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「南蛮屏風幻想」(リスボン・ファンタジー)その十八 [南蛮美術]

(その十八)「高山右近旧領土・長崎奉行所キリシタン関係資料などの南蛮美術(キリシタン美術工芸品)」(その一)」周辺

雪のサンタマリアと救世主像.jpg

「日本のイエズス会画派と東アジア:マカオの《聖体顕示台を持つ大天使ミカエル》とマニラの《ロザリオの聖母》(児嶋由枝稿)」所収「図1《救世主像》図2≪雪のサンタマリア≫」

図1≪救世主像≫(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p11)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-04-26

【油彩・銅板 23.0×17.0 1597年 東京大学総合図書館蔵 茨木市千提寺のの中谷家から発見された。裏に「Sacam Iacobus」の署名がある イエズス会士イルマンのニワ(丹羽)・ヤコブの作と推定されている。(ヤコブはコレジオで学び画家として名簿に記載)】

図2≪雪のサンタマリア≫(日本二十六聖人記念館蔵)

【「雪のサンタマリア」(日本二十六聖人記念館蔵 大きさは縦約28cm 、横約 22cm )
和紙に聖母マリアが描かれ掛け軸に表装されて、長崎の外海の潜伏キリシタンの家に伝えられてきました。この絵が世に知られるようになったのは1973 年。「雪のサンタマリア」という画があると伝え聞いていた地元の歴史民俗資料館の田中用次郎氏が、持ち主の農家を説得し、結城了悟師、片岡弥吉氏ともに竹筒に入れて床下に隠されていたこの聖画を発見されたとのことです。マリアの顔と胸元に合わせた手は鮮明に残っていますが、赤い衣と青いマントのほとんどは、紺地の補修紙に覆われてしまっています。 髪が腰まで流れ、頭上には冠を頂いているのが特徴です。この絵は「西洋的なマリア絵を日本の色彩と技法によって描かれている珍しい作品」と評価されました。】

聖母子・長崎奉行所.jpg

図5≪聖母子像≫「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p57)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-04-26
【 (聖母子像)
厨子入 銅板油彩 32.5×23.6 16世紀後半~17世紀前半 中谷(源之助)家 (千提寺) 発見者 奥野慶治(1922年)
観音開きの扉のついた厨子の中に、幼いイエスを抱いたマリアの半身像が油絵具で銅板に描かれ、収められている。マリアは柔和な表情でイエスをやさしく抱いており、イエスもレース様の袖をとおして、その小さな手でマリアの首を抱いている。マリアの黒く長い髪や長い袖模様の着物に和様化が見られる。 】(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p57)

(特記事項)

一 図1≪救世主像≫と図5≪聖母子像≫との旧蔵者は、高山右近の旧領土の「高槻山間部」(大阪府茨木市千提寺)の「中谷(源之助)家」のもので、この二枚の絵図の作者は同一の作者(「ニワ(丹羽)ヤコブ、ヤコブ丹羽、丹羽ジャコベ、漢名=倪(ゲイ)雅各・一誠」)なのかも知れない。

二 また、図1≪救世主像≫と図2≪雪のサンタマリア≫とは、「日本のイエズス会画派と東アジア:マカオの《聖体顕示台を持つ大天使ミカエル》とマニラの《ロザリオの聖母》(児嶋由枝稿)」によると、イタリア人修道士「ジョバンニ・ニコラオ(コーラ)」が学んだ「16世紀後半ナポリで活躍していた画家ジョヴァンニ・ベルナルド・ラーマの工房」の「様式と装飾表現」を踏まえており、同一系統の作品と解しており、この図2≪雪のサンタマリア≫も、「ニワ(丹羽)・ヤコブ」、または、その関連の作品と解しても、その「ジョヴァンニ・ベルナルド・ラーマの工房」との関連では差し支えないのかも知れない。

三 「丹羽ジャコベ」(「ウィキペディア」)
【丹羽ジャコベまたはヤコブ丹羽(Jacob NIWA、 天正7年(1579年)― 崇禎11年9月19日(1638年10月26日)は、安土桃山時代から江戸時代前期(明代)のキリシタン画家。漢名は倪雅各。
 天正7年(1579年)、中国人の父、日本人の母のあいだに生まれる。肥前国有馬(現在の長崎県南島原市(旧北有馬町))のセミナリヨに入り、そこで天正11年(1583年)に来日したイタリア人修道士ジョバンニ・ニコラオ[1]に洋画(南蛮画)の技法を学んだ。
 慶長6年(1601年)、カトリック教会における明の布教長であったマテオ・リッチの要請をうけた日本巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノの指示によって、聖像を描くため明のマカオに派遣された。マカオでは、聖パウロ協会の被昇天の聖母像を描いている。翌万暦30年(1602年)には、北京に赴いて聖母子像を描き、その作品は万暦帝に献上された。万暦34年(1606年)には、マテオ・リッチのもとでイエズス会に入会している。
 万暦38年(1610年)、南昌にある2つの聖堂のキリスト画とマリア画を描き、翌万暦39年(1611年)には再び北京に赴いて使徒や天使らに囲まれた救世主図を描いている。
 その後も明に滞在し、崇禎11年(1638年)にマカオにて60歳で死去した。 】

婦女弾琴図と男女逍遥図.jpg

「日本のイエズス会画派と東アジア:マカオの《聖体顕示台を持つ大天使ミカエル》とマニラの《ロザリオの聖母》(児嶋由枝稿)」所収「《婦女弾琴図》《男女逍遥図》」

図3≪婦女弾琴図≫
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-04-15
【「婦女弾琴図」(伝信方筆・一幅・大和文華館蔵)縦55.5 横37.3 → E図
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/43/fbb20be2bd40a863ef34d4dbf1532281.jpg
≪謎の画家「信方(のぶかた)」による初期洋風画の佳品
 手元に視線を落としながらヴィエラ・ダ・マノを弾く女性を描く。色の明暗とハイライトによって巧みに表現された緋色の衣のドレープも美しい。その姿は、小さくふっくらした唇や筋の通った鼻梁など顔貌的な特徴もふくめて「洋人奏楽図屏風」(A-1・2図)の女性像と似通う。そればかりか制昨年、制作地も隔たった「キリスト教説話図屏風」(下記・F図)にも、類型から派生したと思われる人物像が見出せる点は興味深い。本図左下にはヨーロッパの紋章に似た印章が押されている。それは信方と呼ばれる画家が用いたので、初期洋風画の作品のなかで筆者を知る手がかりのある作品として極めて希少である。信方は「日蓮上人像」(兵庫・青蓮寺)などの仏教的主題も描いており、セミナリヨで学びながら後に棄教した人物とする説もある。(鷲頭桂稿)≫(『大航海時代の日本美術 Japanese art in the age of discoveries(九州国立博物館編)』) 】

図4≪男女逍遥図≫
https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/530800
【男女逍遥図 筆者不詳 安土桃山時代・16世紀 絹本着色 62.1×40.9 1幅
16世紀の半ば、ヨーロッパとの交流から日本人は初めて西洋の油彩画や銅版画に出会った。本作は、西洋の田園風景を背景に、恋人同士かと思われる男女を描く。西洋人修道士を通じて遠近法や陰影法などを学んだ人物が、日本の伝統的な画材を用いて描いている。】

弾琴図・長崎歴史文化博物館蔵.jpg

図6≪弾琴図≫(長崎歴史文化博物館蔵) 紙本着彩 80.0 ✕38.5 cm  
https://seikonagata.com/2019/01/03/lute-player-nagasaki-rekihaku/blog
【(制作年代について) 
 日本においては天正・文禄・慶長年間に栄え、教義を伝えるためや礼拝の対象とするための版画・絵画制作が、1583年に来日したジョヴァンニ・ニコラオらの指導で、イエズス会のセミナリオ(中等学校)の画家たちにより行われていました。
 1582年より開設されたセミナリオは、豊臣秀吉の禁教により島原半島八良尾、天草下島志岐、島原半島有馬などを転々とし、慶長4年(1599)には長崎に開設されました。その活動は、慶長19年(1614) 、徳川幕府によるキリシタン大追放によってマカオに移るまで続きました。
 本作品は、こうした歴史的背景を考慮し、さらに作品の様式比較を行った結果、セミナリオにおける末期の制作と考えられることから、製作年代を慶長年間(1596-1614)と推定いたしております。
(作品の来歴について)
本作品は、故・内田六郎氏(浜松市)旧蔵。なお内田氏所蔵以前の来歴は不明。セミナリオの画家による西洋の風俗を描いた洋風画は、大名への献上品であったと考えられており、本作品もまた、そのような性格のものであったと推測されます。】

信方・二作.jpg

図7≪師父二童子図・西洋二武人図≫(神戸市立博物館蔵)
信方?款 江戸時代/17世紀前半 紙本著色 各114.6×53.4 2面 款記「信方」(?)・朱文方形紋章印
来歴:神田乃武男爵→池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/401301
【 両図とも信方?と読める落款とヨーロッパ紋章風の印章が対称的な位置にあることから、対に描かれた作品と考えられます。これと同様の印が捺される同種の作品としては、「日教上人像」(青蓮寺)「達磨図」(養竹院)「婦女弾琴図」(大和文華館)などが挙げられます。  
 この信方という画家については、文献中にも名前が見あたりません。ただ仏教的主題も描いていることから、キリスト教徒として西洋画を学びながら、後に棄教した人物であるとも考えられます。
 本図は、他の初期洋風画と同様、16世紀末葉のヨーロッパ美術の潮流であったマニエリスム様式の反映がみられ、類型化の進んだ柔和な顔立ちや、微妙なS字型にくねらせたポーズが優美な雰囲気を漂わせています。しかし本図も含めて信方筆とされる作品は、背景を無地にするなど、東洋的な構成法をとっています。これは、他の初期洋風画には見られない特徴で、この画家の素性や禁教令以降という作画時期を考えるうえで重要な問題を含んでいます。】(「文化遺産オンライン」)

(特記事項)

一 図3≪婦女弾琴図≫と図4≪男女逍遥図≫も、図1≪救世主像≫と図2≪雪のサンタマリア≫と同じく、「日本のイエズス会画派と東アジア:マカオの《聖体顕示台を持つ大天使ミカエル》とマニラの《ロザリオの聖母》(児嶋由枝稿)」によると、イタリア人修道士「ジョバンニ・ニコラオ(コーラ)」が学んだ「16世紀後半ナポリで活躍していた画家ジョヴァンニ・ベルナルド・ラーマの工房」の「様式と装飾表現」を踏まえており、同一系統の作品と解している。

二 しかし、図1≪救世主像≫と図2≪雪のサンタマリア≫と、図3≪婦女弾琴図≫と図4≪男女逍遥図≫とでは、その受ける印象が全く別世界のものという印象を強くする。
それは、前者が、当時のキリシタン信仰の中心に位置する「救世主」や「聖母マリア」の、いわゆる、「聖画」(キリスト教で宗教上の事跡、伝説、人物などを題材とした絵画。宗教画。神聖な感じを受ける絵画)の世界(「宗教画)なのに対して、後者は、その「宗教画」などを取り巻く、当時の「南蛮風俗・西洋風俗」(「日本に渡来したヨーロッパ人の絵、およびその手法を模倣した絵。また、西洋風俗を描いた絵」など)を描いた世界(「風俗画」)との相違に因るもので、そのことと、これらの絵師(前者の「絵師」と後者の「絵師」)が、先の≪イタリア人修道士「ジョバンニ・ニコラオ(コーラ)」が学んだ「16世紀後半ナポリで活躍していた画家ジョヴァンニ・ベルナルド・ラーマの工房」の「様式と装飾表現」を踏まえており、同一系統の作品と解している≫こととは、そこに、何らの齟齬はない。

三 図3≪婦女弾琴図≫と図7≪師父二童子図・西洋二武人図≫とは、共に、「信方?と読める落款とヨーロッパ紋章風の印章」とを有しており、この作者が、、「キリスト教の洗礼を受けセミナリオ等で洋画を学びながら、後に棄教した人物」の「信方」という絵師に因るものというのは、その「洗礼を受けセミナリオ等で洋画を学びながら、後に棄教した人物」などの、その由来などは別に、「信方」作という見方は、定説に近いものと解しても差し支えなかろう。

四 さらに、この図7≪師父二童子図・西洋二武人図≫は、≪両図とも信方?と読める落款とヨーロッパ紋章風の印章が対称的な位置にあることから、対に描かれた作品≫ということで、図3≪婦女弾琴図≫の「縦55.5×横37.3」の「小品の作品」に対して、図7≪師父二童子図・西洋二武人図≫は「各縦114.6×横53.4」と「対の比較的大作の作品」で、これは、さらに「六曲一隻(六面形式)・双曲(十二面形式)」の「屏風形式の大作作品」の一部とも考えられる。

五 また、図3≪婦女弾琴図≫の系統と深い関連のあると思われる図6≪弾琴図≫(無落款)
の他に、この種の「弾琴図」は他に何点か遺されており、それらは、何よりも、この種の「弾琴図」は、下記のアドレスで紹介した「洋人奏楽図屏風」(永青文庫蔵・MOA美術館蔵)と深い関わりがあるものと思われる。
 そして、それらは、≪「細川藤孝(幽斎)→忠興(三斎)=玉子(ガラシャ)・興元・幸隆・加賀( 木下延俊正室)」などに連なる「肥後細川家」伝来の「永青文庫」所蔵≫など、当時のキリシタン大名とか有力大名への「献上品」として珍重されたものという背景などが横たわっているように解せられる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-04-15

六 「信方」(「ウィキペディア」)
【信方(のぶかた、生没年未詳)は、安土桃山時代から江戸時代頃に活躍した初期洋風画の画家。
 16世紀ヨーロッパのマニエリスムの影響を受けたテンペラ画を描く。同時代の文献中に名前が見られず経歴の詳細は未詳である。慶長年間(1596年-1615年)頃を中心に活躍し、「獅子と鷲」の印章と「信方(または、信水、信芳)」の落款の作品が残る。日蓮宗の僧日教の像等仏教を主題をした絵も描いていることから、キリスト教の洗礼を受けセミナリオ等で洋画を学びながら、後に棄教した人物であると考える研究者もいる。 】

 これらの「イエズス会」の「キリスト教の洗礼を受けセミナリオ等で洋画を学んだ」とされる「丹羽ジャコベ」(礼拝用の「宗教画」を主軸とする)と「信方」(鑑賞用の「風俗画」の主軸とする)の他に、もう一人、やや、この二人よりも時代を後にするのかも知れないが、この二人と比肩する絵師として、下記の「聖フランシスコ・ザビエル像(神戸市立博物館蔵)」を描いた、「瑳聞落怒青周呼山別論廖瑳可羅綿都 漁父環人」という万葉仮名を筆録している、この「漁夫環人」(「聖フランシスコ・ザビエルのサクラメント(秘跡)」を与えた「漁夫=ペドロ・教皇グレゴリウス15世」と、その背後に潜ませている「漁夫=ペドロ・狩野源助=狩野道味?」)をも、ここに、どうしても再掲をして置きたい。

フラシスコザビエル像.jpg

「重要文化財 聖フランシスコ・ザビエル像」神戸市立博物館蔵(池長孟コレクション)
「S.P.FRÃCISCUS XAVERIUS SOCIETATISV」 墨筆にて「瑳聞落怒青周呼山別論廖瑳可羅綿都 漁父環人」 朱文長方関防印「IHS」 朱文壺印(印文未詳) 
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/detail?heritage=365020
【 イエズス会の創立会員であり、アジアでの宣教活動、とりわけ日本に初めてキリスト教を伝えたことで知られる聖フランシスコ・ザビエル(1506〜1552)を描いた礼拝画。ザビエルはローマ教皇の特使として1542年にインドのゴアに到着、南アジア各地で宣教活動を展開した後、天文18年(1549)に鹿児島に到達しました。日本での宣教活動のあと、いったんインドのゴアに戻り、中国での宣教を目指して広東沖の上川島に至りますが、病を得て1552年の12月に亡くなりました。
 ザビエルによるアジアでの宣教活動がヨーロッパで広く知れ渡るようになるのは、16世紀末のオラツィオ・トルセリーノによる『ザビエル伝』ラテン語版刊行と、その欧州多言語翻訳によるもので、これらに掲載された銅版画の肖像画が、最初期のザビエル像の典型として流布しました。当館の「聖フランシスコ・ザビエル像」もその系列に連なるものです。
 トルセリーノ『ザビエル伝』は、インドのゴアで目撃されたあるエピソードを紹介しています。ザビエルは早朝に教会の庭で祈っている際に、瞑想の中で神の愛に触れて意識を完全に失いました。その後、彼が我に返ると、熱く腫れ上がった胸から上着を開いて、何度も次の言葉を、かなり強い口調で繰り返したとのことです。「充分です、主よ、充分です(Satis est Domine, Satis est.)」と。
 祈りの際に神の愛に触れて叫んだ「充分です、主よ、充分です」という言葉は、『ザビエル伝』の流布によって、ザビエルを象徴するフレーズとして定着しました。当館のザビエル像でも「充分です、主よ、充分です(SATIS EST DÑE SATIS EST (DÑEはDomineの略語)の言葉が見られます。
 当館のザビエル像では、「燃える心臓」と「十字架」という、『ザビエル伝』所載の肖像画には見られないモチーフが見られます。前者については、『ザビエル伝』が伝える、祈りの後に彼の胸が腫れ上がったという話、後者についてはイエズス会などカトリック信徒が重視した、祈りにおける十字架の観想を視覚化したものと考えられます。本像を描いた日本人絵師とその周辺にいた西洋人宣教師が独自に追加した表象だった可能性もあります。
 下部には「聖フランシスコ・ザビエル イエズス会会員」のラテン文を記し、その下の黄色地には「瑳聞落怒青周呼山別論廖瑳可羅綿都 漁父環人」という万葉仮名に「IHS」の朱印と壺印が捺されています。万葉仮名文の意味は「聖フランシスコ・ザビエルのサクラメント(秘跡)」。「漁父環人」についてはローマ教皇とする説もあります。
 フランシスコ・ザビエルは1622年に、教皇グレゴリウス15世によって聖人に列せられます。このときの『列聖大勅書』によって、既述の「充分です、主よ、充分です」をめぐる逸話は権威づけられ、1620年代の禁教下の日本においても、ザビエル像制作の機運が高まりました。本像もこのような中で密かに描かれ伝えられてきたものでしょう。
 本像は、高山右近の旧領、千提寺(せんだいじ・現茨木市)の東家に「マリア十五玄義図」などととも密かに伝来し、大正9年(1920)に発見されました。禁教で破却された数多くの聖画のうち、現代まで伝世した数少ない江戸初期の洋風画としてきわめて貴重です。】(「神戸市立博物館」解説)

「狩野派・略系図(正信から探幽まで)」(「ウィキペディア」)

狩野派系図(全).jpg

(上記図のメモ)

狩野正信(1434-1530)→狩野派初代、室町幕府の御用絵師、長男は元信。
同元信(1477?-1559)→狩野派二代、「古法眼」と称せられ、狩野派画風の大成者。
同祐雪(?-1545)→狩野派三代、元信の長男・祐雪宗信(早世で四代は元信三男の「松栄」)。
同松栄(1519-1592)→狩野派四代、元信の三男、門人に「内膳」「宗心」など。
↓→※狩野内膳(1570-1616)→「松栄」門人、「内膳・一翁」は号、名は重郷。
同永徳(1543-1590)→狩野派五代→「狩野派」を不動にした「探幽」と並ぶ二大絵師。
↓→※※狩野山楽(1559-1635)→「永徳」養子、「京狩野派」の初代、「豊臣家絵師」の雄。
同光信(1565-1608)→狩野派六代→『永徳様式』から次の『探幽様式』へ橋渡し役に徹する。
↓→※※※狩野道味(?-?)→「天正年間(1573-92)に千利休に茶事を学び,京都で茶器を焼いたキリシタン絵師の一人か?」

同貞信(1597-1623)→狩野派七代(二十七歳で夭逝、八代は「孝信三男の「安信」)。
同孝信(1571-1618)→光信の弟、息子=「探幽・尚信・安信=狩野派宗家八代」

同探幽(1602-1674)→鍛冶橋狩野家初代=江戸狩野派奥絵師、「江戸狩野派」の総帥。
同尚信(1607-1650)→木挽町狩野家初代=江戸狩野派奥絵師。
↓→狩野岑信(1662- 1709)→浜町狩野家初代=江戸狩野派奥絵師。
同安信(1613-1685)→中橋狩野家初代(狩野派宗家八代)=江戸狩野派奥絵師。
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