SSブログ

「南蛮屏風幻想」(リスボン・ファンタジー)その三 [南蛮美術]

(その三)「肥前名護屋城図屏風」(狩野光信筆・六曲一隻・佐賀県立名護屋城博物館蔵)

肥前名護屋城.jpg

「肥前名護屋城図屏風」(狩野光信筆・六曲一隻・佐賀県立名護屋城博物館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/23054/
【 本図は、狩野派の絵師狩野光信の作で、下絵あるいは写しといわれている。六曲一隻の屏風で、第三・第四扇上部にある名護屋城には、五層の天守閣を中心に多くの御殿・数奇屋・櫓・門などが描かれ、当時では大坂城に次ぐ巨大な規模を持っていた名護屋城の様子を詳細に描いている。その周囲の丘陵には各大名の陣屋がひしめき合い、城下町では全国から集まった物資や人々で大変な賑わいを見せている。
 文禄2(1593)年夏頃の描写と考えられ、名護屋城及び軍事都市名護屋を知るうえで極めて貴重な資料である。 】(「文化遺産データベース」)

肥前名護屋城・模型.jpg

(名護屋城・城下町復元模型/常設展示室)
https://saga-museum.jp/nagoya/nagoya-castle/
【 「名護屋城・陣跡の概要」
 名護屋城は豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際して出兵拠点として築かれた城です。
1592(文禄元)年の開戦から秀吉の死で諸大名が 撤退するまで、7年の間大陸侵攻の拠点となりました。
城の面積は約17ヘクタールにおよび、当時では大坂城に次ぐ規模を誇りました。
周囲には130以上に上る諸大名の陣屋が構築され、全国から20万人を超える人々が集ったとされています。現在、名護屋城跡と23箇所の陣跡が国の特別史跡に指定されています。 】

「晩年の秀吉(天正15=1587=50歳)から家康没(元和2=1616=享年75)まで」(「ウィキペディア」などで作成。※「文禄の役」「慶長の役」=「肥前名護屋城」関連)

1587年(天正15年)51歳 3月、九州平定のため大坂を発つ。5月、島津義久、秀吉に降る。6月、キリスト教禁教令発布。10月、北野に大茶会を催す。
1588年(天正16年)52歳 4月、後陽成天皇、衆楽第に行幸。5月、京都東山に方広寺大仏殿建立。7月、 刀狩令発布 この年、大小判鋳造。
1589年(天正17年)53歳 5月、淀殿、鶴松(お捨)を生む。9月 秀吉、諸大名に妻子の在京を命ずる。
1590年(天正18年)54歳 6月、ポルトガルの宣教師ヴァリニャーノ、遣欧使節を伴って来日。11月、秀吉、朝鮮の使を衆楽第で引見。「小田原征伐」北条氏亡ぶ。東北地方平定、全国統一なる。
※1591年(天正19年)55歳 1月、第一次朝鮮出兵(文禄の役)。3月、秀吉、肥前名護
    屋城へ向う。関白を甥秀次に譲り、この頃千利休に自害を命じる。
※1592年(文禄元年)56歳 文禄の役」、16万の大軍で向かうも徹底抗戦にあう。
※1593年(文禄2年)57歳 明の援軍により戦況は膠着状態、ついに明と講和。 
※1593年(文禄2年)57歳 側室の淀が「お拾い(秀頼)」を産む。
※1595年(文禄4年)59歳 殺生関白「秀次」に謀反の疑いをかけ切腹を命じる。
※1596年(文禄5年)60歳 明との講和交渉決裂、再度明への侵攻を決意。
※1597年(慶長2年)61歳「慶長の役」、翌年秀吉の死により撤退。
※1598年(慶長3年)62歳 3月、秀吉、醍醐の花見。8月18日 秀吉、伏見城に病没。
1599年(慶長4年)1月、秀頼、秀吉の遺命により大坂城に入る。
1600年(慶長5年)9月、関ケ原合戦、石田三成・小西行長ら敗れる。
1605年(慶長10年)この年、京都東山に高台寺建立さる。
1614年(慶長19年)10月、大坂冬の陣。12月 和議成る。
1615年(慶長20・元和元年)4月、大坂夏の陣。大坂城落城。 淀殿・秀頼母子城内で自刃。
1616年(元和2年) 4月17日、 徳川家康没す(享年75)。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-03-27


狩野派系図.jpg

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-03-13

狩野 光信(かのう みつのぶ、永禄8年(1565年、永禄4年(1561年)説もある) - 慶長13年6月4日(1608年7月15日))は、安土桃山時代の狩野派の絵師。狩野永徳の長男。狩野探幽は弟・孝信の子供で甥に当たる。名は四郎次郎、通称は右京進。子の貞信も右京進と称し、両者を区別のため後に古右京とも呼ばれた。
 山城国で生まれる。はじめ織田信長に仕え、父永徳とともに安土城の障壁画などを描く。その後、豊臣秀吉に仕えた。天正18年(1590年)に父永徳が没した後、山城国大原に知行100石を拝領、狩野派の指導者となる。天正20年(1592年)肥後国名護屋城を制作。その後も豊臣家の画用を務め多忙であったようだ。慶長8年(1603年)京都の徳川秀忠邸(二条城)に大内裏図を作成している[1]。慶長11年(1606年)江戸幕府の命で江戸へ赴き、江戸城殿舎に障壁画を描く[2]。しかし、慶長13年(1608年)帰京途中で桑名で客死してしまう。享年44、または48。家督は長男の狩野貞信が継いだ。
 父永徳の豪壮な大画様式とは対照的な理知的で穏やかな作風は、当時の戦国武将たちの好みとは合わなかったらしく、本朝画史では「下手右京」と酷評を受け近世を通じて評価が低かった[3]。しかし、祖父の狩野松栄や曾祖父狩野元信の画風や中世の大和絵を取り入れ、自然な奥行きのある構成や繊細な形姿の樹木・金雲などを描き、特に花鳥画に優れる[4]。また、永徳時代には排斥の対象ですらあった長谷川派との親和を図り、新たな画題である風俗画に取り組むことで、永徳様式からの自立と新たな絵画領域の開拓を目指した。こうした光信の画業を継承する狩野長信や狩野興以、狩野甚之丞のような門人もおり、光信の画風は永徳様式から甥の探幽を中心とする江戸狩野様式への橋渡しする役割を果たしたといえる。

「狩野光信への『酷評』再確認」(黒田泰三稿)
http://idemitsu-museum.or.jp/research/pdf/03.idemitsu-No18_2013.pdf

セミナリオ.jpg

マルコ・アントニオ・チアッピ箸『教皇グレゴリオ13世伝」(1596年刊)にみられる有馬(上)と安土(下)の神学校の図。
https://core.ac.uk/download/pdf/223208069.pdf

file:///C:/Users/User/Downloads/8%20(1).pdf

「キリシタン時代における田本のイエズス会学校教育 (桑原直己稿)」

【 セミナリオ (ポルトガル語)seminario

 キリシタン宗門の初等教育機関。将来、聖職者を志す少年たちにのみ入学が許された事情からは「神学校」と訳される。1579年(天正7)に来日したイエズス会日本巡察師バリニャーノは、日本人聖職者を養成する必要を認め、翌年から有馬(ありま)(長崎県南島原(みなみしまばら)市)と安土(あづち)(滋賀県近江八幡(おうみはちまん)市)にセミナリオを開設し、良家のキリシタンの少年を入学させ、学則を定めた。学科目のおもなものはラテン語で、音楽、日本語も教授された。安土の学校は本能寺の変によって京都、高槻(たかつき)、大坂と転じたのち、1588年からは有馬の学校と合併したが、その学校も江戸幕府の禁教令によって1614年(慶長19)に廃されるまで九州各地を転々とした。これ以外に1601年には長崎に、教区司祭養成のためのセミナリオが開設された。[松田毅一]

  コレジヨ (英語表記)Collegio

 カトリック教会の高等教育施設の一つ。日本では天正8 (1580) 年イエズス会士 A.バリニャーノにより豊後府内 (大分市) に創設された。同 14年島津氏の侵入によって焼失し,山口に移り,さらに加津佐 (島原半島南西端) ,天草を経て長崎へ移転。聖職者の養成とヨーロッパ文化の伝達を目的として,哲学,神学,一般教養を教え,教義書や辞書,物語などの印刷出版も行なった。 】(出典:「ブリタニカ国際大百科事典」)

http://archives.tuad.ac.jp/wp-content/uploads/2020/08/tuad-iccp-R1bulletin-2.pdf

【 日光東照宮陽明門唐油蒔絵の制作についての考察(中右恵理子 NAKAU, Eriko /文化財保存修復研究センター客員研究員)

2-4.唐油蒔絵と西洋文化との関係
 天文18年(1549)、フランシスコ・ザビエル(1506頃-1552)が鹿児島に上陸し、その後平戸を拠点に布教活動を行った。ザビエルらによりイエズス会の布教活動が広がる中で、日本人信徒の教育機関としてセミナリオが建設された。天正11年(1583)にはイタリア人宣教師で画家であったジョバンニ・ニコラオ(1560-1626)が来日し、天正18年(1590)頃から長崎のセミナリオで西洋絵画の技法を教えた。日本人が描いたと考えられるマリア像やキリスト像などの聖画は、このような施設で制作されたものと考えられる。当時絵画は布教のための重要な手段であった。
 文禄2年(1593)にはフランシスコ会の宣教師が来日し布教を開始した。狩野道味や興甫らはフランシスコ会に属していた。しかし、フランシスコ会ではイエズス会のような組織的な聖画の制作は行われなかったようである。東照宮の造営期に「唐油」という言葉が見られるものの、油彩画が制作されなかったのは、興甫らに具体的な技法習得の機会がなかったためとも考えられる。神山氏は興甫らがイエズス会の日本人画家に接触し、西洋絵画の技法についての知識を得た可能性を示唆している。  】


https://ameblo.jp/ukon-takayama/entry-12559723668.html

【「狩野派絵師とキリシタン」(講演「キリシタン時代の絵師― 狩野派とキリシタン―(神山道子)」)

●狩野永徳の後を継いだ光信の高弟の一人が、狩野道味で、その娘婿が 興甫、その息子が 興益 になります。
 道味は、「 ペドロ 」という霊名を持つ キリシタンで、1600年 ( 慶長5年 ) 頃、京都にあった フランシスコ会の 2つの小聖堂の財務係をしていたほどで、信徒の代表として 活動していました。
 道味の娘婿だった興甫や息子の興益も、狩野派の優秀な先達の絵師であり、キリシタンでもあった 道味を通して、キリシタンの信仰に導かれていったものと思われます。

●日光東照宮の造営に関わった絵師の興甫が、いつ・誰から油彩画の技法を学ぶことが出来たのでしょうか。
 義父の道味からだ、と思われますが、道味は いつ・ 誰から油彩画の技法を学ぶことが出来たのでしょうか。
 道味が京の都で、フランシスコ会の財務係をしていた同じ頃、1605年( 慶長10年 ) に、都の下京に、イエズス会の 2千人収容の 大きな教会が建てられました。
 教会内部は、祭壇を始め、多くのりっぱな油絵で飾られ、その絵画法には、陰影法が使われていて、その完璧な技巧のために、見た人々は、絵画ではなくて 彫刻だと見間違えたと記録されています。
 これらの教会内部の宗教画の制作を受け持ったのは、臼杵出身で、セミナリオの画学舎で 西洋画の技法を学んだ、「タデウ・マンショ・ ジョアン」 という、日本人でイルマンの画家でした。
 狩野派の道味にとっては、技法の違う油彩画ですが、その見事な画法を目にして、絵師であり・キリシタンであった道味が、下京教会の聖堂内を飾るタデウの作品に すっかり眼を奪われ、実際に、自分でも、西洋画の技法で 聖画を描いてみたいと思ったでしょうし、タデウに 教えを乞うたとしても、自然の流れだと思われます。
 その時、道味の婿である興甫も、舅( しゅうと )に従い、共に西洋画の技法を学び、
それが、東照宮陽明門の「 唐油蒔絵 」につながっていったのではないかと、推察することが出来るのではないでしょうか。  】

(特記事項) 「肥前名護屋城図屏風」(狩野光信筆・六曲一隻・佐賀県立名護屋城博物館蔵)
周辺

天文18年(1549)フランシスコ・ザビエル来日。
天文19年(1550)平戸にポルトガル船来航。
天正4年(1576)京都にイエズス会の教会を建立。
天正11年(1583)ジョバンニ・ニコラオ来日。

【ジョバンニ・ニコラオ(生年:1560―没年:1626.3.16)
 タリア人イエズス会宣教師、画家。ナポリ生まれ。1580年イエズス会に入会。天正11(1583)年,日本からの画家要請によって来日。最初の1年長崎と有馬の教会の祭壇画を1枚ずつ描き、同12年から同15年まで京都に滞在。同年伴天連追放令により九州に赴く。文禄1(1592)年,セミナリオ(神学校)での絵画,銅版画,工芸の教授課程設置に伴い、天草、島原半島にある志岐、八良尾、有家、有馬、長崎の各セミナリオで指導に当たり、遠近法、陰影法といった西洋画技法を日本人に伝える。その門下にキリシタン画家の丹羽ヤコブなどがいたらしい。慶長19(1614)年の禁教令によりマカオに追放され,彼の地で死去。<参考文献>坂本満『南蛮美術』
(宮崎賢太郎) (出典 朝日日本歴史人物事典) 】

天正18年(1590)ジョバンニ・ニコラオが肥前のセミナリオで絵画を教える。

※1591年(天正19年)55歳 1月、第一次朝鮮出兵(文禄の役)。3月、秀吉、肥前名護
屋城へ向う。関白を甥秀次に譲り、この頃千利休に自害を命じる。
※1592年(文禄元年)56歳 文禄の役、16万の大軍で向かうも徹底抗戦にあう。

文禄元年(1592)光信、肥前名護屋城障壁画制作。

※ この「肥前名護屋城障壁画制作」は、「狩野派宗家」を継いだ、「狩野光信」の、一門挙げての大仕事であったであったろう。先輩格の「狩野内膳」も、そして、内弟子のような「狩野道味」も参加し、その一翼を担ったものと解したい。そして、この大仕事が終了した後も、若手の「狩野道味」は、肥前(佐賀県: 有馬領内(肥前)八良尾の神学校)に残り、ジョバンニ・ニコラオの「肥前のセミナリオ」(画学舎)などで、「西洋画」の技法の一端を学ぶ機会があったものと解して置きたい。

文禄2年(1593)フランシスコ会神父が肥前名護屋城で秀吉に謁見。フランシスコ会の布教始まる。

※フランシスコ会神父(ペドロ・バブチスタ)の来日は、この文禄2年(1593)を嚆矢とする。このペドロ・バブチスタは、慶長元年(1597)に、トリック教徒26人が長崎で処刑される(日本二十六聖人の殉教)。

文禄3年(1594)京都に「天使の元后教会」(聖母マリア教会)を建立。
文禄5年(1596)サン・フェリペ号事件。ペドロ・バプチスタ、京都で捕縛される。
慶長元年(1597)ペドロ・バプチスタやマルチノ・デ・ラ・アセンシオンなどフランシスコ会員6名をふくむカトリック教徒26人が長崎で処刑される(日本二十六聖人の殉教)。

※1597年(慶長2年)61歳「慶長の役」、翌年秀吉の死により撤退。
※1598年(慶長3年)62歳 3月、秀吉、醍醐の花見。8月18日 秀吉、伏見城に病没。

慶長5年(1600)関ケ原の戦い。道味、フランシスコ会の財務を担当。

※「狩野道味」は、「ランシスコ会の財務を担当」して登場する。

慶長9年(1604)京都地区の信徒が署名した請願書に道味、興甫と思われる署名。
慶長13年(1608)光信没。
慶長19年(1614)全国に禁教令、宣教師および高山右近らマカオに追放。10月、大坂冬の陣。12月 和議成る。

※高山右近、ジョバンニ・ニコラオらマカオに追放、この時に、「狩野道味」(「狩野源助ペドロ」?)も同行か?

慶長20・元和元年(1615)4月、大坂夏の陣。大坂城落城。 淀殿・秀頼母子城内で自刃。
元和2年(1616)4月17日、 徳川家康没(享年75)。狩野内膳没(享年47)。秀忠、禁教を強化。

 ここで、「ジョバンニ・ニコラオ」に、その「セミナリオ」などで「西洋画技法」を学んだと思われる日本人画家たちは、文禄三年(1594)三月十五日付け「ゴメスの日本年報」に記された「油絵を習っているのが八名」とあり、その名は、次のとおりである(『THE NANBAN ART OF JAPAN《西洋との出会い・キリシタン絵画と南蛮屏風》(国立国際美術館・1986)』)。

【「ジョバンニ・ニコラオ」に「油絵を習った八名」など

ヤコブ・ニワ (Jacob Niwa) (Niwa)
レオナルド・木村 (Leonardo Kimura S.I.)
マンシオ・タイチク (Mancio Taichiku S.I.)
ルイス・シオヅカ (Luis Shiwozuka S.I.)
タドウ (Thadeu S.I.) (Thaddaus)
ペドロ・ジョアン (Pedoro Joan S.I.)
オタオ・マンシオ (Votauo Mancio)
マンシヨ・ジョアン (Maicio Joan)
 
この八名の他に、当時の洋画家として、日本側の伝承ないし作品によって知られる作家として、次の三名などが挙げられる。

山田右衛門作
生島三郎佐
信方       】(『THE NANBAN ART OF JAPAN《西洋との出会い・キリシタン絵画と南蛮屏風》(国立国際美術館・1986)』所収「栄楽徹稿(P89)」)

救世主像.jpg

救世主像(東京大学総合図書館蔵)  制作年:不明 寸法(cm):縦23×横17
https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/kyuseisyuzou/document/5061e0fa-b328-431f-a95e-7b417137335b#?c=0&m=0&s=0&cv=7&xywh=-1988%2C-147%2C6497%2C3875

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-03-02

【 再掲)
 左手に十字架のついた珠を持ち、右手で祝福を与えるキリスト像は、礼拝用聖画として代表的な図像の一つです。この像はアントワープで刊行された銅版画をもとに、銅板に油絵具で描かれました。画面右下に「IS 97」と記されていることから、「IS」を「15」と解釈し、1597年に描かれたとする説があります。
 当時の日本ではキリスト教の布教をすすめたイエズス会によって、西洋流の絵画教育が行われていました。この像も裏面に「Sacam. Iacobus」と書き込まれていることから、ヤコブ丹羽(丹羽ジャコベ)が宣教師ジョバンニ・ニコラオの指導を受けて描いたものと推測されています。  】
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。