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「南蛮屏風幻想」(リスボン・ファンタジー)その十 [南蛮美術]

(その十)「高山右近旧領土のの南蛮美術(キリシタン美術工芸品)」(その一)」周辺

茨城キリシタン遺物史料館地図.jpg

「千提寺・下音羽、高山、能勢の位置関係-高槻の山間部-」(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p27)

【 千提寺・下音羽のキリシタン遺物を「点」で見るのではなく、「面」で見ることが必要です。現在の北摂の山間部は、能勢町・豊能町・箕面市・茨木市・高槻市と分かれていますが、右近の時代を考える時には、これらの山間部を一体的に捉える必要があるのです。
 1563年父ダリオが受洗後、高山周辺で最初の布教が行われました。その後、右近の戦の功績に対し、信長・秀吉は、父ダリオの出身地高山の周辺の山間部を、右近に与えていきます。
 この山間部では、1580年頃から集中的に布教が行われた結果、多くの僧侶を含む集団改宗が行われました。宣教師の記録で「高槻の山間部」という名前で度々登場してきます。改宗した元僧侶の強い指導のもとに団結し、農民主体の強力な信仰共同体が生まれ、江戸時代の厳しい禁教令のなかでも信仰が維持されました。このような歴史を持つ北摂の山間部から、多くの貴重なキリシタン遺物が大正時代発見されたのです。これらの遺物によって右近の時代の信仰を知ることができます。 】(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」)

茨城キリシタン千堤寺地図.jpg

「千提寺集落案内図」(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p32)

【(千提寺)

① 東藤次郎宅(現在久嗣)→聖フランシスコ・ザビエル画像、マリア15玄義図他多数
② 中谷仙之助宅(現在茂→光)→ロレータ聖母子像、どちりいなきりしたん、ぎやどぺかどる、こんてむつすむんじ他多数
③ 中谷源之助宅(現在清→孝)→聖母子像、キリスト磔刑像他
④ 中谷栄次郎宅(現在与一?→栄→さとる)→1600年聖年の教皇クレメンス8世のメダイ他    】(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p33)

茨城キリシタン下音羽地図.jpg

「下音羽集落案内図」(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p42)

【(下音羽)

 現在の感覚では千提寺に史料館があるので、奥まった所にある下音羽は地味な存在になりがちです。しかしここが信仰の中心地であった可能性もあるのです。その理由は、司祭的な役割をしていたと言われている大神家から天使讃仰図などが発見されたこと、高雲寺というキリシタンの旦那寺があること、原田家から保存状態が良いマリア十五玄義図が発見されていること(恐らく他にも貴重な遺物があったようですが、迫害を恐れ山中に隠した)などに求めることができます。なかでも、私が注目するのは、鎖国と禁教が完成し、司祭達が日本に留まることが不可能になる1630頃年にも、宣教師が訪れたのは「音羽村」で、「音羽村」は最後まで良き「隠れ場」で在り続けていたことです。(p42)

① 高雲寺 → キリシタン墓碑2基
② 井上与平次宅(現在政彦)→ キリシタン墓碑
③ 大神金十郎宅(現在敏治→三雪)付近の信者の世話役→天使讃仰図、ロザリオ他多数】
(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p34)

(追記一)「マリア十五玄義図(原田家本)」

原田家本・追記.jpg

「マリア十五玄義図(原田家本)」(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p10)

【 (上段の聖母子像)

・中央の上段には右手で幼いイエス(地球儀を右手で持つ)を抱き、左手で白いバラ(椿)の花をつまんでいる聖母マリア様の絵が描かれています。このバラの聖母子像は、もともとの原型があるそうで、幼いイエスが手にするのはロザリオだそうです。この15玄義図では、十字架が付いている地球儀を持った幼きイエスとして描かれています。これは、同じ千提寺で発見された「救世主像」の形に似ていると言われています。16世紀後半、公式にロザリオの祈りが認められ、教会歴で10月7日にロザリオの聖母の日と定めてから以降、ロザリオの祈りが広く普及しはじめ、よく描かれるようになった画題だそうです。  

  (下段の聖体讃美の図)

「いとも尊き秘跡、讃仰せられよ」ポルトガル語: LOVVADO SEIA
O SANCTISS (IMM)SACRAMENTO ( ) は新村氏の追補、新村氏訳

・左に聖イグナチオ・ロヨラ、右に聖フランシスコ・ザビエルが描かれ、名前の前には、いずれも、S.P(聖父)が付いているので、これらの作品は両聖人が列聖されてから制作されたと考えられている。(ザビエルの列聖式は1622年行われたが、大勅書の発布が遅れ、日本に知らされたのは1623年です。)
・12人使徒に加えられえた聖マチアス(5月14日)と、目をえぐり取られても、純潔を守った聖ルチア(12月13日)、何れも古代の殉教者ですが、両聖人が描き加えられた意味については諸説あります。この聖人を霊名とした日本の殉教者は数多くいます。

 ラテン語、左側:S.P.IGNATIVS SOCIETATISIESVS(イエズス会士聖イグナチウス S.P は 聖人の敬称
右側:S.P.FRANCISCVSXAVERIUS (聖フランシスコ ザビエル) 】(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p10)

(追記二)「マリア十五玄義図(原田家本と東家本)」 

マリア十五玄義(原田家本・東家本).jpg

「マリア十五玄義図(原田家本と東家本)」(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p11)

【 (ロザリオの祈り)
・幼き主イエスを抱く聖母マリアを描いた聖母子像とその下の聖体を讃美する図の周りに15の絵が描かれている。15の絵は左下から時計回りに、ロザリオの祈りの「喜び」(左)、「苦しみ」(上)、「栄え」(右)の1~5 の各玄義が配置されている。ロザリオの珠はこの祈りが出来るようにつくられています。
・ロザリオの祈りは、主キリストの生涯を黙想しながら、聖母マリア様に祈るものです。キリスト教の教えの主の降誕、ご受難、ご復活という重要な要素が全て含まれており、キリストの教義の核心部分を黙想するというものです。この主キリストと聖母マリア様の黙想は「喜び(受肉)の玄義」、「苦しみ(受難)の玄義」、「栄え(復活)の玄義」の三つにわかれています。この三つの主キリストの玄義は、更に、それぞれ五つの玄義に別れています。従って、ロザリオの祈りは合計15の玄義からなりたっているのです これが、15玄義の由来で、伝統的な形です。(現在ではこれらの三つの玄義に「光(啓示)の玄義」が加えられています) 
「15ある玄義のうち該当するものを最初に唱え、次に主の祈りを一回唱え、アヴェ・マリアを10回唱え、結びに栄唱を唱える」これが、一連です。「5連唱える」ことを一環といいます。一環を続けて唱える場合には、最初に、「信徒信条、主の祈り、アヴェ・マリアの祈り3回、栄唱」を唱えます。 
・当時の公教要理、ドチリナに、「・・150編の祈りは15の奥義と言って、五カ条は喜び、五カ条は悲しみ、もう五カ条は栄光という意味合いで、祈りを唱えるのである・・」と祈りの意味が書かれています。イエズス会の霊操の当時のテキスト「スピリツアル修行」の第一の「考察」は、「ロザリオの観念」とも言われ、ロザリオの十五玄義による主イエスの生涯を深く黙想することでした。このように当時のロザリオの祈りは今と基本は同じでした。】(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p11)

(追記三)「発見されたキリシタン遺物と高山右近との関係」(その一)

【1.発見されたキリシタン遺物と高山右近との関係 -“発見された場所は、右近の領地でし”-
・大阪府茨木市の山間部に、いずれも50戸足らずの、千提寺・下音羽という小さな集落があります。大正時代この場所から貴重なキリシタン遺物が数多く発見されました。一番有名なものは歴史の教科書に掲載されている「聖フランシスコ・ザビエルの画像」です。
・キリシタン遺物が発見された「千提寺・下音羽」地区とその周辺は高山右近の領地でした。右近の戦功に対し、信長、秀吉が論考恩賞として加増したものです。江戸時代、1649年
永井直清が高槻城主となった際に高槻藩の領地となり、この関係は明治まで続きます。
・右近の時代、この山間部で集中的な布教が行われた結果、多くの熱心な信徒が誕生し、秀吉・家康の禁教令後も信仰共同体が維持されていたことが宣教師の記録からわかります。この山間部は宣教師の記録のなかで、「高槻の山間部」という名前で度々登場してきます。信徒達はこれ以上教えることがないほど教えを理解し、多くの僧侶までが改宗し、大きな教会が建てられ、キリシタンの強力な信仰共同体がつくられたました。日本二十六聖人殉教の際にも、共に殉教する覚悟をし、けなげに信仰を守っていると宣教師は記しています。江戸時代の厳しい禁教令後も信仰が維持され、宣教師達の良き避難場所となったようです。キリシタン遺物はそのような宣教師が残していったものかもしれません。
・この遺物が発見された地区は高山右近の出身地である現豊能町高山地区のすぐ近くに   在り、昭和30年茨木市に合併されるまでは、高山地区と千提寺地区は「清溪村」という   同じ村に属していました。清溪村が茨木市に合併した時、高山地区のみが東能勢村   (現豊能町)に編入されました。淸溪村の村史は遺物等を知る上での貴重な資料となって
います。
・このように、キリシタン遺物が発見された場所が高山右近縁の地であったので、発見された遺物は右近の時代の信徒達の信仰を伝えるものであることは間違いないと思われます。
・宣教師や高山親子等の布教でキリシタンとなったこの山間部の信徒を思い浮かべながら、この茨木市のキリシタン遺物を味わって欲しいと思います。過酷な状況下で信仰を守り抜いた信徒の強い信仰心が伝わってくると思います。

2.発見された主なキリシタン遺物
 大正9年(1920年)~昭和5年(1930年)の間に、当時の信仰生活を偲ばせる、墓碑、教義書(ドチリイナキリシタン等)、教義図(マリア十五玄義図等)、聖像(聖フランシスコ・ザビエル画像等)、聖具(十字架・ロザリオ苦行の鞭・聖杯等)等メダイなど多岐にわたる遺物が約70点発見され、京都大学による学術調査が行われました。
(キリシタン遺物発見等にかかわる主な事項)
・大正9年(1920年)2月、千提寺のクルス山と呼ばれていた山林で、キリシタン墓碑が郷土史家藤波大超氏によって発見されました。(*以前、発見の年は、大正8年とされた)
・大正9年(1920年)9月、千提寺の東家の「あけずの櫃」から聖フランシスコ・ザビエル画像、マリア十五玄義図をはじめとする多数のキリシタン遺物が発見されました。中谷家等からも多数の遺物が発見されました。
・遺物発見の報告を受けた京都大学は直ちにこの地の調査に入り、昭和5年までの間に、かつての信者の末裔達の母屋や納屋の屋根裏などに固く秘められていた多数の遺物が発見されました。
・昭和5年(1930年)には、下音羽の原田家でマリア十五玄義図が発見されました。
・これらの発見は、千提寺を一躍有名にし、学者などの関係者の訪問が絶えなかったといわれています。
・聖フランシスコ・ザビエル画像、マリア十五玄義図(原田家・京大)は国の重要文化財に指定されています。
・マリア十五玄義図(原田家・京大)は、2004年修復され、2006年公開された。
・マリア十五玄義図(東家)は、2011年修復 公開された。
・現在、これらの貴重な遺物は東京大学、京都大学、神戸市博物館等に保存されています。一部は千提寺の「茨木市立キリシタン遺物史料館」に展示されています。中谷家、大神家などが今もなお保存されているものもあります
・これらの遺物以外に、口碑(昔からの言い伝え)として、東イマ、中谷イトさんから、キリスト教の儀式や風習、オラショ(祈祷文)等の貴重な口伝えの資料も収集されました。
・大正15年(1926年)に、ローマ政庁より教皇使節一行が千提寺を訪問され、遺物をご覧にになり、先祖の信仰を守った東家、中谷家の方に賛辞を述べられました。
・なお、東家の「あけずの櫃」は、全部で三個あったそうで、二個は発見前の明治末の火災で消失してしまったとのことです。 】(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p3)
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