀吉に導かれて宝物殿に出会う……社寺調査の思い出……(河上繁樹稿))p110」
では、「『梵舜日記』によれば、マグダレナは慶長十五年(一五一〇)六月頃まで高台寺にいて北政所の世話を続けていたが、その後記録には出てこない。実子行長が慶長五年(一六〇〇) に四十三歳に斬首されているので、年齢からするとこのころに世を去ったのであろうか。その折、親しくしていた北政所に聖母子像を託したのではないだろうか」と記している(「ウィキペディア」では、「慶長3年(1598年)の秀吉の死後、マグダレーナは再び北政所に召されて侍女となったが、関ヶ原の戦いの敗報と行長の死を知り、悲痛の余りほどなく亡くなった」とあるが、この『梵舜日記』の「慶長十五年(一五一〇)六月頃まで高台寺にいて北政所の世話を続けていた」と解したい)。

 ここで、この高台院の侍女をしていたといわれる小西行長の母(洗礼名・マグダレーナ)などに関して、「ハーバード大学発!『レディサムライ』」の造語を副題とする『日本史を動かした女性たち(北川智子著・ポプラ新書)』の、「レディサムライ」の元祖のような「高台院・北政所・ねね(おね)」、そして「侍女マグダレナ」と「秀吉とねねの養女・豪姫(マリア)」との関連の箇所を紹介して置きたい。

【『日本史を動かした女性たち(北川智子著・ポプラ新書)』

第一部 ねねと豊臣家の女性たち
 第一講 ねねが武力の代わりに使ったもの
 第二講 安定した暮らしを守るために

(宣教師たちが伝えたねね)
P46- そう伝える宣教師の報告書には、まぐだれな、からら、るしゃ、…… ねねの侍女なのに、日本人の名前でない者がいます。かららとはClaraのこと。るしゃはLuciaのこと。そのほかにも、Monica(もにか)、Julia(じゅりあ)、Maria(まりあ)、Catarina(かてれいな)、Vrsula(うるすら)、Martha(まるた)、Paula(はうら)に、Ana(あんあ)……。日本に来ていたイエズス会士ルイス・フロイスの記録によると、大阪城にいた貴婦人や女官の中には、五、六人のキリシタンがおり、その既婚婦人のうちの一人がマグダレナだといいます。

(侍女マグダレナから情報収集を行っていた)
P46- 彼女はねねの侍女で、とても信心深い女性でした。キリスト教の祝日になると、大阪城を出て大阪の教会のミサに行っていました。彼女のおかげで普段は城の外に出ないねねでも、キリスト教関連の情報を聞き、城下町の様子を知ることができたといいます。それだけではありません。マグダレナは秀吉をも交えて、イエズス会宣教師のことや、彼らが信じる宗教について語り合っていました。大阪城にいた侍女は、秀吉とねねの生活の補助のためだけにそばにいたのではないようです。城の中にとどまらず城外で何が起こっているのかもねねに伝えていて、城にいながら外の状況を把握するために、侍女たちの場外での活動は貴重な情報源になっていました。(以下略)

第三講 苦難の時を乗り越える
第四講 変化に対応し、何度でもやり直す
第二部 世界に広がっていった日本のレディサムライ
 第五講 女性が手紙を書くということ
 第六講 女性たちは武器を手に戦ったのか
 第七講 日本の「大阪」のイメージを屏風で伝える―ドバイにて―
 第八講 レディサムライはゲイシャ? スパイ?
 第九講 当時の日本と世界の繋がりをどう捉えるか―アフリカにて―
 第十講 クイーンとレディサムライ―イギリスにて―
 第十一講 宗教の話を抜きには語れないレディサムライへの目録
(キリスト教の日本伝来)
(信仰を貫いたガラシャ)
(キリスト教徒として生きることを選んだねねの娘)
P181- ……(高山)ジュスト(右近)の母(マリア)は、太閤様の夫人で称号で(北)政所様と呼ばれている婦人(ねね)を訪問するために赴いた。そこで他の貴婦人たちがいる中で、(ねねに)非常に寵愛されていた二人のキリシタンの婦人たちの面前で、話題が福音のことに及んだとき、(北)政所様は次のように言った。「それで私には、キリシタンのの掟は道理に基づいているから、すべての(宗教)の中で、もっとも優れており、またすべての日本国の諸宗派よりも立派であるように思われる」と。そして(ねね)は、デウスはただお一方であるが、神(カミ)や仏(ホトケ)はデウスではなく人間であったことを明らかに示した。そして(ねねは)、先のキリシタンの婦人の一人であるジョアナの方に向いて、「ジョアナよ、そうでしょう」と言った。(ジョアナは)「仰せのとおりです。神(カミ)は日本人が根拠なしに勝手に、人間たちに神的な栄誉を与えたのですから、人間とは何ら異なるものではありません」と答えた。それから(北)政所様は同じ話題を続けて次のように付言した。「私の判断では、すべてのキリシタンが何らの異論なしに同一のことを主張しているということは、それが真実であることにほかならない。(その一方、)日本の諸宗派についてはそういうことが言えない」と。これらの言葉に刺激されて、別な婦人すなわち(前田)筑前(利家)の夫人は、称賛をもって種々話し始め、あるいはむしろ我らの聖なる掟に対して始めた称賛を続けて、すべての話を次のように結んだ。「私は私の夫がキリシタンとなり、わたしが(夫の)手本にただちに倣うようになることを熱望しています」と。
 (『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第一部第二期、83-84頁) 】

 ここに出てくる人物は、「(高山)ジュスト(右近)の母(マリア)、太閤様の夫人=(北)政所=高台院=おね=ねね=秀頼正母・豪姫養母、前田)筑前(利家)の夫人=芳春院=おまつ=秀頼乳母・豪姫生母、ジョアナ=内藤ジュリアか?=豪姫の洗礼者? もう一人のキリシタン婦人=高台院侍女マグダレナか?=小西行長の母(ワクサ)」の四人と解すると、この四人は、『日本史を動かした女性たち(北川智子著・ポプラ新書)』の、その「レディサムライ」の名に相応しい。
 なお、小西行長の母(ワクサ)=マグダレナについては、『小西行長(森本繁著・学研M文庫)』では、「行長が刑死したとき、父の寿徳(隆佐)は、文禄二年(一五九三)に死亡していたので、この世になく、母のマグダレナは夫の死亡のあと間もなく病死して、次男のこの哀れな最期のことは知らなかったと思える。しかし『切支丹大名記』には『悲傷の極、行長刑死後幾何もなく、その後を追えり』とある。レオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』では彼女の没年を慶長五年としている」(p297)と記述している。
 しかし、この「慶長五年(一六〇〇)死亡(説)」は、先の『『梵舜日記』の「慶長十五年(一五一〇)六月頃まで高台寺にいて北政所の世話を続けていた」との記述により、「慶長十五年(一五一〇)六月頃」まで、「高台寺にいて北政所の世話を続けていた」と解したい。
 また、『小西行長(森本繁著・学研M文庫)』の「宇津落城秘話」で、「内藤(小西)如安は、その妻子とともに加藤清正に降伏し、領内のキリシタンを統御するために方便として利用されたが、(略) 後に棄教を迫られ、嫡男好次のいる加賀金沢へ行くのである」との記述があり、「(前田)筑前(利家)」の客将となっている「高山右近」(一万五千石)と共にその客将(四千石)として仕え、慶長十八年(一六一三)、徳川家康のキリシタン追放令が出されると、慶長十九年(一六一四)九月二十四日に、高山右近・如安・その妹ジュリアらは呂宋(今のフィリピン)のマニラへ追放されることになる。

 こうして見てくると、「高台院(北政所・おね・ねね)・芳春院(おまつ)・マグダレナ(小西行長の母・高台院の侍女)・マリア(高山右近の母)・ジュリア(内藤如安の妹)・マリア(豪姫・高台院の養女・芳春院の四女)」、そして、「千宗恩(千利休の後妻・千少庵の生母・千宗旦の祖母)」などは、唯一無二の「「レディサムライ」の元祖にも喩えられる「高台院(北政所・おね・ねね)」の「文化サークル」圏内のメンバーと解しても、いささかの違和感を湧いてこない。
 そして、この「狩野内膳筆『南蛮屏風』」(神戸市立博物館蔵)の、その注文主も、この「高台院(北政所・おね・ねね)の『文化サークル』圏内のメンバー」より為されたものと解して置きたい。
 そして、そのことは、その「文化サークル』圏内のメンバーの、「高山右近の母・マリア、小西行長の娘・マリア(宗義智正室のマリア)、高台院と芳春院の娘・マリア(宇喜多秀家正室=豪姫)」等々の、「キリシタン・レディサムライ」の「洗礼名・マリア」を有する女性群像と、「東日本大震災」のあった「二〇一一」年に、初公開ともいえる「「聖母子像に花鳥文様刺繍壁掛」 (高台寺所蔵)の、その「聖母子像」の「マリア」像と、見事に一致してくる。
 ここで、この「狩野内膳筆『南蛮屏風』」(神戸市立博物館蔵)は、何時頃に制作されたのであろうか?
 このことに関しては、「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」(『文教大学国際学部紀要』第二号掲載)に、その引用書きのような感じて出てくる「狩野源助平渡路(ペドロ)」の、その「南蛮屏風」(リスボン古美術館蔵)との関連の考察が必要となって来るが、ここでは、下記アドレスで指摘をして置いたことを、そのまま踏襲して置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-02-12

【 四 ここで、何故、≪「お亀」が昇天した日(慶長11年10月29日《1606年11月29日≫》に拘るのかというと、それは、この「お亀」と見立てられる、この右端に描かれている女性の「足首が描かれていない」という、その特異性に起因するに他ならない。
 そして、この慶長十一年(一六〇六)というのは、「周辺略年譜(抜粋「一六〇六)」)では、下記のとおり、この「南蛮屏風(紙本金地著色・六曲一双・神戸市立博物館蔵)」を描いた「狩野内膳」が、もう一つの代表作とされている「豊国祭礼図屏風」(紙本著色・六曲一双・豊国神社蔵)を神社に奉納(梵舜日記)した年なのである。

(中略)

ここまで来ると、「お亀」が昇天した日(慶長11年10月29日《1606年11月29日≫)に、その年に豊国神社に奉納された、先(慶長9《1604》年秀吉の7回忌臨時大祭)の公式記録ともいうべき、狩野内膳筆の「豊国祭礼図屏風」は、その豊国大明神臨時祭礼に臨席できなかった「淀殿と秀頼」よりの一方的な意向を反映しているもので、それに反駁しての、「京都高台寺の『高台院)」側(「高台院側近の『親キリシタン・親千利休』(「秀吉が殉教させた二十六聖人そして賜死させた親キリシタン茶人の千利休)系の面々」)が、同じ、狩野内膳をして描かせたのが、下記の「狩野内膳筆・南蛮屏風(六曲一双・神戸市立博物館蔵)」と解したいのである。 】

(追記)

`寧々家系図.jpg

木下家略系図.jpg


「関ケ原の戦いと『木下家』と『浅野家』・『前田家』の動向」

高台院  → 中立?
父・木下家定(播磨姫路城主)→ 中立(高台院の警護)→備中足守藩主(後継→?)
長男・勝俊(長嘯子・若狭小浜藩主・洗礼名=ペテロ)→任務放棄(東軍→中立)→《家定後継×?》
次男・利房(若狭小浜城主)→ 西軍→《後に家定後継〇?》
三男・延俊(播磨国城主) → 東軍→豊後日出領主(義兄細川忠興)
四男・俊定 →西軍(丹波国城主)→ (秀秋の庇護・備前国城主、後病死)
五男・(小早川)秀秋(備前岡山藩主)→途中寝返り(西軍→東軍)→無嗣断絶(病死)

(浅野家)
浅野長政(常陸真壁藩主・豊臣政権の五奉行) → 東軍
浅野幸長(紀伊和歌山藩主) → 東軍
浅野長晟(安芸国広島藩初代藩主) → 東軍

(前田家)
前田利家(加賀藩主・豊臣政権の五奉行) → 慶長四年(一五九九)没
前田利長(加賀前田家二代藩主・豊臣政権の五奉行・豊臣秀頼の傅役) →中立?(徳川家康に帰順)  慶長十九(一六一四)没
前田利常(加賀前田家三代藩主・利家四男・利長養子) → 大阪の陣(東軍)・ 正室:珠姫(徳川秀忠の娘)


(千利休家の略系図)

千利休家系図.jpg

千利休→ 大永2年(1522年) - 天正19年2月28日(1591年4月21日)
(家族)
宝心妙樹 生年不詳 - 天正5年7月16日(1577年8月10日 先妻。
宗恩 生年不詳 - 慶長5年3月6日(1600年4月19日 後妻。キリシタン?
千道安  長男。母は宝心妙樹。 → 堺千家
宗林   生没年不詳)
次男。  母は宗恩。夭折し、父母を悲しませたという。
宗幻   生没年不詳 三男。母は宗恩。夭折した。
田中宗慶 一説に庶長子。
清蔵主  生没年不詳 庶子。明叔寺を号。
千少庵  養嗣子。宗恩の連れ子。→ 京千家
長女。母は宝心妙樹。永禄元年(1558年)ごろ、茶人千紹二に嫁いだ。
次女。母は宝心妙樹。天正4年(1576年)ごろ、利休の弟子である万代屋宗安に嫁いだ。天正17年(1589年)、豊臣秀吉に気に入られて、奉公するように請われたが断り、のちの利休の自害の遠因になったという説がある。夫が没すると、実家に戻った。キリシタン?
三女。母は宝心妙樹。従弟にあたる石橋良叱に嫁いだ。
吟(生没年不詳) キリシタン?
四女。母は宝心妙樹。天正12年(1584年)、本能寺の僧侶円乗坊宗円(古市宗円・玉堂)に嫁ぐ。
亀(かめ、生年不詳 - 慶長11年10月29日(1606年11月29日))
末女、六女か。名は長(ちょう)とも。天正4年(1576年)ごろ、のちに利休の養子となる少庵を婿とした。少庵との間には宗旦をもうけている。利休が秀吉の怒りを買って堺に蟄居する際に、歌を亀に残している。また夫婦仲は良好ではなかったようで少庵とは別居していたが、息子・宗旦が利休に連座しようとした際には別居先から駆けつけている。キリシタン?


https://omoide.us.com/jinbutsu/%E5%8D%83%E5%88%A9%E4%BC%91/familyline/

千利休の本姓は田中氏で、清和源氏新田義重の庶長子で安房里見氏の祖である里見義俊の子孫を自称したが信憑性は低い。祖父の千阿弥は時宗の阿弥号を称したから遊芸民であったと考えられ、8代将軍足利義政の同朋衆を務めたというが応仁の戦乱を逃れ和泉堺に移住した。
子の田中与兵衛は魚問屋で財を成し倉庫業も兼ねて有力会合衆・納屋十人衆に数えられ、阿弥号を外して千氏を名乗った。嫡子の千利休は、三好長慶の妹とされる宝心妙樹を娶り嫡子の千道安をもうけ、宝心妙樹の死後宗恩を後妻とし二児を生したが共に夭逝、娘は高弟の千紹二・万代屋宗安らに嫁がせた。妹の宗円は久田実房に嫁ぎ子の久田宗栄は茶道久田流を開いた。
千道安は、幼少にして茶道に入り非凡な才を示すも利休に狷介な性質を嫌われ一時千家を離脱、後に赦され豊臣秀吉の茶頭八人衆に数えられた。利休死罪で千家は閉門となり豊臣家茶頭は高弟の古田織部に引継がれたが、数年後に「利休七哲」や徳川家康・前田利家の取成しで赦免された。本家堺千家を継いだ千道安は細川忠興(利休七哲で茶道三斎流の祖)の招きで細川家茶道となり豊前水崎に3百石を拝領したが後嗣が無く利休の嫡流は断絶、蒲生氏郷(利休七哲筆頭)の庇護下で蟄居していた宗恩の連子で利休娘婿の千少庵が家督を継ぎ京都に移った(実父は観世流能役者の宮王三入とされるが松永久秀説もある)。
少庵は、秀吉から下賜された京都本法寺前の土地に大徳寺門前の利休旧宅茶室を移し住居とした(表千家不審庵として現存)。嫡子の千宗旦は、家督争いを避けるため大徳寺塔頭聚光院(三好長慶の菩提寺で千利休の墓塔がある)の渇食となっていたが還俗して少庵の後を継ぎ、秀吉から利休所持の茶道具類と洛北紫野に5百石の知行を与えられ利休後継者として名誉回復が成った。
宗旦自身は生涯仕官を控えたが嫡子宗拙と四男宗室を加賀前田家・次男宗守を高松松平家・三男宗左を紀州徳川家に出仕させた。宗守は官休庵武者小路千家・宗左は不審庵表千家・宗室は今日庵裏千家を興し「三千家」として今日まで繁栄を続ける。

狩野派略系図.jpg

狩野 光信(かのう みつのぶ、永禄8年(1565年、永禄4年(1561年)説もある) - 慶長13年6月4日(1608年7月15日))は、安土桃山時代の狩野派の絵師。狩野永徳の長男。狩野探幽は弟・孝信の子供で甥に当たる。名は四郎次郎、通称は右京進。子の貞信も右京進と称し、両者を区別のため後に古右京とも呼ばれた。
 山城国で生まれる。はじめ織田信長に仕え、父永徳とともに安土城の障壁画などを描く。その後、豊臣秀吉に仕えた。天正18年(1590年)に父永徳が没した後、山城国大原に知行100石を拝領、狩野派の指導者となる。天正20年(1592年)肥後国名護屋城を制作。その後も豊臣家の画用を務め多忙であったようだ。慶長8年(1603年)京都の徳川秀忠邸(二条城)に大内裏図を作成している[1]。慶長11年(1606年)江戸幕府の命で江戸へ赴き、江戸城殿舎に障壁画を描く[2]。しかし、慶長13年(1608年)帰京途中で桑名で客死してしまう。享年44、または48。家督は長男の狩野貞信が継いだ。
 父永徳の豪壮な大画様式とは対照的な理知的で穏やかな作風は、当時の戦国武将たちの好みとは合わなかったらしく、本朝画史では「下手右京」と酷評を受け近世を通じて評価が低かった[3]。しかし、祖父の狩野松栄や曾祖父狩野元信の画風や中世の大和絵を取り入れ、自然な奥行きのある構成や繊細な形姿の樹木・金雲などを描き、特に花鳥画に優れる[4]。また、永徳時代には排斥の対象ですらあった長谷川派との親和を図り、新たな画題である風俗画に取り組むことで、永徳様式からの自立と新たな絵画領域の開拓を目指した。こうした光信の画業を継承する狩野長信や狩野興以、狩野甚之丞のような門人もおり、光信の画風は永徳様式から甥の探幽を中心とする江戸狩野様式への橋渡しする役割を果たしたといえる。

狩野 内膳(かのう ないぜん、元亀元年(1570年) - 元和2年4月3日(1616年5月18日))は、安土桃山時代・江戸時代初期の狩野派の絵師。内膳は号、名は重郷(しげさと)。通称は久蔵、幼名は九蔵。法名は一翁、或いは一翁斎。息子は日本初の画伝『丹青若木集』を著した狩野一渓。風俗画に優れ、「豊国祭礼図」「南蛮屏風」の作者として知られる。
 荒木村重の家臣、一説に池永重元の子として生まれる。天正6年(1578年)頃、根来密厳院に入ったが、のち還俗して狩野松栄に絵を学んだ。『丹青若木集』では「我が家の画工となるは頗る本意にあらず」と述懐しており、主家が織田信長に滅ぼされて、仕方無しに絵師となった事情が窺える。天正15年(1587年)18歳で狩野氏を称することを許され、同時期豊臣秀吉に登用され、以後豊臣家の御用を務めた。文禄元年(1592年) 狩野光信らと共に肥後国名護屋城の障壁画制作に参加、翌年にはそのまま長崎に赴いている。この時の視覚体験が、「南蛮屏風」の細やかな風俗描写に生かされているのだろう。後に豊臣秀頼の命で「家原寺縁起」の模写をしている。大坂の陣の翌年、豊臣氏の後を追うように亡くなった。
 内膳の画系は江戸時代になっても、表絵師・根岸御行松狩野家として幕末まで続き、国絵図制作を得意とした。旧主の遺児岩佐又兵衛は内膳の弟子とも言われるが、確証はない。また、水墨の花鳥画・人物画などでは同時代の絵師海北友松の影響が見られる。

狩野 宗秀(かのう そうしゅう、 天文20年(1551年) - 慶長6年11月頃(1601年))は、安土桃山時代の狩野派の絵師。狩野松栄の次男で、狩野永徳の弟。名は元秀、秀(季)信。宗秀(周)は号。
 元亀2年(1572年)21歳の時、永徳と共に豊後国の大友宗麟に招かれ障壁画を描く(現存せず)。天正4年(1576年)安土城障壁画制作では、永徳から家屋敷を預けられ[1]、その留守を守った。これは、万が一障壁画制作に失敗し織田信長から不興を買った場合、咎めが狩野派全体に及ぶのを危惧しての保険と見られる。天正10年(1582年)羽柴秀吉が、姫路城殿舎の彩色のために、宗秀を播磨国に招いている(「那須家文書」)。天正18年(1590年)、天正度京都御所造営では永徳を補佐し障壁画製作に参加する。文禄3年(1594年)制作の「遊行上人絵」に「狩野法眼」とあり、この頃には法眼に叙されていたことが分かる。慶長4年(1599年)、桂宮家新御殿造営にあたり甥の光信を補佐し障壁画制作に参加する。慶長6年(1601年)11月頃、光信に息子・甚之丞の後見を依頼しつつ亡くなった[1]。
 『本朝画史』では、「画法を専ら兄永徳に学び、よく規矩を守ったが、父兄には及ばなかった」と評している。また、同書収録の「本朝画印」では、「筆法専ら永徳に似て荒らし」とその画風を記している。
 画系に、先述の実子で父と同じく「元秀」を名乗った真設甚之丞、また元和から寛政頃の作品が残る狩野重信も門人とされる。

狩野 長信(かのう ながのぶ、天正5年(1577年) - 承応3年11月18日(1654年12月26日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した狩野派の絵師。江戸幕府御用絵師の一つ表絵師・御徒町狩野家などの祖。初め源七郎、あるいは左衛門と称す。号は休伯。桃山時代の風俗画の傑作『花下遊楽図屏風』の作者として知られる。
 狩野松栄の四男として生まれる。兄に狩野永徳、宗秀など。松栄晩年に生まれたため、血縁上は甥に当たる狩野光信・孝信より年下である。幼少の頃から父松栄や兄永徳から絵を習ったと推測される。両者が相次いで亡くなると次兄宗秀についたと思われるが、宗秀も慶長6年(1601年)に没すると、光信に従いその影響を受ける。さらに、長谷川等伯ら長谷川派からの感化を指摘する意見もある。一時、本郷家に養子に出たが、後に狩野家に戻りその家系は庶子となった。
 慶長年間(1596-1615年)京都で徳川家康に拝謁、次いで駿府に下り、その御用絵師となった。狩野家で江戸幕府に奉仕したのは長信が最初だという。慶長10年(1605年)頃徳川秀忠と共に江戸へ赴き、14人扶持を受ける[1]。慶長13年(1608年)光信が亡くなると、狩野探幽の側で狩野派一門の長老格として後見した。寛永期には、二条城二の丸御殿・行幸御殿・本丸御殿の障壁画制作に参加[3]、台徳院霊廟画事に従事[4]、日光東照宮遷宮に伴う彩色にも加わる[5]など第一線で活躍し、寛永2年(1625年)法橋に叙される[2]。墓所は江戸谷中の信行寺。

狩野 山楽(かのう さんらく、永禄2年(1559年) - 寛永12年8月19日(1635年9月30日)は、安土桃山時代から江戸時代初期の狩野派の絵師。狩野山雪の養父。
 浅井長政の家臣・木村永光の子光頼として[1]近江国蒲生郡に生まれる。母は伝承では益田氏。のちの林鵞峰は「佐々木氏の末裔か」と記している。父・永光は余技として狩野元信に絵を習っていた。
 15歳の時、浅井氏が織田信長によって滅ぼされてからは豊臣秀吉に仕え、秀吉の命により狩野永徳門下となる。山楽はこの時、武士の身分を捨てることを躊躇し多くの役職を務めたという。天正年間には、安土城障壁画や正親町院御所障壁画(現南禅寺本坊大方丈障壁画)の作製に加わる。永徳が東福寺法堂天井画の制作中に病で倒れると、山楽が引き継いで完成させた。このことから、永徳の後継者として期待されていたことが伺える(天井画は明治時代に焼失し現存しない)。以後、豊臣家の関係の諸作事に関わり、大阪に留まって制作に励んだ。豊臣氏には淀殿をはじめとして浅井氏旧臣が多く、山楽が重く用いられたのも、浅井氏に縁のある山楽の出自が理由だと思われる。慶長末年には大覚寺宸殿障壁画制作に腕をふるっている。
 大坂城落城後、豊臣方の残党として嫌疑をかけられるが、男山八幡宮の松花堂昭乗や九条家の尽力もあり、山楽は武士ではなく一画工であるとして、恩赦を受け助命される。ただし、豊臣家との関係が深いことや狩野家との血縁がないことなどから、徳川幕府の御用を勤めた江戸狩野派と同等の扱いは受けなかった。山楽は、狩野本家が江戸へ去った後も京都にとどまり、旧主である浅井家と縁の深い画を書き続けた。また、九条家との繋がりも代々受け継がれ、幕末まで続くことになる。
 駿府の家康に拝謁後、京都に戻り徳川秀忠の依頼で四天王寺の聖徳太子絵伝壁画などを制作した。晩年は筆力の衰えを隠せず、弟子に代作させることもしばしばであった。長男・光教(孝)が早世したため、門人・狩野山雪を後継者とした。なお、380年の間謎とされてきた山楽の息子、伊織「狩野山益」であるが、知恩院塔頭の良正院本堂(重要文化財)襖絵を描いていた事が近年判明した。大阪芸術大学の五十嵐公一教授の調査による。福岡市美術館所蔵の源氏物語屏風に狩野伊織と署名、山益の落款と画風の一致より同一人物であることが確定した。
 狩野探幽(永徳の孫)らが江戸に移って活動したのに対し、山楽・山雪の系統は京に留まったため、「京狩野」と称される[1]。永徳様式を最も良く継承しており、大画様式に優れた才能を魅せ、雄大な構図を持つ作品が多い。それらは永徳画に比べると装飾性豊かでゆったりとした構成を取る。こうした方向性は、後の絵師たちに強い影響を与えた。

狩野源助ペドロ  生年:生没年不詳
江戸前期のキリシタン、京都のフランシスコ会の財産管理人、狩野派絵師。イエズス会を讒言する書翰をマニラの3修道会の管区長に送付した中心人物で、のち司教セルケイラのもとでその讒言を撤回。慶長8年12月25日(1604年1月26日)付京坂キリシタンによる26殉教者(日本二十六聖人)列聖請願者の筆頭に「狩野源助平渡路」と署名。また教皇パウロ5世宛同18年8月15日(1613年9月29日)付京坂・堺の信徒書状には「へいとろかの」と署名する。元和6年12月10日(1621年1月2日)付の京坂信徒代表による教皇奉答文にみえる堺の「木屋道味平登路」は同一人物とみなされている。<参考文献>H.チースリク「ペトロ狩野事件の資料」(『キリシタン研究』14号)

道味 どうみ ?-? 織豊時代の陶工。 天正(てんしょう)年間(1573-92)に千利休に茶事をまなび、京都で茶器をやいた

http://m-mikio.world.coocan.jp/biombo.html

この屏風は、その高見澤氏が「狩野道味」(かのうどうみ)の1593~1600年ころの作と擬した一双。狩野道味とは、やはり南蛮屏風の画家である狩野光信(かのうみつのぶ。1560生1605没)の画風と同様な作品を生んだ者で、高見澤氏によると「キリシタンに改宗していた可能性がある」(前掲書)という。この1双のうち左のものは、日本の港に着いたポルトガル船とそこからの積み荷おろしを描いている。船の大きさに驚いた日本人は、船を誇張している。右の屏風は、港に上陸して、イエズス会の南蛮寺(教会または修道院)まで市中を行列する、日傘をさしかけさせ先頭を行くカビタン=モール(総司令官)たちを描く。黒人や、フリルの付いた襟の上着やボンバーシャといわれた膨大なふくらみが特徴のズボンも描かれている。これは東アジアのポルトガル人の特徴的な衣服だという。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/yca/6/0/6_KJ00000042427/_pdf

一 南蛮屏風 に見られる服飾表現についての一 考察一
AStydy of the Dressing
Patterns and Styles of Human
Figures Painted on NAMBAN − Byobu
(Japanese Folding Screen)
村松英子 Hideko Muramatsu 山野 美容芸 術短 期 大学 ・美容 芸 術学


http://archives.tuad.ac.jp/wp-content/uploads/2020/08/tuad-iccp-R1bulletin-2.pdf

日光東照宮陽明門唐油蒔絵の制作についての考察
中右恵理子 NAKAU, Eriko /文化財保存修復研究センター客員研究員

狩野派系図.jpg

 息子の狩野彌右衛門興益もキリシタンであり、父とともに三年間小日向の山屋敷に収容されていたという。さらにその後、神山道子氏によりキリシタンであった狩野興甫を取り巻く狩野派絵師についての研究成果が報告された11。神山氏によれば狩野興甫がキリシタンとして捕らえられた件は『南紀徳川史』、『徳川実記』に記載が見られるとのことである。興甫は父興以の兄弟弟子の一人である狩野道味(生没年不詳)の娘を娶っており、道味は義理の父にあたる。リスボンの国立古美術館には道味の作とされる南蛮屏風が所蔵されてい
る。その道味に関して『日本フランシスコ会史年表』に狩野道味ペドロがフランシスコ会の財務担当者であったとの記載があり、やはりキリシタンであったことが報告されている。また、もう一人の興以の兄弟弟子である渡辺了慶(?-1645)についても、了慶の息子の了之は興以の娘を娶りやはり姻戚関係であった。その了慶は晩年の寛永期に平戸藩の松浦家に抱えられた。平戸藩は南蛮貿易を積極的に行い、オランダ、イギリス商館を開設するなど西洋文化との関わりが深い。また了之以降は狩野姓を名乗り、孫の了海は出府して中橋
狩野家の安信の門人となった。5代目はやはり出府して永叔の門人となった12。このように平戸藩のお抱え絵師となった了慶の家系と江戸の中橋狩野家には関わりがあった。そして陽明門の「唐油蒔絵」の下絵を描いたとされる狩野祐清英信(1717-1763)は狩野宗家である中橋狩野家の11代目である。
(註11) 神山道子 「キリシタン時代の絵師~狩野派とキリシタン~」『全国かくれキリシタン研究会 第30回記念 京都大会 研究資料集』 全国かくれキリシタン研究会京都大会実行委員会 2019年 pp.25-5
(註12)  武田恒夫 『狩野派絵画史』 吉川弘文館 1995年 pp.268-269

2-4.唐油蒔絵と西洋文化との関係
 天文18年(1549)、フランシスコ・ザビエル(1506頃-1552)が鹿児島に上陸し、その後平戸を拠点に布教活動を行った。ザビエルらによりイエズス会の布教活動が広がる中で、日本人信徒の教育機関としてセミナリオが建設された。天正11年(1583)にはイタリア人宣教師で画家であったジョバンニ・ニコラオ(1560-1626)が来日し、天正18年(1590)頃から長崎のセミナリオで西洋絵画の技法を教えた。日本人が描いたと考えられるマリア像やキリスト像などの聖画は、このような施設で制作されたものと考えられる。当時絵画は布教のための重要な手段であった。

狩野派系図・道三関連.jpg

 文禄2年(1593)にはフランシスコ会の宣教師が来日し布教を開始した。狩野道味や興甫らはフランシスコ会に属していた。しかし、フランシスコ会ではイエズス会のような組織的な聖画の制作は行われなかったようである13。東照宮の造営期に「唐油」という言葉が見られるものの、油彩画が制作されなかったのは、興甫らに具体的な技法習得の機会がなかったためとも考えられる。神山氏は興甫らがイエズス会の日本人画家に接触し、西洋絵画の技法についての知識を得た可能性を示唆している。

https://ameblo.jp/ukon-takayama/entry-12559723668.html

講演 「 キリシタン時代の絵師 ~ 狩野派と キリシタン ~ 」  神山道子

※日光東照宮「 陽明門 」の “ 平成大修理 ” ( 2013 ~ 16年 )が行われた時に、西壁面に、「 唐油蒔絵 」が確認されました。
東照宮の造営に関わった絵師は、狩野派の 探幽 他 7名ですが、その中に、弥右衛門 ( 興甫 )が加わっています。
陽明門の障壁画に、油彩画の技法を持ち込むことが出来たのは誰なのか?
※和歌山藩 御用絵師 ・ 狩野弥右衛門 ( 興甫 )と息子 興益 )が、1634年から36年まで、日光東照宮の絵師を務め、1643年、キリシタンとして摘発されて、江戸送り となり、1645年までの 3年間、小日向の 「 江戸キリシタン山屋敷 」に収容されて  いました。
● 狩野永徳の後を継いだ 光信の高弟の一人が、狩野道味で、その娘婿が 興甫、その息子が興益 になります。道味は、「 ペドロ 」という霊名を持つ キリシタンで、1600年 ( 慶長5年 )頃、京都にあった フランシスコ会の 2つの小聖堂の 財務係をしていたほどで、信徒の代表として活動していました。道味の娘婿だった興甫や息子の興益も、狩野派の優秀な先達の絵師であり、キリシタンでもあった 道味を通して、キリシタンの信仰に 導かれていったものと思われます。

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