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「南蛮屏風幻想」(リスボン・ファンタジー)その九 [南蛮美術]

(その九)「マリア十五玄義図(その二)」周辺

椿を持つマリア.jpg

「マリア十五玄義図」(京都大学総合博物館蔵・原田家本マリア十五玄義図)→A-2図「(部分拡大図)救世主としてのキリストの幼子と白い椿の花を持つ聖母マリアの図」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Fifteen_Mysteries_of_the_Virgin_Mary_(Kyoto_University_Museum).jpg

 前回(その八)に続く、この「マリア十五玄義図」(原田家本マリア十五玄義図)の「聖母マリア」に抱かれる「キリスト」の持ち物が、「ロザリオ」ではなく「十字架をのせた球体」を持つ「救世主としてのキリスト」の図像になっていることと、その手にしている花は、「聖母マリア」を象徴する「白い薔薇の花」ではなく、「白い椿の花」との説があることなどを、上記のアドレスで、下記(再掲)のとおり紹介されている。

【 (再掲)

マリアに抱かれたキリストの持ち物が、原図ではロザリオであったものが、この絵では十字架をのせた球体に変更されていることに注意が向けられ、このキリストが、天球もしくは地球を手にした「救世主としてのキリスト」の図像とよく似ていることが明らかにされました。この図像は、キリストのもう一方の手が天球・地球に祝福を与えるポーズをとっており、キリストが現世・来世いずれに対しても全能の力を持つことを象徴する図像であるとされています。ロザリオの祈りの対象である聖母子像の中に、救世主としてのキリスト像がはめ込まれているわけですが、これは、現世利益に馴れた日本人の好みに合わせたものではなかったか、と考えられています。また、マリアの手にする花が、本来のバラではなく、日本人に馴染みのある白い椿にかえられているとする説もあります。
 このように、「マリア十五玄義図」は、マリアへの祈りのみならず、キリストの超越的な力や聖餐のサクラメントへの崇拝、聖人に対する崇敬の念などさまざまなものをとりあわせ、日本人に受け入れられやすいように工夫された、日本的な聖画であったといえます。】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-04-11-1

(再掲)

救世主像.jpg

救世主像(東京大学総合図書館蔵)  制作年:不明 寸法(cm):縦23×横17→C図
https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/kyuseisyuzou/document/5061e0fa-b328-431f-a95e-7b417137335b#?c=0&m=0&s=0&cv=7&xywh=-1988%2C-147%2C6497%2C3875

【(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-03-02
 左手に十字架のついた珠を持ち、右手で祝福を与えるキリスト像は、礼拝用聖画として代表的な図像の一つです。この像はアントワープで刊行された銅版画をもとに、銅板に油絵具で描かれました。画面右下に「IS 97」と記されていることから、「IS」を「15」と解釈し、1597年に描かれたとする説があります。
 当時の日本ではキリスト教の布教をすすめたイエズス会によって、西洋流の絵画教育が行われていました。この像も裏面に「Sacam. Iacobus」と書き込まれていることから、ヤコブ丹羽(丹羽ジャコベ)が宣教師ジョバンニ・ニコラオの指導を受けて描いたものと推測されています。   】

救世主キリスト.jpg

file:///C:/Users/User/Downloads/kenkyuhokoku_076_07.pdf

【 布教用に適切と考えられた図像の一つに「救世主としてのキリスト」があったことが確認できる。他に現存品としては銅板に油彩で描かれたものが,茨木市千提寺中谷茂氏宅から1922年4月に発見されて現在は東京大学総合図書館蔵品になっている【挿図7】。
ちなみに,1597年の貴重な年記をもつこの油彩画は,その画面が多少の剥落と汚れとで手にする球体の表面に何が描かれているか判明でないが,その源泉である版画(マルテン・ド・ヴォス原画,ヒエロニムス・ヴィリクス刻,テオドール・ハレ刊行M.Mauquoy-Hendrick, op.cit.No.493)【挿図8】では,球面に太陽と月とが読みとれるので天球であることがわかる。1597年の油彩画も,そう知ってみると同じく天球を描いていると認められる。 】

マリアの白き椿.jpg

「写真15 中央上段聖母子,(撮影倍率×1.4)マリアが左手に持つ花」→A-3図
file:///C:/Users/User/Downloads/kenkyuhokoku_076_07.pdf

五島の椿.jpg

聖母マリアと関係があるとされる日本の椿
五島は椿の島。真っ赤な小さな一重の花びらのヤブツバキが自生する。
https://oratio.jp/p_column/tsubakinoshima

【 久賀島には椿の原生林がある。旧五輪教会堂に向かう山道でもヤブツバキが出迎えてくれる。椿は英語で「カメリア」。17世紀ごろ、マニラで布教していた宣教師カメルがヨーロッパに椿を持ち帰ったことに由来するという。学名は「カメリア・ジャポニカ」と名付けられ、東洋を代表する花木になった。キリスト教ではマリアの象徴はバラだが、日本のマリア十五玄義図には白い椿を持つ聖母が描かれている。 】

五輪教会堂.jpg

旧五輪教会堂
https://oratio.jp/p_resource/kyugorin-church

【 五島列島南部の久賀島にある教会堂である。【登録資産グループ/久賀島の集落】
久賀島には18世紀末から大村藩から入植があり、その中に外海地方出身の潜伏キリシタンが含まれていたことから、潜伏キリシタンの集落が形成された。
1865年の大浦天主堂における「信徒発見」の後、久賀島の潜伏キリシタンも大浦天主堂を密かに訪れて宣教師と接触した。
 久賀島で最初の教会堂は、1881年に建設された浜脇教会だが、その後この建物を引き継ぐことを切望したかつての潜伏キリシタンの集落であった五輪集落に寄贈され、1931年に現在の場所に移された。
 1985年には五輪集落に新しい教会堂が建設されたが、「旧五輪教会堂」として現在もなお維持されている。
 小規模な木造の建物で、外観に民家の形式をのこした、装飾の少ない礼拝空間をもつ初期の教会建築の代表例である。】

https://oratio.jp/p_column/sobokunakyokaido

【 内部のリブ・ヴォールト天井もまた西洋の技法だが、板張りの木の素朴さとともに日本的な匂いを漂わせる。祭壇前の柵にも丁寧で細やかな仕事ぶりと、美へのこだわりを感じる。 
側面の窓は引き戸式で壁の中に収納できるよう工夫がされ、合理的で無駄のない日本建築の良さをのぞかせる。地元の大工で仏教徒の平山亀吉が建設に関わったそうだ。
 西洋の教会堂建築の華やかさや荘厳さとは真逆にあり、日本的な独特の香りがする旧五輪教会堂。浜辺に打ち寄せる波の音が時間の流れを緩やかにする。外に植えられた桜の木々は信徒たちが大切に育てている。 】

出津の教会.jpg

長崎のキリシタンの里(「出津(しつ)」)と「マリア十五玄義図」
http://sakura-church.jp/akashi-zuiso/20150719-mk/

【 この絵(「マリア十五玄義図(浦上天主堂旧蔵)」)が伝えられたのは、現在長崎市となっている外海(そとめ)地方の「出津(しつ)」という里です。住民のほとんどが潜伏キリシタンだった所で、幕末に長崎に大浦天主堂が建ち、秘かに信徒が訪れるようになると、神父のプチジャンは出津にも招かれて、夜中に村人の漕ぐ船で渡り、そこでこのマリア十五玄義図を見ています。その後、外海地方には、ド・ロ神父が着任して、多くの教会や授産施設が作られました。世界遺産候補「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の一部となっています。
 出津の教会堂は、台風にも耐えるように背が低く作られた、白塗りで素朴な、しかしがっしりとした建物で、地元の信徒の方がガイドをしてくださいました。この地方には「バスチャン」という日本人伝道師の話が伝えられており、「ジワン」という神父の弟子だったという彼は、キリスト教の年中行事を記した「日繰り」を作って教えたが、山中で潜伏中に捕らえられ、その屋敷の跡が現在も残されています。「皆を七代までわが子とする、その後は神父が大きな黒船でやってきて毎日でもコンピサン(告白)ができるようになる、どこででも大声でキリシタンの歌を歌って歩けるようになる・・」という予言を残したとされ、二百五十年の禁教の後に、それが実現したとも言えます。
 ド・ロ神父はフランスの貴族の出身で、建築、印刷、医学、農業、織物、製粉・製麺など、当時最先端の技術を伝え、施設を作っています。まさに万能の人ですが、フランス革命の後で貴族がどうなるか分からなかったから色々な技術を身につけたのだそうで、何がどう関係するか分からないものです。国家による大規模な近代化とは別に、民間の無私の奉仕で、こんな所に西洋文明が直接伝えられていたことにも驚きました。
 なお、ここは遠藤周作の『沈黙』という小説の舞台で、付近には記念文学館もあります。】

被爆の聖母マリア像.jpg

「原爆前の浦上天主堂の大祭壇に掲げられていた聖母マリア像」(原爆前)→「被爆の聖母マリア像」(大浦天主堂)=下記「被爆の聖母マリア像」(大浦天主堂)

http://tomaozaki.blogspot.com/2020/08/blog-post_96.html

被爆後の聖母マリア像.jpg

「被爆の聖母マリア像」(大浦天主堂)
https://blog.goo.ne.jp/gloriosa-jun/e/6fe7d5fa4fac3252fbe8e430fef1bed7

悲しみのマリア像(左).jpg

「原爆で被爆された大浦天主堂、爆心側の南入口に立つ聖ヨハネ像(右)と悲しみのマリア像(左)」(「ナガサキ、フイルムの記憶:朝日新聞デジタル」)
https://www.asahi.com/special/nuclear_peace/gallery/nagasaki/000.html


(追記)
「マリア十五玄義図」(原田家本)と「ロザリオの聖母子(トマ・ド・ルー版刻・刊行)」(東京国立博物館蔵)周辺

トマ・ド・ルー刻・刊行「ロザリオの聖母子.jpg
「ロザリオの聖母子(トマ・ド・ルー刻・刊行)」(東京国立博物館蔵)(「日本の歴史の中の『 聖母像 』- 1(蕨由美稿)」)

https://ryuu.blog.ss-blog.jp/2013-04-11


聖母子図 トマ・ド・ルー 版刻・刊行 フランス、パリ 福井にて発見 16~17世紀

【『キリシタン関係の遺品 イエズス会の布教と禁制下の信仰 』

 東京国立博物館(http://www.tnm.jp/

 本館16室 2013年3月19日~5月6日
 (http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1598

「ルターが宗教改革を推し進めていた1534年、スペインのバスク地方出身のイグナティウス・デ・ロヨラは、カトリックの中の改革派としてフランシスコ・ザビエルら6人の同志を集めてイエズス会を創立し、活動を始めました。イエズス会はポルトガル国王の支援を受けてヨーロッパ以外の地にカトリックを広めることでプロテスタントに対抗します。ザビエルが日本に来たのは1549年。こののち、日本には宣教師が次々に訪れ、キリスト教の信徒を増やしました。最盛期には40万人に達したといいます。キリスト教が禁止される17世紀初期までは西洋の情報・文化が日本に達し、逆に日本の様子が西洋に伝えられました。日本と西洋がつながったのです。
しかし江戸幕府がキリスト教を禁止し、追放そして厳しい弾圧によって改宗を迫ると信徒はいなくなったはずでした。ところが、長崎の一部の地域に潜伏して信仰を守り続けた人々がいました。カクレキリシタンです。彼らは組織をつくって結束し、仏教寺院の檀家を装い、仏壇の奥にマリア観音像を置き、踏み絵を踏んで帰ってから懺悔(ざんげ)のオラショ(祈祷(きとう)文)をとなえました。ここに展示した遺物のほとんどはこうしたキリシタンの人々が所持していたものです。
明治政府も禁制を続けましたが、欧米諸国の強い批判を受けて明治6年(1873)信仰の自由を認めました。(東京国立博物館HPより)」】

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