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「南蛮屏風幻想」(リスボン・ファンタジー)その十九 [南蛮美術]

(その十九)「高山右近旧領土・長崎奉行所キリシタン関係資料などの南蛮美術(キリシタン美術工芸品)」(その二)」周辺

天草四郎陣中旗.jpg
 
「聖体秘跡図指物(天草四郎時貞関係資料のうち)」 熊本・天草市立天草キリシタン館蔵
重要文化財 一旗 江戸時代 寛永十四年(1637)頃 108.5×108.6㎝
【「天草四郎陣中旗」と呼ばれ、島原の乱の折に反乱軍が立てこもる原城に掲げられていたと伝わる。卍字崩しに菊の花の地模様を織りなした中国製とみられる絹の綸子に、聖杯と十字架のしるしをもつ聖餅、それを左右から礼拝する天使が描かれる。上部には「マリア十五玄義図」と同じ「いとも尊き秘跡を讃えられよ」の欧文が記されており、本来は宗教的な儀礼に用いるためのものだったと思われる。天使の顔に顕著のように、頬の丸みや立体感を銅版画のような線で表わす。筆者にキリシタン画家の山田右衛門作の名があげられるが定かではない。(鷲頭桂稿) 】(『大航海時代の日本美術 Japanese art in the age of discoveries(九州国立博物館編)』)

https://www.city.amakusa.kumamoto.jp/kiji0031396/index.html

【綸子地著色聖体秘蹟図指物(りんずじちゃくしょくせいたいひせきずさしもの)(天草四郎陣中旗)
 通称「天草四郎陣中旗」は、寛永14(1637)年に起きた天草島原の乱において、
3万7千人ものキリシタン宗徒を率い、12万の幕府軍と戦った天草四郎が使用した
軍旗と伝えられています。
 縦横108.6cmの菊花文織白綸子製(きくかもんおりしろりんずせい)の指物で、中央に大聖杯、その上に聖体聖餅(せいたいせいへい)、左右に合掌している天使が描かれ、点々と残る血痕や矢弾の跡に一揆の激しさがうかがえます。我が国の初期洋画家である山田右衛門作(やまだえもさく)が原城内で描いたもの、あるいは禁教令以前のセミナリオで聖旗として描いたものとも言われ、日本におけるキリシタン史上、また洋画史上最も貴重な資料として重視されています。
■指定区分:国指定
■指定種別:歴史資料
■指定日:昭和39年1月11日
■地域:本渡
■所在地:船之尾町19-52 天草市立天草キリシタン館 】(天草市・観光文化部・文化課)

http://hdl.handle.net/2241/00125747

「陣中旗の神学 : 真理と十字架」(筑波大学地域研究: 秋山学稿)

【Ⅰ.キリシタン史概要 (抜粋)

 本文の主題に掲げた「陣中旗」が、この「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」に含まれるのかどうか、2014年9月下旬の段階ではまだ確認できていないが、言うまでもなく両者は大いに関連している。「陣中旗」は、正式には「綸子地著色聖体秘蹟図指物」という名を持ち、通称の「天草四郎陣中旗」の名で知られる(図1)1。江戸時代のキリシタン農民一揆として著名な「島原の乱」(1637-1638)において一揆軍が使用し、原城に掲げられていたものである。鎮圧軍の先頭を切った佐賀の鍋島氏が戦功の証しとして代々所蔵していたが、現在では国の重要文化財に指定され、熊本県天草市の天草切支丹館が所蔵している。  
 日本国内では、この旗はもっぱら「島原の乱の生き証人」としての位置づけを得ており、国の文化財に指定されているのもその経緯による。けれども、その正式名称からも明らかなように、この旗は元来、16世紀後半から17世紀前半にかけてのキリシタン時代において、次第に圧力を増すキリシタン弾圧に抗する意味で積極的に設立された「組」、すなわちヨーロッパのカトリック教会における「信心会」あるいは「兄弟会」のうち、長崎ないし島原半島の有馬に設けられた「聖体の組」の徴として用いられていたものである。この旗が「島原の乱」の一揆軍軍旗として用いられていたということからも明らかなように、この乱の意味づけ・位置づけが歴史学・文化史学的にいかなるものとなろうとも、乱がキリシタンによる一揆であったことは動かしがたい。

2.「陣中旗」について(抜粋)

 この「陣中旗」は、現在でもなお、島原市にあるカトリック島原教会の聖堂内にそのレプリカが掲げられていて、聖体行列が行われる教会暦上の祝祭日には、その行列の先頭を導きもする。この旗の大きさは、一辺108センチメートルの正方形であり、その中央には葡萄酒に満ちた聖杯と、ラテン十字形を刻んだ聖体(ホスチア)が大きく描かれている。またその聖体と聖杯を、下方左右から一対・有翼の天使が仰ぎ見る姿勢で崇敬している。
 この旗の上部にはポルトガル語で “Louvado seja O Sanctissimo sacramento!”、すなわち「いとも聖なる秘跡は讃美されんことを」と記されている。ここで「秘跡」と呼ばれているのは、教会における7つの秘跡のうち最大のものすなわち「聖体の秘跡」のことである。この旗は元来、長崎あるいは有馬(島原半島南島原市)に組織された「聖体の組」と呼ばれるものの徴であり、それがキリシタン禁教令(1614)に伴い、秘蔵されたのちに島原の乱(1637-1638)における一揆軍の軍旗として用いられることになったものである。
 この陣中旗の図柄を描いたのは、伝承によれば山田右衛門作とされているが、定かではない。製作年代は、「聖体の組」が組織されたのが豊臣秀吉による「伴天連追放令」(1587)であるとすれば、1590年代ということになるであろうか。右衛門作は、当時セミナリウムに併設されていた聖画美術学校で画術を学んだとされる。この画術学校で画法を教授していた人物の名が明らかになっており、それはジョヴァンニ・ニコラオ・ダ・ノーラである。このニコラオとは、1560年にナポリ近郊のノーラに生まれ、長じてイエズス会に入会した修道士であり、彼は1583年に来日している。彼は「ニコラオ派」と呼ばれるような画風を伝えたとされ、「陣中旗」も、このニコラオ派の代表的な作品の一つと考えられている。ちなみにニコラオは当時イタリアにおいて隆盛を極めていたマニエリスム派の影響を強く受けたとされる(五野井 2012:198 -211)。
 右衛門作は島原の乱に参加して捕えられたものの、一揆軍の中ではただ一人許されて生きながらえた。この「陣中旗」は、上にも記したように一揆軍鎮圧の日に、原城内にいち早く突撃した鍋島氏が戦功の証として代々秘蔵していたものを、明治期になって政府が文化財に指定したものである。

3.キリシタンと日本の殉教者たち─教皇フランシスコの説教(2014)より (略)

4.キリスト教と日本人の出会い(1549) (略)

5.「伴天連追放令」以前 (1549-1587) (略)

6.「キリシタン禁教令」まで(1587-1614) (略)

7.日本の聖人たちと福者たち (全文)

 日本の殉教者たちの系譜は、1597年2月5日、長崎西坂において磔刑に処せられた26人の殉教者たちによって開始される。彼らは、教皇ピウス9世が1862年に列聖している(祝日は2月5日;「日本26聖人殉教者」)。一方1867年には、205人にのぼる日本の殉教者たちが列福されている(記念日は9月10日:「日本205福者殉教者」)。この列福は、キリスト教迫害期におけるすべての殉教者たちを記念する意味を持っている。
 これらの列聖・列福式は、日本が鎖国体制を解かず、キリスト教徒迫害をやめないことに抗して、ヴァティカンがこれを融和させる目的で行ったものである。
 1世紀余りを経て1981年、教皇ヨハネ・パウロ2世が訪日し、日本のキリスト教に対して覚醒を呼びかけた。この年ローマにおいて、聖トマス西(1634年殉教;ドミニコ会士)と15殉教者(1633年から1637年までの間の長崎における殉教者たち)の列福が行われた。その後1987年、彼らは列聖されている。彼らの祝日は9月28日である。
 また2008年11月24日には、長崎において「ペトロ岐部と187殉教者」の列福式が行われた。彼らの記念日は7月1日である。彼らを年代で総括するならば、熊本八代において1603年12月に殉教した11人から、1639年7月に江戸で殉教したペトロ岐部かすい神父までの188人の殉教者たちということになる。この列福式の特質を挙げるとすれば、一つには日本のカトリック教会がこの列福運動を主導したという点、もう一つには、今回列福された殉教者たちはすべて日本人であり、その大半は一般信徒であって、彼らの中には女性や子供たちも多く含まれているという点である。
 
8.「キリシタン禁教令」以降(1614-1644) (全文)

 1614年2月、徳川家康は「キリシタン禁教令」を発布した。当時日本に居住していた司祭の数は150人、信徒の数は約65万人であったと言われている。家康はあらゆる手段を用いてキリスト教徒たちを迫害し始めた。家康らは、外国との交易が発展し西欧人の姿が頻繁になったことが民衆に大きな影響を及ぼしていること、またキリスト教の力が多大であることに気づいていた。
 そしてそれらが、自分たちの影響力を制限しうることを危惧し始めたのである。こうして彼らは、宣教師たちを長崎に集合させ、その後彼らを追放した。それと同時に司祭養成の神学校等を閉鎖させた。キリスト教大名の一人、高山右近(1552-1615)もこの時マニラへと追放された。
 しかしながら実際のところイエズス会の首脳陣は、18名の司祭と9名の修道士を選出し、彼らを日本国内に留めることを決議した。一方右近は翌年の2月5日にマニラにて病没した。現在、彼のための列福運動が進められている。キリスト教到来以降、何人かの戦国大名が、いわゆる「キリシタン大名」となったことが知られている。その中には右近のほかに、大友宗麟(1530-1587)、 大村純忠(1533-1587)、小西行長(1558-1600)などがいる。しかしながら高山右近以外は、1614年のキリシタン禁教令以降、強いられた結果、信仰を捨てざるを得なくなった。
 1625年、長崎島原において、非常に厳しいキリスト教迫害が開始された。その2年後、1627年2月にはパウロ内堀と15人の信徒が殉教し、同年5月には雲仙地獄において10人が殉教、またそれに先立ち同年2月には内堀の3人の息子たちが有明海に沈められた。彼ら29人の信徒たちは、2008年に列福された188人の殉教者たちに含まれている。1633年には長崎西坂において、前述の中浦ジュリアンが殉教している。

9.島原の乱(1637-1638)

 1637年の10月、「島原の乱」が勃発し、翌年の2月末に鎮圧されるまで継続する。これは天草半島から島原に拠点を移しつつ生じたキリシタン一揆であると捉えることができる。すでに17世紀の前半から、度重なる重税にあえぐ農民たち、および財を持たない下級武士たちが、神の前での平等を旗印に一揆を起こしていた。大規模な飢饉と重税がこの「島原の乱」の一因だったことは確かであるが、この乱の首謀者たちが、例外なくキリシタンであったことも確実である。この「島原の乱」における一揆軍の旗となったのが、本稿で取り上げる「陣中旗」であるが、この旗は上述のように、元来は「聖体信心会」のしるしを起源とするものであった。この旗から展開しうる神学については、本稿第Ⅱ部で取り上げることにする。
 この乱の勃発と同じ1637年の11月には、アウグスチノ修道会の金鍔神父が長崎において殉教している。彼もまた、2008年に列福された一人である。
 「島原の乱」以降、キリスト教徒に対する迫害は、その激烈さを一段と増し、江戸でも多数の殉教者が出た。1639年7月には江戸でペトロ岐部かすい神父が殉教した。彼も2008年に列福されている。この年、ポルトガル船の来航が禁止され、鎖国がほぼ完結する。1644年には、最後の潜伏司祭であるマンショ小西神父が殉教を遂げ、日本に司祭は皆無となった。

10.キリシタン潜伏の時代(1644-1865) (抜粋)

 いわゆる「隠れキリシタン」は、次の各地にあったことが知られている。それは平戸、生月、外海、五島、天草、筑前、それに摂津である(チースリク1997)。この中で生月島には、現在でもなお「カトリック教会に一致しない隠れキリシタン」の人々が住んでいることが知られている。ただ、彼らの間には人類学・民俗学的に貴重な習俗が保持されており、その意味は大きい。
 (中略)
 潜伏キリシタンたちはこうして、表向きは仏教徒を装い、絵踏みをも実行した。ただし彼らは帰宅すると、「こんちりさん(ラテン語contritio)のおらしょ」と呼ばれる痛悔の祈祷文を唱えるのが常であった。教会で定められている「赦し(告解)の秘跡」は、司祭でなければ与えることができない。ただ日本のキリシタン教会にあっては、当初より司祭の数が極端に限られていた。
したがって当時の教会指導者であった宣教師たちは、「赦しの秘跡」において不可欠とされる「痛悔」の要因を強調し、日本のキリシタンにとっては「痛悔」の心情とその祈祷のみで足りる、と決議していた(正確に言えば「痛悔」の心情を抱くとともに、直近で次に告解しうる機会には、必ず司祭から「赦しの秘跡」を授かること、という条件が設けられている)(川村 2011:234-296)。このような決議と併せ、宣教師たちは上述した「こんふらりあ」(信心兄弟会)の組織づくりを進めていたのである。
 (中略)
彼らはどのようにして信仰の教義を保持したのであろうか。基本的には『どちりいな・きりしたん』(ラテン語Doctrina Christiana)という、ポルトガル人イエズス会司祭マルコス・ジョルジェ(1524-1571)による基本教理書(リスボン、1566年初版)が用いられていたことが明らかとなっている。それと併せ、上述のように1587年の伴天連追放令以降、イエズス会士たちの指導により、「組」と呼ばれる信心会の組織づくりが積極的に行われていた。信心会としては「慈悲の組」「ロザリオの組」「聖体の組」などがあった。これらの「組」にはそれぞれ、役割を帯びた3人の主導者が定められていた。それは1)「帳方」、すなわち毎年初めに、教会暦に従って祝日・記念日をいつ行うべきかを定める役、2)「水方」、すなわち生まれてきた子供に洗礼を授ける役、そして3)「聞役」、すなわち洗礼が行われる際に水方を補助する役、であった。彼らが用いていたのは1634年版の「ばすちゃん暦」であったことが知られ、また水方には各村落で最も重きをなす人物が選ばれた。
(後略)

11.「信徒発見」(1865) (略)

Ⅱ.「陣中旗」の神学

1.「陣中旗」をめぐって─われわれが「陣中旗」の十字架から学びうること (略)
2.十字架の中心性 (略)
3.十字架はこの世から隔絶しているのか? (略)
4.十字架の持つ「栄光」の意味 (略)
5.「心理はあなた方を自由にする」(ヨハネ8、32) (略)
6.ニュッサのグレゴリオスの旧約聖書理解─ローマにて (略)
7.「陣中旗」の解釈と『雅歌』の解釈の同次元性 (略)    】(「陣中旗の神学 : 真理と十字架(筑波大学地域研究: 秋山学稿)」)

出陣図・全.jpg

「武将図(出陣図)」(神戸市立美術館蔵) 筆者不詳 紙本著色 各119.2×57.5 2曲1隻
来歴:島原城→松平信綱臣西村治郎右衛門為正と伝承。西村澹氏→池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
【 この2曲屏風に、西洋的な遠近法、明暗・立体表現で描かれた二人の武人です。類似作例の「泰西王侯図屏風」(ボストン美術館蔵)と同様に、城館建築を背景に、甲冑を身にまとい優雅な所作を見せる王とその廷臣を描いています。一見西洋絵画のようにも見えますが、素材は油画ではなく日本的な顔料絵具が使われています。
日本で布教活動を展開したイエズス会のセミナリオで教育を受けた日本人画家による作品と思われます。この屏風は明治か大正時代まで西村家に伝来し、その祖先は、原城を陥落させた松平信綱の家臣・西村次郎右衛門で、この屏風も次郎右衛門が原城から持ちだしたとする伝説があります。】(「文化遺産オンライン」)

【 本図については、島原の乱の折、松平信綱の家来が原城から持ち出した戦利品で、山田右衛門の描いたものだという伝承がある。その家来とは、西村次郎右衛門為正で、本図の旧蔵者であった西村家の祖先にあたる。
山田右衛門作は、キリシタン画家として名前が知られる。彼の作品であると伝えるものは多いが、いずれも確実なものでなく、本図も同じである。46図(下記の「王侯図」)と同じように奥行きの表現意識がはたらいているが、正確ではない。 】(『THE NANBAN ART OF JAPAN《西洋との出会い・キリシタン絵画と南蛮屏風》(国立国際美術館・1986)』所収「出品目録解説48」、なお、その解説では「出陣図」の名称である。)

 上記の「松平信綱の家臣・西村次郎右衛門」周辺については、下記の論考が参考となる。

http://www.toyohashi-bihaku.jp › 2021_kusumi
吉田藩士西村治太夫家文書について - 豊橋市美術博物館

王侯図・騎士図.jpg

「王侯図・騎士図」(満福寺蔵)二幅 紙本着色 各134×57.7㎝
【(左図=王侯図)
 頭に王冠をつけ、古式の鎧を着けた王侯を正面から描いている。顔の表現や身のこなし、着衣の表現などが不自然な感じでなく、自由にのびのびとした作風である。奥行きの表現が意図されているが、必ずしも正確とはいえない。
 (右図=騎士図)   
 頭に兜をつけ、古式の鎧を着け、右手に槍を抱えて前方を見る王侯(騎士)の側面を描いている。作風と奥行きの意識は、46図(王侯図)に同じであるが、背景が46図は屋内に比して、本図は屋外となっている。  】(『THE NANBAN ART OF JAPAN《西洋との出会い・キリシタン絵画と南蛮屏風》(国立国際美術館・1986)』所収「出品目録解説46・47」、なお、その解説では「泰西王侯図」の名称である。)

https://www.city.fujioka.gunma.jp/soshiki/kyoikuiinkai/bunkazaihogo/2/3/jyuyoubunkazai/1097.html
【鬼石の満福寺に伝えられた宝物で、筆者は不明、堂々たる画法は桃山時代の作と見られています。この絵はもともと屏風に貼られていたものと思われます。室町時代末よりキリシタンの布教やポルトガル貿易船などによりもたらされた西欧の風俗画を手本に、従来の日本画の材料を用いて描かれた、南蛮画と呼ばれる絵画です。
指定日 昭和49年6月8日
所在地 藤岡市譲原        】(藤岡市教育委員会文化財保護課文化財保護係)

 この群馬県藤岡市鬼石(町)の「満福寺」には、この「王侯図・騎士図」の他に、下記の「達磨図」を所蔵している。その所蔵の由来は定かではないが、これらの三作品は、「武将図(出陣図)」(神戸市立美術館蔵)と同じく、「島原の乱の折、松平信綱の家来が原城から持ち出した戦利品で、山田右衛門の描いたものだという伝承がある」ものと同じような由来があるのかも知れない。

達磨図・満福寺.jpg

「達磨図」(満福寺蔵) 軸 紙本着色 57.2×66.5㎝
【 被衣(かずき)を着し、横向の偉容で、三輪英夫氏によると第三型に属する。この第三型の特徴は、達磨の横顔を、かなり誇張して表現していることである。戯画的でさえあるといえるのかもしれない。その典型的な作品が本図である。 】(『THE NANBAN ART OF JAPAN《西洋との出会い・キリシタン絵画と南蛮屏風》(国立国際美術館・1986)』所収「出品目録解説77」)

 この「三輪英夫氏によると第三型に属する」ということは、下記のアドレスによる「洋画法による達磨図について(三輪英夫稿)」の、その「第三型(被衣を着し、横向)」ということである。

 異国人としての達磨の顔貌に独特な誇張表現 - COREhttps://core.ac.uk › download › pdf

達磨図一覧図.png
(「異国人としての達磨の顔貌に独特な誇張表現 - COREhttps://core.ac.uk › download › pdf」)


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