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「南蛮屏風幻想」(リスボン・ファンタジー)その一 [南蛮美術]

(その一)「狩野内膳筆(落款):南蛮屏風」と「狩野道味筆(伝):南蛮屏風」(リスボン古美術館蔵)

リスボン・南蛮屏風.jpg

上図: 「狩野内膳筆(落款):南蛮屏風」(リスボン古美術館蔵)
下図: 「狩野道味筆(伝):南蛮屏風」(リスボン古美術館蔵)
紙、金箔、多色テンペラガ、シルク、ラッカー、銅金 178x 366.4 x 2 cm(1st)
出典:リスボン国立古美術館ホームページ
http://museudearteantiga.pt/collections/art-of-the-portuguese-discoveries/namban-folding-screens

https://museudearteantiga-pt.translate.goog/collections/art-of-the-portuguese-discoveries/namban-folding-screens?_x_tr_sch=http&_x_tr_sl=en&_x_tr_tl=ja&_x_tr_hl=ja&_x_tr_pto=sc

【ポルトガルと日本の関係に関する重要な歴史的・芸術的文書は、長崎港にポルトガルの船が到着したことについて述べています。 スペースを別々のコンパートメントに分割するように設計されたスクリーンは、一般的に、紙で覆われ、薄いラッカーフレームに囲まれた可変数のヒンジ付き葉からなるペアで作られました。
 1543年に日本にポルトガル人が到着したことで、長崎港に南蛮人と呼ばれる南方の黒い船(南からの野蛮人)の到着によって生み出された好奇心とお祝いの雰囲気という2組のスクリーンに記録された商業文化交流が生まれました。
 現場の様々な参加者が描かれている偉大な詳細、船とその貴重な貨物の説明、そしてこの文脈で非常に重要なイエズス会の宣教師の存在は、これらの作品をポルトガルと日本の関係についてのユニークな歴史的、視覚的な文書にします。 】

 上記のアドレスの「リスボン国立古美術館ホームページ」の、「ハイライト」には、「南蛮の折りたたみスクリーン 第1ペア:鹿野内善のシール(1570-1616);第2ペア:カノドミ(attrib.) - 紙、金箔、多色テンペラ絵画、シルク、ラッカー、銅ギルト - 桃山(1568-1603)/江戸(1603-1868)期間」との見出しで紹介されている。

「南蛮折りたたみスクリ-ン」→「南蛮屏風」(Namban Screen) → (BIMBOS NAMBAN)
第1ペア:鹿野内善のシール(1570-1616)→「第一双(六曲一双):狩野内膳の落款(1570-1616)」入りの作品→「狩野内膳筆(落款)南蛮屏風(六曲一双)」
第2ペア:カノドミ(attrib.) → 「第二双(六曲一双):狩野道三(由来)」の作品→「狩野道三筆(生没未詳・伝)南蛮屏風」(六曲一双)

 この上図の、 「狩野内膳筆(落款):南蛮屏風」(リスボン古美術館蔵)に関連しては、下記のアドレスで、その周辺のことについて、下記(再掲)のとおり紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-01-10

【 (再掲)

 「南蛮屏風(図)」(南蛮人渡来図屏風・南蛮来朝図屏風)は、下記のアドレスによると、次の三類型に分類される。

https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/rekihaku/122/witness.html

《 南蛮屏風は通例、3つの類型に分類されるが、向かって左隻に日本の港に停泊する南蛮船とそれからの荷揚げの風景、右隻にはキリスト教の僧侶たちのいる南蛮寺とそれに向かって歩むカピタン・モール(マカオ総督を兼ねた船長)たちの一行、さらに彼らに好奇の眼を向ける日本人たちという図様で構成される第一類型のものが、全体のおよそ半数を占めている。第二類型はこの第一類型の両隻の図様を右隻にまとめ、左隻に異国の港とそこを出航する南蛮船の光景を描く。第三類型は右隻が第二類型と同じで、左隻は異国の館とそのテラスにおける南蛮人たちの姿で構成される。》(歴史系総合誌「歴博」第122号・「南蛮人来朝図屏風」)

 狩野内膳の「南蛮屏風」(神戸市立博物館蔵=神戸市博本)は、この分類ですると、第二類型(左隻=異国の港とそこを出航する南蛮船の光景、右隻=日本の港に上陸する一行と出迎えの光景と南蛮寺などに向かう光景)のもので、この「狩野内膳」((1570~1616)の落款を伴う南蛮屏風は以下の五点が確認されている(「ウィキペディア」)。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%A9%E9%87%8E%E5%86%85%E8%86%B3

神戸市立博物館蔵→神戸市博本
文化庁の九州国立博物館委託蔵→文化庁本
リスボン国立古美術館蔵→リスボン国博本
個人蔵(日本)→川西家旧蔵本
個人蔵(アメリカ)→アメリカ人所蔵本         】

 これらの、「狩野内膳」の落款のある作品については、これまでに、さまざまな角度から、その鑑賞がされているが、この下図の、「狩野道味筆(伝):南蛮屏風」(リスボン古美術館蔵)に関連しては、この作者が「狩野道味」なのかどうかを含めて、「狩野内膳」のそれに比すると多くの謎を秘めている「南蛮屏風」の一つといえる。
 しかし、この作品は、過去に二度ほど里帰りして、日本でも公開されており、下記のとおり、その図録で、その一端を知ることが出来る。

一 『THE NANBAN ART OF JAPAN《西洋との出会い・キリシタン絵画と南蛮屏風》(国立国際美術館・1986)』所収「作品解説85」

【85 南蛮屏風 紙本着色 屏風 六曲一双 各152×360 リスボン国立古代美術館蔵
 堺の旧家に伝来したもので、昭和初期に池永孟の所蔵となり、昭和二十七年ポルトガル大使館が購入、現在はリスボン国立古代美術館に保管されている。
 左隻に南蛮船の入港、右隻に天主堂への南蛮人行列が描かれている。左隻の南蛮船の浮かぶ海原を青海波模様で装飾的に描いた点が特徴である。一方、南蛮人は多彩に精密に描かれ、交易品の描写も正確で、天主堂の有り様も正しいキリスト教の風習をとらえている。的確で、個性豊かな、この作品は、おそらく、狩野派のなかの一流の画人の手になるものであろう。】
(『THE NANBAN ART OF JAPAN《西洋との出会い・キリシタン絵画と南蛮屏風》(国立国際美術館・1986)』所収「作品解説85」)

二 『VIA ORIENTALIS 《「ポルトガルと南蛮文化(日本ポルトガル友好)」展―めざせ、東方の国々― 日本ポルトガル友好450周年記念》(「セゾン美術館・静岡県立美術館編・日本放送協会刊・1993」)』所収「作品解説156」

【 六曲一双の屏風形式、金箔を貼った和紙に南蛮屏風特有の主題や風俗が描かれる。左隻にはマカオから船荷を満載した船が日本に入港したところが描かれ、絹製品やや生糸、さまざまな品々が箱や梱に詰められたり、巻かれたりして甲板にまで溢れているのが見える。右隻には長崎の市街を通る行列が描かれ、その先頭には華美な衣装を着け、日傘を差し掛けかられたカピタンを配し、彼が特別な人であることをはっきりと示している。またポルトガル人や水夫やカフラリア(南アフリカ喜望峰の近く)人、そして大抵この一行に加わっていたクジャラート(アラビア海に面したインド北西部の一部)人もこの作者は描き分けており、屋根に十字架を置いた日本の教会やその中の様子、丈の長い黒マントを着用したイエズス会宣教師、短い日本の煙管(キセル)でたばこを吸っている在留のポルトガル人など当時の南蛮風俗の模様をよく伝えている。
本屏風は駐日ポルトガル大使であったアントニオ・カルネイロ博士が戦後リスボンに持ち帰ったもので、堺の旧家に伝世したものである。 】(『VIA ORIENTALIS 《「ポルトガルと南蛮文化(日本ポルトガル友好)」展―めざせ、東方の国々― 日本ポルトガル友好450周年記念》(「セゾン美術館・静岡県立美術館編・日本放送協会刊・1993」)』所収「作品解説156」)

 この二つの「作品解説」で、特記して置きたいことは、次のとおりである。

一 「堺の旧家に伝来したもので、昭和初期に池永孟の所蔵となり、昭和二十七年ポルトガル大使館が購入、現在はリスボン国立古代美術館に保管されている。」(『THE NANBAN ART OF JAPAN』)

(関連メモ)

 この作品は、現在の「神戸市立博物館」の「池永孟コレクション」の、その「南蛮美術のコレクター」として名高い「池永孟」旧蔵品の一つなのである。この「池永孟」関連は下記のアドレスが、そのスタートということになる。

http://www2.kobe-c.ed.jp/trh-ms/?action=common_download_main&upload_id=7116

 と同時に、この作品が、「堺の旧家に伝来したもの」ということになると、下記アドレス(再掲)の、「狩野源助ペドロ」と、何かの因縁があるようにも思えてくる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-03-22

【 (再掲)

《 狩野源助ペドロ  生年:生没年不詳
江戸前期のキリシタン、京都のフランシスコ会の財産管理人、狩野派絵師。イエズス会を讒言する書翰をマニラの3修道会の管区長に送付した中心人物で、のち司教セルケイラのもとでその讒言を撤回。慶長8年12月25日(1604年1月26日)付京坂キリシタンによる26殉教者(日本二十六聖人)列聖請願者の筆頭に「狩野源助平渡路」と署名。また教皇パウロ5世宛同18年8月15日(1613年9月29日)付京坂・堺の信徒書状には「へいとろかの」と署名する。元和6年12月10日(1621年1月2日)付の京坂信徒代表による教皇奉答文にみえる堺の「木屋道味平登路」は同一人物とみなされている。<参考文献>H.チースリク「ペトロ狩野事件の資料」(『キリシタン研究』14号)》(「出典 朝日日本歴史人物事典(五野井隆史稿)」)

 そして、さらに、この「木屋道味平登路」は、織豊時代の陶工の一人の、次の「道味」と同一人物のように思われてくる。

《道味(どうみ) ?-? 織豊時代の陶工。
天正(てんしょう)年間(1573-92)に千利休に茶事をまなび、京都で茶器をやいた。 》
(出典「講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

 そして、この「道味」は、「堺千家」の「千道安」の門人のように解したいのである。

《 千道安 没年:慶長12.2.17(1607.3.14) 生年:天文15(1546)
安土桃山・江戸初期の茶湯者。千利休の嫡子。堺生まれ。母は阿波三好氏か。初名は紹安。眠翁、可休斎と号した。才能に恵まれたが,家を継がず数寄者としての生涯を送った。利休賜死ののち、飛騨高山(金森氏)、豊前小倉(細川氏)、阿波徳島(蜂須賀氏)と流寓先が伝えられ、義弟少庵に比して厳しい状況があったと考えられる。文禄年間(1592~96)に帰京し、豊臣秀吉の茶頭に復帰、堺に住んで茶湯者として活動、古田織部の最初の師であり、門下の桑山左近の弟子に片桐石州がいる。慶長6(1601)年、細川忠興から豊前に知行地を与えられたとされる。道安囲と称される小座敷の工夫が知られ、道安風炉などその好みを伝える道具も多い。<参考文献>『堺市史』 》(「出典 朝日日本歴史人物事典(戸田勝久稿)」) 】

二 「南蛮人は多彩に精密に描かれ、交易品の描写も正確で、天主堂の有り様も正しいキリスト教の風習をとらえている。的確で、個性豊かな、この作品は、おそらく、狩野派のなかの一流の画人の手になるものであろう。」(『THE NANBAN ART OF JAPAN』)

(関連メモ)

 (追記一)の「狩野道味」周辺の「イエズス会の神学校でカトリック芸術を学んだカノ・ペドロは、おそらく日本でのフランシスコ会の絵画の制作にも貢献しました」ということと、下記アドレスの、「狩野興甫がキリシタンとして捕らえられた件は『南紀徳川史』、『徳川実記』に記載が見られるとのことである。興甫は父興以の兄弟弟子の一人である狩野道味(生没年不詳)の娘を娶っており、道味は義理の父にあたる。リスボンの国立古美術館には道味の作とされる南蛮屏風が所蔵されている。その道味に関して『日本フランシスコ会史年表』に狩野道味ペドロがフランシスコ会の財務担当者であったとの記載があり、やはりキリシタンであったことが報告されている。」は、やはり特記して置く必要があろう。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-03-13

三 「日傘を差し掛けかられたカピタンを配し、彼が特別な人であることをはっきりと示している。またポルトガル人や水夫やカフラリア(南アフリカ喜望峰の近く)人、そして大抵この一行に加わっていたクジャラート(アラビア海に面したインド北西部の一部)人もこの作者は描き分けており、屋根に十字架を置いた日本の教会やその中の様子、丈の長い黒マントを着用したイエズス会宣教師、短い日本の煙管(キセル)でたばこを吸っている在留のポルトガル人など当時の南蛮風俗の模様をよく伝えている。」(『VIA ORIENTALIS』)

(関連メモ)

リスボン・南蛮屏風・道三・右隻.jpg

「狩野道味筆(伝):南蛮屏風」(リスボン古美術館蔵)→「右隻」(拡大「部分図」)
http://museudearteantiga.pt/collections/art-of-the-portuguese-discoveries/namban-folding-screens

 このカピタン一行の長崎市街を歩く一行の、その街中の商店街の「暖簾」や「人物」などに注目したい。この図の「暖簾」(「下り藤」紋)は、紛れもなく、下記の「狩野内膳筆『南蛮屏風』(「イエズス会(修道士)」と「フランシスコ会(修道士)」・神戸市立博物館蔵)の、その「暖簾」(「下り藤」紋)と一致してくる。

イエズス会とフランシスコ会.jpg

「狩野内膳筆『南蛮屏風』(「イエズス会(修道士)」と「フランシスコ会(修道士)」・神戸市立博物館蔵)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

 さらに、この「狩野道味」(「狩野源助ペドロ」)が、下記の(追記一)の、「イエズス会の神学校でカトリック芸術を学び」、そして、後に、「フランシスコ会の絵画の制作にも貢献した」ということと関連させると、この「狩野内膳筆『南蛮屏風』(「イエズス会(修道士)」と「フランシスコ会(修道士)」の、「イエズス会(修道士)」と「フランシスコ会(修道士)」との混在した描写が活きてくる。

(追記一)「カノ・ペドロ」または「グエンスケ・ペドロ(源助ペドロ)」周辺

https://www-scielo-org-co.translate.goog/scielo.php?script=sci_arttext&pid=S0121-84172019000100021&_x_tr_sch=http&_x_tr_sl=en&_x_tr_tl=ja&_x_tr_hl=ja&_x_tr_pto=sc

【 (カノ・ペドロ」=「狩野道味?」)

 狩野派の宣教師と画家の関係。宣教師の文書によると、狩野派の師匠である「カノ・ペドロ」または「グエンスケ・ペドロ」源助ペドロは、ジェロニモ・デ・イエス神父の時代に京都のフランシスコ会の評議員であり、3人とともに同じ都市の他の仲間の画家、兄弟たちに非常に近い。したがって、カノペドロが率いる地元の画家のグループは、日本のフランシスコ会コミュニティの需要を供給するためにカトリックの画像を作成した可能性があります。さらに、このすべての情報は、カノがおよそ40歳でルソン島に着手する前に、1603年3月6日に長崎のルイスセルケイラ司教の前にカノ自身が行った声明で提供されました。しかし、彼が実際に行ったかどうかを証明することは困難です。同年12月25日、京都・大阪地域のカトリック代表12名が署名した、26人の殉教者に敬意を表して聖化の請願書に狩野源助ペドロ狩野源助平渡路の署名が表示されたため、フィリピンに送られました。
この帰属が真実である場合、次の仮説が立てられます。イエズス会の神学校でカトリック芸術を学んだカノ・ペドロは、おそらく日本でのフランシスコ会の絵画の制作にも貢献しました。同様に、同じ作者に帰属する他の作品は、リスボンの国立古美術館に今日収容されている南蛮引き分け(1593-16000)は、間違いなく、カノ・ペドロは、日本、ヨーロッパ、南北アメリカの間の芸術交流において重要な影響力のある人物です。 】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-03-22


フラシスコザビエル像.jpg

重要文化財 聖フランシスコ・ザビエル像 神戸市立博物館蔵(池長孟コレクション)
「S.P.FRÃCISCUS XAVERIUS SOCIETATISV」 墨筆にて「瑳聞落怒青周呼山別論廖瑳可羅綿都 漁父環人」 朱文長方関防印「IHS」 朱文壺印(印文未詳) 
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/detail?heritage=365020

(追記二) 「京都のキリシタン―戦国から江戸―(麻生将稿)」

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/673/673PDF/aso.pdf 

京都のキリシタン都市空間.jpg
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