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「南蛮屏風幻想」(リスボン・ファンタジー)その二十 [南蛮美術]

(その二十)「高山右近旧領土・長崎奉行所キリシタン関係資料などの南蛮美術(キリシタン美術工芸品)」(その三)」周辺

主なキリシタン大名.jpg

https://sekainorekisi.com/japanese_history/%e5%8d%97%e8%9b%ae%e8%b2%bf%e6%98%93%e3%81%a8%e3%82%ad%e3%83%aa%e3%82%b9%e3%83%88%e6%95%99/#toc_index-3

【 ポルトガル船は、布教を認めた大名領の港に入港したため、大名は貿易を望んで宣教師を保護するとともに、布教に協力し、なかには洗礼を受ける大名もあった。彼らをキリシタン大名と呼ぶが、そのうち、大友義鎮(おおともよししげ)(宗麟、洗礼名フランシスコ)・有馬晴信(洗礼名プロタジオのちジョアン、1567-1612)・大村純忠(ドン゠バルトロメオ、1533〜87)の3大名は、イエズス会宣教師ヴァリニャーニ(1539〜1606)の勧めにより、1582(天正10)年、伊東マンショ(1569?〜1612)・千々石ミゲル(ちぢわみげる)(1570〜?)・中浦ジュリアン(1570?〜1633)・原マルチノ(1568?〜1629)ら4人の少年使節をロ一マ教皇のもとに派遣した(天正遣欧使節)。彼らはゴア・リスボンを経てロ一マに到着し、グレゴリウス13世(ローマ教皇)に会い、1590(天正18)年に帰国している。また大友義鎖や黒田孝高(くろだよしたか)(如水=じょすい、ドン゠シメオン、1546〜1604)·黒田長政(1568〜1623)父子のように、ロ一マ字印章を用いた大名もいるほか、明智光秀の娘で細川忠興(ほそかわただおき)(1563〜1645)夫人の細川ガラシャ(1563〜1600)も熱心な信者として知られている。 】(「世界の歴史まっぷ」所収「南蛮貿易とキリスト教」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-04-17

(再掲)

レパント戦闘図・世界図(全).jpg

「レパント戦闘図・世界地図屏風」(香雪美術館蔵・重要文化財・紙本着色・六曲一双・ 江戸初期) 各扇:縦153・5×横369・0
上図:「レパント戦闘図」 下図:「世界地図屏風」
(『大航海時代の日本美術 Japanese art in the age of discoveries(九州国立博物館編)』所収
作品解説113」)
https://www.kosetsu-museum.or.jp/mikage/collection/kaiga/kaiga01/index.html4

【 レパントの戦いは、1571年、ギリシャ、コリント湾に於ける神聖ローマ同盟国軍とトルコ軍との海戦。キリスト教世界の勝利を記念する歴史的事件となった。本図では、右端に「つぅるこ」、左端に「ろうまの王」と見える。しかし、実際の戦いには陸戦は無く、しかも象隊の出場も無かった。本図は、西欧の版画や本の挿図などから様々な戦闘図の部分を採り入れ、再構成して一つの画面を形成したものである。
 世界地図は、1609年のカエリウス世界地図に基づいて描かれた、数ある地図屏風の中でも最も豪華華麗なもの。地図の下縁には各国男女人物の風俗が表され、また、中央下には南米での食人の凄惨な場面が描かれる。
 元来、主題の異なる戦闘図と世界地図とであるが、海波の表現を同じくして一双の屏風に統一感を与えている。江戸初期、日本人の画家が西洋画を学んで完成した作風を、保存良く伝えている。 】

【 宮内庁本「万国絵図」(下記に再掲)の流れをくむ世界図と、象に乗り弓を構えるターバン姿の戦士たちが、ヘルメットを被り、銃を手に騎兵とともに攻め込んでくる兵士たちと激突する戦闘図とを組み合わせた屏風。戦闘図は右端の城郭に「つぅるこ」(トルコ)、左端の武将の頭上に「ろうまの王」と題された題簽がある。1571年に、ギリシャ・パトラ湾沖でオスマン・トルコ艦隊とカトリック国の連合海軍が激突した「レパントの海戦」を描いたと考えられている。この海戦はイスラム勢力に対してカトリック教国が勝利を飾ったことで西欧世界では重要な意味を持った。本図のような陸戦ではなかったが、スキピオとハンニバルが戦ったザマの戦いを描いた銅版画などを手本に用いながら、戦闘シーンにおける群像表現が大画面に見事に描き上げられている。(鷲頭桂稿) 】
(『大航海時代の日本美術 Japanese art in the age of discoveries(九州国立博物館編)』所収「作品解説113」)

ローマ王.拡大jpg.jpg

上図:「レパント戦闘図」第六扇部分拡大図「乗馬するローマ皇帝図」→A図
http://yugyofromhere.blog8.fc2.com/blog-entry-5098.html

 この「A図」は、次の「古代ローマ皇帝図集・扉絵」(B図)に典拠しての作品である。

ローマ王.原画.jpg

「古代ローマ皇帝図集・扉絵」 紙本銅板(十三枚揃いのうち1-1)→B図
彫版:アドリアン・コラールト(1560頃~1618)
原画:ジョバンニ・ストラダーノ(1523~1605)
刊行:アントウエルベン・フイリッブスハレ刊
https://www.artagenda.jp/exhibition/detail/3970

 ここで、あらためて、上記の「レパント戦闘図・世界地図屏風」(A図とB図)は、「誰が、何時、何処で、何のために、どのようにして、描いたのか」ということになると、この詳細はどうにも謎のままである。
 これらのことに関しては、「『レパント戦闘図・世界図屏風』と司馬江漢筆『異国風物図押絵図屏』---舶載銅版画を典拠とする二つの作品をめぐって---(勝盛典子稿)」(『特別展 交流の軌跡---初期洋風画から輸出漆器まで(中之島香雪美術館刊)』所収)の中で、次のように指摘している。

【 本屏風の制作年代については「世界地図屏風の典拠であるカエリウス版壁掛世界地図の刊行年である一六〇九年以降、高山右近や日本人画家を指導していたジョバンニ・ニコラオ(一五六〇~一六二六)など宣教師やキリスト教が国外に追放された慶長十八年十二月(一六一四年一月)までの限定される。「レパント戦闘図・世界地図屛風」など屏風形式の初期洋風画は、徳川家康(一五四二~一六一六)へと政権が移り、厳しさを増しつつあったキリスト教への弾圧を乗り越えるための手段のひとつとして、日本への権力者への贈呈を目的としたと推測される。(p8)

 屏風という伝統的な様式に日本の岩絵具を用い、日本的な金雲表現(形は特異であるが)や金の付箋などが見られる一方、西洋から学んだ陰影法や遠近法を駆使しながら西洋の主題を描き出す本作(注:「レパント戦闘図・世界図屏風」)は、東西の要素が混在しており、その表現は極めて個性的である。すでに初期洋風画の名品として評価されている本作であるが、カニバリズム(注:「呪術的信仰から、また宗教儀礼として人肉を食う慣習など」=「世界地図」の「中央下には南米での食人の凄惨な場面」などを指す)や波の表現などの典拠を解明したうえで、科学的調査を視野に、同時代の伝統的な絵画作品との比較研究をさらにすすめた議論が必要になってくる。(p10) 】(「『レパント戦闘図・世界図屏風』と司馬江漢筆『異国風物図押絵図屏』---舶載銅版画を典拠とする二つの作品をめぐって---(勝盛典子稿)」(『特別展 交流の軌跡---初期洋風画から輸出漆器まで(中之島香雪美術館刊)』所収)

ローマ王.jpg

「泰西王侯図屏風(六曲一双)」の「オーストリア・アルベール大公(右隻第四扇の玉座に座る若い王(部分拡大図)」(長崎歴史文化博物館蔵) → C図
https://www.artagenda.jp/exhibition/detail/3970

泰西王侯図屏風・右隻・長崎歴史文化博物館.jpg

泰西王侯図屏風(右隻・長崎歴史文化博物館蔵)」 六曲一双 紙本着色 各図一二三・八×五一・四  → C-1図

泰西王侯図屏風・左隻・長崎歴史文化博物館.jpg

「泰西王侯図屏風(左隻・長崎歴史文化博物館蔵)」六曲一双 紙本着色 各図一二三・八×五一・四  → C-2図
https://www.artagenda.jp/exhibition/detail/3970

【 本作(C-1図・C-2図、C図)を初めて紹介した昭和十六年(一九四一)の隈本論文(『美術研究一一九』所収「近時発見の帝王図について(隈本謙次郎稿)」)によると「帝王図十二枚の連作は、山形県鶴岡市小沢清佑氏の所蔵にかかり、古く庄内藩酒井伯爵家より下賜された遺品と伝承される。明治三十年代まで六曲一双の屏風仕立であったが、今日めくりとして保存されている」、「画面の裏に最初の表装の際に記されたと思われる日本数字が残っているが、今向かって右より逐次配列するに、屋外風景を背景にするものと建物を背景とする人物とが交互に配され」とある。なお、西村貞(『南蛮美術(西村貞著・講談社))は、酒井家以前に水戸徳川家に伝わったとする。一時期所在不明となっていたが、めくりのまま昭和六十年(一九八五)に再発見され、裏の数字の並びどおりに六曲一双の屏風に仕立てられた。なお、裏面に記された数字から、当初は十二面以上存在したと推測される。
 右隻第二扇の卓上には、イエズス会の紋章「IHS」がある楯がおかれている。このようなイエズス会を示す直接的な図像のある初期洋風画(世俗画)は他に現存例が知られない。また、他の武将図などと比較すると、動きのあるポーズとにも破綻が少なく優れた表現を見せる。
 本作は、描かれた人物が特定される稀有な例として注目される。右隻第の四扇の玉座に座る若い王(C図)は、「レパント戦闘図」(右隻:C-1図)と同じく『古代ローマ皇帝図集』の扉絵(凱旋)(B図)を典拠したうえで、その足元にオーストリア大公アルベール(一五五九~一六二一)の紋章を大きく描いていることからアルベール公と比定され、左隻第二扇の竪琴を奏でる老王図はヤン・サドレル(一五五〇~一六〇〇)版の「竪琴をひくダヴィデと楽奏の天使」が原図であることからダヴィデ王と比定される。また、「四都図」(神戸市立博物館)と「二十八都市図」(宮内庁三の丸尚蔵館)のローマ国の原図となった『福者イグナチオ・デ・ロヨラ伝』(一六一〇刊)の第五図や『古代ローマ皇帝図集』のオトー帝、ウェスバシャヌス帝なども、図像の参考にしていることが指摘されている。 】(『特別展 交流の軌跡---初期洋風画から輸出漆器まで(中之島香雪美術館刊)』所収「作品解説4」)

 この「泰西王侯図屏風(左隻・長崎歴史文化博物館蔵)」の作品解説(『特別展 交流の軌跡---初期洋風画から輸出漆器まで(中之島香雪美術館刊)』所収「作品解説4」)は、さまざまな示唆を投げ掛けてくれる。

一 まず、旧蔵者の来歴を辿っていくと、「長崎歴史文化博物館→山形県鶴岡市小沢清佑氏の所蔵→庄内藩酒井伯爵家→水戸徳川家」と、「誰が、何時、何処で、何のために、どのようにして、描いたのか」という観点に付随する、「誰に贈与したのか」ということは、「水戸徳川家」関連に贈与したものと解したい。

《 (水戸徳川家)
水戸徳川家(みととくがわけ)は、常陸国水戸にあった徳川家の一支系で、徳川御三家のひとつ。単に水戸家ともいう。江戸幕府初代将軍・徳川家康の十一男である徳川頼房を家祖とする。江戸時代には水戸藩主、維新後には華族の侯爵家に列し、のちに公爵家に陞爵した。御三家の中で公爵に列したのはこの家のみである。(「ウィキペディア」)

(酒井氏)
酒井氏(さかいし)は、武家・華族だった日本の氏族。三河国の在地領主から、江戸時代には譜代大名となった氏族である。その後の子孫は藩などで全国に広がり、本家・分家全て左衛門尉家・雅楽頭家の家紋を持っている。維新後、酒井家からは3家が伯爵、4家が子爵、2家が男爵に列している。
 松平氏、徳川氏の最古参の譜代筆頭で、松平氏と同族。徳川幕府の古記録である『柳営秘鑑』では、「三河安祥之七御普代(ふだい=譜代)、酒井左衛門尉、元来御普代上座」と、ある。また、同書物「葵之御紋来由」の項目に、「坂伊〔さかい〕ノ郷より為〔として〕加勢来りし」とある。江戸時代の徳川幕府では、大老四家の一つに数えられ、一族から大老や老中を出している。(「ウィキペディア」) 》 

二 そして、「誰が」贈与したのかということに関しては、この「右隻第二扇の卓上には、イエズス会の紋章「IHS」がある楯がおかれている」ことなどからして、当時の、「イエズス会」布教の中心人物周辺の関係者と解したい。

三 ここで、「何時」贈与したというに関しては、「豊臣時代の終焉」(豊臣秀吉が没した「慶長3年8月18日(1598年9月18日)」)から「徳川時代の始まり」(徳川家康が没した「元和2年4月17日(の1616年6月1日))の頃と解したい。

四 「何処で・何のために」ということになると、当時の「ポルトガル主導のイエズス会布教からスペイン(エスパニア)主導のイエズス会布教」と、そして、「そのイエズス会布教(旧教)からフランシスコ会布教(旧教)など、さらにオランダ(旧教=カソリックと新教=プロテスタント)の勃興など」を背景にしているものと解したい。

四 その上で、「誰が描いたのか」ということになると、例えば、前回に紹介した「王侯図・騎士図」(満福寺蔵)、そして、「達磨図」(満福寺蔵)」などの、キリシタン画家の「山田右衛門」とか、さらに遡って、「信方」(「ウィキペディア」)、そして、「狩野源助ペドロ=狩野道味?」(「重要文化財 聖フランシスコ・ザビエル像」神戸市立博物館蔵(池長孟コレクション)に「S.P.FRÃCISCUS XAVERIUS SOCIETATISV」、 墨筆にて「瑳聞落怒青周呼山別論廖瑳可羅綿都 漁父環人」、 朱文長方関防印「IHS」、 朱文壺印(印文未詳)のある「狩野道味(?-?)、そして「天正年間(1573-92)に千利休に茶事を学び,京都で茶器を焼いたキリシタン絵師の一人か?」)とかを含めて、いわゆる、「狩野派」の一派の、その傾向の画家集団が介在したものと解して置きたい。

五 この「狩野源助ペドロ=狩野道味?」に関連して、下記アドレスなどで紹介した、
「日光東照宮陽明門唐油蒔絵の制作についての考察-中右恵理子 NAKAU, Eriko /文化財保存修復研究センター客員研究員」の関係する部分を、ここで、再掲して置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-03-13

(再掲)

【 http://archives.tuad.ac.jp/wp-content/uploads/2020/08/tuad-iccp-R1bulletin-2.pdf

日光東照宮陽明門唐油蒔絵の制作についての考察
中右恵理子 NAKAU, Eriko /文化財保存修復研究センター客員研究員

狩野派系図.jpg

 息子の狩野彌右衛門興益もキリシタンであり、父とともに三年間小日向の山屋敷に収容されていたという。さらにその後、神山道子氏によりキリシタンであった狩野興甫を取り巻く狩野派絵師についての研究成果が報告された11。神山氏によれば狩野興甫がキリシタンとして捕らえられた件は『南紀徳川史』、『徳川実記』に記載が見られるとのことである。興甫は父興以の兄弟弟子の一人である狩野道味(生没年不詳)の娘を娶っており、道味は義理の父にあたる。リスボンの国立古美術館には道味の作とされる南蛮屏風が所蔵されている。その道味に関して『日本フランシスコ会史年表』に狩野道味ペドロがフランシスコ会の財務担当者であったとの記載があり、やはりキリシタンであったことが報告されている。また、もう一人の興以の兄弟弟子である渡辺了慶(?-1645)についても、了慶の息子の了之は興以の娘を娶りやはり姻戚関係であった。その了慶は晩年の寛永期に平戸藩の松浦家に抱えられた。平戸藩は南蛮貿易を積極的に行い、オランダ、イギリス商館を開設するなど西洋文化との関わりが深い。また了之以降は狩野姓を名乗り、孫の了海は出府して中橋狩野家の安信の門人となった。5代目はやはり出府して永叔の門人となった12。このように平戸藩のお抱え絵師となった了慶の家系と江戸の中橋狩野家には関わりがあった。そして陽明門の「唐油蒔絵」の下絵を描いたとされる狩野祐清英信(1717-1763)は狩野宗家である中橋狩野家の11代目である。
(註11) 神山道子 「キリシタン時代の絵師~狩野派とキリシタン~」『全国かくれキリシタン研究会 第30回記念 京都大会 研究資料集』 全国かくれキリシタン研究会京都大会実行委員会 2019年 pp.25-5
(註12)  武田恒夫 『狩野派絵画史』 吉川弘文館 1995年 pp.268-269

2-4.唐油蒔絵と西洋文化との関係
 天文18年(1549)、フランシスコ・ザビエル(1506頃-1552)が鹿児島に上陸し、その後平戸を拠点に布教活動を行った。ザビエルらによりイエズス会の布教活動が広がる中で、日本人信徒の教育機関としてセミナリオが建設された。天正11年(1583)にはイタリア人宣教師で画家であったジョバンニ・ニコラオ(1560-1626)が来日し、天正18年(1590)頃から長崎のセミナリオで西洋絵画の技法を教えた。日本人が描いたと考えられるマリア像やキリスト像などの聖画は、このような施設で制作されたものと考えられる。当時絵画は布教のための重要な手段であった。

狩野派系図・道三関連.jpg

 文禄2年(1593)にはフランシスコ会の宣教師が来日し布教を開始した。狩野道味や興甫らはフランシスコ会に属していた。しかし、フランシスコ会ではイエズス会のような組織的な聖画の制作は行われなかったようである13。東照宮の造営期に「唐油」という言葉が見られるものの、油彩画が制作されなかったのは、興甫らに具体的な技法習得の機会がなかったためとも考えられる。神山氏は興甫らがイエズス会の日本人画家に接触し、西洋絵画の技法についての知識を得た可能性を示唆している。

https://ameblo.jp/ukon-takayama/entry-12559723668.html

講演 「 キリシタン時代の絵師 ~ 狩野派と キリシタン ~ 」  神山道子

※日光東照宮「 陽明門 」の “ 平成大修理 ” (2013 ~16年)が行われた時に、西壁面に、「 唐油蒔絵 」が確認されました。
東照宮の造営に関わった絵師は、狩野派の 探幽 他 7名ですが、その中に、弥右衛門 ( 興甫 )が加わっています。
陽明門の障壁画に、油彩画の技法を持ち込むことが出来たのは誰なのか?
※和歌山藩 御用絵師 ・ 狩野弥右衛門 ( 興甫 )と息子 興益 )が、1634年から36年まで、日光東照宮の絵師を務め、1643年、キリシタンとして摘発されて、江戸送り となり、1645年までの 3年間、小日向の 「 江戸キリシタン山屋敷 」に収容されて  いました。
● 狩野永徳の後を継いだ 光信の高弟の一人が、狩野道味で、その娘婿が 興甫、その息子が興益 になります。道味は、「 ペドロ 」という霊名を持つ キリシタンで、1600年 ( 慶長5年 )頃、京都にあった フランシスコ会の 2つの小聖堂の 財務係をしていたほどで、信徒の代表として活動していました。道味の娘婿だった興甫や息子の興益も、狩野派の優秀な先達の絵師であり、キリシタンでもあった 道味を通して、キリシタンの信仰に 導かれていったものと思われます。 】

(追記)「狩野興以と狩野源助ペドロ」周辺

【 狩野興以(かのうこうい、生年不詳 - 寛永13年7月17日 (1636年8月17日)は、安土桃山時代から江戸時代の狩野派の絵師。元の姓は松屋、通称・弥左衛門、あるいは弥兵衛。
 関東に生まれる(足利、伊豆国、武蔵国などの説あり)。京都に出て狩野光信の弟子となり、その代表的門人として知られる。慶長10年(1605年)高台寺大方丈障壁画、元和5年(1619年)女御御対面御殿、寛永3年(1626年)二条城、同6年(1629年)台徳院霊廟などを、元和から寛永期の重要な障壁画制作に参加した。元和9年(1623年)、狩野貞信から狩野安信への狩野宗家相続の誓約書に血縁者に並んで末席ながら署名しており、狩野派の中枢で活躍した重要な画人だったのに間違いない。
 江戸狩野の基礎を築いた狩野探幽、狩野尚信、狩野安信ら3兄弟の養父の役割を果たし、その功績で狩野姓の世襲を許されたと後世の史料は伝える。また、「法橋」印を押す作が見られることから、正確な年は不明ながら法橋に叙されたと考えられる。晩年に紀州徳川家の御用絵師格となって長男の興甫がこれを継ぎ、次男の興也は水戸徳川家、三男の興之は尾張徳川家と御三家に仕えた。尾張藩に三男興之の文献資料はなく一時的な在藩だったようだが、他の家系は各藩で代々御用絵師として続いていく。没後は、江戸赤坂の種徳寺に葬られた。
 水墨画の遺品が多く、古典的な画法を会得した堅実で温和な表現が特色である。二条城白書院障壁画が代表作とされたが、近年の研究では作風の違いや、部屋の格と興以の狩野派内での序列が合わない事から、白書院は狩野派の長老格狩野長信作の蓋然性が高まっており、興以は老中三之間の「雪中柳鷺図」を描いた可能性が指摘されている。】(「ウィキペディア」)

【 狩野源助ペドロ(かのう・げんすけぺどろ) 生年:生没年不詳
江戸前期のキリシタン、京都のフランシスコ会の財産管理人,狩野派絵師。イエズス会を讒言する書翰をマニラの3修道会の管区長に送付した中心人物で,のち司教セルケイラのもとでその讒言を撤回。慶長8年12月25日(1604年1月26日)付京坂キリシタンによる26殉教者(日本二十六聖人)列聖請願者の筆頭に「狩野源助平渡路」と署名。また教皇パウロ5世宛同18年8月15日(1613年9月29日)付京坂・堺の信徒書状には「へいとろかの」と署名する。元和6年12月10日(1621年1月2日)付の京坂信徒代表による教皇奉答文にみえる堺の「木屋道味平登路」は同一人物とみなされている。<参考文献>H.チースリク「ペトロ狩野事件の資料」(『キリシタン研究』14号) (五野井隆史)  】(出典:朝日日本歴史人物事典)

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