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「南蛮屏風幻想」(リスボン・ファンタジー)その十七 [南蛮美術]

(その十七)「長崎奉行所キリシタン関係資料などの南蛮美術(キリシタン美術工芸品)」(その四)」周辺

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「マリア観音像(東京国立博物館蔵)」( 明~清時代・17世紀 徳化窯で製作 東博で2011.4.15撮影) 」(「日本の歴史の中の『 聖母像 』- 1(蕨由美稿)」)

【「マリア観音」とは
東京国立博物館には、白磁の観音像が37点収蔵されている。いずれも、幕末と明治初期の長崎浦上のキリシタン大弾圧の際に、信徒から押収したキリシタン遺物で、聖母マリアと幼子イエスとして礼拝していた証拠と、その来歴を示すことから「マリア観音」の名称が与えられる像である。「マリア観音」という名は、キリスト教の聖母子像として礼拝対象の像のみに与えられ、その信仰や来歴が不明の場合は、「慈母観音像」「子安像」「子安観音像」と称すべきと思う。】(「日本の歴史の中の『 聖母像 』- 1(蕨由美稿)」)

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「大浦天主堂キリシタン資料館の展示の『マリア観音』像」(「日本の歴史の中の『 聖母像 』- 1(蕨由美稿)」)

【 鎖国になる頃、福建省から長崎の港に、白磁の慈母観音像がもたらされた。その子を抱く姿に注目したのは、当時の中国での地域文化への適応を推し進めたイエズス会宣教師マテオ・リッチであった。
その白衣は、聖母の純潔を象徴し、幼子はイエスを表すとされ、「東アジア型聖母像」として、当時の潜伏キリシタンの霊的需要を満たしたという。(若桑みどり『聖母像の到来』)
宣教師のいない閉ざされたキリシタン共同体と各家々にも、その像は聖母子像として受け入れられ、祈りの対象とされた。
「迫害の中の7世代250年、キリシタンたちは、このような慈母観音像をマリアさまとして聖母マリアに祈り続けた。それが1865年大浦天主堂における神父との出会いを実現する原動力となったのである。 】(「日本の歴史の中の『 聖母像 』- 1(蕨由美稿)」

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「長野県内の文化財指定の観音像」(「日本の歴史の中の『 聖母像 』- 1(蕨由美稿)」)

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「千葉県内の文化財指定の観音像」(「日本の歴史の中の『 聖母像 』- 1(蕨由美稿)」)

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「白磁マリア観音半跏倚像・銅製蝋燭立」(長野市松代町旧松代藩海野家伝来)
http://bunkazai-nagano.jp/modules/dbsearch/page1125.html
【 真田家の上田以来の上級家臣である旧松代藩士海野家に伝来するものである。同家にマリア観音、蝋燭立(ろうそくたて)に関する記録はないが、海野家代々の言い伝えによると、寛文十二年(1672)、番頭(ばんがしら)役を務めた海野源左衛門の妻が小幡家から嫁したとき持参したものだという。小幡氏がキリシタン信徒だったかどうかははっきりしない。
 マリア観音は白磁(①はくじ)製で総高22.2㎝。古く唐時代から広く信仰された白衣観音で、赤子を胸の前に抱いて半跏(②はんか)し、両わきに二童子を従わせている姿は鬼子母神(きしもじん)と同じである。しかし、仏教では陶製白磁の仏像を造った例はなく、キリシタン教徒が仏像に粉飾してひそかに信仰する方便に用いたものであることは明らかで、この像がマリア観音と称されるのもそのためである。
 蝋燭立は銅製で総高25㎝。太鼓(たいこ)型基台に床机(しょうぎ)型の脚台を設けている。
 上に人が立ち、両手で旗竿を立て持っているが、その服装、旗の形状などはポルトガル風である。
 制作年代、作者は不明だが、両者とも江戸時代初期に宣教師から伝わったものと考えられ、数少ないマリア観音のひとつとして、また付随する蝋燭立も併せて貴重な歴史資料である。】

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「千葉県袖ヶ浦市百目木の子安像塔」(「日本の歴史の中の『 聖母像 』- 1(蕨由美稿)」)

(追記)「サンクタ・マリアとしての白磁製観音像-潜伏キリシタン伝来の『マリア観音』をめぐって(宮川由衣稿)」(西南学院大学博物館 研究紀要 第8号)

【 はじめに

  1614(慶長19)年に徳川幕府による禁教令が出されたのち、1873(明治6 )年にキリシタン禁制の高札が撤去されるまで、およそ250年にわたってキリシタンの迫害と潜伏の時代が続いた。この間、キリシタンたちは表面上仏教徒であるように装い、中国または国内で作られた白磁製などの観音像を「ハンタマルヤ」と呼び、密かにこれを信仰の拠りどころとした。これらの像は一般的に「マリア観音」1と呼ばれている。
 今日、各地の博物館で「キリシタン資料」と称されるものが所蔵されている。これらの資料は、歴史学、古学、美術史学などによる成果に基づく実証性のあるものが原則であるが、確証のない真偽を疑うものも「キリシタン資料」として取り扱われていることがある。マリア観音像の場合も、後世に作られた模造品が多く出回っており、潜伏キリシタンによって
所持、崇敬されたことが確実なものはほとんどないのが現状である。こうしたなか、現在、東京国立博物館で所蔵されている長崎奉行所による没収品は確かなものとして知られている。
 東京国立博物館所蔵のマリア観音像は、1856(安政3 )年に肥前国彼杵郡浦上村(現在の長崎市の一部)で百姓の吉蔵を中心とする潜伏キリシタン15名が一斉検挙された事件、浦上三番崩れ3の際に没収されたものである。浦上三番崩れでは、白磁製の観音像を含む多くの信仰物が長崎奉行所に没収された。長崎奉行所で保管されていたこれらのキリシタン関係遺品は、明治に入ると長崎県から教部省に引き渡され、内務省社寺局を経て帝国博物館(現在の東京国立博物館)に移管された。現在、これらは国指定の重要文化財となっている。これらの没収品の中には白磁製のほかにも陶製、青磁製、土製などの観音像があるが、東京国立博物館のキリシタン関係遺品の目録では、白磁製のもののみが「マリア観音」という名称をもつ4。これらは17世紀に中国・福建省の徳化窯で作られたと考えられている。
 また、「マリア観音」とは一般的に、禁教下にキリシタンたちが表面上仏教徒を装うために信仰し、仏教の観音像に聖母マリアを見立てて拝んだものであると言われてきた。しかし、近年の研究ではこうした従来の見方が見直され、「中国から日本にもたらされた観音像は、聖母マリアとしてキリシタンたちの手に渡っていた可能性がある」という説が新たにに提出されている。
 そこで、本論でははじめに1856(安政3 )年の浦上三番崩れの記録から、この摘発事件の際に「異仏」として没収された東京国立博物館所蔵のマリア観音像の由来を確認する。これらの像は潜伏キリシタンによって「ハンタマルヤ」と呼ばれ、彼らの祈りの生活と共にあった。また、浦上三番崩れの没収品のほかにも、禁教下に没収を免れたマリア観音像が存在することに注目し、その記録を確認する。そして、いわゆる「マリア観音」、すなわち中国から伝来した外見上は観音像である白磁製の像が、どのようにして潜伏キリシタンの手に渡り、「ハンタマルヤ」として崇敬の対象となったのかについて考察したい。

1 . キリシタン摘発事件と異仏没収――東京国立博物館所蔵のマリア観音像

 東京国立博物館の『東京国立博物館図版目録 キリシタン関係遺品篇』には、白磁製マリア観音像37体と白磁製マリア観音像断片2 点、そしてマリア観音像等破片付札3 点が挙げられている。東京国立博物館所蔵のキリシタン関係遺品は、1856(安政3 )年の浦上三番崩れや1867(慶応3 )年の浦上四番崩れで浦上村のキリシタンたちが検挙された際に、長崎奉行所が没収し、保管していたものである。すでに述べたように、これらの没収品のうち白磁像のみが「マリア観音」という名称をもち、その他の陶製、青磁製、土製などの像は「観音菩薩立像」や「観音菩薩坐像」とされ、区別されている。
 田北耕也氏は『昭和時代の潜伏キリシタン』(1954年)において、潜伏キリシタンを「納戸神を中心とする(1)「平戸・生月地方」と、( 2 )「日繰帳を中心とする長崎・黒崎地方と五島地方」の二つに分けている。このうち、マリア観音像は、後者の地方に伝わるものである。片岡弥吉氏は『かくれキリシタン――歴史と民俗』(1967年)の中で、「マリア観音」について、「これらの観音像は多くシナ焼きで、純粋の仏像として日本に渡来したものが、潜伏時代のキリシタンたちに、サンタ・マリアとして祭られたものであった。[……]観音像すなわちマリア観音なのではなく、サンタ・マリアのイメージを求めて禁制時代の潜伏キリシタン、或はこんにちのかくれキリシタンたちが祭っていたという由緒があって始めてマリア観音たり得る」としている。
 ところで、「マリア観音」という呼称は、潜伏キリシタンが用いていた言葉ではなく、後世の研究者たちが呼び表したものである。「マリア観音」という呼称については、キリシタン遺品研究の先覚者である永山時英氏が『切支丹史料集』(1927年)の中で、東京帝室博物館所蔵の像を「マリア観音」と書いたのが最初であろうと言われている7。永山氏は先の『対外史料美術大観』(1918年)においては、「白磁観音」とのみ書いていることから、このあいだに呼称が変化し、これがその後定着したものと考えられている。
 それでは、潜伏キリシタンたちは、外見上は観音像であるこれらの白磁製の像をどのように称していたのであろうか。浦上三番崩れについて、長崎奉行所が作成した記録『異宗一件』には、潜伏キリシタンたちが先祖代々受け継いできた「ハンタマルヤ」と称する白焼の仏を所持し、それを信仰していたと記されている。このうち、当時の浦上村潜伏キリシタンの指導者であった吉蔵の口述には、「先祖共より持伝信仰いたし来候ハンタマルヤと申す白焼仏立像一体」とある(図1 )。また吉蔵は、「アベマルヤ天ニマシマスと申経文相唱」と述べている。
 さらに、「世界の諸物其恩愛を不受して成育いたし候もの無之、右故信心いたし候ものは現世にて田畑作物出来方宜敷、其外諸事仕合能、諸願成就、福徳延命、来世は親妻子兄弟一同パライソ江再生いたし無限歓楽を得候承伝右様恵深き事故一途にハンタマルヤを念し」とある。すなわち、「ハンタマルヤ」の恩愛によって、すべてのものが生成されているのであり、これを信仰する者は現世でも来世でも利益を与えられるという。また、同じく浦上村の龍平も、「先祖共より持伝信仰いたし来候由の白焼ハンタマルヤ座像二体」を所持すると答えている。
 この摘発事件で多くの白磁製の観音像が発見されたが、「切支丹が盛んであった土地がらなので、このような仏が残っているのを先祖が隠しておいたのであろう」という村人の申し立てが認められ、また、絵踏も年々行い、先祖の年忌や弔いなども変わったところはないという理由で、像没収の上、1860(萬延元)年までには皆釈放となった。キリシタンが所持していたこれらの像は、臨済宗春徳寺の僧侶・禎禅と曹洞宗皓台寺の僧侶・廓菴によって鑑定が行われた。その結果、「ハンタマルヤ、イナッショと申唱候仏は観音の像」と判断され、「邪宗仏(キリシタンの仏)」とは認められず、「異仏(異様の品)」として処理された。報告書には、「宗名は異宗と申伝え、本尊はハンタマルヤと申す」とある。現在、東京国立博物館に所蔵されているマリア観音像37体は、この際に没収されたものであり、「安政3 年長崎奉行所に収納」と記録されている。
 また、先に見た浦上村中野郷吉蔵の口述には、「アベマルヤ天ニマシマスと申経文相唱」とあった。これにより、キリシタンのあいだで聖母マリアを讃える天使祝詞が伝えられてきたことがわかる。さらに、彼らはキリストの降誕や受難、そして復活について伝え、指導者である惣頭の日繰りによって、それらの祝日を祝っていたという。1865(慶応元)年に浦上村で最初に発見された「天地始之事」と題される写本には、「マルヤ」についての物語が記されている。
 その内容は、天地創造、人間の堕落に関する旧約聖書と、イエスの誕生、聖母マリアの生涯、そして世界終末と審判にいたる新約聖書をつないだキリスト教の教本である。キリシタンのあいだで書き写されて流布していたというこの写本は、五島や長崎でも発見されている。そして、この中の「さんた丸屋御かん難の事」というくだりでは、「丸や」について次のように記されている。るそん10の国に「丸や」という娘がおり、一生純潔の誓いをたてるが、彼女を見染めたるそんの国の帝王により、妻となることを強制される。王は財宝のかぎりを示すが、「丸や」はこの世の宝は無意味だと言って、これを拒む。そして「丸や」は6 月であるのに雪を降らせ、王のもとから逃れて畑の麦の中に身を隠し、やがて天から迎えの花車があった。その後、地上にもどった「丸や」に受胎告知がある。この「丸や」話には、『黄金伝説』で語られる様々な聖女伝が混在している。
 そして、長い潜伏期を経て、キリシタンたちが再び西欧から日本にもたらされた聖母マリアの像にまみえる日が来た。開国後の1865(元治2 )年、プティジャン神父によって建立された長崎の大浦天主堂の祝別式が行われた一カ月後、浦上村の12名から15名ほどの老幼男女が天主堂を訪れ、一人の女性が神父に尋ねた。「サンタ・マリアの御像はどこ」と。彼女は聖母マリアの像を見て、「ほんとうにサンタ・マリアさまだ。御子ジェス様を抱いていらっしゃる」と言った。今日「信徒発見」として伝わる潜伏キリシタンの存在が顕わになった瞬間である。この出来事について、浦川和三郎氏は『切支丹の復活』(1927年)において、ローカニュ神父の書簡を引用している。そこには、「浦上の信者たちは聖母マリアの聖像を心から尊敬して、善かサンタ・マリア様と呼んでいる」と記されている。
 現在、東京国立博物館に所蔵されている白磁製のマリア観音像は、禁教下にキリシタンたちが「ハンタマルヤ」と呼び、祈りの生活と共に先祖代々受け継いできたものであった。キリシタンが用いた「ハンタマルヤ」という名は、宣教師によって伝えられた「サンタ・マリア(聖母マリア)」の呼称に由来するものである。そして、開国後に再び西欧からもたらされた聖母マリアの像を前にしたキリシタンたちは、これを「善かサンタ・マリア様」と呼び、禁教下に彼らが信仰のために用いた白磁製の観音像と同じ「マルヤ(マリア)」の名で尊んだ。
 マリア観音を「異仏」として没収された浦上村のほかにも、「マルヤ」と呼ばれる白磁製の観音像が伝わる地域があり、それぞれの呼称が伝わっている。たとえば、筑後今村地方(現在の福岡県三井郡大刀洗町)のキリシタンは、マリア観音を「マルヤ仏」と称し、取り調べ記録には漢字で「丸野仏」と記されている。そこで次節では、浦上三番崩れの際に「異仏」
として没収され、現在東京国立博物館に所蔵されているマリア観音像のほかにも「マルヤ」として伝わる白磁製の観音像が存在することに注目し、禁教下に没収を免れたマリア観音像についての記録を確認したい。

2 . 禁教下に没収を免れたマリア観音像
3 . 白磁製観音像の製造と伝播
4 . ブラン・ド・シーヌの観音像――聖母マリアと観音のあわいで――
おわりに    】(「サンクタ・マリアとしての白磁製観音像-潜伏キリシタン伝来の『マリア観音』をめぐって(宮川由衣稿)」(抜粋)

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