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「南蛮屏風幻想」(リスボン・ファンタジー)その二 [南蛮美術]

(その二)「四都図・世界図屏風」(神戸市立博物館蔵)

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上図:「四都図屏風」(「四都図・世界図屏風(八曲一双)」・神戸市立博物館蔵・重要文化財・各158.7×477.7㎝・池永孟コレクション)
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下図:「世界図屏風」(「四都図・世界図屏風(八曲一双)」・神戸市立博物館蔵・重要文化財・各158.7×477.7㎝・池永孟コレクション)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/detail?heritage=365023

【 四都図は、むかって左からリスボン、セビリア、ローマ、コンスタンティノープル(イスタンブール)の4都市、上部に高貴な階層の男女ならびに王侯騎馬図を配する8曲の屏風。片隻は、高い装飾性を示す世界地図の8曲屏風です。17世紀初期、日本で布教活動を展開したイエズス会のセミナリオで、西洋画の技法を習得した絵師によって描かれたと想定されます。1931年のスペイン革命時に古美術商・富田熊作が入手し、日本へ戻したことが知られていますが、それ以前の来歴は明らかではありません。都市図、世界図の原図は、1609年版カエリウス改訂の大型壁掛け世界地図にもとづくと考えられ、ローマ図は、『福音イグナティウス・ロヨラ伝』(1610年)所収の都市図に拠っていると言われています。
(来歴:スペイン某貴族家伝来?→1931京都富田熊作→池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館)  

「四都図世界図(池長本)」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E9%83%BD%E5%9B%B3%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%9B%B3

 スペイン内戦(1937年-1938年)で市場に現れ、日本へ里帰りしたと伝わる他、伝歴は明らかでない。リスボン、セビリア、ローマ、コンスタンチノープル(現在のイスタンブール)の四都市図や風俗図、世界地図中の北アメリカの部分に、褐色、緑、青と色相を変えて色彩遠近法が用いられるなど、西洋画法の受容を示す。原図は泰西王侯騎馬図等と同じく、1606年版ウィレム・J・ブラウ図を元に1609年に海賊版として作成され、江戸時代初期に伝来した大型世界地図(いずれも現存しない)と考えられる。世界地図中の都市の表現の中でローマが特に大きい点、浅瀬など航海上必要な知識をとりこんだ点、日本部分の精度の高い図を元に描き変えている点など注目すべき描写が多く、地図学上も重要資料。江戸時代初期の日本で描かれキリスト教の布教用に聖画等を制作したセミナリオ工房(天正8年(1580年)-慶長19年(1614年))か、その系統を引く画家の手による可能性が指摘される。 】

リスボン.jpg
「リスボン図」(上図:「四都図屏風」第七・八扇=拡大部分図)

【 「リスボン」

http://www.y-history.net/appendix/wh0901-017.html

《ポルトガルの首都。大航海時代の15世紀末から16世紀末まで、香辛料貿易などの商業港として栄えた。》

 大航海時代にポルトガルの首都として栄えた。ポルトガルの発音ではリスボア、またはリスボアゥンとも表記する。テージョ川(タホ川)の河口に位置し、大西洋に面した良港。その始まりは、ローマが建設したオリシボにさかのぼる。イスラーム勢力のイベリア半島への侵入により、この地も後ウマイヤ朝の支配下に入ったが。レコンキスタが進行するなか、1147年にポルトガル王によって征服され、1255年からはポルトガル王国の首都となる。
 15世紀には、ポルトガル王国の皇太子エンリケによって展開された海外進出の拠点となった。1498年のヴァスコ=ダ=ガマのカリカット到達によってリスボンはインド航路の起点となり、香辛料貿易によってアジアからの香辛料が直接輸入される一大貿易港として発展した。1500年にはカブラルがブラジルに到達し、新大陸への進出も始まると、リスボンは新大陸との貿易でも繁栄した。ポルトガルと新大陸進出で競合したスペインの貿易港の拠点はセビリアであった。

《リスボンの後退》
 
 しかし、ポルトガルは、1580年にスペインに併合され、1640年に独立を回復る間、政治的な安定が得られず、また17世紀以降はオランダとイギリスという新興勢力が台頭、インド・東南アジアでも後退を余儀なくなくされ、世界貿易の中心地はオランダのアムステルダムとイギリスのロンドンなどに移ったため、リスボンはかつてのような世界経済の中心としての役割は失っていった。
 それでも18世紀のポルトガルは植民地のブラジルでの金鉱の発見、コーヒー栽培の成功などが続き、植民地大国(海洋帝国)としての威勢を保ったので、リスボンの繁栄も維持されていた。しかし、絶対王政と新興ブルジョワジーの対立という新たな問題も表面化し、フランスの影響を受けた啓蒙的な政治家ポンバル侯爵による上からの改革が始まると、リスボンにも変革の気運が起こった。そのようなときにリスボンを大地震が襲い、大きな犠牲を出したが、それをきっかけにポンバル侯爵のめざす都市改革が実行されるという事態となった。  】

https://www.w-harimaya.co.jp/?mode=f1

《 (ポルトガル)

 ポルトガルは日本から約1万3千キロ離れたユーラシア大陸の西の果て、イベリア半島に位置する国で、日本の国土の4分の1ほどの大きさ(91,985km²)です。ユーラシア大陸最西端に位置するロカ岬(北緯38度47分 西経9度30分)にはローズ大理石の石碑があり、ポルトガルを代表する詩人、ルイス・デ・カモンイスの叙事詩「ウズ・ルジアダス」の一節から「ここに地終わり海始まる」と刻まれています。  》

リスボンから日本(長崎・神戸・堺).jpg
「ポルトガル(リスボン)図と日本(長崎・神戸・堺)」図」(下図:「世界図屏風」第一~四扇=拡大部分図)
http://www7b.biglobe.ne.jp/~aki141/mokujinanbannjin.pdf
http://www7b.biglobe.ne.jp/~aki141/nanbannjin.pdf


【 イエズス会宣教師の渡来から鎖国まで(石井昭夫稿)

 はじめに (抜粋)

 大航海時代はまさに「旅と発見の時代」であった。それまでばらばらに発展してきた文明と文化が、それらを隔ててきた大洋を人類が航路に換えたことによって結ばれ、相互発見の機会がもたらされたのであった。
 日本と西欧の接触の始まりは、16 世紀半ばの鉄砲伝来、ポルトガル商人の南九州への来港、そして、イエズス会宣教師の来日であった。閉鎖的で精神の自由を抑圧してきたヨーロッパ中世は、十字軍の数次にわたる聖地派遣をきっかけに外的世界に目を開かれ、ルネサンス運動と人文主義の発展によって科学技術を発展させ、その技術をもとに大洋へ、大航海時代へと外に向かって展開してきた。その流れがユーラシア大陸東端の日本にまでたどり着いたとき、日本は戦国動乱の時代であった。
 大航海時代を主導したのはポルトガルとスペインのイベリア半島の2国家であった。地中海経由の東方貿易では脇役に過ぎなかった両国が開かれた大洋に向かったのは必然の展開だが、両国が長きにわたる先進的イスラムの支配下にあって、ヨーロッパの中でどの国よりも科学が進んでいたことが大きな理由であった。航海術やそのもとになる天文学、造船術、物理学、力学などは、イベリア半島におけるイスラム大学の水準が非常に高かった。
 他のヨーロッパ諸国では失われていたギリシャの哲学や自然科学、インドの数学や医学まで、この地が学問発展の最先端にあり、いったんアラビア語に翻訳されてからラテン語に翻訳されてヨーロッパに伝えられていた。
 イスラムを追い落とした両国は、同時期に北ヨーロッパで展開しつつあった宗教改革においてはローマ(カトリック)教会派であり、教会内改革派として新教と対峙する勢力の中核であった。また両国は、7世紀の長きにわたる国土回復運動(レコンキスタ)によって半島を支配してきたイスラム勢力を武力で追い払ったのだが、その延長線上に海外に進出して行ったのであったから、武器・武力の使用には長けていた。
 未知の海洋進出に成功した両国は、教皇承認のもとにトルデシリアス条約を結んで(1494年)、大西洋上の西経 46 度 37 分の子午線を境界線として地球を東西に分け合った。ポルトガルはアフリカ南端回りで東インド(アジア)に向かい、他方、スペインは大西洋を西に向かってアメリカ新大陸(西インド)に辿りつき、さらに太平洋航路を探索してアジアへ向かった。大西洋上の境界のみ定められただけで、地球の反対側のことはまだ知られていなかったから、スペインが太平洋経由で香料諸島に到達したとき、先着していたポルトガルとの間で境界線をめぐる勢力争いが生じるのは必然であった。
 ポルトガルとスペインが東アジアに現れて日本でもヨーロッパ人との接触が始まり、政治・経済・軍事・文化上の影響を直接間接蒙ることになる。この時期、日本は戦国時代がようやく収束に向かい、中央集権的封建制度の編成期にあり、強大に見えた外からの影響にいかに対応するかが重大な課題であった。鉄砲が普及して戦争の形態が激変し、貿易と交流によってもたらされる西洋の異質な文化を驚きの眼をもって迎える一方で、最初期の接触からカトリック教の激しい布教活動にさらされた。ポルトガル・スペイン両国の海外展開は、必然的にカトリック教会の海外布教努力に結びついており、未知の世界での布教のために、宣教師たちは命をかけて故郷を出ていった。
 宣教師たちの活動は果敢であった。その激しさがアジアやアメリカを植民地化していく勢力と密接に結びついていたことから、秀吉も家康も警戒感を強めていく。両者とも、南蛮貿易による利を望みながらキリスト教の過度の浸透を怖れ、宗教と貿易の分離に失敗してキリスト教布教の禁止に踏み切ったのだが、その勢いを止める難しさゆえに、ついに世界との人的交流を絶つ鎖国へと進んでいった。

1.ポルトガル人到来時の日本をめぐる東アジアの情勢 (略)
 勘合貿易と後期倭寇
 ポルトガル人のアジア登場
  中国との交易開始は失敗
  マカオに拠点を得る
  鉄砲伝来
2.フランシスコ・ザビエルの来日と初期の布教 (略)
 ザビエル来日まで
  イエズス会
  ザビエルのアジアへの旅
  アンジローとの出会い
  アンジローの教育
  日本に関する情報収集
  日本への苦難の航海
  鹿児島上陸
 日本におけるザビエル
  鹿児島-平戸-山口
 京都への旅
 豊後大分から帰国の旅へ
 トーレスの時代:ザビエル以後の布教活
  山口での布教
  ガスパール・ヴィレラ
 ルイス・デ・アルメイダの九州伝道の旅
  南蛮医アルメイダ
  慈善病院の創設
  開拓伝道師アルメイダ
  横瀬浦、口ノ津から長崎へ
 京都・畿内の布教事始め
  ヴィレラ京都へ向かう
  布教の許可を求めて
  ヴィレラ、堺へ:畿内への布教
 知識人ルイス・フロイス
  天性の書記官
  京都へ派遣
  信長とフロイス
 日本布教の第二世代
  トーレスの死
  トーレスからカブラルへ
  カブラルの時代(1570~82)
  都の南蛮寺
3.巡察師ヴァリニャー (略)
 布教体制の確立
 適応主義の推進
 通信制度の改革
 長崎の領有
 信長の厚遇と安土教会
 遣欧少年使節の派遣
4.伴天連追放令  (略)
 秀吉とキリシタン
  突然の伴天連追放令
  信長と秀吉のちがい
  追放令後のイエズス会の対応
  ヴァリニャーノの再訪
 スペイン系修道会の登場
  日本との接触の始まり
  秀吉の対外強硬策
  サンフェリペ号事件と 26 聖人の殉教
 リーフデ号の漂着とオランダの登場
  オランダの台頭
  リーフデ号の航海
5.家康の対外政策  (略)
 朱印船貿易の始まり
  渡航朱印状
 大名による大船所有の禁止
 外国船貿易の統制
  糸割符制度
  ポルトガルからオランダへ
  イギリスの登場と撤退
 キリシタンの絡んだ事件 マードレ・デ・デウス号事件
  ジュアン・ロドリゲス
  岡本大八事件
 禁教令の発布とキリシタン迫害の始まり
   家康の決断
   慶長 18 年の禁教令
   慶長 19 年の大追放
   伊達正宗による遣欧使節派遣
   津軽に流されたキリシタン
   蝦夷地を探検した宣教師
6.鎖国への道        (略)
 宣教師排除の政策
  伴天連宗門御禁制奉書
  宣教師の潜入と処刑
  平山常陳事件と元和の大殉教
  宣教師の密入国阻止
  フェレイラからキアラまで
 日本人キリシタンの根絶
  教皇の慰問状
  密告の奨励、踏絵、寺請制度
 国際往来の制限:外国船の制限と朱印船の縮小
  貿易地を長崎・平戸2港に限定
  初の交通貿易制限令
  奉書船制度の導入
 鎖国の完成
  日本人の海外渡航禁止
  伴天連禁止令
  貿易統制
  ポルトガルの追放
  鎖国の強化と手直し:オランダの扱い
  フランソア・カロン
  平戸から長崎出島へ
 中国貿易船の来訪状況
  明との交易再開は失敗
  明から清へ
  鄭成功
  鄭氏の日本貿易
  鎖国時代の日清貿易
7.南蛮人の来訪がもたらしたもの (略)
 鎖国:カトリック布教に対する防御
  攻撃的だったカトリックの布教
  遺された四半世紀に及ぶ鎖国体制
  もしも鎖国がなかったら
 南蛮貿易
 学術・技術
  銃砲と火薬
  天文学と地理学
  地図と測量術
 医学と薬学
 その他の学術・技術
 美術工芸と南蛮屏風 
 (抜粋) イエズス会宣教師らの来日以来、美術工芸品についても、ヨーロッパの影響を受けて、
いわゆる南蛮美術と呼ばれる工芸美術品が誕生した。南蛮美術は安土桃山時代の美術の中で大きな特色のある流れであったと推定されるが、母体となったキリスト教が禁止されたためにほとんどが姿を消し、日本美術への影響はわずかなものにとどまっている。そうした中で異彩を放つのが南蛮屏風と呼ばれる西欧を描いた屏風である。
 南蛮屏風は〈南蛮人渡来図屏風〉〈黒船屏風〉とも呼ばれ、今日まで約 60 双ほど残存している。これらは南蛮人の当時の風俗を示すもので、興味深い資料となっている。筆者ではっきりわかっているのは狩野内膳ひとりだけで、仕入絵として多量生産されたと推定されている。残存する屏風を主題別に分類すると、①左双にポルトガル船の入港・荷揚げ、右双に外国商人の日本市街での行進を描いたもの、②左双に外国港におけるポルトガル船の出港、右双に日本港への入港・荷揚げ・行列を描いたもの、③左双に外国人の舞踊・競馬などの遊楽、右双に日本港への入港・荷揚・行列を描いたもの、の3種があった。いずれも日本の港で行われる行動や事件を一定の構図内に表現するもので、表現方法や材質はすべて日本流で、西洋画の影響はほとんど受けていない。
 衣生活・服装
  毛織物と合羽
  カルサン・ジュバン・ボタン
 食生活・食品
  肉料理
  肉以外の料理・食品
 その他の生活文化
  ガラスとガラス製品
  その他の南蛮文化
8.南蛮人の見た日本   (略)
 異文化の先進国:全体的評価
  ザビエルの見た日本
  フロイスの「日欧文化比較」
 日本がヨーロッパ文化に与えた影響  
  清潔と秩序ただしさ
  児童と育児
  茶の湯
  建築と庭園と日本美
  日本画と日本刀その他の日本美
  漆器と和紙                   】

https://core.ac.uk/download/pdf/364708275.pdf

「外国人の見た日本-クール・ジャパンとその源流を求めて―」(石井昭夫稿)

リスボン・南蛮屏風・道三・右隻.jpg
「狩野道味筆(伝):南蛮屏風」(リスボン古美術館蔵)→「右隻」(拡大「部分図」)
http://museudearteantiga.pt/collections/art-of-the-portuguese-discoveries/namban-folding-screens

 先に紹介した、この絵図の、この大きな甕の中身は、ポルトガル産の「ワイン」(葡萄酒)であろう。

http://www7b.biglobe.ne.jp/~aki141/nanbannjin.pdf

【 ヨーロッパの葡萄酒はポルトガル人によって初めて紹介された。ミサに欠かせない貴重品であり、日本にも野生の葡萄はあったから、日本で生産することを考えた宣教師もいた
が、実現はしなかった。葡萄酒は珍重され、信長、秀吉、家康へも贈物として届けられ
ている。 】(「イエズス会宣教師の渡来から鎖国まで(石井昭夫稿)」所収「肉以外の料理・食品」)

https://museum.kirinholdings.com/person/wine/01.html

「布教がもたらしたブドウ酒」
 ザビエルが持参した献上品
 ブドウ酒はミサ用か"大人用の薬"
 大内義隆に贈られた品々

https://museum.kirinholdings.com/person/wine/02.html

「近世史を築いた三英傑とブドウ酒」
  信長とまぼろしのチンタ酒
  秀吉にブドウ酒2樽を献上
【1586(天正14)年、イエズス会の日本副管区長であったガスパル・コエリョやフロイスをはじめとした一行は大坂城で秀吉に謁見した。秀吉はポルトガル人の来日を歓迎し、日本での通商を保証した。1588(天正16)年、コエリョは前回会談時の答礼と秀吉の九州平定(島津征伐)の凱旋を祝うため、博多に滞在していた秀吉を海路訪れた。秀吉はコエリョの船に乗り込んで、「大いなる好奇心をもって」(『イエズス会日本年報』1588年2月20日)船内を見学したのであった。船内では洋楽器が演奏され、秀吉は糖菓とポルトガル産のブドウ酒を自ら賞味し、長時間雑談した後、レモンの糖菓漬けやブドウ酒を土産に帰っていった。】
  家康に贈られたシェリー酒
【『ドン・ロドリゴ日本見聞録』によると、1年近く日本に滞在したロドリゴが日本で造られた船で離日する際、家康は日本人の使者を派遣し、スペイン国王に贈り物を献上した。スペイン国王は、ロドリゴが厚遇を受けたことへの返礼のため、1611(慶長16)年にセバスチャン・ビスカイノを大使として日本に派遣した。ビスカイノは、時計やスペイン国王らの肖像画とともにブドウ酒2樽を家康へ献上している。このブドウ酒2樽はシェリー酒および赤ブドウ酒であったと考えられている。】
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