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「南蛮屏風幻想」(リスボン・ファンタジー)その十一 [南蛮美術]

(その十一)「高山右近旧領土のの南蛮美術(キリシタン美術工芸品)」(その二)」周辺

ザビエル像(東家本).jpg

「聖フランシスコ・ザビエルの画像」(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p9)

【 (聖フランシスコ・ザビエルの画像)

・大正9年(1920年)9月26日、千提寺の東氏の母屋の屋根裏の梁にくくりつけてあった「あけずの櫃」の中から発見された 南蛮美術館の創始者として知られる池永孟氏の熱心な求めにより、同氏のコレクションの一つに加えられ、戦後、池永コレクションは神戸市に譲渡され、現在は神戸市市立博物館の所蔵となっています。国の重要文化財です。
・全体の構図の原型は、「フランシスコ・ザビエル伝」(オラチオ・トルセリーノ著)の巻頭を飾る肖像画に由来すると言われています。中央に黒いイエズス会の服をまとったザビエルが描かれ、その両手は十字架の突き出た赤い心臓を抱くように描かれ、その眼は磔刑のキリストを見つめ、光を放つ十字架の下の方にIHS(イエズス会の紋章)が書かれ、頂部には、INRI([Iesus Nazarenus Rex Iudaeorum]ナザレのイエス ユダヤ人の王)と書かれた罪状標が付けられている。
・天上に3人の天使が描かれ、十字架上のキリストを見守っている。ザビエルの口から出ている言葉「SATISサチス ESTエスト DNEドミネ SATIS EST」(ラテン語)(十分なり、主よ十分なり、満ち足れり主よ満ち足れり)が記されている。下部には、S.P.FRACISCUS XAVERIVSSOCIETATISV (聖父イエズス会士フランシスコ・ザビエル)と記されている。ザビエルの名にはS(Sanctus 聖の略)が冠してある。さらにこの下には、「賛語」が万葉仮名で、「瑳夫 羅怒 青周 呼山 別論 悶瑳 可羅 綿都(聖フランシスコ・サべリオ サクラメント)」と書かれている。作者をあらわす落款には、「漁父環人」と記されている。このザビエルの画像は、ザビエルの列聖がイエズス会総会長から日本の管区長に伝えられ、その特別権限委任により、日本で賛語とともに描くことを許可された記念の絵画と思われる。従って、1623年以降の作品と考えられる(茨木市資料)(ザビエルの列聖式は1622年行われたが、大勅書の発布が遅れ、日本に知らされたのは、1623年であった)
・1625年、イエズス会のポロ(ポルロ)神父が、ザビエルの聖画を持って中国地方を巡回し、信徒を励まし、信徒は感激しています。恐らくこれと同じようなことが千提寺・下音羽でも行われていたのではないだろうか。
・ザビエルの名にはS(Sanctus 聖の略)が冠してあり、ザビエルの頭部の周りには、光輪が描かれ、十字架とイエズス会の紋章(IHSの中央に十字架が描かれ、その文字の周りの光とで、紋章を表現していると考えます)が光り輝いていることなどから、この絵は列聖されたザビエルの霊性とイエズス会の霊性を讃えるものであり、元和の大殉教という迫害が起こり、厳しい状況が続くなか、イエズス会士が信徒を激励するためのものであったことはほぼ間違いないと思います。
・そして、私がこの絵画から、霊的なものを感じることは、二つあります。一つは、イエズス会の「アニマ・クリスティ(キリストの魂)」の祈り、もう一つは、イエズス会の「霊操」、その中の「愛を得るための観想」です。愛を得るための観想に「SATIS EST DNE SATIS EST」が書かれています。
・恐らく、西洋画の技法を習得し、イエズス会の霊性を理解している日本人修道士が描いたのではないだろうか。 】(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p9)

救世主像.jpg

「救世主像」(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p11)

【 (救世主像)

油彩・銅板 23.0×17.0 1597年 東京大学総合図書館蔵 茨木市千提寺のの中谷家から発見された。裏に「Sacam Iacobus」の署名がある イエズス会士イルマンのニワ(丹羽)・ヤコブの作と推定されている。(ヤコブはコレジオで学び画家として名簿に記載)
左手に持っている十字架の付いた球体は、世界(地球)を象徴し、右手でその球体に祝福を与えている「救世主」としてのキリストを描いた作品。
画面下に「1597」と読める文字が記されており、これは制作年を示すと推測されている。
このような図像のキリスト像はヨーロッパのみならず、16世紀後半以降の日本でも典型的な礼拝用聖画として多く輸入・制作されました。もともとの原図となった外国の銅板画がある。
発見当時は、壁に掛けられるようになった観音開きの桐の黒塗りの厨子に納められていた。神戸の博物館で実物を見ました。小さいものですが大変神々しいものです。この図柄は日本で大変好まれたそうです。細川ガラシャや右近が祈りに潜心する時に用いたかもしれい。 】(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p11)

聖母子・長崎奉行所.jpg

「聖母子像」(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p57)

【 (聖母子像)

厨子入 銅板油彩 32.5×23.6 16世紀後半~17世紀前半 中谷(源之助)家 (千提寺) 発見者 奥野慶治(1922年)
観音開きの扉のついた厨子の中に、幼いイエスを抱いたマリアの半身像が油絵具で銅板に描かれ、収められている。マリアは柔和な表情でイエスをやさしく抱いており、イエスもレース様の袖をとおして、その小さな手でマリアの首を抱いている。マリアの黒く長い髪や長い袖模様の着物に和様化が見られる。 】(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p57)

キリスト磔刑像.jpg

「キリスト磔刑像」(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p57)

【 (キリスト磔刑像)

厨子入 象牙製 像高13.3(12.7)総高37.2 両腕の幅13 16世紀~17世紀
大神(十次郎)家(下音羽) 発見者 奥野慶治(1922年、1923年)
黒檀製の十字架に象牙製のキリスト像が付けてある。十字架の台はゴルゴダの山を思わせる半円形の黒檀製(高さ6.6、幅11.9、厚さ5.8、半円形)のもので、小さな洞窟がかたどられて、中に象牙製の頭蓋骨と肢骨2本が収められている。キリスト像は喉元や手首、足首に血痕が表されており、凄槍な感に満ちている。均整のとれた写実的で優秀な作品。
両腕と体躯は継目で結びつけられている。十字架の上にはINRI(ナザレのイエス、ユダヤの王)を刻んだ罪状札が付けてある。厨子(高さ38.6、幅18.2、奥行外7、内6)は何の装飾もほどこされていない黒漆塗で、観音開きにした扉には銀の金具が取り付けられている。納屋のニ階のあけずの櫃に、天使讃仰図とともにおさめられていた。
 本像は戦前、重要美術品に認定されていた。現在は大阪府指定有形文化財。 】(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p57)

(追記)「発見されたキリシタン遺物と高山右近との関係」(その二)

【1.千提寺・下音羽の地区における布教の開始

  (あらまし)
 宣教師の布教の記録には、熱心に信仰が守っれている地域として「高槻の山間部」という言葉が度々登場しています。この「高槻の山間部」といった地域は、千提寺・下音羽地区だけではなく、高山右近の故郷高山、能勢等を含む広範囲なものであったと思われます。この「高槻の山間部」で布教がまず先行したのは、右近の故郷高山とその周辺でした。1563年頃から高山の布教は行われ、右近の父ダリオの親族を中心に多くの人がキリシタンに改宗しました。その後、右近が信長や秀吉から論考恩賞として忍頂寺五箇荘と能勢を領地として拝領し、忍頂寺五箇荘や能勢で、1582年頃から集中的にキリシタンの布教が行われ、多くの人が受洗したことが宣教師の記録に記されています。高槻の教会の主任神父や修道士や右近の父ダリオ等の努力によって、多くの僧侶までも改宗し、寺院が教会に転用され畿内で立派な教会の一つになったことなどが記されています。この農民を主体とする大きな信仰共同体は、宣教師がもうこれ以上教えることがないというほど熱心な共同体になり、秀吉や家康の禁教政策のなかでも維持されていきました。その証しが今、私達が目にしている千提寺・下音羽で発見されたキリシタン遺物なのです。その遺物の背景にある信仰のあゆみの詳細をこれから紹介します。

(1) 1579年忍頂寺五箇荘(千提寺・下音羽が含まれる)が高山右近の領地となる

・1578年荒木村重謀反後、その論功で、1579年頃、右近は忍頂寺五箇荘を信長から
拝領する。(イエズス会年報他)
(忍頂寺五箇荘とは)
・忍頂寺は平安時代初期建立の真言宗の大伽藍で、その周辺に集落が形成された。後に忍頂寺は京都御室の仁和寺の末寺となる。
・14世紀以来、京都御室の仁和寺領の荘園が成立し、「忍頂寺五ケ村」あるいは「忍頂寺五ケ庄」と呼ばれた。(五ケ庄:忍頂寺、音羽、銭原、泉原、佐保)この中に千提寺、下音羽も入っている。
・千提寺はこの荘園村落を母体とした後発の村の一つで、キリシタン信仰を軸として下音羽と結合していったと思われる。
・高山家の出身地高山荘とも近い位置関係にある。
・当初、各寺院には信長の安堵状があり、本格的な布教は控えられていたかもしれない。       とはいえ、全く布教が行われなかったとは思えない。フロイスの記録では、山間部では 既に20か所で礼拝所ができていたとの記述があるから。
  
(2) 1581年、巡察師ヴァリニャーノが畿内視察のため高槻に来た時、山間部を視察

・高槻で盛大な復活祭が行われる。(周辺から15000人~20000人が集まる)
・高山右近の領内の信徒は既に18000人(領民の約70%)おり、20か所に礼拝所や小聖堂が設けられていた・・本年の受洗者は2500人を超え・・受洗が絶えない。
・巡察師は視察を終える前、聖体の大祝日の日に、再び高槻を訪れ、荘厳なミサ、行列を行った。高槻での司祭の常駐を願い、これが受け入れられた。それから、巡察師を連れて山間部の知行地を廻った。・・・巡察師が数日間かけて巡ったのは・・高山領と忍頂寺五箇庄であった。そして、この山間部では、既に20か所で礼拝所ができていた。

(3) 1582年忍頂寺五箇荘、能勢での本格的な布教の開始

・1582年の本能寺の変以後、その論功で、能勢3000石を秀吉から拝領し、本格的な布教が始まった。(江州で1000石、全部で4000石)(イエズス会年報)

① 能勢の布教

・フロイスは1582年の項で、信長が・・右近に・・能勢という・・・知行地を与えたので、右近の父ダリヨは神父(高槻主任神父フォルナレティ イタリア人)修道士ヴィセンテと一緒にかの地へ出かけ、・・布教を始めることにした。(ダリオ越前から戻る) そこで2000人以上が受洗した。
・ところが、・・高槻の教会で急な用事がおこり、神父は急いで帰らなければならなくなり・・・      布教を続けることが出来なくなった。(1585年イエズス会年報)
・フォルナレティ神父、セミナリオで多忙極め、布教時間がないので神父を増加するよう報告。
・秀吉が右近に新たに与えた領地に出かけ、約3日間で2065人に洗礼を授けた。        他に1000人余り洗礼を授くべき地が数か所あるが、伝道する人がいない。
・右近の父ダリオは、これらの地に十字架及び聖堂を建てることを命じた。彼らは洗礼を受けるに先立ち、同所に在った寺院を取り壊した。彼らはずっと前から進んで教えを聞き、これを解してキリシタンになりたいと願っていたので、教会の門をくぐるに違いない。

② 忍頂寺五箇庄での布教

・1583年フォルナレティ神父、忍頂寺を根拠地にして、一ヶ月間の集中的な布教を行う。230人の受洗。
(布教の様子)
・・坊主達は、信長の生存中は・・キリシタンになることを望まなかったが、・・右近は人を遣わして、自由に説教を聞き、悟らないものは他の生活の途を求めることを命じたので皆決心して、約100人がキリシタンとなった。その領内にある神仏の殿堂は、不用になったものは焼き、適当なものは教会とした。 その中の忍頂寺という・・有名な寺院は・・・立派な聖堂の一つとなった。 ほぼ同じ時期に能勢でも同じような布教活動が行われた。
(能勢方面の布教は、恐らく1563年布教が行われた高山、余野等の地を根拠地として行われたのであろう) 】(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p14-p15)
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